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2005年7月

2005年7月31日 (日)

「バッハのモテットとマニフィカト」

演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン
会場:日本大学カザルスホール
2005年7月29日

この前日、BCJは京都で開催されている「世界合唱シンポジウム」に出演。さらに8月にはドイツの音楽祭二つに行く。その演目を東京でもお披露目--ということと、今年結成15周年記念もあって行なわれた特別演奏会。しかし、合唱シンポジウムなんて全く知らなかったが、通し券6万円ですか? そりゃ、気軽には行けないわなあ。
従って、会場も普段のオペラシティではなく、いつのまにか「日本大学」が頭に付いていたカザルスホールであった。
しかし、結構大きめの編成なのでカザルスホールの舞台からははみ出さんばかり……。ついでに客席も満員御礼だった。

冒頭のオルガンソロはいつもの今井奈緒子ではなく鈴木雅明自身の演奏で『プレリュードとフーガ ト短調』。恐るべき疾走するようなスピードで弾きまくりである。

続いてモテット2曲。レクチャーで子細に取り上げた『イエスよ、わが喜び』と『主に向かいて新しき歌を歌え』だが、全員日本人のソリストたち(ドイツ公演ではP・コーイとR・ブレイズが入るもよう)も良かった。

後半の『マニフィカト』は元々めでたい曲ゆえどの作曲家の作品でも華やかだが、トランペットもティンパニも入って極めて祝祭的な感じになっている。こちらも独唱や重唱が素晴らしかった。冒頭はトランペットの調子が悪かった?(気のせいか)

全体的に合唱の勢いを実感できて満足したコンサートだった。次回の定期公演では、最近発見されたアリアを本邦初演するという噂。ニュースで流れた歌はひどかったので、これは必見、いや必聴であろう。


【オマケ】
しばらく振りにカザルスホールへ行ったら隣にあった建物がなくなって(御茶ノ水スクエアだったっけ?)更地になっていた。すっかり様変わりしててビックリ。

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2005年7月29日 (金)

「王女メデイア」(ク・ナウカ)

会場:東京国立博物館本館
2005年7月26日

ク・ナウカの代表作の再演である。元は言うまでもなくギリシア悲劇だが、それを読み替えて舞台を明治期の日本、イアソンを日本の軍人、メデイアを朝鮮半島から故郷を捨てて来た女として描いている。さらに、全体の設定は黒マントの学士様(?)風の男たちの宴会の余興として「メデイア」を演じるという形であり、話者(スピーカー)を男たちが、演者(ムーバー)を女たち(料亭の仲居)がやるのだ。

問題は会場の残響が大き過ぎることだ。博物館の大昔の完全な石造りの部屋はなんと残響4秒もあるということで、教会並みではないか。芝居よりもルネサンス期のミサ曲でもやるのがふさわしい空間である。普通のコンサートホールでも2~3秒で、それでも人間の話し声はエコーがかかり過ぎに聞こえるのに、これでは何を言っているのか分からない。
で、何を言っているのかわからないので、つい無意識にスピーカーの方を注視してしまい、肝心のムーバーの方の動きを見るのが疎かになってしまうのであった。困ったもんである。

同じ演目は過去に蜷川幸雄演出のとロマンチカで見たことがあるが、過激な話なので(何せ男への復讐のためとはいえ、母親が自分の息子を殺してしまう)現代的な規範からは到底納得できるものではない。そこをどう解釈するかで全く違う印象になってしまう。
ここでは、「文明」と「野蛮」、さらには男性原理と女性原理の対立としてとらえているようである。それを「面白い着想である!」(ポンと手を打つ)か「なんだか型にはまっているなあー」と見るかはビミョ~なところである。いや、詰まらなくはなかったんだけどね。

金モール付けた軍服姿のイアソンを女が演じているのを見ると、つい「宝塚みたい」と思ってしまったよ。(^^ゞ
メデイア役の美加理は改めて言うまでもなく美しかった! 最近のCMにならって言えば「美加理、キレエ~」(←あの脱力系のセリフを想起せよ)。
台風で天候が変なせいか、エアコンがよく聞いてなくて後半、体調があまり良くなくてぼーっとしてしまった。

終了後のポストトークは早稲田演劇博物館の館長さんがゲストで、能との関連性などの話が中心であった。
次は新作で『オセロー』をやるそうだが、な、なんと11月なのに野外……。凍死するぞー。

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2005年7月27日 (水)

「ラストショウ」に唖然とする

作・演出:長塚圭史
出演:風間杜夫ほか
会場:パルコ劇場
2005年7月21日

以前の作品の劇評などを読んで、長塚圭史の芝居を面白そうだと感じてて見に行く事にした。最近は、芝居自体を見る機会がめっきり減ってしまい、若手の劇団や人の作品もどんなものかとチェックしてみたいというのもあった。
さて、客席を埋め尽くすはほとんどが若い女性。中に芝居ファンとおぼしき男性や高年齢者がチラホラだ。

だが……なんですか?これは??
異常なモノやら人をたくさん出せば面白くなると思ってんのかね。そんな事をしたら効果が相殺じゃないの。平凡なモノを描く力が無いからだろうとか、疑っちゃう。その証拠に前半の父親がヨメと普通の会話をする所は退屈極まりない。(隣席の若い女は眠っていた)
その後、獣姦、人肉食、詐欺、高速増殖炉事故--。でもって、妊娠してる女の腹を殴る、包丁を振り回す、息子をいぢめるオヤヂの登場ですよ。もう異常のテンコ盛り。お腹いっぱい。
話が二転三転するが、起伏のある話というより単にストーリーテリングの才能がないからとしか思えない。

いい歳こいて、包丁突きつけて「おれを好きになれ」って……小学生ですか? いや、それとも風間杜夫に代表される団塊の世代あたりを、ガキっぽいとおちょくっている話なのだろうか。そして、素直で良い子のな若い世代(作者が該当)は、お子ちゃまがそのままデカくなったような狂暴で考え無しの上の世代に迷惑をこうむっている--そういう事なんだろうか。

しかし、何よりも驚いたのはラスト会場の何ヶ所か、すすり泣きが聞こえて来たこと。もうビックリ(-o-;) これのどこで泣けるんですか?!
私には理解不能な世界である。
もう二度とこの作者の作品を見る事はあるまい。

劇中で古田新太が何度も大汗かいていて、すご~く調子悪いように見えた。大丈夫か?

