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2005年8月

2005年8月31日 (水)

「コーチ・カーター」

監督:トーマス・カーター
出演:サミュエル・L・ジャクソン
米国・ドイツ2005年

『僕はラジオ』をDVDで見てから突如、実話「コーチもの」を見たくなり行ってみた。
こちらはバスケで、コーチ役はスキンヘッドのサミュエル・L・ジャクソンである。当然ながらコワイんである。私だったら、恐ろしくて姿を見ただけで平伏_(_^_)_しちゃう。
口答えでもしようもんなら「貴様ら文句あっかー!」ピュ~~ッ(←コートの端から端まで投げ飛ばされる音)てなもんである。
あ、いや、さすがに投げ飛ばしたりはしないけどね。

だが、こっちの舞台はアフリカ系の低所得者層がほとんどの都会の高校。簡単に言うことを聞いたりしないヤローばかりだぜ。去年は4勝しかできなかったのを、OBのカーターがコーチに就任してビシバシ鍛えてやったおかげでちょっと連勝したら、早くも天狗状態に。
このままでは彼らの将来は危うい!目先の勝利より進学を--ということで、まともな成績を取るまでは試合も練習もさせないという実力行使に出たのであった。

ヤッタネ!兄い、一生ついて行きやすぜっ。……という具合にはならずに、選手本人たちはもとより父兄、教師、地元からガンガン文句が来るのであった。さあ、どーする、コーチ。(~_~;)

この背景には、米国の学生スポーツの状況があるようだ。確かに、理屈で考えてもバスケで食って行けるようになる人間がそんなにいるはずはない。しかし、選手も親もつい目先の利益にフラフラと--勉強なんぞよりバスケをやれーとなってしまうのであった。それに、貧困から逃れるにはスポーツ選手になるぐらいしかない、という実情もある。

それにしてもこの映画を観てて驚いたのは、少しでも若者の成長のモデルとなるようなまともな大人の男がほとんど出て来ないことである。主人公以外には一人の生徒の親戚のドラッグ・ディーラー(この男もほとんどセリフはない)ぐらいだ。前任のコーチや選手の父親は頼りなかったり、情けなかったり--あるいは父親が刑務所にいてそもそも存在してなかったりする。
代わりに若者たちの周囲は女ばかりだ。スポーツヒーローに寄ってきてチヤホヤする娘っ子たちや、年中ガミガミ怒っている母親や、妊娠をキビシク告げるガールフレンドや、さらに校長先生まで女なのである。

これでは、犯罪に手を染めるのがイヤならカーターについて行くしかない。しかし、そもそも彼のような人物が身近にいなければ……。
なんとなく暗澹たる気分になってしまった。

もっともS・L・ジャクソンの鬼コーチぶりははまっているし、MTVが製作に参加しているだけあって音楽もバッチリ使われているし、試合場面も文句なし。終わりも一応ちゃんとハッピーエンドである。念の為。
「実話コーチもの」はあと『プライド 栄光の絆』が残っている。これも見てみたいぞ。行きつけのレンタル屋に入ればいいんだけど。


主観点:7点
客観点:7点

【関連リンク】
勝利か、教育か。~『コーチ・カーター』の指導論~


付記:映画館で貰ったチラシで『旅するジーンズと16歳の夏』というのがあった。これって、もしかして人気YA小説『トラベリング・パンツ』(アン・ブラッシェアーズ/理論社)の映画化ではにゃあですかっ。
説明的な邦題ありがとう \(^o^)/ でも、これじゃ原作との関連は分かりませーん。原作の読者層は映画にも興味を持ってそうな女の子たちだと思うんだけどね。最初から相手にしてないって?

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2005年8月28日 (日)

「シュレーディンガーの猫」(小倉千加子)

発行:いそっぷ社2005年

16年ぶりに出たエッセイ集だそうだ。従って著者が引きこもっていたらしい時期を挟んで、古いのは1990年代初めの文章も入っている。さすがにそのあたりはネタは古くなっているようだしホントに短文ばかりだが、色々考えさせるものも多かった。
以下、一部引用。
 

彼らの中には、「凡庸」な自分が愚直に努力しているところを人に見られて「痛い」と思われたくない気持ちも潜んでいる

ネット上でたまに「努力しても出来ない人間がいるのに、そういう者に対して努力しろと言うのは抑圧だ」というような意見を見かける。なるほどそうではあるが、同時に「努力しても無理だ」というのは努力せずにすむ言い訳にもなり得る。
いずれにしても「努力する自分」を外から見る第三者の存在を意識せずにはいられないのだなあ、と思った。

 

男子学生にとっては、誰かつきあってくれる彼女を見つけることは、恋愛そのものの満足感よりも、男性としてのアイデンティティの確立にとって、とても重要な意味を持っているように見える。

なるほど、だからこそ非モテ議論はいつまでたっても終わらないのか。納得。


それから、唯川恵との対談に出てきた「前駆快感」と「最終快感」の論議も面白かった。先日、とある人の講演を聞いてたら、大人(親)になっても前駆快感が満たされていないと思われるエピソードを紹介された。この本の内容と合わせて暗澹たる気分になってしまった。( -o-) sigh...

