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2006年12月

2006年12月31日 (日)

「シャーロットのおくりもの」(字幕版):人間の暴挙に○○の力で対抗

監督: ゲイリー・ウィニック
出演: ダコタ・ファニング、ジュリア・ロバーツ(声)
米国2006年

昔でも未来でもないある時、とあるド田舎の農家に、それはそれはカワユイ子ブタのウィルバーがおりました。どれぐらいカワユイかというと、心の汚い大人なら誰でも「丸焼きにして食いたい! いや、トン汁かな。ハムやソーセージでもいいなー(^Q^;)」とヨダレを流してしまうほどでした。
もちろん、このブログを読んでいるよい子の皆さんなら「えー、信じられない~。あんなカワユイ子ブタちゃんを食べるなんて」と思うでしょう。でも、人間の大人の○欲は尽きる事がないのです。恐ろしいですね。

ですから、彼が殺されそうになった時に救ったのは当然大人ではなく、農家の女の子ファーンでした。そうしてペット代わりに育てていたのですが、育ち過ぎて遂に隣の農場に彼を引きとって貰うことに。
だが(!o!)何と言う事でしょう。その農場には世にも恐ろしい薫製工場があったのです!ザザーン(←ホラー映画風の音楽)

さて、ここまで読んだよい子の皆さんは、このお話は女の子ファーンとブタのウィルバーが協力し合って窮地を脱する物語だと予想するでしょう。
ところが、ここでファーンも含めて人間は舞台の真ん中から引っ込んでしまうのです。(彼女は医者が予言した通り「大人」になってしまいます。詰まらないですね)後は動物たち中心のお話になります。

クモのシャーロットは、ファーンの兄(?弟か)のクソガキに--あ、いやいや、よい子の皆さんにこんな言葉づかいをしてはいけませんね--元気なお子ちゃまに捕まえられそうになったのを、ウィルバーに助けてもらったので恩返しに、なんとか彼が薫製小屋に送られるのを阻止しようと考えます……。

ここで賢い皆さんは当然のことながら「ちっこいクモなんかが人間様に対抗できるかよー。ウソっぽーい」と思うことでしょう。でも、だからこその「奇跡」なのです。
さて、シャーロットの知恵は何を使って子ブタを救ったのでありましょうか?

折角のサム・シェパードのナレーションがちょっと説教ぽい事を除けば、心温まるよいお話です。だが、どうしたことでしょう! 字幕版のせいもあるでしょうがよい子は映画館中見渡して一人としておりません。観客はみんな大人ばかりではありませんか。一体この国の未来はどうなるのでしょう。心配です。
でもやっぱりよい子は賑やかなアニメやゲームの方がいいに決まってますね。こういうお話が必要なのは、よい子よりも心が濁っていてヨレヨレとくたびれた大人の方なのでしょう。

追記:S・ブシェミが声をやっている業突く張りのネズミは、がめつくて何よりも残飯が好きで、物をため込んでは他人の目から隠して悦に入り……て、なんだか思い浮かぶ人物が(^=^; そう、あの「ジェイムズ君」ですよっ。


主観点:7点(悪い大人のみ推奨)
客観点:6点

【関連リンク】
ブログ名とハンドル名からお分かりのように真正「シャーロット」ファンの方の感想です。
《シャーロットの涙》

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2006年12月30日 (土)

「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」:遠くから眺めているのが吉かと

監督:クシシュトフ・クラウゼ
出演:クリスティーナ・フェルドマン
ポーランド2004年

アウトサイダー・アートとはそもそも正式の美術教育を受けていない人による作品を指すらしいが、このニキフォルという画家は正しくそれにピッタリとあてはまるだろう。

1960年代のポーランド、美しい保養地に出没して観光客相手に自分の絵を売りつける老人として彼は登場する。その時既に彼の絵は認められ、美術館で個展が開かれるようになっても、である。

物語は晩年に彼に成り行きで関わり色々と世話をするようになった年下の画家との交流が中心となる。
元々、言語障害のある頑固爺さんでコミュニケーションは取りづらく、他人のことなぞお構いなし。画家も「美術学校なんて行ってムダムダムダ」とか「お前には才能がない」なんて言われちゃって、変なじーさんがウロチョロするもんだから家族ともうまく行かなくなってしまう。

ニキフォルはなんと老女優クリスティーナ・フェルドマンが演じている。全くシワクチャのじーさんという感じで違和感なし。画家役のロマン・ガナルチックと、この二人の演技で全てを見せていると言っても過言でもない。
だが、画家の伝記としては……物足りない。なんだか感動的なエピソードで終わり、みたいだ。映画を観る前と後で、彼の作品に対する見方が変わるわけでもないし、興味が深まったわけでもない。

ロビーに彼の絵が展示してあったが、個人的には「あんまり興味持てないな」で終わってしまった。
それから、やっぱりこういう頑固じーさんは側にいたらイヤかな、と。美術館で作品眺めてた方がいいです。(^o^;


主観点:6点
客観点:7点

【関連リンク】
色々詳しい情報や画像が出ています。
《海から始まる!?》

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2006年12月29日 (金)

昔から大島弓子は人気があったわけではない(多分)

《へんぺんメモ》の「大島弓子って若者にそんなに読まれてないの?」で紹介されているリンク先へ行って、《少女漫画的日常》の「大島弓子が読めない女の子はいっぱいいる」を読んでみる。

うーん、どうでしょうね、確かに大島弓子を含めていわゆる「24年組」は今どきの若いモン(の大部分)には、テーマにしてもマンガ文法にしても好まれるようなものではないと思う。
しかし、だからと言って当時は大きな人気があったかというと、そんな事はないだろう。

