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2006年9月

2006年9月30日 (土)

「グエムル 漢江の怪物」:人を食ってるのは--怪物でなくて監督の方だっ

監督:ポン・ジュノ
出演:ソン・ガンホ、ピョン・ヒボン
韓国2006年

「グムエル一枚!」と勢いよく言ってしまった私である。しかし、窓口のおねーさんは全く気に留めず「はい、グムエルお一人様ですね」とチケットを売ってくれたのであった。ムニエルぢゃないよ、紛らわしい(>_<)

『吠える犬は噛まない』『殺人の追憶』と全く異なったジャンルの作品を作って異彩を放ってきたポン・ジュノの新作は、なんとモンスター映画である。前作がシリアス作品で成功しちまったもんで色々悩んだそうだが、またも大胆な路線変更、今度はそう来たか~!ってなもんである。
しかも、韓国本国では歴代記録を塗り替える大ヒット。ヒットし過ぎてキム・ギドクがブチ切れてTV番組で批判し韓国映画界引退宣言まで出してしまったり、それに対してネットで抗議が殺到--などリング外での話題も尽きまじなのだ。

普段はあまり怪獣やモンスターは興味がないのだが、ポン・ジュノの新作とあっては見に行かずばなるまい--ということで足を運んでみた。
で、結果は快作・怪作・掻作……ポン・ジュノやったね! \(^o^)/

冒頭からモンスター大暴れ。それに対する市民の反応の描き方もあくまで日常の観点から見ていて面白い。「ありゃ、なんだ?」とかみんなでガヤガヤしてたりして--確かに最初から「怪物だーっ(>O<)」と分かるヤツはいないだろう。
怪物から遠ざかろうと懸命に逃げてるつもりで同じ方向に走ってる、なんてのも意外とありそうで笑ってしまう。

さらにその後の怪物に殺された被害者の合同葬儀では、『吠える犬~』風の脱力系笑いが連打。例えば、主人公の家族が祭壇の前で号泣。そのあまりの嘆きように見てて「うむうむ、韓国風の悼み方ってこうなんだよね」なんて思ってるうちに、「いくらなんでもこりゃ大袈裟過ぎないか」と観客の側に疑念がわいてきた途端に、その家族をマスコミが取り囲んでバシャバシャ写真を撮りまくる--という次第。
続いて違法駐車呼び出しやら防護服男の「テレビで……やってない!」騒ぎやら笑いとシリアス緩急自在のテンポである。

で、キメる所はキマってるし泣き所のツボは押さえてるし家族愛は謳われてるし、一方グロな所も直接描写は無いものの結構嬉しそうに(?)出している。
しかも、登場する人物が主人公となる父親を始めほとんどロクでないヤツばかり。ヒーローっぽいヤツは皆無である。ただ一人だけマトモな人物が出てくるが、その運命は……だしねえ。おまけに警察も軍隊もマスコミも頼りにならないどころか敵に回ってしまう。
こんなどーしようもない一家が怪物に戦いを挑むなんて最高ですっヽ(^^)/\(^^)、

一家を演じてるのはこれまでのポン・ジュノ作品ではおなじみの面々。特に祖父役は『吠える犬~』の犬鍋警備員のピョン・ヒボンでやんすね。今回も好演。ソン・ガンホのダメ親父も本当にダメダメで素晴らしい。

この映画は、在韓米軍が劇薬を下水に流したという実際にあった事件を元にしているという。シリアスな場面に必ず脱力ユーモアを抱き合わせずにはいられないというのは、監督自身の強烈なシニシズムだろうが、同時に自らも含む社会・歴史・人間に対する冷徹な観察眼と批判精神に裏打ちされている。それはどこの国の映画だろうが、なかなか見つけることのできないものだ。

