« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月

2007年3月27日 (火)

「パフューム ある人殺しの物語」:久々の罵倒モード

監督:トム・ティクヴァ
出演:ベン・ウィショー
ドイツ・フランス・スペイン2006年

実に期待して観に行ったのである。決定的な香りを求めるために女を殺害する--なんてヘンタイだー、いや大変だーっ。
当然そういう話ならば……

エロさ爆発~ \(^o^)/
いかがわしさに鼻血止まらず (@∀@)

なんて感じになるはずだとばかりに勢い込んで行ったのであった。
だが、違った。

全然エロくもいかがわしくもなかった。
750人の全裸開陳--だからどーだっていうのさっ。ゴロゴロしてるだけじゃないの。
詰まんな~い。

詐欺! (>O<)
インチキ~!! (`´メ)
だからお金返して( ^^)// チョーダイ

こ汚い当時のパリの様子など、映像はよく出来ていると思うけど、この監督さんやっぱり健全な人なんじゃないの。
話の展開もなんか納得行かない。ローラの所であれだけ引っ張って、結局他の女とどう違ったのか分からない。そもそも最初の殺人なんか、お間抜け過ぎ。笑う場面かと思っちゃったよ。
それから臭いを表わすのに鼻のアップばっかりなのは能がないし、主役が肝心な所でいつも一種類の表情しかできないのも致命的。
クライマックス集団××の場面は退屈で、早く終わんないかなーなんて思ったのも事実。

で、かつてのヘンタイ監督ならどう撮っただろう、なんてことばかり考えていた。
ケン・ラッセル風の恐ろしい狂騒&混乱の集団××。
クローネンバーグなら、香料の瓶や抽出機械をさぞいやらし~く、かつ禍々しくカメラで嘗め回したかも。
汚臭まき散らす様々な事物を美しく変態チックに撮るD・リンチ--なんて。

で、さらに想像してみた。

『ヒチコックの「におい」』
主人公は、犯人追跡中にビルから落ちるという事故によって嗅覚に異常を来し、ただ今休職中の刑事。知人(アラン・リックマン)より娘の行動がおかしいので尾行して欲しいと依頼される。
娘は怪しげな行動を続けるが、彼は鼻が効くのでまかれることはない。やがて娘の体臭に惹かれるようになった主人公の目の前で、彼女は突然謎の自殺をしてしまう。

そのショックで彼は娘の香りを求めて街中をさまよい歩く。街にはありとあらゆるにおいが充満しているが、やがて、娘と全く同じ体臭をしている女を見つける。だが、彼女は似ても似つかぬドブスで超デブであった。その女をつけ回すうちに怪しげな香水店の男(ダスティン・ホフマン)が現われる--。


まあ、見てる間こんな事でも想像してるしかないぐらい退屈だったわけだ。


主観点:4点
客観点:5点

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月25日 (日)

「SF」がかつて売れた事があったのか?

「SFとファンジンとライトノベルと」で取り上げた件、もう話題としてはすっかり収束しているようだが、ようやくその後の展開をチェックできたのでちょっと書いてみる。

どこかのコメントでちょっと違和感を感じたのが、「徳間は新人発掘に熱心でなかった」という意見。SFA誌はコンテストこそやってなかったが、ファンジン・コーナーを設けて積極的に募集し、出来のよい作品をタイトルや概要を紹介していた。最初の頃は荒巻義雄が担当していて、大手の創作系ファンジンは送っていたはずである。中にはこのコーナー内で荒巻義雄に激賞されただけで、気が早い事に作家への道が開けたと思って勤め先も辞めてしまったライターもいたという。
これは、コンテスト路線のSFM誌に対抗というのもあっただろう。

また、李家豊を田中芳樹と改名させ『銀英伝』を連載したのもSFA誌だった。今、検索してみたら彼は『幻影城』出身だったのねー。これは完全に忘れてた。

一方、SFM誌では山田正紀が「宇宙塵」の掲載作品が転載されてデビューしたが、これは編集者が目に留めたというより「宇宙塵」関係者の推薦があったからだろう(あくまでも推測)。