マンガに限らず、映画や小説もそうだがウルサ方のマニアやファンの好む作品と一般の消費マーケットで売れる作品にはズレがある。その両者が一致する事は少ない。
例えば赤川次郎や西村京太郎がどんなに部数を売ったとしても、「このミス」や週刊文春のベストテンに入る事はないのだ。
また、マニアの評価も長い年月によって変化するし、「名作」と呼ばれるようになるかどうかはリアルタイムでは分からない。別のジャンルの話でまたも恐縮だが、「キネマ旬報」誌の映画評論家による毎年のベストテンでは『2001年宇宙の旅』は第4位(1968年)、『ゴッドファーザー』は第8位(1972年)である。『ロミオとジュリエット』が『2001』より上だって? 今ではとても信じられないランキングだ。

当時のマンガ誌編集部の人気のバロメーターは、プレゼント応募のアンケート葉書だった。そのターゲットは小中学生だろう。大人の読者やマニアは雑誌を買っていたとしても葉書を出したりしない。従って、24年組のように当時からマニアに支持されていたマンガ家は、そういう意味での「人気」は低かった。
萩尾望都の『トーマの心臓』は雑誌連載中に打ち切りの危機に瀕し、彼女は必死になって人物の背景に花を散らしたり、ファンレターに返事を出して「アンケート葉書にマルを付けて下さい」と読者に頼んだそうである。

大島弓子は『綿の国星』で商業的にブレイクしたが、それ以外の時期にどの程度の一般的な人気や認知度があったかは不明である。もちろんマニアは作品が出る度に騒いでいたけど。当時もマンガをよく読んでる子だからといって大島弓子の事を聞いても、「知らん」とか「興味ない」という返事が返ってくる率は高かったろう。

彼女が他の24年組とは違っていたのは中年男性の支持が高かったこと。誰だったか忘れたが、昔テレビで中年の評論家がホントに嬉しそうに本をナデナデしながら「大島さんの作品は--」なんて語っていたのを見た事がある。
荷宮和子はコマ割が他のマンガ家に比べて複雑でないから、中年のマンガを読み慣れていない人にも受け入れやすかった、と書いていたが実際どうだったのだろうか。


(以下懐古モードに突入)
大島弓子で忘れがたいのは、大昔の「ぱふ」誌--それともその前身の「だっくす」だったか?--で映画評論家の北川れい子が『綿の国星』を読んで激怒。こんな大甘な少女趣味のベタベタなマンガは許せねえ~という感想を、極めて性的な罵倒語を駆使して書いたもんだからちょっとした騒ぎになったことだ。
あまりにお下品な叙述に非難も多かったが、北川れい子は物足りず、さらに硬派バリバリな評論家平岡正明(当時『山口百恵は菩薩である』など歌謡曲評論で一躍有名に)に読ませて大批判対談大会をやろうと図ったのだった。
とっころが、意外にも平岡正明は『綿の国星』にはまってしまい、批判大会は腰砕け状態になってしまったのであった。恐らく、平岡正明は「大甘な少女趣味」の背後に性のメタファーを感じ取ったのだろうと思われる。

もう一つ印象的なエピソードとしては、橋本治が友人のロック・ミュージシャンのPANTAに、『バナナブレッドのプディング』を御茶屋峠の性格にPANTAがそっくりだと言って貸して読ませたという話だ。(ちなみに彼は読んで「なるほどオレだ」と思ったという)
私の友人一同すぐ疑問に感じたのは「えー、じゃあ橋本治はどのキャラクターが自分だと思ってるんだろか(?_?;」ということであった。
なお、PANTAも硬派なロッカーとして知られる。ただ、彼ははっぴいえんどの曲の中で「空色のくれよん」が一番好きだと言ってたぐらいなので、本質的にはロマンチストなのかも知れない。(だーって「空色のくれよん」ですよっ!)

(注-以上の文章は記憶だけで書いているので、事実と違っているところがあったらスマン)

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2006年12月28日 (木)

今年も日本インターネット映画大賞参加予定です

やって来ました、ベスト10の季節。ということで《日本インターネット映画大賞 in ブログ》が更新された。
今年も外国映画部門に参加予定です。でも、それほど本数見てないなー。一番イカンのは「後でDVDが出たら見よう」と思ったのが全然フォローできてないことである。
しかしまだ年末年始に頑張るぞー(~o~)ノ
なお、個人的にオマケ部門(ワーストなど)もやる予定。

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2006年12月25日 (月)

大学生に配って何が悪い!とあえて言ってみる

《Imaginary Lines》の「白ヤギさんからお手紙ついた、らしい」経由で、《大学教員の日常・非日常》の「伊吹くんからの手紙」を読む。

大学にまで小学校と同じ文面の「文科大臣からのお願い」が配られていたという話。
確かに驚くのではあるが……
ちょーっと、待ったd(-.-;)

こちらの大学生の学力不足についての記事を読むと、
「大学教授らが直面した学力不足の例」として

〈国語〉・語彙(ごい)力が中学生以下で論文を読めない

となっている。つまり小・中学生並みの文章読解能力の学生がかなりいるということだ。だったら、小学生と同じ文章を配って何がいけない? いや、むしろ同じ文章でなくてはいけないのでは(^^?)
何せ、今の大学生は「ゆとり教育」のおかげで基礎学力も常識もなんにも知らないおバカなんでしょう? なにせ最低最悪「ゆとり教育」なんだかんね。みんな「ゆとり教育」が悪いのよ。
それを大学の先生自身が言ってるんだからさ。あの「お願い」は大学生にもオッケーってことよ。


【注】以上の文章は皮肉です。念為。


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2006年12月24日 (日)

今年のクリスマス・アルバムはこれだっ

ここ××年ばかりクリスマスとは何の縁もない生活を送っている。買い物行っても、映画館でも人が多くてイヤだし、家でジッとしているのが一番てな感じなんであーる。

せめて音楽だけでもクリスマス気分、ということで今回買ったのは--

ジョエル・コーエン指揮ボストン・カメラータ『地中海のクリスマス』
(Warner Classics)

