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2006年11月

2006年11月27日 (月)

鈴木秀美「バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲演奏会 第2夜」:どうして二分間しかもたない楽器を使うのか--その回答がこれだっ

会場:東京文化会館小ホール
2006年11月24日

早いものであっという間に一か月経過。鈴木秀美の無伴奏チェロの第2夜がやってきた。今回は偶数番の曲を演奏。
客は……前回よりも減っていたような気がするんだがどうなんだ。おまけに前半が終わって帰っちゃったヤツも結構いたのはなぜだ!
この日はメリハリ重視というか、舞曲としてのリズムが耳についた。特に第2番なんか踊りだしたくなっちゃうくらいであった。
それから、アンコールで第6番のチェロピッコロをそのまま使って無伴奏ヴァイオリン・ソナタを演奏したのが、とてもよかった。ヴァイオリンで聴くのとはまた違って非常に新鮮な印象で引き込まれてしまった。

アンコール曲の前に、気候の関係で調弦しても2分間しか持たない、という話を鈴木秀美がすると客席からは一斉にほーっとため息というかざわめきが漏れた。今の時期の日本は乾燥がひどいらしい。

前回のネット上の感想に「エンドピンがないのに驚いた」というようなのが幾つかあったのを知ってか知らずか、配られたリーフレットのご当人の解説は、楽器の変化のことであった。エンドピンやガット弦や弓のこと、そしてそれらの変化が音楽の本質の変化でもあったことなど。
「明瞭な発音と音のシェイプ、光と陰、他の楽器と互いに融合する音色など、数多くの代価を払って、現代の楽器は大音量と安定性、均質性を手に入れたのだが、ときに人はそれを「進歩」と呼ぶ。」
--と、結構辛辣な事が書かれております。

さて、チラシを見ると1月のサントリー音楽賞受賞記念コンサートでも無伴奏の1番を演奏するらしい。サントリーホールの大ホールで……古楽器のチェロの独奏がどの程度の大きさで聞こえるんだろか?

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2006年11月26日 (日)

トンマッコルへようこそ:ファンタジーかプロパガンダかそれとも……

監督パク・クァンヒョン
出演チョン・ジェヨン、シン・ハギュン
韓国2005年

朝鮮戦争のさなか、時代が停止したような何も知らぬ無垢な人々が住む村に韓国軍と北朝鮮軍双方の兵士たち、さらに米軍のパイロットが迷い込み、鉢合わせする。

と、こう書くと当然のことながら対立から和解へと話は進んで行くのだと予想がつくだろう。もっとも、その過程は極めてユーモラスではあるが簡単に運ぶわけではない。

村は明らかに桃源郷のように描かれている。何せ戦争の真っ最中だというのに、村人は銃というものの存在すら知らず、理解できないのである。のほほんとしたこの村での生活に一同がなじみ過ぎた頃に、村に存亡の危機が迫る--。

結局、その外敵たる米軍、というか正確には連合軍だが、それと戦うために南北兵士がまさに連合するという、一種倒錯した状況になるのだ。

これを政治的プロパガンダであると断ずる人もいるが、私はそうは思わなかった。
この物語は裏を返せば、そのような強大な「仮想的」でも存在しない限り分断された南北が協力することはあり得ないだろうということである。同時に、そうであってもいつか両者がまた統一できたらという希求を描いている。背後には一言では言えない非常に複雑な心情が存在すると推測する。その実現が困難だけに、この映画はファンタジーという形式にならざるを得ないのだろう。

純粋にして無垢なる村を襲うのは本質的に荒々しい暴力である。そのイメージは機械的にしてオートマチックだ。一方、兵士たちは厭戦気分と罪悪感にとらわれているが、また同様に暴力的な存在でもある。彼らは村の純粋性を守るために、自らの暴力性を復活させた。それは自己犠牲なのか、それとも罪ほろぼしなのであろうか。
いずれにしろもはや引き返すことのできない暴力に浸された世界の象徴を、彼らは一身に背負っているように見える。しかし、暴力の氾濫する世界とはまさにこの世界、トンマッコル以外の全ての世界のことなのだ。

のほほんとしたユーモアたっぷりではあるが、茫然と見るにはいささかハードな映画であったよ。
欠点は手持ちカメラをやたらと多用しているところ。こんなトコまで使わなくてもいいのに--と思うような所まで使っている。ちょっと目が回ったぞ(@_@)


主観点:7点
客観点:8点

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2006年11月25日 (土)

「天正少年使節と音楽の旅 2 妙なる響き編」:もっともっと演奏を聴きた~い

内容:サン・ピエトロ大聖堂から聚楽第へ
演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン
解説:皆川達夫
会場:サントリーホール 大ホール
2006年11月23日

天正少年使節の旅と音楽を追う9月のレクチャーコンサートの後編。今回はローマ法王の謁見から帰国後まで。

前回でも感じたことなのだが、どうも内容の構成が今イチだった。俳優を語り手に芝居っぽくした部分と、皆川先生と鈴木雅明の掛け合いによるレクチャーと、演奏の部分のそれぞれのバランスがどうも悪い。どっちつかずな感じで中途半端である。

とはいえ、色々見所(聞きどころ)はあった。ルネサンスは声楽中心で器楽演奏は一段下に見られていたとか、少年使節の訪欧は向こうの人たちにとってもカルチャーショックで百冊も本が書かれたとか、秀吉の前で少年使節たちが演奏したのは60パーセントの確率で(皆川先生推定比による)ジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」に違いない、などなど。
また、使節たちへの歓迎ぶりを描いた絵が訪問した都市に残されているのにも驚く。先生はそれに対する日本人の無関心さにいささか憤慨しているようであった。

演奏の方はBCJの合唱隊が大活躍。ポリフォニーの綾というようなものを緻密に再現していた。また、ヴァイオリンが若松・高田ペアであったのも嬉しい。
聞きどころだったのは、アンドレア・ガブリエリの「16声のミサ」と休憩を挟んでモンテヴェルディ「めでたき海の星」である。両方とも、ああっ!もっともっと聴かせてくれ~と思わずサントリーホールの床に倒れ込む気分だった。
とりわけガブリエリは曲も演奏も壮麗でよかった。もっと狭くて残響が長い教会のような所で聴けたら最高だったろう。きっと極楽にいるような恍惚感でポワーンとした気分になってしまったに違いない。

ただ、トロンボーンが最初の曲でちょっとズッコケたような音に聞こえたのは私だけか?(その後はよかったけど)

後半は話がクライマックスになるにつれ、あまり音楽の方は大きく使われず、音楽面を期待して行った私は不完全燃焼であった。やっぱり最後にドドーンと行って欲しいよね。あと演奏にナレーションを重ねるのも止めて欲しかったよ。

