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2006年8月

2006年8月25日 (金)

「時をかける少女」:青春は若いモンに任せるわッ!

監督: 細田守
声の出演:仲里依紗
日本2006年

ヤフー・レビューがやたらと高評価で話題になったアニメ。さらに本当かどうか知らんが、『ゲド』の工作員がわざと一つ星評価を付けているというウワサまで流れた。(確かに1行コメントのヤツは見ると勘繰りたくなる)
後でミクシィのレビューを見たら(ミクシィはネタバレ多いんでうかつに見られない)、さらに高評価でビックリ。

とにかく実際に見てみるべぇと行ってみた。客席は9割までヲタク野郎というウワサだったが、そんな事はなくて私よりも年上のオバハンの集団までいた。

内容はSF風味学園ラブコメ(一部シリアス)といった感じ。SF部分はかなり薄いし、展開はご都合主義で無理がある。
恋愛部分はかなり定番な要素が(意図的?に)満載。女一人に男二人の組み合わせってフィクションではよくあるが、現実では一度も見たことねーぞ、ゴルァ。三人で毎日放課後に野球?こんなのウソっぽ過ぎでは。親友が好きなあの人を、実は……というのも、有史以来一億回(当ブロク推定値)ぐらい使い古されたネタだ。

何気ない学校生活の描写はよく出来ている。壁に寄り掛かって本読んでる子とか、一つの机で二人が勉強してる場面とか……。いかにも夏休み直前のダルい放課後の雰囲気が出ていて、ノスタルジーを感じさせる。
(ただ、言葉づかいやファションがあまりにも完全に「今どき」なので、却って引いてしまった。これも意図的か? 15年後に見たら笑いが起きそうな不安)

そういうノスタルジーに満ちたベタな学園恋愛もの要素が難なく受け入れられる人には、このアニメは感動で涙ウルウルになるだろう。
だが、私は学校時代に戻るぐらいなら地獄に行った方がマシという人間である。居心地悪くて、もう勘弁してくれーっ(>_<)てなもんだ。

さらに登場人物がどういう心理状態なのかよくわからない。人間の感情や心理もタイムリープする度に変わっちゃうのか? それとも作り手は最初から同一性を放棄しているのか? そのため、どの人物にも共感したり感情移入することができなかった。
前半で一番驚いたのは、ヒロイン事故が起こるのを阻止するのではなく、他人に原因を押しつける事だ。確かにこれは常に一貫した彼女の行動の傾向で、後の展開に関係してくる部分なのだが、それにしてもあんまりである。
ヒロインはそういう性格で、だからこそこの物語は成立するのだ--と言われればそれまでだが。
ついでに言えば「おばさん」も「スカした感じでイヤーン」でイライラしてしまった。(チアキとコウスケのキャラクターも不満点ありだが、面倒くさいので省略)

それからさらに致命的なのは、未来人が来た理由となる肝心のモノがスクリーン上では全く魅力的にみえないことだ。いくら、セリフで「素晴らしい」とか言っても見ている方に現実にそう感じさせなければ、何の意味もない。残念ながらあのモノにそれほどの価値があるとはどーにも思えなかった。実際にそう思わせるのは至難の業であろうが--。だったら別の理由をでっち上げた方がよかっただろう。なんか今イチ必然性とか切迫性に欠けるんだよね。
ただ、一応観ている間はそれらの矛盾点をあまり気にさせない作りにはなっていたので、気にならない人は気にならんだろう(もちろん私は気になったが)。

結局、素直でないひねくれ者の私には到底向いてない作品であった。ギリアムの『ローズ・イン・タイドランド』には辛口の評を書いたが、どっちを取るかと言われたらギリアムの方を取ろう。だーって、あなた、愛しい男と久し振りに再会して××を×××××××しちゃうんですよっ。これこそ時を越えた愛ではないかっつーの! 文句あっか(ドン)←机を叩いて力説する音

ということで、当ブログとしては「ひねくれ者なら『時をかける少女』よりも『ローズ・イン・タイドランド』を見るべし!」と推奨させて頂く。


ところで「Time waits for no one」はやはりストーンズだったのか? こういうのがオヤヂ層の支持をも集める理由かね。
関係ないけど、本編前の予告でガンコ親父を沢田研二が演じてるのを見て結構衝撃だった。あのジュリーが……自分の歳をヒシと感じるのう(x_x) (映画のタイトルは『幸福のスイッチ』、予告見ただけで見る気が失せそうな健全な文科省推薦映画っぽい)


主観点:5点
客観点:7点

【関連リンク】
ケナしてばかりではナンなので、ほめている意見も紹介しよう。
「bobbys☆hiro☆goo☆シネプラザ」より《”時かけ”から”トキカケ”へ「時をかける少女」》
こちらのブログは比較的冷静な感想だが、TB群を見ればいかにアツく評価されているか一目瞭然だろう。

ようやく見つけた数少ない、絶賛ではない意見です。
「DREAMREAL」より《時をかける少女感想》

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2006年8月23日 (水)

「ポップアート 1960's→2000's」:そして最後に「神」が降臨

リキテンスタイン、ウォーホルから最新の若手まで
会場:損保ジャパン東郷青児美術館
2006年7月8日~9月3日

損保ジャパン本社ビル、無事にたどり着けるか?……普段西口の高層ビル街の方はあまり用事がないんでよく分からん。地下から行ったら案の定、遠回りをする破目になってしまった。もっとも地上から行ってもうまくたどり着けたかは不明。

エレベーターで42階まで上る。42階ですよっ(^^)/ もっとも、森美術館には負けているわけだが。

最初の部屋ではリキテンスタインの作品群がお出迎え。版画の手法などの解説書きがついているのは良かった。続いてウォーホル。キャンベルスープ缶を始め、おなじみの作品が続く。
で、その後の80年代あたりは意外と数が少なく(目立ったのはヘリングあたりか)、気がつくとみんな作品の製作年度が「2000年」とか書いてあるものばっかりなのであった。会場自体が大きくないので、そこら辺しぼって選んだのかも知れないが。

