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2006年6月

2006年6月29日 (木)

目白バ・ロック音楽祭だよ!ドッコイ その3

“韓流”バロック・カクテル
演奏:パク・スン・ヒ、ジ・ヨン・キム
会場:目白聖公会
2006年6月23日

なんでも「ドイツワールドカップ出場記念 日韓交流コンサート」だそうである。現在、韓国は古楽の勃興期にあたっていて新しい演奏者や色んなムーブメントが起こっているもよう。それに、日本では一回しか開けなかったヘレヴェッヘのコンサートをなんと三回もやったらしい。景気の違いもあるだろうが、大したもんである。
--ということで、あちらの演奏家はどんなもんかいなという好奇心もあって行ってみた。会場はまた目白聖公会だ。

だが、驚いたのはなんと百人の収容の会場になんと半分ぐらいしか入ってなかったこと。日本では全く無名の人たちとはいえ、こりゃひどい。宣伝手抜きぢゃないの?
おまけに、ステージ両脇に立っているあの黒い箱型のものはスピーカー……(?_?) こんな小さな会場じゃ必要ないと思うんだけど(演奏中も使っていたようには思えなかったが?よく分からんかった)なんなんだろう。

編成は日本人のチェンバロ、ガンバ、リュートに韓国側のバロック・ヴァイオリンとテノールが加わるというもの。
まず、ヴァイオリンのジ・ヨン・キムが登場してコレッリを演奏。外見も気の強そうな様子の女性だが、弾きぶりもかなり個性的な感じ。(テクニック的な事はトーシロなので分からず)独奏はその他、ムファット、バッハなどの定番曲だった。

一方、テノール歌手のパク・スン・ヒは滑らかな美声であったが、逆に言えば押しが弱い印象。カルダーラの曲ではそれが裏目に出て、楽器に埋もれてしまったような感じだった。
日本人側の演奏者はみな良かった。特に櫻井茂のガンバがス・テ・キ(*^-^*)ポッ

前半の途中で曲が長過ぎて演奏時間が長くなってしまうので部分的にカットすると、アナウンスがあったのだが、なんで??? そんなことは前もって分かると思うんだけど。
それとも、またもその日はムシムシして会場のコンディションが悪かったせいだからだろうか。
いずれにしても、空調設備が使えない会場でやるのならあと一か月は早めに開催しないと無理じゃないかと思える。

ところで「ワールドカップ出場記念」というのなら、どうせだったら日韓に加え独・伊・オランダ・仏など各国の演奏家を集めて(ついでにブラジルのN・フィゲイレドも)火花飛び散る熱演バトルで、客がコーフンして乱闘するようなライブをやって欲しい。

この日は前回行った店で前とは違う種類のケーキとコーヒーを注文。パン屋でパンを購入して、さらに本屋では「ミュージック・マガジン」を買う。もう、地元の店に貢献しまくった(大袈裟(^o^;)のであった。

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2006年6月23日 (金)

バッハ「ミサ曲ロ短調」:相次ぐドタキャンは詐欺的行為ですか

演奏:フィリップ・ヘレヴェッヘ&コレギウム・ヴォカーレ
会場:東京芸術劇場大ホール
2006年6月8日

ヘレヴェッヘとコレギウム・ヴォカーレの演奏は前回のバッハ・イヤーの時に同じくロ短調ミサを聴いて、その合唱の素晴らしさに大感動した事がある。

で、その感動を再び(^^)/ってなことで、チケットを買った。きっと、入手が大変だろうと思ってイープラスのネット販売で注文したのだが、そうしたらなんと座席が非常に前の方になってしまった。(T_T) 会場は二千人も入るデッカイ所だというに。
おまけに実際はチケットが売れ残って大変だったという噂。これだったら、ぴあで買えば座席が選べてよかったのに~。(ぴあは店によって座席が選べる所がある)

おまけに当日行ってビックリだったのはカウンターテナーのD・テイラーとテノールのヤン・コボウが降板してたこと。この二人を目当てに買った客も多かっただろうに……。これでは詐欺も同然である。さらに舞台上を眺めれば、トラヴェルソの座席にBCJでお馴染み前田りり子の姿が! 貰ったリーフレットを確認してもトラヴェルソの演奏者は別の名前になっている。そんなに急な交替だったのか。

というわけで色々あったようだが、実際に聴いてみた結果は
*交替したソリスト二人は……ウムム。デカい会場で大曲をドーンとやるタイプではないようで。特にテノールの方は来年のBCJの『マタイ』で福音史家をやる予定だとか。かなり不安であーる。(=_=;)

*11曲目のバスのアリアではバス独唱とファゴットとホルンが完全にバラバラになって聞こえて来て「なんだ、こりゃ?」と焦った。元々難曲だそうだし、私の席が前過ぎのせいもあるだろうが、それにしてもだ。ホルンに至っては半分ぐらいしか音が出てなかったような???