とはいえ、この脱力系笑いとテンポは受け入れる人を選ぶだろう。主人公が人体実験から逃れて建物を出るとそこの河原で米軍が行なっていたのは、なんと!--という件りにはさすがに私もボーゼンとして「なんだ、こりゃ」と思ったが、観賞後約十二時間ぐらいに突然思い出して爆笑してしまった。
いや、確かに河原でやるったら最高のものだけどね……ホントにやらせるかー!ってなもん。ギャハハハハー(^○^) ポン・ジュノやっぱり人を食ってるヤツである。(←注:もちろんホメ言葉)
キム・ギドクにけなされても、日本で客が不入りだろうと気にせず、これからも我が道を歩んで人を食ったカイ作を作って欲しい。どんなジャンルだろうと見に行くぞー。


それにしてもネット上の批判意見にはちょっと驚いた。内容が嫌米なのに米国の会社に特撮頼むのはおかしいとか、警察や軍隊が何もしないのは変だとか、家族仲が悪いのはどーのこーのとか……。まるで、娯楽映画は全て好米で軍隊と警察が立派で家族はみんな仲良くてハッピーエンドでなくてはいけないみたいである。文科省推薦映画ぢゃあるめえし。そんなもん見たくねーよ。


主観点:8点
客観点:7点(人を選ぶので)


【関連リンク】
こちらの感想もどうぞ
「ようこそ劇場へ!」
「愛すべき映画たち」

映画版『パトレイバー』からの盗作疑惑について
「秋葉と京ぽん」《グエムルはパトレイバー3か?》

ポン・ジュノのフィルモグラフィー。『南極日誌』の脚本なんてのもやってるんですね。
「海から始まる!?」《完全版! ポン・ジュノ》

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2006年9月21日 (木)

チケット入手を完全に失念す

「よしっ、明日はアーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのオール・バッハ・プログラムの発売日だ('-')」と私は19日にカレンダーをチェックした--はずだった。

だが、当日20日になった時はすっ~かり忘れてた!

そして思い出したのは日付が21日になってからだった。
あわてて「ぴあ」をチェックしてみると、既にS席\19000からC席\9000に至るまで全て完売印がついていたのだった。

もうダメだ……_| ̄|○

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2006年9月18日 (月)

「天使と罪の街」上・下:探偵はやっぱりツライのか

作:マイクル・コナリー
講談社文庫2006年

もう最近は小説はほとんど読んでない。読んでるのはこのマイクル・コナリーとイアン・ランキンぐらい。昔よく読んでたハードボイルド系ミステリーは原作者が終了させたのもあるが、本国で出版されているのに日本で訳されなくなってしまったものも多い。日本ではやはりミステリー・バブル時代は終わってしまったようだのう(T_T)

で、待ちに待ったボッシュ・シリーズの新作デターッ!
刑事を辞めて私立探偵へと転業したボッシュの活躍が前作であった。今度はいきなり「あの人」が死んじゃっててビックリ。その死の謎の解明を依頼される。

最初の数十ページを読み始めて、過去作品のボッシュ物でない『ザ・ポエット』(扶桑社文庫)がかなり絡んでいると分かって、いったんこちらを読むのを止めて『ザ・ポエット』を再読し始めた。出版されてから約十年、覚えているのは「えーとえーと、シリアルキラー物で新聞記者が主人公でFBIが出て来て……それからどうしたかな(?_?)」状態だったからである。

で、再読してみて思ったのは、こりゃ傑作です!ということ。いやー、面白かった。こんなに面白かったとは……忘れてたよ(火暴)
終盤の主人公の行動のイタさも余計に身にしみた(自分が年取ったせいかね)。そのイタイ部分もちゃんと途中で伏線が張ってある。あっという間に読み終わって、ひたすら感心したのであった。

さて、また本作に戻ると『ザ・ポエット』の犯人が復活か?という話になる。物語はFBI側の三人称と、ボッシュ側の一人称(私立探偵としての定番)で交互に語られる。中には数ページごとに双方が入れ替わる場面さえある。もちろんそれは作者が計算してのことだろう。