《琥珀色の戯言》より「「新人発掘能力が上がる」ことの功罪」

《Log of ROYGB》より「兼業作家」

《愛・蔵太の少し調べて書く日記》より「新人の出てくる場所は、競争の激しい場所か、何をやってもいい場所かのどちらかだ」

--あたりが目にとまったが訂正補足したいのは、当時も同人誌路線とコンテスト路線は明確に分かれていたわけではない、ということである。
同人誌に掲載して内外で評判になり、書き直してコンテストに応募--というパターンはあった。
また、コンテストも果たして真の意味でのコンテストであったかどうかは不明である。つまり、ある程度「やらせ」めいたものがあった可能性もある。
今のヤングアダルト文庫みたいに非常に若い書き手対象のコンテストだと別だろうし、また当時のSF界で実際にそんな事があったかは不明である。
ただ一般の文学賞において「応募してくれれば最低、入選は行きますよ」などと事前に約束して出させる。或いは、一度応募してきたものの落選した中からめぼしい書き手をチェックして再び応募させる--というパターンは存在するようだ。
そんな事しなくても、出来がいい作品があったら直接、雑誌に掲載すればいいではないか、と思ってしまうが、やはりコンテストというのは目を引く一大ページェントであるからにはそこを通じて売り出したい、というのはあるんだろう。

従って、表向き「ファンジン出身」「コンテスト出身」といってもスッキリ分かれるわけではない。実のところは分からないものなのだ。

また、今より昔の方が「デビューできれば生き残れる可能性が高かった時代」かどうかは極めて疑問である。SFMの歴代コンテスト入賞者リストやさらには過去の芥川賞受賞者リストなんてのを眺めても、「この人は今どこに?」なんて人が散見される。デビューしても才能がない奴は消え、才能があっても運がなければ消えていくしかない。それは今も昔も同じだろう。

SF専門誌の創刊はSFM→(かなり長い年月)→「奇想天外」(第2期)→SFA→「SF宝石」という順番だろう。他に評論系が主な「SFの本」「SFイズム」、さらにはあの!「NW-SF」なんてのもあった(;^^) いや、これは忘れたことにした方がいいのか……。

「SF宝石」は翻訳小説を主に掲載していたので国内の新人発掘とは無縁。SFMのコンテストは一時期中断していて、その間に「奇想天外」がコンテストを始めたら第1回は待ってましたとばかりに恐ろしい数の応募があった。その中から新井素子などが出てきたわけである。その後SFMのコンテストが再開し、大原まり子や神林長平などが登場した。SFAは上に書いた通りファンジン・コーナーがあった。
しかしながら私の印象としては、前回の記事にも書いたが、他のジャンルに比べると熱心さに欠ける、さらにその後のフォローがない--ということである。

SFMのコンテストの終了がライトノベル新人発掘を促した--というような意見も見かけたが、ホントにそうかなーと思う。こればかりは実際に作家側の「本当はSFMのコンテストに応募したかったけど、なくなっちゃったんで仕方なく電撃のほうに応募しました」というような証言がないと信じられない。

《SSMGの人の日記》より「おかねはないけど、あいしてる」
ライトノベルの側にも色々と過去の因縁があるようだ。

最後にはてなブックマークでbanraidouさん自身が「昔は直木賞の候補になったり日本沈没が大ヒットしたりしたわけで、そこから売れなくなっていったのはなぜなのか」という疑問を書いているが、果たして当時の一般読者に『日本沈没』がSFとしてどれほど認識されていたのか疑問である。

ノベルスの小説本というのはそれだけで独立したジャンル(というかメディアか)として認識されているし、「近未来予測小説」--つまり、経済小説にもあるような十年後にはこんな危機が訪れる!系の物語だと思われていた面もある。さらに「科学情報小説」--最新の科学の知識を手っ取り早く取り入れる(この場合はプレートテクニクスか?)ために読むというのもある。『ホットゾーン』などもその系統だろう。
従って、『日本沈没』がSFとして売れていたのかは怪しいのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「クラヲタと呼ばれて」その後

