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2006年5月

2006年5月28日 (日)

ある少女マンガ家の壮絶な肖像

しのさんの「おたくにチャイハナ」の《「AERA」上の望都さま》を読んで、初めて週刊誌「アエラ」5月1日-8日合併号に萩尾望都の記事が載っていることを知った。
実は「アエラ」は職場で取っているのだが、忙しくて全く見てなかったのだ。(表紙さえもろくに眺めてなかった)

さっそく読んでみる。「現代の肖像」というコーナーで、本人や周囲の人々にインタビューをしたものを、ライターがまとめて記事にしている。
子供時代のエピソードから親(特に母親)との相剋、マンガ家としてデビューし上京、出版社を移籍して人気が出るまでの苦労、その後も母との軋轢は続く--。

中でも、一番驚いたのは
自分が男なら、親は漫画家になることを反対しなかったのでないかという思いは強く--
という件だ。あの天才にして、このような感慨を抱いていたとは衝撃である。
人によっては、このような苦悩であっても「虐げられ、不当に抑圧されているというルサンチマン」などとみなすであろうか? いや、「ルサンチマン」などではあり得ない。これはもはや自己の存在についての根源的な問い(しかも回答のない)だろう。
自己の表現を最優先して求める生き方を選択したことで、彼女にこれほどの困難があったとは今まで想像もしていなかった。

『メッシュ』はそのような親からの呪縛を解くために描かれたとあるが、どうも私はこの頃から彼女の作品の神経質な所が気になって来て、あまり進んで読みたいという気が薄れていったように記憶している。なんだか、その神経質さに共鳴して自分もウツになってしまうような気分を感じたのだ。(三原順に対しても、同様に感じた) 雑誌を毎号買ってたので、読んではいたけどね。

この記事を読んだ後、『イグアナの娘』をたまたま読み返したら、こ、これは完全に母親を殺してしまう話ではないか。リアルの自分の母親は生きているというに……。まさしく壮絶としか言いようがない。


大学の頃の友人に萩尾望都の初期からのファンがいた。初期と言っても、小学館でデビュー時からの短編をすべて雑誌スクラップしていた(つまりリアルタイムで読んでた)というほどに、ホントに最初の頃だ。まだ当時は初期の短編は全くコミックス化されていなかった。
彼女が言うには、もう初めから萩尾望都は絵からして他のマンガ家とは全然違っていたという。しかし、同じ雑誌を読んでた彼女の友達は「もう、こんなマンガ詰まんなーい」とけなしてたそうな。

天才の道はつらくてキビシイんだよ……。

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2006年5月27日 (土)

BCJ名古屋公演の顛末をようやく知る

バッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」の感想に、名古屋公演で何かアクシデントがあったようだが?ということを書いたが、今ごろになってmixi経由でこちらのブログを見つけた。

「真・獣たちの種子」より《総体としての祝福(上)(下) ~BCJの「マタイ受難曲」》 ←残念ながらリンク切れとなりました。

正しく迫真のレポートとはこのことであろう! その場のリアルタイム最前列の緊張感がヒシヒシヒシと伝わってくる。
ただ一度の演奏(いや、他の場所でもまた同じ公演やるだろうということじゃなくてね)でのアクシデント。プロとしてありえない失敗。しかし、それでもそれはいつでも起こり得る。しかもやり直しはきかない。
その時、演奏者は、観客は? 何をなすのか。

東京公演の第2部初めが異様なほどの緊張感に包まれていたのもこういう事件があったせいだったのか--と思った。(一週間ほど間があったとはいえ、名古屋の次が東京)

なお、上記のブログの前段の「マタイ」の解説も非常にためになる。不勉強な私には大変参考になりました。<(_ _)>

しかし、散々ブログ検索を繰り返したんだけどどうして見つけられなかったんだろう? 謎である。

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2006年5月24日 (水)

「ブロークバック・マウンテン」:「男」はつらいよ

監督:アン・リー
出演:ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール
米国2005年

これもまた今年度上半期話題の作品。内容紹介不要ですね(^o^)

見ようによっていかようにも解釈できる。

はたしてこれは単に「ゲイのカウボーイ」の話か。
自分勝手で救いがたいヤローの不倫話か。
それとも、他者を拒み続けてついでに回りの人間まで不幸にしてしまった男の物語だろうか。
はたまた、様々な現実のしがらみでいかんともしがたい人生の悲哀を描いたものか。

セリフの意味は重層的でどのようにも受け取れるだろう。
字幕ではほとんどそのニュアンスを理解できないみたいで残念。主人公のラストのセリフなんか、私は最初「なんて自分勝手な野郎なんだ?」とムッとしたが、それは字幕の内容で、元のセリフはそこまで言ってないらしい。やり過ぎだよ。
(しかし、あのシーンもクローゼットの中に、というのが意味深ですなあ)

ついでに映像は驚くほどにきれいだし、音楽もいい。
役者の演技もそれぞれに素晴らしかった。 \(^o^)/
でも、同じ監督の「昔の米国」ものだったら『楽園をください』の方が良かったかなー、なんて思ったのもまた事実であった。(興行成績は雲泥の差だが)

あと、主人公が山から降りてジャックと別れた後、しゃがみこんで号泣、というか嗚咽する場面がある--と思ってたら、なんとあれは気分が悪くなって(罪悪感で)本当に吐いているんだという説があって驚いた。しかも、後者の方が「準」公式見解だという。マ、マジですか……(-o-;) 今度からト書きを字幕に付けてほしい。


主観点:7点
客観点:8点

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2006年5月23日 (火)