目を引いたのはヴィック・ムニーズ--チョコレートとか雑誌を細かく切った破片などでパロディっぽい絵を描いて、それを写真に撮り、オリジナルの方は破棄してしまうというもの。遠くから近くから何重にも楽しめる変な作品だ。
個人的にはケヴィン・アペルも気に入った。建築の立体図を単純化して単色の矩形に描いた連作(東京都現代美術館で以前見たような気が……)と同系色の油彩の大作だ。
全体的にはポップアートから今現在のアートシーンの流れをたどる入門編という印象である。そこには「アフリカ・リミックス」にあったような混迷や屈折は見られない。

デイヴィッド・ラシャペルの巨大ブタを眺めて展示は終わり。その後は常設の部屋になっていて、グランマ・モーゼスと東郷青児の作品があった。
だが、さらにその横に暗い小部屋があって、その奥に分厚いガラスに守られたゴッホの『ひまわり』が鎮座ましましているのであった。まるで

 ひまわり キターッ━━━('∀'≡('∀'≡'∀')≡'∀')━━━━!!!!!

という感じで、さらに左右にゴーギャンとセザンヌの絵を従えているところは

 ゴ  ッ  ホ  は  ネ 申  !

と言わんばかりであった。
私はこれまでの展示内容とのあまりの落差に_| ̄|○ガクッとなったのである。

とはいえ、鑑賞時間は1時間弱。やっぱり映像作品がないと早く見終るんだなー、とこれまたどうでもいい事で感心した。

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2006年8月21日 (月)

あのマンガのアニメ化作品の予告を見た!

『ローズ・イン・タイドランド』の前に上映された予告で恐ろしいものを見てしまった。あの、ますむらひろしのマンガをアニメ化した『アタゴオルは猫の森』だ。原作は昔のサンコミックス時代からずーっと買っている。チラシは前から入手してたのだが、実際に映像を見てみるとなんと3D-CGアニメという事で、ヒデヨシの黄色の毛がフサフサと波打ち、さらにあのお腹がタプンタプンと揺れ動くのであった!

正直言って、ちょっとブキミ光線が発射されているのを感じる。な、なんだか一挙に見たい気が萎えましたですよ(>_<)
一方でテンプラなど人間勢は人形みたいなイメージでまた萎える。ギルバルスももっとカッコよくなくちゃ嫌だ~(単なるワガママ)。
でも、猫の目時計が何と言って時報を鳴くのか聴いてみたい気はするが……(考慮中)。

本棚から古い『アタゴオル物語』を引っ張り出してみた。たまたま開いたページで、ヒデヨシがテンプラにセミを取ってもらったお礼に「オレごちそうするわ」と言う場面が出てくるのでビックリした。現在のヒデヨシだったらゼ~ッタイ(^_^メ)にそんなこと言わないだろう。
今や物欲において、唯一『エロイカ』のジェイムズ君を凌駕する存在がヒデヨシなのである(^O^;

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2006年8月20日 (日)

「ローズ・イン・タイドランド」:妄想する少女はお好き?

監督:テリー・ギリアム
出演:ジョデル・フェルランド
イギリス・カナダ2005年

テリー・ギリアムが小説『タイドランド』を映画化(原作の感想はこちらをどうぞ)。

公開を期待していたのだが、実は予告を見てからかなり見ようという気がそがれてしまった。なぜかと言うと、主人公の女の子が予想していたのよりかなりカワイクてキレイだったからだ。私の脳内ではもっと構われていなくて薄汚れている子どもだったんだが。

だけど、結局他の夏休み映画はあまり見たいのがないので行ってみた。
原作はダーク・ファンタジー--というよりマジック・リアリズム、とかアメリカン・ゴシックといった形容が合うもの。
だが、映画はそれよりもさらに現実寄りに描かれている。妄想する少女ジェライザ=ローズを客観的に見ている印象。少女の「王子さま」であるディケンズの描き方もそんな感じだな。
えー、つまり監督は少女の妄想自体より、妄想する少女の方に興味の比重があったってことだろう。
そのためか、中盤はヒロインの一人芝居を延々と眺めさせられている気分でかなり辛かった。人形の声はてっきり別の役者の声を当てるのかと思ってたら、それもローズだったんで余計に一人芝居ぽい。

映像としては文句はないが、やっぱりギリアムの演出のテンポは個人的にうまく合わない、という事を再確認して、作品の出来とは関係なく点数が下がってしまった。

デル役の人はどこかで見たと思ったら『歌追い人』の主人公だったのね。大柄な女優さんはやっぱりこういう役が回ってくるのか。


ところで新宿武蔵野館は同じフロアに3つの映画館があるのだが、隣の部屋がやたらと若い女性で行列が出来てごった返していた。レディース・デイにしてもこれはスゴイ。何の映画かと思ったら『ゆれる』であった。な、なるほどね……。
夜の回までお立ち見だよ。見に行く予定の人はご注意あれ。


主観点:6点(主役の女の子で1点増し)
客観点:7点


【関連リンク】
こちらの感想もどうぞ
「No Movies, No Life!!」《大人のためのギリアム・ワールド》
「おたくにチャイハナ」《映画『ローズ・イン・タイドランド』》
「BLOG IN PREPARATION」《「ローズ・イン・タイドランド」 この醜悪な世界をすり抜ける少女》
こういう解釈もありか?