コンサートでのマナーとそれにキレるクラヲタについての問題、その後も話題は続いているようだ。

他のブログを見てみると--
忌憚のない意見と考察を書いた
《Rakastava》より「クラシックのコンサートのマナー @ 許容範囲と騒音対策編。」「クラシックのコンサートのマナー @ 原理論編(強制終了)。」

また、自分もマナーについて注意した経験があるという
《爆音!!クラシック突撃隊♪ブログ。》より「かなーーーーり長い間ウルサイ訳ですヨ。経験的には…」

などという意見が多数か--と思った所へ
《♯Credo》より「涙の形」

という意見も出てきたのであった。
うーむ、確かにおっしゃる事は納得なんですが……では実際コンサートという場において、演奏している音楽とコンサートとしての有り様が一致するかというと、必ずしもそういうわけでもないのが困っちゃうのである。

早い話が、『涙の形』を録音した時期に同じ内容のコンサートをやったのを聴いたのだが、これがかなり緊張度が高く客席が静まり返ったものであった。
音楽的には私的な哀しみを歌った曲が多かったが、トッパンホールは収容人員400名なのに対し、リュートを伴奏にして二人の歌手が交互に歌う形式なのでほとんど独唱会状態。客がなまじな音を立てたら会場中に響き渡ってしまう。ちょっと気を使っちゃうのだ。

さらにもう一つ、これはブログの感想には書かなかったのだが--例えば一部の映画ファンの間で話題になった、アカデミー賞授賞式パフォーマンスでのビヨンセとJ・ハドソンのガチンコ勝負のような「二大ディーバ対決」みたいに恐ろしげなものではないにしても、二人の歌手の静かなるぶつかり合いが存在したのであった。

まあ既に、波多野さんはこの手の分野では日本ではトップクラスというのは多くの人が認めるところだろうが、さすがに相手がE・タブでは分が悪い。かなりリキが入っているように見えた。一方のE・タブはさすがの貫禄で余裕--と言いたいトコだが、少しでも気を抜いたら一敗地にまみれるのは必至、両者一歩も譲らず、と客席からは思えた。
--という訳で美しい曲の陰でかなりの緊張感があったのは事実である。
曲間のブラボー厨がやたらと賑やかだったのはその反動だったのかも知れない。

同様に、うるさいロックのコンサートではクラシックと違ってさすがにマナーの問題はないか?--というと、そんな事はなくて、またそれなりに別の問題が存在する。
例えば、ギュウ詰めのライブハウスで大の大男が女の子突き飛ばして前に出ようとするのはいかがなものか、とか、対バンの演奏聞きたくないからって最前列で耳ふさいで座り込んでるのはどーよ、なんて事だ。


さて、前回の記事では書かなかったのだが、実は私σ(^-^;)は「ウルサイ」と注意された事がある。映画館で予告編の時に友人と喋っていたら隣のおばさんに言われてしまったのだ。
だーって、本編じゃなくて予告だから構わないじゃ~んと思ったが、まあ場所が岩波ホールだから仕方ないのだろう。
しかし、映画は笑える内容だったのに私の周囲ではそのオバハンに遠慮してか、笑い声が少なかったのであった。(と私には思えた(^^;))
他人同士が狭苦しい場所にいるんだから色々あっても仕方ないんでしょう。解決などそもそも無いってことか。

| | コメント (5) | トラックバック (2)

2007年3月23日 (金)

クラヲタと呼ばれて

《庭は夏の日ざかり》の「想像力、または鏡に向かってキレるショートコント」を読んで色々思う所があった。コメント付けようかと思ったが、長くなってしまうとナンなのでこちらで書いてTBする事にしました。
あ、それから関係ないけど「笑い男バッハ」画像いいですね。(*^-^*)ス・テ・キ

朝日の元記事見てみると、「のだめ」ブームによる新規参入客がマナー知らずで古参客といさかいが起こっているみたいな書き方だが、本当にそうなのかいな?とやや疑問に感じてしまった。
まあ、私が行くようなコンサートはそもそも「のだめ」でファンになったような人は来る確率は低いからそこら辺よく分からんのだが、昔っから周囲に迷惑(というほどでもなくて「影響」ぐらいでも)をかけている人はいくらでもいた。