*オーボエ奏者の一人はキアヌ・リーヴスをしなびさせ元気を失くしたような感じの人で、どっかで見たなあ、とずっと考えていたのだが、途中で先日のラ・プティット・バンドの時にソリストとして参加していたのを思い出した。
あの時は「アンサンブルの中で最高」などと絶賛されていたのに、今回はネットでは「へたくそ」と罵倒されていた。いやはや、音楽家も大変です。

*やはり会場がデカ過ぎ。客が入らないんだったら、半分のキャパのオペラシティにしてくれればよかったのにさっ。

*フライングブラボー・拍手がなかったのは良かった。

--と、色々書いたが、やはり合唱は良かった。特に「サンクトゥス」の混沌とした洪水のような感じが素晴らしかった。でも、前回には及ばなかったと思う。

最後に何回もヘレヴェッヘが前田りり子の所に行って握手していたのが目についた。よほど急な交替を依頼したのだろう。後で調べたら、彼女は同じ週の初めまでBCJと共に海外ツアーしていたらしい。そりゃ急だわな……。

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2006年6月19日 (月)

目白バ・ロック音楽祭だよ!ドッコイ その2

寺神戸亮ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ・リサイタル
バッハ:無伴奏「チェロ」組曲
会場:目白聖公会
2006年6月17日

一部で話題騒然?の楽器ヴィオロンチェロ・ダ・スパラの独奏会。ヴァイオリニストの寺神戸亮がバッハの無伴奏チェロに挑戦!ということで評判になり、早々に満員御礼で売切れ。追加公演もまた売切れたぐらいである。

先に行なわれた追加公演(先にやっても「追加」とはこれ如何に(^^?)では、弦が切れてしまったそうだが、この日もガット弦にはあまり調子良くなさそうな気候。開演前にエアコンをフル稼働させていたが、演奏中には付けられないのでムシムシとして暑かった。アクシデントは別に起こらなかったのでよかったけど。

私はスパラの独奏は初めて聴くので楽しみにして行ったら、なんと柱の影になって寺神戸さんも楽器もほとんど見えないような座席だった! わーん、金半分返してくれ~。

スパラの音は以前も書いたが、ビミョ~としか言いようがない音で、よく言えば「穏やか」、悪くいえば「気が抜けた」となるだろう。途中の解説話にも出てきたが、確かにファゴットの音にも似ている。
従って無伴奏チェロに付きまといがちな「求道」的あるいは「崇高」的イメージは、霧散してしまう。寺神戸さんもチェロのレパートリー弾けるのが嬉しくてたまらない、という感じだった。
こちらの《肩に掛けて弾くチェロ 「ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ」を聴く》を読むとさらに納得。確かに舞曲的性格が強いリズミカルな曲はよかったけど、アンコールの「サラバンド」みたいなゆったり聞かせる曲だと今イチだったような。

まだ「開発途上」なイメージなんで、「チェリスト無用(~ ^~)の非情な楽器」になるのかどうか今後の展開に期待というところだろう。

なお、テレビの取材が入っていた。どこの番組なんだろうか?
今日は忙しくてサ店に入る余裕はなかったので、代わりにパン屋で夕食用に購入して地元に利益還元。おいしかったです。(^^)

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2006年6月18日 (日)

レッド・プリースト二連発:これが史上最も忠実な「四季」だ?!

*「バロック・ファンタジア」
会場:津田ホール
2006年6月6日

*「カーニヴァル・オブ・シーズンズ」
会場:東京文化会館小ホール
2006年6月7日

レッド・プリーストはリコーダー、ヴァイオリン、チェロ、チェンバロの四人組。主にバロック時代の曲を編曲して破格の解釈をして演奏するので話題になったグループだ。
本業?ではちゃんとしたアンサンブルなどでソリストをやってたりする人たちらしい。

「バロック・ファンタジア」は前半にヘンデル、バッハ、ルネサンス時代英国の小曲などを独自の解釈とアクションで演奏。後半は売りのヴィヴァルディの『四季』を通しで。
「カーニヴァル・オブ・シーズンズ」は『四季』では扱われていない季節の行事(クリスマスなど)を扱った曲を季節ごとに交えて、前半は春・夏、後半は秋・冬という凝ったプログラムで演奏した。

