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2005年12月

2005年12月31日 (土)

「Aerial」:元祖不思議少女の行く末

Kate Bush
発売:Columbia 2005年

「ロック界随一のお嬢」(笑)「元祖不思議ちゃん」「小悪魔」「天才少女」であるケイト・ブッシュの12年ぶり新作アルバム。かつての彼女ったらそりゃあ、他の追随を許さぬ独自の世界を築いていて、私など思わず敬遠していたほどだ。そんな彼女が出産・育児を経た変化は……確かに昔のトンガった所は微塵もない。特徴あったボーカル・スタイルもかなり違っている。
例えれば、以前はカッコよくてキメキメのデザインを送って来てた友人の年賀状が、親になった途端にいきなり自分の子どもの写真をドーンと使ったものに変わってしまった、という衝撃に似ていると言ったらよいだろうか。

--という風になんとなくモヤモヤしたものを感じていたのだが、「ミュージック・マガジン」誌12月号での小野島大のアルバム評を読んだら、それがキチンと書かれていて納得。
ケイトと同じように出産・子育てを経て復活したパティ・スミスと比較して論じているのだが、パティの時には良い結果の方に転んだのに対し、彼女については凶と出て「パッと耳を引きつけ、酔わせる官能が足りない」「何度聴いても印象に残るメロディやフレーズがない」としている。

さすが評論家、私の感じたことが見事に論理化されて表現されていると感心した。ウムウムと頷いて読んでしまった。
しかし一方、少子化問題が叫ばれる現在、「育児にかまけている間にアーティストとしては詰まんなくなった」というような言説は、ますます少子化に拍車をかけるものとしていかがなものかとも思った。(←これは冗談です)

実のところ、「Aerial」は結構愛聴している。
出産や子育てというビッグ・イベントがなくても中年になればやはり気力体力共に変わってくるし、感性も異なってくるだろう。逆にずっと若い頃と同じ事を続けていれば「いつまで繰り返しやってんだか」と言われたりして、ミュージシャンとしては辛い所である。
昔のような先鋭的な部分はなくなったにしても、その代わりに別の表現が生まれて来たらそれでいいじゃないかと思う。
まあ、これは私が昔のケイト・ブッシュにこだわりがないせいもあるだろう。

で、結論は「お嬢」も年取れば中年女になる……という事を言いたかったのか(^^?)ハテ

いずれにしてもこのCD、繊細極まりないサウンドプロダクションとジャケットのアートワークは見事の一言。これだけなら五つ星だろう。(全体としては四つ星)
ところで「Washing machine」というフレーズを、なぜか「もしもし」と聞き間違えて「ええっ(!o!)こりゃ日本語?!」と驚いた私は逝ってよしですか。

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2005年12月30日 (金)

「ポビーとディンガン」:妹萌えのおとぎ話として認定

監督:ピーター・カッタネオ
出演:ヴィンス・コロシモ、クリスチャン・バイヤーズ
オーストラリア・イギリス2005

オーストラリアのド田舎で一発当てようと、人々は住み着いてオパールを掘る。その中のウィルソン一家はとーちゃんはヤマで石掘り、かーちゃんは食料品店でレジ打ち--と貧しいながらも懸命に働いていた。その幼い娘はポビーとディンガンという二人の空想の「友人」を信じて疑わない。それを見ている兄はなんとなく苛立たしい。
が、ある日父親のちょっとしたドジで「友人」が行方不明ということになってしまい、夜中の鉱山を探し回った揚げ句にトラブルに遭遇してしまう。
かくして、とーちゃんは窮地に立ち、妹娘は原因不明の熱出して寝込んでしまうのであった--。

ネットの様々な映画サイトやらブログなどを見てみたが、驚いたことにこの映画をケナしている感想は皆無であった。どれもこれも、「感動した」「涙が出た」「子どもたちが健気」というようなものばかりである。
だが、私は「ひねくれ者」である。骨の髄までひねくれ者なのだ。たとえ世界中の人間が感動の涙を流したとしても、シラケるものはシラケるのだ!

監督は『フル・モンティ』の人だ。確かに話の構造は似ている。多くの人がバカバカしいと思う事を主人公が熱心にやるうちに、人々を巻き込んで共感を得る--というのである。だが、あの《男のストリップ》に匹敵するような、バカバカしいおとぎ話を観客に納得させるだけのパワーにあふれたモノは存在しない。「葬式」がそれに当たるとはとても思えない。

だから、例え架空の友人ポビーとディンガンの実在を信じられたとしても、終盤の、町の人々が善意を発揮するなんていうのはとてもあり得ねえ~。これこそまさに架空の「おとぎ話」だろう。私にはこんなことは全く信じられない。

おまけに、妹がか弱いという感じではなくてコワい。まるで、ホラー映画の子役みたいだ。兄に嘆願するというよりおどしつけているように見える。にーちゃんが「夜中の鉱山なんて行きたくなーい」と拒否したら、たちまち部屋中の物体が舞い上がり飛び回り、妹の首がキキキと360度回転--みたいな感じ。(>y<;)コワイヨー

ということで、子役は健気なにーちゃん役の男の子の方に一票。音楽もよかったんだけどね……。
最後に思ったのは「子どもが出る感動作はもうよく吟味してから見よう」ということである。


主観点:5点
客観点:5点

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2005年12月25日 (日)

Team ARAGOTO「エビ大王」:新感線かと思ったらシェイクスピアだった罠

出演:筧利夫 他
会場:青山劇場
2005年12月14日

筧利夫が新しいユニットを作って時代ものをやるとか--。となると、てっきり新感線みたいなエンタテインメント活劇かと期待して行ったんだけどね。

が!全然違った。
原作は数年前に韓国でヒットした劇を翻訳したものだという。頑迷な王が世継ぎの男子が生まれず女子ばっかりなのに腹を立てて--というのは、日本の女帝がどうのこうのという話そのまんま。東アジア特有のネタなのか。
で、娘婿二人に国を二分割して任せる--ってのは、「リア王」じゃないですか。おまけに南北分断も想起させる。
さらに王様は国中を流浪の果てにおちぶれて、末娘は反乱軍を蜂起--ますますリア王だーっ。となると、ドジな死神は道化の代わりか?