謎のほとんどが解明された後のクライマックスとなる嵐の描写は見事だ。極めて映像的な描写だが、恐らく映画にしたとしてもこのような迫力あるものにはできないだろう。
そして最後の最後に全てのピースが完全に当てはまる。その結果はやはり苦いものだ。
文章にしろ構成にしろストーリーにしろ、何を取っても文句なしの一作であった。

さて、これで私立探偵遍歴編は終わりという事になるんだろうかね。やはり探偵ものは書きにくかったのだろうか--なんて作者の内部事情が気になる。
あと、作中にイアン・ランキンの名前がちょこっと出てきて、やはりM・コナリーも愛読してるのだろうか、などということもまた気になった。


これから読もうという人は絶対に『ザ・ポエット』を先に読むことをお勧めする。だって犯人が完全にバラされちゃってるからさ。あれほどの傑作を読まずにネタバレじゃあ勿体ない。
折しも、扶桑社文庫では『ザ・ポエット』を増刷したらしく本屋で平積みになっていた。麗しき連係プレーですねえ(感動)。

ただ、タイトルの付け方は扶桑社時代の方が良かったと思う。だーって、あなた『夜より暗き闇』に『暗く聖なる夜』に『天使と罪の街』ですよ。五年経ったらどれがどれやら絶対区別付かなくなってるって。

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2006年9月17日 (日)

「Bless B Quintet(ブレス・ビー・クインテット)」:感心はすれども感動はせず

ポリフォニー音楽の美味しいトコどり
会場:東京オペラシティ近江楽堂
2006年9月9日

会場に入って驚いた。開演までまだ20分ぐらいあるのに既にほとんど座席は埋まっていて、しかもその大半は三十~五十代のマダムなんである。男はホントに一握りしかいない。しかも、互いに顔見知りらしくて入口から入ってくる客の多くが、客席に向かって会釈するのだ。何かのサークルかファンクラブか門下生なのか?

BBQは女二人男三人の声楽アンサンブルである。バリトンの人以外はBCJなどでもおなじみの人であった。
ただし会場のセッティングが珍しいもので、真ん中に星型に五つの木の台がドーンと置いてあって、五人は客席に背を向けて互いに向き合って歌う。客席はその周りを取り巻くようにして配置してあるのだ。近江楽堂の反響の特性から、この配置がよく響くのだという。

ただ、客席からだと歌手の顔のあたりを見ようとすると照明が眩しいし、その下あたりに目を落とすと今度は向かい側に座っている客と目線が合ってしまう。従って足元の床でも見ている他はなくなってしまうのであった。どーすりゃいいのよ。
そんなこんなの外的要因のためになかなか集中することができなかった。

ブログラムは前半がフランスのシャンソンでル・ジュヌ、セルトン、ジャヌカンなど。「鳥の歌」などクレマン・ジャヌカン・アンサンブルが十八番にしている曲も幾つかあって、そういうのはどうしても無意識に聴き比べてしまう。端正な歌唱ではなくて、生き生きととしたテキストを重視した歌い方を取っているので余計に、である。

後半はやはりルネサンス期の教会音楽で、クレメンス・ノン・パパ、パレストリーナ、ラッススなどこちらも互いのアンサンブルを重視した歌い方だった。

曲目によって人数が変わり歌い手が出たり入ったりするなどした。歌手同士気心が知れた仲のようで、全体的に和気あいあいとしてリラックスした雰囲気。
また、それぞれの実力もよく堪能できた聴き甲斐のあるコンサートだったと思う。

しかし、だからといって楽しめたかというとそういう訳ではなかった。なんか聞き手としては置いてけぼりを食ったような印象だった。あーら、皆さん楽しそうに歌ってらっしゃるわね、みたいな感じ。(もちろんこれは私だけの話だ)

ルネサンス時代の声楽というのはそんなに頻繁にコンサートがある訳ではないので、機会があれば聴きたいと思うのだが、このグループに関しては次に行くことはないだろう。

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2006年9月14日 (木)

「バロックでつづる音楽史の旅」:これであなたもバロック通--になれるか?