さて、今回も皆川先生のオヤヂギャグが炸裂するかと覚悟していったら、数は少なくて一回しかやらなかった。しかし……(~_~;)その一回が超弩級のオヤヂギャグで、あまりのことに聴衆は椅子から滑り落ち、ガット弦はことごとくブチッと切れ、トロンボーンの管はグンニャリと曲がり、リコーダーにはパキッとひびが入り、チェンバロの調律は狂いまくり、歌手たちは一斉にゲホゲホと咳き込むほどであった。(←いささか大袈裟に書いております(^^;)
恐るべし皆川先生! その衝撃を受けたせいかサントリーホールは来年に数ヶ月間改修休館するという……。


【関連リンク】
第1回目の感想はこちら

こちらにも内容が詳しく紹介されています。
《ミューズの森、美術館そぞろ歩きノート》から「天正少年使節と音楽の旅-3 妙なる響き」

ラストのオルガン曲については全く同感。ただこの企画自体「オルガンレクチャーコンサート」なんでシメは一発派手なオルガン曲でないとダメなのかも。
《UN JOUR》より「勤労感謝の日、ごほうびの日」

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2006年11月23日 (木)

スティング「ラビリンス」:ロック・モードで聴くが吉と出た

ユニバーサルクラシック2006年

古楽系のCDを聴く時はいつもアンプのトーン・コントロールをオフにしている。こうすると全然音が違って、コンサートの時の生音に近いように聞こえるのだ。
一度うっかり間違えてオフにしたままかけたらあまりに気持ちよい音で、大して面白くないと思っていたCDが一転して素晴らしいものに聞こえて、それ以来こうしている。
ただ、ロックやポップスなどはキンキンして非常に疲れる音になってしまうので、オンに戻して聞いている。


さて、問題のスティングがダウランドの曲をリュートの伴奏で歌ったディスクである。これはどちらのモードであろうか?
百聞は一聴にしかず--ということで、早速二つのモードで聞き比べてみた。結果はトーン・コントロールをオンにしたロック・モードの方が相応しいと出た。
そもそも、録音が全体的にベチャッとした感じなのはなぜだ? 曲によっては時折聞き苦しく思える部分がある。

歌手としてはもう最盛期を過ぎてしまったとおぼしく、出来ればもっと若い時の声で聴きたかった。もっとも、若い頃にはこんな録音を出そうとは思わなかったろうが。
かつてはモロにとんがった不良青年であったスティングも、今や外見は頑固な英国紳士風オヤヂへと変貌。そういう意味では「年相応」ではあろうが……。

いや、もちろんロック・モードで愛聴してますよ、はい(^^)

【追記】
何回か繰り返し聞いてみて、ヴォーカルそのものよりノリがロックだと感じました。

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2006年11月21日 (火)

ビル・ヴィオラ「はつゆめ」:火曜日が5時終了なんて断固抗議する!

会場:森美術館
2006年10月14日~2007年1月8日

ビル・ヴィオラは「ヴィデオ・アート第一人者」とのこと。アジアでは初の個展ということである。彼の作品はかなり昔にワタリウムかどこかで小品を一つ見た事があるぐらいだ。

平日に休みが取れて、森美術館は夜遅くまでやっているので午後ゆっくりと家を出た。とっころが(!o!)窓口で「火曜日は5時までです」って言うじゃあ~りませんか。え゛ーっ、聞いてねえよ!「責任者出せーっ」と叫んでバッグから包丁とカッターナイフを取り出して、暴れた--いところだったが何も凶器を持ってなかったし、六本木まで来て今さら帰る訳も行かず仕方なく大人しくチケットを買ったのであった。
どーせ、ちゃんと調べなかった私が悪いのよ(+_+)ショボショボ

というわけでじっくり時間をかけるつもりが駆け足鑑賞になってしまった。だが、どの作品もスローモーションが使ってあって、ホントは時間をかけて見ないとダメなヤツばかりなんだよね(泣)

最初の「クロッシング」は一枚の巨大なスクリーンの裏表に、遠方から歩いてくる男が段々と近づいて来て画面の手前で止まる。そして片側の画面では大きな炎に焼かれて消える。その裏側では同時に大量の水に打たれて消えていく。
私は「水」の方により感銘を受けたが、いずれもスローモーションで歩み寄ってくる時間が長く、気が短い人はガマンが出来ないだろう。
男が消滅する時のポーズに宗教的な意味が読み取れるようだが、私はむしろ激しいストレスにさらされ消えていく現代人の姿を見た。

何枚も薄い布を下げてその両側から映像を投影する「ベール」。映像は森を歩く人とこもれ日を映しているようで、布を通ってくる映像のはかない感じがよかった。もっとも、実際にはこれにもストーリーがあるそうで、二つの映像はそれぞれ男女が歩く姿を追っていて、布の真ん中でちょうど出会うようになっているらしい。
そんなの、分かんねーぞ??
できれば映像が一巡する時間も、記載してくれるとありがたいんだけどねえ……。

「天と地」は上と下からブラウン管のモニターが向かい合っている。その間は10センチぐらい? そのすき間から映っている映像を覗き込むんだが、上の方は死期の迫っている老人のようだったが、下の方は……私はチビなので画面の位置が高くてよく見えないのであった。
「身長の不自由な方は見えません」と注意書きしてくれい(-.-;)
後で調べると下のモニターは赤ん坊の映像だったらしい。つまりほんの少しの空間を挟んで死と誕生が向かい合っているという作品なのだ。でもチビには分からんのよ。(泣)

静止した写真が額に入れて飾ってあるのかと思うと、実はほんの少しずつ動いている「動く写真」の作品群も面白かった。一枚の写真かと思ってたら、しばらくたって見ると涙を流してたりして--何気なく壁に飾ってあったらビックリだろう。
しかし、多くの人物の表情は暗かったり、寂しかったり、あるいは怒りを爆発させてたりしているので、日常性を逸脱している。

「サレンダー/沈潜」は水に腰まで浸かり、さらにその水に顔を付けては上げる人物をモニターに映したもの。ただ、その映像自体が水面のようにグンニャリと歪んでいて、水面から「プハッ」と顔を上げて水を払う仕草がまるでF・ベーコンの人物像みたいに不気味に見えるのだ。

--と色々な作品があったのだが、ただでさえ時間がないのに私は時間配分を間違えて、一番の話題作「ミレニアムの5天使」に来た時はもう5分しか残ってなかった。あんまりだー。
大きなスペースに巨大なスクリーンが5枚。それぞれ別の映像が写されているが何だか分からない。その内の一枚を注目してみると、闇を背景に光の小さな点の列が見える。はたしてこれは何か? 上空から撮った都市の夜景か、宇宙の果てで銀河が暗黒星雲に呑み込まれている天体写真か、夜の火山に流れる溶岩の残り火か?
長い時間をかけて見ていると、これが人(天使)が水に飛び込んだり潜っている姿を水中や水面から撮ったものだと分かってくる。

だが、ここで虚しくタイムアウトで残念無念。この作品だけまた見るために千五百円払うのはなあ……。展望台はいらないから美術館だけの安いチケット売ってくれないかしらん。

で結論は、
気の短い人には向かない。
「はつゆめ」という作品は見られないのにタイトルにするのはどーよ?
--であった。


時間が大いに余ったので、ヒマ潰しにまた展望台へいく。ちょうど夕暮れの時間で東京タワーのライトアップがキレイであった。アベックが一杯いてケータイで写真を撮りまくっていた。

美術館の客の中には「展望台のついで」という人だけでなく、学校の課題で見に来る(もちろん仕方なく)という学生も結構いるらしい。まあ、美術館側にとっちゃ入場者が増えるからいいんだろうけど、そんな課題出すなと思うのは私だけか?

