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2005年11月

2005年11月29日 (火)

エマ・カークビー&ロンドン・バロック:眠気虫襲来に敗退す

「バロックの2大巨匠、バッハとヘンデル」
会場:浜離宮朝日ホール
2005年11月17日

ロンドン・バロックは元々大好きなグループである。彼らは過去にも何回かエマ・カークビーと共に来日しているが、彼女はコンソート・オブ・ミュージックでルネサンス音楽の唱法に一大旋風を巻き起こし、一世を風靡したソプラノ歌手。その頃は良かったんだけど、どうも年取ってからは歌い方のクセが気になって正直あんまり好きではない。

--ということで、あくまでもロンドン・バロックを聞く事を主眼にして発売から二、三日後にぴあでチケットを買おうとしたら、もう後ろの方の隅っこが一つ空いているだけじゃにゃあの! いくらなんでもこんな事は今までなかったのにどういう訳じゃ(?_?)
と思ったら、なんと数年前にヘンデルの「新発見曲」として喧伝された『グローリア』が演目に入っている。エマ・カークビーはこれを世界初録音しているのだが、これを目当てにどうもチケットが売れたらしいのだ。

さて、当日は満員御礼。おまけにテレビカメラまで入っている。スゴイもんである。
一曲めはCDで聴きまくってたバッハの『トリオ・ソナタ』(本来はオルガン曲であるのを弦楽用に編曲したもの)である。
が、なぜかCDでは感じられた溌剌としたものがなかったのは残念。おまけにC・メドラムのチェロが調子悪いらしくて何度も弦を直している。

その後、カークビー登場。『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』から小曲を3曲披露。軽く手慣らしというとこか。
ただ、席が奥の端ということで、古楽向けのホールだと思うのだが、なんとなく音が遠過ぎてダイレクトに感じられなくてはがゆい。もっと近くで聴きた~い、とヒシと感じる。

だが、会場に着くまでの一時間十五分ほどほとんど電車で座れなかったためか、前日(タブラトゥーラの公演)と連チャンになって疲れたためか、クラシックのコンサートの大敵である眠気虫がワラワラとわき出して私に食らい付いたのであった!
私は必死にホールズののど飴の中で一番刺激の強いのを舐めながら必死に「眠気虫退散」と唱えたが全く無駄であった……。そして私の意識は奈落の底へ吸い込まれていったのである。

休憩の後もモーローとして折角メドラムがガンバを弾いてくれたのに、それも頭の中がモヤモヤしたまま終わり、肝心の『グローリア』までそんな感じであった。
アンコールのヘンデルのアリアは清冽な感じで良かった--って、今ごろ覚醒しても遅いっちゅーの(>_<)

「ちぇっ、好きなアーティストのときに限ってこれだよ」と私はうなだれて小石を蹴飛ばしながら帰ったのであった。(v_v)ションボリ

なお、近くに座っていたカップルが曲間に、デジタルカメラで、それもフラッシュたいて舞台を撮ったのには驚いて口アングリ状態。注意した会場係のおねーさんが休憩時間に同僚に「まったくデジタルカメラなんかで--」とブツブツ愚痴っていたが、同感である。


【関連リンク】
こちらでもっとちゃんとした感想が読めます。
庭は夏の日ざかり

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2005年11月27日 (日)

「トーキングヘッズ叢書 no.25」発売です

毎度おなじみ~、になっているかどうか分からんが、私も原稿を書いている不定期刊「トーキングヘッズ叢書」の第25号が出ました。
今回の特集は「廃墟憂愁~メランコリックな永遠。」ですよ、皆の衆。内容はこちらにてお確かめ下さい。

内容的にはかなりアート・ダンス・パフォーマンス系が中心となっておりますので、そちら方面に興味のある方は是非お手にとっていただき、ついでにお買い求め下さると嬉しいです。
そしてさらに上記HPにある感想メールフォームに「ひねくれ者ブログで知って読みましたー。とても面白かったですう」などとヨイショを書き込んで頂けると、涙がチョチョぎれるほど喜んじゃうのでよろしくっ!