後記:この芝居の祟りか、数日後に見るはずだった結城座の源氏物語を完璧に忘れていて、行き損なった。_| ̄|○ なんでこうなる。
もっとも、地震のあった日だから、見に行ってたら完全に渋谷あたりで足止め食っていただろうが……。でも、すごく見たかったよ、結城座(T_T)

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2005年7月24日 (日)

私の愛した「スター・ウォーズ」--はもう存在しない!

『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』
監督・脚本:ジョージ・ルーカス
出演:ユアン・マクレガー、ヘイデン・クリステンセン
米国2005年

ハッキリ言おう。私はガッカリした。
いや、もちろん期待していたわけではない。前作の「エピソード2」はヒドイ出来だった。目まぐるしいバトル場面とデレデレダラダラしたラブシーンの繰り返し。主人公はいつも不平不満でいっぱいの小僧だし、ヨーダはどこの誰が作ったかもよく分からんクローン軍を勝手に使っちまうし、あまりに矛盾したストーリーに口アングリ状態であった。当時の自分の感想を見てみると、点数は3点をつけている。

だが、今回は好意的な評が多いので少しはマシになったかと思っていたのだ。点数制の映画サイトを見ると、低い点数を付けているのはごくわずかの人数である。また、ココログで検索してみても、どれもこれも誉めてる感想ばかりだ。批判的なのはこちらの感想ぐらいしか見つからなかった。

信じられん。(=_=;)

★ネタバレ警報発令中★
怒りのあまり、ネタバレしております。未見の方はご注意下さい。


わずかばかりの期待は冒頭の議長の救出劇で早くも粉砕された。この一連のシークエンスはモタモタした流れ、センスのない会話(もしかしてギャグを言ってる?)、棒立ち状態の役者、バカらしい展開で、もう児戯に等しい。
おまけに空中戦の場面は(ここだけではないが)ゴチャゴチャ色んなものを詰め込んで、まるでルーカスは空間恐怖症なのではないかと疑いたくなるほどだ。多過ぎる情報は飽和状態になると無に等しくなるのに。

さらに、各場面で台詞や映像によって伝えられる情報がバラバラで、見ていて混乱してしまう。例えば、アミダラとアナキンの仲は秘密と言ってるわりには公の場で(柱の陰でとはいえ)抱き合ったり、ド田舎の別荘とかならともかく都市のど真ん中のビルのバルコニーなんて衆人環視の場で逢い引きしてたりして、訳ワカランのである。
もし、写真週刊誌なんてものがあったら「元老院議員がエロい衣装で年下のジェダイ騎士をお出迎え!」などとたちまちスクープされてしまうだろう。
てっきり周囲の近い人間は知っているのかと思ってたら、後半でオビ・ワンが知らなかったような事を言ってるのでまた驚いてしまう。

アナキン君がジェダイと議長の板挟みになって葛藤するのも、どうにもよく分からん。板挟みで困っている、という事態が起こっているのは理解できるのだが、どうして板挟みになっているのかその理由が見ててどうにも分からないのだ。政治的な動きが絡んでいるのだろうと考えても、単に生意気なアナキン君が自分を認めてくれない!と駄々をこねているようにしか見えない。だから、ダークサイドに至る過程もどうも説得力がない。
いや、言い直そう。説得力はある。あるが、それは主人公がどうしようもない愚か者だという「喜劇」としてである。事前に喧伝されていたような「悲劇」としてではない。

それに対するジェダイ評議会の態度も理解できない。「怪しい」とか疑ってるヤツにどうしてスパイやらせようとするかね。ここから出せる結論は、ジェダイ達もまた愚か者の集団である、という事だけだ。
家に帰ってからビデオにとっておいた『鋼の錬金術師』を見たら、よっぽどこっちの方が主人公のギリギリの葛藤と危機をうまく描いていていて、愕然としてしまった。どーしてこうなる? あー、もうガックリだよ。泣ける(T_T)

その他、例をあげればきりがない。ストーリーの整合性の無さ、人物の感情の不自然さ、どうにも理解しかねる行動……。
それらの間に長いバトル場面が挿入される。で、他の戦闘に力入れ過ぎたのか、もっとも重要であるはずのジェダイ虐殺の短くてあっさりしていること! もうあっという間、である。あのー、ジェダイってちっとは強いんじゃなかったんですかっ、どうしてそんなにあっけないんですか(>O<)と問い詰めたくなっちゃう。
ついでに、R2-D2は大活躍なのに、C-3POはウロチョロしてるだけなのも気に食わんぞ、ゴルァ。