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2006年11月20日 (月)

「鈴木雅明 オルガンリサイタル」:轟音に脳ミソ漂うバッハかな

内容:J.S.バッハ/ドイツ・オルガン・ミサ
会場:所沢ミューズ・アークホール
2006年11月11日

少し前のブログで「もう二か月ぐらいはバッハを聴かなくてもいい」なんて書いたのだが、早くもまたバッハを聴きに行ってしまった。
『ドイツ・オルガン・ミサ』と言えば、なんとなく「地味」というイメージがあって最初は行かないつもりだったのだが、値段があなたS席二千円ですよ、二千円! いくらなんでも、こりゃ安過ぎだーっ。
ということであまりの安さにフラフラと所沢へ。しかし、やはり都心からは行きにくいせいか、座席は半分も埋まっていないのであった。勿体ニャ~。

全曲演奏するにはあまりにも長過ぎるので本日は抜粋とのこと。しかし、それぞれのオルガン曲の前に元となったコラールがBCJのメンバー四人によって歌われたのであった。(この形態の方が演奏会ではよく行なわれるのか? 以前FM放送で聞いた時もコラールが歌われていた)

全体的な印象としては、バッハが「どうだ、吾輩の作曲と演奏の手腕を見よ!文句あっか」といった感じの、オルガンでありとあらゆる曲調をやってみました的なショーケース風の曲集であった。
例えばBWV680では極めてテンポの早い豪快な曲になっているが、一転次に演奏されたBWV682はなにやら極めて異質な響きである。

個人的には曲に隠された宗教的な意味はあまり考えず(というかそもそも分からないので)、純粋に様々なオルガンの響きとオルガン奏者としての鈴木雅明の腕前を堪能したコンサートだった。合唱も地道だったがよかった。

やはり、パイプオルガンというのは生で聴かないとダメで、録音ではよく分からない所がある。大体にして家ではあんなに音量を大きくして聴く事自体不可能だし。
特に冒頭と最後に置かれたプレリュードとフーガはすごかった。正しく爆音と言ってもいいぐらいで、この爆音の海に私の脳ミソはドップリと気持ちよく浸かって、さらにはいずこかへとプカプカと漂っていくような気がした。こんな気分は録音ではとても味わえないだろう。

ただ、正味一時間半の演奏に休憩無しというのはちょっとキビシかった。後半は少し集中力が切れてしまったよ。

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2006年11月19日 (日)

「世襲」の美学と若者叩き

「表現と地雷」
少し前に上記リンク先と同じようなテーマの話をブログで読んだのを思い出した。ただし、主張は正反対であるが。

「何かを擁護することが別の何かを排除する可能性」

実のところ、最初にこちらを読んだ時には「そんな事言ったら何も主張できなくなってしまうじゃないの」とムッとしたことを覚えている。しかし、前者のブログを読んで考え直した。

全く同じ題材を扱っていながら、両者が正反対であるのは自分が被害者であると見なすか、加害者になりうると見なすかによってである。(どちらがどちらであるかはよく読んで頂ければ分かるだろう)
他者にとって抑圧的な言説であるかどうかは述べた側には分からない。「そんな事言ったつもりはない!」と思っていても、そういうことは言われた側に回ってみて初めて分かるのだ。(もちろんネット上の論議にはそれを逆手に取ってわざとイチャモン付けてくるパターンもあるが)


さて、前者のブログの一つ前の記事
「自己決定の罠」
がかなり気になった。

「自己決定」の概念が文中でどんどん変わって一定していないように思えるし、結果的によくある「若者叩き」なっている。冒頭を字義通りに解釈していくのなら、上野公園のホームレスのおじさんたちだって「自己決定」した結果だということになるんだがどうなのだろう。
これを実証的に語るなら階層別・年代別のニート・フリーター数を示さなければならないはずだ。
そして、最終的には「自由」「権利」への否定的言説へと収斂していくのである。

また、「不自由」がないというが、現代の若者がかつては存在しなかった別の形の「不自由」や抑圧にさらされているとは考えないのだろうか?

ところで、古い新聞を整理していたらこんな記事が目にとまった。『18歳の今を生きぬく』(青木書店)という高校生・卒業生を調査した本を紹介したものである。

「正社員、フリーターを問わず、多くの人は低賃金で不規則な勤務を長期間続けていた。親を支え、収入を家に入れている人が少なくない。労働環境の厳しい職場で人間関係に傷つき、体調を崩して離職した人も多い。」(朝日新聞5月14日朝刊)

これも「自己決定」なのだろうか?
以前に紹介した『おろかものの「正義論」』という本では、選択肢が複数あったとしてもそれを行使できるのは豊かな層だけであり、貧困層になればなるほど選択する幅は狭まっていくという意味のことが書かれていた(本が手元にないのでちょっとあやふやです)。

さて、今度の首相だが彼は世襲制で政治屋三代目であり、さらに幼稚園小学校から大学までエスカレーター式の学校へ通い「自己決定」などしてきた様子はない。なるほど「世間的にスレてもいなく、瑞々しく輝いている」……(^_^メ)
もっとも世襲についてはこういう言葉もあるのだが--「三代目は身上潰す」

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2006年11月17日 (金)

異論反論レ・パラダン!

そろそろブログ上での感想も出尽くしたと思われる「レ・パラダン」でありますが、以下の二つの意見が目に止まりました。

《ピアニスラー》より「賛否両論:レ・パラダン」

《読書な日々》より「遍歴騎士」

双方、主張は正反対なのだが、その極端さにおいて「そこまで言いますかっ?」的なのは同様である。

前者の、日本の観客は遅れてるから過激で進んでる演出は拒否反応、という風に受け取れてしまう主張はどうだろうか。
別に批判している人の多くはそういう意味で言っているのではないと思うが--。
それに、私自身は守備範囲外なので全く見ていないのでよく知らないが、ワーグナーのオペラあたりは過激な演出なヤツがどんどん日本に来ているんじゃないのか? どうなんだろう。

それにしても、いくら気に入らなくてもウン万円払った席を10分間で立ってしまうなんて真似は、私のようなケチな人間には到底できん。
もっとも、芝居好きのとある友人は、詰まらないとなったら途中だろうが前列だろうが、さっさと席を立って帰ってしまうそうである。うーむ、オソロシ……。

後者の方には、意外な情報が。
*『レ・パラダン』は初演当時のパリでさえもそれほど当たらなかった。
うむむ?そうだったのか。
そしてさらに、他のブログでも決して見かけなかった意見。
*原作そのものが全く詰まらない。
うむむ、そ、そうだったのか~!

