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2006年3月

2006年3月26日 (日)

ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女:「マジック」も「萌え」も無く

監督:アンドリュー・アダムソン
出演:ウィリアム・モーズリー
米国2005年

「ハリポタ」「指輪」に続き、遂にキタ~!(^○^) 今度は「ナルニア」である。岩波もここで儲け損なってなるものかと臨戦体制で張り切っているようだ。
原作は読んだ時期によってかなりその人の受け止め方が違うみたいである。有名な児童文学のほとんどを成人してから読んだ私のような人間にとっては、キリスト教臭が強過ぎるのと、最終巻の結末は到底納得できないものだった。
しかし例えば「モエ」誌の特集に寄せている作家たちの文章を読むと、子供の頃に読んで感銘を受けた人にはやはり思い入れの強い物語のようだ。

私のような人間が見ると、この映画は正直言って原作を字義通り再生した絵物語のように思える。全てそのまま映像で復元してみました、てな感じでそれ以上でもそれ以下でもなく、なんの意外性も驚きもない。
タンスの向こう側に行ってみても、そこにあるのはフツーの現実と同じ雪景色である。違うのは季節だけ。百年にも渡り雪に閉ざされて、楽しいクリスマスもない冬が延々と続いてきたとは到底見えない。
そう、ここにはファンタジーに不可欠な「マジック」が存在しないのだ!

だから、アスランはただのライオンだし、ビーバー夫妻はただのビーバーだし、怖いはずのオオカミは大きめの犬にしか見えないんである。詰まんない~(x_x)

それからこの手のファンタジー(それこそ「ハリポタ」に至るまで)って食べ物の描写が多くてすごくおいしそうなんだけど、なぜかセリフにまで出てくるにも関わらず、実際の映像に出て来ないのは解せない。なんで(?_?) 楽しみにしてたのにー。
(去年見た映画で食べ物がおいしそうだったのは、「ラヴェンダーの咲く庭で」で老姉妹&家政婦のオバチャンがこれでもかとくり出す料理の数々、あるいは「ヒトラー 最後の十二日間」でヒトラーと秘書たちが会話しながらパスタをツルツル食べている場面が記憶に残っている。)

で、せめて「萌え」られる部分があるといいんだけどそれもない。『ロード・オブ・ザ・リング』なら映画全体の出来は気に入らなくても、「ガラさま萌え~」「オーク健気なヤツ」などと萌え要素が必ず一つや二つ発見できるのだが、こっちはなんにもないのだ。
「萌え」も「マジック」もなくては無味乾燥の極み、教科書みたいな味気なさである。

--とケナしてきたのでいい点もあげてみよう。
原作では、次男が最初から「悪い子」モードなのだが、映画ではちゃんと背景が説明されていて納得できた。
ティルダ・スウェントンの魔女は素晴らしい。美しくてコワくて、無味なキャラクターの中で唯一輝いている。馬車ならぬ熊車を操って登場する場面など、まるでワルキューレみたい。ス・テ・キ(*^^*) 一方でお子ちゃまを幻惑するエロさには、山岸凉子の『妖精王』のクイーン・マブを思い出した。
映像で見ると、余計に新約聖書のイエスの受難のくだりとそのままピッタリ重なるのに驚く。ん?これは「いい点」になるのか?
あとはクリクリお目々のルーシーがカワイイかったぐらいかな。

ただ、タムナスさんは人相・風体・目つき・言動といい、アヤシ過ぎです。どう見ても「幼女誘拐犯、要注意人物」以外の何者でもありません。もう出会ったところなぞ「ああっ、お菓子で釣るつもりかっ。アブナイ(>O<)」とドキドキしてしまった。なんで、こんなキャスティングしたのさっ(^^?

結論:原作に忠実でも、詰まらんものはツマランのであった。ま、でも原作ファンは歓迎しているみたいなんだよねー。次巻も映画化されるようだけど、見に行くかはビミョ~。

字幕は「あの人」が担当でなくてよかった。(-o-;)ホッ


主観点:5点
客観点:6点

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2006年3月25日 (土)

「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」:悪魔の音楽と神の音楽

監督:ジェームズ・マンゴールド
出演:ホアキン・フェニックス、リース・ウィザースプーン
米国2005年

伝記映画というのはそもそも無理がある。なにせ何十年もの話をたった二時間前後に収めようというのだから。当然、その人物のどこに焦点を合わせるかを決めて、それ以外の要素は捨てなくてはならない。

ジョニー・キャッシュというと私のイメージでは、「アメリカの国民的歌手」とか「カントリーの異端児」とか、あるいは現在のロック・ミュージシャンにもリスペクトされている人物--というようなモンなんだが、この映画では全然違った。