ラ・プティット・バンド公演その後

いつも拝見させて頂いているブログ「はろるど・わーど」のラ・プティット・バンド公演の感想が出ました。
えーと……私とは全く正反対である。
一つの音を聴いて「熱い」とか「冷めている」とか、或いは「古い」とか「新しい」と感じるかは、完全に個人の感性の問題だから異なって当然だが、同じ会場にいながらこうまで違うともう感心しちゃうほどだ。
それにバロック音楽に求めるものが根本的に違う、というのがあるかも知れない。
あ、シギスのヴァイオリンの音がギコギコしている、という点においては全く同じですね、ハイ(^^)

やはりブログの数だけ感じ方はあるのだなあと今さらながら思い知った。
しかし、私は映画なんか見に行くか迷っている時は、よく他人のネット上の感想を読んで決める事が多いのだが、こうなると他人の意見はあまりあてにしない方がいいもんかね。

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2006年5月22日 (月)

ラ・プティット・バンド:老いてますます盛んとはこのことよ

内容:J.S.バッハ・プログラム
会場:東京オペラシティコンサートホール
2006年5月19日

昨年の同時期はクイケン・アンサンブルとして来日していたクイケン三兄弟の内、ヴァイオリンのシギスヴァルトとフラウト・トラヴェルソのバルトルドがもう少し編成が大きいラ・プティット・バンドとして来日。なんと8日間に6回公演、しかも北は北海道から南は九州まで--大丈夫か(?_?; 御老体。
モーツァルト・イヤーでも、演目はやはりバッハであるのがチョット嬉しい。

このグループは古楽系でも老舗の部類に入るが、私はコンサートは多分初めて。(三兄弟は毎年のように見ているからゴッチャになってしまう) 過去には、日本の古楽界をしょって立つ演奏家たちが参加してたのでも有名だ。今回も日本人が一人メンバーに入っていた。
そのような由緒あるグループの公演のせいか、観客はかなーり年齢層が高い。BCJや去年のクイケン兄弟よりもずっとずっとジーサンオバハンが多数な感じ。

最初の「2つのヴァイオリンのための協奏曲」からチェロが出なくて、いきなりあの首掛け式ヴィオロンチェロ・ダ・スパラが登場。弾き手はBCJの時と同じく、クルリン巻き毛長髪のヴァディアロフ氏である。
ソロはシギスと娘のサラ・クイケン(結構美人)だったが、今日はサラに比べて(或いは過去の公演に比べて)ジギスのヴァイオリンのギコギコ感が甚だしい。思わず冷汗である。きっと2ちゃんねるあたりにまた「下手くそ」とか「老人は引退してよしっ」などと書かれるんだろうなあ、などと思ってしまった。

次の「ブランデンブルク協奏曲 第5番」では娘にソロを譲ってシギスがスパラを担当。もう一人、日本人のチェロが登場--と思ってたら、チェロぐらいの大きさだがもっと低い音域を担当する違う楽器であったらしい。(見てただけでは分からなかった)ここでバルトルドも参加。
当日は変な天気だったせいか(雨模様で午前は涼しく午後はムシムシ)、サラが調弦にかなり時間をかけていた。

休憩を挟んで「音楽の捧げもの」から「6声のリチェルカーレ」を弦楽器だけで演奏した。この曲は指定楽器がないので何で演奏してもいいわけだが、普通はチェンバロ一台か弦楽器+チェンバロだろうか。
何年も前にさいたま劇場でBCJとクイケン兄弟が組んだ公演でも、同じ編成でやっていた。その時は6人が一列に並んでいたのだけど、今回は円を成して並んでいる。(従って、二人は客席に背を向けて演奏)
過去のBCJとの時も感動したが、今回も良かった! 円の左側に高音域と低音域の奏者がいて、右側に中音域が配置され、対比が鮮やかに示されていた。

しかし、それよりも良かったのはラストの「ブランデンブルク4番」。私でさえもCDを4種類ぐらい、さらにFMで放送したテープを入れると6種類も持っているほどにスタンダードな(別な言葉で言えば、聞き過ぎた)「ブランデンブルク」であるが、なんと言うか今まで聴いたことのない新鮮さとバロック演奏の真髄というようなものを感じさせてくれた。音が立体的に立ち上がって来て、二本のリコーダー(うち一本はバルトルドが担当)とシギスのヴァイオリンと絡み合う感じ……うーむ、うまく言葉では表わせない。

ほとんど古楽演奏のパイオニアと言ってもよいほどのこれほどのベテランなのに、未だにこんな新鮮な演奏を聴かせてくれるとは--信じられねえっ!

前回も感じたことだが本当にシギスヴァルトの演奏ほど、滑らかで均質で安定した美、といったものに縁遠いものはない。「ブランデンブルク」4番の第3楽章のソロなんて、もうほとんどノイズに近く思えるほどのブチ壊れぶりだ。だからこそ彼は真にバロック的であると言えるかも知れない。

会場は--やはりオペラシティではデカ過ぎ。紀尾井ホールぐらいがいいなあ(とワガママを言ってみる)。

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2006年5月21日 (日)

「クラッシュ」:「希望の街」を覚えてる奴はもういないのか!

監督:ポール・ハギス
出演:サンドラ・ブロック、ドン・チードル、マット・ディロン
米国2004年

久々にひねくれ者根性炸裂の感想です!