ただ、バロック・オペラで現代の観客を感動させるのは不可能、という意見はちょっと頷けない。私はこれまで古典的な演出も現代的なのも見たが、それぞれに楽しめたし感動したのもあった。
もっと古い時代のシェイクスピアの芝居が現代においても繰り返し新しい意匠で上演されているように、バロックオペラもまた今の時代に生き生きと蘇らせる事が可能だと信じている。

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2006年11月15日 (水)

「コード:アンノウン」:そしてみんな少し不幸になった

監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ
出演:ジュリエット・ビノシュ
フランス・ドイツ・ルーマニア(2000)
*TV放映にて視聴

ケーブルTVの契約を変えた思わぬ副産物というところか。日本未公開だが、おかげで見ることができた。ハネケ監督の作品としては『ピアニスト』の一つ前に作ったものということになる。

舞台はパリ。冒頭は聾学校?の子どもたちがジェスチャー・ゲームをやっている。だが、誰も正解を当てることのできないまま終わる。

その次の場面は、オーディションに向かう女優を同棲相手の弟が訪れてくる。父親とうまく行かず家出して来たという。女優は道端でアパートの鍵を渡して去る。不機嫌な弟は通りで物乞いをしている女に紙クズを投げつけて歩き始めるが、それをアフリカ系の若者が見とがめる。二人はケンカを始め、警察が駆けつける。

その後は、騒動が原因で物乞い女は自国(東欧系?)へ強制送還されてしまう。警官にひどい扱いを受けたアフリカ系の若者(聾学校で打楽器を教えている?)の家族の悩みが綴られ、女優と帰国してきた同棲相手の男(旧ユーゴ紛争を取材してたジャーナリスト)の些細ないさかい、またその父親と弟の話などが、それぞれぶった切ったようにバラバラに進行していく。
ここら辺はなんとなく『クラッシュ』を連想させなくもない。異なる人種・民族・階層間の微妙な差別--。もっとも描き方は極めてクールだが。

そして、ラストはというと……これがまた大いなる驚きである。これこそ「衝撃のラスト!」と言ってもいいぐらいだ。
という訳で一応結末について書くが、「これから出るDVDを楽しみにしてんだかんね」というような人は以下を読まない方がいいだろう。


★ネタバレ注意報発令★

なにが衝撃の結末かというと、これまでの流れから想像すると並行的な複数の話がまた最後に繋がって何事か起こって終わるはずである。劇的な和解か、それとも絶望的な破局か。いずれにしろ何かが起こる。
だが、監督は観客のそのような期待をひっくり返す。何も起こらないまま何一つ変わらないまま終わってしまうのだ!
強いて変化をあげるとすれば、みんな以前よりも少しだけ不幸になっていることだ。
ここには虚構に備わっているはずのカタルシスもなんにもない。ああ、なんとハネケのイヂワルな事よ。

社会や人間関係に潜むチクチクと刺す姿なき棘の存在。誰が誰を抑圧しているのか、もはやそれさえ定かではないねじくれた差別と偏見。(例えば、アフリカ系の若者は付き合っている白人娘に対しては支配的な態度を取る)
そこには何の救いも起こらないのだ--。


主観点:8点
客観点:6点

【関連リンク】
ブログ検索でヒットした数少ない感想の一つです。
《ぐ~たら主婦のマイナー好き日記》

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2006年11月14日 (火)

「J・S・バッハ/ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全曲」:バッハ凝縮生一本勝負

「J・S・バッハ/ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全曲」:バッハ凝縮生一本勝負

演奏:桐山建志(バロック・ヴァイオリン)、大塚直哉(チェンバロ)
会場:東京文化会館小ホール
2006年11月7日

桐山・大塚コンビで出してきたバッハの「ヴァイオリンとチェンバロのための作品集」CDシリーズ完結記念のコンサート。
このシリーズはソナタ6曲と無伴奏ヴァイオリン曲の6曲の調性がほとんど対になっていることから、調性ごとにその二種を録音したものである。

完成記念のこのコンサートではソナタの方を全曲演奏した。プログラムには「単調に思われるかもしれませんが、実は調性ごとに曲のキャラクター、色合いなどが全く異なり、変化に富んでいます」とあるが、なるほどその通りであった。

前半後半に分けて曲番順に演奏。
音の聞こえ方がちょっと遠い印象で、古楽器二台では小ホールでも大き過ぎかなあと感じたが、一応細部の音までちゃんと聞き取れた。
第5番は「6つのデュオ・ソナタの中でも飛び抜けて演奏機会の少ない」らしいが、なるほどちょっと変わった--なんつーか「アヴァンギャルド」という言葉が合うような曲であった。突然聴かされたらバッハとは思わないかも。そのせいか眠気虫に食いつかれていた人が結構いたもよう。

一方、最後の第6番はもう全編最初から最後までバッハ節だった。この日演奏されたのは第3稿だったが、アンコールでは削除されてしまった第2稿のカンタービレが演奏された。これもいかにもバッハな美しい曲だった。

というわけで、バッハの精髄はカンタータにあるというのは定説ではあるが、このような純粋な器楽曲でも頭の先からシッポまでアンコが詰まっているたい焼きの如く、どこを切ってもバッハ魂がギュウ詰めになっているのを感じたコンサートであった。隣の大ホールではちょうど『ロ短調ミサ』をやっていたが、大人数でドドーンと「ロ短調」でなくとも、立った二人だけで「骨の髄までバッハ」とか「宇宙の果てまでバッハ」といったものを表現できるのだと感じた。もう、二か月ぐらいはバッハを聴かなくても大丈夫 (^o^)b と思ったぐらい。
桐山さん、大塚さん、そしてバッハ先生ありがとう <(_ _)>

終了後、近くの席に二人のどちらかのお母さんがいてお弟子さんに挨拶していた。私はポンと肩を叩き「ま~あ、ご立派な息子さんを持って、お母さまもさぞご自慢なことでしょう(おばはんモード全開)」と言う厚かましさはさすがにないので、そのまま帰ったのである。

【追記】
意図がよく伝わらないかなと思い、内容に加筆しました。

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2006年11月12日 (日)

「ブラック・ダリア」:題材は刺激的でも展開にメリハリ無し

監督:ブライアン・デ・パルマ
原作:ジェームズ・エルロイ
出演:ジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート
米国2006年

エルロイといやあ、泣く子も黙るノワール系&ハードボイルド系の強面作家である。その代表作を最近ちょっとパッとしないとはいえデ・パルマがやるとなれば大いに期待しちゃうのである。