出演:ムジカ・レセルヴァータ
会場:東京オペラシティ・リサイタルホール
2006年9月7日

「ハートフェルト・コンサート」という専ら小規模な会場で開催するコンサートシリーズの一つ。この一晩でヨーロッパ各国のバロック史を全てさらってしまおうという、時空を駆け巡る大胆な企画である。
いやそれとも、各曲のいいトコ取りをした「ベストクラシック」ならぬ「ベストバロック」なのであろうか。

ともかく前半はモンテヴェルディ、カステッロ、ヴィヴァルディ、ダウランド、パーセル、後半はリュリ、マレ、クープラン、テレマン、そしてラストはバッハの「結婚カンタータ」--ともうテンコ盛りだ~。
組曲などは、全曲演奏でなくて抜粋なので「ああもうちょっとそれ聴きたいっ」と思っても次に行ってしまうのがチトくやしい。

器楽陣は鍵盤の岡田龍之介、ヴァイオリンの桐山健志を始め堅実な演奏を聴かせてくれた。中でも特に、櫻井茂はヴィオローネで縁の下の力持ち通奏低音をつとめ、マレではガンバの独奏をやり、さらにクープランではアンサンブルの中心となって演奏。まさに八面六臂の大活躍。ス・テ・キッ(*^-^*)
一方ソプラノの松永知子という人は、ちょっと押しが弱い印象で今イチだった。

演奏者の面子は遜色ないと思ったが、客席は半分ぐらいしか埋まってなくてちょっと意外だった。しかも、年齢がかなり高めの奥様っぽい人が多い。明らかに、普段のバロック系の客層とは違う。
「ハートフェルトコンサート」という連続企画シリーズの一つなので、バロックのファンというよりそのシリーズの常連らしい人が多いように思えた(あくまでも推測)。そういう聴衆に対してはまさに入門編という感じだったかも知れない。

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2006年9月12日 (火)

「トランスアメリカ」:全体的にヌルい印象

監督:ダンカン・タッカー
出演:フェリシティ・ハフマン、ケヴィン・ゼガーズ
米国2005年

主演のフェリシティ・ハフマンがオスカーの主演女優賞にノミネートされて話題になった映画。ようやく単館扱いで公開である。

性同一性障害で女性になるための最後の手術を控えた主人公が突然、自分に息子がいたのを知ってビックリ。自分の正体を隠して息子と共にニューヨークからLAへと向かう羽目になる。形式的には完全にロードムービーであり、途上で自分の家族を含めて様々な人々と遭遇する。

だが、少し前に同じくロードムービーの『プリシラ』を見ていたんで、なんだかあれに比べて全てがヌルく感じられた。別にエキセントリックな部分が足りないというのではなくて、作り手の「こうすれば感動的だろう」というような意図があけすけに受け取れたからである。そのため、却って感動できなかった。

F・ハフマンは性的に錯綜した役柄を見事に演じている。声とか動作とか--。さすが、オスカー・ノミネートだけのことはありって感じですか。
薬の副作用に苦しんだりボイス・トレーニングしたりなどトランスセクシャルの具体的な悩みがさりげなく描かれているが、むしろ私は実は男であることを知られた後の若者の反応の方が精神的に辛く感じられた。バカにして嘲笑するような態度や、みんなにバラシまくるんじゃないのかとヒヤヒヤした。「男はつらいよ」よりも、男から女になるのはつらいよ、というところだろう。

ミクシィの感想に、この物語で成長するのは息子ではなくて主人公の方だ、というのがあったが納得である。主人公はこれまで大学もちゃんと卒業できず、何もかも中途半端だったが、最後に手術をやり遂げ、新たに大学に行き直そうと決心する。

日本の役者でもしこの役をやるとしたら--と考えたら銀粉蝶しかいないんではないかと思った。もっとも友人に「銀粉蝶は最近、TVドラマでフツーのおばさんやってるよ」と教えられて驚いた。ええーっ(!o!)あの比類なき怪女優がフツーのオバハンとは……日本の未来も暗いのう( -o-) sigh...