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2005年8月27日 (土)

「バレエ・カンパニー」

監督:ロバート・アルトマン
出演:ネーヴ・キャンベル、マルコム・マクダウェル
米国・ドイツ2003年

DVDにて鑑賞。
これも公開当時、見に行くかどうか迷っていた作品である。なぜかというと、どうもアルトマンというのは苦手な部類の監督だし、おまけに私はバレエやダンスを見ていると眠気が襲ってくるという体質なのだ。(火暴)
しかし結果は--ロードショーで見てもよかったなあ。踊っている場面は大きなスクリーンで見たかった。

全体的には極めて淡々としたドキュメンタリー風の作りである。舞台となっている実在のバレエ団の作品の間に、N・キャンベル扮する団員の日常がアッサリとした描写で挟まっている群像劇っぽいもの。
実際にダンサーやっている人が見るとどう感じるかは分からないが、舞台裏を覗いている気分で面白かった。アキレス腱切ったり、ウルサ型の父親が文句付けて来たりとか、野外舞台で嵐になったりとか--それらが淡々と流れていく構成も個人的には心地よく感じた。

ただ、M・マクダウェルの芸術監督はどー見ても、イタリア系には見えません!
それから、ヒロインの恋人の料理人もあまり好感を持てなかった。舞台を横切っちゃうなんて、笑いを取ろうと思ってるのかもしれんが、噴飯ものである。私が芸術監督だったら直ちに死刑を命じちゃうよ。

パフォーマンス部分は細い帯やらブランコみたいなのを使った作品などどれも良かったが、最後の童話みたいな「青い蛇」だけはいただけなかった(映画のためのオリジナルか?)。なんだか夏休みお子様バレエ劇場みたいなんだもーん。


主観点:7点
客観点:5点

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2005年8月26日 (金)

ギュスターヴ・モロー展

会場:渋谷Bunkamuraザ・ミュージアム
期間:2005年8月9日~10月23日

平日に休みが取れたので早速行ってみた。夏休みのせいか大学生風の若い人も多い。もっとも、日曜だったらもっとスゴイ人出になるんだろうけど。

モローは非常に好きな画家だ。約十年前に国立西洋美術館でやった時ももちろん見に行った。カタログを引っ張り出してみたら今回のと作品が結構重なっている(数は前回の方が多かったようだが)。
しかし、今回の目玉作品は『出現』だろう。踊るサロメの前にデローンとヨハネの首が現われるのを描いた油彩である。右から見て左から見て正面から見て……と何度も眺めてしまった。
その傍らに習作が幾つか並べられているのだが、その中の一つ『「サロメ」のための構想画』というのにも目を引かれた。ほとんど何を描いてあるのか分からない抽象画っぽいものだがとにかくコッテリ塗られた赤い絵具が強烈であった。

同一の主題で幾つかの作品が並べられているのもあったが、私は明確に描いているのよりモーローとした「朦朧体」の方が好きである。そして、景色や人間の顔が朦朧としているのに装飾品や馬具や竪琴の飾りなんかは緻密に書き込んであったりして、そういうアンバランスな部分にこそ引かれるのだなーと今回初めて気付いた。
それから水彩画によく使われている青緑というか緑青というか、その系統の色が鮮やかで他の画家にない独特さを感じた。

他には晩年の作品『死せる竪琴』もヒジョーに気に入った。同主題の大きい油彩もあるそうだが、展示してあったのはもっと小型の水彩である。で、やはり何が描いてあるのか分からないような絵だ。でも、何かがそこにあった。なんだか分からないが戦慄すべきものを感じたのである……。

展示期間は前期と後期に別れていて、水彩や素描は半分ぐらい入れ替わるらしい。有名な『ケンタウロスに運ばれる死せる詩人』や『死せる竪琴』も前期だけなので、見たい方はグズグズしない方がよろし。
後期にも、もう一度行くぞーと心に誓ったのであった。

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2005年8月23日 (火)

コイズミの「釣り」が確定

森前首相が「ひからびたチーズ」とビール缶を片手にぼやいた件で、8月16日の記事につい高級チーズのミモレットを買いに行ってしまったことを書いたが、な、なんとあれは本当に「釣り」だったらしい。
ネット上では記事を見つけられなかったが、日刊ゲンダイの本日号に森前首相が真実を暴露していて、コイズミと打ち合わせて記者の前でわざとやって見せた芝居だったというのだ。

やられたぜ……。見事に釣られた。
ミモレットが売り切れてチーズ輸入業の方々だけはウハウハ状態なのだろう。

ムカムカムカ(`´メ)
腹が立つ~! この落とし前は選挙でキッチリつけてやるぜーっω(T_T)ω
つっても、一票しかないんだが……。

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2005年8月22日 (月)

「やさしい嘘」

監督:ジュリー・ベルトゥチェリ
出演:エステル・ゴランタン
フランス、ベルギー2003年

DVDにて鑑賞。
フランス人の監督がグルジアを舞台にした話を、現地の役者やスタッフを一部採用しつつ作った映画--ということでいいのかな。
祖母・母・孫娘の3人で暮らす女家族--祖母の息子(母の弟)はパリへ出稼ぎしていて、手紙をよく送ってくる。が、弟は事故で急死。そんな事を知らせられんと母と孫娘は手紙を偽造して生きているように見せかける。だが、ばーちゃんはなんか変だと思い始め……という次第。