【事前の注意】
もしも、あなたがこの映画を「大感動した」とか「今年度ベストワンは間違いなし」などと思ったなら、以下は読まないようにオススメします。
それでも、なお読もうとするなら全て自己責任でお願いします。他人に八つ当たりしたりしないように。

いやー便利な言葉だなー、「自己責任」て(^○^)

絶対確実かと思われていた『ブロークバック・マウンテン』を退けて、アカデミー作品賞を獲得した映画。監督は『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家だが、あちらは未見である。あまりに大絶賛の嵐なので、つい見に行ってしまった。

それが間違いであった……(=_=;)

大都市LAで錯綜し衝突する様々な人種・民族・階層の人々、ある者は死に、ある者は和解し、ある者は不正を犯す--。

差別主義者だと思われていた男が実はいいヤツだった。
実に感動的な話である。
不正と差別を憎むはずの者が平然と犯罪を犯してしまう。
実に衝撃的な話である。

だが……問題はそこになんの必然も伏線も説得力もないことだ。
唐突に「ホントはこいつはこういう人間だったんですよ」と見せられても、「はあ?いきなりそんなこと言われても」と問い返したくなる。

とある掲示板で「この映画は悪い事も良い事もする人間を描いているが、たいていの人間は悪い事もしなければ良い事もしないのが普通」という意見を見かけた。大いに同感である。

TVプロデューサーがあんなに暴走するのはいくらなんでも大袈裟過ぎ。せいぜいヤケ酒かドラッグでもやって、白人の下っ端の部下をいびって終わりが普通だろう。
それから、いくら助けられたからって、検事の妻の豹変ぶりには笑っちゃうほど。もしかしてこいつまた明日には正反対に豹変するかも、なんて疑っちゃう。

要するに、あまりにわざとらしいのだ。見ていてとても納得できるようなものではなかった。
役者たちの演技は良かったけどさ……。

他の人の感想を見ていると『マグノリア』や『トラフィック』を引き合いに出しているのが多かったが、とんでもない。これに比べるに相応しいのはジョン・セイルズ監督の『希望の街』(1991)である。
舞台こそ架空の都市だが、人種間の争いをテーマに30人にも及ぶ様々な人々が繋がりを持ち、完全な円環をなしてまた冒頭の人物まで戻ってくる。人々の行動にはしっかりとした動機や必然が描かれ、しかも語り口にはユーモアがあり、ラストには明るさが見える。
この作品と比べてもなお、『クラッシュ』の方が素晴らしいというのなら、そもそもものの見方が違うとしかいいようがない。

あの名作は忘れ去られてしまったのであろうか(T^T)クーッ
是非もう一度見たいのだが、ケーブルTVでも放送してくんないし、仕方ないから中古ビデオで買おうかのう。


主観点:5点
客観点:6点

【追記】
似た評価をしている感想をようやく見つけた。私のほど極端ではないが……。
「日刊【考える葦】Returns」より《〈 クラッシュ 〉差別・偏見の衝突事故らしいのだけれど》

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2006年5月20日 (土)

「レ・パラダン」チケットをゲーット!

ラモーのバロック・オペラ「レ・パラダン 遍歴騎士」、パリ・シャトレ座による公演のチケットをプレオーダーにて素早くゲット!
斬新な演出やヒップホップまで使った振り付けなどが話題を呼んでいるが、やはり演奏の担当がウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサンというのが、キモであろう。

しかし、11月なんでまだ先だよ。おまけに三万五千円ナリだよ。(号泣)
文化村のオーチャードホールではデカ過ぎだよ。
でも、楽しみだよ(^^)

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2006年5月19日 (金)

ホテル・ルワンダ:情にも知にも訴える

監督:テリー・ジョージ
出演:ドン・チードル
イギリス・イタリア・南アフリカ2004年

今年度上半期最大の話題作品には間違いないだろう。これが日本でロードショー公開されるまでの経緯は色んな所で紹介されてるんで省略するが、私は素早く前売券をゲット。公開直後はスゴイ混雑らしいんでもう少し後で観ようと思ってたら、今度は急に忙しくなって行けなくなってしまった。(T_T)
で、公開館も変わっちゃって前売券も使えなくなってしまったという次第。あんまりだー。

事前の情報では号泣する観客多数、ということだったんだが、実際見てみるとそんな感じの映画ではなかった。情よりもきちんと理知的に訴えてくる造りになっている。
怖い所は怖く、訴えるべき事は訴え、感動させる所は感動させる。そこら辺はキッチリ作られている。

終始、ホテルマンである主人公一人の視点から描かれているので、あまり社会全体の状況とかどうしてこんな悲惨な争乱になってしまったのか、ということまではよく分からない。一応、登場人物同士の会話の中で説明されているが……。
しかし、そこまで一つの映画に求めるのは無理というもんだろう。

主人公は差別意識は全くない人間で、それと対置するように食糧を取引する相手の男は差別主義のグループに入っていて虐殺を行なう。しかし、その中間あたりをウロウロして迷っているような人間は出てこないで、スッパリと分かれている。
そのため、どうしても外部から押し寄せる脅威に対抗して家族や隣人を守った男の話、という感じが強かった。
だが、その困難な時に主人公がより所としたのが、由緒あるホテルの支配人だという意識で、ある種西欧社会の規範に基づいている--というのが、そもそも同一国内を二つの民族に分断したのが西欧の植民地政策である事を考えれば、いささか皮肉なことである。

観客を感動させ、家族愛や隣人愛を訴え、国際問題や差別について考えさせる、極めて完成度が映画といえるだろう。
ただ、「好きな」映画かというと微妙な所ではあるが……。

ドン・チードル好演! 『クラッシュ』でも評判いいし株上昇中である。

さて、私が彼のような立場になったらどうするだろうかと自問してみる。もちろん、困難な場からはこそこそ逃げ出し、様子をキョロキョロと伺い、場合によっては他人を裏切り、うまく立ち回ろうとするだろう。
とても偉そうな事は言えません、ハイ。

【追記】
だが、「日本には人種差別はないのでこの映画を見てもピンと来ない」などという言説を見ると(この『ホテル・ルワンダ』についてではない)、脱力しちゃう。
あるだろ、差別……まあ、永遠に「他人事」ですね。(←これって偉そう?)