息子役のゼガーズ君は評判いいようだが、私には母性愛も父性愛もかきたてられることなく、ただうっとーしく感じた。もうちょっと悪ガキっぽい方がよかった。美形過ぎのところがまたなんだか作り手が狙っているような気がしてイヤ~ン。
バート・ヤングが完全に好々爺の役で出ていた。歳取りましたねえ……。

見終った後、他者の受容という事をつらつら考えた。もし親しい友人や家族から「性転換したい」と言われたら、私はビックリするだろうが反対はしないだろう。だが、ポルノ俳優になりたいといわれたら「絶対に許さーん(>O<)」と叫ぶに違いない。それどころか自分の家の中でタバコ吸っていいかと聞かれたら、たとえ外が零下三十度だろうと「外で吸って」と言うだろう。
何を受け入れるかというのは人それぞれで異なるものである。
--だからと言って、この映画の評価は変わらないのだが。


主観点:6点
客観点:7点

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2006年9月10日 (日)

「天正少年使節と音楽の旅 1 聖なる調べ編」:先生のおやじギャグ炸裂

長崎からローマへ
出演:鈴木雅明、バッハ・コレギウム・ジャパン、皆川達夫
会場サントリーホール大ホール
2006年9月3日

天正少年使節の旅の中で彼らと共にあった音楽をたどるレクチャーコンサートの前半。この時期はキリスト教と共に日本人が初めて「洋楽」と遭遇した時代とのこと。

今回は長崎を出て苦労を重ねて航海し、ポルトガル経由でついにローマで法王に謁見するまで。
演奏されたのはグレゴリオ聖歌からオルティス、ムダーラ、ビクトリア、パレストリーナ、フレスコバルディなど、宗教曲に世俗歌曲に器楽曲など様々である。

出演者はBCJの声楽陣のセレクトメンバー(野々下さんの独唱付き)に、ガンバが福沢宏、鍵盤が大塚直哉だし、さらに水戸茂雄のビウエラも良かったなー……と豪華。おまけに少年使節達が踊る件りではルネサンスダンスの実演あり、さらに皆川先生の解説とダジャレまで付いて四千円とは安過ぎだ~ \(^o^)/

次回も一緒にチケットを買ったので行く予定。次は日本に戻る旅と、さらに帰国して以降も苦難の連続になるんですかね。
今回はちょっと遅刻(またもや、ですが)してしまったので、ちゃんと間に合うように行くぞ。

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「ジャナイナ・チェッペ展」:絶望か陶酔か

会場:トーキョーワンダーサイト渋谷
2006年7月20日-8月27日

「モダン・パラダイス展」を見に行った時にチラシを見つけて興味を持った。で、いつから始まるんだろうと思ってよくよく見たら、もうとっくにやっていて、なんとあと数日で会期終了ではないか!
ということで、あわてて終了日に駆けつけたのであった。しかし、時間配分を間違えて30分弱しか時間が取れなかった(+_+)トホホ

J・チェッペはドイツ生まれブラジル育ちの女性アーティスト。作品はドローイング、写真、モニターで流されるビデオ、さらに部屋を丸ごと使った映像インスタレーションがあった。ドローイング以外は自分自身が登場して演じている。

一番面白くて迫力があったのはやはり部屋全体を使ったものだろう。一つは三方の壁に映写して残った一面の壁際に座って鑑賞する。もう一つは四方全部に(確か布の幕が垂らしてあったと思う)投影して、鑑賞者は色んな場所や角度から自由に眺めるもの。

前者は川の中や森で、長い布や風船みたいなものや巨大な管状のものを身にまとってチェッペ自身が横たわり、蠢いたりするのを延々と撮っている。
後者はやはり布やら管やらを巻きつけて、さらに酸素のホースを口に加えて、完全に海中に沈んで泳いでいる(カメラも水中から撮影)。四方にこの映像が流れる部屋の中に立っていると、自分も海中の中に沈んでいるような不思議な気分になってくる。長い時間をかけてひたっていたかったが時間がなくて残念無念。
ただ、狭いスペースなので客が二人になってしまうと互いに視界内に入ってしまい、ちょっと恥ずかしくて困っちゃうのよ(^^ゞ

