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2005年10月

2005年10月30日 (日)

「驚愕、メランコリー、ファンタジー!」:イタリアの過激な若手グループを歓迎す

演奏:アルコメロ
会場:ハクジュ・ホール
2005年10月12日

昔、アーノンクール指揮のヴィヴァルディの『四季』を聴いた時、あまりに派手で騒がしいので「なんじゃ、こりゃー」とビックリして、一度聴いただけでレコードをしまい込んでしまったことがあった。当時はイ・ムジチなぞを好んでマッタ~リと聴いていた頃である。

だが、あれから××年……F・ビオンディ&エウローパ・ガランテの『四季』が出て評判になり、イル・ジャルディーノ・アルモニコ演奏のを聴いては「こ、こいつは過激だ」と驚き、さらにその後もイタリア方面から過激な演奏が次々と出てきたのであった。そんな中でアーノンクール盤を久し振りに引っ張り出してみると、どうして昔はこれをそんなに騒がしいと思ったのか不思議なほどに、フツーな演奏である。(あ、もちろんイ・ムジチに比べれば少しウルサイかも(^^;) いやはや、慣れというものは恐ろしいもんだ。

さて、今またそんなイタリアより若い演奏グループが来日。その名も「アルコメロ」だ。「そ、そんな奴ら知らんぞ(汗)」と焦った方、ご安心下さい。私ももちろん、これまで名前さえ聞いたことありませんっ(キッパリ)。コンサートで配るチラシに入っていて、演奏曲目が面白そうなので行ってみようかと思ったのである。あと、客演の日本人のリコーダー奏者の太田光子が、以前行ったコンサートでなかなか良かったというのもある。

さて、アルコメロ、実際に見てみると皆さん若い! 特に第2ヴァイオリンとヴィオラのにーちゃん二人は細身で色白でメガネかけてたりしてまるで学生みたい。第一ヴァイオリンの女の人もやや長めの金髪を二つに分けてお下げにしてて、やっぱり若く見える。

曲目はヴィヴァルディの協奏曲が中心。おなじみの曲でも「ええっ、これがあの曲か」と驚くほどイメージが違っているのもあった。こうも違ってしまうのかとまたも感心。こいつが「あーてぃきゅれーしょん」というヤツでしょうか。
太田光子もソプラニーノ・リコーダーという短くて細い高音用のリコーダーを自在に操って、ナリはチッコイが音はデカい、みたいな感じで素晴らしかった。
そもそも全席自由席で、客もあんまり入っていなかったが、聴きに来たかいはあったと思えた。
ただ、手放しで「良かったー」 \(^o^)/と言えないのは、チェロが今イチに思えたからか。

ともあれ、これからも色んな国の過激な若手グループに来てもらいたいもんだ。(もちろん過激な古参グループも歓迎よ)

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2005年10月28日 (金)

「運命じゃない人」は今後に期待

監督:内田けんじ
出演:中村靖日
2004年日本

珍しく邦画を見に行った。もしかして「ハウル」以来か? 実写の邦画となるともっと……(汗)。低予算のインディーズ映画ながら面白いと評判、カンヌでも賞を貰ったそうな。あまりに評判いいんで、どんなもんかいなと見に行ったのである。

恋人に振られて落ち込んだままの、お人好しながらサエない男が、友人の強引なとりなしで一人の家出娘と知り合う。しかし、あっという間に娘は立ち去ってしまう。その間わずか数時間。だが、新たな恋の芽生えに男は生きる活力を見出すのであった--。

というのが「表」の話。この微笑ましいがいささか退屈な恋(未満?)物語の背後には、実は恐るべき事件が起っていたのであ~る!
で、残り三分の二では複数の人物の視点による同じ時間帯の出来事がそれぞれ何度も語られるという次第。時間軸をひっくり返すような作品はこれまでにも幾つもあるが、これはアイデアの勝利と言えるだろう。最初に見て思ったことが後半で全くひっくり返されてしまうのは驚き。これで終わりか、と思ってるとまだ意外な真相が出てきたりして見事なもんである。