である。日本でも先日ライブを聴いたアンサンブル・エクレジアや、新盤が話題のアントネッロみたいにジャンルを横断して宗教音楽まで演奏しちゃう流れが目立つが、こちらはさらにすごい。
なにせ、イベリア半島はもとよりイタリア、南フランス、バルカン半島、エジプト、モロッコ--時代も12世紀から19世紀までに渡る。もちろん言語も様々、内容もキリスト教のみならずユダヤ系アラブ系も。ということで、アラビア音楽のアンサンブルと共演している。
曲は古い写本から復元したり、現地のコミュニティで採集したものなど。一つの曲の中に異なる宗教文化の要素が混在してるのもあって面白い。イエスの誕生の物語がユダヤのアブラハムの誕生の歌に変わってたり、馬小屋に贈り物を持って行くのが羊飼いでなくて貧しいジプシーになっている曲など。
また、ヘロデ王に殺された子どもたちを嘆く歌の激越な悲嘆はド迫力を感じた。

ジョエル・コーエンは来日した時のレクチャーで、中世ヨーロッパの音楽は後世の西欧音楽よりも中近東など同時代の他地域の音楽の方に類似している、と述べていた。このアルバムもその実践例ということだろう。

雑多で異教味タップリのあまり、聴いてて目が回る~(@_@)
とはいえ、やはりこれは録音よりもライブで聴いて見てみたいもの。それも立派なホールでなくて、極小なホールか教会みたいな場所でだ。

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2006年12月23日 (土)

「マジックランタン 注文の多い料理店」:賢治先生も墓から起き上がって「こりゃ、満足だー」と言うはず

宮沢賢治生誕110年記念公演
出演:結城座
会場:シアタートラム
2006年12月13日~17日

長い歴史を誇る糸あやつり人形の結城座、今回の演目は賢治である。と言っても、そんじょそこらの賢治と違う。江戸時代に考案されたというマジックランタン(写し絵)も使用して、二部構成となっている。
写し絵は携帯用スライド映写機みたいなもん。昔はランプや灯芯を使って川に浮かべた屋形船の障子に投影させて見せて、喝采を受けたという。操作する者は脇に抱えてスクリーンに対して近づいたり、離れたり、自在に動かしては様々な効果を生み出す。
今回はステージの中央に幕を張って奥の方から投影し、その前で人形が芝居をするという趣向である。

第一部は「賢さんのトランク」で、一郎少年と怪しいオヂサン(実はヤマネコ?)が登場。子ども&賢治をよく知らん観客に対しての配慮か年譜を解説までしたりして、さらに「祭りの晩」などの短編をおりまぜて写し絵で演じてくれた。第一部では原画のガラス絵は児玉房子の絵を使用。
題名は忘れてしまったが、ひなげしとヒノキの物語でカエルに化けた悪魔の目がキョロキョロ動くのには笑ってしまった。

第二部は「注文の多い料理店」。ガラス絵は寺門孝之の描き下ろし。このブラックな笑いに満ちた怪しげ、かついかがわしい物語と写し絵の雰囲気がピッタリだった。暗闇の中からピカピカのレストランがモヨ~ッと出現してくる場面など忘れがたい。
客の男二人を演じる人形もいかにもブクブクした俗物風なのがユーモラスでよかった。

写し絵はかつてスペクタクル的な演目として人気を博したらしいが、レトロで妖しいイメージにお子ちゃまよりも大人の方が引きつけられて夢中で見ていたようである。私は子供の頃に縁日で買った回り灯籠を思い出した。
休日のせいもあったろうが、客席は満員御礼だった。

来年は二作品、それぞれ鄭義信、渡辺えり子と組んでやるそうでこれまた期待大である。絶対見に行くぞ!

【関連リンク】
こちらの感想はよく雰囲気が伝わってきます。
《飴色色彩日記》

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2006年12月19日 (火)

「スペインのクリスマス」:マリア様も踊り出す?

中世の教会から現代の街角へ 時をこえる歌と古楽器の響き
演奏:アンサンブル・エクレジア
会場:聖パウロ女子修道会チャペル
2006年12月15日

つのだたかしのもう一つのプロジェクトであるアンサンブル・エクレジアは専ら宗教歌を演奏するグループ。CDは持っているがナマの演奏を聴くのは初めてである。同じ内容の公演をハクジュホールでもやったが、クリスマス曲ということで教会を会場にした日を選んだ。
キレイなステンドグラスが天井にまであって雰囲気はバッチリだし、前の方の席だったので間近につのだたかしや山崎まさしの指使いも見られてヨカッタヨカッタ。

ヴォーカルは波多野睦美とフラメンコ歌手(カンタオール)の永潟三貴生という取り合わせ。
前半は中世からルネサンス時代の聖母の歌や巡礼の歌を演奏。後半は近代編となって、カタロニア地方の歌を波多野さんがオルガンだけをバックに歌ったかと思えば永潟氏がスペイン歌謡風クリスマス・ソングを熱唱。ここでは、タブラトゥーラでは縁の下の力持ち風であまり目立たってない山崎まさしが俄然本領発揮。フラメンコ・ギターの華麗なる技巧を披露してくれたのであった。

素朴な歌から踊りたくなる歌謡曲風まで色々なクリスマスソングを楽しめたコンサートだった。
休憩には修道院のシスターたちが赤ワインをサービスしてくれた。普段はアルコール入ると眠くなっちゃうんじゃないかと思って敬遠してたんだが、つい貰って飲んでしまったのよ。とてもおいしかったです。

これで今年のコンサートは打ち止め。ホントはもう一つ行きたかったのがあったんだけどグズクズしてたら完売になってしまった(泣)。あとはCDでも聴きまくるしかないぞ。


ところでチラシの「コンサート速報」に4月にモンテヴェルディの「オルフェオ」をなんとムジカーザ(収容人数90人!)でやるとあった。マジですか。こりゃ是非とも行かねば。北とぴあ音楽祭と張り合うつもりかっ。

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2006年12月17日 (日)

「おれちん」:みんなで行こう「美しい国」へ

現代的唯我独尊のかたち
著者:小倉紀蔵
朝日新書2006年

×月×日
『おれちん』を読む。どうやら、これはコイズミ前首相に代表される新たなる日本人のタイプ(他にはホリエモン、ナカタが該当)を論じた本らしい。
「おれさま」と「ぼくちん」を半分ずつ合体させたのが、「おれちん」であり、その正体は「自己中心的で威張っていて、しかも自閉的」なのだそうだ。