見てて唯一、良かったのはヨレヨレに負傷したアナキン君がダース・ベイダーのマスクを装着する場面であった。あそこはいかがわしくて、思わずドキドキワクワクしてしまった。元々、旧三部作での皇帝とダース・ベイダーの関係をSM的解釈している批評があったが、正しくそういう印象である。女とのラブシーンはデレデレしてるだけでどうしようもないが、こういう所はルーカスの暗黒面の面目躍如といえよう。
それから、J・ウィリアムズの音楽も良かった。今までなぜか、彼の仕事をいいと思ったことは無かったのだが、今回ばかりは感心した。彼の音楽が無かったら、無味乾燥な紙芝居を眺めているだけになっていただろう。


まあ、これが単体の作品なら「詰まんなかった」で終わり、で済む。
だが、これは「えぴ4~6」に続くのだ。そうすると、矛盾が色々出て来てしまう。一番、大きな矛盾はレイアがルークに母親の記憶について語る部分だろう。もっとも、ルーカスはそのうち「決定版」なんてのを出して、この場面を削除してしまうかも知れん。
いや、それどころか既に「えぴ6」のラストで出現するアナキンのオヤヂ化したジェダイ姿を、DVD版では若いアナキン君に差し替えてしまったというではないか! 過去の「えぴ4」の改定に始まり、どんどん訂正していってしまうつもりだろうか。
なんということだ……もう私が昔見た『スター・ウォーズ』は残っていないのだ。

そして、何よりもこたえたのはあの!希代の悪役ダース・ベイダーの中身が、なんと不平不満だらけの分からず屋の青二才だったということである。そして、全ての始まりが分別のない若夫婦の自分勝手な行動だったとは--トホホ。(x_x)
これだったら、謎は謎で知らない方がまだよかった。

「えぴ3」から「えぴ4」につながってハッキリした事は……
ヨーダもオビ・ワンもアナキンも実はみんなみんなDQNだった。
かつて熱狂した『スター・ウォーズ』は、もうこの世界のどこにも存在していない。

あー、もうガッカリだ。_| ̄|○ 


主観点:2点(もちろん、10点満点でだよ)
客観点:4点

【追記】
こちら↓の感想もありました。遅まきながらトラックバック--しようとしたらなぜか出来ないのでリンクだけさせていただきます。
神話に著作権者はいない。~「バットマン」と「スターウォーズ」~

【オマケ】
字幕版を見たのだが、なんだか訳の分からないセリフ、辻褄のあわないセリフが幾つか出て来た。頭をひねっていたら、最後に出て来た字幕担当者の名前を見て納得。またもや!冥王の回し者こと「あの人」ではにゃあの。もはや日本の映画界も完全にダークサイドに落ちているようである。なんとかしてくれよ。

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2005年7月23日 (土)

オブレヒト没後500年記念ミサ曲連続演奏会その2

曲目:オブレヒト「ミサ・フォルトゥーナ・デスペラータ」~グレゴリオ聖歌とルネサンス・ポリフォニーによるミサ形式の演奏会
演奏:ヴォーカル・アンサンブル・カペラ
会場:聖アンセルモ・カトリック目黒教会
2005年7月18日

ヤコブ・オブレヒト没後500年記念ミサ曲連続演奏会の2回目である。
前回同様、ミサの形式に則って、オブレヒトの作曲したポリフォニーの曲とグレゴリオ聖歌を演奏した。
さらに当時の慣習に従って、10人ほどの歌手たちが巨大な楽譜(これも当時の白色計量記譜法というヤツで書かれているもの)を全員で見ながら歌うのである。

教会だけに残響が長くて、途中で挿入されたグレゴリオ聖歌の独唱が何やら今まで聴いたことのない響きがネット~リとして陶酔的であった。
アンコールでもやった、後半で挿入されたゼンフル作のモテットも良かった。

--と、ここまで感想を書いたのだが、実は暑い日で夏バテになってしまい(歩いていると体の水分が大気中に吸い上げられていくのを感じた!)、ものすごい眠気に襲われてしまい、実は前半部分は朦朧としていた。恥ずかし(v_v)
いや、マジに眠いなんてもんじゃなくて意識が飛んでしまうような感じだったのだ。(弁解モード)

来年はアグリコラ没後500年だそうである。またもや、マイナーな……(\_\;

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2005年7月22日 (金)

なんと豪華トーク・セッション情報

ジュンク堂のうえの・ちづこ書店にて上野千鶴子×香山リカという豪華?な取り合わせのイベントが!
詳細はこのページの9月の所にあり。  
まだ先のことなので定員には達していないもよう。興味がある方は急ぐがよろし。

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2005年7月21日 (木)

今度はBOOKバトンだよ!

えー、またもや回って来ました、バトン・シリーズ。今度は本であります。てっきりもうバトンブームも終わったかと思ったんですが、まだしぶとく生き残っておったのだのう。
回して頂いたのは前回同様「(ひねくれていない)おともだちサイト」の、しのさんです。詳細はおたくなツレヅレ日記を参照のこと。


●持っている本の冊数
ざっと数えたところでは900冊ぐらいか。これでも捨てて来たんですよ。(号泣)
はっきり言って、読んだ本より読んでない本の方が多い。


●今読みかけの本 or 読もうと思っている本
『霧のなかの子』(トリイ・ヘイデン)

もう一冊、題名忘れたが(火暴)社会学者ピエール・ブルデューの解説書。途中まで読んだが、解説書でさえも難しくて放り出したまま既に十ウン年経過--。そもそも棚のどこにあるのかも分からない。けど、きっとどっかにあるに違いない。一体、再び読み始める日がいつか来るのであろうか。乞うご期待 \(^o^)/


●最後に買った本(既読、未読問わず)
『狂気と犯罪~なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』(芹沢一也)