旧共産圏を舞台に、母親に対して何かを隠す--というと、すぐ『グッバイ、レーニン』が思い浮かぶが、かなりタッチは違う。こちらの作品では劇的な表現方法は一切使われていない。ハリウッド映画風の音楽を使ってドドーンと盛り上げるような場面は皆無である。そういう点では極めて新鮮に感じる。

政治体制が激変した社会のある種の鬱屈や世代の断絶は『グッバイ、レーニン』と共通しているといえる。
首都でもインフラが整備されてなくてすぐ停電やら断水が起こり、ばーちゃんが「スターリンの時代ならこんなことは無かったよ」とぶつぶつ言う。一方、孫娘は花の都パリに憧れ、母はひたすらイライラしているのが描かれる。

この物語の肝心なところは、母子があまり仲が良くないということだろう。特に祖母と母の関係は完全にねじくれている。そのような微妙な親子間の齟齬が背景にさり気なく描かれていて、その齟齬があってこそあの結末を導き出るわけだ。(ネタバレになってしまうので詳しく言えんが)

面白くて良い話だと思うし、感心もした……が、個人的に好きかというと微妙である。よって主観点は低めにした。

あと、この映画最大の話題は85歳で映画デビューしたというばーちやん役のエステル・ゴランタンだろう。これに出演した時は90歳近かったというが、若い! 映画の中のファッションもおっしゃれ~。私も見習ってまだまだ頑張ろうという気に……はならずにゴロゴロしているのが問題なのだが。反省。
孫娘役のディナーラ・ドルカーロワはハイティーンの設定なのだが、実際は四捨五入すると三十になってしまう年齢と知ってまたビックリ。若いです(@_@)


別の話になってしまうが、とある採点制の映画感想投稿サイトを見てたら、この映画について若い男性の書いた感想でこんなのがあって驚いてしまった。
それは、ばーちゃんが自分の娘(母)より息子かわいがるのは共産主義体制下で生きて来たからで、つまり娘をないがしろにし息子の方を大事にするのは共産主義思想によるものだというのである。
思わず読んでて目が点(・o・)になってしまった。母親が娘より息子を可愛がり、しかもそれを本人たちの前で公言してはばからないというのは古今東西、数千年の昔から現在まで、南極大陸の遥か彼方からアフリカの名も知らぬ小国に至るまで(多分)共通のごくありふれたことである。それが母親というものの(全部とは言わんが大多数の)本質なのだ。別に政治体制や教育は関係ない。
それをリアル中坊ならともかく二十歳過ぎの大人が分かってないというのは……( -o-) しかもイデオロギーだと思い込んでいるってのはどーしたもんか。
二十ウン歳でこれでは、この先改めて理解するという事もあるまい。日本の未来が心配である。
--なんつって、まあ日本の未来なんてどうでもいいんだけどよ。


主観点:5点
客観点:7点

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2005年8月21日 (日)

真夏に聴きたい音楽 その2

今回はロック編である。
夏になるとサザン・ロックを聴きたくなる。やはり南部→暑~いという連想があるからだろうか。ウルサイ蝉の声と拮抗できるのはツイン又はトリプル・ギターを擁したハードなサウンドがよろしいのである。--つっても、ヘビメタだと暑苦し過ぎなんだよね。

★オールマン・ブラザーズ・バンド:フィルモア・イースト・ライヴ
少し歳のいったロック・ファンなら誰でも知っているであろう1971年の名盤中の名盤である。「控えおろう、このジャケットが目に入らぬか」てなぐらいに有名だ。
二枚組のライヴ盤で十数分~二十分超の曲が3曲入っている。今聴いてみると長い即興の部分がジャムバンドっぽかったりフュージョン(当時だと「クロスオーバー」か)っぽいように感じられる。
しかし、一方で熱い、熱~い演奏である。ここにはロックの原初的なドロドロしたエネルギーがまぎれもなく存在しているのだ。

サザン・ロックの特徴はやっぱりキーボードであるにゃー、などと個人的に勝手に思ってるが、この中に収録されている『ストーミー・マンデイ』はギター・ソロの後にスーッとジャズっぽいキーボードが入ってくる。ここは何度繰り返しても聞き惚れてしまう。

もっとも、私がロックを聴き始めた頃には名ギタリスト、デュアン・オールマンは既に亡くなっていてラジオから流れてくる彼らの曲はだいぶ印象が違っていた。それに、グレッグ・オールマンはシェールとアツアツで抱き合ってるジャケットのソロ・アルバムなんか出してたしね……。(全然、バンドのことは知らずに「なんじゃ、このデレデレした男は?」などと思っていた)

今回、前から欲しいと思っていた当夜の演奏曲を全て収めた完全盤(他の日のライヴを含めて6曲多い)を買い直したのだが--うーむ、やはりオリジナル盤は曲を厳選して構成してたんだなあと変なところで感心してしまった。(^^;

ところで、実際のライヴが行なわれたのは三月であり、ジャケット写真のメンバーもみんな長袖ジャケットを着ている。ホントは夏には全く関係ないのであった。


【付記】
このアルバムの隣に突っ込んでおいたクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのCDもついでにかけてみたら、後半から音飛びがひどくなって聴けなくなってしまった。両面をひっくり返してよーく眺めてみても全く傷も何にもない。
CDプレーヤーを買って最初の頃に入手したCD(1987~88年ぐらい?)である。以前から、実際はCDの寿命は短いんじゃないかという話を耳にしたことがあったが、まさかもう寿命なのか……(-.-;) あるいは、西ドイツ製の輸入盤というのもアヤシイ気がする(根拠なし)。それとも管理の仕方が悪かったんじゃろか?