個人的には石橋連司のインタヴューが嬉しい。第七病棟を初めて見たのは三軒茶屋の映画館からだが、あれからもう十五年も経ってしまったとは……(回想にふける)。

そして今回は無事に落とさずに原稿を書けました。(T^T)感無量です。ただ、例の如く最後の方は締切が迫ってきてあわてて書き飛ばしてしまったのが心残りであります。
また、映画評はこのブログでもけなしまくった『スター・ウォーズ』シリーズ。まだまだけなし足りません(シツコイのよ)。もっとも今度は「えぴ4」公開当時の騒動の話が中心になっているので、当時を知る人には懐かしいかもですよ。
特集に関してはモローの絵とJ・G・バラードの短編と光瀬龍の『たそがれに還る』について。一見バラバラなこれらをいかに強引に無理やり結びつけたか、ほとんど詐術に近い--我ながらようやったと自画自賛状態であります。(火暴)

さて、原稿を書くためにもう三十年前に買った文庫本を引っ張り出して、光瀬龍の『宇宙年代記』シリーズを久し振りに(十ウン年、いや二十年ぶりぐらいかも)ガーッと読み通した。
読み直してみて感じたのは……面白い!とっても面白かった!! そして感動したっ。こんなに面白くて心に染み入る話はもう絶えて久しく読んでいない、というほどだった。
原稿の方にもちょこっと書いたが、ストーリー自体は決して起伏のあるものじゃないのだが、それをこれほど読ませてしまうのはスゴイ。特に『戦場二二四一年』や『落陽二二一七年』なんか神業と言っていいぐらいだ。
火星のスペースポートで観光写真を売る老サイボーグの淡々とした日常の描写の積み重ねや、砂漠と海底のイメージが一瞬にして交錯する場面など、何度読んでも素晴らしいの一言である。才能とはこういうものかとつくづく思い知る。

しかし、現在の小説においてこのような要素は全く必要とされていないのもまた事実だろう。とすれば彼の『宇宙年代記』自体が既にある種の「廃墟」なのかも知れない。

私自身は当時の光瀬龍の年齢をとっくに越してしまったわけであるが……何というか、寂しいのう(+_+)ショボショボ
--と、なぜか盛り下がって終わるのであった。

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2005年11月26日 (土)

「タブラフラトゥーラメンコ」:カコエエにーちゃんに幻惑されるが

演奏:タブラトゥーラ、永潟三喜生、三枝雄輔
会場:ハクジュホール
2005年11月16日

古楽集団タブラトゥーラが今度はフラメンコに挑戦!ということである。
開幕時にいつもの五人のメンバーに続いて、細身で黒服の若いにーちゃん二人が登場してなぜか会場がおおっ(!o!)とどよめく。なぜなら、タブラの舞台でそのようなにーちゃんを目にしようとは思いもつかなかったからであろう。どのくらい細いかというと、身体の幅が団長のつのだたかしの二分の一ぐらい……というのは大袈裟にしても、三分の二ぐらいなのは間違いない。(あくまでも推定よ)

二人はフラメンコ界で若手の人気の歌手と踊り手のようである。会場にも結構フラメンコ関係者が来ているらしく(つのだたかしによると、五人に一人の割合だとか)、かけ声なども頻繁にかかっていた。
曲目もスペイン系っぽいもの中心で、途中の幾つかの曲でフラメンコの唄と踊りが入るのである。踊り手の三枝雄輔はいわゆる「イケメン」の部類でカコエエので、会場の視線をくぎづけにしていた。
ところがっ!ハクジュホールはうっかり前の方の座席にすると、床面が全く見えないんだったんだよねえ。だから肝心の脚の動きが見えん……。どころか、前の人の頭で上半身しか見えない(それ以外にも、つのだたかしと山崎まさしは全く見えなかった)。失敗であった。これからはなるべく後ろの方の席にしなくては。

見ていて(聴いていて)感じたのは、やっぱりフラメンコは全然違うなー、という当たり前といえば当たり前の感想だが、ステージマナーからして異なるし、だいいち感情表出の方法が根本的に違う。
タブラトゥーラは古楽と言ってもオリジナル曲も多いし、踊り弾き(^-^;などもするが、好き勝手な事をしているようでいてやはり表現の基本的な所は、「現代の音楽」であるフラメンコとは違ってやはり「古楽」なのであった。
それを特に感じたのは--ええと、どの曲だったかな(^^?)確か「3人のモーロの乙女」だったかと思う。唄が熱演だったにもかかわらず、私は演奏の古楽的な面の方に強ーく惹かれたのであった。

とはいえ、技術的にはもはや一定の域まで行き着いてしまっている人たちなので、このような異種格闘技の方がエネルギー発散の度合いが大きい。火花飛び散るぶつかり合いが面白くてコーフンするのである。
また次の試みに期待。

恒例の終了後のロビーでの演奏がなかったのは残念。でも、あのホールの構造だとできないのかも。でも、代わりにロビーで波多野さんを見かけたからいいや(単なるミーハー)。