しかし、残念ながら大いに期待外れだったとしか言いようがない。長編小説を2時間にまとめるのだから、それなりに取捨選択しなければいけないはずなんだが、恐るべき猟奇殺人の顛末を中心に据えるのか、主人公たちの三角・四角関係を描くのか、当時の社会の暗黒な雰囲気を出したいのか、どうにも定まらず中途半端である。

この手の話は要するに探偵役が色んな場所に行って色んな人をつつきまくって、藪から真実を飛び出させるというのがパターンである。しかし、脚本がひどいせいなのかその真実の飛び出し方が、あまりにも(文字通り)藪から棒過ぎ。急転直下の展開に目が白黒しちゃう(@_@) 冒頭のボクシングの場面に時間かけるぐらいなら、結末の伏線でも張って欲しかった。

また、主人公の刑事が途中でニ件の殺人を目撃するのだが、その後始末の仕方があまりにもひどい。「えっ(!o!)昔の警察はこんなことを黙認するほどいい加減だったのか?」と思っちゃったが、ここはなんと原作を大幅に変更したらしい。どうりで辻褄が合わないはずだよ……。
原作通りだと、相棒の刑事がかなりの悪徳警官ぶりを発揮するみたいだが、それを避けたんだろうか?

それからもう一つ致命的なのが、作品内で語られていることと映像で示されていることが全く一致していないのである。
「彼女はその部屋にいる女の中で一番美しかった」→はて?どこが。主人公目が悪いんじゃないの。それとも私のメガネの度が合わなくなってきたのか。(/.-)ゴシゴシ
「彼は被害者に取り憑かれていた」→そうかね、それほどには見えんぞ。
「マデリンはブラック・ダリアにそっくりだった」→冗談はよし子さん!

なんて感じでかなり白けてしまうのであった。
しかも助演やほんの脇役に至るまで登場する役者はやたらと多いのだが、誰一人として生彩がないのも不満である。

おまけに肝心のファム・ファタールであるマデリンがあのヒッチコックの『めまい』のヒロインに重ね合わされていると知ってビックリした。
私は紹介文を書くためについ最近『めまい』を見直したのだが、はっきり言ってこちらのマデリンの美しさを1とするなら、『めまい』のマデリンは1000ぐらいである。いや、それでも足りないぐらい。男たちの「取り憑かれ度」も同様だ。
ウソだと思う人は是非レンタル屋に行って『めまい』のマデリンが登場する場面を見て欲しい。あれこそが誰が見ても納得の「一番美しかった」である。
また、後半で主人公がありとあらゆるものにマデリンを幻視する妄執ぶりについても全く比べ物にならない。

結局、あまり見所がない映画であった。おっと、レズビアン・クラブの場面は退廃的で良かったけどね。往年の、同じくデ・パルマによるフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの『リラックス』のビデオを思い出した(あれほど過激ではないが)。


主観点:5点
客観点:5点

【関連リンク】
「残り30分で急に早送りになった気分」というのに思わず頷きました。
《the borderland》

この作品の中でのレズビアンの取り扱われ方について。
《ハナログ》

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2006年11月11日 (土)

パリ・シャトレ座「レ・パラダン 遍歴騎士」:祝祭というよりは「お祭り騒ぎ」?(一応ホメ言葉)

作曲:ジャン・フィリップ・ラモー
演出・振付:ジョゼ・モンタルヴォ、ドミニク・エルヴェ
演奏:ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン
会場:文化村オーチャードホール
2006年11月4日~8日

オペラ『レ・パラダン』
遂にキタ━━━('∀')━━━!!!!

でも人気のサンドリーヌ・ビオーは
コネ━━━━━━(・A・)━━━━━━ !!!!!

という事で早速、オペラ日本公演では定例の歌手の直前降板があったわけだが、一部には交替はとっくに決まっていて、プロモーターはそれを分かっててチケットを売ったという噂も流れている。これが本当なら別名「詐欺」というヤツだろう。
また座席が多数売れ残りB席¥25000も当日券で入手できたらしいのだが、そこは3階席の一番奥だったらしい。
--とすると、はて?発売当日に完売だったC・D・E席(¥20000~\9000)はどうなったのかなー、と。立ち見席はなかったようだから、屋根裏とか通路の穴から覗くような場所だったんだろうか(^^?)

さて、ラモーはバッハの同世代でルイ15世の宮廷作曲家となった人。『レ・パラダン』はその晩年(1760)の作品で「オペラ・バレ」というジャンルに分類される。
私は初めて聴いたのだが、そもそも歌唱の部分はあまり多くなかった。普通のオペラのアリアみたいに長々と歌手が心情を歌うなんて場面はほとんどない。演奏のパートだけがかなりの割合を占めるのを見ると(聴くと)、元々オペラと言っても歌手が占めるのは一部分だけで、大がかりな舞台装置や舞踏も使ったスペクタクルだったのだろうと想像できる。(それとも、この公演では余計な歌の部分はカットしていたのか?)

ストーリーは極めて他愛のないもので、権力と金と地位に物言わせて醜悪なヒヒオヤヂが若い娘っ子と結婚しようと彼女を幽閉するが、若くてピッカピカの美青年騎士と手に手を取って遁走。激怒するオヤヂを、騎士に恩義がある妖精(性別は女のはずだがテノールが演じる(^^;)がだまくらかして二人の仲を認めさせてメデタシメデタシという話。

この公演では当時の設定を生かしてか?映像とダンスをフルに活用したものになっていた。映像はCGを駆使した大がかりなものだったし、バレエ、コンテンポラリー、ヒップホップ、ストリートダンスなど完全に現代のダンスを様々に駆使していた。
ソロの歌手にはその分身とでもいうべきダンサーが一人ずつ付いていて、心情を代弁するように傍らで踊る。その他にもステージ上には大勢のダンサーや合唱の歌手たちが入り乱れて登場。

さらに背後の上下二段に分かれたスクリーンにはCG映像が投影され、青空やらロココ調庭園やら地下鉄やらが現れたかと思うと色んな人物(中には全裸ダンサーズも)や動物が飛び交い、しかもそのスクリーンの中から本物の人間が飛び出して来て映像と区別が付かなくなる(もっともこの手法自体は昔からあって--えーと宇宙座だっけ?なんかもやってたはず)。
そして最後には一同浮かれ踊る中を本物の全裸のダンサー四人が登場。庭園の彫像のポーズを取ったりして観客の目を奪った。

ソロ歌手も一緒に踊ったり走り回ったりしていたが、中には合唱の人にも関わらずダンスの方もかなり達者に踊っていた人がいたのは驚いた(ツルピカ頭の結構年齢が高い人)。
また途中で人形振り(←ていうのか?専門用語知らず)を5~6人でやって見せる場面があったのだが、その中の黒人の女性ダンサーの動きがもう信じられないほどに人間離れしていて呆気に取られるほどだった。専門家はあそこまで身体の動きをコントロールできるのかと思わず感心。
愛を歌い上げる場面では、男女だけでなく同性のカップルも自然に登場するのはさすがフランスとこれまた感心した。

