「アラバマ物語」:映画が無理なら原作でガマン
著者:ハーパー・リー
暮しの手帖社1981年
映画『カポーティ』を観てから、どうしてもその中で触れられている『アラバマ物語』の映画を見たくなってしまった。
幼なじみにして同業者のネルが書いた原作を元にしたもので、当時グレゴリー・ペックはオスカーの主演男優賞を取った。さらに最近に発表されたアメリカ映画協会が選んだ過去の映画百年の最高のヒーローにも選ばれている。インディ・ジョーンズもボンドも蹴落としたヒーローとはさてどんなものなのか?
『カポーティ』の中ではこれを観たカポーティがふてくされて「そりゃ、いい映画だけどね」などとヤケ酒を飲むシーンが出てくる。
で、行きつけのレンタル屋に行って「アカデミー賞名作コーナー」を探すが案の定ない。タワーレコードへたまたま行った時、DVD売り場を覗いたらなんと三千円近い……。見たいけど買うのもなーと思いつつ、某駅の地下街を歩いてたら廉価DVDを売ってる屋台があって、なんと五百円で売ってるではにゃあですかっ(!o!)
しかし、なぜか「日本語吹替え版」との表示が--。DVDでなぜ吹替えのみなのか? 恐らくビデオの吹替え版を焼きつけたのだと思うが、あまりにアヤシイので購入を断念した。
以上のような経緯で、「じゃ、いっそ原作の方を読んでみっか」ということになったのである。映画の中のネルも好感度大だったしね。
地元の図書館で借りた本はもはや薄汚れてヨレヨレになっている。表紙・口絵はもちろん、本文の間にも映画のシーンの写真が挿入されているが、しかし、映画は1962年なのに20年も経って訳されたのはなぜ?(というより、20年間訳されなかったのはなぜだ)
舞台は戦前のアラバマの田舎町。そこに暮らす子どもたちの約3年間を描いた物語である。子どもが主人公だが児童書ではない。町の様々な人々、夏だけやってくる少年、学校の様子、隣家の正体不明の「怪人」、弁護士の父親が担当した裁判の話--それらが並行して淡々と描かれる。やがて冤罪とおぼしき黒人を弁護する裁判の件が子どもたちにも影を落とし、町の暗い部分をさらけ出すようにして、全ての要素が一つにまとまっていく。
冤罪裁判の顛末はひどいものだ。主人公の女の子スカウトは、それはもう全て最初から決まっていたのだ、という意味のことを語る。
平凡な田舎町の中にはありとあらゆる様々に絡み合う関係が潜んでいる--人種、民族、出自、階層。それにまつわる差別・憎悪・軽蔑。その中にあってもなんとか生きようとする人たち。少女の視線はそれらを容赦なくはっきりと見通す。
そんな苦く厳しい物語を淡々と綴ったものである。
ピューリッツァー賞を取って、作者は結局その後、次の作品を出していないそうだ(まだ存命中らしい)。『冷血』以後のカポーティも同様ではないかと思うが、作家はマスターピースと呼ばれる作品を出してしまうと、その後何も出来なくなってしまうということがある。
父親は終始、少女の目を通して描かれている。作者自身の父親がモデルらしいが、G・ペックだとちょっとカッコ良過ぎるかなーという印象。(見てないんで実際は不明)
一方、夏休みの間だけ近所の家に預けられる少年ディルはカポーティがモデルとのこと。こちらは読んでいるともう喋り方はもちろん、外見もあのフィリップ・シーモア・ホフマン演じるカポーティを小型化した少年が脳内妄想としてありありと浮かんでくるのだった。恐るべし!
個人的には少女の行く学校の様子が興味深かった。新米の女教師が独善的過ぎてあまりにイタい。イタ過ぎです……。その描写が冷静で実に容赦がない。
悪ガキ少年に逆襲されて泣いてしまった彼女を、しかし他の生徒たちはなんと必死に慰めてやって、面白くもないと分かっているお話をせがんであげるのだ。ああ、なんと昔は良い時代だったのだろうと思わず感動です。
それにしても、映画版をどこかで放送してくれないものか。ケーブルTVなんかやたらと局があるんだからさー。見たいものに限ってやってくれないのよ(泣)
【関連リンク】
バウムさんによる映画『アラバマ物語』の感想です。
《バウムクウヘンの断層。》
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