●特別な思い入れのある本、心に残っている本(5冊まで)
1-『たそがれに還る』(光瀬龍)
いや、別に『百億の昼と千億の夜』でも『宇宙年代記』シリーズでも--どころか『夕映え作戦』でもよかったんだけどね。

2-『人形たちの夜』(中井英夫)
あの日、新聞一面下の新刊広告でこの本の名前を見かけて、そのすぐ後に行った図書館の新着図書架で見つけなかったら、私の読書人生はいかに異なったものになっていたであろうか! 人形たちの写真がよいのに(ちょっと邪悪で)、今入手可能な版には収録されてないのが残念。

3-『プリデイン物語』全五巻(ロイド・アリグザンダー)
ウェールズの伝説を元に、『指輪物語』のかなり濃い影響下で書かれたファンタジー・シリーズではあるが、ヤングアダルト小説としても現代の若者と変わらない心理が描かれている。一冊選ぶとしたら2巻目の『タランと黒い魔法の釜』。とある予言が実現する所でいつも泣いちゃう。
指輪ヲタにこれを「子ども向け」と嘲笑されたことは死ぬまで忘れん!

4-『八百万の死にざま』(ローレンス・ブロック)
ラストの一行で、私も泣いた。

5-『ジャングル・クルーズにうってつけの日』(生井英孝)
ベトナム戦争に横たわるイメージをジャンル、メディアを越えて縦横無尽に論じた書。数年前三省堂より新版が出たが、オリジナルの筑摩版(1987年)にあった豊富な写真図版が全てバッサリ削られてしまったのはあまりに無念である。図版なけりゃ価値は半減なのよ。


●バトンを渡す5名

いないので、これにて打ち止めとさせて頂きます<(_ _)>

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2005年7月20日 (水)

「利益」と「権利」は違う

混同するな--ってことでしょうか。
船橋市立図書館蔵書廃棄事件最高裁判決に関する報道についてのこちらの感想を読んでみた。
確かに利益と権利では全く違う。勘違いさせる報道も困ったものだ。

それにしても、一部の作家は図書館に新刊を入れると売り上げが落ちると言い、除籍するとまた利益を侵害するというのでは、一体作家は図書館に著作が存在している事によってよって損しているのか得しているのか? こういうのをダブル・スタンダードと言うのかな。

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トーキングヘッズ叢書新刊、発売でーす

第24号は特集「少年×タナトス」であります。大きな書店・マニアックな書店には既に平積みとなっております。皆さま是非お買い求め下さい。

内容はここにてご確認下さい。もちろん、フ女子のみならず一般の非フ女子な方もお楽しみ頂けるものばかりです。
私は某マンガを題材に原稿を書こうといたしましたが、全巻揃えたところであえなく締切となってしまいました。残念無念(泣) 代わりに小ネタでお茶を濁しております。

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2005年7月19日 (火)

MDに呪いをかける

TEAC製のMDデッキが故障してしまった。買ってまだ二年である。
そもそもこれを買ったのは、数百枚ある(これでも引っ越しの時にウン百枚捨てて来たのだ)LPレコードを、将来のためにダビングしておこうと考えたからである。将来のためというのは、今あるレコードプレーヤーが壊れてしまった時のことだ。

テープデッキは二台あるが、カセットテープはもうすぐ消滅してしまうのではないかと予想したのだ。だから、テープに録音したライブ番組などもダビングしようと考えた。
それまで、私はMDプレーヤーを持っていなかった。音楽は家でしか聴かないので(ウォークマンの類いは昔一台買ったきりだ)、MDというメディアには全く縁がなく、触るのも二年前が初めてだった。

しかし、実際の所ダビング計画は遅々として進まず、単にNHK-FMのクラシック番組を録音しただけであった。長時間録音できるので、その点だけはカセットテープよりいい。
結局6枚分だけ録音した。

そして--7枚目にしてデッキはぶっ壊れてしまったのである!
ちゃんとタイマーをセットしたのに、録音されていない。おかしいと思って取り出そうとすると、中でゴトゴトいってるだけでディスクが出て来ない。何回かいろんなボタンを押してみてようやく出て来る。最初ディスクに欠陥があると思って交換してみたが、同じ事であった。
たった6枚しか録音していないんだよっ! なんで壊れるのかっ。
全然モトが取れてないぞ!!ゴルァ

さて……どうしたものか。
保証期間は過ぎているので、修理を頼むと出張代を取られてしまう。加えて部品交換なんぞしたら、たちまち購入価格と大して変わらなくなってしまう。かといって、秋葉原の購入店まで手で持って運ぶなんてとてもできない。

ということで、今の私にできるのはMDというメディアが衰退して、この世から早く消えてしまうように呪う事だけであった。くっそ~~、許せん(`´メ)

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2005年7月18日 (月)

小倉千加子の連載

職場で何種類かの新聞を取っているが、毎日新聞だけはあいにく入っていない。で、小倉千加子が連載を始めていることは知らなかった。
しかし、さっき毎日のニュースサイトを覗いてみたら「こころ」のコーナーに掲載されているではにゃあの!