ロックンロール勃興期にバンドを組んでデビュー、プレスリーやジェリー・リー・ルイスと一緒にツァー(つーか、ドサ回り?)していたなんて知らなかった。おまけに移動の車の運転までミュージシャン自身がやってたんかい(@_@)
さらに、兄の死、父への反抗、夫婦生活の不和、ミュージシャンお決まりのドラッグに手を出して転落、さらに長年のファンであった女性歌手との再婚などなどが綴られていく。その点では、ロマンスとミュージャンとしての再起が感動路線で語られている。

一方で、物語の冒頭と結末近くに置かれて重要な転回点を示す刑務所でのライヴにあるように、どうして囚人たちに熱狂的に迎えられるような曲を作って来たのか、というダークサイドな面はほとんど描かれていないのである。それが知りたかったんだけどね……だったら、自伝を読めって? ハイすいません<(_ _)>
そこら辺は二時間の中で何を中心にするかという取捨選択だからしょうがないんだろう。

もっとも、最近ミュージャンの伝記映画が立て続けに公開されているが(レイ・チャールズ、ボビー・ダーリン、コール・ポーター)、それらの中ではもっともライヴ場面が迫力あって良かったと感じた。
そういう意味で、オスカーのノミネートが作品や監督でなく、主演二人に与えられたのは当然かも知れない。
ついでに、それ以外のオリジナル・スコア(T=ボーン・バーネット)もよかった。

頑固者のとーちゃん、どこかで見た顔だなと思ってたら、ターミネーターの液体人間のR・パトリックだったのねー。主役二人に次ぐ好演です。ついでに、祝!アカデミー主演女優賞のリース・ウィザースプーンは脚がバービー人形みたいに細いんでビックリよ。

それにしても昔はロックンロールは悪魔の音楽だったのか。ウン十年にも渡り、それに金と時間を費やし続けて来た私はとっくに悪魔に魂を売り渡していることになるのだろう。


主観点:8点(ライヴ場面を評価)
客観点:7点

ついでに、映画館にいた外国人が何でもない場面でケタケタ笑ってて、変だなーと思ってたら最後の「字幕」のクレジットがまたもや(!o!)「あの人」であった。
後ろに座っていたカップルの男の方が「この人、外国映画の三分の二ぐらい一人で訳してるんだよ」なんつって説明しているんで、思わずガバと振り向いて「そのためにどれだけ迷惑をこうむっている事か」と説教したくなった。

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2006年3月23日 (木)

「アートと話す アートを話す」:帽子オヤヂに爆笑

バウハウスからコンテンポラリー:ダイムラー・クライスラー・アート・コレクション
会場:東京オペシティアートギャラリー
2006年1月14日~3月26日

企業の現代アートのコレクションを、子どもも楽しめるような、これまでとは違った切り口で見せようという企画らしい。
で、入口で鑑賞の手引きとなるワークブックを渡される。初級・中級・上級と段階別に対話形式で、鑑賞者が勝手に書き込めるようになっている。(どんどんリレー式に客が使い回していくのだ)
えー、でも私のようなひねくれ者にはこのワークブックは余計なお世話であった。親子で見に来てる人にはいいかも知れんけどね。

内容は抽象画、ミニマリズム、コンセプチュアル・アート、ヴィデオ・インスタレーションなど様々なものが一定のテーマによって区分けして展示されている。
中には見てワカランので、ワークブックの解説を読んで見てそれらしい事が書いてあるが、「そんなもんかなー」というようなのもあった。
そういう収蔵展なんでまとまりというようなものはなかったのは仕方あるまい。

気に入ったのは桑山忠明のドローイング、クールな感じがキマっててよかったす。キャンバスに釘で凹凸をつけたとおぼしきエンリコ・カステラーニの「白い表面」、見た途端に「あっ、青い座布団がいっぱい壁に張り付いてるー \(^o^)/」と思ったF・E・ヴァルター「ブロック・ブルー」。「NOW」という文字をライトボックスで大仰に飾ったP・サングイネティも面白かった。

でも、一番変だったのは4分のビデオ作品「帽子」(ローマン・ジグネール)である。小太りのオヂサンが家の壁際で火薬か何かを使って小型の装置を作っている。それに帽子を乗せておいて、自分は家の中に入って3階へ。で、窓から装置に向かって石を落として、その石が装置の板にうまくぶつかると、ボンと帽子が噴出して真上に上がる。オヂサンはすかさず窓から身を乗り出して上昇して来た帽子を自分の頭にのっけようとするのであった。
だが、石がうまく当たらなかったり、帽子の向きがずれたりしてなかなかうまくいかずに苦闘するのであった……。
あのー(-.-;)なんでこんな事してんの。おかしい~(^○^)ギャハハハ

