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2006年5月 4日 (木)

テヅカ・イズ・デッド・オア・アライヴ

書名:『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』
著者:伊藤剛
NTT出版2005年

本の感想というのは、どうしても後回しになってしまう。この本もだいぶ前に読んだのを今ごろ書くヒマが出来た。

タイトルからして手塚治虫ファンの怒りをかって物議を醸したらしいが、少し歳のいったロック・ファンならザ・スミスの「クイーン・イズ・デッド」をもじったものだとすぐ分かる。(もっとも、著者はザ・スミスに思い入れがあるわけではないようだが)

現在のマンガ批評の不毛さを訴えているが、正直の所、マンガ批評自体に興味がない人はどうでもいいと思ってしまうかも知れない。
一般的に「手塚=神様」とされているが、実はその表現には戦前に既に先駆者がいた--というのも、格別手塚ファンでもない人間にはどうでもいいことかも知れない。

内容的にはかなり難解である。通勤電車の中で読めるような本ではなかった。また、「キャラ」と「キャラクター」の違いとか、「コマ構造」とか「コマ展開」とか何度読んでもよく理解できなかった。オイラは頭悪いんかい、と泣きそうになってしまったよ。

また、映画理論が引き合いに出されていて、(自称)映画ファンにもかかわらずその手の本には縁がなかった私はその部分を読んで初めて、ああっあの映画が○○だったのは××だっただからか!と納得して感心した。(そんなトコで感心してどーする)

むしろ、私が読んでて意外に思ったのはある種の「手塚崇拝」を批判しているにも関わらず(つまり、彼はそんなにエラくないということ)、何かを一つ語るにもいちいち手塚の作品を参照していることである。
そのように論を展開するにもいちいち彼の作品に立ち返らなければならない--という所に、その巨大さ(あえて「偉大さ」とは書かない)を見ることができよう。

とすれば、手塚が「神」でないとしても、やはり「クイーン(イズ・デッド)」ならぬ「キング」すなわち「王」--いや、というよりは戦後マンガ史に茫漠と存在するまさに「天皇」なのであろうか。

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