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2005年3月

2005年3月31日 (木)

「大統領の理髪師」

監督・脚本:イム・チャンサン
出演:ソン・ガンホ、ムン・ソリ
韓国2004年

う~む、これは事前の予想とはだいぶ違っていた。
もっと、「大統領付き理髪師」な話が中心かと思ってたら、そうじゃなくて、騒乱の日に生まれた息子の話からマ~ッタリと進行するのであった。
となれば、これは息子の生い立ちに象徴される韓国現代史をたどった作品、と受け止めた方がよいだろう。ラストの成長した彼の姿は現在の韓国が投影されている? 従って、そこら辺の歴史に詳しくない他国の人間には今イチ分かりにくい。

それにしても、主役のソン・ガンホはあまりにも上手過ぎ! 卑屈で小心で平凡な人間であると同時に必死で健気な父親を全く矛盾することなく演じている。息子のことをヘコヘコと頭を下げて謝るのや、真冬の川を裸足で渡るのを見て、ジ~~ンとしてしまったよ。

役者たちの演技には文句はないが、一方監督の演出にはやや不満あり。というわけで、下記のような点数になった。
それから、ビロウな場面が幾つか出て来るので、ビデオで見る予定の人は食事しながら鑑賞するのは避けた方がよろし。

ところで四捨五入ってホントに日本が発祥の地なんだろか?

主観点:6点
客観点:7点

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2005年3月27日 (日)

ビーバー「ロザリオのソナタ」全曲 第2回「受難」

内容:第6番~第10番
演奏:桐山建志、大西律子、武久源蔵
会場:東京オペラシティ近江楽堂
2005年3月22日

ハインリッヒ・イグナツ・フランツ・ビーバーは1600年代後半に南ドイツで活躍した作曲家・演奏家。この「ロザリオのソナタ」は、聖書の聖母マリアの物語にちなんだ16曲のヴァイオリンと通奏低音のソナタ集である。それぞれの逸話に基づいたタイトルが付けられている。
この演奏会は三回に分けて全曲を演奏するシリーズの2回め。前回はイエスの誕生と成長にまつわる部分だったが、今回は文字通り十字架にかけられる「受難」の部分である。

オルガンの武久源蔵が曲間の解説で語っていたが、悲惨なエピソードの連続の部分なのに、なぜか肝心の「鞭打ち」と「茨の冠」の曲調は明るい。他は悲嘆かつダイナミック、あるいは神秘的な感じなんだけど……。不思議なもんである。
二人のヴァイオリニストはある時は激しくある時はのびのびと音を出して聞かせてくれていた。

この曲集がめずらしいのはそれだけでなく、各曲ごとにそれぞれ異なる変則的な調弦をして演奏するということだ。最後にヴァイオリンの大西律子が語ったことによると、楽譜を見て頭に浮かんだ音といざ実際に弾いて出て来る音が違うのでとまどってしまうとのこと。そして、今度は曲を頭に入ってきた頃にいざ楽器を弾こうとすると、思う通りの音が出て来ないのでまたもとまどってしまうそうな。
「絶対に暗譜できない音楽」と語った彼女の言葉が印象に残った。世の中にはそういう音楽もあるということである。

次回の「復活」も必ず行く予定。(もうチケットを買ってあるし)

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2005年3月26日 (土)

トーキングヘッズ叢書発売!

「トーキングヘッズ叢書」第23号は特集「昭和幻影絵巻~闇夜の散歩者たち」であります。
そろそろ書店に並んでいるはず。文芸コーナーの新刊書あたりに平積みになっているかな。
詳しい内容はアトリエサードのHPからどうぞ。

私も原稿書いています!
一家に一冊、また入学・就職の旅立ちの季節のお祝いに是非お買い求め下さい。

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2005年3月25日 (金)

「バッハ幻の結婚カンタータ」

内容:BWV202、210、216
演奏:ジョシュア・リフキン指揮バッハ・コンチェルティーノ大阪
会場:サントリーホール・小ホール
2005年3月21日

行方不明になっていたバッハの結婚カンタータの楽譜が80年ぶりに日本で発見!--と毎日新聞の一面を飾ったその曲の復元コンサートである。
オリジナルの楽譜と言っても、バッハの弟子が筆写したもので、さらに声楽のパート譜(ソプラノ、アルト)しか残っていないので、器楽演奏の部分はジョシュア・リフキンが復元したというか、新たにくっつけたというか。