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2005年8月20日 (土)

何も認めるな 誰をも非難せよ

『美術手帖』誌9月号のヴェネツィア・ビエンナーレ特集をを眺めていたら、バーバラ・クルーガーの作品が掲げられている会場入口の写真があった。
クルーガーは短文のメッセージと関係ありそうな無さそうな図版をグラフィックに組み合わせた作品を作り続けているアーティストだが(例:「あなたの肉体は戦場だ」とか「汝の願い全てがすなわち我らへの命令」など)、その写真は斜めの遠方の位置から撮ったものなので、幾つかある文章の中からはかろうじて「神は我が側にあり、彼はそう言った」ぐらいしか読み取れない。

解説記事によると「何も認めるな、誰をも非難せよ」というメッセージもあったという。これを読んで私は、なんだか今のネット状況の一面に当てはまるような言葉だなーと漠然と思った。

えー、まあそれだけの話であります。

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2005年8月18日 (木)

迷惑メール急増中

先週の後半あたりからニフティの迷惑メールBOXには入ってくる数が急増してきた。以前にも書いたが、自分では一度も送信したことのないアドレスである。
昨日一日だけで13通。しかも、必ず自分自身が発信元になっているのが混じっていて、最初見た時は「ギャ~ッ!なりすましだー(@_@)」と真っ青になってしまった。セキュリティ関係のサイトを覗いてみたら、必ずしもそうではないことが分かってホッとした。(大量送信ではない事を偽装するために発信元を送信先と同じにして送るらしい)

それにしても前はせいぜい二、三通だったのに急に増えてきたのはなぜだろう。夏休みのバイトでも雇ってせっせと送信しているのであろうか。(狭い部屋で学生風の男たちが汗だくになって黙々とパソコンの前に座っている情景を思わず想像)

しかし「1回で15万円」とか「あなたがご指名されました」とかそんなウマイ話があるわきゃあないっ!……でも、ひっかかるヤツがいるんだろか(^^?

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2005年8月16日 (火)

早速、ウワサの「ミモレット」を食してみる

ネットを徘徊していたら、森元首相の「ひからびたチーズ」の正体についてのニュース を見つけた。

実は私はチーズに目がない。ホントはコレステロールが高いから、あんまり食っちゃいかんのだが、この記事を読んで「ミモレット」なるチーズを検索してみたらモーレツに食欲が湧きヨダレが出て来た(^Q^)
そして、仕事の帰りに近くのデパ地下へ行き、閉店間近なチーズ売り場に突入したのである! すると、そこにはオレンジ色っぽい塊が幾つかあって「ミモレット」というシールが張ってあるではにゃあの!!

すかさず売り場のオニーサンがニッと笑って「ミモレットですか?ニュースでやってた」--しまった、既に先客が大勢いたらしい。(x_x)
試食させてもらうと、色も味もレッドチェダーっぽいような気がする。あるいはエダムチーズか? 時間が経てば立つほど硬くなるものだというが、二年ものでもそんなに固いわけではなく、歯が立たないなんてことはない。
ただ、値段は高い。10グラムにつき100円の割合だ。結局、山型に切ったのを買う事にした。

そして、今、ワインをチビリチビリやりつつ食べながらこれを書いている。薄く切って食べていたら、あっという間にウン百円分食べてしまった……。

しかし、この選挙の時期に突然浮上したこの話題。「ひからびた」ものが一転「高級品」に--も、もしかして、これはコイズミ首相の壮大な「釣り」ですかっ(?_?;
や、やられた~!釣られてしまったー(>O<)

【追記】
記事リンク変更しました

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2005年8月14日 (日)

「モナリザ・スマイル」

監督:マイク・ニューウェル
出演:ジュリア・ロバーツ
米国2003年

公開当時、気になっていたが結局行けなくてDVDで鑑賞。
結果は--ロードショー料金払わなくて良かった(+_+)

時は1953年、伝統名門女子大に進歩派の女性の美術史教員キャサリンが赴任してくる。学生の皆さんは超優秀。どのくらい優秀かというと、事前にテキストを全て暗記して、全員で新任の教員をおちょくる事は朝飯前というぐらいである。コワ~。

さて、キャサリンの新しい生き方に学生たちは影響をうけ……という話かと思ったら、全然そうではなかった。見終って振り返ってみるに、彼女は全く何もしていないし、何の影響も与えていないのだ。
学生の一人はエリートと学生結婚をしたが結局離婚、別の学生は有名大学の法学部への難関を突破するもそれを蹴って結婚、容姿に自信のない学生はスッタモンダしたものの見事恋人をゲット--。
で、これらの事にヒロインは何にも関わっていないのである。彼女がいなくても、結局同じような結果になっただろう。彼女がした事は、婚約者と別れて大学の同僚とイチャイチャし、最後は大学から追放されるのだ。それだけなのである。

