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2006年2月

2006年2月28日 (火)

有元利夫展

会場:小川美術館
2006年2月20日-3月4日

新聞の夕刊の展覧会を紹介するコーナーの小さな記事で初めて知って、あわてて見に行った。
有元利夫は1985年に38歳で亡くなった画家(24日が命日だったとか)。主な作品は油彩だが中世・ルネサンス美術のフレスコ画を模したタッチで描いている。
そのほとんどは男女のどちらともつかぬ長衣をまとった人物がいる、静謐な感じの作品である。
クラシック音楽のファンだと、日本のアリアーレというマイナー・レーベルのCDジャケットに使われているので知っている人もいるだろう。

日曜とはいえ雨の日で、小さい美術館なのに(彌生画廊の運営してるトコらしい)人が結構いて驚いた。やはり根強いファンが多いのか。
回顧展という事で作品はいっぱいあって見応えあり。小さいものだけど木彫もやってたのを知って驚く。遠くから眺めたり近くにくっ付いて見てみたりいろいろやって鑑賞。

画廊の人が他の客に説明しているのを、背後からこっそり接近して耳ダンボで聞いてみると、フレスコ画を模すために一度塗った絵具を削ったり、わざとカンバスをぐじゃぐじゃに丸めてシワをつけたりしたらしい。
そう知って見ると、なるほど確かに絵具がはがれ落ちたような所や全体的にボヤーっとかすれたような絵がある。

私は昔、ジョットとかチマブーエのフレスコの宗教画が嫌いだった。なんか平板な感じがして詰まんなかったのである。しかし中世やルネサンスの音楽を聴くようになってから、逆にその要素が宗教音楽の恍惚感に似ているように思えて好きになった。(人間の好みなぞいい加減という証明)

有元利夫の絵のタイトルは音楽関係のものが多い。「ロンド」とか「カノン」とか--。やはり作者も同じような事を感じていたのかもしれん。(もっとも、美術館ではタイトルを掲示してなくてあとで調べて知ったんだけど)
BGMにずっとサティっぽいピアノ曲(と思ってたらハープらしい)が流れてたのだが、なんと彼の作った曲なのだという。CDも売っていた。

一番気に入った絵は、満月の夜に森の外れで地面に円を描いている人物がいる「一人の夜」というのだった。ルソーの「カーニバルの夜」に夜の森の感じがちょっと似ている。しかし、その夜空の暗い色彩のかすれ具合が何ともいえず絶妙である。
それからタイトルは分からないが、白い長い棒(?)を持った人物を描いた小さめの絵も気に入った。有名な「花降る日」などもじっくり鑑賞できて大満足であった。

【関連リンク】
小川美術館(彌生画廊)

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2006年2月26日 (日)

「ジャーヘッド」:今どきの戦争事情

監督:サム・メンデス
出演:ジェイク・ギレンホール
米国2005年

『アメリカン・ビューティー』で話題となったS・メンデス監督の新作は湾岸戦争を扱っている。
主人公は軍人一家に生まれ、海兵隊に入って厳しい訓練に耐えて狙撃兵となり、いつでも出撃オッケー。そして遂に待ちに待った戦争が!
戦争キタ━━━('∀')━━━ッ!!!!
てな調子で喜び勇んで中東の地へ……行ったはいいが、なかなか宣戦布告は行なわれずひたすら砂まみれで待機すること半年なのであった(=_=;)

しかも、基地の中に籠って駐留先の現地人とは一切交流することはない。何のために行ってるんだか分からない。
まあ、こうもやる事がないとマジに「捕虜でもいたらイヂメルぐらいしか楽しみはないわな」とか「基地の外で暴れて発散するしかない」とか納得しちゃうわけですよ。

そういうダルな今どきの「戦争」の一面があます所なく描かれ、何事もない日々への兵士たちの焦燥感をうまく見せている。退屈な時間をモロにそのまま描いたら観客も退屈しちゃうはずだから、これはやはり演出の手腕だろう。
そしてうまく兵士たちの感情に観る側も共感できるようになるのだ。

だから、終盤のクライマックスの主人公たちの、冷静に見れば理不尽な主張に思わず同感してしまい、つい「そうだっ!やらせてやれよー」と思ってしまう。
この場面でのピーター・サースガードはホントに上手い。他にもジェイミー・フォックスとかクリス・クーパーとか出演しているが、群を抜いている。それまでの冷静なイメージの人物像が一変する場面だが全く不自然ではない。早くも再び今年度助演男優賞候補にしちゃうよ。

