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2005年9月

2005年9月30日 (金)

レコードの溝の間に潜む何ものかについて

学生の頃は金が無かったので、秋葉原から御茶ノ水まで歩いて(秋葉原までは定期があった)中古レコード屋を漁りに行った。当時は輸入盤は高くて3000円ぐらいしてたので、安いレコードや日本で廃盤になってしまったものは中古で漁るのがもっぱらだったのである。(注-もちろんCD出現以前のヴィニール盤の頃の話)

そんな風にしてレーナード・スキナード Lynyrd Skynyrd のアルバムも中古で買った。その中古盤は既に散々聴かれたのかジャケットも盤面もヨレヨレしていたが、私はさらに何十回も聴きまくった。きっとレコードの溝がすり減って深くなった事だろう。(^o^;

後にCDが普及するようになってからは、また彼らのアルバムをCDで買い直した。ヴィニール盤で揃えて持っているにもかかわらずCDでまた揃え直したというのは、彼ら以外はランディ・ニューマンと、このブログ及びハンドル名の由来となっているスティーリー・ダンぐらいである。

しかし、それほどレーナード・スキナードのことを好きだったにもかかわらず、当時から長い事ウン十年にも渡って溶けない疑問があった。それは--
「どーして、ファーストからサード・アルバムは大好きなのにそれ以降の作品は今イチに思えるのであろうか?」
ということだった。

彼らは米国南部出身のいわゆるサザン・ロックに分類されるバンドだ。バンド名を冠したタイトルのファースト(1973年)を出して以来、一貫して豪快なギターを売り物にしたコシのあるハードなサウンドが特徴であった。それはどのアルバムでも変わりはない。しかし、どういう訳か「好きだーっ \(^o^)/」と言えるのは三枚目までで、四枚目以降は「ビミョ~」になってしまうのであった。どう聴き比べてみても、曲作りといい、サウンドといい、演奏といい、それほど変化はないと思えるにも関わらずだ。
データ的にはプロデューサーがそれまでのアル・クーパーからトム・ダウドに交替した、ということぐらいしかない。でも、実際の違いはド素人の私にはよく分からないのであった。

さて「ミュージック・マガジン」誌9月号を見ていたら、そのアル・クーパーのインタヴューが載っていた。長い事活動をしていなかったが、なんと日本の方が再評価されていて、
それがきっかけでまた現役復帰したのだという。
そのインタヴュー記事の最後の方にレーナード・スキナードの話が出てくる。それによると、二枚目のアルバム(記事では「最初のアルバム」となっているがアルの勘違いだろう)の名曲「スイート・ホーム・アラバマ」でアコースティック・ギターを入れるように進言したのは彼であり、またあの印象的な女声コーラスを後からダビングして聞かせて、使うようにバンドに納得させたということもやったとの事だった。

そもそも「スイート・ホーム・アラバマ」はニール・ヤングが南部男をけなした曲に対する「よそ者が何を言うかね」というアンサー・ソングだが、女声コーラスやアコースティック・ギターによって何となくノンビリした諧謔的な響きになっている。それをアル・クーパーが作り出していたものとは意外であった。
 

彼らが曲を聞かせてくれると、僕の頭の中には完成したレコードが聞こえる。それは神から授かった才能なんだ。

米国のロックバンドの多くはレコード・デビューの前にクラブなどの演奏で経験を積んでいて、既に自分たちのサウンドを確立しているはずである。特にライヴやってなんぼのハードロック系のバンドなんかは、ライヴの生きの良さをそのまま伝えるのが録音の主な目的だろう。(まあ、中にはレコードと違って現物聞いたらあまりにも下手くそなんで、あらビックリというパターンもあるが)
しかし、それでもなお実際のバンドの出す音とレコードの溝に刻まれる音の間にある何ものか--目には見えず耳にはしかと聞き取れないモヤモヤした何ものかが存在し、それを金魚すくいのようにサッとすくい上げて最良の形にするという作業を、優れたプロデューサーは成しうるものだったのだ。そして、そのサウンドのわずかに思える差がプロデューサーの個性の違いとなるのだろう--。