いやー、こんな変なのを見たのは久し振りであった。今回の大いなる収穫である。


続いて二階の収蔵品展「抽象の世界--色・かたち・空間」とプロジェクトN「小林浩」へ。
後者の小林浩は薄めのモノクロでぬいぐるみの集団が転がったり、飛び跳ねたり、戦ったりしているのを大きめのキャンバスにアクリル絵具で描くという連作。全体的に白っぽい画面にカワイイはずのぬいぐるみが必死な様子で飛び交っているのは、とてもナンセンスでおかしくて、しかも突き放した感じで面白い。
このアートギャラリーに来た時は二階も必見ですっ(^o^)b

【関連リンク】
公式サイトより小林浩

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2006年3月19日 (日)

「ルー・サロメ/善悪の彼岸 ノーカット版」:全裸死神ダンスに仰天す

監督:リリアーナ・カヴァーニ
出演:ドミニク・サンダ
イタリア・フランス・西ドイツ1977年

『愛の嵐』の次にリリアーナ・カヴァーニが監督した作品をノーカット版でなんとリバイバル上映!ということで期待して観に行ったんだけどね……。おまけにドミニク・サンダ主演だし。

正直に言っちゃおう。期待外れだったのよー(T^T)クーッ
19世紀末のヨーロッパ。ユダヤ系ロシア人の知的にして奔放な女性ルー・サロメが二人の男と共に共同生活を始める。当時の社会状況を考えれば、こりゃスキャンダルどころか完全に罪悪である。しかも相手の男はニーチェとその弟子パウルだからただ者ではない!
さらに加えて、パウルはホモセクシュアルかバイなのか、とにかくホントはニーチェに気があったりして、もう三角関係の泥沼状態。
で、ドイツ・イタリア・フランスと各所を舞台にヨーロッパを股にかけてこの三角関係のグジャドロ状態は、延々と続けられるのであった。あ、さらに「夫」まで出てくるから四角関係だ~。

ついでに、唐突に登場してビックリさせてくれるローマ遺跡のハッテン場の痴態や、全裸の男二人による死神のバレエなど、ケン・ラッセルっぽい場面もあるんだが、どうにも突き抜けてなくて辛気くさい。観ている内にエネルギーの充電度がどんどん下がっていくよううな気分になる。
性的なシーンもなんだか全然エロくなくて詰まらない。実は同じ日にロマンチカの公演を見てしまったので余計にそう感じたかも。

おまけにヒロイン以外の人物に魅力がないのも減点対象。ニーチェはしがない小役人風、パウルは冴えないうらなり男(どっかで見たと思ったら、ケンちゃんの『マーラー』の人だったのね)、夫は二流中学校の教師みたい。
あー、でもドミニク・サンダは美しい。ピッカピカ光ってます、はい。

実際にはルー・サロメという人は著作も多く残してる才女らしいのだが、映画ではそういうことはあまり描かれていない。史実を全く知らずに見ていると、単に知識人好きのお嬢さまかと思っちゃう。(大体にして、「フリッツ」と呼ばれる男がニーチェであるのが明示されるのも後半に入ってからである)
それから最後に登場する、馬車に乗ってる若い男はリルケなんですか?……この監督さんとは男優の趣味が合わないかもよ(^o^;

新宿のケーズ・シネマという映画館は初めて行ったが、なかなかいいミニシアターである--館内については。一方、周囲の環境はラブホやらなにやらいかがわしきネオンサインが満載で目が眩むぞー。今回の映画には却って合っているかも(^^?


主観点:5点(D・サンダの美しさをプラスしてもこの点数)
客観点:5点

【関連リンク】
ケナしてばかりなので、肯定的な感想を紹介しときます。
おばさんのらくがき帳

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2006年3月18日 (土)

ロマンチカ「PORN」:おねー様、エロ過ぎです!

会場:スフィアメックス
2006年3月3日~6日

ロマンチカは美大出身の女性中心の集団。かつては公演に熱心に通った事がある。エリザベト・バートリとかジャン・ジュネとか--特にジャン・ジュネの芝居は今思い出してみても、構成・美術・演技などあらゆる面であれほど完成度の高いものは未だかつて見たことない!というぐらいに見事だった。
それがなぜ、ご無沙汰してしまった(10年振りぐらい?)かというと、その後演劇からパフォーマンス系へとグループの方向が移っていってしまったからである。

さて、今回の公演は「パルプ・ストリップティーズ」とサブタイトルが付いているように、架空のストリップ・ショーを見せるという趣向。しかし、なぜか観客の八割は若い女性である。ほとんど年齢は二十代半ばから三十代前半、デザイン系オフィスに勤めてます、或いは私もダンスやってます(ロングヘア度高し)--みたいな感じだ。
私は必死になってキョロキョロ('';) (;'')とあたりを見回し、自分と同じ年齢ぐらいの人間はいないか探したが、見つからなかった(汗) 終演してからようやく一人見つけた! 向こうもこっちを見て安心したかもしんない(^O^;)ナハハ