映像の中の作者は海の中の竜宮の乙姫様のようであり、得体の知れぬヒラヒラした軟体動物のようであり、とてつもなく自由に見えるが同時に拘束されているようにも思える。遠い未来の強靭なサイボーグであり、また遠い過去に呪いに捉えられた魔女にも見える。その表情は恍惚なのか苦悶なのか真摯なのか区別がつかない。そして美しく、痛ましく、さらにエロくもあるのだ。
このように巨大な映像から送りつけられてくる、相反する複雑な「女性」のイメージに見る側も混乱していくようだ……。

J・チェッペ、ただ者ではないなという印象である。


トーキョーワンダーサイト渋谷って初めて行ったのだが、こんな渋谷でいつも歩いてる場所にあったとは--全然知りませんでしたです。


【関連リンク】
公式ページ

いかに正反対のイメージを与えているかという例。同じものを見てもこのように違う。
「pop nomad」
「はろるど・わーど」

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2006年9月 8日 (金)

「蟻の兵隊」:未だ戦中である

監督:池谷薫
出演:奥村和一
日本2005年

80歳の元日本兵を追ったドキュメンタリー。地道な運動で上映に至ったという。
司令官に詐欺同然に騙され、敗戦後も中国で戦わされ、戦死者五百人以上も出した上で捕虜になってようやく日本に帰ってきたら、国から足蹴にされる扱いを受けた人々がいる。主人公の奥村氏はその一人である。
国を相手に裁判を起こすも敗訴。それも当然だろう。降伏したのに正式な命令系統によって戦闘を続けたなんてあってはならないことだ。だから彼らの訴えは絶対認められることはないのである。

カメラは奥村氏に密着取材。靖国、裁判所、さらには自分がかつていた中国の地へと赴き様々な人と会う(そこで彼は意外な一面を見せる)。それは自らの過去を探る旅でもある。
過去に似た題材のドキュメンタリーに「ゆきゆきて、神軍」があり、かなり意識して作っているようだが、奥村氏はあれほどエキセントリックなキャラクターではない。

テーマも題材も文句はないし、1時間40分飽きるような事はない--が、大絶賛とまでは行かないのは専らドキュメンタリーとしてのスタイルに問題があるように思えた。
奥村氏の人物像に焦点を当てるのか、事件そのものの異常性を追うのか。どっちつかずでどちらにも成功してないように思えた。

さらに監督がTV出身のせいだろうか、やたらと顔のドアップが多くて参った。人物の顔をドアップにした上、その人が顔を動かすとカメラも一緒に動くのである。TVモニターならまだしも、映画館の大きなスクリーンでこれをやられると大変だ。私はうっかり前の方の席に座ってしまったため、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』ほどではないが、目が回ってしまった。(@_@)
なんでこんな撮り方をするのか分からない。顔をドアップにすれば真実もまた見えてくるとでも言うのだろうか。

それから冒頭の女子高生たちが登場する場面はほめている人が多いが、私は不愉快に感じた。何か事があると、すぐ渋谷の女子高生と新橋のサラリーマン(しかも酔っ払っている)にインタビューしてみるTVワイドショーみたいだ。どうせなら、新橋の酔っ払いオヤヂたちにも同じように取材したらよかったのにさっ。

いずれにしろ、奥村氏が指摘するように、個々の兵士とは関係なく軍隊とは暴力的な本質を持つということ。そして、国家というものは一定の枠からはみ出た者に対してはとことん冷たく切り捨てるものである。そのことはよーく分かるように描かれていた。

さて、私の父親は彼より少し年上で徴兵されて満州に数年間いたのだが、その間何があったのかということはやはり一言も話さなかった。しかも戦友会には嬉しそうによく行っていたのだ。一体かの地で何をやってたのか、非常に怪しく思う。こういう話はゴマンとあるに違いない。隠されたままもはや永遠に出て来ないだろうが。


靖国の場面で、昔リアルタイムで兵士だった人ならまだしも、今どきの若いモンが旧日本軍の兵隊のコスプレして行進しているのはどうかと思った。死者への冒涜にならんのかい?