結局、終始シリアスで重苦しい(途中で若干ギャグが入るが)ままだった。
だが、チャンバラ活劇ならともかく、シェイクスピアでは役者一同まだ十年~三十年早過ぎですよ。

さらに、そもそもひどい男尊女卑の話なのだが(もっとも今の日本の政治家でも平気でこのテのこと発言するヤツはいるからなー)、それを現代の社会で上演する限りはそれについていかなる立場を持っているのか、上演する側ははっきりさせなければならないと思う。
ようするに、この王様が男子に王位を継がせたいと必死になるのは当然だと考えているのか、昔のことだから仕方ないというのか、それとも「旧弊なエビ大王、逝ってよし」と見なしているのか、さっぱり分からないのである。
「女の子を大切にしてれば男の子も授かったのにねー」ってなことで、最後は理屈もなく「家族」に帰着してしまうんじゃ、高い金を払って観た価値がねーのよ。

ということで、結論は「騙されたーっ」であった。

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2005年12月24日 (土)

クリスマス・アルバムと言えば

そう言えば今日はクリスマス・イヴであった。
子供の頃は意味もなく「ケーキの食べられる日」という単純な認識でいたわけだが、この歳になって子どももいないとなると、フツーの他の日となんら変わらない。
それでも以前は、クリスマス・ソングなどをことさらにCD盆に載せてなぞみたが、ここ数年その努力も放棄……。

こんな感じでは盛り上がらんので、せめて愛聴してきたクリスマス・アルバムの名前だけでも挙げてみよう。

(1)ザ・チーフタンズ「The Bells of Dublin」
アイリッシュ・トラッドのベテラン・バンドがおなじみの聖歌やら伝統歌を演奏。ジャクソン・ブラウン、エルヴィス・コステロ、マリアンヌ・フェイスフルなどの多彩なゲストに象徴されるように様々な音楽の要素がごった煮状態になりつつも、素朴な味わいを楽しめる。ラストの合唱は感動間違いなし。

(2)ブルース・コバーン「christmas」
カナダのシンガーソングライターが、誰でも知っているようなクリスマス・ソングをアコースティックなアレンジで歌う。正直、地味の極致と言ってよく、聴いているとシミジミシミジミしてくるのであった。多分、国内盤は過去に出ていないと思う。

(3)山下達郎「シーズンズ・グリーティングス」
説明不要の超有名盤。

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2005年12月23日 (金)

「ゲント美術館名品展」:なぜか企画展より常設展に目移りが

サブタイトル:ヨーロッパの薫り、花の都から 西洋近代美術の中のベルギー
会場:埼玉県立近代美術館
2005年10月29日-12月25日(常設展:11月2日-2006年1月29日)

美術館の名を冠した所蔵品展というのはほとんど見に行ったことがない。その館が特定の方針で収集しているならともかく、そうでない場合は総花的になってしまい、結局あまり興味のない作品を見る破目になってしまうからだ。

で、まあこのベルギーの美術館の近現代コレクションについてもそうなってしまった。19世紀頃から時代順に並んでいるが、なんか美術史の教科書みたい。つくづく新古典派や印象派など自分は興味がないなあと感じながら見ていた。
イイっ!と思えるのは象徴主義の時代に入ってクノップフに入ったあたりから。30センチぐらいのところまで接近してジロジロ眺めてしまう。ス・テ・キ(*^^*)

それからアンソールはコーナーが設けられていて、天使やらキリストさんやらさらには画家本人が悪魔にイヂメられてる変な絵がいくつもあって、こういうのを見ているとやたら嬉しくなってしまうのであった。少し前にやってたアンソール展に行けばよかったと激しく後悔した。

全体的に、フランスやドイツなど周辺国の画家の作品が多い。また一方で、ベルギー出身のはずのマグリットやデルヴォーをフランスのアーティストと無意識に見なしてしまうことがある。
歴史的にはルネサンス期に独自の文化を生んだ地域だが、それ以降は周囲の国の影響に押されてたのかなあ、という感じがした。

どうでもいいことだが、同じタイミングで入場した客に、デカい声で作品の印象を語り合うオヤヂの集団がいてうるさくて参った。また、そいつらがアンソールあたりは興味ないらしく見事にすっ飛ばしちゃうんだよねえ。私と嗜好が全く逆なんで余計に腹が立った。


その後、常設展に向かう。埼玉県立近代美術館の所蔵品コーナーではなにげにユトリロ、モネ、デルヴォーなどの名品が並ぶ。埼玉県民の皆さん、こりゃ県民の誇りですよっ。
「駒井哲郎の世界」は、陰影のある幻想的な版画の小品。思わず夢の世界に……。まとめて寄贈されたものだそうな。

そして「アーティスト・プロジェクト--関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」は、こりゃすごい見もの。1968年に彫刻展に参加するのを決めたはいいが、なんにも思いつかなくて、追い詰められて、急きょ、会場の公演の土を円筒形に掘り出し、地上に同形の巨大オブジェ(高さ3メートルとか)をその土で作ってしまった--という記念的(かつ、いい加減な)プロジェクトの記録である。
展覧会終了後は元に埋め戻されたらしいが、いわゆる「もの派」の起点となった作品らしい。その作業のスライドや関連作品、また作者の初期作品などを展示。正直なところ、企画展よりこっちの方が実に面白かった。困ったもんだ。
今はもう存在しない作品が不在であるからこそ持つ存在感、というような奇妙にねじくれたものが感じられた(単なる過去の作品の美化、というようなものではなくて)。ドキドキワクワクしてしまう。
もう閉館時間間近だったので、じっくり見られなくて残念無念。