主観点:7点
客観点:8点

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2006年5月14日 (日)

「ホプキンソン・スミス ビウエラ リサイタル」:ダ埼玉の汚名は挽回

会場:松明堂音楽ホール
2006年4月29日

H・スミスは米国出身のリュート・ギター演奏家。これまでヨーロッパを中心にソロやアンサンブルで活躍して来た。

今回はルネサンス期のスペイン及びイタリア音楽をビウエラで演奏するコンサートで来日。
ビウエラというのは当日配られたリーフレットによると「16世紀スペインにおいて、高度に洗練された音楽を演奏するために作られた宮廷風ギター」だそうである。(当時のギターは現在のより小型)

当日登場したH・スミスは、外見は厳格な古典哲学の教師風--但し赤いネクタイを除けば、という印象だ。
演目はルイス・ミラン、アロンソ・ムダーラなどスペイン勢作曲家に加え、同時期イタリアのフランチェスコ・ダ・ミラノも加えて、舞曲など小品が中心である。

元々、彼は奔放な演奏をするというタイプではなく、それぞれの作曲家のスタイルを着実に弾いていくという感じだが、今回のコンサートも同様だった。
ただ、個人的にはこの手のスペインの宮廷音楽って洗練の極み--というか、洗練され過ぎちゃって却って今ひとつ面白さに欠ける所がある。
という訳なんで、アンコールで以前にCDを出しているP・アテニャンの曲をやってくれた時、「あー、やっぱりおフランス物はええのう」なんて思っちゃったのだった。

さて、松明堂は定員百人に満たない極めてこじんまりとしたホールである。数年前の前回の来日ではダウランドを同じ会場で演奏してくれた。
その時は、曲の途中でベリベリとデカい音を立ててバッグのファスナー(?)を開け閉めするオバハン(多分)がいたのもイライラしたが、もっとひどかったのは曲の合間にひどい咳をゴホンゴホンと会場全体に響き渡るようにし始めた男だった。
いくら「出物腫れ物所嫌わず」と言ってもあまりにひどい。スミスは調弦しながら咳が終わるのを待っていたが、あまりにいつまでもゴホゴホしているので、なんとやおら立ち上がって傍らに置いてあった封を開けてないミネラル・ウォーターのボトルを持ってその男の席まで行って差し出したのであった!

なんたる事だろうか、さすが文化果つる地・埼玉は所沢である! この一件の少し後に、大阪にてあの世界的人間国宝にして生ける世界遺産ことグスタフ・レオンハルト翁のコンサート最前列で「オバハンがスマップ着メロ鳴らし事件」というのが勃発し、それの陰に隠れてあまり話題にならなかったが、非文化地帯ダ埼玉の印象を一気に深めたのであった。

しかし、今回は満員御礼の松明堂では何事も起こらず、スムーズにコンサートは進んだ。前回の埼玉の汚名はそそげたのである。 バンザーイ\(^o^)/


ついでに、H・スミスの演奏でおすすめディスクは
Charles Mouton:Pieces de Luth(ASTREE)
1979年録音のものだが、未だに愛聴している。ムートンの曲のディスクは他の演奏家でもあるが、やはり彼のが一番だろう。CDの解説書に別人のように若い写真が!


【関連リンク】
「海の星」より《ホピーとビウェラ》
別のホールでの公演の報告ですが、実際に楽器をやっている方のようなので極めて詳細な内容です。

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2006年5月13日 (土)

ハネケ祭でワッショイ その3:いかに私は感動するのをやめてハネケ中毒となったか

ミヒャエル・ハネケ映画祭『ベニーズ・ビデオ』
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:アルノ・フリッシュ、アンゲラ・ヴィンクラー
オーストリア1992年

今回の混み具合はちょうど客席が埋まったぐらい。『セブンス~』の大混雑は一体なんだったんか?

正直に言えば、『ベニーズ・ビデオ』は今回観た三作の中で一番「退屈」であった。そして一番賛否両論が激しい作品のようだ。他のブログを見るとかなり激烈に批判しているのが幾つかあった。

少年が自宅で殺人を犯す--先進国ではよくある(?)少年犯罪の話だ。
冒頭「農家でブタをスタンガンみたいな銃で殺す場面を撮ったホームビデオ」が映される。カメラやビデオの機材が溢れかえった自分の部屋で少年はそれを見ている。後から帰宅した両親もそれに加わる。
あたかもこの親子の繋がりは、同じ方向を向いてビデオを見る事でしか存在しないかのようだ(それがどんな内容のビデオであっても)。

自宅に誘った少女を、少年はブタを殺したのと同じ銃で撃ってしまう。この場面がコワい。実際の行為はスクリーンには現われずに、少年が室内に設置したビデオカメラの固定したフレームの隅っこに映されるだけなのだ。しかも女の子の叫び声が……(>y<;)とてもとても恐ろしい。

しかし、過激な場面はそこまで。少年が外をフラフラし、両親が帰宅して以降は「退屈」の嵐となる。特に事件を知った夫婦が対策を話し合う場面は茫洋として時間がビヨ~ンと引き伸ばされたような感じで、見ていて耐えがたいものがある。映画館の座席に座っていて「あ゛ー、もうやめてくれえ~」と叫びたくなったほどだ。

続いて、父親が隠蔽「作業」している間に母親と息子は旅行に出る。また、そのマッタ~リとのんびりとして退屈なこと! 見てて干からびて死ぬかと思ったよ。
しかし、その退屈さの背後で何が進行しているかを想像すると……(>O<)ギャーッ、恐ろしい、恐ろし過ぎ。しかし、それを思い浮かべられないほどにマッタリと平和なシーンが続くのだ。

終盤に少年は両親を裏切る行動に出るが、それは不可解な事ではない。恐らく彼は罰されたかったのだろう。だが、親は彼の望むことはしなかった。父親は彼が頭をいきなりスキンヘッドにしてしまったことについて長々と小言を言っても、肝心の殺人については怒らない。むしろ両親とも事件を親子の絆を深める契機としてしか考えていないようにさえ見える。その後は息子と自分たちの保身だけに突き進むのだ。