ただ、近年それが増えているのは事実--というのは、音楽だけでなく映画や芝居でも事前注意が入るようになったからだ。「ケータイはお切り下さい」は定番で、映画だとさらに「上映中のお喋りはおやめ下さい」とか音出しての「ご飲食にご注意下さい」とか、どこの映画館でもしつこく流される。
昔はなかったのだから、こういうのが出てきた背景には苦情や客同士のトラブルが増えたのだろう。

そういう客にキレて怒るのもどうかと思うが、逆に穏やかに注意したのに逆ギレされたという例もある。(2ちゃんの映画板だとこの手の話がいくらでも見つけられる)
ホントかどうか分からないがナントカ脳の影響ですぐ「キレる」人間が増えたのかも知れない。(^o^;

*本人は気付いていない場合
自分が音を出していても、日常的になじんでいると分からないが、他人にはうるさく思えることがある。
M・ハネケの映画を見た時に、映画からの音がほとんどなく客席もほぼ無音状態の時に、隣の男がはめている腕時計のカサカサカサという音が気になって仕方なかった。ご本人はいつも聞いている音だから気にならないんだろうけどね。
例え、ケータイに付いてる小さな鈴の音でも常に聞こえてるようだと、時と場合によって神経に触ることもあるだろう。

コンサートでも演奏中にチラシをチェックしている人がいる。そんなことしてないで、ステージ上を見てたらどうですかっていうのは余計なお世話だが、以前、1分おきぐらいにバサバサッとチラシを引っ張り出して眺めてまたバサバサとしまう--という行為を繰り返す人がいてこれにはマイッタ。本当に何度でも繰り返すのである。なんでそんな事をするのか分からないが、もしかしたら本人は全く意識していない動作なのかも知れない。
もっとも、これは私自身も迷惑をかけていて気付いていない可能性もあるので冷汗であるが。

*事前注意を聞かない例
これはケータイが多い。コンサートでも芝居でも放送だけでなく、事前に係員が席の間を回って注意してもダメな場合がある。私は普段ほとんどケータイを使わない人間なので、「どーして、切れって言ってるのに切らんのよ」などと思ってしまう。

先日、劇団ク・ナウカの芝居を観た時に、役者の語りから芝居が始まるのだが、その時に「マナーモードのバイブ音でも響くので電源をお切り下さい」と注意が語りの中に入っていた。
しかし!それにも関わらず!!主演の美加理が渾身の演技をしている場面、客席も舞台もシンと静まり返ったその時に、背後からブブブという音が聞こえてきたのであった。明らかにケータイの振動音であった。
なぜ、事前注意があったのに切らなかったのか? 「いくらなんでもそんな小さな音まで聞こえまい」と影響をみくびっていたのか。思わずため息である( -o-) フウ

*クラシック・コンサートの特殊事情
こういう話になると「クラヲタは神経質で困る」とか「クラシックのコンサートは堅苦しいという先入観をますます持たれる」という非難に展開しがちだが、コンサートでは仕方ない事情が存在すると言えるだろう。
以前、クラヴィコードの独奏会に行ったが、最初その音のあまりの小ささに驚いた。しかし、段々と聞いているうちに慣れてきたのであった。演奏者の大塚直哉の解説によると、初め小さいと感じても人間の耳はそれに合わせて感度を大きくしていくように出来ているのだという。しかし、そうなるとホントにちょっとした音でも大きく聞こえて神経に障るようになる。クラヴィコードほどになると、隣の人の衣擦れの音さえデッカク聞こえてきてしまう。日常では気にならないようなものもそういう状態下では増幅されるのだ。

クラシックのコンサートで集中して耳を傾けているんだったら、例えケータイの小さな鈴でも隣席で断続的に鳴っていたら当然気になると思う。その後キレて文句つけるか、「あー、折角苦労して手に入れたチケットなのに。ガマンガマン」となるかは人それぞれとしか言いようがない。