--と、ここまでほめて来たが、全体を通して見るとやっぱり不満が残る。なんだか全体に煮えきらないのだ。
この映画内で言及されているために、よく引き合いに出される『地獄の黙示録』や『フルメタル・ジャケット』はそれぞれ、前者は感傷的なロマンティシズムの極致、後者は虫メガネでアリを観察する如きの冷静さ、に徹していてその極端さゆえに面白く感じる。
だが、そのどちらでもない『ジャーヘッド』は「だから、どーだってのよ」と言いたくなってしまう。

それに冒頭と最後に入る主人公の独白「平和な暮しをしていても銃の感触は忘れない」(←よく覚えてない)みたいなのは、ストーリーと合わないような気がするんだが?
こんなんじゃオリバー・ストーンみたいな暑苦しいオヤヂから「なーに言ってやがる。そんな事は人殺してから言え~」なんて一蹴されちゃうだろう。

結局、最後に残るのは「戦場に行って可哀想なオレ」という自己憐憫なのであった。
だが、残念ながら戦争とは相手がいてこそ行なわれるものである。そのような自己憐憫を相手側はどのように受け取るだろうか?「そうだ、彼らは可哀想だったんだ」と納得するだろうか。(ま、「相手の事など最初から想定外です」と言われればしょうがないんだけどさ)

下ネタやらお下劣な罵倒が多いのでお上品な方は避けた方がよいかも。さらに○○○の焼却場面は……(>_<) ビデオが出ても絶対に食事中は見ない事をオススメする。
評判になってた、兵士たちが『地獄の黙示録』を観る場面は確かに笑えた。『グレムリン2』でグレムリン達が映画鑑賞する場面を思い出してしまったのは私だけか。

この映画と『スタンドアップ』を観ると、絶対に見習いたくないアメリカの「底国」ぶりが直裁に描かれていてウツになる。そのせいか両作とも客の入りは最悪(\_\;


主観点:7点
客観点:8点

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2006年2月25日 (土)

ヴィヴァルディ「バヤゼット」:クラシック版「噂の真相」を求む

神奈川県立音楽堂開館50周年記念
演奏:ファビオ・ビオンディ&エウローパ・ガランテ
会場:神奈川県立音楽堂
2006年2月19日

ヴィヴァルディ晩年のオペラを世界初録音したF・ビオンディが同じキャストを伴って来日!ということで話題になったらしく、早々に満員御礼売切れとなった公演である。
もっとも完全なヴィヴァルディの作品というわけではなくて、他人の作品を含む既存のアリアを継ぎはぎして新作にしてしまう「パスティッチョ」というやつらしい。どれが彼の作った曲かはハッキリしていないそうだ。

ストーリーはというと、ダッタンの皇帝がトルコに勝利、その皇帝バヤゼットを捕虜とするが彼の娘をひと目見てホの字に。自分の婚約者を放り出して求愛するが--てな感じで、歴史物の体裁を取っているが要するに男女のごたごたした三角、いや四角関係の話である。

しかし今回の公演ではなぜか演出家とカウンターテナーが降板、代わりにメゾソプラノが入ったためにバヤゼット以外は全て女という布陣になった。まさに濃ゆ~い女声の競演という感じで、客席からはブラボーと拍手が飛び交った。
ただ本来はカウンターテナーだった王子役はなぜか情けない歌(「私は苦しい」とか「もうだめだ」とか「死にそう」とか)が多く、しかも代役のメゾの人は線の細い声質なために若干、拍手が少なめだったのは仕方ないだろう。

一方、演出家の後釜には日本人の名前が入っていたが、ほとんど演出は無きが如し。オリエンタル風の衣装がとても豪華だった事を除けば、舞台装置も簡素だし演奏会形式でも全く構わなかったんじゃないかと思えるほどだ。
もっとも会場のステージは狭くて大がかりな演出なんか、やりたくても出来そうになかったが。

ビオンディはかつては若手イタリア古楽勢の進出の先鋒といった立場の人だったと思うが、この日も熱のこもった、まさに弾き振りというやつで、ヴァイオリンの弓を振り回しながら指揮していた。途中で飛び跳ねたりなんてことも……(^o^;

しかしである、私は二つの理由でどうも今回の舞台にのめり込めないのを感じた。
一つはPAシステムを使っていたのではないかということだ。会場は五十周年記念というだけあって、古くて狭苦しいホールである。収容人員は約1100人だというからオペラシティと大して変わらないようだが、面積で比べると三分の二ぐらいのもんだろう。
その事を差し引いたとしても音が聞こえ過ぎる。拡声装置を使っていたとしか思えない。別に使っていたとしても一向に構わないのだが(北とぴああたりはいつも使用しているはず)、どうも音のバランスが悪く聞こえてとても気になった。
もし装置を使っていないとしたら、この音楽堂は音がやたらに伝わる驚異の構造だとしか言いようがない。