それにしても常設展の方はあまりに客が少ない、と思ってたら、企画展とは別に料金取るのねー(半額になるにしても)。普通、企画展のチケット買うと自動的に常設展も見られるもんじゃないの? でないと地味な常設展を見に来る人はあんまりいないと思うんだが。折角、展示してるんだから勿体ない。関係者に再考を促したくなっちゃうよ。

……などと考えながら京浜東北線に乗ったら、東京方面に行くはずがなぜか窓の外は大宮駅終点に(!o!) ウッカリ逆に乗ってしまったのであった(x_x)トホホ

ところで、「かつては非常に面白い企画をやってたのに今はパッとしない美術館」というのが、ここと目黒区美術館なんだけど、やっぱり担当者が変わっちゃったのかな(いや、そもそも運営団体が変わった?)。

【関連リンク】
埼玉県立近代美術館

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2005年12月18日 (日)

バッハ「ミサ曲ロ短調」:ティンパニのド迫力に感動です

演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン
会場:東京オペラシティコンサートホール
2005年12月11日

『ミサ曲ロ短調』ったら、近年の研究によってバッハの遺作と認定された作品である。しかも、生前に実際に演奏されたのかどうかも記録がなく、どういう理由で作曲されたかもよう分からんらしい。(バッハはプロテスタントだが、ミサの形式はカトリックのものに準じている)

BCJは確か数年前にも演奏しててその時も聴いてたが、今年は海外の公演でもずっとやってたのとこと。そのせいか、極めて安定感のある堂々とした演奏だった。
ただ、第二ソプラノの藤崎美苗が他に比べると今イチさえなかったような気がしたが、気のせいか? あと、アルトのインゲボルク・ダンツには文句は無いが、できればカウンターテナーで聴きたかったなあ。

器楽の方はホルンとティンパニを海外からの助っ人を登用。特にティンパニはすごい迫力で驚いた。単なる祝祭的な感じでやってますぅー、というようなもんじゃなくて、正しくここでこう叩かねばならないから、こう演奏しているのだっ!というような恐るべき気迫がヒシと伝わって来た。そんなに『ロ短調』をナマで聴いているわけではないが、その中でもこんなティンパニは初めてである。おかげで、全体的にも筋が真っ直ぐに一本通った、ビシッと決まった演奏になったように思う。

さて、合唱の編成は各声部3~4人という最近の古楽演奏ではスタンダードな人数。モダンの方では大抵この曲は大編成の合唱隊による数で勝負!みたいのが普通だろうから、そういうのを聞き慣れている人は少なく感じるかも知れない。
一方で、配られたパンフの中で鈴木雅明は最近流行の、リフキンが提唱している「一パート一人」のスタイルを真っ向から批判している。この件はこの先もずっと論争のタネになるんだろうが、真実はタイムマシンでも発明されて当時を覗いてみなければ分からないだろう。
ただ、結局のところ、現代の聴き手にとってはどのような演奏が好みかという点に帰着するしかないような気がする。

ちなみに、家に帰って我がCD棚をゴソゴソとあさってみたら、『ロ短調』はリフキン盤(完全に一パート一人体制)、バロット盤(声楽のみ一人ずつ)、レオンハルト盤が出て来た。リヒター盤も昔は愛聴してたはずなんだけど、引っ越しの時に処分してしまったかも(大汗) あ、もちろんBCJのCDが出たら買いますよ。

私はバッハの音楽がキリスト教の素養がないと理解できない、という説にはくみしないが(そんなこと言ったら、ロックに至るまでいかなる西洋音楽も完全には理解できないことになってしまう)、『マタイ』や『ヨハネ』のような受難曲はまだ演劇的な要素があるからなんとなく比較的に分かりやすいような気がする。だが、『ロ短調』は技巧的なことを別にしても難しい……何やら妙に神秘的であると同時に、お祭り的であり、荘重であるが軽やかな所もあり、極めて多面的である。演奏者はもちろん聴き手も試される作品であることは間違いないだろう。

【関連リンク】
こちらでもっとちゃんとした感想が読めます。
古楽ポリフォニックひとりごと
フライング拍手は逝ってよし!

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2005年12月17日 (土)

「ザ・ホワイトハウス」の補佐官が!

日頃、愛視聴している米国のTVドラマ『ザ・ホワイトハウス』のレオ補佐官役のジョン・スペンサーが亡くなったというニュースを知ってビックリ(!o!)
「心臓発作」ということは急死だったのだろうか。

『ザ・ホワイトハウス』はNHK地上波で放送が始まって、それ以来ずーっと見ている。現在ではBS2に移行、第4シリーズを放送中だ(スーパーチャンネルでは字幕版で最初から現在放送)。さすがに最初の頃ほどの面白さはなくなって来たが(長寿連続ドラマの宿命なのよ)、毎回欠かさずチェックしている。

米国では第7シリーズまで行ってるらしい。ということは、ちょうど大統領が二期目の終了を控えてこれからどーなる、という所なのだろうが、肝心の補佐官がいなくなってしまっては番組の存在自体どうなるのか心配。

それにしても、NHKは金を必ず取るといきまいているんなら、地上波で始めた外国ドラマは必ず地上波で最後まで放送してくれよー。BSでも続きがどうなることか予断を許さん。

先日、たまたまスパチャンをつけたら字幕版をやっていて、ジョン・スペンサーの声は吹替えよりずっと若い感じだった。ご冥福をお祈りします(-人-)