いずれも芸術家というよりは芸人根性バクハツ!という感じだった。特にリーダーでリコーダーのピアーズ・アダムスは二本のリコーダーを一緒に口に加えて「一人同時合奏」したり、射殺された鹿を演じて寝っ転がったまま吹いたりという大活躍。一方でJ.v.アイクの独奏曲ではソプラノ・リコーダーの超絶技巧を聞かせてくれたりして大したもんである。

『四季』は冒頭のヴァイオリンによる犬の吠え声の完全な模倣に始まり、「春」の「牧歌的な踊り」がホントに盆踊り風な調子に聞こえてきたり、「秋」の狩りの場面で乗馬風のアクションを付けてみたり、「冬」の中盤のラルゴ(炉端で満ち足りた気分)に至っては完全に南洋風リズムになっているのである。こりゃ、『四季』の表現の最も忠実な演奏と言えるかも知れない。

ただ、こういう手法は『四季』のような標題音楽やルネサンス・中世期の音楽なら有効かも知れないが、バロックの多くの曲に適用するのは難しいかも知れないと感じたのも事実だ。
コレルリの協奏曲なんか弦の重なり具合が美しくて聞かせどころなんで、編成違えて単純化されると魅力半減だし、ヴィターリの「シャコンヌ」なんかは単に曲の各部分を誇張しただけの絵解きみたいな感じに聞こえた。
かといってルネサンス期あたりに限ってしまうと、タブラトゥーラなんかとあまり変わらなくなっちゃうし難しいところだ。

とはいえ、楽しませてくれた四人の芸術家&芸人根性に拍手( ^^)// パチパチである。

ところで、「カーニヴァル~」で上野の文化会館に行ったら「チケット譲って下さい」という人が多数立ってて仰天した。「ええっ、昨夜の津田ホールが好評だったからか?」と思ったら、なんと大ホールでやってたイタリアの歌劇場のオペラの方だった。
いやはや、同じイタリアものでも違いますねえ。

しかし、上野の方が客層も色々で客も演奏者もノリが良かったのはなぜじゃ(?_?) 招聘元が同じだから宣伝も全く同じ扱いなのに。

P・アダムスの話を聞いて(いや、英語だからよく分かりませんでしたが(^^ゞパンフの解説にも書いてあったんで)「ヴィヴァルディは同じ協奏曲を400書いただけだ」という意味の有名な言説はストラヴィンスキーのものだと知った。
バロック・ファンにとってはストラヴィンスキー逝ってよし!ですか。(「よし!」と思われる方は、モニターの前で「よいとも~」と一斉にご唱和下さい)

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2006年6月17日 (土)

「隠された記憶」:衝撃のラストカットに気を取られてはイカン!

監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:ダニエル・オートゥイユ、ジュリエット・ビノシュ
フランス・オーストリア・ドイツ・イタリア2005年

ハネケ監督の前作『ピアニスト』は意図的に古典的ラブロマンスの体裁を取っていたという。ならば、今回の新作はエンタテインメントとして流通しているホラー・サスペンス映画の形式を踏襲しているのだろう。

討論番組の司会として人気を得ている主人公(「朝まで生テレビ」じゃなくて教育TVっぽい番組)に送られてくる不可解な盗撮ビデオ。何本も送られてくるうちに、内容はやがて彼の過去の「罪」を暴くようになってくる。それが原因で家庭内にも齟齬を生じる--。

と書けばサイコホラーを思い浮かべるだろう。さらに広告やチラシの「衝撃のラストカット!」(笑)などというコピーが期待をあおる。だが、実際に見てみるとそのようなもんではない。

盗撮された映像には微かな手ブレがある。それは主人公の家の前などほとんど変哲もない街並みの映像であるが、段々と今目にしている映像が果たして盗撮されたものなのかそうではない元の「映画」としてのものなのか、区別がつかなくなってくる。
最初に現われた映像は盗撮で、それと全く同じアングルのものが二度目に現われた時は「地」の映像だという場合もある。
さらに主人公の、夢や回想の場面もまざってますます混沌として分からなくなる。
そして、元の盗撮映像に微かに感じられた「悪意」がどの場面場面にもにじみ出てくるような気がするのだ。

最初のうちは観客は主人公の立場に立って観ているはずなのだが、話が進むにつれその言動を通してどうにもこの男がイヤな奴なのがハッキリして来てガマンできなくなる。
それは歴史的な背景もある人種差別問題が関わるのだが、「私は悪くない」「子供だったんだ」「仕方なかった」……正面衝突して大声でののしり合うのが米国流であるなら、こちらは欧州流(?)の隠微なる差別意識とでもいえようか。何かのきっかけで心理の表層の陰からじわじわとにじみ出てくる。これほどに知識階級の嫌らしさをあからさまに描いたものはないだろう。