それからもう一つの理由は、バロックの器楽演奏から入って来た私のようなリスナーには、もろに「オペラっ(^◇^)」という印象で濃ゆ過ぎるのであった。周囲の聴衆のほとんどはバロックファンというよりは正統的オペラファンのようで--私の隣の客は「まあ、見たこともない珍しい楽器だわ」(テオルボのことを指していたと思われる)などと言っていた。そういうファンとはやはり嗜好が異なるように思えた。
その証拠に翌日のエウローパ・ガランテ単独の演奏会(非声楽)は客が入ってなかったらしい。この日満員だったのは声楽ファン、オペラファンが集まったせいだろう。
という訳で薄味系バロック愛好者の私は、周囲の熱狂にはノれずに「もうお腹いっぱい」感だけが残ったのであった。

3時に開演して6時40分終了。疲れた……往復にも時間かかったし、寒い日だったし。


演出家とカウンターテナー降板の理由は「極東の島国に来るのが面倒くさかったためだ」と掲示板に書かれていたがそこら辺の真相はどうなんだろう。求むクラシック版「噂の真相」。
あと、昔のホールだから女子トイレが少なくために長~い行列ができていた。中で「和式一つ空きました」などと「交通整理」やってたのにはビックリよ。


【関連リンク】
公式HPより
あらすじが紹介されている。

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2006年2月24日 (金)

NHKのニュースにあの人が登場

昨晩のNHKニュースをぼーっと見ていたら文化庁の「メディア芸術祭」というのを取り上げていて、何やらやたらスーツ姿の似合わない怪しげな中年男が映っていた。
だがそれは、な、なんと吾妻ひでおだったのだ(!o!)
なんでも『失踪日記』がマンガ部門の大賞を取ったらしい。
吾妻先生、おめでとうございまーす。もう、こりゃ続編描くしかないね。

しかし、他の作品が『ドラゴン桜』『エマ』『PLUTO』--って、出版社系の××漫画賞とあまり変わらんような……(^^?)

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2006年2月23日 (木)

「オリバー・ツイスト」:ディケンズ先生、すいません

監督:ロマン・ポランスキー
出演:バーニー・クラーク、ベン・キングズレー
米国2005年

むかしむかし、英国にオリバーというたいへんかわいくてよい子がおりました。どれくらいかわいい子かというと、ショタコンのおねーさん達が「きゃーっ」と叫んで100メートルダッシュして押し寄せてくるぐらいです。
そして、どれくらい心根のよい子かというと、孤児院を放り出されて引き取られた葬儀屋で犬のエサを食わされてこき使われても、黙ってちゃんと働くほどでした。

もちろん、このブログを読んでいるようなひねくれ者の皆さんは「信じられんなー、おれは生まれてこの方そんなヤツ見たことねーよ」と言うでしょう。でも、これは昔の話なのです。腐敗した現代社会と違って、文豪ディケンズ先生が生きていた頃はそういう子がいたのです。文句あっか?

さて、葬儀屋からいびり出されたオリバーはとぼとぼと歩いてロンドンへ。行き倒れ寸前でいるところをスリの少年に拾われて、いかにも悪~い強欲老人フェイギンに紹介されるのでした。でも、よい子のオリバーは疑う事を知らず、恩義を感じて彼のいう通りに「仕事」をしようとします……。

拾われる先々で相手に誠心誠意を尽くす彼は「純粋無垢」ということになっているようですが、どう見ても「自我がない」としか思えません。その出自についてかなり原作を変えているそうですが、そうなると余計になんで皆が彼に肩入れしたくなるのか分からなくなってくるのです。おまけに後半では肝心の彼があまり画面に登場しなくなってしまうではありませんか。
不在で空白の主人公とはこれいかに(?_?) それだったら、フェイギンがオリバーの寝顔を覗きながら「かわゆいのう」とヨダレでも流している場面でも入れて欲しかったぐらいです。

お金をかけて当時の町並みや人々の様子、小道具、衣装を見事に再現しながら、どうにも歯切れの悪い不可解で退屈な映画になってしまいました。昔のよい子ならぬ現代の悪い子が見たら、きっと「詰まんネ」と思うことでしょう。