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2005年11月21日 (月)

「亀も空を飛ぶ」:できるならほっときたい世界の醜さ

監督:バフマン・ゴバディ
出演:ソラン・エブラヒム
イラン・フランス・イラク2004年

在イランのクルド人監督によるイラクのクルド人の少年たちの物語。クルド人を題材にした映画というと昨年『少女ヘジャル』を観て恥ずかしながら号泣したのであったが、あの映画がトルコでのクルド問題を扱っていたのに対し、こちらは国境を隔ててトルコとは反対側のイラクのクルド人難民キャンプが舞台である。

時期はアメリカ侵攻の直前の2003年、戦争孤児のサテライトは米国かぶれの口八丁手八丁の少年。要領良くて電気工事の知識もあるため近隣の村の大人からは重宝がられ、さらには孤児仲間を統率して地雷を掘り出しては大人に売る(最終的には国連か武器商人の手に渡る)のであった。
さて彼は難民キャンプに新たに来た、幼児を連れた美少女に思わずホの字(*^-^*)ポッ。何かと世話を焼こうとするが、彼女はそっけない。おまけに両腕を失ってはいても喧嘩は強いコワーイ兄が控えているではないか。さて、彼の恋の行方は……。

……という話じゃなーいっ(>O<)
いや、まあそういう話でもあるんだけどね。青少年が異性に(*^-^*)ポッとしてしまうのは万国共通変わりなし。さらにロクな大人が徹底して登場しない(というか、彼らの生活に金の面以外では関与して来ない)のも、チャーリー・ブラウンのピーナッツ・ブックスあたりと共通するものがある。そういう青少年のジタバタがコミカルに描かれてはいる。

子どもたちはみんな素人らしいが達者なもんである。特に小さい子にはビックリ。どうやって演技させたんかと不思議に思うぐらいだ。

しかし一方、その背景の世界の描写は悲惨なものである。腕や脚のない孤児たちは珍しくないし、彼らが地雷を掘り出す場面は思わず冷汗かいて「やめてくれ~」と叫びたくなる。さらにさらにもっと恐ろしい話が明らかに……。
そして、全ては悪い方へと転がっていく。米軍が実際にやって来た時の少年たちの反応はそれまでの予想を裏切って意外なものである。特に主人公のサテライトと泣き虫少年の対照的な態度が皮肉だった。

見終って、最近NHKのBSで放送された子ども労働者の悲惨なドキュメンタリーも思い出したりしてウツになってしまった。さらにドヨーンとした岩波ホールの祟りか、右肩がキシキシと痛んだりしてもう最悪だー。

ということで、主観点を一点マイナスにしたのは、できれば知りたくなかった醜悪な世界の実相を垣間見させられてしまったからである。そして、見なかったふりをしてコソコソ逃げ出したかったのだ。

見たくない、ほっときたい世界の醜さが、美しい映像で幻想的に描かれる。これはまことに困った映画なのである。


主観点:7点
客観点:8点

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2005年11月20日 (日)

ようやくあのファンタジーの映画化が本決まりに

「allcinema ONLINE」の11月17日付けのニュースでフィリップ・プルマンの『ライラの冒険』シリーズ(新潮社)の映画化が本決まりになったのを知った。
以前から映画になるというのは聞いていたが、映画化権が売れただけではホントに映画になるかどうかはアヤしい業界ゆえ、半分忘れかけていたが、一作目の公開予定日も決まったもよう。(もっとも残りの二作がどうなるかは……(?_?;)

設定・ストーリーからしてCGをバリバリ貼り付けた映画になるのは明らかだが、さらに舞台が平行世界で複雑極まりない。よほど脚本がうまくないと訳ワカラン作品になるのは必至だろう。私なんか原作でも訳ワカラン状態になっちゃったぐらいでして(^^ゞ

ファンタジー・ファンには嬉しいニュースであるが、個人的にはロイド・アリグザンダーの『プリデイン物語』の真っ当な映画化を望みたいもんである。なおついでに個人的な意見を言わせてもらえば、ジブリ・アニメの『ゲド戦記』は絶対に見たくない。

さらについでだが11月16日付けのニュースにある、早くも予告編が流れたというテリー・ギリアムの次作がなにげにスゴイではないの。

母の死後、ヤク中の父と何もない人里離れた南部の田舎の家へと引っ越した11歳の少女ジェライザ=ローズ。やがて父は椅子に座ったまま動かなくなり、ジェライザ=ローズは近所のちょっとグロテスクな姉弟と奇妙な交流をしながら、頭だけのバービー人形を指にはめ、空想の世界で戯れる――。