少年が事件後スキンヘッドにしたのも、あるいは事件のビデオを平然と親の前で見るのも無神経というより自らの内面を遠回しに見せたかったのだろうと思える。
しかし、両親は肝心な事は何一つ見なかった。

かくも不毛なる親子関係……後半の耐えがたい退屈さとは、この不毛さに裏打ちされたものに他ならない。
一作目の『セブンス・コンチネント』は物理的に破壊された「家」が描かれたが、こちらのは関係性が完全に壊れた「家」である。額縁に入ったアート作品に埋め尽くされた居間の壁は、実際には空虚で寒々としたこの家庭の内実をアイロニカルに示しているのだ。
次善の策としては、せめて息子に父親の「作業」を手伝わせれば良かったか(;^_^A いずれにしても救いがたい話だが。

かくもこの映画の退屈さは強烈である。強烈過ぎて神経を麻痺させるぐらい。どうやら私はその「毒」にやられてしまったようだ。
床の血液をふき取る行為と食卓にこぼれた牛乳をふき取る行為--もう頭の中からから離れない。
もはやどんなに感動的な話や興奮するアクションを観ても、この強烈な退屈さの毒に比べれば物足りない。詰まらない。全てわざとらしく見える。
「もっとハネケを!」中毒状態で思わず胸をかきむしりたくなってしまったのだった。

三作品観て共通に感じたことだが、彼は音楽の--それもアリ物の俗っぽい流行歌の類いの使い方がとてもうまい。特に『ベニーズ~』では母親が号泣する場面。ここまで来るとイヤミじゃないかと思えるほどだ。(それからバッハのオルガン曲も)


なお、渋谷ユーロスペースではまたも好評につき、早朝アンコール再々上映を5月下旬から6月にかけてやるもよう。でも、下手するとまた床に座る羽目になるかも。どうせなら、2週間ぐらいの限定上映でもいいから連続でやってくれよう。

【関連リンク】
正反対の意見も紹介しておきます。
「瓶詰めの映画地獄」より《道端のゲ○を見て芸術と呼べるか!? 「ミヒャエル・ハネケ映画祭」》

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2006年5月 8日 (月)

ハネケ祭でワッショイ その2:かくしてパズルは完成した

ミヒャエル・ハネケ映画祭『71フラグメンツ』
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:ガブリエル・コスミン・ウルデス、ルーカス・ミコ
オーストリア1994年

前回の混雑ぶりに驚いたんで、今回は一時間前ぐらいに整理番号を貰いにいく。充分余裕の番号だったんで、ホッとした。
だが、実際に入場してみるとなんと四分の一ぐらいは空席が残っていた。思わず脱力してしまう。どうやら『セブンス・コンチネント』は「破壊」シーンだけが話題になって見にきた人が多かったようだ。なんだよー(~ ^~)

さて、今回の作品も実際の事件を元にしているそうだ。大学生の男が銀行で強盗するわけでもなくただ銃を乱射し、最後に自分を撃って自殺した。(これは映画の冒頭に簡単な説明文が示される)

それから後は様々な人々の日常の描写がバラバラに挿入されていく。現金輸送の警備員、不法入国した少年、銃を盗む男、銀行員の娘を持つ老父、パズルに興じる学生たち、養子を迎えようとする夫婦などなど--さらに不安な国際情勢を告げるテレビのニュースが頻繁に入る(←これは『セブンス~』と同様)。

一人暮らしの老父が娘に電話で愚痴るのは少々聞いててイライラするが、大したことではない。
夫婦が養子に迎えようとする少女はちょっと「大丈夫かいな?」という感じだが、大したことはない。
ストリート・チルドレンのような難民少年の行く末は不安だが、大したこともないだろう。
警備員の中年男は仕事のストレスですり減っているようにも見えるが、きっと大丈夫--だろう。

執拗なまでの日常の描写が積み重ねられ、その軌跡が最後に一点に集中する。誰が死者となり誰が生者となったのか。誰が加害者で誰が被害者なのか? その決定的落差はどこに生じていたのか?
しかし、その悲劇もボスニア情勢と芸能ニュースの狭間で忘れ去られていく運命なのだ。

登場人物が多過ぎるんで、肝心の学生たちを描いた場面では誰が誰やら分からなくなってしまった。(汗)
退屈といえば退屈である(日常描写ばかりだし)。次に誰の場面が出てくるか分からないから、気を引きつけられると言えば言えないこともないだろう。
日常的な物、単純な動作、それらをただ反復して撮り続ける事に監督は執着しているように思える。逆に最も暴力的な場面を直接描写することはないので、そういう意味では肩すかしである。

いずれにしろ真摯で、嫌味あふるる作品には違いない。


ところで、見ている途中にどこからか「サラッサラッ」という変な音が聞こえて来た。なんだと思ったら隣に座った男の時計の秒針の音だった。男が腕を下に置いて見てればいいのだが、手を顎の下で組んで見ていると(頻繁にそうしていた)、ちょうど私の耳を直撃してくるのだった。今どき、あんな大きな音がする腕時計があるんかと驚いてしまうが。
ハネケ作品は劇伴音楽は使わないし、無音の場面も多い。もう段々と気になって気になって集中して見ていられなくなってしまった。片耳塞いでも聞こえてくるし……。ご本人は気にならないのかね?慣れてるから。
うっかりド真ん中の座席に座ってしまったんで、移動も出来ないし、かといって「時計がうるさい」なんて言ったら映画館中に響き渡ってしまうだろう。
マイッタよ(T_T)

皆さん、映画を見る際には腕時計にもご注意下さい。

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2006年5月 7日 (日)

ハネケ祭でワッショイ その1:もはやここは「家」ではない

ミヒャエル・ハネケ映画祭『セブンス・コンチネント』
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:ビルギット・ドル、ディーター・ベルナー
オーストリア1989年