主観点:6点(ちとキビシ過ぎか)
客観点:8点

【追記】
ミクシィの方に、この作品の上映運動をやっている人が、映画の中のささいなことにケチをつけるてる感想は全く本質的なことを見てない、本質的な事はこの映画が多くの人による支持によって上映運動が行なわれ公開されたことである--ということを日記に書いていた。
その、ささいなことにケチを付けているヤツの中に明らかに私も入っていたので、ついコメントを付けて質問してしまった。

確かに実際に苦労して上映運動している人たちにとって、年に何十本か見る映画の中の一つとして消費された揚げ句「音楽が良くない」などと一言で片付けられたらたまらんだろう。そんな作品の感想はあくまで作品論であって、ものの本質を見ていない、と言われても仕方ない。
しかし、下手するとその背後に「この映画は上映運動してきた私たちのもの、奥村氏は私たちのもの、外部の者がケチ付けるな」という排他的なものや「メッセージやテーマが大切なんで映画の出来なんかどうでもいい」という考えが存在するのではないか。さらには「ドシロートと部外者はすっこんでろい」と言っているようにも聞こえる。まあ、確かに政治的な面で色々攻撃や圧力がありそうだからしょうがないとは思うけどね。
そう言われたら「はあ、そうですか、よそ者は二度とこれについては語りません、。見なかったことにします」としか返事できない。

ただ、私が上記の女子高生いじりや顔のドアップについて書いたのは本質に無関係なケチ付けではない。そのような手法にかいまみえる制作者側の人間に対する根本的な見方が、この映画を損なっているのではないか、という事を言いたかったのである。


【関連リンク】
「かせだプロジェクト」
↑当時満州にいた方の感想
「BLOG IN PREPARATION」

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2006年9月 3日 (日)

「モダン・パラダイス」「ばらばらになった身体」他:正味2時間見まくり続けました

*モダン・パラダイス 大原美術館・東京国立近代美術館東西名画の饗宴
2006年8月15日~10月15日
*ばらばらになった身体
2006年8月5日~10月15日
会場:東京国立近代美術館

「モダン・パラダイス」展は大原美術館から有名どころの作品を借りて、東西二つの美術館の名作を一挙公開 \(^o^)/ 一つで二度おいしい--みたいな企画だろうか。要は東京にいながら大原美術館の名品を鑑賞できるという所がポイントですね。
一応、「光あれ」とか「心のかたち」とか各セクションごとにタイトルがついて分けられているが、あんまり意味はなさそう。とにかく、マチスやら古賀春江やら石内都やらポロックやらなんでもありなのだ。目移りしちゃうよ~(@_@)

一番目を引いたのは藤田嗣治の戦争画『血戦ガダルカナル』である。かなりの大作だが、全体が暗茶色に塗られた中、肉弾戦で闘っている兵士達の誰が日本軍で誰が米軍なのか、それどころか誰が生者で誰が死者なのかも定かでなく、ただ恐ろしい形相で蠢いている。さらに画面の奥の方の海ではドドーンと稲妻が落ちてたりして、あまりの鬼気迫る様相に見ているとギャー(>O<)と叫びたくなる。これはもはや西洋中世の地獄絵の域だろう。あるいは最後の審判か、世界の終末の図か……。
『地獄の黙示録』の遥か前に「恐怖」はここに描かれていたようだ。私はこの近美の前回の企画だった「藤田嗣治」展を見に行けばよかったと思ったほどだ。