すすり泣く声のサンプリングから始まって照明がついて現れたのは、道路工事のヘルメットとつなぎを着て交通指示灯を振る三人の人物。踊りながら段々とつなぎを脱いでいく……。と、これに始まり尼僧・メイド・ナース・ウェイトレス・OLなどコスプレ定番のストリップや、ガラス越しにシャワーを浴びる女やら、なぜか大島渚の『マックス・モナムール』を見ながらベッドで悶える女、『暗殺の森』風のダンスする女二人などが登場する。

ほとんどのダンスや動作は本物のストリップを模していると思えるが(っても、ホンモノ見たことないんでよく分かりませんが(^^ゞ)、最後まで脱ぐわけでなく下着姿で終わってしまう。しかし、そのパフォーマンス自体は非常にエロい。おまけに演じるのは人形の如き完璧なプロポーションと美を備えたロマンチカのおねー様がたである。一挙手一投足の全てが極めて洗練されたエロさを喚起する。
そうなると、そこには何やらエロい妄想がかき立てられるものの、常に行き所なく消化不良のまま放り出されてしまう羽目になる。会場の中空には満たされない観客の妄想がモヤモヤと膨らんで漂っているようだ。

しかし、よくよく考えて見ると完全に服を全部脱いでしまったら妄想も何もそこでハイ終わり。むしろ、服を着ている時の方が一番イヤらしく妄想がかき立てられるような気がする。そう、何か隠されているものを盗み見るようないかがわしさで興奮、ってヤツですか。

それと、女性向けのエロさというのはやはり存在するのだと実感した。エロさ爆発と言っても、「プレイボーイ」のグラビアやカノー姉妹とは全く異質である。これは『恍惚』(監督は女性である)でE・ベアール演じる娼婦を見た時も感じたのだが、やはり男向けのものとは似て非なるものだ。どこがどう違うのか?具体的なところは分からんけど、客席を埋めてウット~リと眺める女性客の数がなによりそれを示しているだろう。

個々のパフォーマンスで良かったのは、カウガールが見事な手綱ならぬパンティさばきを見せるヤツ(一体、何枚はいてんだ?)。それから、バックに流れる歌もイヤらしい(音楽監督は飴屋法水が担当)ナースが、特に手袋脱ぐところ。そして、横町さんが狼の毛皮にスリスリして悶えた揚げ句、自分がオオカミになってしまう「赤頭巾ちゃん」。
横町さんを見たのも十年ぶりぐらいだが、全然変わってないのはビックリ。よほど普段から磨いてるんだろなー。(*^-^*)ステキ

使われていた曲の中には昔流行った曲の日本語カバーも幾つかあって(オリヴィア・ニュートン・ジョンの『フィジカル』など)、一つだけなんだか聞いたような気がするんだけどどうしても思い出せないのがあった。曲のさわりまで行ってようやく思い出した。『ロック・オン』という全米チャートで結構ヒットした曲である。当時よくFENで流れていて、非常に懐かしく感じた。原曲は完全にゲイの歌なのだが、日本語カバーではフツーに男女の歌になってたみたいだ。

次の公演はいつやってくれるのか?--どのぐらい先になるか分からんがまた行くぞー。


【関連リンク】
ロマンチカ公式サイト

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2006年3月12日 (日)

「イノセント・ボイス 12歳の戦場」:暴力の縁を歩む子どもたち

泣けました。
いや……正直に言おう。号泣ですよ、号泣(ToT)ドーッ
映画を観てこのように号泣したのは久し振りだ。
子どもが出てくる泣ける映画など、もう見ないと心に誓ったというに……。

冒頭、雨の中を小さな子どもたちが軍人に引き立てられて歩いている。時は1980年、内戦下のエルサルバドルでのことである。
激しい内戦が続く当時は少年は12歳で徴兵される。主人公のチャバは迫ってくる誕生日が心配だ。街を闊歩する政府軍の兵士や、連れていかれる友人を見ているとなおさら。
でも一方で、同じクラスのカワイイあの子が気になるよーん(^O^) 夜間外出禁止令なんて気にしないで遊んじゃうのさっ--なんてどこにでもあるフツーのお子様の基本生活は健在。