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2006年8月19日 (土)

「アフリカ・リミックス」:一つの色には塗れない大陸図

多様化するアフリカの現代美術
会場:森美術館
2006年5月27日~8月31日

広大にして複雑なるアフリカ大陸から25カ国84名140作品を紹介する美術展。まさに今のアフリカ(と、一つにくくれないのだが)のアートを総覧できる。

で、印象はというと……
暗い。
重い。
苦しい。
ウツだ。

双頭の神の如く、一方では恵みをもたらすと同時に抑圧の権化として重くのしかかる西欧文明。その影響下で逃れたくても逃れられない無言の叫びが、膨大な作品群から聞こえてくるようである。(もちろん、その状況はアジアや南米などでも同じなわけだが)いや、見応えはあったんだけどね。(~_~;)

あまりに数が多いので個々の作品を覚え切れなかったが、面白く感じたのをあげてみる。
ポスターなどにも使用されているシンディ・シャーマン風のアフリカ版セルフ・ポートレイト。民族・人種を問わず自分でやってみたくなるみたいだ。
いかにもアフリカっぽいユーモラスで小さな彫像数体--だがよくよく見るとそれぞれドラッグやってたりする。イメージのギャップがシニカルな笑いを引き起こす。

一番気に入ったのは、パルプSFに登場するような宇宙船やらモンスターやら銃を太めの針金で作り上げたもの。恐らくはわざと稚拙に書いたメモやスケッチも貼ってある。グローバルに(?)流通している、しかし安っぽいイメージをあえてローカリズムの極致というか、モノも金もないド田舎に暮らす個人の妄想を通して再現したような感じで、しかも少しポップなのだ。地味な作品で気に留める人も少ないだろうけど、ハナマル印を付けたい。

全体に数が多く映像作品もかなりあるので、じっくり見るには3時間ぐらい必要かも知れない。

見終ってから展望台を一巡り。晴れた日で見通しもよく房総半島まで見えて、気分もスッキリハッキリした。そして、下を見下ろして「ワーハハハ(^○^)、貧乏人どもがケシ粒のように見えるわい」とヒルズの住人の気分になってみた。
まもなく開館予定の国立新美術館も間近にみえた。波打つ薄い水色のガラスの外観がなんとなくビミョー。「美しい」とか「ステキ」というより「変!」な感じ。デザインは黒川紀章らしい。


【関連リンク】
「弐代目・青い日記帳」
「Paseo de los museos」
客の素朴な反応が笑えました。(^^)

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2006年8月16日 (水)

「ゲド戦記」:タダ券で見れば腹も立たない--はずだったが

監督: 宮崎吾朗
声の出演:岡田准一、菅原文太
日本2006年

【序章】
ネットで荒れ狂う不評の嵐--仮想空間で互いに噛みつき合う擁護派と罵倒派、そして場外で倒れ伏したまま動かなくなった原作派。「何かがおかしい!」と察知した私は近くのシネコンのタダ券をゲット。念のためそれを使って見に行く事にした。タダ券ならば万が一つまらなくっても腹が立たないと考えたからである。

【起】
早速、タダ券を使ってシネコンの奥深く潜入する。用心深くお子ちゃまやご家族連れにジャマされないように通路側の席を確保。眠気覚ましのガムや冷房対策の上着など万全の準備をして鑑賞に臨んだのであった。
だが、開始早々問題にぶち当たる。嵐の効果音がデカ過ぎて人物が何を言っているのかよく分からないのである。??? 原作読んでいるので、多分あのあたりのセリフだろうと適当に脳内補完する。

そのまま話はサクサク進んでいくが、なぜかアースシー世界全体の設定の説明は出て来ない。広大な海の中に大小様々な島があって、そこに国があって、さらに魔法使いの島が--なんていう説明が全くされないのだ。こんなんで分かるんか?と不安になったが、後々まで見ていくと、そんな必要はないことが分かった。
なぜなら、全ての登場人物は最初の島から一歩も出ないからだ。(火暴)

【承】
その他にもツッコミどころ満載であっけに取られるのであった。ホントに基本的な物事の描写とか因果関係の説明とかが出来ていないのである。

もちろん、世の中に下らん映画はゴマンとあるし、まともな因果関係が描かれてない話はあるが、そういうのは大抵おバカなギャグ映画だったり、頭使わないで見られるアクション物だったり、見終った瞬間に全て忘れてしまうエンタテインメントだったりするわけである。
シリアスな感動を目指す、人間の生と死がどーのこーのという物語でそんなんじゃ困るんだと思うが……。あ、困りませんか。そーですか、すいません。
すいませんと言えば、この物語の中で二度ばかり登場人物が別の人物に謝る場面が出てくるのだが、二度ともどうして謝るのか全く理解できなかった。「謝っとけば、この場はおさまるだろう」とでも考えたのだろうか。分からんよ……(?_?;

一方で、ラストの悪者の末路の描き方は残酷さとグロテスクさにリキが入っていて、小さなお子様ならうなされそうなぐらい。素晴らしい \(^o^)/ 今後はこういう方面のジャンルの作品を極めたらどうだろうか。

あと、音楽がうるさい。演出で情感を喚起できないので、無理やりデッカイ音の音楽でなんとかしようという気か。
それと、背景の絵はいいけど人物が本当に荒っぽくてひどい。草原やら羊やら娘っ子が出て来て、新TVシリーズ「アルプスの少女ハイジ」かと思ってしまった。それにアレンは17歳にはとても見えない。だったら設定変えて13歳くらいにすればいいのにさ。
ついでに、なんだか白っぽい貧弱なドラゴンも魅力なし(←実はこれが一番ガッカリした)。

【転】
見ていて『カーズ』を思い浮かべた。両方とも基本的な構造はよく似ている。(そもそもよくある物語だが)
本当は能力を持つが今の所ダメダメな若者(内向的と外向的--とベクトルは逆だが)が、未知の土地に行って老いた先達や女性などと出会って、自己を見つめ生き方を変え、悪との闘いに勝ち危機を克服するという話である。未知の土地でさせられるのが、身体的な作業というのも同じだ。
アレン:マックイーン、ゲド:ドック、テナー&テルー:サリー&メーター、クモ:チック--という感じか。