こ、これは見たいぞ、絶対見てみたいぞ(^^;) 恐いもの見たさってやつですか。

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2005年11月19日 (土)

「「負けた」教の信者たち」(斎藤環)

副書名:ニート・ひきこもり社会論
中央公論社(中公新書ラクレ)
2005年

精神科医の斎藤環が雑誌に連載した時評を中心にした社会論。副題にあるニートやひきこもり問題だけでなく、ネット・コミュニケーション、少年犯罪、虐待などなど色んな問題について論じていて面白い。正直言って、個人的には同じ著者のヲタクを扱った本より読みやすかった。

全共闘・新人類・団塊ジュニアの三世代の差異を「転向」の面から見た章が興味深かったが、一番ハッと思ったのは「護憲派最大のジレンマ」という章の次の文。

 九条と安保のカップリングは、われわれの意識を「分裂」させる。「世界」とはアメリカのことであり、そうである以上はわれわれは真の意味で世界を意識する必要はない。なぜなら、世界との本質的なかかわりは、すべてアメリカの承認を得る必要があるからで、この現実はわれわれから、世界とかかわる自発性を実質的に奪ってしまうからだ。われわれの関心は、必然的に内へと向かう。

先日、掲示板で「うるさい事をゴチャゴチャ文句つける近隣諸国となんかつきあうのは止めて、米国と仲良くする遠方外交をしてればいいのだ」という書き込みを見かけた。それを読んだ時には、はて面妖な意見であるなあ--と思ったが、上記の文のような論理だったら不思議なことではない。
米国に全てを任せてしまえば、お隣さんの苦情や侵犯問題などにいちいちかかわる必要はないのだ。うーむ、全ては一元化されてコトは単純で楽である。
そして全ては楽な方向へと流れていくものなのである。(あ、これは護憲派にも共通することなんだけどね)

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2005年11月18日 (金)

「クライシス・オブ・アメリカ」:どんな陰謀よりメリルかーちゃんがコワい

監督:ジョナサン・デミ
出演:デンゼル・ワシントン、メリル・ストリープ
米国2004年

ビデオにて鑑賞。
米国で公開されている時に紹介番組で見て面白そうだと思ったのだが、実際に日本に来たら東京の外れのシネコンでしかやってくれなくて、メンドくさくなってあきらめた映画である。ようやくレンタルで見ることができた。

オリジナルの『影なき殺人者』は子供の頃テレビ放映で見たような気がするのだが、もしかしたら他の映画と勘違いしているかも知れない。

湾岸戦争から復員して来たとある部隊の将校や兵士が悪夢に悩まされる--ということから徐々に明らかになる恐るべき事実!という話だが、旧作品は冷戦下での敵国の謀略ということだった。これは当時の状況を考えるとそれなりに説得力のある話だと思える。
しかし、このリメイク版では巨大とはいえ一企業の陰謀ということになっている。いくらなんでもそんな面倒なことするかいな、とにわかに興醒めに感じてしまうのは私だけか。もちろん、ブッシュ政権の存在をモデルにしているというのは分かっていてもだ。
さらに元兵士の母親の盲愛とでもいうべき行動の描写がかなり重点を置いて描かれているので、「企業の陰謀」が余計に弱まって見える。

というか、このM・ストリープ扮する母親にして上院議員が迫力あり過ぎ!コワー! 完全に他を食ってしまっている。あんまり迫力あるんで息子を副大統領にするより自分が直接なった方が早いんじゃないかと思えるくらい。
む?待てよ(?_?)もしかしてこれのモデルはちゃらんぽらんな某国首相とその陰の立役者の姉じゃろうか!(>O<)ギャーッ

さらに後半は『X-ファイル』まであと一歩、という感じのトンデモな真相が明らかに。前半はフェイドアウトを多用した編集でミョ~に不安をかき立ててくれて、よかったんだけどね。さすがに上手い、と感心するのだが後半はメチャクチャな展開で「ありゃりゃ?」となってしまう。

トンデモ映画になりそうなのを辛うじてとどめているのが、脇の役者のおかげか。ジョン・ヴォイト、ジェフリー・ライト、ブルーノ・ガンツに加えB級サスペンス常連(^-^;のミゲル・フェラーなど曲者揃いだ。だが、肝心の主役のD・ワシントンが今イチ。別に彼でなくてもいいような役に見える。

ということで全ての面で中途半端な感がぬぐえない作品であった。期待してたのに残念。


主観点:6点
客観点:6点

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2005年11月17日 (木)