【追加】
「ABC(アメリカン・バカコメディ)振興会」の記事(注-第7シーズンのネタバレあり)によると、こりゃもうドラマ上完全に欠くべからざる重要人物になっているじゃないの。どーすんだろ。

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「バロックの歌~女王たちのアリア」:女王様ーっ!怒濤の歌いぶりに圧倒されました

波多野睦美 歌曲の変容シリーズ第1回
演奏:波多野睦美、寺神戸亮、梅原恭子ほか
会場:王子ホール
2005年12月8日

波多野睦美が、寺神戸亮を中心としたアンサンブルとの共演でバロックの名曲を歌うそうな。よし、最近出たばかりのCD『ひとときの音楽』を聴いて事前学習もバッチリよ。しかし、寺神戸さん数日前にはモーツァルトとヴィヴァルディやってたのに大活躍だなあ……なんて感じで行ったのだが、これが予想とは大違い。中身がすごく濃ゆ~いライヴであった。

まず前半は「バロックオペラの中の女王たち」ということで、モンテヴェルディ、チェスティ、パーセルの名作オペラの中から女王や女神など高貴な役柄の歌を聞かせるというプログラムである。一曲ずつとはいえ、波多野睦美は曲が始まる前にそれぞれの役柄になり切ったような入魂モード。
特に迫力だったのはモンテヴェルディの『ポッペア』であった。ローマの皇后が追放される時のアリアなのだが、別れの悲しみに始まり、それが徐々に怒りへと変わっていく様相があまりに素晴らしい。その表現力に圧倒されてしまった。「女王様、参りました」と王子ホールの床にガバッ_(_^_)_と平伏しちゃうぐらいだった。
あー、本式のオペラでこれぐらい見事な歌を聴けたらどんなに嬉しいことだろうか。

後半は、CDのジャケットにも使われている真紅のドレス姿で登場。しかし、楽器が舞台の端に寄せられているのは何故?と疑問に思っていたら、パーセルの『ダイドーとエネアス』を、朗読をつけて粗筋を紹介しながら、一人芝居ならぬ一人オペラ風に歌うという趣向だった。
『ダイドー』は確か十年ぐらい前に北とぴあ音楽祭で、やはり寺神戸亮との組み合わせで女王役を演じたはずである。ただ、今回は魔女との一人二役というのではなく、一人の女の中に女王であるダイドーとそれを呪う魔女が二重人格の如く同居しているという設定で歌われたのが変わっている。
恋に身を焼く女王とコワくて傲慢な魔女、その双方をカードの裏表のように完璧に歌い演じていたのは、またも見事の一言でウット~リと聞き惚れてしまった。

寺神戸さんのアンサンブルも歌の心にさりげなく沿うような演奏でこれまた素晴らしいものだった。

エイベックス・クラシックスから出たCDは同じ作曲家たちの曲が収められているが、なんとなく癒し系とかセミクラシック風に気軽に聞けるような作りにもなっている。しかし、実際にこうして舞台で聴いてみると、そのような予断を吹き飛ばすようなものだった。やはり、録音と実際の演奏は違うのねー、という当たり前のことをまたも思い知った公演であった。

問題だったのは、近くの席にブラボー厨が二人もいたこと。うるさくて参った。ブラボー叫べばいいっつーもんじゃねえぞ(*`ε´*)ノ☆ゴルァ

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2005年12月16日 (金)

「モーツァルト&ヴィヴァルディ/ヴィヴァルディ公演」:シャリュモーが渋過ぎですよっ

北とぴあ国際音楽祭記念事業
演奏:寺神戸亮、レ・ボレアード、ダリオ・ポニッスィ
会場:北とぴあさくらホール
2005年12月4日

かつて都内唯一の古楽&現代音楽の音楽祭だった北区主催の「北とぴあ国際音楽祭」であったが、景気の後退と共に規模縮小となり、現在では音楽監督の寺神戸亮がオペラなどを年一回公演を続けているのみとなっている。
今年は趣向を変えて、モーツァルトとヴィヴァルディの二日間公演。私はモーツァルトは守備範囲外なので、二日目の昼のヴィヴァルディの方に行った。

あまりにもポピュラーで毎度皆様お馴染みの『四季』を中心に、各楽章の間にヘンデル、テレマン、コレッリのコンチェルトを挟むという構成。
さらに「ご家族向け」を意識して、D・ポニッツィが『四季』の楽章ごとのソネットを朗読し、演奏中にパントマイムを披露して楽しめるようにしてある。もっともそれが成功しているかは謎だ。側に座っていた小学生の兄弟は終始退屈しているように見えた。大体ソネット自体が小学生に理解できるとは思えない。(もちろん大人たちはみな喜んでいたもよう)

演奏者の方は、BCJのメンバーとかなり重なっていた。特に今では寺神戸、若松、高田のヴァイオリン3人が揃うことはないので嬉しい。
弾き振りをした寺神戸さんは、曲に合わせて酔っ払ったアクションをつけて弾いたり、パントマイムの相手をしたりして大活躍。しかし、演奏自体は大きなメリハリをつけながらも極端に走らず、じっくりと耳を傾けたくなるものであった。

他ではテレマンのシャリュモーを使った曲が目を--じゃなくて耳を引いた。シャリュモーって初めて聞いたが、クラリネットの前身の楽器だそうな。その響きもそうだが、曲自体も「ご家族向け」どころか非常に「通向け」のように思えた。
ともあれ、小学生はともかく私は楽しめたコンサートであった。またも北区には足を向けて寝られねえー。区民の皆さん、ありがとう \(^o^)/

さて、パンフの後ろの記事によると来年度から音楽祭が復活とのこと。メデタイ! ただし、西洋だけじゃなくて東洋も含めたグローバルなものにするらしい。しかし、そうすると「東京の夏音楽祭」と内容的にかぶっちゃうんじゃないのと何気に心配。
来年の演目は決まっていて、実相寺演出によるハイドンのオペラとか。うーむ、面白そうなんだけど私はハイドンも守備範囲外なんだよね……。

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2005年12月14日 (水)

遂に「ゲド」のアニメ化キターーッ

今朝のニュースで、ジブリが『ゲド戦記』をアニメ化するのが正式発表されたというスポーツ紙の記事を紹介していた。
おまけに監督は……世襲制らしい。
さらに一作目には美少女が出てこないんだが、どうするつもりだろう。二作目と合体させるのか?
などと問題山積みなので、

キタ━━━('∀')━━━!!!!