というわけで、ウン十年越しの疑問がこのインタヴュー記事でようやく解けてスッキリしたのである。

なお、レーナード・スキナードって何それ(?_?)という人はこちらのネットラジオ局でヘヴィ・ローテーションでかかっているので聴いてみるといいかも知れない。「JUKEBOX」のコーナーからは聴きたい曲をリクエストもできる。ただ「クラシックロック」と言っても全体的にかなりハードロック寄りのようなので苦手な方はご注意。

それにしても、「スイート・ホーム・アラバマ」の入っている「セカンド・ヘルピング」ってなにげに名曲ぞろいのアルバムであるなあ--と、今回久しぶり(ウン年ぶりぐらい)に聴いてみて改めて感じた(ジャケットのデザインは今イチ……今ゴ今ロクであるが)。

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2005年9月27日 (火)

「エロイカより愛をこめて 32」(青池保子)

秋田書店(プリンセス・コミックス)
2005年

皆様、少しお騒がせ致します。m(_)m

エロイカ、キタ━━━(@∀@)━━━!!!!

失礼致しました。_(_^_)_

いや、それだけなんですけどね(^^ゞ
Qって久々に出て来て、完全に忘れてました。おかげで何冊も遡って探す羽目に……(トホホ)。
ここしばらく、往年のジェイムズ君のボロボロさの程度があまりひどくなくなっているような気がするんだが、さすがにやり過ぎという事で修正したのでありましょうか。
もっとも代わりに少佐の部下の勤勉度はかなり低下しているようだが--。

表紙裏のケルトの渦巻模様の中にジェイムズ君とボーナムがさりげなく入っているのに笑った。
次が出るのが待てんぞ~。

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2005年9月26日 (月)

やなぎみわ「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」

会場:原美術館
2005年8月13日~11月6日

やなぎみわは「エレベーターガール」のシリーズで一躍注目されたアーティスト。ツルツルピカピカした近未来的イメージの都市の光景の中で制服を着た女たちがしどけないポーズで座っている、というような合成写真のシリーズは強烈な印象を残した。

さて、今回新しい「寓話」シリーズ公開とのことで、久し振りに品川の原美術館に行ってみた。ゆるやかな長い坂道が結構キツくて、「ありゃ、こんなに遠かったっけ?」などと思ってしまったのは歳のせいであろう。

入口を入ると最初の部屋では、大きなテントみたいのがぶら下がっていて、その中に入って映像作品を見るようになっている。これは「砂女」あるいは「テント女」のシリーズで、客はあたかもテント女になったかのようにテントをすっぽり被った状態で外界を覗いている、という映像を見るのだ。
外の廊下にはそのテント女の写真が展示されている。こちらのブログに掲載されているようなやつだ。このテント女もまた強烈なイメージで、安部公房の「箱男」みたいでもあり、またイスラムのブルカのようでもある(手足が出ているから本当は違うが)。
二階には同じシリーズの映像と写真作品がある。「砂女」というビデオでは、少女が昔話風に祖母から砂女と出会いそれを追いかけていく話を聞かされ、その存在の謎が明かされさらに謎が深まるのである。
ここでは「私」こと少女と祖母と砂女が入れ子状態のように入れ替わっていき、スペイン(だっけ?)の荒野の風景とあいまって、引きこまれるものがある。

一階には「寓話」のシリーズの写真作品が展示。おなじみの童話がイヂワルで残酷な悪意に満ちて変換され、それを少女たちが演じている。コワい年老いた魔女なんかも女の子が仮面を被ってやっていて、ここでは少女と老女が等しいものとして提示されているのである。
どのぐらいにイヂワルかというと、シンデレラの足指を姉と継母がペンチかなんかで押し広げようとしたり、白雪姫の林檎を差し出しているのも受け取っているのも両方とも老女といった次第である。イヂワルな話が好きな私はこういうのを見ていると、嬉しくなってニヤニヤ笑いが止まらなくなってしまうのであった。

不思議なのは、老女=少女というのは結構よくあるコンセプトだと思うが、老人ならぬ老男=少年というのはあまり見当たらないように思える事である。老女と少女--女と「老い」の方が親和性があると考えられているのだろうか?