「「おろかもの」の正義論」(小林和之)

筑摩書房(ちくま新書)
2004年

うーむうーむ(=_=;)と考えさせられる本である。いや、別に難しくはない。むしろ平易だといえるだろう。訳ワカラン用語や思わずビビる人名などは全く出て来ないし、文章も極めて易しい。これは読者に考えさせるための本なのである。

まず、あの「どーして人を殺しちゃいけないんですか」という問いの答えを提示する事から始まる。そこから、何が正しくて何がいけないのか--という事には二種類あるということが明らかにされる。すなわち「地球が丸い」ということが「正しい」ということと「困っている人を助けるべきだ」ということが「正しい」というのとは違う。前者は事実であり、後者は規範である。

……というような所を起点として臓器移植、死刑、交通事故、国家、選択の自由などについてを考えていく。そうすると、「人間の死には二種類ある」とか「選択の自由は強者と弱者の差を広げる」とか「我々の社会は人をひき殺してもよい社会である」などという結論が出てしまうのだ。

そうして、最後に著者は「子どもを作る者に課税をする」(←逆ではない)という試案を検討する。そのきっかけは「子どもを作らない女は自分勝手であり、課税すべきだ」という政治家の発言であったという。
論理的に突き詰めていった結果、政治家の発言とは逆の結論に至る。もちろん、それを主張するためではない。物事をどうやって考えていったらいいのか、「正しさ」とはどういう事か、そんなものは本当に存在するのか--それらを考えるための道筋を示しているのである。
そういう意味で「考えさせられる」本なのだ。

しかし、現実としてこのような冷静な議論が出来るか、というとねえ( -o-) sigh...
声がデカい方が勝ちだもんな。

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2005年11月16日 (水)

「ティム・バートンのコープスブライド」:死者の国はいつもお祭りだー

監督:ティム・バートン、マイク・ジョンソン
声の出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター
イギリス2005年

はっきり言って『チャリチョコ』よりこっちの方が面白かった!
悪趣味でキュートで楽しい \(^o^)/
見てる間中、ずっとニヤニヤ笑ってしまったよ。(^^)

成金の息子にして、ちょっと根暗なビクター君が顔も見たことない貴族のお嬢様と政略結婚することに。だがドジな彼は結婚式のリハーサルも失敗続き。森の中で一人練習するうちにウッカリ死者の花嫁に指輪をはめて誓いの言葉を述べてしまうのであった。

それで、死人の国に連れてかれちゃうわけだが、なぜか生者の世界はモノクロで住人もみんなイヤな奴だったりひねくれてたりするのに対し、冥土はカラフルでみんな親切で暖かい。楽しいキャラクターばっかり--蜘蛛オバサンとかホネ長老とかホネ犬とか。
ミュージカル仕立てになってるのは事前に知らなかったのでちょっとビックリ。

で、楽しかったんだけどさ、ビクター君死人の花嫁と生きてる花嫁の間を行ったり来たり優柔不断過ぎ。よっ!ゞ(^^ )モテる男はつらいねー……じゃなくて、もうちょっとシャッキリしろっつーの(*`ε´*)ノ☆バーロー
あと、ビクトリア嬢もあきらめるの早過ぎ。もう少しなんとか頑張って欲しかった。
という訳で、死人の花嫁さんの健気さのみに寄りかかったストーリー展開にはちょっと不満であった。

二人で連弾する場面が良かった。クレイアニメの質感も素晴らしい。ホネ犬が転がってみせるところでカラコロ音を立てるのなんか芸が細かくて笑っちゃう。
主人公はJ・デップというよりエイドリアン・ブロディに似ているという感想を見かけたが、ホントにクリソツ。実写版だったら間違いなく彼にキャスティングするだろう。


主観点:8点
客観点:7点

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2005年11月14日 (月)

「真夜中のピアニスト」はロマン君ファン限定映画

監督:ジャック・オーディアール
出演:ロマン・デュリス
フランス2005年

1978年のアメリカ映画のリメイク(オリジナルは未見--つうか存在も知らなかった)。地上げ屋稼業に励む青年が突如、昔のピアノへの情熱を思い出して一念発起。オーディションのためにレッスンに励むが……というお話。

ヤクザな稼業と、言葉が通じない中国娘の元で受けるピアノのレッスンの対比で聖と俗を鮮やかに浮かび上がらせる--というような感じで紹介されていたので期待して行ったら、全然そんなんじゃなかった。
それ以外にも世話のかかるウルサイ父親とか人妻との浮気とか出て来て、要するにいわゆる青春の彷徨な物語なのであった。で、色んな要素が入っているためにとっ散らかって散漫になってしまった。
大いに期待はずれである。(x_x)