という感じではなく、

キタ━━━('o';)━━━!!!!

であろうか。
原作者のル・グインは今のスタンスでは、どんな出来だろうと絶対に誉めたりしないよね。まさかっ!

--と、とりあえず突っ込んでみました。

【追記】
その後、なんと三作目をやるらしい事が判明。しかし、三作目にも美少女は出て来ないんだが……。
ハッ(!o!)それともゲドが美

(送信が中断されました)

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2005年12月11日 (日)

「奇談 キダン」:生暖かく見守るしかないホラー

監督:小松隆志
出演:藤澤恵麻、阿部寛
日本2005年

諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズ中でも傑作である『生命の木』の映画化。中でも「おらといっしょに~」のセリフは一度聞いたら(見たら)忘れられない、名セリフ中の名セリフなんである。
これを映画にするという噂を聞いた時、「本気か?」と正直思った。なぜなら、極めてヤバいネタを使っているからだ。『X-ファイル』でもこのネタの回は地上波ではスッパリとカットされていた。

実際見てみると、そこら辺の話はうまく当たり障りなく描いてあったようだ。問題なのは、原作が短編なのでもう一つ『天神さま』の神隠しの話もまぜていることと、ストーリーと手法が全く合っていないこと、この二つである。

そもそも、『生命の木』のエピソードはシリーズの中でもホラー色が薄く、伝奇SF的な話になっている。なにせキリスト教の根本を揺るがすような存在が、なぜかっ!?東北の山奥に細々と存在しているという一種のトンデモ話であり、読者はその奇妙な論理を驚きかつ楽しむ(短編なんで訝しんでおかしく思うヒマはない)ものなのだ。
そのような論理性の勝った物語を、どういう訳か昨今流行のJホラーっぽい作りにしている。昔の記録映像の部分は『リング』の恐怖のビデオをかなりイタダいているようで、怖いと感じるより失笑してしまった。また、旅館で子どもを目撃する場面などの怖がらせ方もJホラー系だし、何より題名がそのまんまという感じである。
この手法を取るんだったら、同じシリーズのホラー色の強い別の作品を選ぶべきだったろう。そのため全体的にギクシャクしている感が強い。

そして、神隠しの話では子どもたちが消えていた場所が、「いんへるの」と同じ世界というのは論理的にも感覚的にも納得できない。地獄ですよ、地獄。永遠の劫火に焼かれてんのよ。なんで、戻りたがるヤツがいるのよ。物語の根本を揺るがしかねない設定の矛盾である。

だが、この二つの点よりもさらに大きな問題なのは、全体を覆うモッサリ感、そして訳分かんない場面の存在だ。なんつーか、本当にテンポがモサーッとしているので、間が持たずに見ているこっちは座席の上でモゾモゾ体を動かしてみたり、鼻を撫でてみたり、それでもまだダメな時はニヤニヤ笑ってみたり……するしかないのである( -o-) sigh...
そのくせ、説明的セリフを恐るべき早口で言わせたり(原作読んでないと、何言ってるのかわからないかも)するんで困っちゃう。

さらに、稗田とヒロインが並んでポリポリ夕飯食ってる場面(もしかしてギャグ?)とか、阿部寛のムキムキ筋肉にビックリしてしまう入浴シーン(これはファンサービスですかっ)、それに加えてヒロインが深刻な顔で稗田と同室にいて布団の上でガバッと羽織を脱ぐイヤラシイ場面--次に予想されるのは当然「先生、私の全てを捧げます」というセリフではにゃあか。となれば、続いて映画館中に原作ファンの「え゛ーっ、稗田センセは絶対に女学生に手を出したりしねえだよ」(何故かなまる)という阿鼻叫喚が響き渡るのは間違いなし!
--のはずだったんだけど、どういう訳か何事もなく過ぎていくのであった。じゃ、一体アレは何? 訳分かんネ。

さらに終盤、私に追い打ちをかけたのはヒロインの顔のドアップなのであった。恐らく、全上映時間の40%を占める(あくまでも主観的推測)ほどに頻出するこのドアップは、スクリーンいっぱいに広がりそれがどの場面でも常に同じ角度で同じような表情なのであった。もう終いには「見飽きた……なんか他のものが見たい」と思ってしまい、そしたら代わりに稗田のドアップが登場して「妖怪退散!」と言わんばかりの眼力でこちらを睨んだので、私は「すいません」と座席の上で縮こまったのであった。

さて、映画系の掲示板やブログで感想を検索してみると、驚いたことに原作ファンには好評なようである。稗田役の阿部寛は思ったより違和感ないし、他の役者もおおむね不満なし(ただしヒロインだけは勘弁)。
それに確かに映像は原作のイメージをうまく再現している……ただしそれは十秒単位に分割して見れば、である。個々のカットを切り取って眺めれば文句はない。だがそれ以上連続して見たら上記のような不平不満が噴出してしまうと思うのだが--。

なんというか……原作のファンというのは、ある程度原作のイメージがそのまま映像化されればそこで満足してしまい、それ以上は求めないものなのだろうか。「おおーっ脳内イメージがそのまま眼前に!」とか「きゃー、○○が生きて動いてる」さらには「××をこの目で見れて、もうこれ以上何もいりません」てな感じか。
そう考えると『ロード・オブ・ザ・リング』の時の違和感もこういうものだったのかと納得行く。
しかし、私は「ひねくれ者」である。そんなんだけじゃ絶対に満足しねーのよ(~ ^~)  映画としてまともなもんじゃなきゃイヤだっ!