もっとも、ショタコンのおねーさんたちはタイトル・ロールのバーニー・クラーク君の美少年ぶりに満足することでしょう。そうでないフケ専の方々には、さすが名優「ベン・キングズレー萌え~」となることをオススメします。なにせ「どんな名優も子役と動物には勝てない」と言われるのを、完全に両方ともに勝っているほどの名演技です。
フケ専でもない方は外見は獰猛そうだが実は飼い主よりも賢いワン公に注目という手もあります。健全な紳士は娼婦のナンシーの胸の谷間を眺めるしかありませんね。

やはりこれは原作を読んでなかった罰でしょうか。そうだとしたらディケンズ先生ごめんなさい。お尻をぶたないで。_(_^_)_


主観点:6点
客観点:7点

【関連リンク】
「サブミハリータ」
色々と参考になります。

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2006年2月19日 (日)

「オラファー エリアソン 影の光」:不可視の時と空間を視る

会場:原美術館
2005年11月17日-2006年3月5日

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昨日、品川の原美術館行ったんです。原美術館。
そしたらなんかアベックがめちゃくちゃいっぱいでごった返してるんです。
で、よく見たらなんかポスター貼ってあって、オラファー エリアソン一般1000円、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、1000円如きで普段来てない原美術館に来てんじゃねーよ、ボケが。
1000円だよ、1000円。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で美術鑑賞か。おめでてーな。
よーしパパ解説しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、1000円やるからその場所空けろと。
美術館ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
作品挟んでアーティストと客といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと見れたかと思ったら、隣のアベックが、カフェのケーキおいしそー、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、ケーキなんて食ってるヒマはねーんだよ。ボケが。
お前らは本当にアートを見たいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前ら、デートしたいだけちゃうんかと。
美術館通の俺から言わせてもらえば今、美術館通の間での最新流行はやっぱり、
ワンカップ大関、これだね。
スポーツ新聞片手にワンカップ大関。これが通の鑑賞法。
床に新聞広げてワンカップをチビリチビリやりながら寝っ転がって見る。ゴロッと。
で、新聞は東京中日スポーツ。これ最強。
しかしこれをやると次から監視員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、表参道ヒルズでも行ってなさいってこった。
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前から行こう行こうと思っていながら、ついつい延期してしまって今ごろになってしまったこの美術展……が、行ってみて驚いた。普段は静かな原美術館が人でいっぱいではないか。一瞬、団体客でも来てるのかと勘違いしてしまったよ。正直言って、原美術館がこんなに混雑しているのは初めて見た! なるほど、一か月期間延長したのも納得だ。

エリアソンはデンマーク出身のアーティストとのこと。環境を利用した大規模なインスタレーションなど作品は広範囲なものらしいが、今回の展示では光を使ったものが中心だった。
色のついたアクリル?の輪を暗い部屋の真ん中に複数重ねて吊るして回転させ、それをライトで照らした「色彩の空間を包み込むもの」はとてもカラフルで美しい。見るのはその輪自体ではなく、壁に投影される、輪の放つ光(と影)を眺める。
それぞれの輪は大きさと回転の速さと色が違うので、投影される光の輪っかは大きさや形が微妙にズレて行き、色彩も美しく混ざりあう。刻々と変化する色と形はずっと見ていても全く飽きない。そのためかこの作品の部屋が一番混雑していた。

隣接した奥の部屋の「カメラオブスキュラ」はピンホールカメラの原理を利用して、美術館の外の風景を中のスクリーンに倒立して映し出す。外が明るいとキレイらしいんだが、私が行った時はもう夕方で薄暗いもやもやした風景しか見えなかった。残念無念である。

ポスターやチラシに使われていて、一番話題になっているのが「美」だ。常設の森村泰昌のトイレ作品を横目に見て奥の真っ暗なスペースに入って行くと、天井から微細な霧雨が降っている。それにライトが当てられていて、正面から見ると人工の虹が(!o!)
しかも水量を調節しているのか、それとも人の移動で空気が動くのか、少しずつ微妙に虹の形と色が変化して行く。まるで、虹の薄い幕が張られて揺れ動いているようである。思わずぼーっと見入ってしまう。

「空間を包み込むもの」は「色彩の~」の基本型のような感じ。こちらは金属の輪っかが一個だけ部屋の真ん中に下がっていて、その輪の幅の部分に鏡が貼ってあるらしい。そうすると、その鏡がライトを反射して少し幅のある鮮明な光の輪が一本だけできる。それがゆっくりと回転して行く。
光の輪は小さな部屋の壁を(ライトの背面の部分まで)なぞるように動き、あたかも目に見えない空間をクッキリとかたどっていくかのようだ。
本当にそれだけの作品なのだが、シンプルさが却って印象的である。