監督はオリジナルよりリアルにしたかったと語ってたが、あれぐらいのレッスンでプロのオーディションが受かるとも思えない。逆に、オリジナルの方を見たくなってしまったぞ。

一方、主演のロマン・デュリス君はやや陰のある甘めの二枚目。胸毛やら尻やら「さあびすしょっと」がいっぱい出てくるので、彼のファンには嬉しい映画だろう。
それ以外の人には「まあ普通」としか言いようがない。

ところで単館上映していたアミューズCQNという映画館は初めて行ったのだが、洒落こいたビルの上の方にあって絶対に映画ヲタク向けのロケーションではない。さらに名前がうっかりすると「DQN」に見えてしまうのはどーしたもんよ。


主観点:5点
客観点:6点

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2005年11月11日 (金)

「暗く聖なる夜 上・下」(マイクル・コナリー):感動するもラストで、なんだかなあ

発行:講談社(講談社文庫)
2005年

マイクル・コナリーのL.A.の刑事ヒエロニムス・ボッシュを主人公としたシリーズはずーっと愛読してきた。これは久々の新刊。元々は扶桑社から出ていたのが前作は早川書房から出て、今度は講談社に……。大丈夫かいな。(;^^)

講談社からは先にこのシリーズのスピンアウトとでも言ったらいいような「夜より暗き闇」が出ている。こちらは一作目がイーストウッドの主演・監督によって映画化された心臓病病みの元FBI心理分析官テリー・マッケイレブが主人公で、それにボッシュが絡んでくるという趣向。なんだか、作者自身によるボッシュ・シリーズのファン小説みたいな感じの変な作品だった。
(余談だが、コナリーはイーストウッドによる『ブラッドワーク』が気に入らなかったもよう。それをハッキリ自作の中で言明するのも珍しいけどさ。もっとも、主人公のイメージと全然合ってなかっただけでなく、『ミスティック・リバー』あたりと比べると明らかに手抜き作品なのはありありと分かるので、原作者としては当然かも知れない)

さて、前作のラストで刑事を辞職したボッシュ……というのを、これを読み出してから初めて思い出した。自分の記憶力減退に加え、刊行の間が開き過ぎです。
で、最初から何やらモヤモヤと違和感が--と思ったら、これまでは三人称だったのに今回は一人称になっているのだ! 私立探偵に商売替えしたせいであろうか。

冒頭に売れっ子映画プロデューサーが登場。これなんか、やはり映画化の時に遭遇した人物をモデルにしたのだろうか、などと色々と想像してみたりして。
まあ、ミステリなんで粗筋を細かく語る訳にも行かんが、謎解きの面でもかなり満足できた。
それ以外の面では--名曲「この素晴らしき世界」の所で泣けてしまった。(T_T) 読んでたのは騒がしい病院の待合室だったが。泣けたのである。
小説読んで涙が出たなんて何年ぶりのことだろうか。あんまり昔のことなんで忘れてしまったよ。それほどに心動かされたのであるが……。

だが、ラストのラストでなんだかビミョ~に白けてしまった。うーむ、男っつーのはああいうのがいいのかね、きっと。

というわけで、訳者推奨の次作に大期待。で、それが無事に日本で出るようにこの『暗く聖なる夜』をみなさん買って下せえ。友人や図書館から借りるのもダメ、もちろんブックオフもダメダメダメッ(`´メ) 新刊を購入しましょう(^^)/

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2005年11月 9日 (水)

「三原順」を久々に見たと思ったら

ネット上で「三原順」の文字を久し振りに目にした! なんだ珍しいな、と思ってよくよく読んでみると盗作騒動のニュースであった……。

漫画と類似表現、小説絶版に

飛鳥部勝則という人は『殉教カテリナ車輪』を書いた人なのね。
まとめサイトを見てみると、ムムム、ここまでやるかというぐらいにセリフをそのまま使用している。

しばらく前に漫画家同士の間での盗作騒ぎがあってネットでも激しく炎上していたが、それに比べると2ちゃんねるの関連スレッドでもあんまりレスが付いていない。三原順が故人であるということと、往年の少女マンガでもマイナーな部類に入る(それでも下手な小説より遥かに部数出ているはずだが)からだろうか? ちと寂しい(x_x)