上に書いたM・ハネケの映画の話でも、「たかが腕時計の音ぐらいで」と呆れる人がいるだろうが、そういう人は初期の彼の作品がどんな映画だか知ってたら少しは理解してもらえるだろう。クラヲタ云々と非難する人は本当にコンサートで集中して聴いた経験があるのだろうか?なんて言いたくなっちゃうよ。

折しもクライマックス、指揮者の腕が宙でさっと停止し、会場中を一瞬の沈黙が支配する--と、すかさずそこにケータイの呼び出し音が鳴り響いたーっ(@∀@)……なーんてことになったら、思わず顔面全体から殺意と憎悪があふれ出し「ヤロー、ヌッ殺す」となるのは必至だろう。これがまた珍しい事態ではないから困っちゃうんだよねえ。

*「のだめ」に番外編してくんないかなー
しかし、考えたら新規参入者の場合はまだマシと言えるかも知れない。だって、知らないだけなら教えればちゃんとしてくれる可能性があるわけだからさ。
ということで、「のだめ」ファンがそうだというなら、マンガ本の後ろに番外編でコンサート注意事項でも載せてもらうってのはどうだろう。あくまでも与太話ですが。


さて、元記事では関西ではキレる客はいないということで、関東だけの現象ということになっている。あの!日本の古楽ファンを震撼させた恐るべき「レオ翁コンサート最前列スマップケータイ着メロ流し事件」が起こったのは、確か大阪のホールだったはずである。その時周囲の客はどうしていたのかねー。是非知りたいもんであるよ。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2007年3月21日 (水)

「チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント」:強制よりも始末に悪い「自発」

監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック、
出演:ノーム・チョムスキー
カナダ1992年

この映画を見に行った理由というのは、実は「あの本を読むのは大変そうだから」というような下らないことであります。
で、本も厚いが映画も長い。第一部と第二部の間に5分だけ休憩が入るけど、結構長い予告編の時間を短くすればもう少し休憩が取れると思うんだが。

それはともかく、過去の様々な映像メディア(講演・討論・インタビューなど)をつなぎ合わせてまずチョムスキーの人となりを浮かび上がらせる。ここの部分の見どころはフーコーとの討論場面。内容よりも「おおっ、フーコーが動いているー」(!o!)と思わず注目しちゃう。

で、第一部の後半は持論のマスメディアによる自発的に行なわれるプロパガンダ--の例として、東チモールとカンボジア紛争の報道の差を検証。
メディア側の人間は「そんなバカな」と否定するが、日本でも最近の報道を見ている限り当てはまるようなのが多い。政治的に大きな事がある時に限って急にワイドショーが喜ぶような事件が起こったり……とか、あの自殺事件では記者が現場に押しかけてたのに、この自殺の方は音沙汰なし……なんて。

第二部冒頭は、チョム様絶体絶命のスキャンダルとなった「ユダヤ人収容所はなかった」説を唱える学者を擁護して、本の序文まで書いちゃった事件が
キタ━━━━━('∀')━━━━━!!!!
まあ、こりゃ彼はずるいヤツに騙されたって感じですねえ。無念よ。

後半はオルタナティヴ・メディアとしてミニコミ雑誌やローカル局を紹介。これはあくまで1992年の時点であって、現在ではインターネットも新たなメディアとして加わってるってのは、当然のこと。
そして、このドキュメンタリー自体がそのような様々の小メディアからの映像をつなぎ合わせて作り上げられていて、一つのショウケースとなっているんである。(どのようなメディアなのかいちいち字幕で説明が入る)
でも、この作品中でも実は捏造はあんだから気をつけるべしっ!というメッセージをちょっとしたお笑いと共に見せてくれてオシマイ。

印象に残ったのは、終盤の講演会の質疑応答で赤い服を着た中高年の女性が「私がもう一度国を愛する事ができる日は来るのでしょうか?」という涙なしに聞けない質問をしたのに対し、チョムスキーは「あなたの言う国が政府の意味ならば、そんな日は永遠に来ない!」と冷酷に鞭打つように追い打ちをかける場面。そこまでいうかっ(^o^;