さて、私が一番惹かれたのは「円を描く虹」である。これもライトの前に50センチぐらいの金属製の輪が一つぶら下がって回転しているだけだ。しかし、その輪の形状のため反射した光の輪は幾つも様々に生じる。
大きさ・幅・光の濃淡--複数の輪が規則的にゆっくりと生まれては消え、環状の形を解体させたりまた繋がったりして、部屋全体の壁をたどっていく。一連の動きは数分ごとに繰り返し、目に見えないはずの時間と空間を描き出して見せる。そこで鑑賞者が目撃するのは単なる光の輪ではなく、時の流れと空間の広がりなのである。

と同時に、そこには他の作品にない神秘性が感じられた。私が非常に引きつけられたのはそのせいだろう。
部屋の空間を舞台にして、何者の干渉も受けずただ生成・解体・消滅を繰り返す過程を見ていると、『2001年宇宙の旅』の惑星直列の場面や、スターゲイト・コリドーの生命の誕生と滅亡を示す部分を思い出す。あの、明確な科学に裏打ちされた神秘性とでもいうものが、やはり「円を描く虹」にも存在するのだ。
そして、そういうものを見ていると強く自分の暗い内部に底に引き込まれていくような気がする……。

どの作品も素晴らしく、思わず全部二度ずつ見直してしまった。
それにしても不可解なのは客のほとんどが似たような年代・タイプの若いカップルだったことである。しかも、部屋の隅に座り込んで作品を見るでもなくおしゃべりしている。なんで(?_?)
あとで知ったのだが、テレビの深夜番組でデートスポットとして紹介されたらしい。なるほどそれがあの混雑の原因だったのか。
どうりでデジカメやケータイでバシャバシャ写真撮りまくる奴が絶えなかったのも納得だ。目撃した時に「大丈夫か?」と思ったが(美術館の人が注意していたが人数が多過ぎてとても対処できてなかった)、「作品」ではなく年末のイルミネーションみたいなイベントの類いと見なしているなら理解できない行動ではない。
しかし展示空間の設定自体が、このような多人数は「想定の範囲外」に作られているので、じっくり鑑賞という気分にはなれなかったのが正直なところである。それだけが残念だった。

本物のトイレの奥の分かりにくい場所に、奈良美智の作品(というか「部屋」)があった。
最後に、先日亡くなったナム・ジュン・パイクの常設展示のインスタレーションに合掌して帰った。(-人-)


【関連リンク】

「東京アートレビュー」
展示作品が全て画像付きで紹介されている。

「研究日誌」
な、なんと「あの人」までが原美術館に出現(!o!) 接近遭遇報告あり。ブログ主には「ご愁傷さまでした」としか言いようがない。

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2006年2月15日 (水)

劇団青い鳥「もろびとこぞりて」:昔の少女が今、中年女(役者も観客も)

会場:スパイラルホール
2006年2月3日~5日

なんと既に結成30年以上という劇団青い鳥が、北村想の脚本をオリジナル・メンバー3人で演じたもの。都合が悪くて行けなくなった人がいるという事で、友人にタダ券で誘われて見に行った。

青い鳥……懐かしい名前である。(にわかに回想モードへ移行) 小劇場隆盛の頃は非常に人気があって、評価も高かった。大島弓子あたりの少女マンガとの関連性で語られる事も多かったように記憶している。
当時、芝居の中で数十分にも渡るセリフ無しのパフォーマンスの部分が続き、後でその戯曲を読んでみたら、その部分はたった一行のト書きしかなくて驚いた事がある。
そういう、当時のいわば少女の浄化された妄想、みたいなものを美しく描いていたように思う。

とはいっても、私は当時二回ぐらいしか見に行ってないはずだ。なぜなら、私が好きだったのは全く正反対のタイプの第三エロチカとか東京グランギニョールの芝居だったからである。

さて、やはりすごーく久し振りに行ったスパイラル・ホール、観客層を見て驚いた。大部分がオバハンばっかりである……私らも含めて(火暴) 新宿コマ劇場と間違えるほどではないが。男もチラホラいるが、やはり白髪混じりのオヂサンばっか。若いモンはいねえのかー。
昔の演劇少年少女が今は、という姿ですかねえ(涙)

