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2006年8月 1日 (火)

ク・ナウカ「トリスタンとイゾルデ」:ああー♪ワーグナーは今日も鬱陶しかった~

作:リヒャルト・ワーグナー
演出・台本:宮城聡
会場:東京国立博物館庭園 特設舞台
2006年7月24日~30日

梅雨明けの最も雨の少ない時期を選んだらしいが、見事にあいにくの長雨。前日の夜も降っていて、どーなることかと思っていたがなんとか雨は免れた。ホッ。
代わりにムシムシして参ったけど。

ワーグナーの有名なオペラの台本だけを使い、別の音楽をつけてク・ナウカお得意の二人一役で演じたもの。再演だそうである。
--と、聞くと全編新しい音楽がつけられているのかと思ったら、そんな事はなくて効果音程度にたまにしか流されなかった。
で、音楽が取り払われたことでさらにワーグナーのテキストのうっとうしさが倍増。もう、勘弁してくれーってな感じだ。

しかも、今回は「二人一役」システムの欠陥が出てしまったような。饒舌なセリフに対して極めて押さえられた身体の動きに、妙に白けてしまった。例えば、三幕目の病に伏せるトリスタンの詠嘆場では膨大な長セリフが語られるが、役者の身体の動きとして観客に見せられるのは単に手首をピクピク動かしているだけなのである。なんだか、見ていておかしくなっちゃう。
さすがに美加理になるとちょっとした所作でも場を持たせられていたが……。

照明はとてもキレイでよかった。都市特有の雑音に満ちた舞台の雰囲気や明るい曇天の夜空もミステリアスであったよ。

会場で配られたリーフレットによると、宮城聡はこの劇を「「近代」という檻から解放しようともろんでいる」とのことらしいが、それは成功しているとは言いがたい。なぜなら、このワーグナーの「うっとうしさ」こそ近代そのもの。それを解放するには全てをぶち壊すか、無化するしかあるまい。

「トリスタンとイゾルデ」と言えば、以前ジョエル・コーエン&ボストン・カメラータによる音楽劇を見た(聴いた)ことがある。中世フランス・ドイツの恋愛詩を元に展開する野蛮にして原初的な伝説譚こそ「非近代」の名に相応しかったように思う。

【補足】
近代の「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」とは男女が互いに唯一の存在と認め合い、さらにその間に「愛・性・結婚」の三位一体の合一を至上とするものである。しかも、その選択が両者の自由意志によって行なわれるということもキモだ。
宮城聡はこの物語に登場する媚薬が、その近代的恋愛観を壊すものと解釈している。つまり、媚薬を飲めば誰と誰であろうがどんな組み合わせでもありうる。唯一至上の相手など最初から存在しない、ということだろう。
だが、これでは解釈が逆ではないか。二人の男女間に突然浮上する強い情動--この不可思議な作用を、中世の人々はあまりにも強く不可解なので魔法(すなわち「媚薬」)として解釈したのであろう。別に媚薬があれば誰でもいいって話ではない。
伝説のイゾルデは王との初夜を嫌がって身代わりに侍女を行かせたり、策略をめぐらせたりして相当にイヤな女である。まあ、そういう所に「近代」と「前近代」の差があるんじゃないかな。


さて、家へ帰ってバッグの中身を整理してたらなぜか劇団側が受付で貸してくれた雨ガッパが出てきてビックリ。

え゛え゛ーっ!ちゃんと帰る時に返したのになんで~~(>O<)

なんと、私は持ってきてた自分の雨ガッパを間違えて返してしまったのであった!
どうしよう(;_;)グスン

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