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2005年5月28日 (土)

《キャラクター映画》について

「loveless zero」経由で
「こころ世代のテンノーゲーム」
を覗かせてもらったがどの記事も面白い。過去のももっと読ませて貰う予定。
で、取りあえずこの記事--
「宮崎アニメはどこへいった?――ハウルの動く城を見て」
についてなのだが、私も『ハウル』には低い評価しか与えられなかった人間である(ニフの映画フォーラムでも低い点数の人が多かった)。
さてここで「萌えアニメ」として上げられている要素

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■印象的なシーンだけを突出させ、物語の文脈が破綻している、あるいは物語としての語りを放棄している。■印象的なシーンを形作るためにセリフを極力少なくしている。■作品総体としてではなく、映像としてのみの印象的なシーンさえあればいいがために、役者の演技を二の次、三の次とする。

以上の点はつまるところ、記号的、断片的なカットの集合体という地点へ収斂するのだが、それをして、■「作品」だと強弁する、それが、私の考える「萌えアニメ」である。
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というのは、アニメに限ったものだけではないような気がする。実写の映画を見ていて私も感じた事がある。
例えば『ロード・オブ・ザ・リング』が丸ごとそれに当てはまるだろう。この映画は大塚英志が定義した「キャラクター小説」と同様な、「キャラクター映画」だと思えたのだ。劇中でガンダルフが理屈にあわない不可解な行動をするが、それはその後の極めて感動的なシーンへと直結する。感動に目が眩んで観客はその不備などどうでもよくなるらしい。
「感動的なら理屈にあわなくてもオッケーかよ?」などと、私は噛み付きたくなったのだが、残念ながらそういう意見の人は少なかったようだ。

「キャラクター○○」は「○○」よりも「キャラクター」の方を重視する。他の全ての要素はキャラクターに従属する。端的に言えば、物語の整合性なんかどうでもいいのさっ。
昔のアクション映画や娯楽映画の傑作とされるものでも、見終った後しばらくしてから「ありゃ(?_?)あの場面変だったような……」と気付くことがあったものだ。だが、観ている最中にそれが気になるようではオシマイである。いや、それより作ってる方が全くそういう事を気にしていないのかも……。

だから、最近エンターテインメント系作品を見る事が減って、さらに映画全体の鑑賞回数が減ってしまったのかも知れない。( -o-) sigh...

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