しかも、双方共に主人公のターニング・ポイントとなるかなり長い場面がヒロインがらみで出現する。『カーズ』の場合は「わー、キレイだー」とその光景に感動するけど、『ゲド』では「えっ、この歌まだ続くの(冷汗)」となってしまったよ。
ネット上の感想で、この場面について「観客が泣く前に登場人物を泣かせちゃいけない」というのがあったが、全く同感である。また、その涙がロードショー館で本編上映前に必ず見せられてウンザリする、あの「映画を守ろう」CMの黒い涙にクリソツなのもイヤ~ンな印象だ。

一方、アレンのダメダメ具合は徹頭徹尾グダグダしていて、見ているのが嫌になる。これに比べればマックイーンのナルシスト振りなんぞカワイイもんだと思えてしまう。

【結】
何が一番不快だったかというと、死を恐れ不死を望む人間に対し「死を恐れてはイカン」と言いつつ殺してしまうこと。あたかも、今いる犯罪者を全て抹殺すれば犯罪そのものが地上から消えるとでもいうように、だ。
自らの弱さを克服するために他者に剣を振りかざすとはどういうことなのか。弱さと悪を見せる他者を消せば、自らの弱さと悪も消えるというのだろうか。

それからよーく分かったのは、中身がどんなもんであれ、電通と博報堂が手を組んで派手に宣伝して有名ブランドの箱と包装紙に包み、高級店で販売すれば、それなりに売れてしまうということである。

ブログなどネット上の意見を見ていて多かったのが、新人監督に対して「第一作めだから」とか「次作に期待」というものだった。皆さんの優しさにいささかビックリ。だーって、監督は次の作品を作れるかも知れんとしても、原作者のル・グウィンや原作ファンにはもう「次」はないんだぜ(三十年後ぐらいにはあるかも知れんが)。だったら最初から存在しなかったことにして欲しい。(>_<)
新米のペーペーだろうが、八十歳の超ベテラン監督だろうが、誰かの息子だろうがなんだろうが、どこのスタジオが作ろうが、作品の出来だけが全てを決めるはずである。場外の事情やらなんやらを観客が慮ってやる必要などない。

あと、実際の作品を見てないのにケナす奴、ほめる奴が多いのにも驚いた。こうなると単なる祭りだね。夏休みなんでみんなヒマで、単に乗っかって騒いでるだけなんだろう。

【終。章】
原作について書いておこう。
私はかつて『ゲド戦記』を「心の書」と定め、何度も何度も事あるごとに読み返していた。だが、ある日出たばかりの第4巻を読んで「なんじゃ、こりゃー(>O<)」と叫んで、本を真っ二つに引き裂いた--気分だったがそうしなかった。なぜなら、借りた本だったからである。
どうして、第4巻を読んでそのような怒りを感じたかは語りたくないし、語ることも不可能である。それ以来、どの巻も手に取ることは一度もなかった。
その後、第5巻が出た時も一応義理として読んだが、今の私にはもはやいかなる感情も呼び起こされることもない物語だった。正直、「老人力」入ってると感じてしまったよ。

今回、このアニメを見る前に第3巻だけ読み直したが、非常に映像にするのは困難な作品なのを痛感した。恐らくたとえ原作に忠実であっても、誰が作っても(例え宮崎父であっても)面白くないものになるだろう。なにせ1~3巻通じて、肝心な場面はすべて薄暗い闇の中で見せ場もなくゴソゴソと行なわれるだけなのだ。何か心にしみいるものがあるのは確かだが、それをそのまま「絵」にしても、訳分からんか退屈なだけである。
注-もちろんこのアニメは原作を完全にメチャメチャにしている。

ということで、このアニメが詰まらないので原作の方が面白いだろうと勘違いする者が出てくるかも知れないが、それは大いなる誤解である。もし映画の『ナルニア』や『ロード・オブ・ザ・リング』みたいな派手な展開を期待して読むんだったらやめた方がいい。きっと退屈してしまうだろう。

--と、これだけ言っておけばうかつに読もうなんて気はならないだろうよ(~ ^~)

それにしても、同世代の友人数人に原作のことを聞いてみたらみんな「昔読んだけど、忘れた」と答えた。オイオイ(-o-;)

【付録】
原作者本人のコメントが遂に出てしまった。有志による日本語訳である。

ホントに芝生で逆立ちしたのか?なんで??知りたいぞ。
雑誌「モエ」の特集で、ル・グウィンのインタビュー記事に『トトロ』のネコバスが気に入って、日本でぬいぐるみを買って来て貰ったと、10センチばかりのちっこいネコバスのぬいぐるみを嬉しそうに持って見せてる写真があった。なんだか、彼女が気の毒になってしまったよ……。

【追記】
な、なんと「きっこの日記」(「きっこのブログ」)でも原作者との行き違いネタが取り上げられた。ル・グウィンの声明の訳が上記と微妙に異なるので読み比べてみるといいかも知れない。


主観点:2点
客観点:3点


【関連リンク】
批判的なもの
「こっちゃんと映画をみまちょ」
「平気の平左」
「Badlands」
「おたくにチャイハナ」

内部のお家事情をネタに新解釈
《ゲド戦記を読み解く!》(具体的なストーリーのネタバレあり)

批判ばかりではなんなので誉めている感想も
「空飛ぶ教授のエコロジー日記」
「renkonnの日記」
 ↑連続記事で細かく分析

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2006年8月14日 (月)

今から注目!気になる映画二本のウワサ

「allcinema ONLINE」のヘッドラインニュース欄に『プリズナーNO.6』映画化(8/11付け)とP・K・ディックの伝記映画(8/10付け)の話が掲載されている。

『プリズナーNO.6』はカルトTVドラマ・シリーズとして知る人ぞ知る--でも当時のSFファンならみんな知っている怪作だが、監督が『バットマン・ビギンズ』のC・ノーランということで、私的にはかなり期待大である。
ただ、やっぱり連続ドラマという特性を生かした話だったんで、映画というメディアでうまく行くだろうか心配。加えて主演&製作のパトリック・マッグーハンの強烈な個性なくして成り立つのかも大いに不安である。まさか、もうご当人は出ないだろ……(?_?)