それにしても『X-ファイル』や『CSI』は、普通に考えればどうしようもないトンデモ話をよくあれだけまともに仕立て上げて見せてしまうなあ、と変な所で感心してしまった。

主観点:4点
客観点:5点

【関連リンク】
おたくにチャイハナ『奇談』
「隠れキリシタン料理」にビックリです。

(追加)
院生生活
私も「あの子たち、いきなり現代に戻ってきてこれからどーするんだろうなー」と心配してしまいました。

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2005年12月10日 (土)

「大貫妙子ピュア・アコースティック・クリスマス2005」:この日が誕生日だったそうな

共演:フェビアン・レザ・パネ、金子飛鳥カルテット、吉野弘志
会場:東京国際フォーラム
2005年11月28日

年末恒例の大貫妙子のアコースティック・ライヴである。私は今年で何回目だかもう分からなくなってしまった。ただ当然、アコースティック向けの曲ばかりをやるので、どうしても毎回似たような曲目になってしまう。
ということで最近は一年おきぐらいに行くようになってしまった。それでも今年はプレオーダーでエイヤッと注文してみたら、結構いい席が取れたので嬉しかった。普通に買ったんじゃ二階席の奥の端っこみたいな所になってしまって、オペラグラスでも無いと舞台の上が何がなんだかワカラン状態なのよ。

大貫妙子は赤いショールに薄墨色(?)と黒の中間ぐらいのドレスで登場。前半はちょっと声の調子が悪いように思えたが、段々上り調子で良くなってった。今回は途中のお召し変えもなかったし、また以前より曲目が少なく間のおしゃべりも短くなってしまったようだったのは気のせいか?

それに、これまた恒例のアンコール時のファンのプレゼント行列も昔に比べると短くなってしまった。前なんて、渡し終わるのに10分ぐらいかかってたのにさ。昔のファンは今いずこじゃ(?_?)
プレゼントを渡す人は女性の方がいつも圧倒的に多いが、数少ない男性は心なしかオタクっぽい人が多いのは笑ってしまった。(笑っちゃいかんのだが)

アンコールの一曲めは最新盤にも入っていた「春の手紙」で、これがとーってもよかった。元々名曲ではあるが、ほんとにシミジミシミジミした気分(´_`)になった。感動です。また来年もよろしくっという気分になった。

ところで、近くの席にアンコールが始まる少し前ぐらいにようやくやって来たサラリーマン風の男性がいた。仕事が抜けられなかったのだろうか、気の毒過ぎ~(+_+)

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2005年12月 8日 (木)

シュテファン・バルケンホール展:ああっ、あんな所にもオヤヂ像が!

サブタイトル:木の彫刻とレリーフ
会場:東京オペラシティアートギャラリー
2005年10月15日-12月25日

日本におけるドイツ年の一環ということか、またもドイツものである。
粗削りな木の彫刻作品が中心だが、そのほとんどはヘンなものばっかり)^o^( 台の上に立ってる3人のオヤヂとか、小さな裸体の男女とか、シマウマとか巨大な二つ頭のドラゴンとか--。男が象の頭だけ被ってる「エレファントマン」は、チラシとか「美術手帖」誌に載ってたので期待してたら、意外にも小型なのでちょっとビックリ。
とにかく変~な感覚にあふれている。

レリーフの方は二種類あって、一つは幾何学的な模様が彫られており、木像と組み合わせて眺めるヤツ。もう一つは人物の肖像や建築物を彫ったもの。実は一番面白く感じたのはこの種類のものだった。
特に建物(教会とか高層住宅なんか)を彫ったのものは、見ているとなんだか遠近感が混乱して頭がクラクラしてくる。どうしてかと思ったら、背景の空にあたる部分を削っているのでなく、そのまま手つかずで残して絵具を塗ってあるからだ。そうすると、当然背景の方が建物の部分より前に浮き出てみえるのでおかしく見えるのだ。

全体的ににそこはかとなくユーモア漂う奇妙な味の作品群だった。ただ、どうもなんか釈然としないところがあるなあ、と思いつつ会場外のアートショップに行った。そしたら、バルケンホールの作品集が並んでいて、それを見ると野外の橋の上にドーンと巨大な男の頭部の作品なんかが展示してある。こういう展示場所とのギャップを面白がるのが本来の姿なのかもと腑に落ちたのであった。
--ということで、是非オヤヂ像なんかを都庁あたりで展示して貰いたいもんである。あ、シマウマでもキリンでもいいけどね。

ところで、個々の作品名が会場のどこにも書いてないなあ、そういう方針なのかしらん……と首をひねってたら、なんと入口で貰ったリーフレットの内側に配置図と作品名が書かれていた。全然気付かなかったウッカリ者である。(・_*)\ペチッ
しかし、白地に蛍光オレンジ色の細かい文字じゃ、最近とみに老眼化が進んでいる我が目にはかなり読みづれえ~のよ。なんとかしてくれい。

同じ券で二階の収蔵品展「相笠昌義」とプロジェクトN「森本太郎」も見られる。世代や作風も全く正反対だが、それぞれ楽しめた。特に森本太郎はアクリル絵具を単色でバーッと塗り固めるような感じでとてもキレイ。金と飾れる場所があったら、是非一枚買って家に飾りたいとマジに思った。でも、二階まで上がって見にくる人は少なくて残念。