前半部は他の結婚カンタータ2曲。後半が礒山教授の解説に続き発見されたBWV216の演奏だった。
リフキンなので、声楽部分だけでなく器楽の方も各パート一人に徹していたもよう。門外漢の感想としては、前半はソプラノばかりだとやっぱり飽きるなあなんて思ってしまい、後半は復元の出来などについては全く分からないが、この歌詞の内容なら歌手は女声二人ではなく、ソプラノと男声カウンターテナーの組み合わせが良かったんじゃないか、などとどーでもいい事ばかり考えてしまった。
指揮はリフキンとなっていたが、実際の演奏のダメ出しはチェロの田崎氏がやっているように見えた。これはトーシロの誤解か?

NHKのテレビカメラが入っていた。ちなみにこの日はバッハの誕生日だそうである。

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2005年3月21日 (月)

「みんなのうた」(DVD)

監督:クリストファー・ゲスト
脚本:クリストファー・ゲスト、ユージン・レヴィ
出演&歌:クリストファー・ゲスト他多数
米国2003年

米国で公開していた頃から見たいと思っていたのだが、なんと東京地区での公開はあの!六本木のヴァージン・シネマズでの単館上映だったので、結局行けずに涙を飲んだ作品。ようやくDVDで見られた。

擬似ドキュメンタリーの形式で、伝説の大物マネージャーの死を追悼するために、ゆかりの人気フォーク・グループたちが再結成コンサートを開く--という過程をたどったもの。
もちろんそんなバンドは実在せず、すべて役者が実際に歌っているという。これまた見事なパフォーマンスで感心。

しかし、音楽はレトロというか時代遅れでどこかうさん臭い(のように作ってある)し、人物もやはり変テコでうさん臭い。色の波長がどうのという超科学にはまっている夫婦や、いつも意見が一致しない三人組や、細か過ぎて周囲をイライラさせるマネージャーの長男など……。一番面白いのは、脚本や作曲もやっているユージン・レヴィ扮するミッチだろう。精神不安定で挙動不審なしぐさ一つ一つが何やら笑えると同時に、「伝説のミュージシャン、あの人は今」風なものを感じさせるのであった。

音楽のジャンルを問わず、「再結成」とか「追悼コンサート」とか「あの時代」とか「伝説」とか、そういう類いの言葉に音楽ファンは弱いものだ。何かそういうものに接した時のうれし恥ずかしさ、懐かし楽しさ、といった「気分」を確実に感じさせてくれる作品なのである。

アカデミー賞のライブで実際に二つのグループが登場して演奏していたが(歌曲賞を受賞)、ミッチ&ミッキーはちゃんとキスの場面まで再現してくれてたはず。当時はこの映画の内容を知らなかったからボーッと見ていたが、今あの放送をもう一度見れたら感動してしまうかも。

回顧談で穴の空いていないレコードを発売したという話には笑った。買ったら自分で正しい位置に穴を開けなければ聞けない--って、そんなん開けられるか!
それから、フォーク音楽嫌いの、マネージャーの次男がライブ場面で最前列で終始、つまらなそうに聴いているのも笑えた。

DVDにはイースターエッグやミッチ&ミッキーが特別出演した昔の探偵ドラマ(もちろん、わざわざ作ったフェイク)などなどオマケが盛り沢山。果たして全部見終わるか。

主観点:8点
客観点:8点

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2005年3月20日 (日)

「ビヨンドtheシー」

製作・監督・主演:ケヴィン・スペイシー
イギリス・ドイツ2004年

歌いまくり踊りまくりのケヴィン・スペイシーである。しかも相当にうまい。その芸達者ぶりにオドロキである。
もっとも、ボビー・ダーリンの伝記作品といっても、彼の事は名前ぐらいしか知らないので似ているかどうかは不明。反戦歌も作っていたなんて知らなかった。ただ、作中で彼が撮影している映画は確かに見た記憶があるんだが……?