ディックの伝記は監督がテリー・ギリアムということで大いに話題になりそう。「彼の絶筆となった作品の内容を織り交ぜながら描いていくものになるとのこと」というのも面白そうだ。(この手法自体は珍しくはないが)

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2006年8月13日 (日)

「光の魔術師インゴ・マウラー展」:なんびとも光を直視する事はできない

会場:東京オペラシティアートギャラリー
2006年7月8日~9月18日

照明デザイナーの作品展である。照明--ということは、光を放っているんである。つまり、作品をずっと見ていると目がチカチカしてきてしまうってことだ。
しかし、よくよく考えると日常生活で照明器具をしげしげ見るという事はほとんどない。人はそこから発する光の投影の下で暮らしているに過ぎない。
とすれば、このように照明をインスタレーションのように見てしまうのは邪道ではあるまいか?

などと考えてしまったので、照明そのものよりもそこからちょっとずらしたようなインスタレーションの方が面白かった。
白い部屋の中で影が揺れる「スウィンギング・バルブ」や、ホログラムで作られた赤い電球(正面からはハッキリと見えるが、少し斜めに見る位置を移動すると消滅してしまう)とか、鏡の中に何本もロウソクが見える(--ように見えているだけで、本当に存在するのか分からない)「フライ・キャンドル・フライ!」など。

それ以外だと、小さな変な格好をしたスタンド群が楽しかった。思わずピクサーのロゴマークを思い出してしまう。それから赤いリキュールの瓶を何本も使った「カンパリ・ライト」は家に欲しくなってしまった。LEDを使ったテーブルやベンチも素敵。
チラシに使われている羽の生えた電球を使った照明は高い天井に下がっていてよく分からんかった。残念。
見た人が驚いたという「ポルカ・ミゼリア!」は、確かにキレイで迫力あるが「掃除が大変そう」なんて思っちまったよ、トホホ(x_x)

しかし、どの作品よりも驚いたのは、6~7人で見に来ていた大学生らしきグループ(美大生か?)。声をあげてキャアキャア言ってるのはまだしも、作品に直接手で触るは、館内で(作品のまん前で)ケータイで喋るは……。
お前らは、小 学 生 の 遠 足 か !(怒)

監視係のおねーさんが心配して後をついてきたし(作品壊したら大変だー)、警備員のおじさんにも注意されてた。私も作品そっちのけでしばらく彼らを観察してしまった。
これこそゲーム脳とゆとり教育と日教組とジェンダーフリーとユダヤ人の陰謀の弊害である!いったい日本の未来はどうなるのであろうか?--などと、バカな政治家みたいなことを言いたくなってしまったよ( -o-) sigh...


さて、恒例の二階の収蔵作品展は「素材と表現」。これがまた見応えが大ありであった!
清宮質文という人の木版画「月と運河」はすごく小さな作品なんだけど、ひしゃげたようなレモン色の月の下に運河があり、そこに平べったいクジラみたいな変な魚がいて、なんだか寂しいようなちょっとユーモアがあるような独特の雰囲気がいい。
それから池田良二という人も全然知らなかったが、4枚の連作がキーファーみたいな禍々しさと重量感がある作品で(あんなにデカくはないが)これまたよかった。
かと思えば、クロディーヌ・ドレの「無題」は幾つもの薄い紙を丸めた固まりなんだけど、それがまるで剣を振り回して戦っている人々に見えるというもの。とても面白い。入口の部屋の若手の作品も色々バラエティに富んでいた。
これで、充分千円の元が取れました。

ちなみに先ほどの学生グループは、どうも収蔵展の出口から入って入口の方から出るという逆回りをしていたみたいだったんだけど、大丈夫だったんかね?

【関連リンク】
公式HP

*清宮質文関連
大川美術館のHPより下段の三作が彼の作品。こちらも雰囲気がたまりません。

《清宮質文・初めてのコレクション》
読んでちょっと泣けました。(v_v)

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2006年8月11日 (金)

束芋展「ヨロヨロン」:公衆トイレにダイブしたことありますか

会場:原美術館
2006年6月3日~8月27日

束芋はアニメーションを使ったインスタレーションを作っているアーティスト。インスタレーションと言っても部屋を丸々使ったようなかなり大規模なものである。
内容は残酷かつグロテスク、しかも日本という国を辛辣に批評しているようなところもある。だが、その点が海外では新たなオリエンタリズムとして評価されているのではないかとも思ってしまう。もしかして、意識的にやってる?

「公衆便女」は文字通り公衆便所を舞台にした、いかにもクッサ~そうな臭いとブラックユーモアあふれる大作。見ていて、よく夢の中でトイレに入ると壁やドアが崩壊していく感じを思い出した。
「真夜中の海」は真横と真上の二ヶ所から見られるというもの。どちらも全く異なって見える。ただし、真横で見た時は何が何やら暗中模索。
天気予報で「人が降ります」と予報され、その通りになる「にっぽんの台所」もグロくてよかった。海外でもウケそう。ガイジンには靴を脱がせて見せるのが吉かと。

アニメの原画や、新聞小説のイラストなどはちょっと中世(というより初期ルネサンス?)の風刺画みたいでもあった。

「ギニョラマ」は夜7時以降じゃないと見れないのね(T_T)グスン

今回はたまたま平日の休みに行けたからよかったけど、休日だったらかなり混雑していてまともに見られなかったのではないか、という気がした。
過去の作品(の展示風景)を数台の小さなモニターで流している部屋は人がいっぱいたまっていた。小さなスペースなのに、その真ん中に巨大な机を置いて、過去の作品の写真をファイルに綴じたものも置いて見られるようになっている。意図は分かるけど、人の多さと滞留時間を考えるともう狭くて狭くて完全に不適当。