さて、日本映画でも低予算でも、脚本とセンスでここまで出来るんだー、ということでネット上の感想意見は絶賛状態だ。ここで対照的な意見を紹介しよう。

桂木ユミの「日々の記録とコラムみたいなもの」
Cinema-Absolutism

私の感想は、「愛すべき小品」ではあるが、そんなに大絶賛するほどか?という感じである。大絶賛しなけりゃいけない、というのが日本映画の現状を示しているのかも知れない。まあ、この監督の次作に期待。
東京での公開は終わってしまったが、レンタルDVDで出たら是非オススメ。巻き戻して何度もチェックして見ると面白さ倍増かも。

あまり作品自体の評価には関係ないが、普段外国映画ばかり見ているせいか、役者の発声が人によって違うのが気になってしまった。テレビとか劇団とか出身の違いのせいなんだろうけど……。一番明確な発声してたのは元恋人役の人かな。
それから主人公のマンション豪華過ぎ! あんなの若いサラリーマンが購入したら五十年ローンで、三食梅干しご飯じゃないととても払えません!(ローン持ちとして断言)

役者は探偵役の人がちょっと気になった。なんだかいつも曖昧な笑みを浮かべているように見えるんだが、それが演技なのか、それとも真面目な顔をしているのにそういう風に見えてしまうんだか、本当はもっと笑っているはずなのにそう見えないだけなのか?分からない。 重要な役だけに目についてしまった。


主観点:7点
客観点:7点

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2005年10月27日 (木)

エスペリオンXXIの公演にガックリきたぞ

タイトル:時代と瞬間
会場:王子ホール
2005年9月30日

ジョルディ・サヴァールはスペイン出身のヴィオラ・ダ・ガンバ奏者にして指揮者。この分野ではパイオニアにして最長老の部類に入る。--といっても、まだそんな歳じゃないんだけどね。
取り上げる音楽は中世からバロック・古典派まで、さらに中近東や古いユダヤ人の民謡もやったりする。ジャンルによって大小色んなグループを指揮していて、エスペリオンXXIは小規模な方の団体である。

で、今回は十年ぶりぐらいの来日。古楽の世界では超が付くくらいのビッグ・ネームなので大期待していたのであった。しかも、内容は「ドン・キホーテ」だという。(今年は確か「ドン・キホーテ」イヤーか?)
ところが、実は来日情報を知るのが遅くて、武蔵野市民文化会館の分は例の如く完売。紀尾井ホールはなぜか昼間2時からの公演で、仕事休まないと行けないじゃないのさっ。なんなんだ、こりゃ。
結局、本公演ではなくて東京で一回だけやるサヴァール一家総出演の特番(←というのか?)のチケットしかゲットできなかったのであった。

さて、その公演の内容はアラブやイスラエル、ギリシャ、スペインの民謡・伝統音楽が中心。前回の公演ですごい演奏を聞かせてくれたパーカッションのペドロ・エステバンは今も健在。打楽器を叩く、撫でる、はじく、突っつく……などなどあらゆる手法を駆使して演奏してくれたのであった。これを神業と言わずしてなんと言おうかっ!てなもんだ。外見も長いヒゲ生やして雲の上の仙人みたいだが。(^O^)
サヴァール夫人にしてソプラノのモンセラート・フィゲーラスはどうもCDで聞くとあまり声質が好きではないんだが、ナマだとそんなに気にならない。中世やルネサンス期の曲の歌い手としてはやはり群を抜いているなあと感心。

だが、癒し系みたいなヴォーカル&ハープの娘とテオルボ弾き語りする息子は……勘弁してくれよ~。その手の音楽だったら、他にもっと優れたミュージシャンがゴマンといるっつーのに。そんなもんにわざわざ金を払って来たんじゃねーぞ。(*`ε´*)ノ☆
特に息子の方は中近東風の節回しで自作の曲を歌い出すはいいが、段々となぜかS・ワンダー風のコブシに変わってきたりして(-o-;) しかもまた、二人の曲が長いんだ。退屈しちゃう。

肝心のサヴァールのソロはあまりなくてガックリ。トバイアス・ヒュームの曲でやってくれたような超絶技巧プレイがもっと聴きたかったのにさ。
次はいつ来日してくれるか分からないのに、これはあんまりな内容であった。私はガックリと肩を落としてホールを出たのである。