【追記】
上記の記事をアップしてから、他所のブログではなんと書かれているのだろうと、ブログ検索してみたら、123件ヒット……したはいいけれど、読んでみると「木彫りで暖かい」とか「優しい」とかあたかも癒し系であるかのような感想が結構多かったんで驚いた。
本文には明確に書かなかったんだけど、特に人物像には絶望の入口の一歩斜め手前から振り返って諧謔的に眺めたもの、という印象を私は受けた。
「冷笑」とまでは行かないけれど、かなり辛辣なものがある--ユーモアにくるまれているんで直接的にはグサリと来ないけれど。どう見ても癒し系ではない。
同じ作品を見ても、こうも受け取り方が違うのかとある意味感心したのであった。

【関連リンク】
東京オペラシティアートギャラリー

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2005年12月 4日 (日)

「ヴェニスの商人」:映像は素晴らしいが、総合点でパッとせず

監督:マイケル・ラドフォード
出演:アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズ
米国・イタリア・ルクセンブルグ・イギリス2004年

数あるシェイクスピア作品の中でも、有名なわりにはなんと初の映画化だそうな(サイレント時代にはあったらしいが)。
それも道理、原作ではユダヤ人は守銭奴・強欲・意地汚くって腹黒いという事になっている。こんなんでは現代の規範に照らし合わせるとおいそれと映画化できまい(まあ、『オセロー』もかなりヤバイものだが)。
もっとも、シェイクスピア自身はユダヤ人を見たこともなかったらしいし、この作品がそもそも喜劇である事を考えると、現在の娯楽映画の「マフィアの首領」「IT長者成金」とか「政府の工作員」並みの記号的意味合いの悪役でしかなかったと推測できる。要するに、当時の社会の偏見を型通りに反映したものなのだろう。

しかし、シャイロックを悪役でなく悲劇の主人公としてみなすという見方はかなり昔からあったらしい。原作の戯曲しか読んだことがなかった私がそのような視点があるというのを知ったのは、恥ずかしながら『ガラスの仮面』であった。(木亥火暴)

さて、この映画ではそんな歴史に配慮してか、最初からドーンと当時のユダヤ人差別のただし書きが出て来てしまう。で、観客は「ああ、これはかわいそうなユダヤ人をいぢめる話なのね」という回路が脳内に予め出来てしまうわけだ。

さらに、シャイロックから友人のために金を借りてやるアントーニオは貿易に出した船が難破してしまう。この世知辛い日本の世の中、頭に浮かんでくるのは「ああ、人生どんな不幸が起るか分からん。今住んでるマンションは大丈夫か。ペイオフ実施でどうなる。郵便貯金はなんとしよ」なんて事ばかりだ。

その友人バッサーニオはそもそも恋する娘に求婚するための支度金が必要だったのだが、この件を見ても「ああ、恋の沙汰も金次第か。世知辛いのう」とますます落ち込んでゆくのであった。

という訳で、借金とその取り立て騒動と並行してもう一つの柱である、求婚と「箱選び」のエピソードの方は本来ロマンチックなおとぎ話的恋愛話のはずなのにさっぱり盛り上がらないのである。やっぱり世情のせいかねえ。
おまけにテンポがノホホ~ンとした感じなので見ててイライラしてきて、バッサーニオに対して「あんた恩人が窮地に陥ってんのに浮かれてる場合かい」などと説教したくなってしまう。

ポーシャ役のリン・コリンズはネット上の意見を見ると「美人」「ブス」の評価が真っ二つに分かれていて、こうも各人の美意識というのは違うものかと笑っちゃったが、私にはとてもキレイに見えた。ただ、役柄としては「お金持ちのお姫様」然としていてあんまり面白くない。男装した時はよかったんで、こりゃ演出のせいかね。

アル・パチーノは「シャイロックを演じたくって待ってました!」的オーラを発しまくり、ド迫力の演技を見せてくれる。偏屈な頑固オヤジが最後にその頑固さゆえにしっぺ返しを受けてしまうわけだが、その頑固ぶりも見事ながら、改宗を命じられた時の嘆きなど、もう感極まって思わずこっちまでもらい泣きしてしまうほどだ。

それから、アントーニオ役のジェレミー・アイアンズはまさに退廃的美中年の鑑!とでもいいたくなるぐらいに風情あり。日本のオヤヂも「レオン」なんか読んでないで彼を見習うべしと言いたくなるが、いずれにしろ素が良くなければ何を手本にしてもムダだからねえ……。

全体的に映像は申しぶんなく美しい。現地ロケしたというだけはあって、背景や小道具や照明(一部フェルメールを意識してる?)など見事だ。で、俳優も文句なしとなれば、問題はバストショットばかり撮ってそれらを全く生かしていない、ノホホンとした演出や編集にあるとしか言えないだろう。
ついでに、当時の英国やイタリアには素晴らしい歌曲がゴマンとあるのに、使われてないのにこれまた不満である。美術面の復元に気を使うのなら音楽の方も頼むよー、監督!


主観点:6点
客観点:7点


【関連リンク】
ようこそ劇場へ!
勉強になります。

凛大姐&小姐的極楽日記!
すごく笑える(映画に関係ない部分に)。ただ、この冒頭の写真は……どう見てもイヤラシーく見えてしまうのは私だけか? こ、これではフ女子が狂喜しそう(@_@) そうゆう話だったんかい!