そういう他愛のない小学生の日常や初恋物語と、街中で繰り広げられる激しい内戦状態が全く併存しているのに驚かされる。いやもう、たまに爆発テロが起るとかいう類いの段階ではなくて、本当に住宅地や町の広場で突然にゲリラとの銃撃戦が始まっちゃうのだからすごい。
これまで、オリバー・ストーンの『サルバドル』とか長倉洋海の写真集で内戦について紹介されてたのを見たことがあるが、それはやはり外部からの視線であった。このように内部の日常のレベルから見ると恐ろし過ぎである。

で、手近の本を漁ってみると--『燃える中南米』(伊藤千尋、岩波新書)が出て来た。1988年の本だが、出版されてから二、三年後に読んだような記憶がある。エルサルバドルの章を見ると、このような記述があった。
 

しかし、街なかを通る軍用トラックの荷台に乗った兵士の銃口は、市民に向けられている。ゲリラの不意打ちに備えてのことだ。戦争と平和の混在する奇妙な世界がここにある。

なるほど、文章で読んでいてはピンと来なかった「奇妙な世界」の実相がようやく納得できた。映像の力とはスゴイもんであると改めて実感。

こう書いてくると、子どもと戦争という点で『亀も空を飛ぶ』とかなり似ているように思えるが、あちらでは周囲にロクな大人がいないのに対し、こちらではちゃんとマトモな大人が揃っている。父親こそ家を出て行ったが、美人だけどコワイかーちゃんにしっかり者で優しいばーちゃん、それからギターを担いだ渡り鳥風の叔父さん、信頼厚い神父などなど。
だが、主人公の愛する大人も子どももみんな殺されたり姿を消していく。家も捨てて引っ越さなければならない。12歳の誕生日が迫ってくる。政府軍に入るのがイヤならゲリラに参加するしか他に道はない。このどちらかしか選択肢はないのだ。
小学生の子どもに対してこれはあまりにハードな事である。いずれを選ぼうと、方向が違うだけで暴力の世界へと転げ落ちていくのに変わりはない。

冒頭の雨の場面にまた戻ってからは、打って変わって激しい展開となる。その瞬間を迎えた子どもたちの表情の変化は、まさに見るに耐えがたいものがある。こんな演技を子役にさせるなんて、監督あんまりだー(>O<)と言いたくなるほどだ。
さらに主人公の運命の変転もすさまじいものがある。私はこの一連のシークエンスに、久しく感じたことないほどの大きな情動に突き動かされるのを感じた。だから号泣してしまったのである。

この映画は脚本を書いたオスカー・トレスの体験を元にしているというが、実話的というよりはむしろしっかりとした物語性の強固さを感じさせた。(ついでに映像も非の打ちどころなし)
そして同じく戦争体験を元にしている『ジャーヘッド』と同様に、ただ一度だけ主人公が人を撃とうとする場面が出てくる。観客が「そうだー、やっちまえー」と同一化してしまうのも同じである。だが、その後の選択の意味のなんと違うことよ。

それを思えば、結末での彼の行く末は皮肉である。まさしく吉田ルイ子の(だっけ?)名言--「中南米の悲劇は米国に最も近く、神に最も遠いことである」を体現したものとしか言いようがない。

ところで、エルサルバドルについて日本との関りはどうだったのだろうか。まったく無縁だったのか、ハテ(?_?)
--と疑問に感じたところで、ふと思いついて荒木先生の映画批評を覗いてみた。そしたら、ちゃんとありましたよ。(一番キモの部分がネタバレしているので、未見の人は読まない方がよろし)
 

日本企業は軍事独裁と結んで、1960年代以降輸出作物である綿花を栽培し、現地に織布繊維工場を設置し、農村部の貧困な余剰労働力を酷使して、最大限利潤をあげてきました。太平洋岸にあるアタミという保養地と国際空港建設は日本資本のためになされたのです。従業員数最大を誇る2つの会社はすべて日系企業なのです。軍事独裁政権は日本企業から莫大な賄賂を獲得し、現地労働者の抵抗から日本企業を守ってきました。日本は内戦の主要な要因をつくり、政府軍を援助した犯罪的加担者なのです。

な、なるほど(=_=;)内戦の陰に日本あり、ですか。金が何より全て、というのは別にホリエモンの専売特許じゃなくて、日本の「伝統」だったと \(^o^)/


主観点:8点(あんまり泣かされたんで、八つ当たりで1点減)
客観点:9点

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2006年3月10日 (金)

ガエタノ・ナジッロ バロックチェロ・リサイタル:やっぱり古典派は苦手じゃー

演奏:ガエタノ・ナジッロ、芝崎久美子、懸田貴嗣
会場:武蔵野市民文化会館小ホール
2006年3月2日

知る人ぞ知るみたいなアーティストを呼んでは廉価で公演をやる武蔵野市民文化会館--この日も売切れ満員御礼だったという。私もうっかり発売日に電話するのを忘れたら、危うく入手し損ねるところだった。