じゃ、一体この映画はなんなのよ?となると、50年代のお嬢様学校の風俗や人生模様を描いたもの、としか言いようがない。そういう点ではよく出来ている。
学生を演じた若手女優たちは生き生きとしているが、一方、肝心の教員役のジュリア・ロバーツはミスキャストとしか言いようがない。実質的に何もしてなくても、授業で圧倒的な威厳を持って学生の鼻面を引き回すとか、情熱的に語りまくるとか、だったらまだ説得力あっただろうけどね……。

学生の一人にヒロインは「自分の価値観や生き方を押しつけないで欲しい」と言われてしまうが、なーにをおっしゃる、教師の仕事の大半は価値観を一方的に押しつけることである。別に「女性解放論者」ゆえの専売特許ではないのだ。
逆に言えば、「女性解放論者は自分の価値観を押しつけるヤツ」というイメージを助長している話だとも受け取れる。
ということで、一見フェミニズム的と見せて、実は全く関係ない映画であった。

なお、日本の超お嬢様有名女子大では、卒業式にいかに見栄えの良い男を婚約者として連れて来て、いかに高価な車で会場に乗りつけるかを競うのが常だという話をOGから聞いたが、出身にも地位にも縁がないド貧民の方が気楽ってことですかねえ。

それから、当時最先端であったポロックの絵を見せて学生たちを驚かせるエピソードが出てくるが、イアン・ファルコナーの絵本に登場するブタの女の子オリヴィアは美術館でポロックの絵を見ると「こんなの私でもかけるわ」と、家に帰って早速自分の部屋の壁でそれを実践したのであった。これこそが正しいポロックの観賞法であろう。


主観点:5点
客観点:6点

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2005年8月11日 (木)

選挙だよ、全員集合!

Rough Toneさんのブログを拝見してたら「投票日が9.11とは・・・」という記事があって、なるほど皮肉といおうか、逆にもう笑うしかないというか、まさに衆院選投票日は「911」なのであった。

『ヒトラー 最期の12日間』の中に、ゲッベルスの「彼らは自らの意志で望んだのだ。誰も強制したわけではない」(←かなりうろ覚え)という台詞が出てきて、ドイツ国民はほとんど正視に耐えない、いや正聴に耐えない気分になったろう。何を選択するにしても、後世に同じような事を言われないようにしたいものである。もっとも、最悪なのは選びたいヤツが見つからない場合なのだが……。

しかし、ことの顛末は『ヒトラー』よりはSWえぴ3『シスの復讐』の、邪魔者排除&皇帝出現して議会を掌握--に似ていなくもない。ただし、この中でパルパティーンが皇帝となった過程はナチスが権力を握った史実をなぞっているとか。
テレビでは『仁義なき戦い』なんて言ってはしゃいで煽ってるんだが( -o-) sigh... 地上波は信用できないのでもっぱらケーブルTVで情報収集することにしよう。

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2005年8月10日 (水)

「ヴェラ・ドレイク」

監督:マイク・リー
出演:イメルダ・スタウントン
イギリス・フランス・ニュージーランド2004年

オスカーは逃したものの、この年の主演女優賞を総ナメにして話題となった映画。
良き妻、良き母のヴェラは家政婦として働きながら、平凡ながら幸せな家庭生活を送っていた。しかし、彼女は「人助け」として陰で堕胎を行なっていたのである。そしてとうとうある日、警察が踏み込んでくる--。

冒頭から戦争直後の英国庶民の地味な暮らしがよく描かれている。ヒロインもいかにも地味~なおばさんで、鼻歌交じりに家政婦の仕事を着実にこなしていく。そして、彼女にとっては中絶の作業も家政婦の仕事とあまり変わらないような調子に見える。

もっとも中絶の是非についてなどはほとんど触れられない。金持ちの娘と貧乏人では差がある、ということが描かれているだけだ。
代わりに後半の逮捕されてからの、彼女の家族の対応に重点が置かれている。ダンナさんは立派な人物で、ヴェラを支える。ダンナの弟は立派な人物で、兄を支える。娘の婚約者も立派な人物で、一家を支える。
えー、つまりここに描かれているのは固い絆を持った家族の姿なのだが、あまりに立派過ぎて現実には思えず、ほとんどSFかファンタジーを見ているような気がする。

一言で言えば良い話だが「辛気くさい」のである。イメルダ・スタウントンの熱演は疑いようはないんだけどさ。(恐るべし!英国オバさんパワー)
私のようなひねくれ者だと、ヴェラが仕置人みたいに人助けで「暴力亭主」とか「守銭奴の金貸し」を殺したりする方が面白いと思っちゃうんだが。……あれ、前にこういう映画あったっけ(^^?(さもなければ、ポックリ逝くことを願う老人を殺し回ったりとか)

さらに、私は監獄の中で鼻歌交じりに鉄格子をキュッキュッと磨いている彼女の姿を思い浮かべてしまったのであった。(^=^;
まあ、ひねくれ者には向いていなかった映画であるということで……。


主観点:6点
客観点:7点

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2005年8月 9日 (火)