芝居自体は相変わらず変である。三人の女優(といっても、バイトしながらしこしこと芝居を続けているような)が喫茶店でグタグダ会話を続けている。ナンセンスでバカバカしい突っ込み合いの会話をしたり、突然なぜか『奇跡の人』の一人芝居を始めたり、『ゴドー』のパロディめいた展開になったり、かと思えば映画の『幕末太陽伝』の話になったり--。
で、二幕めはその映画の幻のラストと同じく前半の芝居のセットが取り払われ、むき出しのステージが出現して、また三人の(今度は現実のご本人という設定か?)話が始まる。ブーフーウー(?)のかぶり物の頭かぶって『桜の園』やったり。あこがれの女優を語ったり。しかし、出てくる女優の名前がリリアン・ギッシュとか古過ぎ~(^o^; 北村想って今幾つよ。

いやはや、やっぱり相変わらずの青い鳥、という感じであった。まあ、今回は古株メンバーだけということだったので、現在の様子がどうなのか知らないが。
とにかくこちらは懐古モードに浸ってしまったひとときでであった。

ヒジョーに寒い日で、近くの表参道ヒルズを見物しに行く元気も出ず、近所の居酒屋で飲み食い--過ぎて気分が悪くなった。やはり歳であるよ。

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2006年2月12日 (日)

「スタンドアップ」:名優たちの演技と北国の風景は文句なしっ

監督:ニキ・カーロ
出演:シャーリーズ・セロン
米国2005年

全米最初のセクハラ訴訟に勝った女性の実話を基にした作品。監督はニュージーランドで『クジラの島の少女』を撮ったニキ・カーロだ。
暴力夫と別れて子連れで実家に戻って来たヒロインは生活費を稼ぐために、鉱山で働く道を選ぶ。だが、圧倒的に男が多い職場で度重なるひどい嫌がらせを受けて、職場改善を求めて遂に訴訟を決意する。
実際は勝訴まで23年間かかったそうだが、何となく一、二年の話みたいに描いている。まあ、2時間の映画に収めるんだから仕方ないだろう。

セクハラと言っても、普通に想像できる範囲を遥かに越えている。もう、これは集団イジメである。ヒワイな言葉をかける、身体に触るは当たり前。さらにはウ○コで女性更衣室を汚す、レイプまがいに押し倒す、簡易×××に入っている時転がす(>O<)ギャーッなどなど。

しかし、これは単純に男対女の話として考えていいのかというと、やや違うような気がする。炭坑で働く男たちは高い学歴もなく重労働に従事して家族を養い、他に高収入の職はない。そこへ女が入ってくれば自分たちが代わりに追い出されるのではないか、という恐怖を抱くのは当然。女は家へカエレ!ということになるだろう。
この舞台となった町には異人種や異民族の姿は全く登場しない。そんな所に、もし人種の違う移民が就職して来たら、やはり同じように自分たちの国へカエレ!と壮絶なイビリが始まるだろう。
従って、これは女性以外のマイノリティであっても置き換え可能な話なのだ。

さらに先日TVドラマの『CSI:ニューヨーク』を見ていたら、トンネル工事を専門にする土木労働者の世界が背景になっていて、「その絆は海兵隊並みに強い」もので家族以上だと説明されていた。
まあ、ブラッカイマー印のドラマなど信用できんという意見もあるだろうが、炭鉱労働者の絆も同様に強いものだとしたら、この映画での女たちはまさに仲間の結束を崩す外部からの異分子と見なされ、懸命に排除しようとするのは不思議ではない。

そういう米国特有、職業特有の事情が分からないと、「なんでこんなガキっぽいいじめをいい年した男がするかねー」みたいな感じで終わってしまうかも知れない。日本人には極めて理解しにくい話だろう。そのせいか早々に打ちきり……(T_T)

前半の寒々とした北国の風景の映像はとても美しい。一方で脚本はよく分からん部分が多々あり。男性労働者の中にも積極イビリ派とそうでない派がいたようなのだが、ハッキリとは描かれていない。そもそも、仕事中はみんなススまみれで誰が誰だか判別できないとゆう(汗)
例えばヒロインと仲良くしていたスキンヘッドの男なんか後者のはずだが、どの程度の付き合いかなんて基本的な事自体ちゃんと描かれてないのだ。実話だから当たり障りない描写にしたのか、なんだか隔靴掻痒なのである。