--と、これだけ盛り沢山に色々と見るものがある上に、さらに私は前から十数番目の列という比較的前の方だったので、視角に入るのがせいぜいステージいっぱいなために字幕を見るには顔をいちいち動かさないとダメなのはキツかった。
というわけで正直なところ

音楽なぞ聴いている余裕はなかった!(木亥火暴)

事前に初日の感想を読んでそういう話は耳にしていたにも関わらず、である。折角のクリスティ&レザール・フロリサンなのにねえ……(T_T)
見る方に懸命で耳の方は完全お留守状態。また舞台上は常に賑やかなので、ソロ歌手が歌い上げる場面で相方のダンサーと二人きりになってしまうと、却って退屈に感じてしまう。歌手の聞かせどころが一番ツマラン状態になってしまうのは困ったもんだ。

私の位置的にはオーケストラピットの中は全く見えず、クリスティの後頭部だけがよ~く見えた。音は全体的にやや引いた感じで、まあオーチャードホールで古楽器がこんなもんなら予想よりマシだと思ったが、休憩時間にピットの中を見たら本数は多くなかったもののマイクが立っていた。恐らく控えめにPAシステムが使われていたのだろう。

全体的な感想を言うと、若々しくて猥雑でエネルギッシュで楽しい舞台だった。三万五千円払ったモトは完全に取れた。退屈だった部分はどこにもない。
だが、私は自問自答してみる……これが本当に私が期待していたものだったろうか、と。正直に言えば、魂を根こそぎ奪うようなマジックや、帰りに東急前の交叉点をスキップして帰りたくなるような「見てヨカッタ」感はそこにはなかった。
○○○ランドや××園に行けばどんな人間でも楽しいだろう。そこには万人を楽しませるような仕掛けがちゃんと存在するからだ。だからと言って、私個人はそれを進んで求めるかというとそういう訳ではない。

こちらの感想にあるように、まさに「退屈はしなかったのですが、感動もあまりありませんでした」という一文がピッタリな心境だ。

全てが盛り沢山で一分の隙もなく埋め尽くされている。あたかも一瞬でも観客を退屈させるのを恐れているようだ。歌手が独唱する傍らでダンサーがその内容を解説するように踊るのは、そのダメ押しか。きっと歌だけではみんな退屈してしまうだろう、歌だけでは万人を動かすそんな説得力はない--とでも考えているように思えた。
また、恐らく劇中最大のハイライトであったとおぼしき、城が一瞬にして宮殿に変わる場面が単に映像が切り替わっただけというのは、いささかガックリした。音楽の付け方をみれば、当時は観衆の度肝を抜くような大きな仕掛けが繰り広げられたのだろうと想像つくだけにである。

なんだか、別にこの演目である必要はなかったんじゃないかって気がするんだよね。他の作曲家の他の作品でもOK、だったみたいな--。

『バヤゼット』に続き、またも絶賛多数の中をケチ付けてしまったわけだが、まあそれだけ「ひねくれ者」の証拠なんである。

次は北とぴあでハイドンの『月の世界』だ~(^o^)/


【関連リンク】

公演途中の時点での感想ブログのリンク集
《SEEDS ON HATENA》「レ・ザール・フロリサンのレ・パラダンのレポをリンクしています」

演出とダンスについて詳細に分析。私にはとてもここまで読み取る能力はありません。
《アリスの音楽館》

絶賛の意見も紹介。
《LINDEN日記》「ラモーは最高のダンスミュージック」

非常にキビシイ批判です。
《パレアナのリトルハピネス》「パリ・シャトレ座の「レ・パラダン」」

オペラファンからの率直な感想
《ふくきち舞台日記》「《レ・パラダン》」

「結局何を観たのかと帰り道々考えてしまった」というのは同感。
《ひだまりのお話》「音話§ラモー『レ・パラダン』シャトレ・プロジェクト」

しかし、他のネット上の意見を読んで一番驚いたのは「音楽で眠くなった。あのオーケストラは延々とバロックを弾き続けて飽きないのか不思議」という意味のことを書いていた人がいたことである。
い、いや、私は聴いてるだけなんだけど全く飽きませんよ(^-^; 演奏してる人たちもきっとそうでしょう。
ミクシィの日記で見かけたんで上記のリンクには入っていないが、あんまりと言えばあんまりな意見ではある。
ま、バロック音楽なんて退屈ってのが一般的な認識ってことですかね。

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「物置」でドッキリ

「物置でカラバッジオ作品発見」な、なんだって~(>O<)
という驚きの記事である。しかも「物置」だ。昔実家にあった、倒れそうなトタン屋根の一畳ぐらいの広さの物置を思わず連想してしまったが、よくよく読んだらエリザベス女王の物置だってんぢゃないですか。きっと我が家の千倍ぐらい広くて立派な「物置」に違いない。

それにしても題材になってる聖書の話は知らないのだが、手前の老人が持っているのは新巻鮭かな?(の訳ないか)
明暗の使い方はやはり素晴らしい。

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2006年11月10日 (金)

理想は「司書なし図書館」ってことでOK?

「葦岸堂」より「石原知事の会見記事から」に、記者会見での石原都知事の図書館に関する発言が紹介されている。
そもそも都立図書館で司書をここ数年間、新規採用していないという件についての質問への回答だったわけだが……。

まさに「都知事キターッ!」としか言いようのない内容である。
ということで、将来の都立図書館の姿は自動貸出機の隣にインターネットの端末が置いてあるだけ、となるわけか。まあ、人件費も減らせてメデタシと。

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2006年11月 6日 (月)

「16ブロック」:演技晴朗なれど画面含有率高し

監督: リチャード・ドナー
出演: ブルース・ウィリス、モス・デフ
米国2006年

ブルース・ウイリスがヨレヨレの老刑事を演じたのが話題のアクション映画。『ザ・センチネル』よりもよほど評判がいいので行ってみた。アクションと言っても派手なものはなくて、定番と化した黒白二人組コンビの掛け合いを楽しむのが主眼だろう。
監督は数々のエンタテインメント映画の名作を送り出してきたリチャード・ドナーである。

夜勤明けでただでさえヨレヨレしている主人公の老刑事が無理やり頼まれたのが、アフリカ系の容疑者を裁判所まで移送するという仕事。その若者がお喋りのお調子者で--てな具合だが途中で襲撃されてニューヨークの裏町を逃げ回る破目になる。

残念ながら監督に往年の演出の冴えはなく、脚本はアイデアはともかく途中の展開はかなりいい加減なもんである。ご都合主義な展開をすべて「吉兆」で片付けられては堪らない。その他、そこで戻ってくるかー?とか、なんでそこで撃っちゃわないの?とか見ている間も疑問多数だ。

見所はB・ウィリスの老けメイクと、モス・デフ(ラッパー出身だそうで)の舌足らずっぽい喋りぐらいか。退屈はしないので及第点だけど。
おっと--忘れてならないのは、デヴィッド・モースの由緒正しい悪役ぶりだ。これこそはまさに職人芸と言うべきものだろう。

最初に手錠で繋がれてしまう刑事はどっかで見た顔だけど誰だろう……とずっと考えてたが、終わり近くになって監獄ドラマ『オズ』のイタリア系(ありゃスペイン系の方だっけ?)マフィアの一人だったのをようやく思い出した。あー、スッキリ。

バリー・ホワイトがタイヤ泥棒していたというのは初めて聞いた。皆さん、色々苦労しているんですねえ。( -o-) sigh...