ミヒャエル・ハネケ監督の映画祭が4月15日~28日に渋谷のユーロスペースで開催された。連日、夜9時15分からの上映である(-_-;)
三作品について感想を報告しよう。

そもそもM・ハネケを知ったのは『ピアニスト』からである。それまでは名前を聞いたことも見たこともなかった。ファンの皆さん、すいません_(_^_)_
しかも、『ピアニスト』もロードショーで観たわけではない。長いこと見るかどうか迷った揚げ句、結局行かなかったのだ。実際に見たのは、レンタル屋でDVDを借りてである。
そして、見終った瞬間後悔した。映画館で見ればよかったと--。もし、ちゃんとロードショー時に観ていれば、間違いなくその年のベスト作品に選んでいただろう。

そのような「後悔」の念がハード・スケジュールの中、私を映画祭に向かわせたのであ~る。

映画祭最初の作品は『ピアニスト』だったのでパスして、その次の『セブンス・コンチネント』に行く。(なおパンフやチラシのタイトル表示はすべて中黒「・」がなくて、半角スペースで区切られているが、気色悪いので勝手に中黒を入れちゃうよ。タイトル検索できなくっても知るかっつーの!)

元々テレビドラマや舞台の演出をしていたハネケの初映画作品とのこと。開始15分前ぐらいに行ったらロビーに人が充満していて驚く。受付番号を貰ったら完全に定員の人数を20番ぐらい超していた。
立ち見するのも大変なので、通路に座ることにする。それでも後から後から人が入って来て、通路には2列に人が座り、さらには最前列前のスペースや出入り口付近の段差にまで人が座っていた。エラい人気である。ハネケがこんなに人気があるとは知らなかった。(--というのは、ある意味誤解であったことが後日判明)

冒頭、ガソリン・スタンドによくある洗車の行程を車の内部から撮った映像が続き、それにタイトルやクレジットが重なる。

続いて平凡な三人家族の日常が延々と描かれる。しかも目覚ましを止める、ベッドから降りる、歯を磨くなどの日常の些細な行動が画面に繰り返される。
小学生の娘が学校で虚言癖を見せるとか、妻の弟が精神不安定、なんてことはあるがそれ以外は何事もない家庭だ。
それが一年目の描写である。二年目になっても、やはり同じ日常の動作が繰り返される。その平穏さは退屈なほどだ。
また洗車の場面が出てくる。家族三人で車に乗っていて、なぜか妻が突然泣き始めるのだ。理由は分からない。

三年目--今度は全てが変わっている。夫は順調に行っていた仕事を急に辞職し、貯金や保険を下ろす。車を売り払い、周囲にオーストラリアへ移住すると説明する。娘の学校を休ませ、食品を買いまくり一家は家へたてこもる。
そして、破壊を始める。

その「破壊」がまたただ事ではない。どうしてそこまでやるのかというぐらいの執拗さだ。タンスの中のシャツの全てにハサミを入れたり、手で引きちぎる。家具も何もかもぶち壊す。本もノートも細かく破り捨てる。金をトイレに流す(紙幣だけでなく硬貨まで! 観客全員が「よくトイレ詰まらないなー」と思って見てたはずだ)。
レコードも一枚一枚手でブチ割る。(私がかつて愛聴して、未だに保存してあるゴールデン・パロミノスのLPもその中に入っていたのを発見)
夫婦はヒット・チャートに入るようなロックやポップスが好きなようだ。最後の最後に見ていたMTVはミートローフのように思えたがどうだろうか? 破壊の状況とそのアンバランスさがある意味すごい。そう、彼らはテレビだけは残したのだ……。

この作品は実際にあった事件を元にしたそうだ。つまり、完全に破壊し尽くされた家と三人の死体が発見された。夫の両親は遺書があったにもかかわらず、自殺とは認めず警察に捜査を依頼したらしい。

ハネケ監督は平和な家庭と、破壊された家の間隙を埋めようとする。しかしそれは「なぜ」ということではなく、「いかに」ということを描く事によってである。
なぜ死んだのか?なぜ壊したのか?誰にその理由なぞ推し量れようか。とすれば、「どのように」破壊し尽くしたのかを描くだけだ。

以前、妻が柔らかい室内ばきを履いて歩いていた床は、くだけ散ったガラスや木材で覆われて、今度は彼女はブーツを履いてその上を歩く。もはやかつての家は存在しなくなった。

洗車の場面をどうとらえるかは人によって違うだろう。私は「彼岸への道」だと解釈した。轟音の中を巨大なブラシやら何やらが宙を行き交う様子は、得体の知らない深海か遠い異世界の光景のようで、あまりに不気味で私は少し胸が悪くなった。
その先にある「オーストラリアへようこそ」のポスター。オーストラリア=第六の大陸、とすれば、夫の想念の中に浮かぶ「第七の大陸」とはまさしく彼岸の世界に違いないだろう。

日常の中にパックリと開く死の亀裂、未だ正視できぬ虚無の広がり--この映画はそれを見せる。だとすれば、どうして通路に座って腰や尻が痛くなったぐらいのことが気になるだろうか?


【関連リンク】
「CODE_NULL」
こちらの詳細な感想にも同感しました。

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2006年5月 5日 (金)

蜷川版「タイタス・アンドロニカス」:すべての元凶はお前だっ!

作:W・シェイクスピア
演出:蜷川幸雄
出演:吉田鋼太郎、麻実れい
会場:彩の国さいたま芸術劇場
2006年4月21日-5月7日

以前、この作品の映画版(アンソニー・ホプキンス主演のヤツ)を見たが、残酷なだけでどーにもよく理解できなかった。で、蜷川幸雄が再演するということで友人を誘って見に行ってみた。

会場はほとんど女ばっかりで埋め尽くされていた。ビックリである。出演している若手の男優のファンらしい。

舞台美術と衣装は素晴らしい。血を赤い糸で示しているのもいい。
えーと、それ以外は……えーとえーと……出ている若い役者がみんなニナガワ好みだなーって感じ。おまけに女は三人しか出てこないし。(映画では終盤の宴会にメイドぐらい出てたぞ) いやはや、大したもんです。(何が(^^?)