あと、やっぱり時間が長い。長過ぎです……。
しかし、ミーハーな私は目の前に彼が出現したら、読んでもいない本をかざして「チョム様~」と叫んでサインを貰いに突撃しちゃうのは間違いないのであった。


主観点:7点
客観点:6点(鑑賞に忍耐力を要す)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年3月19日 (月)

SFとファンジンとライトノベルと

《万来堂日記2nd》で「そのようにしてライトノベルは終息していく」と、「kanoseさんの宿題は、私よりもひとつ上の世代に答えて欲しいっすね」という記事があって、私は後者の方にコメント付けるつもりで、ウッカリ前者の方に付けちゃったりしてトホホ(+_+)な状態なので、こちらでちゃんと書いてみよう。

*SFファンと商業SF
あくまでも推測であるが、コアなSFファンとはどの時代においても絶対数というのはそれほど変わらないだろう。逆に言えば、小規模ながら常に一定の市場があるからそれに即した規模で出版していけばそれなりの利益は維持していけるはずだ。
そういうファンは宣伝などしなくても放っといても金を払ってくれるし、業界として新規開拓しなくてもやっていけるものだ。(ただし、このような構造は別にSFだけの話ではないが)

しかし、外的な要素でそれ以外の読者が増減する。映画、マンガ、ゲームなど他メディアやファンタジー、児童文学など他ジャンルによって起こされたブームである。
特に1970年代末頃の『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』を中心としたブームは大きかった。あれで、書店でのハヤカワ文庫や創元推理文庫のドドーンと棚は広がったし、関連書籍・雑誌なんかも雨後のタケノコ状に出たはずだ。
まあ、その後も色々と山あり谷ありと起伏はあったわけで、ノベルスブームとか冒険小説ブームとかヤングアダルト文庫の台頭(「ライトノベル」という名称はまだなかった)などに伴って、「コアでない」部分は縮小したり拡大したりしてたように記憶している。

*SFファンダムの存在
コアな部分を支えていたのはファンダムの存在が大きい。現在はどうなのか全く知らないが、大学(高校も)や作家ファン、創作系など各地に存在して、オフセット印刷の立派なヤツもあれば青コピー・ガリ版刷り(^^;)まで、ファンジンを出しては例会を開いていた。
彼らはSFの読者にして消費者であり、さらにはSF作家の予備軍も含んでいた。

現在活躍しているSF作家である年代以上の人はほとんどファンジンの出身者と言っても過言ではないだろう。初期御三家から始まって、山田正紀や夢枕獏あたりもそうだ。
ファンダムに関係なく出てきたのは新井素子ぐらいからではないかと思う。

ファンジンで活躍→商業誌のコンテストに応募・受賞
   〃    →ファンジンの作品が評判になって編集者の目にとまる

のどちらかで、商業誌に作品が載って「上がり」となるのがファンジンライターの理想であった。(なお、評論家もファンダム上がりの人が多い)

*新人作家の需要
このような構造があり、しかも狭いコアなSF市場を相手にしている限り、新人発掘や育成に手間をかける必要はなかったと思われる。ただでさえ、書きたいヤツはいっぱいいたのだから。
「SFM」ではコンテストでトップで選ばれても、どんな才能があろうと次の半年以内にもう一つ短編をモノにできなければ切り捨てられておしまい--という噂があった。半年もあって短編一つ書けないなんて才能がないんだろう、という理屈もあろうが、そこはまあ人間だから色々色々と事情があるものだ。

先日、講談社BOXから出た『密閉教室』(法月綸太郎)のまえがきに、江戸川乱歩賞の二次選考に残った後に編集者から追加&訂正を依頼されてノベルスになったという経緯が記されていた。これには少し驚いた。こんなことはかつてのSF界では考えられない。その熱意とケアの在り方が現在のSFとミステリ市場の差だろうか。
また、早川ではそもそも作家自体に対して待遇が悪いという評判があった。「SFとはスモウトリのフンドシ担ぎの略だ」という自虐的ギャグがあった所以である。