G・ナジッロは日本では有名ではないが、様々なアンサンブルで共演しているチェリストらしい。……で、手元にあるCDをチェックしてみたら、なんと最近愛聴してるエンリコ・ガッティのコレッリ盤でもチェロ弾いてるじゃにゃあですか!--って、後から気付くなよ(・_*)\ペチッ

舞台に登場したナジッロはヒゲをモジャモジャはやして恰幅の良い、いかにもイタリア男といった様子。前半はバロック・プログラムで最初はチェンバロの芝崎久美子とヴィヴァルディのチェロ・ソナタ、そして独りでバッハの無伴奏チェロ組曲であった。
正直、四百人以上入る会場でバロックチェロのソロは難しいのではないかと思った。後ろの方では耳をダンボにしないと聞こえないのではないか。私はステージ間近の席だったので不満はなかったが--。それどころか、激しい息づかいや左手でペコペコ弦を押さえる音までよーく聞こえた。

二つを比べて聞いてみて、この人は抒情を流麗に弾くタイプかなと思った。ヴィヴァルディの曲を思い入れたっぷりな感じで弾いて、哀愁感漂わせていたのがよかった。
で、同様にバッハはわざとメリハリを少なく流れるように演奏していたのだと思うが、今イチな感じだった。彼の左手のペコペコ音はさらに激しくなったが、周囲は眠気虫に取り憑かれていた客がチラホラいた。バッハは演奏者に大変なのと同じく、客にとっても聴くのが難しいようだ。
どうしてこんな曲を書いたのかバッハ先生に会ったら、小一時間ならぬ一世紀間ぐらい問い詰めてみたいものである。

後半は古典派。ボッケリーニとその少し前の時代のランツェッティという作曲家の曲を演奏した。ここでは、当初は名前がチラシに入ってなかったチェロの懸田貴嗣が参加。なぜか儲かった気がする。
古典派モードに入って、ますます本領発揮という感じだった。曲は起伏に富み、流麗さは冴え渡った。客は前半の眠気虫をすっぱり追い払って聞き入っていた。
だが、私は「やっぱり古典派は苦手じゃ……(-.-;)」とヒシと感じた。ホントにこう時代順に聴いてみると、古典派に入るとガラッと変わるのがよく分かる。音の使い方とか曲の構成とか変化に飛んでくる--が、それでもやはり私には詰まんないのであった。
やはり私は古典派はダメだのう、と自覚した。

アンコールの2曲めは最初のヴィヴァルディを、今度は懸田さんも入って演奏。これもまた良かった。
これで2500円ナリとは安過ぎだー。今後も武蔵野市民文化会館は要チェックである。

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2006年3月 9日 (木)

「古歌 イタリア」:簡素な歌の世界に感動

ダヴィンチの時代からモンテヴェルディへ
演奏:波多野睦美、つのだたかし
会場:ハクジュホール
2006年2月24日

つのだたかしがプロデュースする古楽演奏会シリーズの第1回だそう。これから色んな歌手と組んでハクジュホールでやるらしい。
で、最初は長年組んで来た波多野睦美と手始め、ということか。

プログラムは時代順に構成、中世からルネサンス、休憩が入って後半はバロックの歌曲へと続く。つのだたかしは前半はリュートで、後半テオルボに持ち替えていた。

作曲家はジョスカン・デ・プレやモンテヴェルディは有名だが、ランディーニ、トロンボンチーノ、フレスコバルディあたりはまだしも、アンブロジオ・ダルツァとかバルバラ・ストロッツィなんて聞いたことありません(^^?)--てな人まで登場。

波多野さんの声はハクジュホール全体にビンビンと響き渡り、会場を支配したのであった。独りでも十人分ぐらいの迫力あり。さすがです
彼女の訳した歌詞の抄訳がパンフに載っていて、これもよかった。

時代順に通して聴いてみると、やはり私はこういう独唱曲では中世・ルネサンスの方に惹かれるなあ、とつくづく感じた。歌としてはバロックの方が劇的なんだけどさ。

近くに口の中で変な音を立てる中年男性がいて参った。音楽の方が静かだからそんな音でもよーく響いてくるんだよね。( -o-) sigh...

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2006年3月 5日 (日)

バッハ・コレギウム・ジャパン第71回定期演奏会

ライプツィヒ時代1725年のカンタータ 4
会場:東京オペラシティコンサートホール
2006年2月22日

今回の公演の注目点の一つはBWV6で「ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ」なる楽器が登場したことである。チェロとヴィオラの中間の音域で、大きさも中ぐらい。さらにチェロだと足に挟んで弾くが、これは肩において演奏する。しかし実態は不明、幻の楽器ということで、演奏者でもあるD・バディアロフが自作したとのことである。
こちらに実物の写真あり。ただ、今回のコンサートで使われてたのはもう少し大きめか?)