原美術館もデートスポットとして大々的に紹介されたりして、もう以前のこじんまりとした展示方法は使えないのではないか? そこら辺、考えて欲しい。
そういう意味では、いささか消化不良であった。


【関連リンク】
Fuji-tv ART NET

他のブログの感想
「バウムクウヘンの断層。」
「ex-chamber museum」

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2006年8月10日 (木)

「カーズ」(吹替版):中年にはやっぱり字幕版を推奨

声の出演(日本語吹替版):土田大、浦山迅、戸田恵子、山口智充

字幕版の感想はこちらを参照のこと。

吹替と字幕ではかなり印象が違うというを聞いて、見に行ってみる事にした。字幕版は映画館が少ないので東京まで行ったが、こちらはご近所のシネコンでもやっているので楽勝である。

一番遅い回に行ったが、それでも就学前の子ども連れがかなり来ていた。「あー、この子たち絶対にもたないだろうな」と不安な予感だったが、やはり舞台が田舎に移った途端退屈してしまったらしくずっと騒いでいた。
一方、親の方は微動もせず見ていたようで……(^=^;

個々の登場人物(車物)を取り上げていくとビミョーにちがう。オリジナルより良かったのはタイヤ・ショップの凸凹コンビ。面白くてカワユい。
重要なキャラクターであるメーターは全く遜色ない出来。グッジョブ! ただ、オリジナルだと本当に「かっぺ」丸出しという感じだったが、地方差別になる?からかそこまではやってなかった。
主人公は冒頭からイヤな奴のはずだったが、30パーセントさわやか度増しで好感の持てる若者になっている。代わりに、悪役のチックがイヤミ度3割増しで一身に憎まれ役を背負っていた。
サリーはしっかり者のおねーさんという感じ。字幕だと、少しセクシー入っていて、しかも辛辣な所もあり、なんだよね。
ドックと軍用車(?サージだったっけ)は完全にオリジナルに軍配ありだった。

さて、全体を通してみると
吹替版:涙あり笑いありの楽しい感動作  \(^o^)/
字幕版:人生をシミジミ考えさせる超感動作 (T^T)クーッ
--ぐらいの違いがあった。

その全ては終盤のレースの結末に集約されると言ってよいだろう。
吹替だと主人公のあの行為は仲間を思いやってああいうことをしたという印象だったが、字幕では彼はそれまでとは違う価値観をあえて選択した、と受け取れた。
仲間が危機だから、なのではなくてもう一人(一車)の行為に示される「勝てばなんでもOK」というレースの在り方(それはすなわち、彼のそれまでの生き方であった)に異議を唱えたのである。
そして、人生いつまでも上り坂を爆走できるわけはなく、下り坂になってレースから降りてしまったらもう全て終わりなんかい?違うだろう、という問いかけでもある。
それから、「儲けて何が悪いんですか?」というような人に対しては、あんたの才覚だけでなく、損した者がいるからこそ初めて儲けられるんだ、という真実の提示でもある。

ということで、双方のテーマは「仲間を思いやる」と「あんたにとって人生の価値って何よ?」ぐらいの差があるのだ。
従って、年齢的に三十代後半以上の人は字幕版を見る事をオススメする。「近くの映画館でやってないよう(;_;)」という人はDVDが出たら見直して欲しい。なんつーか「ああ、オイラの人生は……シミジミ」と身にしみるものがあるだろう。

某映画掲示板でレースの結末について「悪しき平等主義ではないか?」といった不毛な議論が長々と続いていたのも、もしかしたら字幕と吹替のせいかも知れない。双方の意見の者がそれぞれ違う版を見ていたら話もまとまらないだろう。それほどに差があるのである。

字幕に気を取られない分、映像を見る方に注意を回せたのはやはり良かった。車体に映り込む周囲の光景とかズズズと微妙に方向を変える車の滑らかな動きとか--。
複数の人物が同時に喋っている場面なんかは当然、字幕では表わせないのでそういう部分の情報量も多かった。字幕では理解できなかったのが「ああ、そうだったのか」と納得できた所もある。
ただ、挿入歌の訳詞が出なかったのは残念。それぞれの場面にピッタリの歌詞なのに。見てるのはお子様だけじゃないんだからさー。


主観点:8点
客観点:8点

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2006年8月 7日 (月)

「水の都の聖母マリア」:満足のスキップをヘビメタ娘にはばまれる

指揮・オルガン:ジャンルーカ・カプアーノ
会場:イタリア文化会館 アニェッリ・ホール
2006年8月1日

イタリア文化会館って、なんじゃ?知らんぞ~と地図を頼りに行ってみたら、なんとしばらく前に、ビル外壁の格子が真っ赤に塗られていてヒンシュクをかってるというニュースで騒がれた所だった。えーと、でももう夕暮れだったからそんなに派手な色には見えませんでしたけど(^o^;
で、地下に小規模ながら立派なホールがある。音響がどんなもんだか分からないので取りあえず前の方に座ってみた。

さて、このコンサートは日本人の歌手・演奏家を本場イタリア人が指揮するという形。演目は、初期バロック期にヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長を勤めたモンテヴェルデイとカヴァッリ。前者は比較的よく演奏されるが、カヴァッリとなるとなかなか生で聴くことはできないので嬉しい限りである。

プログラムは二人の聖母マリアにまつわる曲を交互に演奏するという趣向。それぞれの作の『聖母マリアの昨夜の祈り』に含まれているものが幾つかあったようだ。
ステージ上の顔ぶれはBCJでお馴染みの人も多かった。チェロの西澤央子さんとヴィオローネの西澤誠治さんてご夫婦? 通奏低音が取り持つ仲でやんすね §^o^§ (←これが言ってみたかっただけです、スイマセン)
G・カプアーノはいかにも学究肌っぽい印象の人。