ところでパンフやチラシには「エスペリオンXXI」のローマ数字の部分に「ヴァン・テ・アン」とフリガナが降ってあるが、この部分は各国の言語で読むことに決まってたんじゃなかったのかね。(つまり「えすぺりおんにじゅういち」)
まあ、招聘元つーのは本人たちが分からんと思ってよく勝手なことするからな。ええい、こんな事にも腹が立つぞ。

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2005年10月22日 (土)

「Loretta Lux」(ロレッタ・ラックス)

発行:青幻舎
2005年

どーこの誰かは知らないけれど~、本屋の美術書コーナーをフラフラしていたら、平積みになっていたこの本にキュキュキューッと引き寄せられてしまった。それほどにこの人の作品は異様であると同時に強烈な磁力を持っている。

ロレッタ・ラックス(この本以外では「ルックス」の表記が一般的か?)は1969年東独生まれの女性写真家。今月の「美術手帖」誌の表紙にも使われている。

単色を基調にしたシンプルにして人工的な風景(空とか壁とか原っぱとか)をバックに子どもが佇んでいる。そのほとんどは合成のようだが、着ている服と配色を完全に合わせてある。
子どもはほとんど無表情で、画面全体は恐ろしいまでの静謐さと、夾雑物が何もない清潔さに覆われている。あまりにも人工的なので絵画のようにも見えてしまうし、一方髪の毛や瞳の反射する光はリアルなので写真にも思えるが、ひょっとしたら人形を撮ったようにも感じられる。
子ども自体はカワイイと言い切れない何かビミョーに崩れたところがあって、それが不気味であり他者を拒む生硬さを感じさせている。
「この世のものには思えない」ところは宗教画のように浮き世離れしている。

実際には背景と子どもを合成した写真らしいのだが、同じ写真でも杉本博司の作品は人形が被写体にもかかわらず生身の人間にみえるのに対し、こちらは人間を撮りながらまるで人形めいて見えるという、まるで正反対になっている。不思議である。
杉本博司の「肖像写真」同様、衝撃作であることは間違いない。

今度、国立近代美術館でやる「ドイツ写真の現代」にもこの人の作品入っているのだろうか。ぜひナマ写真みたいぞ。


【関連リンク】
美術手帖2005年11月号
公式サイト

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2005年10月20日 (木)

「◎らしさ」は自明の理

少し前の記事でも紹介した「成城トランスカレッジ!」経由で以下のブログの記事を読んだ。

《ブレンダの悲劇とジェンダー論》
《「女らしさ」「男らしさ」は生まれつき?》《追記》

さて、次の一文。
 

俗な言い方すぎるかもしれませんが、「目の前にいるこの女、肉体から『女らしさ=セックス』をむんむん放ってるやん。

うーむ、どうでしょうね。ジェンダーについて論じられるようになったというのは、生物学的にメスであることと女らしいことが必ずしも一致しないのはどーしてよ?、という問題も一つあったからでしょう。
その前提をすっとばして、「メス」と「女らしさ」がイコールであるのを自明の理として語ってしまうんだったらそもそもジェンダーやらセクシュアリティを論じる必要性はないわけで--。この人、単にイチャモン付けたかっただけじゃないの、なんて思っちゃうんだよね。

それから、勘違いしているのではないかというのは、「メスの身体」が欲望を喚起させるものを「むんむんと放っている」かのように思っているらしいこと。
じゃなくて、欲望は自らの中に内在するものであって、外部になにやら電波のように発生源があるわけではない。人間の身体なぞ所詮、肉と骨とその他の集合に過ぎない。肉屋の奥に下がっているブタや牛や、魚市場の床に転がっているマグロと変わらないんである。
マグロでも牛肉でもない特定の身体に対して欲望が引き起こされるのは、あくまで自分の内部に発生装置があるからである。(中には「マグロの方がよい」という者もいるだろうが)
そこんとこ勘違いしているから、結局は実感なき他人事のように見えるのではないか。自分のセクシュアリテイが自明のことならば、やはりこんな論議はなんの意味もないだろう。

あと、文中の「セックス」とか「ジェンダー」とか用語の使い方が一定でないのもちょっと混乱するところがあるように思えた。

ついでに、小倉千加子は2001年の『セクシュアリティの心理学』で一章を割いてJ・マネーの功罪や「双子の症例」について取り上げている。
だからと言って「『セックス神話解体新書』で誤った学説を取り上げてスマン<(_ _)>」とは自己批判も総括もしていないけどね。(「自己批判」と「総括」については『嗤う日本のナショナリズム』を参照のこと)