さて、ここしばらく立て続けに主演俳優がプロデュースに参加している作品を観てきた。『ザ・センチネル』『カポーティ』『16ミニッツ』だが、どの作品にも共通なのは、ご本人の画面含有率が高いということだろうか。いずれも90パーセント以上なのは間違いなし!


主観点:6点
客観点:6点

【関連リンク】
ウィリスの老けメイクについて
《映画1ヵ月フリーパスポートもらうぞ~》

「船頭多くして船山に登る」「ヌラヌラと喋り続ける」というのが言い得て妙であります。
《Subterranean サブタレイニアン》

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少しばかりズルしても成績上げんとね

東京足立区では学力テストによって小中学校への予算配分に差を付けるそうである。(元ニュースはこちら)
公教育というのは金持ちだろうと貧乏人だろうと出来の悪い子もそうでない子も同じに金をかけてやるものだと思ってたが、そうじゃなくなったようだ。出来の悪い子に金をかけるのはもったいないか?
ただでさえ犯罪多発区なんて言われているのに、ますますそれを助長しそうだねえ。

【追記】
その後、この方針は撤回したとのこと。

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2006年11月 5日 (日)

ラ・フェート・ギャラント「パリの悦楽」:残念無念の途中退場

18世紀フランスの室内楽
会場:東京オペラシティ近江楽堂
2006年10月29日

言い訳させて貰えば、土曜日曜とも休日出勤で疲労困憊。で、その日曜の夜のコンサートがこれだったのだが、あまりに疲れていて家に帰ろうかと思っちゃったぐらい。それを「いや、いかんいかん」と自らを叱咤激励して行くも途中の電車で立ったまま寝ちゃったりして……。(以上、言い訳モード終了)

ラ・フェート・ギャラントは四人組(フルート前田りり子、バロック・ヴァイオリン桐山建志、ヴィオラ・ダ・ガンバ市瀬礼子、チェンバロ平井み帆)のグループ。以前、CDを買って聴いてたのだが、今回セカンド・アルバムを出したという事でその発売記念のコンサートである。ソプラノの原雅巳がゲスト参加していた。

前半の曲目はギユマン(知らない作曲家)、ソプラノが入ってベルニエのカンタータ、そしてルベルのヴァイオリン・ソナタであったが、上に書いた通り私は最初から頭モーローで何がなんだかワカラン状態だった。なんかベルニエのカンタータがやたら長いかったなあ、ということは覚えているが……。
あと、3曲目での桐山さんの弾きぶりはエラく大胆にして情熱的で、「宮さま」というあだ名が付いているのとはそぐわぬ汗も飛び散りそうな熱演だった。(終わった後、近くの若い女の人も「今のステキだったわねー」と言ってましたよ(*^_^*))

しかし、私はこのままだと第二部では隣席の人に寄りかかって眠りこけかねないので、休憩時間に残念無念ながら帰る事にした。

二階の通路を出口の方へ歩いてたら、なぜか桐山さんが歩いて来るではあ~りませんか。私は思わず、コソコソ|_-))))と壁に隠れたのであった。

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2006年11月 4日 (土)

鈴木秀美「バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲演奏会」:エンドピンなしが定番てことで一つよろしく

会場:東京文化会館小ホール
2006年10月27日

鈴木秀美の無伴奏全曲演奏会は新録音盤を出した頃かな?数年前に聴いた。その後、さらに学者による楽譜の研究が進んだということで、また新たに演奏会を何回か行なっているようである。

文化会館の小ホールは響きはよいと思うが、さすがに古楽器の独奏には広過ぎという印象。もう少し小さい所だとベストなのだが。
他の独奏曲でもそうだけど、こういう演奏者一人に対峙すると聴く方もなぜかミョ~に緊張してしまうのであった。
だが演奏自体は緊張を強いる重々しいものではなく、余計なものを除いたスッキリしたものだったと感じた。

この日は第1・3・5番と奇数番の曲を演奏。最高によかったのは3番だったと思う。5番はなんか楽器の調子が悪かった?(トーシロなんでよく分からず)

過去に聴いた他の演奏を思い浮かべてみようとしたが、よくよく考えるとこの曲の全曲生演奏は鈴木秀美しか聴いたことがなかったのに思い当たった。(あのヴィオロンチェロ・ダ・スパラによる演奏は除外(^^;)

家に帰ってネット検索して「無伴奏チェロCD聞き比べ」みたいな所を覗いてみたが、日本人奏者が古楽器で演奏したのは彼のしか見つからなかった。--というか古楽器による演奏自体それほど数はないようだった(探し方が悪いかも知れんが)。

ともあれ、一か月後の第二回目ももちろんチケット購入済である。楽しみだー。

ところでネットで感想を検索してて驚いたのは、バロック・チェロにはエンドピンがない事を知らない人が少なからずいたことだ。「楽器を宙に浮かして変な弾き方をしている」とか「あんなチェロ初めて見た」とか……。
まあ、古楽器についての一般的な認識はこのぐらいのものなんだろう。
念のため書いておくと、チェロにエンドピンを付けるようになったのは19世紀に入ってからのことだそうである。私は古楽系のコンサートばかり行っているので、たまにエンドピンが付いているモダン・チェロを見ると逆にビックリしてしまうのであった。

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2006年11月 3日 (金)

東京都写真美術館三連発

*HASHI[橋村奉臣]展
「一瞬の永遠」&「未来の原風景」
2006年9月16日~10月29日

ニューヨーク在住で、日本よりもかの地の方で知られている写真家の作品展。二部構成になっていて最初の『一瞬の永遠』はアクション・スティル・ライフという手法で撮ったもの。
人間の肉眼では捉えられない一瞬を焼きつけた写真が並んでいる。水面に物が落ちる瞬間とか、グラスがくだけ散る瞬間など、生々しいまでのリアルさが存在していた。ガラスの割れた断面とか、金魚すくいの紙の切れ端など見ていると、なんだかリアル過ぎる感触に見ていて気分が悪くなってしまう。
人間の目に捉えられない故に、このリアルさは逆にファンタジーへと転化してしまうのだろうか。