さらに母親が娘への応援体制にチェンジしたのが唐突だし、父親の変心も説得力ない。法廷での元BFもどうして急に態度を変えたのか、やっぱりよくワカラン。

その分からなさを辛うじて名優たちの演技が支えていると言ってもいいだろう。アカデミー賞主演女優賞受賞者3人揃い踏みに加え、父親役のリチャード・ジェンキンズや弁護士役のウディ・ハレルソンはもちろんだが、ショーン・ビーンは悪役が多いので名前を聞いた時てっきりヒロインをいびまくる男の役かと思ってたら、全然正反対の非常に味のある重要な役どころだった。ファンは必見よっ(^o^)b
主役のC・セロンは申し分ないのであるが、なにせ元モデルというガタイが良過ぎて、あの場面で「投げ落としちまえー」とか、その場面では「四の字固め行けー」などと思ってしまうのが難であった。

監督の前作でも感じたことなのだが、人物描写に今イチ甘いところがあるように感じた。そういう部分で、手放しにはほめられない映画なのである。


主観点:7点
客観点:7点

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2006年2月 9日 (木)

メデタイ話ではあるが--

このニュースが流れた日本列島、もはやマンション偽装建築もライブドア関連謎の自殺事件もすっかり押し流されたようである。

まあ、それ自体はおめでたい話なんで結構であるが、ちょっとばかり「このタイミングで発表というのはでき過ぎでは?」と思っちゃうことは事実である。
首相もあっという間に皇室典範改正を引っ込めちゃうしねえ。

私の周囲の井戸端会議では「雅子サンかわいそー」「ご長男の立場がない」などという意見がしきりであった。
こちらの「女の胎(はら)は誰のもの?紀子さま第三子懐妊報道に対する違和感」に同感するところが多々あるが、確かに私も週刊誌の広告に「雅子様の離婚はタブーではない」なんて見出しを見た時は、思わず「今どき、子無し女は家を去れってことですか?スゲー」なんて驚きを通り越して感心してしまった。(あ、もちろん女の子は「子」としては数えてくれないんだよね)
一体、いつの時代の話よ?コワイねえ。

まあ、こういう所に普段は隠れているその社会の本質が垣間見え、浮かび上がってくるのだろう。こんなんじゃ、ますます少子化に拍車がかかりそうだ。(論理が飛躍し過ぎか?)


それにしてもコイズミ首相、この件といいホリエモン持ち上げ問題といい輸入牛肉問題といい、最近失点が続いてますなー。なんか、見えざるキングメイカーがいて陰から、お前はもういってよし!と言われて見放されたみたいじゃないの。
そういう影の黒幕にあこがれる私('-')であった。

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2006年2月 6日 (月)

「タブロイド」:早くも後味悪さでは今年度ナンバー1候補

監督:セバスチャン・コルデロ
出演:ジョン・レグイザモ
メキシコ・エクアドル2004年

マイアミを本拠地に南米向けの番組を送る放送局(南米版アルジャジーラみたいな感じか?)のTVクルー3人組が、エクアドルで起こった子供の連続殺人事件を取材中に、関連して偶発した死傷事故と暴動に遭遇。
「次のネタはこれだーっ」と収監されている事故を起した男に面会すると、彼はなんと連続殺人の犯人を知っていると言い情報提供を申し出る……。

気をつけておきたいのは、これは別にサイコキラーは誰かというサスペンスではないし、エクアドルという国の悲惨な状況を訴えている話でもないということである。
事件の犯人は明示されているし、このような事態は形を変えてどこの国でもありうることだ。
だから『羊たちの沈黙』みたいのを期待していくと、「犯人分かっちゃって詰まんネ」ということになる。

ここに描かれているのはメディアの力の恐ろしさであり、一旦それが転がり始めたらもはや誰にも止められなくなってしまう(発信した当人であっても)状況である。
3人は真の意図を隠して取材を始める。表の番組を作る一方で並行して、裏の番組を作ろうするのだ。
しかし、結果として出来上がった(表の)ドキュメンタリー番組は素晴らしいものであった。事件の関係者を含む視聴者の多くを感動させたのである。
そして、この番組が人々を感動させてしまったことが、アレヨアレヨと言う間に恐ろしい結末を引き起こす。偶然も重なったとはいえ、これは作った当人たちも予期しないことだった。一体どうすれば良かったのだろう? いずれにしろ、放送されてしまえばもはやその影響は止めようがないのだ。
この終盤の展開は、観客にとって予想もつかない驚くべきものだろう。少なくとも私には全く「想定外」のビックリ(>O<;)な結末だった。