しかし、こんな文章書くとまたいかがわしいスパムTBが来そうだ。ニフよ、なんとかしてくれ~。

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2005年10月19日 (水)

「美しい夜の音楽」

エヴリン・タブ、波多野睦美、つのだたかし
会場:トッパンホール
2005年10月5日

エヴリン・タブは英国の古楽系ソプラノ歌手。ルネサンス歌曲の演奏解釈にかつて革命的衝撃を与えたコンソート・オブ・ミュージックというグループ(←てな紹介でいいのかな。いや、当時リアルタイムで聞いた訳じゃないんで(^^ゞ)での活躍が特に知られている。

で、波多野睦美(メゾソプラノ)、つのだたかし(リュート)と組んで英国ルネサンスの曲を歌うコンサートなのである。以前にも一度この組み合わせで公演したのだが、その時は行けず、私は今回が初めてだ。
内容はダウランド、キャンピオンあたりは知ってる作曲家だが、他には名前を一度も聞いた事ない人物も……。(汗)
その中に、なんとあのヘンリー八世の6人の妻の一人で処刑されちまったアン・ブリン作
の曲もあった(!o!) 「死を前に書いたとされる」と解説にあるが、あまりにも境遇にピッタリ過ぎて却って他のヤツが書いたんじゃないのと疑いたくなっちゃう。

それはともかく、E・タブの声はあくまでも強靭で真っ直ぐで美しかった。トッパンホールは元々響きのいい会場だが、隅々まで行き渡るように聞こえる。特にソロの曲では悲しみの表現が巧みでジワーンと心打たれたのであった。
対して波多野睦美はやや明るめの曲調の歌を歌って、こちらは直球より変化球勝負な感じ。また、二人の掛け合いの曲も大いに楽しめた。

ということで、ヒジョーに満足できた公演だった。5800円のチケット代は完全に元が取れたのである。また同じメンツでやってくれたら必ず行くぞ~。
ただ、曲が終わるたびにいちいちブラボーを叫ぶいわゆる「ブラボー厨」がいて、やめて欲しかった。

それにしても、波多野さん背が高いのねー。間近に見て改めてビックリ。舞台映えがします。またバロックオペラでプリマ演ってくれんかな。

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2005年10月11日 (火)

「チャーリーとチョコレート工場」

監督:ティム・バートン
出演:ジョニー・デップ
米国・イギリス2005年


お菓子大好きーっ \(^o^)/
生クリームたっぷりショートケーキ、カスタードもいいなシュークリーム
サクサクサックリしたクッキーに、口の中でとろけるマシュマロ
ヒンヤリなめなめソフトクリーム、豪華大盛りフルーツパフェ

もちろん和菓子も好きだよ(^^)/
アンコとろける大福、タレがおいしいみたらし団子
ガブリ食いつくドラ焼き、コッテリ食べがいがある月餅
そして、なんと言ってもスペシャルクリームあんみつ

それから、それからね、カラいのも好き)^o^(
指を油まみれにして食べちゃうポテトチップ、バリッと割れるお煎餅

みんなみんな大好きさっ!
そしてやっぱりチョコレート!!
色とりどりちっこいマーブルチョコから高価なゴ○ィバまで
チョコレートならなんでも好き~

でも、歯医者は大嫌い(>_<)
いやいや、行きたくない、コワイ、考えるのもイヤ(/_;)

ああ、だけどパパやママやおじいちゃんおばあちゃんと一緒にいられるなら、頑張って歯医者に行くよ。大好きなお菓子もガマンする。もう食べない。キャベツ汁でも文句言わない。約束するよ、いい子になる。


だが、おかしのつまみ食いを止められず、歯医者にもロクに行かないまま大きくなった悪い大人には、「どーして十分の九までは悪趣味でいい調子だったのに、最後の最後で感動的な家族愛の話になっちゃうかね」としか思えないのであった。
そして酒ビンを握りしめながら、
ケッ、家族がなんだ、上司がなんだ。オレの勝手にやるぞー。
成人病がコワくて酒が飲めるかっつーの。コレステロールがなんぼのモンじゃい。チーズだって食いまくりだーっ。文句ありまして?(~ ^~)
こういう人間には物足りないのである。