最近公開された伝記映画となぜか似ている部分がある。『五線譜のラブレター』とはご本人が「伝記」の作り方に介入しツッコミを入れる所が似ているし、『レイ』とは子供時代の話が頻繁に挿入されクローズアップされているところが似ている。
そして、いずれの作品も偏った一面的な描き方なのではないか、もっと色々あったんじゃないの、という不満を観客に抱かせて解消できない。とはいえ、何十年間もの人間の一生をわずか2時間前後で描こうというのだから仕方ないことなのだろう。(それでも、満足を与える伝記作品は確かに存在するのだが)

私としては、彼と結婚したサンドラ・ディーがいつカツラのことを知ったのか、というのがヒジョ~に気になった。昔、結婚相手が夜に化粧を落としたら「おれはこんな女と結婚した覚えはない!」と離婚した男がいたそうだが、こちらはどうだったのであろうか。えっ?どうでもいいことだって?? でも、人生なんて大半はどうでもいいことの積み重ねなのよ。
それからタイトルの「the」をわざわざカタカナでなくしたのも気になる、すご~く気になる。担当者の意図を聞いてみたい。まさか「目立つから」なんて理由だったら、ナイフを持って暴れるぞー。

結論:ボビー・ターリンの生涯というよりは、ひたすらK・スペイシーの熱意の方に動かされる作品というべきだろう。

ところで、チラシにコメントを載せてる尾崎紀世彦の肩書きが「日本の宝」となってるけど一体何?

主観点:7点
客観点:7点

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2005年3月19日 (土)

「マルセル・デュシャンと20世紀美術」

会場:横浜美術館
2005年1月5日-3月21日

横浜美術館まで往復3時間。なかなか行く決心がつかず、会期ぎりぎりになってしまった。
とはいえ、デュシャンですよ、あなた。「泉」ですよ、「大ガラス」ですよ。美術史上では「モナリザ」に匹敵する事件じゃありませんか。今見ずしてなんとする--ということで、ヨイショと決意して出かける。

前にみなとみらい地区に行ったのはまだJRの駅しか無かった頃だったが、今度は真新しい地下鉄(?)の駅から行くと、周囲は雑草の生えた空地に風が吹きすさぶ……周囲の高層ビルと妙なコントラストで荒涼とした雰囲気に驚く。

会場に入るとすぐの所に「泉」が置いてあった。おお(!o!)と思って近づいてシゲシゲ見たが、要するに真白い小ギレイな便器であった--って、当たり前か。美術書や画集では「泉」はただならぬオーラを放っているように感じられるのだが、実物を見るとあっさりと肩すかしな感じ。やはり実物を見てみないと分からんもんである。普通の名作だと実物の方が当然オーラを持っているのだが、これでは全く逆である。さすが、デュシャンだ~っ!と変な意味で感心。

「大ガラス」は思ったよりスッキリな感じ。当然ながらデカイ。デカ過ぎて透明なんで(反対側に展示してある作品や人が見える)なんだか全体的な印象が捕らえ所もなく、見ていると拡散していってしまう。よって観客は周囲のそれに関連した小作品の方を見入ってしまうのかも。大体、デュシャン自身による解説も分かったような分からんような……そういう断片的な解説が余計に好奇心をあおっているのか。

「L.H.O.O.Q.」のモナリザのヒゲは年月のため?薄くなっていてなんだかハッキリ分からなかった。
「階段を降りる裸体no.2」--あまりに後世の作品に引用されているので、却ってこれが元ネタかという感動が薄い。

大トリは「与えられたとせよ」で思わずコーフンして行列する。
が!なんとこれは映像による再現作品だった。壁に木の扉がプロジェクターで投影されていて、そこに実際に開いている穴を覗くとやはり映像で灯火を持って横たわっている女が再現されている。(作品集などで見るのより若干暗めか?) ここはやはり木の扉をはじめ全て再現して欲しかった。そして覗き穴をいかがわしい気分で覗いて(^Q^)ハァハァしたかったのである。残念無念!