×日×日
『おれちん』を読み進める。
これは「おれちん」批判の書かと思っていたら、どうも違うようだ。むしろ、あなたも「おれちん」である事を認めた方がいいという啓蒙書のようである。

「世の中=家の外=ネットの外」に「居場所」を持てない全能感と無能感の塊が、「世の中=家の中=ネットの中」に大量に浮遊する。

おおっ(!o!)これが「おれちん」というのならば、正にタコツボ化したブログでどうでもよい細かくて下らない事を書き綴っているブロガーはみんな当てはまってしまうではないか。
も、もしかして私も……(大汗)

×日×日
さらに読み進む。
どうもこれは最初の印象とは裏腹に「おれちん」勝利宣言の本だったようだ。
そうだ!下らなくて古くさいアイデンティティにこだわる「わたし」なぞ、もはや完全に消滅した。「おれちん」バンザイ \(^o^)/

×日×日
遂に読了する。
なんということだ。事ここに至ってこんな展開になるとは……。
結末まで行って、唖然ボー然憮然。
やられた、やられたよ_| ̄|○ もうダメだ。泣いちゃうよ。

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2006年12月16日 (土)

「キング 罪の王」:悔悟、懺悔、そして破壊

監督:ジェームズ・マーシュ
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、ウィリアム・ハート
イギリス・米国2005年

極めて不可解な映画である。
軍隊を除隊した若者がまだ見ぬ父親に会いにテキサスの田舎町へ行く。ところが父親は教会の牧師なんて職業の上に、平和な家庭を築いているもんだから、若者を追い払う。そこで彼は牧師の娘(つまり異母妹)に正体を隠して接近--遂には妊娠までさせてしまう。

一家はいわゆる熱狂的なキリスト教原理主義者だ。近年、米国ではインテリジェント・デザイン論というのが社会問題化しているようだが、息子はそれにのっとって高校で進化論の授業を受けないように、学校に訴えたりして活動している。しかし、一種狂信的な彼は学内では嘲笑されてもいるのがさり気なく描かれる。
妹の方は兄の高圧的な態度や、家庭内で自分がやや軽んじられているのが気に入らないようだ。だから見知らぬ若者が出現してきた時、コロッとなびいてしまう。
父親は事実が知られれば自分の地位や尊敬を失うことだから若者を認めるつもりはないし、母親は夫の裏切りを知って動揺している。

……というように、一家の心理状態はよく表現されているのだが、肝心の主人公の若者の内面は全く描写されていない。一体、娘に接近したのが復讐のためなのかどうかもハッキリしない。真実がバレそうになっても平然としてるのも不明。何を考えているのか一切分からない。
ガエル・ガルシア・ベルナルはそんなヌエ的な人物をうまく演じている。初めての英語の作品だそうだが、英語うまい(多分)のにもビックリ。

父親役はウィリアム・ハートだし、母親や娘役もいいのだが、実は何気に役者としてすごいのは兄役のポール・ダノかも知れんと思った。だって役が地にしか見えないんだもん(汗)。なんかホントに田舎町の平凡だけど凝り固まってしまった男の子--って感じ。それ以外には見えない。凡庸にして偏狂という一種矛盾した役柄である。外見はG・G・ベルナルと極めて対照的だが、意識してのキャスティングか? 『リトル・ミス・サンシャイン』でも兄役をやってるらしいので、期待大だ。

ラストの主人公のセリフには色々な解釈があるようだが、父親が息子を失って初めて「罪」を意識して公衆の前で懺悔するのは、そうすれば神が許して息子を返してくれるからと考えたからだろう。だが、そんな風にうまく許されるわけではないのだという皮肉--と私は解釈した。

不可解なのは、他にも意味ありげに描かれてほったらかされている描写が多いこと。弓と銃の執拗な写し方、若者と母親は「親子どんぶり」になりそうとか、題名が『キング』で名前がエルビスでしかも軍隊--ったらプレスリーだろとか。(でもプレスリー関係ないんだよね)

それにしても、教会での信仰篤い原理主義者たちの描写は、外部の人間にはうかがい知れぬもので興味深かった。こういう人たちがブッシュを熱烈に支持しているんですねえ……。

ラストのタイトルクレジットが終わった後も画面がブランクのまま、ボブ・ディランの曲が流れているのは変わってて面白い。


主観点:6点(あまりの不可解さに困惑)
客観点:7点

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2006年12月10日 (日)

「ヘンデル・オラトリオからのアリアと重唱の夕べ」:あとは本番待つのみ

出演:キャノンズ・コンサート室内合唱団他
指揮&解説:三澤寿喜
会場:日本福音ルーテル東京教会
2006年12月8日

毎年、この時期になると「ヘンデル・フェスティバル・ジャパン」というのが開催される。今年は4回目だが、毎回ヘンデルのオラトリオの上演とそれに関係した企画コンサートが行なわれる。前回は『ヘラクレスの選択』がとっても良かったー。
今回のオラトリオは来る1月14日に『ヘラクレス』を予定。で、この日はその前哨戦と、バックの合唱団のメンバーが様々なオラトリオから選んでアリアを歌うという趣向。

まあ私のようなトーシロが聴いても色々な人がいたというか--まだ学校出てからそんなに経ってないような初々しい人もいれば堂々としてる人もいるし、声量と技量も様々なような……。まあよくわかりませんが(^=^;

また、指揮者(本業は学者らしい)の話がよく聞こえなくて参った。「マイクを用意しようと思ったが……(その後が聞き取れず)」とにかくマイクなしで、小さい声でしかも早口で喋って、他人に聞かせる気があるのかゴルァと言いたくなったのは確かである。