この関連で某TV局のシナリオ大賞を取った作品が、映画の『息子のまなざし』をそのまま頂いているという疑惑があるのを知った。三原順にしろこの映画にしろメジャーとは言いがたいが、非常に評価の高い作品である。(『息子のまなざし』は単館ロードショー公開だったがカンヌで受賞) バレなさそうで、却ってバレやすいような気もするのだが……。

もっとも、テレビドラマではパクリは珍しいことではない。大昔、子供の頃連続の時代劇を見ていて、中でミステリ仕立てであっと驚くようなドンデン返しのある回があった。一緒に見ていた兄も「すごいすごい」と感心していたのだが、とある米国映画を丸々パクったものだったというのを、何年も後でその元ネタの映画を見て初めて知ったのであった。

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2005年11月 6日 (日)

「シン・シティ」:三連発でお腹いっぱい

監督:フランク・ミラー、ロバート・ロドリゲス
出演:ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン
米国2005年

この映画はコミックスをそのままスクリーンに移動させたような極めて人工的な世界を構築している。モノクロを基調としてところどころ着色した映像は、その意味では完璧に成功している。
物語の方は「女はみな娼婦、男はみなヤクザ」みたいな感じで一般ピープルは一人として存在しない。グロい場面も多く(ただし、人工的な映像なので生々しさはない)、映像的にもストーリー的にものめり込む人はトコトンのめり込むだろうが、嫌いな人は途中で出て行きたくなるだろう。
あまりにも監督のシュミで構築された世界なので、それに興味のない観客は最初からお呼びでないのだ。

全体の構成は舞台は同じだが、主人公の違う三つのエピソードと短いプロローグとエピローグから成っている。
第一のエピソードは久々復活ミッキー・ローク扮するムショ帰りの男が、朝目を覚ますとベッドの隣で女が冷たくなっていた--というハードボイルド定番の幕開けである。で、私はこのエピを見終っただけでお腹いっぱいの気分になってしまった。「うへー、まだ二つも話があるのか。もう映画一本観た感じなのに(-o-;)」てなもんである。

観ている間面白かったし、楽しめた。独特の映像の構築には感心もした。だが、続編が作られても見に行くかどうかは分からんなー。ビデオで見た方が却ってコミックスぽくていいかも、なんて思っちゃう。

役者は正直、主役な方々より脇の方に目が行ってしまった。
何と言ってもデル・トロ兄い! 死体になってもカコエエなんて兄いだけでやんすよ。サイコーです。ますます兄いのファンになっちまいました。 \(^o^)/
それから、ルトガー・ハウアーが出ているというのは耳にしていたが、短い……出演時間短過ぎです。(泣)
あと、事前に全く知らなかったのがパワーズ・ブース。冒頭のクレジットで見てビックリして、いつ出るかいつ出るかと待っていたら、終わり近くになって……なんだよ(+_+)あれだけかよ。もっと出してくれよ。
さらに、ルトさんと彼が兄弟なんて--「ありえねーっ」である。
今は年をとり過ぎてしまったが、二十年前ならこの二人が主役にうってつけだったであろう。B級色紛々たる「二十年前」ヴァージョンを見たかったぜ(T^T)

女優の方は、役柄に関らず露出度にかなり差があったのは「大人の事情」というヤツであろうか? ブリタニー・マーフィが出番の長さに関係なくもうけ役だった。

なお、ハードボイルドとして宣伝されているが実際の所はノワールと言った方がいいだろう。正統派ハードボイルドのファンの方には『キラー・コンドーム』をお勧めしたい。ただし、見た後で何があっても私は知りません。自己責任ですよ、自己責任。


主観点:7点
客観点:8点(ノワールファン限定)

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2005年11月 4日 (金)

なんと!早速あの本がランクイン

紀伊国屋のBookWebをたまたま覗いたら、なんと「和書デイリーベスト」の2位に今話題の『グレアム・ヤング毒殺日記』が入っているではないか(!o!)