後の影響を受けた作品、明らかに引用している作品なども並べて展示されているが、なんだかオリジナルと漫才してボケとツッコミをやっているような作品が多い。デュシャンを見るとツッコミたくなるのであろうか。それとも、引用というもの自体が「ツッコミ」なのであろうか。
そして、つくづくみんなデュシャンが好きなんだなあ、とヒシと感じたのである。直接描かれたものよりも描かれなかったものの方が多いように思える作品ばかりだからだろうか。
遠方まで行った結果は、満足して帰る、であった。

ついでに、美術館のアートショップが夕方5時30分で終わってしまうのはあんまりだー。入場は5時30分でも、一応6時まで客はいるんだからさ。閉店になってしまってろくに見る暇が無かった。

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2005年3月14日 (月)

「さまよう刃」(東野圭吾)

朝日新聞社2004年
1700円

東野圭吾の小説を読んだのは初めて。
少年犯罪と少年法の矛盾が取り上げられているが、その論議より気になったのは、登場人物が善悪、白黒すっぱり分かれてしまっていることだ。つまり、善人はとことん善人で、悪人はとことん悪い。ここには限りなく白に近い灰色とか、限りなく黒に近い灰色や、白黒モザイク状態になっている人物は出て来ない。こういう人間観を前提にしているのであれば、少年犯罪の問題も決着を付けやすいことだろう。
だが、現実は……。

さらにミステリとしての謎解き部分にとあるキーパーソンが登場して来るが、その正体が明らかになった時、少し腹が立った。「あんた自分でやれば?」「他人に押しつけてんじゃねーの」などとそいつに言いたくなったのである。

この作者の本を読むことは恐らく二度とあるまい。

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2005年3月12日 (土)

当事者であるかどうか

3月10日に教育テレビで再放送された福祉の時間の「フェミニズムから“当事者主催”へ」を見て、「当事者」っちゅうのはこういうもんなのかい、と漠然とながら納得した。ネット上を見れば既に当事者・非当事者というのは色々議論になっているもよう。(今ごろ気付くとは遅れておりますです、ハイ)
で、その中でのざわさんという方のこのような意見を読んで考えさせられた。

「男にフェミニズムについて言われたくない」というのは、過去の例を見ると「男が裁く“アグネス問題”」みたいな上から見下ろして物申す、みたいなパターンが多かったからではないかと思う。
確か斎藤美奈子の感想だったと記憶しているが、『もののけ姫』を観た時に主人公が対立する女二人の争いの間に割って入る場面に猛烈にムカーッと来た、というのも同じような観点からだろう。(私は見た時点では何も感じず、後から「そう言えばそうだなー」と思ったのであった)

一方、当然のことながら当事者ではないからこそ見えるものや言える意見もあるわけで、非当事者だからどうこうというのではなくて、結局のところは発言する側がどういうスタンスなのかということに尽きるのではないか。
--なので

「…と言う訳で、最近ここらへんの学問から離れがちなのざわでした。」

などとおっしゃらずに続けて頂きたい、と思う。

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2005年3月10日 (木)

「時間の止まった家」(関なおみ)

副書名:「要介護」の現場から
光文社2005年(光文社新書)
¥720

以前からオタク世代が老人になったら、彼らはオタク・コレクションをどうするつもりなのだろうかと疑問に思っていた。本・雑誌どころかフィギュアやらグッズやらいくら買い込んで溜めこんでも、それらを老人ホームに持って行くことはできない。家族がいて保存してくれたり売ってくれるならまだしも、一人暮らしだったら単なるゴミである。ろくに封を開けることなく捨てられる運命であるなら、最初から手に入れない方がマシな気がする。

この本は東京都の某区で「日本ではじめて設置された、福祉現場の係長級医師のポスト」についた著者が実際に見た様々な「家」の事例を紹介している。その中で独居老人が自宅やアパートに「ゴミ」(と他人には見える)に文字通り埋もれて暮らしている姿も幾つか登場する。もっと暮らしやすい住居に「ゴミ」ごと引っ越すのを手伝う話も出て来る。恐ろしい……。これらのエピソードを読んで、もう絶対に物はためるまいと思った。とにかく詰まらん本やCDは読み・聴き終わったらさっさとゴミ箱に突っ込むことを改めて決意。

他にもネコ屋敷の話とか、ここには名前も書きたくない(><)生活害虫だらけの生活とか、恐ろしいけどある種興味深かったり、笑っちゃう所もある。また文章に何気ないユーモアがあって淡々と紹介しているのでそういう印象を受けるようだ。

ハウスキーピングというのはある程度気力と体力が無いと出来ない。体が老化して来たり、ボケて来たりしたらもはや家を維持することはできないだろう。早い話が、トイレが壊れていても直す手筈を行なうことができないのだ。
そして独り暮らしだけでなく家族と共に暮らしていてもやはり同じような状態になっている事例が多数ある。そこでは様々な理由から既に「家族」の形は完全に崩壊している。
そういう点で一番すごかったのは、全員大人であるにも関わらず共依存の幼稚園児状態の家庭だろう。「ここには母性も父性もない。兄弟愛もない。」--誠に索漠の極みである。