悪意ある映像からあぶり出されるもう一つの悪意--観ていてこんなにイヤーな気分になる映画を作るとは、さすがハネケだー。 \(^o^)/

もっとも普通のサスペンスとして見てもかなり突出している。ビデオと一緒に送られてくる子供っぽい絵は単純なだけに逆にコワくて不気味だし、夢の中に現われる血の色がアクリル絵具のようなツルツルした赤なのも気持ちが悪い。(後で自分の夢にまで「赤」が出てきた)
中盤の「衝撃」シーンに至ってはなまじなショッカー映画など太刀打ちできない。ほとんどの観客が言葉を失うか、「ぎゃっ」と声をあげてしまうかぐらいのもんである。

とすれば、ラストシーンはどう解釈したらいいのだろうか。そこに出てくる人物が犯人であるというのなら謎解きとしては陳腐な部類だが、問題はその「ラストカット」もまた手ブレ映像なのである。ということは盗撮した人物は他にいる?犯人は違うのか(?_?)

しかし、さらにもう一つ問題なのはその前のシーン--明らかに主人公の少年時代の事件の回想とおぼしき映像、これもまた手ブレなのだ。
そんな昔にビデオがあるわけはなし。ならば主人公か、それとも全く別の第三者が窃視している視線なのか。(その第三者は次のラストシーンで示唆される犯人ではあり得ない)
まさに謎が謎を呼んで訳ワカラン状態(@_@)である。

だが、こちらの「その真実の瞬間を見逃してはいけない!」を読んでみて、同感した。
誰某が犯人でこのような筋道があって犯人が暴かれ正義が下されるというのが「犯罪」を描くものであれば、一方で自らあるいは他者が犯した罪に対していかに意識し対処するのか--というのもやはり「犯罪」を描いたものに違いない。
後者の場合はもはや犯人は誰かなどという事はどうでもいいのである。そこには罪に対する回答などあり得ないのだ。

かつて犯した「罪」--そしてそれを知る何者かが存在するということ。「盗撮」の視線は誰のものとも知れず永遠に循環して行くのである。


それにしても「衝撃のラストカット」は余計な惹句としかいいようがない。観客はみなどんなものが出現するのかとドキドキと期待しているのだが、なにせ終わってから始めて「えー、あれがラストだったのか(!o!)」と気付くような感じなのだ。
最後に重要なものが出てくるのを注意したかったのかも知れないが、却って大混乱。最近ろくでもない宣伝コピーが多過ぎだよ。

他のハネケ作品同様、この映画でも効果としての音楽が一切使われていない。監督賞を取ったカンヌ映画祭で、同じくパルムドールを取った『ある子供』も同様だった。今は音楽使わないのが最先端か?


主観点:9点
客観点:8点


【関連リンク】
「『隠された記憶』 透明なカメラ」
こちらの感想も興味深いです。

【追加】
「終日暖気」
この解釈には目ウロコ状態でした。

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2006年6月12日 (月)

ただでさえ軽い一票がチリに化した話

ごく一部の巷で騒がれた首相候補の某政治家が某宗教団体の合同結婚式に祝電を送った件
正直言って某政治家のことなんかどーでもいいって感じだったわけだが、同様に来賓として参加、あるいは祝電を送った政治家のリストを見たら、なんと私が過去に選挙で一票を投じた議員が入っているではにゃあの!

(~_~メ)ピキッ(←キレる音)
もう二度と入れねーよっ、ケッ。
こうしてただでさえ価値もなく軽い一票がクズと化してしまったのであった。
_| ̄|○ やられた……

皆さんもリストをチェックしてみましょう。

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2006年6月11日 (日)

目白バ・ロック音楽祭だよ!ドッコイ その1

*「慈愛の“聖人”ソナタの世界」
「カトリックのバッハ」アウフシュタイナー、魂を揺さぶる“癒し”の音楽
演奏:グナール・レツボール&リクレアツィオン・ダルカディア
会場:聖母病院チャペル
2006年6月3日

*「颯爽とラ・フォリア!~イタリアン・トリオ・ソナタの世界」
巨匠レオンハルト絶賛の「イチオシ」アンサンブルによる「楽園の愉しみ」
演奏:リクレアツィオン・ダルカディア
会場:目白聖公会
2006年6月9日

目白バ・ロック音楽祭なる催しが6月2日から25日にかけて行なわれている。東京では古楽系の音楽祭は北とぴあ音楽祭以来絶えてしまっているので、これはウレシイ限りである。
去年は気になっていたが全く行けなかったので、今回は積極的に行ってみる事にした。
とても全部は日程的に無理なので選んだ基準は「日本で聴くのが可能なアーティストは避ける」ということであった。結果、つのだたかしやカペラは敢えてパスした。