この物語では、どの登場人物も他人に慈悲を乞い願うが、誰一人として自分からは他人に慈悲をかけてやろうとはしない。それが流血の連鎖を引き起こすのだけど、そもそもの大元は他ならぬ主人公のタイタスに他ならない。あんたが、最初に慈悲をかけてやって正しい「選択」をしていればこんな事にならなかったんじゃないの、どーよ?と言いたくなる。映画を見た時もそう思ったが、今回の芝居でもやはり同じだった。

芝居好きのとある人はこの戯曲を「残酷なだけの作品」と切って捨てていたが、やはりそうなのか。
主人公はリア王っぽい所もあって、今回はそれで結構泣かせてくれたけどね。そういう点では吉田鋼太郎、力演です(^^)/

休憩時間に周囲の女性客たちがパンフを広げていて、小栗旬の写真が出ているのが見えたが、イケメン若手俳優情報にうとい私たちはどの役が彼なのか観ていて分からなかった。
後半でようやく悪役エアロンだと判明。しかし、この役も『ベニスの商人』のユダヤ人どころではないアフリカ系差別なキャラクターである。海外だと、黒人の役者が演じるのかねー。もっとも、これだけの悪人だとかえって演じがいがあるのかも知れないが。

王妃役の麻実れいはすごく評判いいみたいだが、どうかな……。ベテランの中年女優ならあのぐらいは出来るんじゃないの、とも思った。というのも、割と類型的な「悪女」だから。例えば、岸田今日子あたりが二十年前にこの役をやったらどうだったか、と想像してしまった。

開演する前に、既に役者たちがステージにいてウロウロして、楽屋裏で発声練習なんかをしている様子を見せるという設定だった。(「開演5分前」とかアナウンスが入る) 面白いとは思うが、これが全く作品の内容自体には関わってこない「お遊び」に過ぎないのはどうなのか。同じニナガワの『ペール・ギュント』でも芝居全体がゲームの世界だったという設定だったが、やはり作品の根本には関わってはきてなかった。

それから、いつも彼の演出作品を見るたびに思うが、正直なところ音楽の使い方がどーにもセンスが悪い。時にガマンできないほどだ。でも、わざとやってるというほどの悪趣味ではないんだよね。
それにしても、貰ったチラシの約半数が蜷川演出の芝居のものだった。一体、一年間に何本やってるんだ(@_@)

7時開演で、終わったのは10時半過ぎていた。長いよ……。

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2006年5月 4日 (木)

テヅカ・イズ・デッド・オア・アライヴ

書名:『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』
著者:伊藤剛
NTT出版2005年

本の感想というのは、どうしても後回しになってしまう。この本もだいぶ前に読んだのを今ごろ書くヒマが出来た。

タイトルからして手塚治虫ファンの怒りをかって物議を醸したらしいが、少し歳のいったロック・ファンならザ・スミスの「クイーン・イズ・デッド」をもじったものだとすぐ分かる。(もっとも、著者はザ・スミスに思い入れがあるわけではないようだが)

現在のマンガ批評の不毛さを訴えているが、正直の所、マンガ批評自体に興味がない人はどうでもいいと思ってしまうかも知れない。
一般的に「手塚=神様」とされているが、実はその表現には戦前に既に先駆者がいた--というのも、格別手塚ファンでもない人間にはどうでもいいことかも知れない。

内容的にはかなり難解である。通勤電車の中で読めるような本ではなかった。また、「キャラ」と「キャラクター」の違いとか、「コマ構造」とか「コマ展開」とか何度読んでもよく理解できなかった。オイラは頭悪いんかい、と泣きそうになってしまったよ。

また、映画理論が引き合いに出されていて、(自称)映画ファンにもかかわらずその手の本には縁がなかった私はその部分を読んで初めて、ああっあの映画が○○だったのは××だっただからか!と納得して感心した。(そんなトコで感心してどーする)

むしろ、私が読んでて意外に思ったのはある種の「手塚崇拝」を批判しているにも関わらず(つまり、彼はそんなにエラくないということ)、何かを一つ語るにもいちいち手塚の作品を参照していることである。
そのように論を展開するにもいちいち彼の作品に立ち返らなければならない--という所に、その巨大さ(あえて「偉大さ」とは書かない)を見ることができよう。

とすれば、手塚が「神」でないとしても、やはり「クイーン(イズ・デッド)」ならぬ「キング」すなわち「王」--いや、というよりは戦後マンガ史に茫漠と存在するまさに「天皇」なのであろうか。

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2006年5月 3日 (水)

「メルキアデス・デストラーダの3度の埋葬」:期待が大き過ぎるのもいかんね

監督:トミー・リー・ジョーンズ
出演:トミー・リー・ジョーンズ、バリー・ペッパー
米国・フランス2005年

トミー・リー・ジョーンズの初監督作品にして、カンヌで主演男優賞と脚本賞をとった作品--ということで、もう最初っから見に行くぞーと決めて上映開始のはるか前に早々に前売券を買っといた。
が、忙しくてなかなか行けずにとうとう上映最終週に、仕事終わった後に恵比寿まで足を運ぶ羽目に……(x_x)トホホ

さて、それだけ期待大だったわけだが、見た結果はというと……ムムムムム。
男優賞は妥当だと思うけど、脚本の方はどうかなという感じ。脚本家は『アモーレス・ペロス』と同じ人だというのを後から知った。あの映画、私にはどうにもダメだったんだよねえ。