他に、ご無沙汰している間に増えた常設展示作品の「This Water Unfit for Drinking」を見る。元々、私邸だった原美術館の特性を生かした作品。ドアを開けると、水道のパイプやら電線が通ったタイル張りの壊れかけた竪穴に造花が飾られている。廃墟っぽい感じがとてもス・テ・キ(*^-^*)

最後ににアートショップでカタログを……買おうと思ったが、内容に比して値段が高かったので止めて、代わりにテント女のポスターを買った。「ウチに帰ったら壁に飾ろうっと」とスキップして帰ったのであった。

【関連リンク】
やなぎみわ公式サイト
http://www.yanagimiwa.net/

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2005年9月24日 (土)

「シンデレラマン」

監督:ロン・ハワード
出演:ラッセル・クロウ、レネー・ゼルウィガー
米国2005年

大恐慌時代に実在したボクサーの話を、アカデミー賞受賞歴のある監督・男優・女優トリオが作った--となれば、初めからこれも候補に上がるのは確実か!ってな感じの感動作である。

かつては売れっ子ボクサーであったジムは大恐慌の波と身体の故障のため、今や港湾作業の肉体労働でかろうじて日銭を稼ぐ毎日。子どもは泣き、妻は困り、電気ガスは止められそう。さらにボクサーのライセンス剥奪の憂き目に……。と、その時一発逆転の奇跡が起こったのであーる。

ここに描かれているのは妻子を抱えた中年男の「セカンド・チャンス」であり「敗者復活」である。どちらかというと、今の日本に向いているような内容だ。
主人公の誠実さと家族愛が強調されていて、また貧困生活の描写も際立っている。特に、ボクシング業界の人間が集まるクラブ(?)に行って物乞いをするという情けない場面は圧巻である。見ているこっちまで居たたまれなくなって、映画館の座席の上でちぢこまってしまった。
こういうのを見ると、やはりラッセル・クロウは才能ある役者だと思わざるを得ない。相変わらず芸能面のゴシップ欄を賑わしているが、それを差し引いてもおつりが来るほどだろう。

そんな状況で再起する主人公の姿は確かに感動的である。が、いかんせん真っ向勝負過ぎて、こちらとしてはひねった技も見せて欲しくなってしまう。
というのも、ここにはかなり長い試合と家庭のシーンしかないのだ。実話にも関わらず、主要なセリフのある人物は限られていて他に彼のマネージャーと妻ぐらいのもんである。失業者の友人も登場するが、ややぞんざいな描き方だし。
家庭のシーンは毎回同じような印象でくどくて、この部分をもう少し短くして他の描写を増やせばよかったのにと思ってしまう。(例えば、市民の応援ぶりとか)

一方、ボクシングの試合場面はスゴイ迫力! クレーン使ったり接写したり様々な手を使ってそれをうまく編集している。こちらは長くても気にならないほどだ。(もっとも、実際の試合はこんなには面白くないのが事実である。互いに様子を窺うだけで、ちょっと打ち合ったかと思うとすぐクリンチなんてのを15R続けられたら、「バーロー、金返せ」と座布団を投げたくなる)

役者は、マネージャー役のP・ジアマッティも良かった。助演賞候補の線もありか? 代わりに妻役のR・ゼルウィガーは見ているうちに段々うっとーしくなってきてしまった。内助の功という訳でもなし、もちろん悪妻愚妻でもなし、なんだかどっちつかずのキャラクターである。これは彼女のせいというより、脚本のせいか。子役は末の女の子が可愛かったですよ(*^-^*)ハイ。

二時間半の長丁場を長さを感じさせずに見せてくれたのは感心はするが、単調過ぎて物足りない感がぬぐえなかった。


主観点:7点(試合場面にプラス1点)
客観点:6点

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2005年9月23日 (金)

上野千鶴子×香山リカ トークセッション

場所:ジュンク堂池袋店4階
2005年9月16日

【事前のご注意】
最近とみに記憶力の衰え甚だしく、さらに(これは昔からですが)メモした字は小汚くてほとんど判読不能なので、ここに書かれた内容をマルマル信じないように、さっ引いて読むようにお願いします。

上野千鶴子は黒のチャイナ風ブラウスにスパッツというシックないでたち。対する香山リカはパーカーにジーンズというラフで若目の格好。トレードマークのメガネはなし。
さて、選挙直後という事もあって内容は香山リカの造語である「ぷちナショ」が中心であった。