なお、原作ファンは「工場の中はあんなもんじゃなくてもっともっと素敵なの。あの船だってあんなチャチくなくて素晴らしいんだよー」とのことであった。やはり原作付きは難しい……。


主観点:7点
客観点:8点

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2005年10月 9日 (日)

杉本博司「時間の終わり」

会場:森美術館
2005年9月17日-2006年1月9日

杉本博司は写真家--といっても、その対象はフツーのものではない。映画館の上映中のスクリーンとか(←これは確かNTTが昔広告でパクって騒ぎになったはず)、何も無い水平線とか、博物館によくあるジオラマとか、変わったもの--じゃなくて、よくあるけど通常なら撮影の対象にならないようなものばかりをモノクロで撮っているのである。
以前から単品では展覧会で目にして来たが、代表作を集めた回顧展という事で行ってみた。

入口すぐの所にあるのは複雑な幾何学の模型を撮ったシリーズ。例えば「平均曲率が0でない定数となる回転面」……って文系者の私にはなんのことかよく分からんが、反復する球面やら線やらモノクロで浮かび上がるその形象は人工的であると同時に、人間の作為が関与しない自然の極致であるようにも思える。

各シリーズごとに作者自身の解説が簡単に掲示されている。それを読んで、これまで知っていた作品でも改めて納得したり、意外に感じたりしたのだが、その意味で極めて衝撃的であったのは「ジオラマ」と「肖像写真」のシリーズだ。

「ジオラマ」シリーズは以前見た時には意図が不明であった。博物館に飾られているような人形やら剥製をそれらしきセットに置いて展示するジオラマというのは、なにやら田舎のあか抜けない見世物風という印象が否めない。なんだか、銭湯の大きな壁画のように「ニセモノ」感が漂うのが常であろう。なんでわざわざそんなものを撮影するのか?
だが作者によると、一旦カメラを通して写真にするとにわかに「本物」ぽく見えるからだという。なるほど確かに、「ジオラマ」と銘打たれていなければ、本物の自然を写したものと勘違いしていまいそうなのもある。

実は、類人猿の生活を再現したジオラマを撮った作品を以前から見るたびに、なぜか「2001宇宙の旅」の場面が頭の中に浮かんでくるのだが、その時は単に両方とも同じような場面を題材にしているからだろうと考えていた。だが、それだけではなかったのだ。
「2001」で類人猿たちがたむろしたり争う場面は、もし現在の映画ならば当然背景と人物を合成して作るだろうが(いやそもそも類人猿もCGか?)、当時はそうではなかった。それこそ、セットに着ぐるみを着た役者を置き、さらに背後に置いたスクリーンにアフリカで撮影した広野の光景を投影した--つまりジオラマ方式であの一連の場面を撮影していたのである。
とすれば、この杉本博司のジオラマの写真と似ているのも当然。同じ方式で撮っているのだから。そして「2001」あの場面にもカメラというものを通した虚実のマジックが存在したのだなあ、とヒシと感じたのであった。

そうして見るとさらに驚かされたのは「肖像写真」シリーズだった。あのヘンリー八世と6人の妻たちの大きな肖像写真が並んで飾られている。まるで本物の彼らが今出現して、カメラの前に座りポーズを取ったのをそのまま撮影したかのようにしか見えない。
しかし、実際には彼らが生きている時代に描かれた肖像画があり、それを元にロンドンの蝋人形館は蝋人形をソックリに作成する。その人形を借りて、当時の照明を再現してセッティングし、肖像写真として撮ったというのだ。
実在するのはあくまで「ソックリな蝋人形」である。そのモデルとなった人間はとっくに死んでいる。しかしカメラを通した時にそこに立ち現われるのは「生きている人間」なのである。
蝋人形という「事実」をギミック無しに撮影したにも関わらず、まるで生きているようなヘンリー八世という「虚構」をカメラは提示するのだ。写真とは事実をそのまま見せるものではなかったのか?それは誤解だったのか? いやそれとも人間の眼が勝手に虚構を作り上げるのか。
一枚の肖像写真の前に虚実がスリリングに交錯する。見ていて思わず興奮してしまったのであった。