こころの世紀女という名の病というタイトルである。
もっぱら一人の女子学生について書かれているが、これからどう展開して行くのか期待大だ。

あと、内容には関係ないが、この小倉千加子の写真はヒドイ!! いわゆる指名手配写真化している。NHK-BSに出ていた時にご本人見たが、こんなコワいオバハンではなかったぞ。改訂版を求む。
いや……それともわざと、か?まさか(-o-;)

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レオノール・フィニ展

会場:ザ・ミュージアム

うーん、これはよく分からん--。
20世紀初頭、イタリアの名家に生まれ、パリに出てアーティストたちと交流、華やかなスキャンダルを連発。かと思ったら、今度は島に引きこもって自分の美学に浸った生活を送り……というような生涯でしょうか。
で、ポートレートなぞも見てると「なんか女王様タイプだなー、私とは無縁じゃ」とか思っちゃう。

さらに一生の間に何回かキッパリと画風が変わっている。まことにとらえにくい。
そこで思ったんだけど、この人にとっては絵画は表現活動のごく一部だったんじゃないだろうか。もっと他分野の活動や交流と合わせて見ないと理解できないのではないか。

--というわけで、スコスゴと撤退したのである。

作品の中で面白かったのは、魚の骨を使って作った仮面。これで色が黒っぽければ、まるで『エイリアン』みたいなグロさである。あと、題名は忘れたが、二枚一組の「使用前/使用後」風の絵画作品も。骸骨と花を描いたのは、ちょっとジョージア・オキーフぽかった。


次の展覧会はモローですか。こりゃ、必見! 会期の前半と後半で作品が結構入れ替わるみたいなんで二度行かなければならんかも。『サロメ』の前で思う存分(^Q^;)ハアハアして眺めたいのう~。

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2005年7月17日 (日)

NEC古楽レクチャー「バッハのモテット」

内容:声楽アンサンブルの伝統と奥義
鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパン
会場:東京オペラシティ リサイタルホール
2005年7月11日

年に数回、NECは古楽関係のレクチャー・コンサートをやっていて、BCJの鈴木雅明も年に一回ずつ担当している。今回は7月末のバッハのモテットの演奏会に合わせたものである。
内容は毎回濃ゆくて、ほとんどの人がペンを片手にメモを取りながら懸命に聞いている。ホールはほぼ満員御礼であった。

バッハより前の世代のモテット(葬式などの機会音楽でしかも声楽アンサンブルの曲、カンタータとは違う)を解説、そしてその古い手法を意図的にモテットやカンタータで使用しているとのこと。
意外だったのは、完全なアカペラ合唱が盛んになったのは19世紀に入ってからで、バッハには合唱だけの(器楽を使ってない)曲はないそうである。

後半では実際の曲(BWV227)をの歌詞と楽譜を示して解説し、さらに実演を聞いてみる。聴衆も配られた楽譜とにらめっこだ。
ここでもまた驚いてしまったのが、テキストの内容(聖書から取られている)に合わせて音型やリズムが細かく沿うように作曲されている事。ホントに細かいんである。
曲の終盤の「聖霊 Geist」の一節が「肉体」との対照で強調されて作られているところなど、なるほどと納得した。ここまで細かく色々と検討してみて、初めて曲の構造と意図がようやくハッキリとしてくる。

日常で楽譜など全く眺めないようなトーシロの人間にとっては(演奏会でたまに楽譜を見ながら聴いている人がいるが)、非常にタメになったレクチャーであった。ボーッと流し聞き、どころか単に歌詞を眺めていても容易には分からない事だ。また一つ賢くなった気分。2500円のモトは完全に取れた感じだ。

ただ、例の如く鈴木雅明は後半時間が足りなくなって駆け足状態になってしまい、終了時刻は予定オーバーであった。毎回同じでこりないのう。(^^)
モテットの演奏会が楽しみだ。

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2005年7月15日 (金)

「ラヴェンダーの咲く庭で」

監督・脚本:チャールズ・ダンス
出演:ジュディ・デンチ、マギー・スミス
イギリス2004年

#名も知ら~ぬ遠き島より流れ着きたる男ひとり~
時代は大戦前、英国はコーンウォールの岸辺の家にのどかに暮らす姉妹二人。ある嵐の翌朝、岸に正体不明の二枚目の若いにーちゃんが打ち上げられているのを発見する。おお、これこそ往年の猫十字社の言い回しを流用すれば、「美青年がネギと鍋をしょって表われた」状態ではないか!
テキパキとしたしっかり者の姉に比べ、これまでラブロマンスにも縁なくマタ~リと日々を送って来た妹は、そのにーちゃんにのぼせ上がり一目でホの字になってしまったのであった。大昔の少女マンガならば、バックに華麗な花が開いて瞳に星輝きハートは真ピンクと化してドキドキと鼓動するであろう。

だが(=_=;)その恋には大きな障害があった。
なにせ彼女はチビでブスでドジでド近眼
……じゃなくて、なんと七十代のばーちゃんだったのである!
これはいかんともしがたいことだ。2ちゃんねるの毒女スレに相談しても解決できないだろう。できるとしたら、神様ぐらいのものだ。

例の記憶喪失の「ピアノマン」騒動と類似していると騒がれて、にわかに注目された作品である。実際見てみると物語は捻りもなく淡々としていて、予想した通りに結末を迎える。ストーカーな医師のエピソードも、他になんにも起伏がないから無理してくっ付けたという印象だ。
特にはっきりしないのが、青年の設定である。推測するに、戦乱を逃れて米国へ移住しようとして船が難破したということらしいが、いくらヴァイオリンの名手ったって英語も全く出来ないんじゃどーするつもりだったの、と問い質したくなる。一方、姉妹は怪我が回復した後に彼をどのように処遇するつもりだったのか、ということが判然としない。本人の意志を確認するわけでもなく、そのままずっと一緒に住まわせるつもりだったのだろうか? ホントに「記憶喪失」だったらこういう状況もあるだろうが、映画の方はちゃんと記憶があるんだから不自然である。
このせいで、物語は現実感に乏しいメルヘンのような印象になってしまったといえる。