○コイズミと支持者は、ヨン様とファンの関係同様、一対一の関係だと信じている。つまり、私の事をよく理解し、私だけを見てくれている人だと見なしている。
○オンリーワンを求める背景にはバブル後の先が見えない不安がある。一方で根拠のない全能感も人々は持ち、それは負け組に入らない、入りたくないという気持ちであり、その全能感と不安の間を行ったり来たりしている。
不安を埋めるために、ニッポンを背負う強いリーダーにコミットしたいという願望が生ずるのだ。
○「ぷちナショ」はサブカル系パンク系のナショナリズムであり、確信を持っているのではなく、最後のよすがとして初めて「日本」を発見する。従来のナショナリズムとは違う。
香山リカが雅子サマ本を出した時には彼らからの反応はなかった。(皇室など従来の右翼的なものには興味がないようだ) しかし、イシハラを客観的な立場から少し批判するような事をテレビで言ったら批判がドーッと来た。「韓国へ帰れ」などと言われる。白か黒かしか頭になく、中立な立場を認めない。
○「白か黒か」の世界観は、「万能感-不安」の中間のない状態のままで公の事まで考えていることで生じている。しかし、グレーゾーンの存在に耐えるのが大人であろう。
○香山リカの同世代(宮台真司など)はこのような言論状況下では、沈黙するか転向するかどちらかである(湾岸戦争は衝撃的な事件で、そこで対応が分かれた)。大塚英志は発言を続けているが、そういう者の発言の場自体がなくなってきている。

○日本は中国・米国と同様の、上昇志向(ホリエモンや女性刺客のような)が強くなり、上下の階層の差が拡大しつつある。
○犯罪についての言説で、自分も犯罪の加害者になるかも知れないという想像力が全く働かない。昔だったら、どんな凶悪事件でも「社会」の責任を問うたものだが、今は「心理学化する社会」となって全てを個人の心のせいにしているようだ。

◆香山リカは「ナナ」本を出しているが、なんと上野千鶴子も「ナナ」にはまっているそうな。
◆前日あたりにニュースとなって駆け巡った「中村うさぎがデリヘルを体験」という話題も出た。彼女は自分の価値を直接に確認したくてデリヘルをやったのだが、売春しなくても自己肯定感が得られるようにした方がよいとのこと。

最後は会場との質疑応答があったが、質問者に対し「いや、あなたの場合は××です」とピシッと断言する上野千鶴子に対し、香山リカは「ふむふむ、あなたの話聞いて今こう思ったんですけどね」という対応で、期せずして教員と精神科医という職業の差が出たようなのが面白かった。(^=^;

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2005年9月22日 (木)

バッハ・コレギウム・ジャパン第70回定期演奏会

内容:ソロ・カンタータ1
会場:東京オペラシティ コンサートホール
2005年9月15日


 今回はソロ・カンタータということで、合唱はなし。歌手はキャロリン・サンプソン(ソプラノ)、ロビン・ブレイズ(カウンターテナー)だけである。

一曲め(BWV35)はロビン君登場。舞台上にはなんとオルガン二台にチェンバロ--と鍵盤楽器が勢揃いした珍しい布陣。鍵盤は普段は通奏低音を担当しているのだが、この曲ではもう一台のオルガンが独奏楽器的に活躍するのであった。パンフの解説によると、バッハは教会ではオルガンを弾かずに指揮をしていたが(オルガンの位置からは合唱隊が見えないため)、合唱隊がいないこのような曲では弾き振りをしていた可能性があるという。
というわけで、もう一台のオルガンは指揮者の鈴木雅明が弾いていた。器楽のみのシンフォニアはテンポがいい曲で、バッハも当時こんな風にガシガシ弾きまくっていたのかなあ、などと想像してみるのであった。
ロビン君の歌とそのオルガンがからむ曲では、ウット~リという感じで客席の女性客の視線と耳を一身に集めていたのは間違いない。

二曲め(BWV51)はC・サンプソンがソリスト、さらにトランペットの独奏も入り、かなり華やかな感じである。前回の公演で彼女が歌ったアリアで涙目(;_;)になってしまったことはヒミツである。が、今回もまた!ここだけのナイショの話ではあるが、やはり第三楽章のアリアで泣いてしまったのであーる(T^T)
もう、声といい抑揚といい強弱の付け方(特に最終節の)といい、素晴らしいの一言。これを泣かずしていられようかっつーの!というぐらいだった。感動です……。