内容は、前半と後半でスッパリ分かれている。
前半はメキシコからの不法入国者メルキアデスが新人の国境警備員のマイクに誤って射殺されてしまう経緯と、カウボーイ仲間のピートがマイクをとっつかまえるまで。
だが、なぜかわざと脚本は複数の立場から時間軸を混乱させて描いている。だからボーッとみているとわけ分からなくなってしまい、「一度目の埋葬」がいつ誰によって行なわれたのかもハッキリしなくなってしまうだろう。

さらに致命的なのは、こういうカッコつけた(と断定してしまおう)構成にしたせいで、ピートとメルキアデスの友情の描写が断片的になってしまい、観客に大した思い入れを与えないこと。ここで、感銘を与えてくれないと後半のピートの行動に説得力がなくなってしまうのだ。

後半に行くと展開は単線的になりメキシコでのピートとマイク(とメルキアデスの死体)のロードムービー風になる。
ここに来るまでも長いが、その後も長い。おまけに暴力や死体のグロい描写が観ていて非常にこたえる。
手錠で引きずり回す、蛇に噛みつかれる、コーヒーをぶっかけられる--同時期にクローネンバーグ、ハネケと「暴力的」な映画を見たけど、実にこの作品が一番生理的に耐えられなかった。もうやめてくれー(ToT)

結末は……前半のメルキアデスという男の人物描写があまり伝わって来なかったので、「はあ、そうだったんですか」という感じで終わってしまった。
ブログや掲示板では感動した!という感想でいっぱいだが、全然感動しなかった私は冷血か、暴力描写でへたばってたか、ひねくれ者のどれかに違いない。

事前の期待が大き過ぎたせいか、全く不満足だった。T・L・ジョーンズの役者ぶりには文句はないけどね。もっとも、最初から「殺気」に欠けてて結末が見えてしまうのは問題か。
監督としては、いい場面(メキシコのうらぶれた酒場とか)がいっぱいあるんだけど……。笑わせたい場面なんだろうけど笑っていいのか分からない、という困った場面が幾つかあった。どっちかはっきりさせてくれい。
このギジェルモ・アリアガという脚本家の作品は今後避けるようにしようっと。

レストランの年増ウェイトレスの人はどこかで見たことがあると思ったら、『ホミサイド』の初代女刑事のケイだったようで。役作りでそうしてるのかも知れないが、だいぶフケましたなー。最近、放映された『CSI』にも母親役で出ていたはず。

大昔流行ったフレディ・フェンダーの曲が出て来て懐かしかったよ。


主観点:5点
客観点:7点

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2006年5月 1日 (月)

「今村泰典リュートリサイタル」:今村先生にも陳謝

ジルヴィウス・レオポルド・ヴァイスの後期リュートソナタ
会場:新宿文化センター小ホール
2006年4月21日

外見はさえないオヂさん(失礼!)、しかしリュート・テオルボを取らせれば日本で3本指に入るのは間違いなしっ(^o^)b という今村泰典の「来日」コンサートである。なぜ「来日」かというと普段はヨーロッパで活動していて、日本にはいないからだ。
当日配られたリーフレットのインタヴューによると、ドイツ・フランス・イタリア・スイスなどの様々なグループや公演で通奏低音を担当。さらにフランスでは自らのアンサンブルのフォンス・ムジケを主宰とのこと。

彼を始めて見たのは(聴いたのは)何年も前の北とぴあ音楽祭でフォンス・ムジケとして来日した時だと記憶しているが、今回はBCJの「マタイ」に参加で来日。ついでに各地で小コンサートと講習会をやったらしい。

プログラムは新発売のCDに合わせてヴァイスの組曲だった。ヴァイスというとバロックのファン以外には知られていないと思うが、バッハと同時代の超売れっ子リュート奏者にして作曲家で、ガッポリと稼いでいたという。

新宿文化センターには初めて行ったのだが、天井からは照明のライトがいっぱい下がり、音はデッドで全くこのような古楽系コンサートには向いてない。席は百席ぐらい?用意されていたと思うが、事前の宣伝がほとんどなかったせいか聴衆は40人ぐらいしかいなかった。あまりに少ないんで周囲を見回してしまったよ。
しかも、椅子は普通のものを並べただけで、古い代物なので体重の重そうな男性が身体を揺らすとギシギシ音がする。
加えて、演奏中にも同じ建物のどこかで荷物だか机を移動しているような音と振動がガタガタゴゴーッと伝わってくるのだ--。
なんとかしてくれー(>O<)

組曲形式の大作なので、前半と後半でそれぞれ一作品ずつの演奏であった。
ヴァイスはリュート弾きには好まれている作曲家だが、私の印象ではどうも地味でとっつきにくく、とらえどころがない。もっとも、演奏するのは極めて難しそうで、だからこそ演奏家には弾きごたえがあって人気がある「通ごのみ」なのかも知れない。

後半はさらに客が減ってしまい、私は指使いをよく見るぞーと意気込んで前の方の席に移った。しかし、古そうな床から天敵の眠気虫が這い出して来てガブリと私に食いついたのは、ヴァイスのそういう作風のせいなのだろうか。
(作曲家のせいにするかっ('_*)\ペチッ)

ということで、前の方の席で居眠りこいてしまい、有田先生に続いて今村先生にもゴメンナサイm(_ _)m の夜であった。
あ、ついでながら先生の手は大きくて、リュートを弾いてるとグニョ~と広がる感じだったよ。

家へ帰って未聴のCDの棚をチェックするとヴァイスの曲が入ってるのが何枚も出てきた。やはり今でも人気作曲家なのだ。

次は来年フォンス・ムジケと共に来日予定らしいが、東京近辺でも是非公演して欲しい。
グループとしてのCD「ガスパリーニのカンタータ」も近々出るとのこと。でもガスパリーニって誰? 全然知らんよ。(汗)

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