同じ区画に戦争を題材とした作品が集められていたようで、どれもなかなかに名作揃いだった。簡素な線と色彩が美しいピカソの『頭蓋骨のある静物』、それと比較されている靉光の『眼のある風景』(←これは違うか)、ジャン・フォートリエの『人質』……。タイトルがやけに目を引くフンデルトワッサー『血の雨の中の家々--あるオーストリア・ユダヤ人を慟哭させた絵』は、いかにもフンデルトワッサー風の幾何学模様で描かれた家並みにこれまたクッキリハッキリした丸く赤い雨が降っている絵なのだが、よくよく見ると真ん中あたりにコーヒーをぶっかけたような焦げ茶色のシミがあるのだ。タイトルとあいまってなんだか謎を感じる。
しかし、いくらそれぞれが力作であっても、これだけスタイルも何もかも違う作品が間近に並んでいると、チト散漫な印象になってしまってた。

それ以外に衝撃を受けたのはゲルハルト・リヒターの『抽象絵画(赤)』だった。メタリックな灰色の下にかすれた赤が見え隠れする大作は圧倒的な迫力! それこそ、私は一日がかりでも千葉でやったリヒター展に行けばよかったと心から後悔した。
もし、あの作品の前で _| ̄|○ というポーズを取ってたヤツを見かけたら、それは間違いなく私σ(^-^;)です。


次に所蔵作品展の「近代日本の美術」を見る。上の階から明治初期と時代順になっていて下に行くほど新しい作品になる。4階にあった『騎龍観音』というのはでっかい宗教画で、名作なんだろうけど色といいタッチといい構図(龍の頭に観音様が乗っている)といい、なんだか新興宗教の本のさし絵みたいで笑ってしまった。

3階には美術の教科書に出てくるような名作がゴーロゴロと転がって--じゃなくて展示してあった。中で靉光の苦悩に満ちた『自画像』が目を引く。
それから所蔵展とは関係なく?隅の閉ざされたスペースを丸ごと使ったインスタレーションの『景留斜継』という最近の作品があった。あんまり隅過ぎて気付かない人も多いんじゃないだろか。

さて、ここで一番のお目当ては、実は版画コーナーの駒井哲郎・清宮質文特集。オペラシティのアートギャラリーで見た清宮質文の変な版画が忘れられねえ~、ということで楽しみにしてたのだが、なんと彼の作品は7枚しかなかった。でも、頑張って一枚一枚くっ付くようにして(「お客さま、作品に顔を付けないで下さい」とは注意されなかったよ。ホッ)見てきた。
一番気に入ったのは『行手の花火』というやつ。暗い紺色で描かれた闇の中をやや灰色がかった一本道が通っている。途中にポツポツあるのは電柱か街頭だろうか。その先の夜空に花火が打ち上げられるが、本当にほのかな赤い点で描かれているに過ぎない。その花火は生命力というより、はかなげで瞬時に消え失せてしまうような何かを表わしているようだ。
とても、うら悲しくもの寂しい作品である。

家へ帰ってネット検索してみると、「インゴ・マウラー展」の記事内でも紹介した同じ人のコラムにやはりこの作品についての文章があった。(「SHINOBAZUコラム74」)実際にこれを見たせいもあって、今度は読んで号泣してしまったよ(ToT)ドドーッ

さらに続いて2階へ降りてもう一つのお目当て「ばらばらになった身体」を見る。頭・手・胴体--と身体の部分に焦点を当てたテーマ展示である。思ったより作品数が少なくてちょっと期待外れだった。サルガドの『セラ・ペラダ金山』からは鉱山労働者たちの背中の延々と続く連なりをおさめた写真。岸田劉生の『女の手』は実物大そのものなんで気味が悪いような。目立ったのは河原温の初期の連作『浴室』--まさしく浴室バラバラ事件だーっ。

ここまで来るともう時間が足りなくなって駆け足になってしまい、肝心の1970年代以降の作品は落ちついて見られなかった。残念無念である。

映像作品がないのに2時間たっぷり休みなく見まくってまだ時間が足りないぐらいだった。おかげでグッズを物色するヒマがなかった。でも、充分モトは取れました、ハイ。


【関連リンク】
《61回目の終戦記念日ー「モダン・パラダイス」における戦争》
戦争画と藤田について

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