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2006年5月 7日 (日)

ハネケ祭でワッショイ その1:もはやここは「家」ではない

ミヒャエル・ハネケ映画祭『セブンス・コンチネント』
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:ビルギット・ドル、ディーター・ベルナー
オーストリア1989年

ミヒャエル・ハネケ監督の映画祭が4月15日~28日に渋谷のユーロスペースで開催された。連日、夜9時15分からの上映である(-_-;)
三作品について感想を報告しよう。

そもそもM・ハネケを知ったのは『ピアニスト』からである。それまでは名前を聞いたことも見たこともなかった。ファンの皆さん、すいません_(_^_)_
しかも、『ピアニスト』もロードショーで観たわけではない。長いこと見るかどうか迷った揚げ句、結局行かなかったのだ。実際に見たのは、レンタル屋でDVDを借りてである。
そして、見終った瞬間後悔した。映画館で見ればよかったと--。もし、ちゃんとロードショー時に観ていれば、間違いなくその年のベスト作品に選んでいただろう。

そのような「後悔」の念がハード・スケジュールの中、私を映画祭に向かわせたのであ~る。

映画祭最初の作品は『ピアニスト』だったのでパスして、その次の『セブンス・コンチネント』に行く。(なおパンフやチラシのタイトル表示はすべて中黒「・」がなくて、半角スペースで区切られているが、気色悪いので勝手に中黒を入れちゃうよ。タイトル検索できなくっても知るかっつーの!)

元々テレビドラマや舞台の演出をしていたハネケの初映画作品とのこと。開始15分前ぐらいに行ったらロビーに人が充満していて驚く。受付番号を貰ったら完全に定員の人数を20番ぐらい超していた。
立ち見するのも大変なので、通路に座ることにする。それでも後から後から人が入って来て、通路には2列に人が座り、さらには最前列前のスペースや出入り口付近の段差にまで人が座っていた。エラい人気である。ハネケがこんなに人気があるとは知らなかった。(--というのは、ある意味誤解であったことが後日判明)

冒頭、ガソリン・スタンドによくある洗車の行程を車の内部から撮った映像が続き、それにタイトルやクレジットが重なる。

続いて平凡な三人家族の日常が延々と描かれる。しかも目覚ましを止める、ベッドから降りる、歯を磨くなどの日常の些細な行動が画面に繰り返される。
小学生の娘が学校で虚言癖を見せるとか、妻の弟が精神不安定、なんてことはあるがそれ以外は何事もない家庭だ。
それが一年目の描写である。二年目になっても、やはり同じ日常の動作が繰り返される。その平穏さは退屈なほどだ。
また洗車の場面が出てくる。家族三人で車に乗っていて、なぜか妻が突然泣き始めるのだ。理由は分からない。

三年目--今度は全てが変わっている。夫は順調に行っていた仕事を急に辞職し、貯金や保険を下ろす。車を売り払い、周囲にオーストラリアへ移住すると説明する。娘の学校を休ませ、食品を買いまくり一家は家へたてこもる。
そして、破壊を始める。

その「破壊」がまたただ事ではない。どうしてそこまでやるのかというぐらいの執拗さだ。タンスの中のシャツの全てにハサミを入れたり、手で引きちぎる。家具も何もかもぶち壊す。本もノートも細かく破り捨てる。金をトイレに流す(紙幣だけでなく硬貨まで! 観客全員が「よくトイレ詰まらないなー」と思って見てたはずだ)。
レコードも一枚一枚手でブチ割る。(私がかつて愛聴して、未だに保存してあるゴールデン・パロミノスのLPもその中に入っていたのを発見)
夫婦はヒット・チャートに入るようなロックやポップスが好きなようだ。最後の最後に見ていたMTVはミートローフのように思えたがどうだろうか? 破壊の状況とそのアンバランスさがある意味すごい。そう、彼らはテレビだけは残したのだ……。

この作品は実際にあった事件を元にしたそうだ。つまり、完全に破壊し尽くされた家と三人の死体が発見された。夫の両親は遺書があったにもかかわらず、自殺とは認めず警察に捜査を依頼したらしい。

ハネケ監督は平和な家庭と、破壊された家の間隙を埋めようとする。しかしそれは「なぜ」ということではなく、「いかに」ということを描く事によってである。
なぜ死んだのか?なぜ壊したのか?誰にその理由なぞ推し量れようか。とすれば、「どのように」破壊し尽くしたのかを描くだけだ。

以前、妻が柔らかい室内ばきを履いて歩いていた床は、くだけ散ったガラスや木材で覆われて、今度は彼女はブーツを履いてその上を歩く。もはやかつての家は存在しなくなった。

洗車の場面をどうとらえるかは人によって違うだろう。私は「彼岸への道」だと解釈した。轟音の中を巨大なブラシやら何やらが宙を行き交う様子は、得体の知らない深海か遠い異世界の光景のようで、あまりに不気味で私は少し胸が悪くなった。
その先にある「オーストラリアへようこそ」のポスター。オーストラリア=第六の大陸、とすれば、夫の想念の中に浮かぶ「第七の大陸」とはまさしく彼岸の世界に違いないだろう。

日常の中にパックリと開く死の亀裂、未だ正視できぬ虚無の広がり--この映画はそれを見せる。だとすれば、どうして通路に座って腰や尻が痛くなったぐらいのことが気になるだろうか?


【関連リンク】
「CODE_NULL」
こちらの詳細な感想にも同感しました。

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コメント

初めまして。
色々考えた末に感想を書いてみると、何だか倫理的なテーマばかりに目が行ってしまいます。
なかなか難しいです。。。

投稿: murkha | 2006年9月13日 (水) 01時43分

どうもいらっしゃいませ。
そちらの感想も読ませて頂きましたが、京都でハネケ祭り開催してたのですね。
説明的な部分が少ないだけにこの作品を観ると人によって注目する点が違うようです。私は「家庭の崩壊」と「彼岸」ですかね。
テレビはかつて異界への入口であったという説が、日本だけでなくヨーロッパでも成立するのだと知って、新鮮な驚きを感じました。

投稿: さわやか革命 | 2006年9月14日 (木) 06時14分

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---以下、ネタバレ注意--- 冒頭からナーバスな気分にさせられる。 日常の何気ない音を大音量で耳にすると、どうしてこんなに不愉快なのか。 食器のガチャガチャ触れ合う音、グラスにボチャボチャ液体をそそぐ音、レジを 叩くカチャカチャ、キーンという工事現場の音・・・そして、聴覚を否が応でも敏感 にさせられた耳で家族の何気ない会話を聞くと、彼らの話すドイツ語の、空気を 含んで強く吐き出す発音までもが、... [続きを読む]

受信: 2006年5月 9日 (火) 00時26分

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