気候がジメジメしていたせいか楽器の調子があまり良くなかったようで、特にテオルボは毎回調弦に時間がかかっていた。さすが、「テオルボ奏者は人生の中で演奏しているより調弦している方の時間が長い」と言われるだけはある。あとヴァイオリンも不調だった?(トーシロなのでよく分からん)

声楽陣の方では先日のBCJでも大活躍の櫻田亮が本領発揮とばかりに聞かせてくれた。もう一人のテノールの谷口洋介も良かった。あと、外見がチョイ悪オヤジ風の小田川哲也のバスの低音もス・テ・キ(#^-^#)。
一方、ソプラノ二人の女性陣は今イチぱっとしなかったような……。

一番良かったのは8曲目のカヴァッリの「サルヴェ・レジーナ」だった。カウンターテナー、テノール二人、バスの男声のからみに思わずウット~リと夢見心地に(@_@) ああ、まるで天国のようじゃ~。

やっぱり、生で聴くと一味も二味も違うのう。--ということで、久し振りに大満足のあまりスキップして帰ろうしたのだが、な、なんとお隣の武道館でやってたコンサートの終了とちょうど重なってしまい、大量のヘビメタ娘が歩道にあふれて身動きも取れず、スキップどころではなくなってしまった。(後で調べてみたら全然知らない日本のバンドだった)

余談:客席に野々下由香里さんや鈴木美登里さんが来てたらしいが、私は全く気付かなかったよ(-.-;)


家へ帰って、コンチェルト・パラティーノが演奏するカヴァッリ『聖母マリアの夕べの祈り』(harmonia mundi)を引っ張り出して聴いてしまった。今回のコンサートとほぼ同じ編成にコルネットとトロンボーンが加わっていて、この管楽器隊も見事だがエンリコ・ガッティのヴァイオリンも素晴らしいの一言。
一番の聴きものはコンサートでは1曲目だった「めでたき海の星よ」で、もっと遅いテンポでこの美しい曲をじっくりと演奏している。鮮烈な2本のヴァイオリンにまといつくようなテオルボ(S・スタッブス)がまたいいんだよね。あー、彼らのこの演奏も生で聴きたいです。

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2006年8月 6日 (日)

「アルナの子どもたち」:もう何も言えん……

サブタイトル:パレスチナ難民キャンプでの生と死
監督:ジュリアノ・メール・ハーミス
イスラエル2004年

この週は中東問題お勉強週間と勝手に決めて、またもドキュメンタリー映画をアップリンクに見に行った。

スカーフをかぶった高齢の小太りの女性が登場する。イスラエル兵の検問のために長い車の列が出来ている難民キャンプの道路に、彼女はプラカードを持って立ち、「クラクションを鳴らして!どんどん進んで」とエネルギッシュにアピールしている。
彼女はアルナというイスラエル人で、若い頃には軍にもいたが、やがてパレスチナ人と結婚し平和運動に参加。そして、難民キャンプの子どもたちに美術や演劇を教える学校を開く。

このドキュメンタリーはその活動を紹介し、さらにアルナがその途中で病死したために中断。後に砲撃で破壊された劇場の様子や、子どもたちのその後の姿を取材したものだ。

嬉々として観衆の前で芝居を演じていた少年達が次の場面ではハイティーンへと成長し、アルナの思い出を語る。そしてさらに後の場面では厳しい顔つきの大人になり、ある者は自殺攻撃に参加し、ある者は銃を持って武装グループを率いて戦車と闘い、ある者は死んだ友人を黙々と弔う。
中でも遺書を読み上げるビデオを残した若者の話は辛いものだ。その後に彼が行なった「テロ」(と、外部からは語られるであろう)は本当に無意味にしか思えないからだ。

アルナの行なっていた教育活動は本来、怒りなどの激しい感情を暴力ではなく、絵や演技によって表現する事を目的としていたのを考えると、この少年達の成長と変貌は見ていられない気がする。
だが、それをカメラは淡々と記録していく。

監督は、アルナの息子である。雑誌「世界」のインタビューによると、若い頃は親のやっている活動には興味がなく軍に志願したりというような経歴の持ち主らしい。(雑誌が手元にないので、間違ってたらスマン)

見終った後に、なんともいえない複雑な気分になった。何かモヤモヤとしたもの、ゴツゴツとした異物があるような気分--。もはや、他に語る言葉など見つからない。
この作品には何の解決もなく、はっきりとした結末がある訳でもない。見る者に怒りとか喜びとか、大きな感情の動きを喚起するということもない。ただ、このような状況になるべくしてなった、その経過だけが明確に描かれているのである。
一体、それ以上の何が必要だろうか?


主観点:採点不能
客観点: 同上

【関連リンク】
「月子徒然」より《アルナの子どもたち》
「Arisanのノート」より《『アルナの子どもたち』&岡真理さんのお話》

「P-navi info」より《日記のような:「アルナの子どもたち」を見て》(ネタバレあり)
「P-navi info」より《映画:「アルナの子どもたち」》(ネタバレなし)

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2006年8月 4日 (金)

バッハ・コレギウム・ジャパン第73回定期演奏会:「ブラボー」は日本語でもやっぱり「ブラボー」

ライプツィヒ時代1725年のカンタータ5
会場:東京オペラシティ コンサートホール
2006年7月27日

最初は最低の状態だった……。
だが途中からなんとか持ち直した!