姉妹役のJ・デンチとM・スミスはもちろんだが、家政婦のオバサンを始め村人役の役者がみんな味があってよかった。いかにも英国田舎風な個性ある顔の面々だ。
若者役のD・ブリュールは「中高年の奥様がた百人に聞きました。息子にしたい男優は誰?」で高位にあがりそうな感じだが、基本的にはおとぎ話の王子様的な役なので演技がどうこういうという感じではない。
特にJ・デンチの演技は見事で(当然といえば当然)思わずもらい泣きしてしまったほどだった。(T_T) 役者っつーのはおそろしいもんだのう。

海岸の村の風景、自然の描写、家具や衣装のデザイン、おいしそうな家庭料理などなどすべて見事である。さらに役者の演技もいうことなし!--であるのに今イチなのは、やはり脚本が不十分なせいだろう。映画において脚本が重要かということを如実に示している例である。
あと、肝心の音楽も今イチに感じられた。

観客は老いから若きまで女ばっかりで、カップルがチラホラ。一組だけ中年男性の二人連れがいて人目を引いていた。この女度の高さは『バッド・エデュケーション』以上ではないの。少女マンガならぬ、中女マンガの恋愛ものといった感じだからか。

英国の料理は美味くない、という話を聞くが、この映画の中には料理がいっぱい出て来ておいしそうだった。特に面白かったのはイワシのパイである。パイの中身はいわしなのだが、その表面の皮は海面のように波打っていてイワシの頭と尾の部分が、まるで海面で飛び跳ねているように皮に乗せてあるのだ。
ただ、あんな料理を毎日食べていたら、私なんかあっという間に10キロぐらい肥えてしまいそうだ。


主観点:5点(泣かされたんで一点減点(;_;))
客観点:6点


【追記】
こちらの感想が面白かったのでご紹介。

 〔恩はきっちり金で返せ!〕

全くその通りである。

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2005年7月14日 (木)

直木賞にビックリ--はもう慣れた

さて、今期の芥川賞・直木賞が発表されたが、特に注目は直木賞。

リンク: @nifty:NEWS@nifty:芥川賞に中村文則さん、直木賞は朱川湊人さん(読売新聞) .

正直言って、候補作家の中でこの人だけを知らなかった……。スマヌ。
『となり町戦記』なんかあんなに話題になっても取らないのか。恩田陸、森絵都はもう取ってもいいんじゃないのとゆう感じ。まあ、以前『火車』で宮部みゆきが取れなかったしねえ。なんかズレているんである。
いかなる力学が働いているのか?
……などと作品自体の評価より賞レースの方が注目されてしまうのは困ったもんではある。

と言いつつも、「文学賞メッタ斬り!」をチェックしてしまうのであった。

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2005年7月 9日 (土)

「バス174」

監督:ジョゼ・バジーリャ
ブラジル2002年

また暗いものを見てしまった……。
リオデジャネイロで起こったバス人質事件のドキュメンタリー映画である。
ストリート・チルドレンの若者が強盗しようとするが失敗、バスの中にたてこもる。警察が現場規制に失敗したために、マスメディアや野次馬が殺到。衆人環視の中でうかつに狙撃も出来ず、政治家の横槍が入ったりして混乱に拍車がかかる。

内容はテレビ生中継の映像と関係者や犯人の知り合いの証言が組み合わされていて、そういう意味では極めて正攻法な作りのドキュメンタリーだろう。覆面の人物の証言まで出て来て、ますます迫力である。
事件の背景には、政府のストリート・チルドレンへのひどい処遇、少年院や監獄の最悪な環境(なんと十人部屋に二、三十人!が収監されるという)がある。
また、犯人の悲惨な生い立ちも丁寧に描かれている。それを見ていると実際に彼が本当に強盗をしようとしていたのかも怪しい。むしろ自分に何も未来を思い描くことができず、自暴自棄になって派手な事を一発やらかしてやろう(死も覚悟で)としたようにも思える。
こちらの記事
でブラジルという国の状況と事件の関係について色々と知ることができる)

ところで、犯人の若者の母親代わりという女性が出てくるが、どういう人なのかよく分からなかった。ボランティア?それともたまたまそういう間柄になったのか?
それと、彼がよく口にしていた「飛行機から女を放りだした映画」というのはハリウッド製のアクション映画なのだろうか? 以前に見たような気もするんだが……思い出せない。

事件は恐るべき驚愕の結末を迎える。何がどーしてああなったのか、真相は闇のままである。ここには人間の醜悪さがあます所なくカメラの前にさらされている。正視に耐えないというのはこのことだろう。

国情の差があるとはいえ、取り上げられている社会問題やマスメディア批判については日本の状況も似たりよったりだ。先日、帰宅してテレビをつけてニュースを見たら、何やら白熱した記者会見の様子が映っている。すわ何事か!と思ったら某スポーツ選手のご懐妊の発表であった。--素晴らしい(=_=;) また「同時生中継」で大勢の報道陣がどこかに詰めかけている。政治家の犯罪でも発覚か!!と思ったら、某兄弟の確執&遺産争いネタであった。--素晴らし過ぎる( -o-) sigh...
で、ひとたび大事件が起こればまたそこへドーッと……。

さて、渋谷のライズXという映画館に初めて行ったが、分かりづらい場所にある。シネマライズの裏側のスペイン坂の方に入口があるのだ(スペイン坂なんて何年ぶりかで歩いた。いい歳こいて歩く所じゃねえ~)。
中は非常に狭くて、その割にスクリーンは非常に高い所にある(何せスクリーン下にトイレがあるくらいだ)。二階席か、一階の一番後ろかその前ぐらいの列に座らない限り高過ぎて見るのに不自然な姿勢を取らざるを得ない。おかげで首が疲れてしまったよ。