「慈愛の“聖人”ソナタの世界」というのはまた凄いタイトルだが、私は日本人の若手アンサンブルのリクレアツィオン・ダルカディアのデビューコンサートに行き損ねたので、なんとしても今回は行かねばと思ったのである。
よって独奏の「レツボールって誰だっけ(^^?」という感じだったのだが、実際に見てみてアッと思った。彼は髪型といい体格といい「ヨーロッパ出身の番付急上昇中の白人力士でーす」と言っても誰も疑わないような外見だが、私は前に彼がトッパンホールで公演した時行ってるのを思い出したのだった!
完全に名前を忘れていた(-.-;)
早くもボケが始まったか(>_<)
もうイヤー(v_v)ショボショボ

目白には正式な音楽ホールはないそうで、音楽祭の会場は全て歴史的建造物で当てられている。で、この日は病院付属の教会だった。もちろん換気装置などなく、外はジャケットなしだと涼しいくらいなのに中はかなりムシムシと暑かった。
従ってガット弦のメンテナンスも大変だったようで、途中でレツボールの弦が切れるというアクシデントもあった。最後には演奏者一同、文字通り汗も飛び散る熱演となった。

演目の売りはサブタイトルにあるように「カトリックのバッハ」(?)オーストリア人の作曲家アウフシュタイナーの宗教的なソナタだ。オーストリアでもあまり知られていない人だそうだが、聴いてみた限りではバッハというよりは同じく演目に入っていたムファットやビーバーの方に似ていると思えた。

私の席は前の方だったので、音がダイレクトに押し寄せて来てちょっとビックリ。ホールとは全く違う響き方である。
この日の公演は絶賛している感想が多いようだが、私個人の感想としては「やっぱりレツボールとは相性が悪い」としか言いようがない。いや、不満ではなくホントに個人的な好みの問題です。

新宿区長が最初に出て来て挨拶したが、最後までちゃんと聴いてったのはチト感心。元々音楽好きな方なんですかね。


9日はリクレアツィオン・ダルカディアだけの公演
音楽祭の趣旨に則って地元に利益をもたらすために、喫茶店に入ってコーヒーとケーキを注文。これがまたすごーくおいしかったぞ! しかし、マスターが時間をかけてじっくりとコーヒーを淹れてくれたため、危うく開演に間に合わないのではないかとドキドキしてしまった。

さて、会場は目白通り沿いのなんと1929年建立という由緒ある教会で収容人員100人。前日はP・ヘレヴェッヘのロ短調ミサで大ホールに行ったが、それとはまるで対極の世界である。
おまけに入口で靴を脱いで上がるのだ! 両脇に下足棚があって木の床はピカピカしているし、なんだか銭湯を思い出してしまったよ(^o^;
木製の座席は四人がけだったが(前に聖書や聖歌集が置いてある)小さくて、男性ばかり座っている所はかなりギュウ詰めでキツそうだった。なんとかしてくれー。

このグループのメンバーは個々にBCJ系(というより、鈴木兄弟系か)の公演などに出てたりすることもある。ヴァイオリン二人が女性、鍵盤とチェロが男性という組み合わせで皆さんまだまだお若い方ばかりです、ハイ。

演目はイタリアのトリオ・ソナタでおなじみコレッリ、ヴィヴァルディに加えロカテッリ、ボンポルティなどである。
コレッリは可もなく不可もなくという感じだったが、全然知らない作曲家ボンポルティが良かった。一方ロカテッリは終期バロックというか、古典派に片足突っ込んでるという感じで、曲自体が私には苦手なもんだった。
最後のヴィヴァルディの「ラ・フォリア」は昔、NHK-FMでエンリコ・ガッティの狂燥的な熱演が放送されたのを聴いたが(もちろん録音して愛聴テープとなっとります)、それに次ぐほどの素晴らしい演奏だった。「レオンハルト翁激賞」の宣伝文句もハッタリではなかったと納得、である。

実はこの週はライヴづくめで、火曜から金曜まで四日連続でコンサートに行ってて、かなりくたびれていたのだが、最後の日にこのような演奏にあたってとっても満足した。で、目白駅前をスキップして帰ったのである。

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2006年6月10日 (土)