映画の結末の後に起こる事態を想像すると、あまりの恐ろしさに慄然とする。もはや主人公たちは二度とエクアドルの地を踏む事はできまい。そして、彼らは今後も「正義」の仮面をつけて平然と番組を作り続ける事ができるのだろうか?
観客が見終った時の後味の悪さはただものではない。で--こんな後味の悪い作品をよくも作ったもんだー \(^o^)/とホメちゃうぞ、私は。予定調和を拒否した展開は却って潔いくらいだ。

脚本は極めてよくできている。冒頭のリンチ事件に示される、民衆の「熱しやすさ」が逆に終盤の状況を招いている伏線や、主人公たちが次の取材が入っているために時間がなくてドタバタ暴走してしまう過程、などちゃんと納得できる。
ただ、なぜか後半モッタリ感が生じてしまう所や、監獄の中での男と主人公の対話が今イチ迫力なかったりして、演出の手腕はもう一つな感じ。
元々、監督がサンダンス映画祭で脚本賞を取ったことで作られた作品らしいが、演出は他の人にまかせた方が良かったんではないかと思ってしまった。

その他、プロデューサーをはじめスタッフには南米系の有名どころが総結集らしい。役者たちもみんな文句な~し。

最後にNHKのロゴが出て来て「なんで?」と思ったが、サンダンス映画祭に出資してんのね。


主観点:8点
客観点:8点(社会派ファンに推奨)

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2006年2月 1日 (水)

「ヴェルサイユの祝祭 4」:大胆な試みにルイ14世も王冠を落とす、かも

バロック音楽と舞踏のスペクタクル~フランスからドイツへ バロック・ダンスからバレエへ
出演:浜中康子、T・ベアード、P・ウィットリー・ボーゲス
会場:浜離宮朝日ホール
2006年1月22日

数年おきに開催されているバロックダンスと音楽のプロジェクトの4回め。過去にも行った記憶があるんだけど、よく覚えてない……(^^ゞ

バロックダンスっていうと、バレエ出現以前に宮廷で踊られていたもの。なんでもバロック時代の貴族の必修教養は「馬術、フェンシング、そしてダンス」ということらしい。例えれば、平安朝の貴族の和歌のたしなみみたいなもんで、下手くそだと「プププ、田舎もんめ」などと嘲笑されたそうな。
現代のダンスのような上半身の派手な動きはないので地味に見えるが、ステップはかなり複雑なものらしい。(舞踏譜が残っていて再現できる)

当時の宮廷文化の中心ったらやはりおフランスである。そのフランスからドイツへとダンス文化が流入した様子を示すのが前半。独仏両国を股にかけて活躍したダンス教師にアナウンサーの朝倉聡が扮しての解説付きである。
イタリアの仮面劇を取り入れたものやフェンシングの動作を使ったシュメルツァーの曲など面白かった。

後半はダンスからバレエへの変化を描くという趣旨で、ルイ14世の宮廷で催された『夜のバレエ』を衣装や設定はそのまま復元しながらも、音楽はバッハの『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ』を使って新たに振りつけし直す、という大胆にも程があるという試みであーる!
そもそも『夜のバレエ』はバッハが生まれる三十年も前のものだし、『無伴奏』は舞曲ではあるけど踊るのは大変そう(モダンダンスならともかく)。

が、実際に見てみると結構うまくはまっていたのにはオドロキ。でもあの「シャコンヌ」はさすがにバロックダンスではなく、完全にバレエの振り付けだった。
ラストはルイ14世が実際に踊ったという「太陽」がピカピカと華麗に登場して終わる。

音楽の方を担当したのはBCJでもお馴染みの面々。『無伴奏』を弾いたのは若松夏美で、素晴らしい演奏!と言いたいところだが、踊りの方に気を取られて耳の方がお留守に……。聖徳太子みたいな天才と違っていっぺんに一つのことしか集中できない凡人の悲しさなのであった、トホホ(x_x)

解説付きでトーシロにも分かりやすく、耳も目も両方から満足できた嬉しい企画だった。何年後か分からないが次回も必ず行くことにしよう。
ただ一つ不満は、できれば唯一の歌手として登場したボーイソプラノはもうちょっとうまい子にして欲しかったということ。こんな事言っちゃわがまま?


さて、銀座でミヒャエル・ゾーヴァの展覧会をやってるというので、これが終わってからテクテク歩いてついでに行ってみた。ゾーウァ好きなんだよねー。が!なんと入口から五重六重の人だかりが見える大盛況。
こ、これでは私のような身長の者は竹馬でも使わんと人の背中しか見えん(-o-;)ということで、あきらめて帰ってしまった。根性なしである。
会期が一週間なんてケチなこといわずに一か月でもやってくれよう。(泣)

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