続く『未来の原風景』は「ハシグラフィー」という名前がつけられている作品群。現在撮った写真をわざと古めかしいセピア色で黄ばんだような紙に焼きつけたものだ。なんでも「今から千年後、西暦3000年の未来の人々に現代がどう見えるか」というコンセプトらしいのだが、こんなコピーはなかった方がよかった。
なぜなら、被写体のほとんどが旧跡名所美術品みたいなものでばかりで、あまり「今の社会」を写したものには思えないから。コンセプトに合わせるなら、対象は何気ない家族のスナップ写真とかアダルト向け雑誌のエロ写真とか高層ビルなんぞになるはずだ。
ロダンの彫刻や古めかしいパリの一画じゃ、アンティーク写真と変わらないような気がする。
ということでこちらの方はあまり面白いとは思えなかった。

スティル・ライフ写真のポスターかカードを買おうと思ったら、作者本人がサイン会をやってて売り場がやたら混雑していたので諦めて二階へ降りる。


*石内都「マザーズ」
2006年9月23日~11月5日

以前『マザーズ』の作品集(ホントに最初の、マイナーな出版社から出てた小型本)を初めて見た時に湧き上がった複雑な感情を忘れる事はできない。
怒り、困惑、嫌悪、懐旧--そういったものがないまぜになって押し寄せてきたのである。写されているのは石内都の母親の遺品や、生前に撮った皮膚のアップなどだが、そこには私の母親と共通したものが多いからだろうか。母親の年齢はほぼ同世代のようだし。もちろん、私の母はこんなハイカラな(←死語?)下着は持ってなかったが……。
ベタベタと密着して迫ってくる「母親」なるものの生暖かさと息苦しさ。それらの全てがそこに存在した。

しかしそれはまだ母が生きていた頃の話である。しばらくして自分の母親が死んでからこの写真集を再び開いた時には全く違った感情が生じた。
それはひたすら懐かしさ、懐古の情だけであった。そして泣けてきた。
多分それはもはや自分があの母親性というものに脅かされることがなくなったせいでもあるだろう。開放されたからこそ純粋に懐かしく思えるようになったのだ。

そしてさらに数年経って、この作品展に来た時、もはや大きく感情が動かされることはなかった--はずだった。
しかし、私はとある作品を見た瞬間に涙が出てきて止まらなくなってしまった。あわてて顔を背けて他の作品に見入ってる振りをしたぐらいだ。
もう、美術館へ行って泣いたなんて初めての経験だ。恥ずかしい~。何を見て泣いたのかはヒ・ミ・ツよ(^=^;

かくの如く、極めて個人的な感情が喚起される作品なのだ。
一体、母親に対してわだかまりのない人がこれらの写真を見たらどう感じるのだろうか。あるいはまだ母親が若くてピチピチしているような人は--。私はそれが知りたい。
まあ、堂々と母親性を肯定できるような人は、却ってこの展覧会を見なくてもいいかもしれないが。

会場内にはずーっと「G線上のアリア」が流れていてうるさくて却って鑑賞のジャマだった。と、思ったら別にBGMとして流しているのではなく、奥の方の一画で映像作品を上映していて、その作品につけられている音楽だったのだ。
だが、普通こういうのは音量をもう少し小さくしてかけると思うが……。いささか無神経な印象である。

なお、会場でくれた小冊子には東京都写真美術館の学芸員であり、ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして石内都を選んだ笠原美智子の、長文の恨み節が載っていて面白かった。怒りの対象は主に日本の文化行政と女性作家の少なさである。後者に関しては美術界は(世界的に)まだまだ男社会のようだ。


*パラレル・ニッポン 現代日本建築展 1996-2006
2006年10月21日~12月3日

正直に言おう。こんなもんでよくも700円もぶったくったものだ。まるで建築業界の宣伝看板を並べたのを見させられたみたいなもん。これからギョーカイ入りをめざす学生にはいいかもしれないけど、私のような純粋な鑑賞者には面白くも何ともない。

むしろ、写真美術館の収蔵品の中から選んだ過去の建築写真の方がずーっと面白かったが、そこは券なしで見られるコーナーなんだよね……(=_=;)
金と時間を無駄にした。

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2006年11月 1日 (水)

「ルネサンス・宗教音楽の夕べ」:神の家でケータイを鳴らす者は

聖フランシスコ・ザビエルの時代の音楽
出演:ムシカ・フィクタ
会場:日本福音ルーテル東京教会
2006年10月24日

大分で開催された「豊後ルネサンス音楽祭」の一環として一回だけ東京で行なわれた公演である。
最初にNHK-FMで「朝のバロック」を担当していたアナウンサーの日野直子が登場して音楽祭開催ののいきさつなどを話した。彼女は豊後の出身だそうだ。
音楽祭の中心は日本のアントネッロと、この日登場のムシカ・フィクタが二本柱になって行なわれたもよう。

このグループはスペインの五人組のアカペラ合唱グループで、この日はフランシスコ・ザビエル生誕500年記念としてスペインの宗教音楽を歌った。私は実は雑誌「アントレ」のコンサート・スケジュールを見て何も分からずに、とにかく聴いてみようと直前にチケットを買ったぐらいなので、完全なアカペラというのさえ知らなかった。

指揮のラウル・マリャビバレナは秋葉原にいても不思議ではないような大柄なヲタクっぽい外見の男性。他の四人は一声部一人ずつで、みんな若い。
アカペラと言っても、美しいハーモニーを聞かせる--というのではなく、個々の歌手の生きのいい掛け合いを重視するようなタイプである。

プログラムはゲレーロ、モラーレス、ビクトリアといった有名作曲家を中心に、一部世俗歌曲も交じったもの。前半は今イチだったが、後半に至って段々良くなってきた。
特にオルティスの「サルヴェ・レジーナ」、ゲレーロの「アヴェ・マリア」、世俗曲の「何を使って洗いましょう」が聴かせてくれた。
また「ウプサラの歌曲集」からの、クリスマス・ソングとしても知られる「リウ・リウ・チウ」や「ファララランラレーラ」のような民謡っぽい素朴な宗教曲もよかった。
テクニックなどについてはトーシロなのでよく分からないが、すごーく巧いというよりは、若くて本場スペイン出身というのが強み、といった感じだろう。普通のコンサートではあまりそういう現在進行形の若手グループは聴けないので、得した気分になれた。

外は雨で気温が低い日だったが、教会内は結構暑くて上着を脱いでいる人がチラホラ。メンバーもしきりに汗をぬぐったり、ミネラルウォーターを飲んだりしていた。

さて、一番感動したのは真摯で流麗な「アヴェ・マリア」だったわけだが、ちょうど曲が終わって会場がシンとして感動が高まったところで、な、なんとどこからかケータイの呼び出し音が響いてきたのである! ちゃんと最初に日野さんが切ってくれと注意したのに、なぜだ、なぜなんだー(怒) なぜ切らぬっつーの(*`ε´*)ノ☆
教会でこのようなことをする不届き者を決して神は許すまい、今にも罪人の頭に神の怒りの鉄槌である雷が落ち、そして教会の床がパックリと開いて地獄に引きずり込むに違いない--と私は期待して待ち構えていたのだが、何も起こらなかった。どーやら、神様は気にしていないようだった。(脱力)

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