これもバックラッシュなのか
同じく「loveless zero」 より見つけた興味深い記事。
〈「電波男」を買ってみた〉にある〈「やわらかフェミニズム」とも言うべきものに対する痛烈なカウンター〉である。
これを読んで、肝心の「やわらかフェミニズム」というのが具体的な像として、どうも分からない。『負け犬の遠吠え』は書名が上げられているが、それ以外は……?
さらに「?」と思ったのは
〈それは社会思想として完全なものなのか?
まるで完全ではない。〉
「完全な社会思想」なぞこの世に存在するのであろうか? そのようなものはかつて存在しなかったろうし、これからも誕生することはあるまい。
なぜフェミニズムが「完全」であることを求められなければならないのか? それを求める者はいかなる立場あるいは権威を持って要求するのか。
何年も前にミス・コンテストの反対運動が報じられた時、とあるテレビのコメンテーターは「ミスコンなんかより、どうして広告のヌード写真に抗議しないのか。こっちの方がよほど問題だ」と語った。
しかし、ミスコンに抗議した人たちはそれなりの考えをもって行なったのだろう。反対運動だって何もかもできるはずがない。それより、ヌード写真が気に入らないならその本人が自分で抗議すればよい。なぜ、他者に対してそれを要求し、自分の意に沿わないからと責めるのか。
とあるサイトではフェミニズムがオタクについて語っていないことを非難するような文章を見かけた。これも同じである。「気持ち悪い」と言われるような「もてない男」についても語っていないのはおかしいというのだ。
だが、なぜフェミニズムがそれについて語らなければ「いけない」のか? それを求める者はいかなる立場あるいは権威を持って要求するのか。
それについて必要ならば自分で語ればよい。(恐らく『電波男』はそのような書なのだろう) 他者を「語っていない」と非難する者が語ったのであれば、その時はもちろんきっとオタク女やもてない女についても公平に言及してくれるのであろう。
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