さて、さすがに終盤に近づいてきて私のニブイ頭の中にようやく疑問が浮かび上がってきた。「もしかして--これってウチワの発表会じゃないのかしらん(?_?;」
そう考えると、受付がなんだかモタモタしてたのも納得だし、客同士が顔見知りなのがやたらと多いようなのもさもありなん。はっきり言って私みたいな客は無関係なのかも知れない。
私はよく内容もチェックしないでチケットを買ってしまうので、時々ウチワの演奏会に行ってしまう事があるが、今度からちゃんと注意するようにしなくては。

でもまあ、小さな教会で多人数の合唱を聴くとさすがにド迫力で、そういう点では良かった。
あと、楽器を演奏してた人たちはオラトリオの時のメンバーとは違っていて、オルガンの人(先日サントリーホールのレクチャーコンサートでパイプオルガンを弾いてた)以外は知らない若い人ばかりだったが、達者で安定性があった。ただ、気候のせいかチェロは弦の調子が悪くて悪戦苦闘していた。
このチェロの男性の経歴を眺めていたらずっとモダン畑の人らしくて、「へえ、モダンと古楽と両方やるのか」と思ってたら、よくよく見るとチェロにはしっかりエンドピンが付いていた……のは秘密である。

前に二回、この会場に来た時に体調が悪くてマイッタが、今回も風邪で熱が後半になって上がってきたようでひどかった。宗旨は違えど親の仏壇にもロクに手を合わさぬ不信心が見抜かれたか、どうもここの神様とは相性が悪いようだ。
ともあれ、1月14日が楽しみであるよ。(^^)

【関連リンク】
公式HP


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2006年12月 9日 (土)

櫻田亨リュートリサイタル:リュート様7台揃い踏み

やすらぎのガット・7つの響き
会場:東京オペラシティ 近江楽堂
2006年12月5日

ステージの背後には7台のリュート(とテオルボ)が並んでいる。と、そこへなぜか櫻田亨の師匠の佐藤豊彦が登場。調弦に時間がかかるので、彼が解説話をしている間に演奏者がひたすら調弦するとのことだった。

このコンサートは、各時代のリュートで当時の曲を年代順に弾いて行くという趣向。これはまさに実際に聴いて見て実感のリュート音楽史--いや、ルネサンス~バロック音楽史の試みである。なんと豪勢な内容ではにゃあですかっ!
だが、その背後には……。
佐藤師匠が語るには本日使用のガット弦は総計130本。一体何匹の羊さんのおかげであることやら(古楽器に使用のガット弦は羊の腸から作る)。羊さんたちのご冥福をお祈りします(-人-)ナムナム

最初の6コースのリュートでは15世紀末から16世紀初頭に使われたものの複製。オランダにある最古の設計図から復元したものだそうだ。演目の作曲家はフランチェスコ・ダ・ミラノとノイジドラー(後者は知らず)。なんかちょっと変わった音。うまく表現できんが。ダ・ミラノの曲はかわいらしい感じ。

その後は8コース(16世紀後半)、10コース(17世紀)と進み、前半最後は13コースのアーチリュートが登場。低音の弦のネックだけ長く伸びている。ここで、ルネサンス時代に追求された均整美は終わり、バロックの歪みが求められる時代に変わっていったという。

後半は11コースのバロックリュート、14コースのテオルボ、そして同じくバロックリュート(18世紀前半)という流れだった。バロック期には調弦法がフランス式になったという大きな変化があったそうな。
全体通して良かったのはやはりラストのヴァイスであった。「シャコンヌ」は佐藤師匠の名演があるが、また違った弾きぶりであった。

それにしても、7種類もあると調弦が大変で、休憩時間もステージに現われてちょこまかと調弦している櫻田亨は大変そう。まさしく「リュート(テオルボ)奏者の人生は演奏している時間より調弦している時間の方が長い」という言葉を実感できた。その姿はわがままなリュート様たちにかいがいしく使える侍従のよう。一方、客の方もリュート様に合わせて低めに設定された室温に、コートを着込んでガマンガマンの鑑賞だった。
もちろんこの会場で一番偉いのは聴衆でも演奏者でもなく、リュート様だったのは間違いない。

最前列に座っていた中年女性二人が赤いバラの花束を渡すはずだったらしいが、タイミングを逸して客が帰り始めてから渡すという羽目に……。やはりアンコールの前か直後じゃないとダメでしょう。

「リュート音楽の花は渋く美しい。その実は深い味わいがする。だがその香りはリュート奏者の汗と涙の匂いがする(T^T)クーッ」(「細ガット弦繁盛記」より)

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2006年12月 5日 (火)

歌劇「月の世界」:とりあえず北区民の皆様に感謝

作曲:フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
演出:実相寺昭雄、三浦安浩
演奏:寺神戸亮&レ・ボレアード
会場:北とぴあ さくらホール
2006年12月1日・2日

ハイドン……古典派なんである。完全に私の守備範囲外なのだが、どうして行く気になったかというと「北とぴあ国際音楽祭」はほぼ毎年行っていたから。それに、演出に実相寺昭雄が担当するとあったからである。
音楽が苦手でも演出が面白ければなんとかなるかも知れんと思ったのだ。

ところが開幕二日前に実相寺昭雄はなんと亡くなってしまった。がんという病名から考えて直接に演出にたずさわれたはずはなし。せいぜいアイデアかプランぐらいか--と想像していたら、こんな記事がネット上に出た。
《LINDEN日記》 なんと彼は全く演出に参加していないというのだ。これが事実ならば
またしても
サギ!インチキ!金返せ~(>O<)
コールである。

実相寺だからとチケット買った人も多かろうに。だとしたらカーテンコールでもう一人の演出家が小さな遺影(多分)を持って現れたのは「ようやるよ」としか言いようがない。

というような波乱の幕開けだったのだが、作品の内容自体は至って単純。ヒヒジジイに娘が二人いて、父親に認めて貰えない恋人がそれぞれいて、召し使い同士のカップルもいてなんとしよう--って、なんか先日の『レ・パラダン』とあんまり変わらないような気が。当時の喜劇風物語の定番だったのであろうか。
ただ、あちらは歌無しの演奏部分が多くを占めていたのに対し、こちらは歌手のセリフ的なレチタティーヴォがやたらと多い。歌手の演技を楽しむ作品のようだ。