「オリジナル・リュート「グライフ」(1610年作)を聴く会」:四百年前の音に衝撃を受ける

演奏&話:佐藤豊彦
会場:近江楽堂
2006年6月2日

外見はモジャモジャ頭の怪しげなおぢさん、しかしその正体はトップクラスのリュート弾きなのだ~、というのが佐藤豊彦である。
去年の同時期に予定されていて楽しみにしていたのだが「演奏者急病」のため一旦中止になった公演。演目も昨年と同じく、ロイスナー、ヴァイヒェンベルガー、ラウフェンシュタイナー……知らん作曲家がほとんどだ。(汗)

さて、古楽器と言っても昔から使われていたそのものの楽器を使用する場合と、現代の職人がオリジナルを参考にして作ったコピー楽器の二種類がある。(モダン楽器でもいわゆる「名器」は過去のものを改造したもの) 公演やCDで聴くような奏者はたいてい17~18世紀の楽器を使っている。が、これはヴァイオリンやガンバなどの話--。

恥ずかしながら(=_=;)今回の公演で佐藤豊彦の話を聞いて、リュートにはほとんど「オリジナル楽器」が存在しない事を知った。確かに、手近のリュートの公演パンフやCDの解説を見ても使われてるのはみんな現代に作られた楽器ばかりである。
長年、聴いていながら気付かなかった、反省です(´・ω・`)ショボーン

この公演で使用するのは1610年にドイツで作られた正真正銘のオリジナル楽器。世界でも数少ない演奏可能なものだそうな。傷があったり弱くなっているので、連続のライブや録音には耐えられないという。その日も、会場の空調はリュートのために時間をかけて調整していた。

佐藤豊彦によると、過去にコピー楽器を何十台か作らせたがどれも満足できず、たいてい作り直してもらった。本当は作られて百年から二百年ぐらいの楽器が一番いいのだが、リュートはもう二百年もの間製作されてなかったので、存在しないのだという。
そして、今夜使用のオリジナル楽器を入手してからはこれが一番の基準となり、これより良いものはコピー楽器にはない。新しいものなら楽器を人間に合わせられるが、これほど古くなってしまうと人間が楽器の方に合わせるしかないのだという。

この話を聞いて私の頭の中には、昔の王侯貴族が座っていたようなフカフカの座布団に鎮座している(控えの侍従付きで)リュートの姿が猛然と湧き上がって来た。
そして、奴隷に輿を担がせ周囲のド貧民な人間が平伏する中を悠然と運ばれるリュート様--。そのような妄想がドトーのように渦巻く中、演奏は始まったのであった。

そして、その音を聞いて私はゲゲーン(!o!)と衝撃を受けた。こんな衝撃は同じ会場でクラヴィコードの音を初めて聴いた時以来である。
なぜなら、今までライヴやCDで聴いたどのリュートの音とも全く異なっていたからだ。低音はなんだか津軽三味線を弱めにしたようなベベンとした音だし、それより高音は……うーんと、うーんと(-_-;)何と言って形容したらいいのか思いつかない。とにかく美しくもなく澄んでもなく滑らかでもなかったことは確かである。全く別の何ものか、であった。

そんな楽器で極微細なニュアンスの音まで表現された演奏は、近江楽堂のような百人前後の小さな会場しか味わう事はできまい。大ホールでは決して聴くことができない世界がそこにはあった。

曲はロジー伯の「シャコンヌ」と、あとやはりヴァイスの「不実な女」がよかったかな。
後半は冷房が効き過ぎて寒かったが(外はムシムシしてた)「リュート様のためガマンガマン」と耐えたのであった。

終演後、サイン会があるのでサインを貰いたい人がゾロゾロと外へ出てしまってから、なぜか突然、佐藤豊彦が再び会場に乱入(?)。やおら楽器の解説を始めたのであった。
「こことここに傷があって。ここら辺はバラバラになりそうで--」とか説明してくれたのであるが、チビの私には人垣にはばまれて肝心のリュート様が見えんぢゃないの。それに佐藤先生、外でサイン会待ってる人が行列してるんですが……(汗)

それにしてもここ二か月ぐらいの間に今村泰典、H・スミス、佐藤豊彦とトップクラスのリュート系奏者を演奏を聴けたわけだ。シ・ア・ワ・セ(*^-^*)
そして、彼らのライヴに接してみてつくづく感じたのが「リュート弾きの才能は外見と比例しない」という結論であった。こんな私は逝ってよしですか(^^? (「よし!」と思った方はモニターの前で「よいとも~」とご唱和下さい)

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2006年6月 5日 (月)

マラン・マレ祭だGO!