あと、「海景」シリーズも素晴らしい。世界各地の純粋に海と空と水平線だけ(岸とか船とか一切なし)を撮影し、しかも水平線の位置をどの作品でもちょうど中間に固定している。それゆえ当然、基本的には同じような構図なのだが、霧やもやがボヤボヤとかかってたり快晴でクッキリハッキリしていたりの差はあるし、モノクロでも微妙な色の違いはある。
作者自身が会場の設定をしたそうだが、暗めの照明の中に展示されているそれらを見ていくと、眼の焦点が合わずにボヤーっとした気分になってきて一種のトランス状態に似た感じになってくる。(以前、マーク・ロスコの巨大な単色の絵画作品を見た時にも同じようになったことがあった)
「こりゃ~、いいこんころもちだ~~、ヌヘヘヘ(^Q^)」と怪しげな酔っ払いのように薄暗い中をフラフラして歩いていたのであった。

映画館で作品を上映中の間、ずーっとシャッター開きっ放しにするという「劇場」シリーズは館名だけでなく、映画ファンとしては是非、映画名も掲示して欲しかった。写真の中ではどれでもスクリーンが真っ白に輝いているだけになってしまうのだが、それでもその光の集積こそが映画そのものなのだから。

その他、三十三間堂の仏像全てを自然光で撮りまくって長く繋いだ絵巻みたいなヤツ、およびそのビデオ作品、水墨画の松の絵を再現したもの(皇居で理想の松を発見したとか)、有名な建築をわざと焦点ぼやかして撮ったものなど、色々あった。

いずれのシリーズにしても、写真というものの虚と実、「見る」という事の意味など様々に考えさせられ、想像させられるものであった。マシュー・バーニー展は遠くて行けなくて残念無念であったが、これはそれに匹敵する(?多分)今年度後半の目玉展覧会の一つだろう。
興味ある方は時間を多めに取ってゆっくりと見て下せえ。

なお、またもカタログよりも展覧会限定ポスターというのに気を引かれ、散々迷った揚げ句(だーって、四千円ナリなのよ)意を決して買おうとしたら、「完売です」だって……。まだ始まって二週間も経ってなかったのにあんまりだー。だったら、「完売」マークを付けといてくれよう。(T_T)


ところで、森美術館て現代アートのかなりマイナーなやつとか実験的なやつとかでも結構人が入っていて不思議だったのだが、ようやくそれは展望台と美術展のチケットがセットになっているからだと気付いた。だから、興味のない人でも展望台のついでに「見てみっか」と寄っていくのだ。
今回も修学旅行のリアル中坊とか観光客風の派手めなオヤヂさんとか、客にかなり混じっていたもよう。道理でと納得した。
それなら客が少ないとか取りざたされている東京現代美術館も、隣接している木場公園に「ジブリパーク」でも作ってセット券で売ればいいのにね。入場者倍増確実だろう。


【関連リンク】
「杉本博司展」
森美術館 http://www.mori.art.museum/contents/sugimoto/
六本木ヒルズ http://www.roppongihills.com/jp/events/sugimoto.html

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2005年10月 7日 (金)

だから、それはミスじゃないって

再び雑誌ネタ。
「日経エンタテインメント」誌11月号に「名作50本のミスを探せ!」という映画関係の特集があった。
で、冒頭に『2001年宇宙の旅』も紹介されている。無重力の宇宙船での食事シーンで、ストローの中の液体が下に落ちる場面が無重力という設定なのに落ちるのはミスである、というのだが……。

あのねー、これはもうミスじゃないってのが定説じゃないんですかっ!
確かに時々、ネットの掲示板やHPで見かけるけどね。大手の雑誌に堂々と書かれたんじゃ困るのよ。

ストローの中の液体が下に落ちるのは重力のためじゃなくて、容器の圧力のためである。普通に、牛乳やジュースの紙パックをストロー差してイッキに飲んだ時に中身が吸い出されるにつれてパックは内側にへこんでいくが、ストローから口を放した途端にストローの部分から空気が中に吸い込まれて元に戻る。これと同じ原理である--ということになっていて、ミスではないんだが……。