中心人物であるヒヒジジイの父親と長女の恋人役は海外から歌手を呼んで、それ以外は日本人。二人の娘は野々下由香里と森麻季。巷の評判になってるのは森麻季のようだが、野々下さんもコミカルな感じで可愛かったのよ(*^-^*)
女中役の穴澤ゆう子は『レ・パラダン』の全裸ダンサーズには負けるが、メイド服のメガネっ娘として登場。着替えシーンもあったぞ。(ただ、メガネ娘にあまり見えないのが難であります)
父親役のフルヴィオ・ベッティーニは若い娘に熱を上げる好色なオヤヂを熱演していたが、作品の性質を考えるともっと大袈裟で俗っぽくても良かったのではないかとも思った。

演出面は、アニメ絵のスライドをスクリーンに投影して登場人物や指揮者まで紹介するのは面白かった。
長女に求婚する天文学者を白衣のマッド・サイエンティストにして手下をゾンビだか人造人間風にしたのは奇抜といえば奇抜だが、当時の天文学者ってどっちかというと現代のIT企業の社長(最先端のモノで無知なオヤヂを騙す)みたいな感じではなかったのか。よって、そこだけゴシック調なのは設定と合わない気がした。まあ、白衣が似合ったので許そう(ってそういう問題か)。
愛の神アモーレ(歌わない)は元から設定されたキャラクターなのだろうか? なんか、いなくても全然構わないような感じだった。

全体的にはレチタティーヴォの部分がいささか冗長で退屈っぽかったのは参った。これは元々そういうものなのか、それともハイドン先生が悪いのか、この公演だけ悪いのか。比べようがないので分からないが。

舞台装置は非常に大がかりである。3段に分かれた巨大なセットが縦に上下するのだ。スゴイと感心してしまうが、客席から見ているとむしろセットに歌手たちの動きが制約されているようで、却って閉塞感を感じてしまった。
それに大幅赤字だっていうのなら、こんな金がかかりそうなのは避けた方がよかったんじゃないだろか?(余計なお世話)なんて心配してしまったよ。
さらに--これも『レ・パラダン』と似ているのだが、肝心の『月の世界』が全然魅力的でなかった。どこかのビルの屋上みたいで、そこら辺にビールの空き缶やゴミ袋とか転がっていても構わないような感じだ。これじゃ親父はどこに惹かれたんだか全く実感できない。

音楽自体については、なにせ守備範囲外なんであまり楽曲に気を引かれる所がなかったのは残念。レ・ボレアードの演奏は通奏低音がアクセントを効かせていてよろしかったのではないでしょうか……守備範囲外のためこれぐらいしか言えない。

てな状況なんで、他の人の感想をカンニングしてみると、オペラ・ブッファとして歌手も演奏もほとんどダメ!というクロート筋の厳しい批判もあれば、ハイドン・ファンとして喜びの感想をあげている人もいて様々だった。森派と野々下派の割合は7:3というところか(某党の話ではありません(^^;)。

蛇足だが、プロンプターって初めて見た(!o!)
ロビーで波多野さんを目撃。やはり目立つのよね~。

来年はモンテヴェルディの『オルフェオ』だそうで、また楽しみだー。音楽祭のテーマが「伝説」というのも期待大である。


なお、ついでに北とぴあ国際音楽祭についても書いておきたい。
東京北区が十年以上に渡り継続してきた音楽祭だが(ここに過去の一覧あり)、ホグウッド、ヤーコプス、サヴァール、ルセ……等などそうそうたる面子を廉価で聴かせてくれたのはありがたかった。毎年のバロックオペラ公演も良かったーっ。リンク先には記載されてないが、クイケンとかヒロ・クロサキも出ていたはずである。週に四日、北とぴあに通ったこともあった。
ただ、バブル崩壊後規模が縮小されてしまってモーツァルトしかやらなかったような年はパスしてしまったこともある。

しかし、今年から今度は古楽オンリーではないもののテーマを決めて復活。嬉しい限りである。
朝日新聞の紹介記事によると、まるで地元には還元されるものがなかったかのような印象だが、地域の合唱団と共演したり、学校演奏会を行なっていた。なにせサヴァールが区立中学校で演奏会(芸術鑑賞会というヤツですかね)をしたぐらいなのだ。

どんな音楽祭であっても地元民多数が参加なんてのはそもそも難しいだろうと思う。地方の古楽祭は最初から外部の客を当て込んで観光とセットでやっているはずである。
ともあれ、これも北区民の皆様の税金のおかげでこぜえます。どうかこれからも音楽祭存続をよろしくお願いいたします<(_ _)>ペコペコ

ついでながら音楽祭で印象に残ったコンサートは色々あるが、ボストン・カメラータの「トリスタンとイズー」に大感動、デュース・メモワールに感心、そしてヤーコプスの「ロ短調」の弦の音が忘れられねえ~。
印象に残った事柄はヴィーラント・クイケンの色紙の抽選に当たったこと。
そして、ヘレヴェヘがバッハのモテットをやった時に競馬の雑誌を読みながら聴いてたヤツがいたことである。それも最前列で……。
後ろから首締めてやればよかったよ(*`ε´*)ノ☆


【関連リンク】
調律師の方のブログ。11月23日以降の記事でリハーサルや舞台装置の様子などが分かります。
《チェンバロ漫遊日記》

またも詳しい分析に感心です。
《アリスの音楽館》

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2006年12月 4日 (月)

パヴィメント・ジャパン コンサート:モダンと古楽の間には深くて暗い河があるかも

音楽本来の生命力がここに復活!
演奏:パヴィメント・ジャパン
会場:ハクジュホール
2006年11月29日

このコンサートのチケットが発売されたのはかなり前のことだと記憶している(7月ぐらい)。チラシに「炸裂するバロック!」なんてあおり文句が書かれていて、私は「ふむふむ、チェンバロは大塚さんか。他の人は全然知らんけど新しいグループかなー。取りあえず聞いてみるか」とチケットを買ったのである。
そして、これが古楽器ではなくモダン楽器のグループだと知ったのは、購入後約一か月以上も経ってからであった……。