と、客席がいよいよ盛り上がったところでキターーーーッ! なんとつい先日発見されたばかりホヤホヤのBWV1127を急きょ本邦初演である。
この曲はバッハには珍しい「有節歌曲」……ってなんだと思って調べたら、どうも旋律が展開しせずサビの部分もない、同じ節回しが延々と続くものらしい。それを間奏を挟んで12回繰り返すのだという。しかも、それらの冒頭の歌詞は当時の雇い主・ワイマール公の座右の銘という毎回同じもので始まるのだ。全部演奏すると50分にもなるそうな。
ほとんど出ずっぱりのソプラノ歌手も大変だが、完全に終始弾き続けるチェロはもっと大変であろう。
さらにこれはワイマール公の誕生日を祝して作られ、歌詞の中に彼の名の文字が折り込まれているという、完全にヨイショのための曲でもある。
--ということで、今回は四つの節だけを演奏するという短縮盤であった。
感想はというと、いや美しい曲なんだけどね……いくらなんでも12回繰り返してたらちと飽きるかな、などと思ってしまった。
この曲はガーディナーが録音してCDが発売になるようだが、BCJも完全録音する予定だという。

後半はペルゴレージの名曲『スターバト・マーテル』を晩年のバッハが編曲したBWV1038。原曲は当時の音楽最先端の地イタリアからの最新流行の形式による曲、それを既に「古臭い」なんて言われちゃってたバッハが編曲したというのは、誰かからの依頼によるものらしいが、そう思って聴いてると、なるほど彼が自分で作曲してたらこうは作るまいというような所が多かった。単なる気のせいかも知れんけど。
いずれにしろ、ピカピカ輝いてる華のあるソリスト二人の歌声は楽しめたのだけは確かである。

なお、コンサートの最中は気付かなかったが、バッハの新曲初演をフジテレビが取材に来ていた。数日後の夜のニュースで放送されたが、ロビーで観客に感想を尋ねていたのはバッサリとカットされていたもよう。

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2005年9月18日 (日)

タブラトゥーラ 千客万来2005!!

会場:浜離宮朝日ホール
2005年9月5日

タブラトゥーラは踊る古楽集団。中世・ルネサンス時代の楽器や民族楽器を使って古い歌曲やらアヤシげなオリジナル曲を演奏するのである。現在は五人組だ。
団長はリュート弾きのつのだたかし。他はパーカッション、ショーム/リコーダー、フィドル、ビウエラ(ギターの仲間)という編成である。

もう彼らのコンサートは何度も行ってるが、なんと今年ははや結成二十一周年ということで、以前ほど派手なアクションは出来なくなったのか、年相応に(?)前半から中盤は静かな展開であった。
また、是枝裕和監督の新作映画(時代劇)の音楽を担当した話なども出た。

休憩後、恒例の波多野睦美のヴォーカルが入って、ますます抒情的かつロマ~ンティックな感じに。
しかし、終盤、元の編成に戻ってからは一転にぎやかでやかましい曲で盛り上がった。つのだたかしはラウタというトルコの楽器をまるで津軽三味線のように弾きまくり、踊り弾きもデターッ!という感じだったが、客席は完全にブチ切れる所までは行かなかった。そんな中でアンコール曲で客を強制的に立たせ、さらには自分で「ブラボー」歓声をあげるという詐欺的(^^?)行為まで行い、盛り上げようと涙ぐましい努力を試みる団長の姿には誰しも感動したであろう。

やはり会場がそぐわないのでは。浜離宮朝日ホールでは静かにクラシック鑑賞という感じで、客は立って踊る気にはなかなかなれない態勢になってしまっているのだ。これがライブハウスとか、ロックの殿堂(笑)中野サンプラザや、踊ると天井からアスベストが降ってくるというウワサの渋谷公会堂なら文句なく盛り上がったはずだ。

アンコールが一曲終了すると、客は一斉に会場から外へと急ぐ。やはり!恒例のロビーでの演奏が始まった。それを輪になって取り囲んで聞く。途中の休憩時間でもすごかったが、ここでもみんな競ってケータイで写真を取りまくる。フィドルの田崎瑞博は踊り弾きしながら、客と一緒に記念撮影するというサービスぶり。
去年のコンサートではそんなことは無かったと記憶しているから、ここ一年の間にいかにカメラ付きケータイが普及したかという証拠でもあろう。いや、だからってどうということでもないんだが……。