で、実際に聴いてみると……うーん、なんかパンチが無い音ですね、って音域が微妙なとこだから仕方ないのか。

そしてもう一つの注目点は最後のBWV103にて、ソプラニーノ・リコーダーの神技を披露したダン・ラウリンであろう。トランペットの島田さんも加わって華やかな感じとなった。

また最初のBWV42ではファゴット大活躍。特に4曲目のソプラノとテノールにファゴットが絡むアリアは、なんというか奇異な響き。正しくこんな取り合わせを立派な曲として成立させてしまうのはバッハならではと言えるだろう。

テノールとバスは常連の歌手ではなかったが(でも初登場という訳でもないもよう。単に忘れただけか(^^ゞ)二人とも声量豊かで、声がビンビンと響き渡った。特にバスの人はどちらかというと、バッハよりイタリア・オペラで聴いてみたい、という感じ。

さて、まだまだ謎のヴィオロンチェロ・ダ・スパラは同じくバディアロフ氏の演奏で、5月のラ・プテッィト・バンドに登場するらしい。楽しみである。

ところで、今回のパンフで共通テーマの一つとして鈴木雅明が紹介している聖書のエピソードが興味深かった。
復活したイエスと共に話しながら道を歩き家に招いてまでいながら正体に気付かず、気付いた瞬間にその姿が消え失せてしまう--というのは何やら不思議な話である。聖書にはこういう話があるんで面白い。

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2006年3月 4日 (土)

世界全人類を愛している--が、あの隣人にはガマンできないっ

映画『ホテル・ルワンダ』はまだ見に行っていない。早々に前売券を買ったが、激混雑中という噂を聞いて後回しにしているのだ。
従って映画の内容についてはなんとも言えないが、ネット上では各所で様々な意見が飛び交っている。
その一例がこれ。

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記「 『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!」

BigBang「引き寄せずとも寄り添えるのではないか。-----ホテル・ルワンダと関東大震災を結ぶ視点」

BigBangさんの文章を読んでいささか疑問を感じたのは、相手を引き寄せて自らを重ね合わせなくても、向こうに寄り添って理解するのが可能である、というくだりである。

もしこれが本当に可能であるのなら、そもそも町山氏がブログやパンフの文章を書くに至った経緯について、自らを重ね合わせなくとも寄り添って理解する事が可能なはずである。(さらに敷衍すれば、映画パンフの文章を読んでカチンと来た問題のブログの書き手の気持についても、理解可能なはずということになる)

しかしそういうことは実際にはなく、さらにその後のブログのコメント欄のやり取りを見ていると「遠い国の事件については向こう側に寄り添って理解出来るというのに、同じ国のブログを書いてる隣人については理解できないのであろうか?」という疑念が湧いてくる。
であるとすれば、遠い国の事件(について描いた映画)を理解するったって、要するにそれは悲惨で美しくて恐ろしいファンタジーとして物語を消費しているに過ぎないのではないか?
単なる「物語」として消費しないためには、自らに引き寄せて考えるしかないと思うんだが。

--というような事を言いたかったんだけどね。
もちろん、これを理解して貰えなくっても結構ですよ。(^○^)

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「ミュンヘン」:警告!これはノンフィクションでもドキュメンタリーでもありません

監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:エリック・バナ
米国2005年

イスラエル・パレスチナ両サイドから賛否両論の、スピちゃん社会派系の問題作。
1972年ミュンヘン五輪での人質事件への報復のためにイスラエル側が暗殺計画を実行、という実話を元にしている。

主人公アヴナーはモサドに属してはいるが人も殺したこともない閑職についている、という設定。それがなぜ首相直々に暗殺を命じられたかというと、建国の英雄の息子だからである。彼はチームを組んで数人を暗殺。だがやがてCIAが絡んできたり、謎の殺し屋が出没したりして逆に身の危険が迫ってくる--。

モサドといやあ、世界一こわい諜報機関である!……というのはスパイものやらアクションものの映画・小説では常識だったはずだ。私なんかもう名前聞いただけで恐ろしくて「ギャ~~ッ(>O<)」と叫んで押し入れの中に逃げ込んじゃう。
それなのにここでのモサドはちょっとおマヌケな感じ。大体にして情報を丸ごと外部から買って入手してたんじゃ計画がバレバレだと思うんだが、どーなのよ。
それに他のメンバーも骨董品屋とか玩具職人とかショボくれた普通の市民ぽい。

そんな彼らが迷いながらもなんとか任務を果たしやがて挫折していくのを、じっくりと見せる。長丁場をダレないで持たせる手腕はさすがスピちゃんと感心する。ユダヤ人でありながら完全イスラエル寄りにはなっていないのも好感度アップ。
また、殺人や銃撃戦の描写はかなり即物的でアクション・ファンにも大満足な出来だ。(ただし慣れない人はご注意)

ついでながら背後に流れてた当時のソウル・ミュージックは懐かしかった。
女の子と電話の場面はヒチコックの引用だそうな。では、爆弾男の正体は--というくだりは『飛べ!フェニックス』がネタ元か?