なにーっ、聞いてねーよ!サギ!インチキ!金返せ~(>O<)

どーせ、どーせ、ちゃんと調べなかった私が悪いのよう(T^T)クーッ

で、行くのやめようかと思ったけど、いやモダンだからといって最初から頭ごなしに決めつけてはイカン。ちゃんと聞いてみなくては何事も分からんぞ--と気を取り直して行くことにした。

客席は若い人が多い。女性率も高くて華やいだ雰囲気。普段行ってるコンサートとは大違いだ。
総勢9名のメンバーがステージに登場した時私は思わず冷汗をかいた。顎当て付きのヴァイオリンを生で見たのは一体いつのことであろうか? 必死に思い出そうとしたが思い出せん。そのぐらい遠い昔の事に違いない。普段、私は顎当てなしのバロック・ヴァイオリンしか見てないのだった。(ただ、弓はバロック仕様だった?)

以下はそういう完全トーシロの感想である。

演奏が始まって最初に感じたのは……「音がデカい」
古楽器だったら絶対、拡声装置使ってると確信しちゃうレベル。こんなに違うのか。さらに音合わせの時間もすごーく短い。(当然?)

一曲めはパーセルの音楽劇の序曲で極めて短い曲だった。
が、その後の休憩も挟んで3曲はテレマン、C・P・E・バッハとやや古典派寄りの選曲である。正直なところ、バロックというわりには腰が引けてるんじゃないのと思ったのは事実である。

曲の途中にメンバーの解説がいちいち入る。バロック・ファン以外にはそんなにテレマンやヘンデルはマイナーなのか。前半のコントラバスの人はまだ良かったが、後半のファゴットの人の話はタラタラと長くて、しかもマイクを口に近づけ過ぎて時折何を言っているのか聞き取れない。ここで眠気虫に食いつかれた人多数と見た。

とはいえ、古典派寄りの演奏は結構良かったと思う。
ただ問題はその後のヘンデル、ヴィヴァルディ。解説で「変な曲」だと強調してたがそんなに変かね? ともあれ、言っては悪いが馬脚を露わしてしまったという印象。
昔バロック初心者の頃、モダン楽器の録音を聞いてた時にコレルリやヴィヴァルディが名曲というわりには、どこがいいのかよく分からなかったのを思い出した。
アクの強い部分を強調して弾いてたみたいだけど、全体の流れや調和としてはどーよ?である。

アンコールのバッハはなかなかに聴かせた。バッハはモダンでも古楽器でもどちらでもよいものはよい--という説が実証されたようだった。

全体的には、通奏低音が全く冴えなかったことが大幅減点。音圧はデカいんだけどね--。それからこれは全く個人的好みの問題だが、弦の音が深みがなくて詰まらなかった。

こちらにメンバーのインタヴューがあるが、はて「表現力の大きなモダンでバロックを真剣にやったら、面白いことになる」というのは??? 異議ありと申したいところである。
こういう事言っちゃうから、鈴木秀美に「チェロにはエンドピンも無かったということを知らず、それが不完全で現代より劣るものと考える音楽家が多いのには驚く。」(無伴奏チェロ組曲第2夜の解説文より)なんて書かれるんじゃないのか。

そんなにバロックが好きなら、次はビーバーとかムファットとかF・クープランあたりも是非お願いしたいって言ったらダメ?

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2006年12月 3日 (日)

「アラバマ物語」:映画が無理なら原作でガマン

著者:ハーパー・リー
暮しの手帖社1981年

映画『カポーティ』を観てから、どうしてもその中で触れられている『アラバマ物語』の映画を見たくなってしまった。
幼なじみにして同業者のネルが書いた原作を元にしたもので、当時グレゴリー・ペックはオスカーの主演男優賞を取った。さらに最近に発表されたアメリカ映画協会が選んだ過去の映画百年の最高のヒーローにも選ばれている。インディ・ジョーンズもボンドも蹴落としたヒーローとはさてどんなものなのか?
『カポーティ』の中ではこれを観たカポーティがふてくされて「そりゃ、いい映画だけどね」などとヤケ酒を飲むシーンが出てくる。

で、行きつけのレンタル屋に行って「アカデミー賞名作コーナー」を探すが案の定ない。タワーレコードへたまたま行った時、DVD売り場を覗いたらなんと三千円近い……。見たいけど買うのもなーと思いつつ、某駅の地下街を歩いてたら廉価DVDを売ってる屋台があって、なんと五百円で売ってるではにゃあですかっ(!o!)
しかし、なぜか「日本語吹替え版」との表示が--。DVDでなぜ吹替えのみなのか? 恐らくビデオの吹替え版を焼きつけたのだと思うが、あまりにアヤシイので購入を断念した。

以上のような経緯で、「じゃ、いっそ原作の方を読んでみっか」ということになったのである。映画の中のネルも好感度大だったしね。

地元の図書館で借りた本はもはや薄汚れてヨレヨレになっている。表紙・口絵はもちろん、本文の間にも映画のシーンの写真が挿入されているが、しかし、映画は1962年なのに20年も経って訳されたのはなぜ?(というより、20年間訳されなかったのはなぜだ)

舞台は戦前のアラバマの田舎町。そこに暮らす子どもたちの約3年間を描いた物語である。子どもが主人公だが児童書ではない。町の様々な人々、夏だけやってくる少年、学校の様子、隣家の正体不明の「怪人」、弁護士の父親が担当した裁判の話--それらが並行して淡々と描かれる。やがて冤罪とおぼしき黒人を弁護する裁判の件が子どもたちにも影を落とし、町の暗い部分をさらけ出すようにして、全ての要素が一つにまとまっていく。