井の頭通り(ハンズ通り?)も久し振りに行ったら、歩道がきれいに分かれて再舗装されてたのはいいが、スピーカーが通り沿いに設置されてウルサイ音楽やらDJやら流されて、「商店街の店舗の皆さまへのご連絡」まで聞かされちゃうのである。おのれはド田舎のさびれかけの商店街かっ(怒)。ただでさえ、騒々しくて落ち着かない所なのにますますうるさくなってしまった。これは渋谷を歩く若者たちからさらに落ち着きを奪おうとするCIAか某知事の陰謀に違いない。

【点数の後に短いネタバレ感想があります】


主観点:7点(映画館の座席がよくなかったため気が削がれる)
客観点:8点


★以下ネタバレ注意★


訓練を受けた特殊部隊の警官があんな至近距離からでも撃ち損なうものなのだろうか。走りながら、という事情があったにせよだ。
アクション映画のようには行かないのか。やはり事実は映画より奇なりである。


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2005年7月 3日 (日)

「バットマン ビギンズ」

監督:クリストファー・ノーラン
出演:クリスチャン・ベールその他豪華多数
米国2005年

インディーズ系や海外から出て来て注目された新人監督が、ハリウッドの娯楽大作に抜擢されて……されたはいいけどその後鳴かず飛ばずになったり、初期の個性や秀逸さがスッカリ消えて単なる「現場監督」になってしまった例は多い。ちゃんと成功しているのは、近年だとブライアン・シンガーとかロバート・ロドリゲスあたりぐらいか--。

さてクリストファー・ノーランというとやはり何と言っても『メメント』。アイデアはすごかったが、逆にアイデアだけの一発屋なんじゃねーのか?という疑いも濃厚であった。次の『インソムニア』はリメイクだし、そもそも中心の二人の俳優が大物過ぎ(R・ウィリアムズのヌエ的な犯人像は迫力あったが)。「バットマン」なんて大作シリーズやって大丈夫かいなという感じである。

ということで、この映画も全く期待しないで見に行った。いやそもそも見に行こうかどうか迷ったぐらいだ。一応、大昔のTV版や過去の四作全部見ているが、だいたいバットマンというキャラクターに思い入れが全くないし、世評の高いティム・バートン版もバートン監督自体今イチ合わない所がある。もう見なくてもいいかなーという感じだったが、それを見ようと思ったのは結構評判がよさそうだったのと、後で述べる理由のためである。でまあ、職場で貰ったタダ券で足を運んだのだった。
さて、結果はどうだったかというと--

いや~、すごーく面白かった! \(^o^)/

最近では珍しいくらいワクワクして見てしまったぞ。タダ券どころか普通料金払ってもオツリがくるぐらい。

そもそもバットマンものを見てていつもノレなかったのは、「な、なんでコーモリなのよ?」とか「いい歳こいた男(おまけに大金持ち)が夜な夜な何やってんじゃ?もっとまっとうな生活をしなさい(説教モードに入る)」などという基本的な疑問がふくれ上がってくるため。それに小道具やら車やらコスチュームやらのフェティッシュな面も個人的には興味ないし、地下の基地も(よくある設定だが)なんだか子どもだましな印象だ。

しかしである。この映画の中ではそれらの疑問・反論・イチャモンに全て納得の行く回答が用意されていたのだ。なぜ富豪がコーモリの格好して闇夜を徘徊して悪者を倒して回らなければならないのか、よーく理解が出来た!
そして、小道具や衣装・装備のこだわりもニンジャが原型となれば、なるほどと頷ける。子供の頃、マンガの「サスケ」や「伊賀の影丸」の忍術解説部分をワクワクしながら読んだのを思い出した。その他、内なる恐怖を逆手に取るとか、闇を利用して襲撃するなども、いちいち納得であった。
もし、『スター・ウォーズ』えぴ1&2がこれぐらいの出来だったら、もう「ルーカスは神!」と土下座しちゃうくらいなんだが……頼むよ~、ルーカス(泣)

それから、脚本も良かった。少年時代の主人公の前に二人の警官が現われるが、一言のセリフで二人の性格の差をはっきり分からせるのは巧かったし、終盤でヒロインが主人公に語る言葉はとてもシビアで痛い。私は見ていてかなり彼に同情してしまった。
ただし、後半のストーリー展開は少し強引すぎな部分があるし、『空想科学映画読本』で突っ込まれそうな場面も多数あり。まあ、見ている最中は気にならない(というか、気にするヒマがない?)ので良しとしよう(大甘)。
ついでに、蜘蛛男とゾンビものの引用もあったようだがジョークかな(?_?)

もう一つの欠点は、どの感想でも指摘されてるが、格闘場面がカメラ近づけ過ぎてゴチャゴチャして訳ワカラン状態な事。もっとも、これは『グラディエーター』を始め最近のアクション物はほとんど共通していることなので、ノーラン監督に限らず、ジョン・フォード映画の殴り合い場面でも見て研究して欲しい。

ゴッサム・シティの街並みはこれまでのレトロっぽい風情とは異なって、現代の都市に近い感じになっている。これを見ると、どうもこの映画のスタッフたちはもう一度「バットマン」をやり直す気ではないかと思えた。
この話はこれまでの四作へとそのまま続くと思っている人が多いようだが、そんなことはあるまい。どう考えてももう一度ジョーカーの話をやり直す気だぞ、ありゃ。