昨日は祝日だったもんで、ネットを徘徊しながらテレビをつけてたら、ワイドショーは軒並み例の女子高校生による(?かどうかは確定してないが)母親毒盛り事件を、長時間かけて扱っていた。
もちろん、その愛読書とされる『毒殺日記』の内容もかなり紹介されていた……ので、こんなに注文が殺到したんだろうか。あの『生協の白石さん』よりも上位ですよ、皆の衆。(もっとも、『下流社会』が1位というのもビックリだが)

いやはや野次馬根性というのはすごいもんだと、ある意味感心してしまった。不謹慎ながら飛鳥新社は大入り袋がでるんじゃろか、などと想像してしまったよ。

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2005年11月 3日 (木)

ヘンデル「ジュリアス・シーザー」:演出に口アングリ

注-グラインドボーン音楽祭のヘンデル『ジュリアス・シーザー』(TV放映タイトル。原題は『ジュリオ・チェーザレ』)の感想はこちらです。

サブタイトル:エジプトのジュリオ・チェーザレ~二期会ニューウェーブオペラ劇場
演奏:二期会&バッハ・コレギウム・ジャパン
会場:北とぴあ
2005年10月15日

二期会とBCJがバロック・オペラをやるのは二回目。前回はモンテヴェルディだったが、今回はヘンデルの『ジュリオ・チェーザレ』……なんだけど、題名と一部の人物の名前が違っているのは何故? 歴史ものなんで史実通りにしたのか?

エジプトではクレオパトラとプトレマイオス(トロメーオ)の姉弟による王位をめぐる争いがあったが、シーザー(チェーザレ)がエジプト上陸すると、すかさずプトレマイオスはポンペイウス将軍の首を献上して、御機嫌伺い。クレオパトラは色仕掛けで攻略しようと策謀するのであった--。
ここにポンペイウスの妻と息子の復讐が絡んでくる。しかも、妻はえらいベッピンさんで会う男会う男みんなハアハア(^Q^;)してしまうという美貌の持ち主の一方、息子はまだ若くて優柔不断という設定。
他にも将軍やら部下やらが入り乱れ、さてどうなるのであろうか--。

というような話を演出は現代のヤクザ、あるいは大恐慌時代のマフィアの抗争に見立てて、衣装や背景のスクリーンの映像もそれ風である。黒服の強面のにーちゃんも多数出て来たりする。将軍の息子はチャラチャラしたヴィジュアル系ミュージシャンみたいだ。

一方、ヘンデルったら当時はカストラートを好んで重用--なので、初演の時は主立った男の役はみなカストラートなのであった。
で、二期会にはカストラートはいない(あたり前じゃ!)、どころかカウンターテナーもいない(詰まんな~い!)ので主要な役はぜーんぶ女、シーザーも悪役のプトレマイオスもメゾソプラノが担当。で、これを見てるとまるで宝塚みたいなのであった。(というか、「なるほど宝塚というのはこんな感じか」なんて納得しちゃったりして)

それだけに特に中心な役の二人のメゾソプラノは大変そう。ソプラノなら難しい曲は見せ場 \(^o^)/という感じなのだが、逆に「難しそうですね、ご苦労さん<(_ _)>」なんて感慨を抱いてしまうのである。

それにしてもヘンデルの作品は長い!長過ぎです。あの名曲『メサイア』でさえ、私なんか「長いな……(\_\;」と思って一度しか公演行ったことないのだが、このオペラも夕方五時開演で終わったのが九時二十分ぐらい(間に二回休憩)。しかも、これで途中はしょってあるという。
まあ、そもそもバロックオペラというのは、近代のオペラよりは歌舞伎の方に近いような娯楽だったのだろうから、仕方ないかも知れんが。

だが、そう思うとよけいに演出はひどい!ひど過ぎ。ネットの感想で演出を誉めているものなど一つもなかったし、会場で偶然会った友人もけなしていた。
戦争をヤクザの抗争風に捉えた解釈はまあよいとしても(その観点からも中途半端だが)、ラスト、シーザーとクレオパトラが結ばれてローマ帝国も栄えてメデタシメデタシの所を、911以後のアメリカ帝国主義の台頭と重ね合わせて皮肉ったメッセージを出しているのは、思わず口アングリである。

あのねー、バロックオペラったら、美男美女が美声を聞かせて、英雄やら悪漢やらお姫様やら神様が入り乱れてくっ付いたり離れたりするのを楽しむもんなの! 今の世界の現実に重ね合わせて風刺したつもり、なんてのは勘違いも甚だしい。
まあ、今時の演出家はそんな話バカらしーと思うかも知れんが、そういうモンなんだからさ。勘弁してよ……(=_=;)

という訳で、演出がなければもうちょっと印象良かったかも知れん、という公演であった。なお、歌手は完全なダブルキャストだったんで二日目がどうだったのかも気になった。BCJの演奏は目立ち過ぎず引っ込み過ぎず、微妙な線を保っていたが、ヘンデルのファンにとっては物足りなく感じたかも知れない。

来年はヴィヴァルディの『バヤゼット』の来日公演!本場モンだ!頑張って見に行くぞー。

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えすどぅあ

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