この話題を目にしたのは、大昔に『奇想天外』誌にヨコジュンと科学者二人(何の専門だったか忘れた)で座談会で話に出たのである。科学者は上記の原理を説明して、「それよりもスチュワーデスが食事のトレイを配るのに、必死で押さえようとしている方がおかしい」と言っていたのだ。
もう××年も前に決着が付いているのかと思ったら、未だにこのネタが生き続けているとは……( -o-) sigh...
キューブリックだったら、『シャイニング』のバスルームの扉の件や、『アイズワイドシャット』のカメラマン映り込みの方が確実なミスだろう。

そもそも映画にはミスが付き物、米国の映画データベースIMDBでは各作品ごとにミスや失敗を記述する項目があるぐらいだ。
また、『ロード・オブ・ザ・リング』なんてミスが多過ぎて、ファンが面白がってリストアップしているほど。場面によっては、内容よりも思わずミスを確認してしまう所もある。

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2005年10月 5日 (水)

「星の王子さま」で物質的な富を稼いだのは誰よ?

岩波書店のPR誌『図書』10月号の「こぼればなし」(編集後記にあたるページ)の文章が目についた。
著作権消滅に伴い『星の王子さま』の新訳が次々と刊行されていることについて、
 

すでに六〇〇万人の読者を得た先行訳の成功のお裾分けにあずかろうとするこの新訳ラッシュの背後には、ひたすら生産し、ひたすら消費し、ひたすら利潤を追求するという市場原理が見えかくれします。

これを読んで「ムッ(=_=;)」と思ったのは私だけであろうか。まるで『星の王子さま』が岩波の独占所有物であるかのようだ。
それと、たとえば『ナルニア国物語』の映画化だってまさしく原作の「成功のお裾分け」にあずかろうとしているのに他ならないのだから、それに便乗して出版元が儲けようとするのもまた「ひたすら利潤を追求する」ことなのではないかね?
 

一義的には精神的な富の取引を目的とする出版社が、ベストセラーの再開発に血の道をあげていていいのかどうか……。

お~や、エンデやル・グインのドル箱ファンタジーの廉価版を、なかなか出さずにハードカバーでしっかりと稼いだ出版社のお言葉とは思えません。

そういうことだったら、絶版入手不可能状態になっている岩波文庫・新書の名著の数々を復刊して、さっさと手に入るようにしていただきたいものである。よろしくっ!


【関連リンク】
「星の王子さま総覧」

【追記】
数行、後から追加しました。

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2005年10月 2日 (日)

「銀河ヒッチハイクガイド」

以前の記事にも書いた通り、ヒジョ~に期待していた。予告や紹介番組など見る限り、すごく面白そうだったからである。ギャグでは『レッド・ドワーフ』みたいなヤツとSFヲタク度では『ギャラクシー・クエスト』みたいなヤツが合体したようなもんかと想像して、『今年度後半はこれじゃ~」なんて待ちかねていたのである。

が……期待は裏切られた。
見事にである。_| ̄|○

なんだかテンポが悪くて、一度笑ってから次の笑いが来るまでに口開けて待ってるのがくたびれちゃうというか--もっとドタバタした展開(主人公を災難が次々襲う!)かと思ってたらかなりノンビリしてるし。役者がボーッと立ってるだけのような構図の画面も多いし。
ようするに話の展開にも編集にも映像作りにもメリハリがないんである。

それからS・ロックウェルの大統領やジョン・マルコヴィッチの教祖様はともかく、中心の3人のキャラクターがあまり個性が無いのも痛い。ヒッチハイクガイドの作者フォードなんて影が薄過ぎて、主人公を地球から脱出させる以外に役目があったのかギモンである。

テーマはSFネタとしてよくあるものだが、非マニアには分かりづらい上級者向け。おまけに最後に分かるコトの真相ってやつが字幕のせいもあるだろうけど、ほとんど意味分かんない。原作をネタバレしているサイトを見てようやく「ああ、そういう話だったのか」と納得した。

良かったもの
○イルカの歌
○ヴォゴン星人がひっくり返るトコ。ダンゴムシを思い出す気持ち悪さで笑ってしまった。
○終盤の「工場」の場面と、教祖の「下半身」の特撮映像はお見事。感心したっ。

それ以外は……えーっと、「レッドドワーフまた再放送してくんないかなー」なんて思ってしまった。
今年度最大の期待はずれであった。

主観点:5点
客観点:5点

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