さて、極めて豪華な男優陣であるが、その中でもリーアム・ニーソンが主人公を教え導く役だと聞いて、私は「なんだよ、スター・ウォーズえぴ1そのままイタダキかよ。情けねえなあー(-o-;)」と思ってしまったのだが、実際見てみて納得……というかヤラレタよという感じだった。このキャスティングをした奴には脱帽である。
ルトガー・ハウアーは出演自体、事前に全く知らなかったので途中で気付いてビックリしてしまった。正直言って

ルトさん、やっぱりカッコエエ~ヾ(^^)∧(^^)ヾ ←単なるミーハー

これきりじゃなくて、敵方の企業あたりに再就職して是非続編にも出て欲しい。
もう一人、クレイン博士役のキリアン・マーフィーが目を引いた。色白、軟弱な二枚目でおまけに赤い唇だ! 悪役ならぬ風情である。脳内エンマ帳に書き留めておくことにしよう。
ケン・ワタナベは……こういうのを「チョイ役」というのではないかね。

一方、女優陣はというと、ヒロイン役のケイティ・ホームズのみ。こ、これはいくらなんでもあんまりな話だ。おまけに、別に彼女以外の役者でもいいような感じだし。次はアンジェリーナやニコールを出せまでは言わんから、せめてバーチャンでもオバハンでも女の役をもう少し増やして欲しい。

さて、最後にこの映画を見ようと思ったもう一つの理由だが、それはあの両親ブチ殺し自宅爆発事件を起こした少年が犯行直後に見に行ったのがこれだからだ。
よりによってなぜ『キングダム・オブ・ヘブン』でもなく『戦国自衛隊1549』でも『ザ・リング2』でも『サハラ』でもなく『バットマン ビギンズ』を選んだのか。
主人公のブルースは両親の死の原因は自分にあると考え、自責の念に苦しむ。一方、彼は悪人であっても殺すことはできないという設定である。そのようなヒーロー像を自ら両親をブチ殺したばかりの少年はどういう気分で見ていたのであろうか?

その答えを求めつつ、ずーっとスクリーンを凝視していたのだが、当然ながら答えを発見することはできなかった。いや、見てみて余計に分からなくなってしまったというのが本当のところだろう。
まさに事実は映画より奇なりである。(~_~;)


主観点:9点
客観点:8点


【オマケ】この"Batman Begins"の邦題を最初『バットマン・ビキンズ』だと思ってココログ内を検索したが一件もヒットしなかった。な、なんと中黒の記号がなかったのだ! しかも正しいのは『バットマン ビギンズ』なのか『バットマン ビギンズ』なのか? 普通の雑誌やチラシでは区別がつかんぞ。それに縦書きの文章でも半角ってありか? データベースによっては半角スペースの差によって検索でヒットしないこともあるかも。『バットマンビギンズ』で検索したらどーなる。紛らわしい邦題付けるんぢゃねえっつーの(怒)

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2005年7月 1日 (金)

ビーバー「ロザリオのソナタ」全曲 第3回「復活」

内容:第11番~第16番
演奏:桐山建志、大西律子、武久源蔵
会場:東京オペラシティ近江楽堂
2005年6月28日

半年かけて三回にわたる全曲演奏会の遂に最終回である。今回は、キリストの復活とさらにその後の聖母マリアの物語が(というか、そもそもマリアのための曲集なのだが)5曲に分けて描かれる。

これまでは鍵盤楽器はオルガンだけだったのが、何か見慣れぬ小型のチェンバロみたいの(しかも、そこら辺の材木で作って組み立てたような)が置いてある。開場が遅れた上に、ようやく中に入るとそれを武久源蔵が必死に調律しているのであった。
な、なんとこれがあの!……というよりは、名前を一度聞いた事があるかないかという超マイナーな「ラウテンベルク」(ガット弦を張ったチェンバロらしい)なのであった。
で、おりしもムシムシムシと暑くて(東京で36度を記録した日)フツーの古楽器さえ大変な気候なのに、このように大型でガット弦を使用している楽器ではもはや話にならぬ。ということで、5分ほど解説を喋っている間にもすぐ音程が狂ってきてしまうのだった。

そんなわけで、前半では曲自体より調律しているのを聴いている方が長かったように感じたほどだ。
そして、曲中でなんと右手でラウテンベルク、左手でチェンバロを弾くという大技を見せてくれたのだが、休憩を挟んだら完全に楽器がダウンして使えなくなってしまった。恐るべし、日本の夏!

前回にも書いたが、曲ごとにバイオリンの調弦が異なるという変な曲集なので、それを変える間に武久源蔵の解説が入る。その解説がまたおかしくて、後半の曲のマリアが昇天して天の女王になるというのは聖書には出て来ない話なのにカトリックの間には伝わっているので、カトリックの友人を捕まえて「マリアが神様になるというのは変ではないか」と問い詰めたが、はかばかしい答えは返って来なかった--などと場内爆笑させてくれた。

最終曲は物語のタイトルのないヴァイオリン・ソロの「パッサカリア」でこれだけは、全三回の中で毎回演奏された。おりしも同じ晩にあった寺神戸亮のソロ・コンサートでもやはりこの曲が演奏されたはずである。ビーバーもよもや極東の島国の同じ都市で同じ時間に自分の同じ曲が演奏されるとは予想だにせず、墓の中でビックリしている事だろう。

ともあれ、バロック・ヴァイオリンの音色をお腹いっぱい耳いっぱいにもう入らないぐらいに聞きまくった、と感じた夜であった。収容人数120人ぐらいの極めて小さな会場なので、もう身近にガンガンと聞くことができてシ・ア・ワ・セ(*^-^*)

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