「マラン・マレ」フェスティヴァル
会場:浜離宮朝日ホール
2006年5月27日-28日

今年はモーツァルト・イヤーだが、なんとヴィオラ・ダ・ガンバ奏者にして作曲家のマラン・マレ生誕350年でもあるという。
つっても、マレって誰?ガンバって何よ?という人がほとんどだろう。彼はルイ14世下のフランスで活躍した宮廷音楽家である。なお、ヴィオラ・ダ・ガンバはヴィオラとは全く違う楽器なので要注意。
彼と師匠のサント・コロンブの関係を描いた「めぐり逢う朝」という映画で一気にフランスでも再認識されたとか。サヴァールが担当したサントラも素晴らしい。興味のある方は御一聴あれ。

今回のフェスは有志が集まって開催、プロやアマが彼の曲集を全曲演奏するマラソン演奏会や公開レッスンや展示会、販売会などが行なわれた。ガンバは自分で演奏する人が結構多いらしい。私は28日の特別演奏会に行ってみた。

実は演奏会の前のプレ・トークショーも聞きたかったのだが、例の如く出遅れて半分ぐらい聞き損ってしまった。ガンバの楽器としての特性とか、秀吉の時代には日本で演奏されたことがある、という話をチョコッとだけ聞けた。

第一部の演奏会は室内楽の作品ということで、ヴァイオリンやトラヴェルソも入る。チェンバロとヴァイオリンはおなじみ大塚&桐山コンビだ。さらにバロックダンスも途中で入るというサービス振りである。
会場はほぼ埋まっててビックリ。日本中のガンバ愛好者が集まっているのだろうか?--ここで事故が起きて建物がつぶれたりしたら、日本のガンバ文化は空白になるかも、なんて思っちまったよ。
一番の聞きどころはやはり後半の「音階」だろう。楽章に分かれていない、一曲丸ごと30~40分の作品なのだ。だから、ほとんど演奏者は弾きっぱなしという感じである。一番大変なのはやはりチェンバロか。
桐山建志のヴァイオリンは雅な印象を保ちつつ、骨太な力強さのあるものだった。

一時間ばかり間を置いて、今度はガンバの曲集をやる第二部。
自由席だったんで雑誌を置いといて、これまでの席を確保しといたらなんと変なオヤヂに雑誌を床に落とされて座られてしまった!
ムカムカムカ(~_~メ)ムカムカムカ
今度からデッカイ空のバックでも置いとく事にするよ。

二部の主役は平尾雅子。以前、独奏会に行った事があるが、その頃よりさらに堂々たる弾きっぷりである。まるで女王さま~という貫禄だ。
「スペインのフォリア」にはフラメンコ風味を交えたバロックダンスが入って楽しめた。

休憩を挟んで後半には、なんと「あの高貴なご家族の家長ご夫妻」(←コント集団「ザ・ニュースペーパー」風表現)が臨席。なんだか物々しい雰囲気で、黒服の目つき鋭い男たちがいるなあと思ったらこのためだったのか。
しかし、やはり平尾雅子は顔色ひとつ変えず、マスコミの撮影が終わるのを待って悠然と弾き始めたのであった。

前半からずっと謎のフランス男(一応、フランス外務省所属……)が怪しげな日本語で解説をつけ、「膀胱結石手術の図」では原曲に付いているナレーションもやったのだが、声とアクションがうるさ過ぎだった。それにどうせだったら、日本語に訳したナレーションじゃいかんのだろうか? 「ああ、手術台に向かう脚がガクガクするー」とか(^O^)

アンコールは第一部の奏者も総出で2曲演奏。終演後「家長ご夫妻」は楽屋を訪問したそうだが、元々「宮さま」というあだ名のあるという桐山さんを見て「息子にクリソツ!」と思ったかどうかは不明である。

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2006年6月 4日 (日)

「メタルマクベス」:意外にも真っ当

劇団新感線
原作:W・シェイクスピア
脚色:宮藤官九郎
演出:いのうえひでのり
出演:内野聖陽、松たか子
会場:青山劇場
2006年5月16日-6月18日

新感線のチケット獲得についてはここ数年、ほとんどプレオーダーも含めて敗退していた。が、しかし!今回は奇跡的にゲットできたのである(!o!) 自分でも信じられねえ~。こりゃ、今年は当たり年か。当たるったって食あたりだったりしたらしょうもないが。

今回公演の演目は『マクベス』を売れっ子宮藤官九郎が脚色、さらにマクベス夫妻を内野聖陽、松たか子を演じるという豪華配役である--と言っても、私はこの二人が演技しているところ自体ナマどころかテレビでも見たことないんだけど(^^ゞ
さらにロックオペラ仕立てでバックにはバンド付き、というテンコ盛り状態。