さて著者はなぜ公務員生活をやめてしまったのだろうか? そこの部分の心境もいずれ聞かせて欲しい。

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2005年3月 9日 (水)

「チューリップ・タッチ」(アン・ファイン)

評論社2004年
1500円

実に強烈で救いようのない話である。
主人公は、英国のホテルで雇われ支配人をしている両親を持つ小学生の女の子。親の新しい職場に引っ越した時にチューリップという少女に出合う。チューリップはまさに「悪い子」なのだが、主人公はその悪の部分に惹かれて仲良くなる。それは同時にチューリップに支配されるということでもある。

中学で彼女はとある事件を契機にチューリップから距離を置くようになり、「良い子」になる。一方でチューリップは歯止めを失い、周囲の物を壊し自分より弱者をいじめ手がつけられない状態へ転がり落ちて行く。

ここに描かれているのは恐るべき憎悪の連鎖である。肝心なのは周囲の人びとが少なくともチューリップを救おうと努力はしていたことだ。しかし、結局のところ、誰も彼女を救うことは出来なかった。酷い状態にあるのを分かっていながら、である。

その行く末を考えるとぞーっとし、無力感に襲われる。そういう人間像を作者は突きつけているのだ。
彼女の描いた「目」とラストの炎の描写が極めて印象的。

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2005年3月 7日 (月)

「アレキサンダー」

監督・脚本:オリバー・ストーン
出演:コリン・ファレル、アンジェリーナ・ジョリー他
米国・イギリス・ドイツ・オランダ2004年

アレキサンダー大王がいかに権力を奪取してさらに版図を広げて行ったか、そしてその追いまくられてるような行動の背景に何があったのか?……という事で、これは時代と場所は異なれど「ニクソン」系の話である。最後にその意識は混乱し王国と自身の死を迎える。ここら辺もよく似ている。
ただ、ほとんど母親と父親との関係についての描写が多くて、実際のところ彼が何をやったのかとか、何を目的にしていたのかというのは今ひとつ分からん。
『遺跡が語るアジア』(大村次郷/中公新書)という本を見てたら「アレキサンダーのためにゾロアスター教徒は現在五千人しかいない」とかペルシャの都市を略奪しまくった話とか出て来て、「スゴー(!o!)」と思ったけど、そういうエピソードや描写はこの映画には出て来ないのであった。単に遠方の土地をゾロゾロ歩いているような印象しかない。

ジャレッド・レト扮する腹心との友情以上・同性愛未満の関係の描写もなんだか奥歯に物か挟まったような曖昧さではがゆく、もうちっとハッキリしてくれい、と言いたくなる。

ただ、戦闘シーンは迫力あり! 土煙がもうもうとして敵の姿もよく見えないところなんかは、昔の闘いはそんな感じだろうなと納得させるものがあった。アレキサンダーが軍勢の前で檄を飛ばしている場面は、予告で見た時は『ロード・オブ・ザ・リング』の同じような場面に完全に負けていたが、本編で見るとそうでもなかった。

それにしても、アンジェリーナ・ジョリーの母親はコワイ。こんなにコワくっては最果ての地まで逃げたくなる気も分からないでもない。ギャ~ッ(>O<)
それから、こちらは『ロード・オブ・ザ・リング』より遥かに恐ろしい「じゅう」!じゃなかった、インド象の襲来!!いや~、これも怖いわ。この時の恐怖の記憶が二千年の時を越えてトールキン教授に「じゅう」を書かせたのであろうか、ってなもん。そのぐらいに恐ろしいのである。
しかし、この映画の一番の見どころはいわゆる「オリエンタリズム」--誤解された東洋の描写であろう。なんか全体におかしくって、ムズムズしてしまい、くすくす笑いをしたくなるような「変」さなのである。

とはいえ、やっぱりこの暴力オヤヂ監督の作品を、出来がどうあれ好きなんだなーと思ってしまうのであった。

ところでジャレッド・レトもジョナサン・リース・マイヤーズも同じく軟弱系二枚目なのに、後者の方が悪役専門みたいになっているのは何故だ?!