真夏に聴きたい音楽 その1

暑い……(~Q~;)
休日で家でゴロゴロしていると余計に暑い。エアコンをオンにすればいいのであろうが、環境問題を考えるとそういうわけにも行かぬ……と、言いたいところだが、実際は電気代がかかり過ぎで節約モードに(火暴)

まあ、こういう時はせめて真夏向きの音楽でも聴いてやり過ごすべえ、ということで考えてみた。
暑い時には涼しげな音楽を聴くというものありだが、逆療法でいかにも暑~い音楽を選ぶというテもある。後者の路線で行ってみよう。

今日はクラシック編だ。
★ヘンデル:水上の音楽&王宮の花火の音楽/エルヴェ・ニケ指揮コンセール・スピリチュエル(Glossa )

ヘンデルが英国王の船遊びする際に演奏するために作曲したという謂れ(あくまでも事実かどうかは不明)のある『水上の音楽』と、ロンドンで行なわれた祝典で花火打ち上げのための『王宮の花火の音楽』は、双方ともいかにもイベント用に作られただけあって壮麗で華やかで賑々しい。CDではよくこの2曲をカプリングして発売され、種類も多い。

この録音の特徴はなんと当時の編成をそのまま復活したということ--つまり、総勢百人なんである。野外演奏するなら、拡声装置のない時代にはそのぐらい必要だったのだろう。
しかも、楽器も当時のものを復元。管楽器のなんかは指穴やピストンが無かったりするという。いくら欧州全土からでもこれだけのオリジナル楽器と奏者を同時に集めるのは大変だったらしい。

元々、古楽器というのはモダン楽器ほどクリアで美しい音は出ず、不安定である。しかも人数が多い--となると、仰々しくてしかも何やら全体にハッキリとしないモワーンとした印象の音になっている(もちろん、それを意図して録音しているのだが)。それだけにまさに暑苦しくて真夏向けの曲なのだ。
花火大会なんて暑くて人がゴミゴミしていて出かけるのも勘弁だが、このCDを聴きながら水上花火大会を思い浮かべて「タマや~」などと言ってみるのもいいかも知れない。

ちなみに作曲時のロンドンの花火は見事に失敗に終わり火事まで出したという……。

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2005年8月 6日 (土)

「ヒトラー 最期の12日間」

監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
出演:ブルーノ・ガンツ
ドイツ・イタリア・オーストリア2004年

2時間35分--長い。と観る前は思っていたが、そんな事はなかった。全編異様なまでの緊張感が続き、あっという間に終わってしまった。面白かった! そして感動した!……いや、感動とは違うかも知れない、何ものかをジワーっと感じた。
ただし、それは劇的なものでは全くない。そのような、盛り上がりとか起伏のあるストーリーを求める人は最初から見ない方がいいだろう。退屈するだけだ。

内容は、その題名の通りソ連軍によるベルリン攻撃からヒトラーの自殺、そして降伏に至るまでの12日間をヒトラーの秘書の目を通して描いたものである。
従って舞台はほとんどが首相官邸のやや陰鬱な地下要塞を占めているのだが、脚本か編集がうまいせいか地上の惨禍や少年兵の話を挟んでいるので飽きたりはしない。

冒頭でヒトラーは人の良いおぢさん風に登場し、後半では首都に砲撃が加えられているにもかかわらず未だに敗北を認められない老いた頑固親父のように描かれている。その周囲ではいかに「戦後」を生き残るか将軍たちが右往左往する。狭い空間で展開するその様子を、映像は手持ちカメラで淡々と追っていく。
もし、過去の作品で似たものを挙げるとすればO・ストーンの『ニクソン』だろうか。かつては最高権力を握った者が破滅に至って現実を見失い狂気の狭間へと落ちていく姿を描いていたが、それはどちらかと言えばシェイクスピア悲劇の主人公のような悲哀に満ちたものであり、没落した権力者として同情を感じさせるものであった。
しかし、ここでB・ガンツが恐るべき熱演を見せるヒトラーは、ただ淡々と冷徹に距離を置いて描写されているが故に、そんな感情移入はできない。観客はただ荒れ狂い力を失いつつある男を目撃するだけなのだ。

しかし、この映画はかの独裁者だけを中心に据えた映画かといえば、そうではないだろう。それは彼の死の以後も物語は続いている事からも明らかだ。(例えば、それは『ベルばら』がオスカルの死後もまだ引き続き革命の顛末を描いたように、である--って、この例は違うか?)
また、彼を取り巻く様々な人物の態度や反応、また敗北間近なのに続けられる市民の粛正や逃亡兵狩りなどの地上の狂気も詳細に描写されている。

思うにここでのヒトラーはブラックホールのようなものである。ご存じのようにブラックホールは巨大な恒星が寿命に近づいた時に収縮して強い重力を生ずるために光さえも捉えられて出ていけなくなる--すなわち暗黒となり不可視になるのだ。その存在は、本体ではなく周囲のガスやらX線・ガンマ線やらによって初めて観測されることになる。
強大な独裁者は既にブラックホールと化し、そこだけ暗く不可視の存在となっている。その権力を浮かび上がらせるのは周囲の献身、忠誠、愛情、そして……狂気である。

いや、マジにここで示される「忠誠」や「愛情」の美しいこと! ほとんど感涙ものだ。砲撃をかいくぐり死を賭して飛んで来た女性飛行士の決然たる眼差し、初めてヒトラーに間近に接して泣き出す看護婦、泥酔し連行される途中で銃殺されると知った時に軍服のボタンを留めナチ式敬礼をする将校(軍人の鑑!)--。
そして極めつけは幼い子どもたちを自ら手にかけるゲッベルス夫人だろう。未来を悲観し子どもを次々と殺し(またその過程をカメラが淡々と追う)、最後に夫と心中するその姿は愛情に満ち崇高でさえある。
だが、その行動の理由は「ナチズムの存在しない世界で子どもを生きさせたくない」という恐るべきものなのだ!