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2005年12月 3日 (土)

「イギリスの古い音楽を集めて」:思わず財布を握りしめる

近江楽堂大江戸バロックシリーズ2005
出演:桐山建志、大塚直哉
会場:東京オペラシティ近江楽堂
2005年11月23日

家を出るのが遅れて(毎度のことながら)会場に着いた時は開演ギリギリ。で、一番前の席しか空いてなくて仕方なく座る。
なぜ、一番前がイヤかというと万が一、眠気虫に食いつかれた時に演奏者に見られたら悪くて恥ずかしいからである。

さて、同じ会場でこの二人の演奏を聴くのは三回めぐらいか? 今回はタイトルにもあるようにイギリスのバロック音楽を演奏した。
前半は「ディヴィジョン・ヴァイオリン」という曲集からブルやロック、後は名前も知らん作曲家の作品など。名曲「涙のパヴァーヌ」や「グリーンスリーヴス」を当時編曲したものもあった。

後半は英国バロックの代表的作曲家ヘンリー・パーセルとその弟ダニエル・パーセルの曲を演奏。恥ずかしながらパーセルに同業の弟がいたとは全く知らなかった。弟についてはヴァイオリンのソナタを3曲披露してくれた。

大塚直哉は鍵盤楽器をチェンバロではなくてヴァージナルを使用。またも恥ずかしながらナマで聴くのは初めてである。外見は台形の小さな机みたいな感じだが、一応チェンバロの仲間に入るらしい。しかし、弦が横に張ってあって、大きさはチェンバロより小型なのに音はずっと大きく聞こえる。途中で大塚さんの楽器の説明があって、終演後は客が大勢近くで眺めていた。

知らない曲が多かったが、小さなホールでヴァイオリンやヴァージナルの音を間近に聴けて、もうお腹いっぱいに堪能できたコンサートであった。(眠気虫も出現しなかったしね……)
ロンドン・バロックもこれくらい間近で聴いてみたかったのう。--っても、不可能な話だが。

アンコールはつい先日出たばっかりの二人のCDからバッハを演奏してくれた。これがまた素晴らしくって、思わず財布を握りしめてCDを買いに駆け出したくなるほどであった。
次は東京文化会館でやるとのことで楽しみ \(^o^)/

最後に文句。
アンケート用紙を配ったにもかかわらず、終わった後集める人(または場所)がいなくて記入した用紙を持ってウロウロしている客が大勢いた。集める気がないというか、どうでもいいのなら最初から配らなければいいだろうと思う。配ったからにはちゃんと回収をしてくれい。

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2005年12月 2日 (金)

「ドイツ写真の現在」:はたして「現実」はカメラの向こうか、こちら側か?

サブタイトル:かわりゆく「現実」と向かいあうために
会場:東京国立近代美術館
2005年10月25日~12月18日

ドイツの「今」の写真家を10組紹介する美術展。そのうち知っているのは、ベッヒャー夫妻とロレッタ・ルックス、ヴォルフガング・ティルマンスぐらいだ。

目を引くのは証券取引所や駅の群衆を巨大な作品で捉えたアンドレアス・グルスキー。空疎であることと雑多な空間のダイナミズムが全く違和感なく同居している。ただ川岸の光景を撮った「ライン川」も素晴らしい。

同じく空疎な風景といえばハンス=クリスティアン・シンクもド迫力。人も車の姿も全くない巨大な橋や道路--まるで古代ローマや中国の遺構のように巨大写真の中に捉えられているが、実際は東西ドイツの統一プロジェクトで作られた新品なのだという。その静謐さはもはや「幽玄」の域に達していて、何やら鬼気迫るものまで感じられる。

今イチだったのは、報道写真の複製などをズラーッと並べたミヒャエル・シュミット。ドイツ現代史を知らないと理解不能のような? 背景を知らずに見ただけで何かを感じさせるような作品でもないしね……。
木や建物の小品を配置したハイディ・シュペッカーは、展示場所と方法が悪かったんじゃないのと疑いたくなるような分からなさであった。

一番、何かを感じたのはトーマス・デマンドだった。実物大の紙の模型で歴史的事件や報道写真の現場を再現して撮影したそうで、一見ただの変哲もない廊下やバスルームである。だがなんだか得体の知れぬ気配が存在する。何かが起ったはずなのだが、もはやそれがなんなのかは分からない--というような。
特に「テラス」という作品は、食事の終わったばかりの皿が並んだ食卓がある無人の部屋(?)を写したに過ぎないのだが、何かちょっといかがわしげな絶妙な照明といい構図といい、コワい怪談話を聞いた後に誰もいない部屋に入った時のような雰囲気がある。思わず何度も眺めてしまった。

同じ券で別の階のアウグスト・ザンダー展も見ることができて、新旧ドイツ写真の世界を堪能。満足できた。

それにしても、よくよく考えるとフツーに素直に「人間」を撮ったものはW・ティルマンスぐらいしかないのはどうしたことだろう? もっとも、彼の写真も人とモノや風景が全く等価に捉えられていて、そこに対象への思い入れの差はないように思える。(例えば、アラーキーとは似て非なる、って感じ)
アウグスト・ザンダーとはその点でまことに好対照である。L・ルックスは同じ「肖像」といっても完全に意味が違うし……。いや、やっぱり同じことか。
キュレイターがわざとこんな選び方をしたのか、それともこれがドイツの写真の現状なのだろうか?

--と首をひねってたが、もしかしてこちらの文章のようなことを感じたのかも知れない。自分でもよう分からんが。


ところで、同じドイツ美術関係ではゲルハルト・リヒター展(「ドイツ写真の現在」のチラシに割引券が付いている)もヒジョ~~~に見に行きたい。とっても見に行きたいのだが、私の家からだと川村記念美術館は片道2時間半以上--下手すれば3時間近くかかってしまう。往復6時間だよ(>_<) あんまりにも遠いんで、途中で見知らぬ異邦の千葉の地でパッタリ倒れたりしてしまったらどーしよう(^o^;
ムムム……そんな辺鄙な所に美術館建てんなーと言いたいぞ。


【関連リンク】
以下で実際に作品がみられる。
東京国立近代美術館
美術館.com特集ページ

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