--と、書くとまるでBCJの演奏が最初ひどかったように思われるだろうが、実はこれは私自身σ(^-^;)のことを書いたんである。
ここ数ヶ月、更年期障害がもうひどくてひどくて、この日もそうだった。なんか頭の奥がボーッと痺れたような状態でモーローとしていた。
で、コンサートの前に映画を観てきたのだが、ボーッとしてると人間関係やら何やら分からなくなってしまうような調子だった。そして復調しないままオペラシティへ。

というわけで、冒頭のオルガン曲とカンタータ1曲目のBWV128についてはどうか聞かんででくれい(>_<) もうほとんど何も覚えていない。
2曲目(BWV176)になってようやく開始前に摂取したコーヒーのカフェイン(と、ついでにケーキ(^^;)が効いてきたのか、頭の中がハッキリしてくる。
冒頭の合唱曲がテキストの内容に合わせたのか、鋭い感じで印象に残った。普段はチェンバロを新人さん(?)が弾いているのをレチタティーヴォになると鈴木(兄)が座って弾き振りする、という昔のスタイルに戻っていた。

3曲目(BWV87)は冒頭合唱がなくていきなりバスのアリアで始まる。5番目のアリアのバスも良かった。オーボエ2本とチェロだけが伴奏なのだが、鈴木(弟)のチェロのフレーズの音色がこりゃたまらん \(^o^)/

ラストの(BWV74)はトランペットも入って極めて祝祭的な感じの曲。3曲目もそうだったが、テノールの櫻田亮が超が付く熱演。この日は外国人テノールの代役だったらしいが、祝祭的な曲調に合わせて晴れ晴れとした明晰な歌いぶりでピッタリはまっていた。

というわけで今回は櫻田さんの活躍が目立ったが、代わりにカウンターテナーのロビン君が声の調子が悪いらしく、中音部がかれてしまってパッとしなかった。

それからふと疑問に思ったのだが、オーボエの三宮氏(&尾崎さん)てどこのグループのコンサートでも、バロックオーボエというと登場しているような印象で引っ張りダコみたいなんだけど、他の人はいないんか?


【関連リンク】
他のブログから
「フーゾクDXの仕事の合間に小一時間」より《【またまた】BCJ第73回定期演奏会【やって来ました】》

「Faisons volte-face !」より《魅せられる悦び ―BCJ第73回定期演奏会》

「ooOOoO clapier oOOooOo」より《[音楽]BCJ@オペラシティ》
櫻田さんについての感想が逆なんでちとビックリ。座席の位置によって、聞こえ方が違ってくるのかしらん?

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2006年8月 1日 (火)

ク・ナウカ「トリスタンとイゾルデ」:ああー♪ワーグナーは今日も鬱陶しかった~

作:リヒャルト・ワーグナー
演出・台本:宮城聡
会場:東京国立博物館庭園 特設舞台
2006年7月24日~30日

梅雨明けの最も雨の少ない時期を選んだらしいが、見事にあいにくの長雨。前日の夜も降っていて、どーなることかと思っていたがなんとか雨は免れた。ホッ。
代わりにムシムシして参ったけど。

ワーグナーの有名なオペラの台本だけを使い、別の音楽をつけてク・ナウカお得意の二人一役で演じたもの。再演だそうである。
--と、聞くと全編新しい音楽がつけられているのかと思ったら、そんな事はなくて効果音程度にたまにしか流されなかった。
で、音楽が取り払われたことでさらにワーグナーのテキストのうっとうしさが倍増。もう、勘弁してくれーってな感じだ。

しかも、今回は「二人一役」システムの欠陥が出てしまったような。饒舌なセリフに対して極めて押さえられた身体の動きに、妙に白けてしまった。例えば、三幕目の病に伏せるトリスタンの詠嘆場では膨大な長セリフが語られるが、役者の身体の動きとして観客に見せられるのは単に手首をピクピク動かしているだけなのである。なんだか、見ていておかしくなっちゃう。
さすがに美加理になるとちょっとした所作でも場を持たせられていたが……。

照明はとてもキレイでよかった。都市特有の雑音に満ちた舞台の雰囲気や明るい曇天の夜空もミステリアスであったよ。

会場で配られたリーフレットによると、宮城聡はこの劇を「「近代」という檻から解放しようともろんでいる」とのことらしいが、それは成功しているとは言いがたい。なぜなら、このワーグナーの「うっとうしさ」こそ近代そのもの。それを解放するには全てをぶち壊すか、無化するしかあるまい。

「トリスタンとイゾルデ」と言えば、以前ジョエル・コーエン&ボストン・カメラータによる音楽劇を見た(聴いた)ことがある。中世フランス・ドイツの恋愛詩を元に展開する野蛮にして原初的な伝説譚こそ「非近代」の名に相応しかったように思う。

【補足】
近代の「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」とは男女が互いに唯一の存在と認め合い、さらにその間に「愛・性・結婚」の三位一体の合一を至上とするものである。しかも、その選択が両者の自由意志によって行なわれるということもキモだ。
宮城聡はこの物語に登場する媚薬が、その近代的恋愛観を壊すものと解釈している。つまり、媚薬を飲めば誰と誰であろうがどんな組み合わせでもありうる。唯一至上の相手など最初から存在しない、ということだろう。
だが、これでは解釈が逆ではないか。二人の男女間に突然浮上する強い情動--この不可思議な作用を、中世の人々はあまりにも強く不可解なので魔法(すなわち「媚薬」)として解釈したのであろう。別に媚薬があれば誰でもいいって話ではない。
伝説のイゾルデは王との初夜を嫌がって身代わりに侍女を行かせたり、策略をめぐらせたりして相当にイヤな女である。まあ、そういう所に「近代」と「前近代」の差があるんじゃないかな。


さて、家へ帰ってバッグの中身を整理してたらなぜか劇団側が受付で貸してくれた雨ガッパが出てきてビックリ。

え゛え゛ーっ!ちゃんと帰る時に返したのになんで~~(>O<)

なんと、私は持ってきてた自分の雨ガッパを間違えて返してしまったのであった!
どうしよう(;_;)グスン

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