というわけで最後は盛り上がって、みな満足であった。
次回はフラメンコをやるということで、これも楽しみである。

ところで、タブラトゥーラの舞台でのつのだたかしを見ると、いつもあの、ますむらひろしのマンガの主人公猫ヒデヨシを思い出してしまう。なんとなく、外見というか、体形というか、着ている舞台衣装もそれっぽいというか、似ているんである。あ、もちろん性格は全然違う--違うはずである。性格まで似ていたら大変だ~っ!(大汗)
それとフィドルの田崎さんがまた、狂的ヴァイオリニストにして床屋の親方である唐あげ丸にクリソツなのだ--っても、こちらは外見じゃなくて楽器の弾き方がね。
となると、残る3人は欠食ドラ……あわわ(^o^;いやとにかくあの「アタゴオル」をいつも連想してしまうのであった。

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2005年9月15日 (木)

沈黙のスパイラル

ウツだ……。

正直に言おう。「干からびたチーズ」ことミモレットで騙された恨みを晴らすことはできなかった。渾身の気合いをこめてエイヤッと投票したんだけどねえ……。やっぱり一票だけじゃ力足りなかったようで。
だが、食い物の恨みは恐ろしいのであ~る。この恨みはゼッテー忘れない! いや、ミモレット自体はおいしかったんだけどさ(^^ゞ 騙されたことは墓の下に入るまで忘れねーのよ。

愚痴はこれくらいにしておいて--
選挙の前夜にケーブルテレビで「葉千栄のNIPPONぶった斬り」という番組を見た。その日は姜尚中、小森陽一、水島朝穂、草野厚、という面子で選挙のことを討論していたのだが、小森陽一の話の中に「沈黙のスパイラル」というのが出てきた。
「沈黙の螺旋(スパイラル)」というのは通常、圧倒的な多数派が存在すると少数派は沈黙してしまう、というような現象のことを指すらしいのだが、この時の話に出てたのは少し違う。(と言っても元ネタは同じ研究によるものなのだろうが) 恥ずかしながら全然知らなかったことなので、とても興味を引かれた。

どんなものか、ちょうどうまく説明してるHPを見つけたので引用させていただこう。
こちらの「民主主義のパラドックス」という章から(注-このページは非常に文章の量が多いのでページ内検索をかけて探さないと見つからないと思われるので注意)
 

その本質は論理による獲得ではなく、心情による動員だ。ナチスの宣伝戦を総括したゲッペルス宣伝相の戦略は「沈黙のスパイラル(螺旋)」といわれる。第1段階:ファナテイックな断定的な大声で反論を許さない→第2段階:その主張の中身の吟味を許さない→第3段階:敵・味方の二分法による選択の強制→第4段階:大衆動員と異端の排除、恐怖による吸引である。

このような手法をコイズミが使っているというのだ。確かにそのまんまである。やはり過去の事例を研究したのであろうか。
なお、ついでに人々がなぜわざわざ自らのクビを絞めるような方向を選ぶのかという理由も同じ記事に書かれているので引用させて貰おう。
 

真実を言う論理は、疲れ切った労働の後ではめんどくさく単純で一刀両断する言い方に惹きつけられる。それでも論理を云う人には、感情的な反発と敵意によって自分の不安を隠蔽しいじめにかかる。(中略)遂にはデモクラシーそのものへ敵意に転化して、独裁を自ら期待するようになる。

  (誤表記とおぼしき部分を訂正)

ムムム。ウツである。暗い……。

さて、テレビ番組の方に話を戻して4人が選挙後の展開の予想として挙げたのは次のような事態である。
*今回の選挙は国民投票のリハーサルである。しかし、国民投票は毒薬でもある。
*自民党はぶっ壊れるが、官僚制はそのまま継続する。
*次の参院選は憲法改正のみを焦点とした国民投票的選挙になる。
さらに
*郵政問題は実際には外交・経済・政治が全て一体となり連動した問題であるにもかかわらず、マスメディアはそれを全く報道せず、国民はそれを理解してないまま選択しなければならないのは大きな問題である。

……ということで、結果が出たわけだ。
ますます暗い。もうダメだ~(x_x)

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