冤罪裁判の顛末はひどいものだ。主人公の女の子スカウトは、それはもう全て最初から決まっていたのだ、という意味のことを語る。
平凡な田舎町の中にはありとあらゆる様々に絡み合う関係が潜んでいる--人種、民族、出自、階層。それにまつわる差別・憎悪・軽蔑。その中にあってもなんとか生きようとする人たち。少女の視線はそれらを容赦なくはっきりと見通す。
そんな苦く厳しい物語を淡々と綴ったものである。

ピューリッツァー賞を取って、作者は結局その後、次の作品を出していないそうだ(まだ存命中らしい)。『冷血』以後のカポーティも同様ではないかと思うが、作家はマスターピースと呼ばれる作品を出してしまうと、その後何も出来なくなってしまうということがある。


父親は終始、少女の目を通して描かれている。作者自身の父親がモデルらしいが、G・ペックだとちょっとカッコ良過ぎるかなーという印象。(見てないんで実際は不明)
一方、夏休みの間だけ近所の家に預けられる少年ディルはカポーティがモデルとのこと。こちらは読んでいるともう喋り方はもちろん、外見もあのフィリップ・シーモア・ホフマン演じるカポーティを小型化した少年が脳内妄想としてありありと浮かんでくるのだった。恐るべし!

個人的には少女の行く学校の様子が興味深かった。新米の女教師が独善的過ぎてあまりにイタい。イタ過ぎです……。その描写が冷静で実に容赦がない。
悪ガキ少年に逆襲されて泣いてしまった彼女を、しかし他の生徒たちはなんと必死に慰めてやって、面白くもないと分かっているお話をせがんであげるのだ。ああ、なんと昔は良い時代だったのだろうと思わず感動です。

それにしても、映画版をどこかで放送してくれないものか。ケーブルTVなんかやたらと局があるんだからさー。見たいものに限ってやってくれないのよ(泣)


【関連リンク】
バウムさんによる映画『アラバマ物語』の感想です。
《バウムクウヘンの断層。》

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2006年12月 2日 (土)

「アイドル!」展:質問!吉永小百合はアイドルじゃないんですか?

会場:横浜美術館
2006年10月7日~2007年1月8日

なんか全然話題になってない展覧会である。私なんか開催を知ったのは始まって一か月も経ってからだ。おまけに感想を読んでみてもなんかはかばかしいものがない。
が、しかし実際に見てみなければ分からないだろうという事で行ってみた。
結果は……なるほど、ビミョー(-o-;)

ポスターをはじめ美術館内外の至る所に蜷川実花が使われている。うまくはまっていて、とても目立つ。

遅い時間に行ったせいか、あんまり人がいない。アイドルを題材にした少女マンガやゲームのコーナーはホントに誰もいなかった。昼間なら小学生のいる家族連れが見ていそうだけど。大人の客は完全スルー状態、見向きもしない。いいのかそれで。
グッズやカードがいっぱい出ていて、金がかかるだろうなあと感心。

KATHYは顔に黒ストッキングくっつけて、それ以外のファッションはお嬢様っぽい感じで踊ったり走ったりしている三人娘の映像。ちょっと不気味で面白い。
私はジャナイナ・ツェッペを思い出した。彼女は顔に風船くっつけて19世紀末風の衣装を着て踊っていた映像作品がある。両者共に女らしさとコミュニケーション不全がテーマか。

篠山紀信が撮った山口百恵コーナーは人が結構いた。NHKの番組を再構成した静止画による映像を流している。地元出身のアイドルという事で彼女が選ばれたのだろうか。
山口百恵と私は完全に同世代だが、友達と「百恵ちゃん、いいよねー」なんて話した記憶は全くない(三人娘の他の二人についても同様)。恐らく歌謡曲のアイドルの在り方が変わったのはピンクレディーあたりからと推測するがどうだろう。

そのコーナーには往年の「明星」と名前忘れたが現在のアイドル誌の表紙がペタペタと貼ってあって、私は「明星」の方の表紙の顔は全て分かったが、現在の方は全く誰一人として知らなかった(^-^;

草間彌生が詩を読んでる映像作品は、アイドルというより座敷わらしのよう。
川島秀明の目玉の大きいフワフワした感じの女性像は、フワフワゆえにちょっとコワクて圧倒的な迫力。帰りにポストカード買っちゃった(^^)

蜷川実花の作品は館内の至る所に掲示してあって、被写体の中には若いモンだけじゃなくて草間彌生や松平健なんて人もまじっていた。

しかし、これらが「アイドル」かというと???である。別に「少女」でもいいし、ビル・ヴィオラじゃないけどそれこそ「はつゆめ」というタイトルでも一向に構わなかった気がする。
風俗史的アプローチを試みる訳でもないし、なんだか全てにいい加減な気がした。
収蔵展の方には秋山庄太郎の肖像写真のコーナーもあったぐらいだから、どうせなら篠山・蜷川と並べて三世代アイドル写真比べでもやったらよかったのにと思った。
吉永小百合はもちろん、高峰秀子だって当時のアイドル風だったんじゃないの? 私の母親なんか「デコちゃん」なんて呼んでてて親近感持ってたみたい。


続いてさらに人の少ないコレクション展の方にいく。こちらはかなり見応えあった。横浜市民の皆様の税金のおかげでございますm(_ _)m
最初に入った部屋には奈良美智の連作や、一点だけど舟越桂や有元利夫の絵があった。また、シュール・レアリスムの部屋は圧巻。上野では混んでて見られないダリの大作をゆったり鑑賞。ベーコン、マグリット--さらにエルンストのデカルコマニーの作品は思わずウットリ見とれてしまった。なんというか、あの溶ろけたような醜悪なノイズのような絵具のタッチが脳ミソに快く染み渡ってくるのである。

上の方でも書いた秋山庄太郎のコーナーも数が多くて迫力。女優だけじゃなくて作家も多数。里見トンなんて人まであってビックリ。

ということで、コレクション展と合わせて収支トントンな横浜美術館であった。

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