なるほど忠誠や愛情は素晴らしいものであり、常に美しい。だが、人は何に向けてそれを傾けるかに責任を持たねばならない。もし本人が責任を持てないというのだったら(「私は騙されていた」とか「まだ子供だった」など)、忠誠を要求した側の責任を問わねばなるまい。「彼らの心根は美しかった」--では全てをチャラにする単なる思考停止に過ぎない。
つまり、自らの死後も相手に死という献身を要求するような相手に忠誠を傾けるとはどういうことなのか、果たしてそのような相手に忠誠を誓う価値があるのか、という問題を無視することはできないのだ。
そしてこの映画では、「忠誠」や「愛情」を淡々と描写すればするほどその狂的な部分が浮かび上がり、それを傾ける対象の存在の空洞化が明らかになってくるのであった。

しばしば、独裁者を人間的に描き過ぎている、というのがこの映画の致命的な欠点である、とする意見を目にする。だが、そのように主張する人は、むしろ世界史に名を残す悪人が自分と同じ人間であるという事実に耐えられないのではないか。怪物はいかにも醜悪で怪物然としていてくれれば、自らとは違うと安心できるだろう。むしろ、額に角を生やし、醜悪なケヅメやシッポでも持っていたらどんなに良かったことか!
しかし、残念ながら人間はいかような怪物にもなれるのである。この耐えがたき普遍的な真実を示しているのだ。従って、この作品の本質は「不愉快」なのである。


さて、B・ガンツ以外の役者もみな好演。女優陣も素晴らしい。特にゲッベルスの奥さんコワ過ぎです。(>_<)
ただ、軍服姿の男が多数出没するのでなかなか判別が難しい。名前出されてもワカラン状態なので、事前学習が必要だろう(パンフは大したことは載っていない)。以前、教育TVで『ヒトラーと五人の側近たち』というのを見たのだが……忘れた。

最後に戦争映画としての評価を書いておこう。
「戦争映画」というのは好戦・愛戦・反戦・厭戦を問わず一定の基準というのがある。この作品は完全に合格だろう。銃撃戦はほとんどないが、砲撃のドドーンという音や火柱、暗黒の廃墟と化したベルリンの街並み、定番・野戦病院の阿鼻叫喚(正確には「野戦」ではないのだが)、どれをとっても見事である。

観客は事前に「白髪のジイサンばっかり」という噂を聞いていたのだが、そんなことはなくて老若男女さまざまであった(まあ確かに白髪率は高いが)。あと、一人で来ている客の割合は異様に多かった。ご家族・アベック向けではないことは確かだろう。もっとも、若いカップルもいたけど……デート・ムービーには最悪じゃないのか?


主観点:9点
客観点:9点

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2005年8月 4日 (木)

平林たい子に脱帽

ネット上でよくネタになっていた「非モテ男・女」の議論だが、初めは面白がってよく読んでいたんだが、段々うっとーしくなって来て読むのがウツになってしまったので、最近は目にしないようにしている。

結局のところ、「このようにもてないオレ様・ワタクシをもてないままにしておくアンタが悪い」という不毛な結論に全て行き着いてしまうように思えたからだ。(違うかも知れんが、それを確認するような気力はもうない)
それから「非モテ」とか「負け犬」とかカテゴリー勝手に作ってその中に分類して良しとする風潮もなんかイヤ~ンなのである。そんなカテゴリーは血液型や星座占い同様、自らを肯定的に確認する目的のためのものでしかないのだ。

そんな中で面白かったのが偶然目にした、「エキサイトブックス」の中の連載コラム「非モテの文化誌」である。
『フランケンシュタイン』の怪物を「元祖キモメン」と認定した回も爆笑したが、「プロレタリア非モテ女」平林たい子の巻は特にすごい。
平林たい子なんて日本文学全集の背でしか名前を見てない、というのが正直なところであるが、こんなにオソロシイ話を書いていたとは知らず……。

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(前略)駅にぎっしり並んでいるサラリーマンを下の道路から眺めて、よく思ったもんだわ。あれだけ男がいるんだから一人ぐらいは何とかなりそうなもんだがなあ――なんて、ね。ところが、みんな、それぞれきまっちゃってるんだから、どうにもなりはしないのよ」

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一応、日本近現代文学を学んだ人間ではありますが、自分の無知に恥じ入るばかりであります、ハイ。
その他、ムーミンにドストエフスキーなど面白いネタばかりである。「非モテ」な皆さんは必読ですかねえ。

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2005年8月 3日 (水)

