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2006年1月 9日 (月)

新聞のコンサート評にブチ切れる

休日に、ためていた新聞をまとめて読んでいたら、クレマン・ジャヌカン・アンサンブルのコンサート評を見つけた。(朝日新聞2006年1月5日夕刊)

書いたのは岡田暁生という人で、最近では中公新書から『西洋音楽史』を出している学者らしい。
冒頭から三分の二ぐらいは誉めている。だが「擬音や漫才のような掛け合いといった、フォークロア的要素」「大道芸人的な猥雑さ」と書いておきながら、その数行後に今度は「最先端ファッションのような洗練された遊び感覚でいっぱいだ」とか「これらの音楽が本来持っていただろう生々しいアクや生活臭は、完璧に濾過されている」なんて文章が出てくる。

えー、あのう、論理的に矛盾してませんか? 結局彼らの演奏は「猥雑」か「洗練」のどっちだったんですか(?_?)

それからあたかも、ジャヌカンのシャンソンを民謡のような「土俗的」で「生活臭」あるもののように書いているが、教会の楽長のような職業にあった音楽家が楽譜に記した作品が、そもそも「土俗的」であるわけがないっつーの。
真の土俗的音楽はその時代の下町の酒場の横で酔っ払いが歌っていた歌のようなものだろうが、そんなものは決して記録には残らない。現代の人間は楽譜に残された同時代の音楽を透かし見て、かろうじてそれを推測するしかないのだ。

--でも、こんなことは音楽史をやってる学者さんなら当然分かってるよねえ。分かって書いてるんだから始末に悪い。

しかもラストではECJの「洗練」というのは、「「前近代の」音楽を演奏会という「近代の」制度の中へ搬入するための、不可欠の手続き」である、としている。つまり、現在の聴衆を相手にしたコンサートで演奏するために、わざと音楽の性格をシャレこいたものに変えているというのだ。
このような見方自体が、「近代」的音楽観の弊害に他ならない。だって、「前近代」の音楽は「近代」の音楽よりも野蛮であって、洗練されてないものである。そして、それを今の人間が聴いても理解できっこない--という前提(偏見?)に立っているんだからねえ。

結局、この手の学者の文章というのは演奏家のためでもなく、聴衆のためでもなく、ましてや読者のためでもなく、自分のために書いているというのが改めてよーく分かったよ。

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