本筋のストーリーは二百年後の荒廃した未来に移し、さらに1980年代日本のヘビメタバンド「マクベス」の栄光&没落話がリンクする。で、三人の魔女はそのバンドのおっかけだった「元・少女」という次第。

という設定に反して、実際見てみると結構真っ当な『マクベス』だったにはビックリ。この原作の問題な所は強気・勝気で亭主の尻をひっぱたく悪女のマクベス夫人が後半、気弱になって幽霊を恐れる--という不自然さである。かつて川村毅は彼女を「極道の妻」に設定して納得させたが(確かに強気でかつ迷信深い)、こちらでは夫婦をDQNなカップルとして設定。なるほど、これはこれで得心が行く。

ということで、かなりまともなマクベス芝居を観てしまったという気分であった。
このスタッフ・配役ならもっとブチ壊してくれるのを期待してたんだけど--というのは欲張り過ぎか。
もっとも、ラストシーンは今イチ意味不明であったが。(ヘビメタネタなのか?)

王役の上条恒彦は余裕の貫禄で、グレートです \(^o^)/
助演の若手二人もよかった。二人とも余分な肉が全然ついてなくてほとんど骨と皮ぐらいの細身なんで、内野聖陽が「贅肉がどうも気になる」などと比較されてしまうのはカワイソウであろう。(^^; (一緒に見た友人や、ネットの掲示板でそういう意見あり)

一方、逆木圭一郎はなんかあまり為所のない役で、出すために仕方なく作った役、みたいな感じ。もうちょっとキャラクターを生かして欲しかった。
それと、セリフが約50%聞き取れないのはマイッタ(=_=;) 特にバンドの音とかぶさると壊滅的。

隣の座席に明らかに芝居自体初めて、という様子の高校生の女の子がいた。結構チケット高いのに高校生じゃ大変だろう、一体誰のファンなのであろうか?と思ったが、おばさんモードで「ねえねえ誰のファンなの」などと聞くわけにもいかず、疑問のみが残ったのであった。

しかし、6時開演で途中25分休憩入って10時近く終了。ただでさえ長いシェイクスピア芝居が歌やら過去の因縁話やらでさらに長くなった。
疲れたよ(x_x)

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2006年6月 3日 (土)

「夢の中からみつけた街」:×年ぶりのワタリウム

I Love Art 8 写真展
会場:ワタリウム美術館
2006年3月3日-6月4日

ワタリウムに前に行ったのは何年前だろう。少なくとも、5年は行ってないような気がする。でも、10年は経ってないと思うから、7年ぶりぐらいという事にしておくか。(いい加減)
地下鉄出口から外に出た所で一瞬迷ったかと思ったが、ちゃんと覚えてたんで一安心。

今回はコレクション展とのこと。写真作品100点余りといっても、インスタレーションやら映像作品もある。ウォーホル、ヘリング、ロバート・フランク、メイプルソープなどそうそうたるメンツである。
見ててビックリしたのが、アウグスト・ザンダーの職業シリーズ。「あー、こないだもザンダー見たなあ」なんて思いながら、横移動していったら肌もあらわなドレスを着た酔っ払った女の写真があって、ふむふむ「1920年代ベルリンのカフェの女給」かな、と思ってタイトルを見たらなんとダイアン・アーバスの作品だった。(-o-;)
いや、確かにモノクロの人物写真なんだけどね……。
間違えるか、フツー。(汗)
でも、分からなかったんだよ。

あと、面白かったのはルネ・マグリットの写真作品。なんか友人知人親戚一族ヒマな人間を集めてテキトーに素人に演じさせて撮ったおふざけ写真のようなんだけど、彼の絵画のようにナンセンスで変なのが笑える。
それから寺山修司のノスタルジックでSMっぽいハガキ絵写真(?)もよかった。


見終ってから地下の美術洋書店オン・サンデーズに行く。やはりここは相変わらず、さすがの品揃えで他の店を寄せつけない。そこでウィージーの分厚い作品集を見つけて猛烈に欲しくなってしまった。

ウィージーは第二次大戦前のニューヨークで、犯罪や事故現場を撮影しては死体の写真一体あたりナンボでゴシップ紙に売りまくってたヤクザなカメラマン。しかし、写真史の「ドキュメンタリー」とか「ルポルタージュ」の項目では必ず名前が出てくる人物なのだ。
冒頭、厳冬のニューヨークで消火活動をする消防士たちの、水をかぶった帽子や防火服に小さいツララができている様を撮った一枚からしてもう素晴らしい。

だが、8800円ナリという値段だし、どうせ買っても見るヒマない--と断念して帰ったが、後からやっぱり欲しくて欲しくてたまらなくなってしまった。
買っとけばよかった……(T^T)クーッ

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