TVドラマ「OZ オズ」終了

スーパーチャンネルで放送されていた米国のTVドラマシリーズの『オズ』が終了した。
このドラマは1997年から始まった監獄ものである。内容は恐ろしく、暴力的で、救いのない弱肉強食な話で、日本での放送では冒頭に注意書が入るくらいだ。
おまけに、HBOという有料チャンネルの番組なもんで放送コードとかは関係ないらしく、モロ出し映像(注-男の、である)が頻繁に出現する(当然日本ではボカシが入る(^^;)。

物語の発端は、弁護士が酒酔い運転で子どもをひき殺してしまった罪で、通称オズことオズワルド刑務所に入所してくるエピソードから始まる。その中の「エメラルド・シティ」という区画に入れられるのだが、もちろん名称とは裏腹に周囲は極悪人ばっかりで、たちまちに彼はオソロシイ目に延々とあうのだ。その悲惨な運命は正視できないほどである。ギャーッ(>O<)

一方で、理想主義者の刑務官やカウンセラーもいる--が、彼らの善意はことごとく裏目に出る。さらに人種や宗教、主義主張が絡んで様々な対立が生じ、破滅へと向かっていく。
あまりにも個性ある登場人物たちに先の見えない展開、そして暴力と愛憎と虚無--。
正直なところ、『オズ』の前ではこれまでのム所ものの映画や小説などすべて色褪せて見えるほどだ。もう、このジャンルでこれ以上のものは出るまい。

で、終わってしまったのだよ……遂に。
終盤では人を殺し過ぎの観があったが、それでも幾つものエピソードに決着がついたのはよかった。ただ、最終回直前に登場したゲイの「夜の帝王」(にして自称童貞)の活躍(もちろん悪事)をもうちょっと見たかった、残念。

こんなドラマは絶対に地上波では見られないので、ケーブルテレビ入っていてよかったとつくづく思う。

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2005年8月 2日 (火)

「僕はラジオ」

監督:マイク・トーリン
出演:キューバ・グッディング・Jr.、エド・ハリス
米国2003年

公開時に見に行けなかったので、DVDで鑑賞。
いや、正確には「見に行けなかった」のではなく「見に行かなかった」である。予告があまりに感動実話路線を強調していたので、なんとなく敬遠してしまったのであった。

実際は地味な話である。高校の運動部主任でアメフト部のコーチを担当している教師が、毎日学校の周辺をフラフラしている知的障害者のラジオという若者に声をかけ、部の練習を手伝って貰うようにする。しまいには授業中の教室に入れ、校内のアイドル状態になる。
しかし、当然横槍が入り、部の成績がパッとしない事もあって、外部との軋轢が大きくなってくるのであった。
毎回、試合が終わった晩に近所の床屋に父兄やら地元のウルサ方が集まり、コーチがそこに顔を出すのである。惨敗すれば顔も出せないが、勝てば笑顔で迎えられるというプレッシャーだ。コワイねー。

観る前は学園ものかと思っていたが、生徒の話はあまり出て来なくて学校運営をめぐる(ひいては「教育」に関する)「大人」の問題が中心だった。TVドラマの『ボストン・パブリック』系だ。
そちらに重点が置かれたたせいか、ラジオが「地域に愛される」ようになったという経過があまりよく分からなかった。DVDの未公開シーンにあったクリスマスのツリーの前で子どもを助けてやるエピソードを入れた方が良かったように思う。
代わりにアメフトとバスケの試合場面は簡潔だが迫力があった。

涙流出の大感動場面は母親に関して混乱したラジオをコーチが慰める部分だろうが、最も圧巻なのはその後でコーチが自分の娘に、なぜラジオのことをこれほど構うのか告白する場面だろう。その理由は娘同様、観客がずーっと疑問に思っていたことなのである。
この告白によって冒頭の学校のグラウンドのフェンスの意味が鮮やかに判明するようになっているのはお見事だ。
それまではラジオ役のキューバ・グッディング・Jr.の演技に目を奪われるが、ここでは、さすがエド・ハリス!と言いたくなった。

この理由づけについては監督も脚本家も色々どうしたらいいのか悩んでいたらしいのだが、実話のご本人から話を聞いてそのまま使ったらしい。つまり、ここでも「事実は映画より奇なり」なのであった。
結末もスポーツものとしては意表をついたものだった。

舞台は1976年だが、個人的には私がFENで米国産音楽を聞きまくり始めた頃である。バックにさり気なく流れるスピナーズやアイズレー・ブラザーズ、さらにはバックマン・ターナー・オーバードライブ(懐かし過ぎだよ!)に思わず懐古の涙が出てしまった。

この作品の後、米国ではコーチを主人公にした映画が二本(それぞれビリー・ボブ・ソーントンとサミュエル・L・ジャクソン主演)がヒットしていて、それも観たくなった。だが、日本ではどれも単館ロードショーか限定公開、というのはどーぉしたことか?日本じゃスポーツものは需要がないのか?
この映画にしても、中心の役者たちがオスカー候補常連だし、デボラ・ウィンガー久々の復帰作という話題もあってか、しばらく興行成績ベスト10圏内にいたぐらいの人気なのに、なぜだっ?


主観点:7点(あえて泣かせる映画は減点1)
客観点:7点

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