しかし一方で、どうも最初から何か判然としないモヤモヤとしたものを観ている間ずーっと感じていたのもまた事実である。
よくよく考えてみると、主人公が何を思っているのか見ていてよくわからないのだ。最初に暗殺を命令された時に「やったー!テロリスト共に目にもの見せてやるぞ」と喜んだのか、「これで英雄の息子にふさわしくなれる、頑張るぞー」と奮起したのか、「あー、もうすぐ子どもが生まれるってのに面倒っちいなあ」と渋々だったのか、「暗殺なんて気が向かない」とウツになったのか、まったく描写されていないのである。
それは他のメンバーも同じで辛うじてドライバー役の男が興奮しているように見えるが、どちらかというと自分がリーダーに選ばれなかった事を気にしているようにも取れる。

発端からそれなので、後半で事態が悪化した時に彼がゲンナリした表情を見せても、反省してるんだか残念に思ってんだか国を恨んでんだか、やっぱりよく分からないのである。分かるのは、彼がこの事態がとにかく嫌だという事だけだ。
という訳で終始、主人公の内面を理解する事が出来ずにこの映画は終わったのであった。

さらにもう一つ不可解だったのは、久々に再会した妻とのベッドシーンで過去の回想場面がオーバーラップされることである。それが自分の犯した殺人や流血沙汰の場面ならまだしも、なぜかミュンヘン五輪事件の空港で人質と犯人が殺される様相が、白黒ニュース風のドキュメンタリータッチで描かれるのだ。
なんで彼が実際に見てもいない映像がベッド上の行為中に出てくるのか?訳分かんないぞー。まあ、両方とも「突撃」してんのは共通だけどさ(^o^;
しかもこの空港でのドキュメンタリー風場面は、実は事実とは違うらしい。この映画を作っている時には公にはなってなかったそうだが……。(文末のリンクを参照のこと)
「ドキュメンタリー・タッチ」だからと言って「事実」ではないっちゅーことですね。また一つ賢くなりました。

さて、ネットでこの映画の感想を眺めていて気になった点を幾つか。
まず、「この事件は日本ではあまり報道されなくて知られていない」という意味のことが書かれているのを幾つか見たが、ホントか?と思ったので調べてみた。
当時の新聞縮刷版を見てみると、事件の翌日の朝刊はこの事件が1・2・3面を完全制覇。同じ日の夕刊さらに次の日の朝刊も同様である。充分報道されてたわけだが、記憶に残ってないというのは、結局この事件には日本人が直接関わっていなかったからだろう。

もう一つ、「日本には民族問題がないので、見ていてよく分からなかった」という意見があってずっこけた。民族問題、日本にないか(?_?; ……あるだろ。

それと、この映画だけでなく実話を基にした社会派や時事ネタ系の映画(『スタンドアップ』とか『ジャーヘッド』なんか)のことを「ドキュメンタリー」や「ノンフィクション」と書いているのも驚いた。違~う(>O<) こりゃ、実話を元にしているけれど、あくまで「フィクション」ですよっ!


主観点:6点
客観点:8点

【関連リンク】
『パラダイス・ナウ』と『ミュンヘン』──映画に見るイスラエル-パレスチナ
かつては戦争に参加しその後長年平和運動を続けたイスラエル人の老ジャーナリストの感想。(二つの映画についてかなりのネタバレあり) 当事者としての怒りが炸裂しております。
 

映画館を出る時に、私を招いたドイツ人が私の感想を聞きたがった。何も考えることなく、反射的に私の口から出てきたのは──何から何まで「不愉快だ!」
(中略)
ミュンヘンでの襲撃シーン──最初から終わりまで、断片的に、何度も何度も繰り返される──に登場するアラブ人は、惨めったらしく醜く汚らしく臆病な生きものとして描かれ、一方、イスラエル人の復讐者アヴナーはその対極にある。

上記の文末リンクより
P-navi info
上の映画評を掲載した「ナブルス通信」の編集人さんによる感想。
これを読んで目からウロコがポロポロとはがれ落ちる思いがした。なるほどあの主人公にユダヤ系米国人としてのスピルバーグは自分の苛立ちを代弁させているわけか。確かに「おれはこういう状態はイヤだー、なんとかしてくれ」というのはよーく伝わってきたよ。

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