主観点:7点
客観点:5点

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2005年3月 5日 (土)

ザ・ハープ・コンソート

内容:海に生きる人びと--小島の古き歌
会場:王子ホール
2005年3月4日

ハープ・コンソートはハープ奏者のアンドルー・ローレンス・キングがリーダーの6人組。前々回に来日した時のコンサート(確かスペイン系の音楽だったはず)を見ていたく感動して、今回もチケットを買った。その時はパーカッションのM・メツラーがものすごい大活躍。よく小学校の音楽の時間に持たされたタンバリンの一回りデカイような奴(もちろん本物の皮が使ってあるが)を駆使して、まるでロックバンドのドラムス並みのリズムを打ち出していたのである。(チト大袈裟か)タンバリンて本当はああいう使い方をするのかとビックリした。

今回はローレンス・キングの故郷である英国ガーンジー島の伝統音楽が中心。イギリスとフランスのちょうど中間あたりにあり、ケルト系の影響も残っているのではないかと思われる。あのヴィクトル・ユゴーが滞在して作品を書いたということでも有名らしい。

曲は島だけでなくフランスの方の伝統音楽、さらにはアテニャンやラモーといった有名な作曲家の曲に詩を後から付けたのもあった。歌詞はかなりヒワイなものもあり思わず笑ってしまった。
ダンサーのS・プレイヤーが時折前に出て来て恐ろしく複雑そうなステップのダンスをする。あるいは曲の内容に合わせて寸劇っぽいこともやった。期待していたメツラー氏のパーカッションはあんまり前に出て来なくてやや残念。代わりに、ヒョロ長い身体を生かして(かなりの長身)「お化け屋敷」という曲で家に侵入しようとする化け物を怪演していた。
一番良かったのは「善良なアンドリオ」という調子が良い曲で、歌の合いの手に入るガンバがまたいい。思わず体を揺らしたくなるような感じ。

アンコールは別の日にやったプログラムのアイリッシュ・バロックの曲だった。こちらもまた楽しくて良かった。
実は3月2日のこちらのプログラムのコンサートのチケットも買っていたのだが、なんと日を間違えて行ってしまった!それも津田ホールの3階のまで上ってチケットのもぎりの所までたどり着くまで気付かなかったのだから、大失敗である。アンコールでその時の曲を聴いてしまうと余計に悔しさが身にしみるのであった。(号泣)

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2005年3月 2日 (水)

「子どもが減って何が悪いか!」(赤川学)

筑摩書房(ちくま新書)2004年
700円

少子化の言説を統計データをチェックすることで再検証した本。書名の感じとは裏腹にかなり数字がグラフが出て来るので、いささか文科系人間には厳しいものがあるが、内容的には目からウロコが落ちる所が多い。
前に著作権法改正騒ぎの時に、国会に出されるような数値でもいい加減だったり恣意的に使用されていることを知ったが、この本でも少子化について同様の数値の使われ方がされているのを証明している。

結果、子どもが減る要因としては女性の高学歴・高年収、都市居住、従業(フルタイムでもパートでも)であり、影響しない要因は世帯年収、職種、母・姑同居、夫の家事参加となる。そこで、男女共同参画社会として言われているような子育て支援や家事の負担の減少では少子化の対策にならないし、そもそも男女共同参画と少子化は関係がないということを明らかにしている。
その上で、著者は今さら時代を逆行させるわけにもいかんし、どうしたらよいのかということを提言している。
当然、男女共同参画の立場の人からは批判されそうな内容であるが、なるべく誤解されないように、また逆の立場の人たちからも利用されないように、双方にかなり気を使って書いているようだ。(ご苦労さまです)

同じ著者の『性への自由/性からの自由』は以前大変面白く読んだ(特に「ワイセツ」とは近代以降の産物である、という事など知って納得)。この本も統計と言説のズレを明確にして面白かったです。

ただし、あとがきの最後のページは言わんとすることは分かるが、なんだかロマンチック・ラブ系の感慨で「なんだかなー」と思ってしまった。こんな事言ってたら、永遠に結婚できまい。
さらにこのインタビューの4ページ目はかなり異議あり!「ソースを出せ、ゴルァ」とか「統計で証明できるんですか」などと言いたくなってしまう。脇が甘いのは要注意、である。

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