コンテストが中止されたり雑誌がなくなってしまったのはブームが一過してコアでない部分のパイが縮小したせいだろう。ノベルスブームが来て雑誌という媒体のメリットが亡くなったのかも知れない(あくまで推測)。コンテストもまた開催するにはそれなりの手間や費用がかかるわけだから採算が取れなかったり、新人発掘を必要としなければやる価値はない。

*ヤングアダルト文庫(ライトノベル)の台頭
そのうちにソノラマ文庫やスニーカー文庫が出て来て、若い読者を引きつけていった。そこに収録されている作品は明らかにSF(やファンタジー)であったが、読者の方はそんな事は微塵も意識していなかったようである。
当時(××年前)ソノラマ文庫を愛読している高校生と話した事があるが、彼はSFとは古くさくて詰まらないもので自分とは全く縁がないものだと考えていた。

また逆にコアなSFファンもそれらの文庫作品をSFとは考えていないようであった。五、六年前だろうか、SF大会でファンの若い女性がスニーカーやファンタジア文庫をSFとは見なしていないような発言をしていて驚いた事がある。彼女たちにとってはハヤカワや創元推理文庫だけがSFであるかのようだった。

以上のように、ファンが互いに「相手は違う」と思っているならそれでいいのではないのか。評論家が何と言おうと関係はない。かつてSF界で色々な論争があったが、それによって何かが変わった試しなど一度もなかった。
もっとも、作家自身は自分をどういうジャンルだと見なしているかは分からないが。

*将来を誰が知ろう……
SFはコアなファンのみを相手にしてこの先も細々生き延びるだろうし、ライトノベル業界は次々と新しい出版社が参入して新人発掘に精を出し、書店の棚の面積を広げていくだろう。
だが、出版業界においても栄枯盛衰のサイクルは存在し、将来どうなるのか分からない。ライノベも参入者が多過ぎて飽和状態になってしまうかも知れないし、エロ路線や正統青少年路線など棲み分けができて共存するかも知れない。
あるいは、ジャンル自体が崩壊するのか、老舗が辛うじて生き残るのか……。

「新人発掘」という点だけでそれを測るのは難しい。新人発掘においてはライトノベル以上に熱心だったマンガ業界だって今や売れ行き不振が囁かれているではないか。(それでも一般書籍の部数とは比べ物にならないと思うが)
この世界もある意味バクチってことですかねえ。( -o-) sigh...

それにしてもライノベの若い読者を観察していて驚いてしまうのは、作者の名前覚えていない!--ということである。彼らにとっては、「ゲームやアニメの原作」とか「人気のあるシリーズ」としてタイトルを記憶しているのであって、それを誰が書いているかというのは、どうでもいいようである。過去に読んだシリーズと今また別に読んでいるシリーズが同じ作者だとかいうのは、それほど気にしていないみたいだ。
いくら書いても名前を覚えて貰えない--というのは書き手にとってはかなりつらいことだと想像するのだが、どうだろう。もっとも、今どきの書き手は全然気にしないかも知れない。


長くなってしまったが、以上は1980年代にファンダムの片隅にいた人間の極めて乏しい見聞と記憶から書いたものである。当時の編集者やビックネームファンやライターはネット上にゴマンといるはずだから(多分)、そういう人たちは「そんなのは違う!」と思ったら訂正補足して下せえ。

【追記】
「「SF」がかつて売れた事があったのか?」という追加記事も書きました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年3月18日 (日)

ジャン=クロード・ツェンダー チェンバロ&オルガン・リサイタル:武蔵野オルガンの夜その2

オール・バッハ・プログラム
会場:武蔵野市民文化会館小ホール
2007年3月10日

ツェンダーは1941年スイス生まれ。登場してきた時に足元がヨロヨロしてたんで大丈夫かと思ったが、いざ弾き始めるとかなり力強く流麗な印象だった。(もちろん弾きながら踊ったりはしませんが(^^;)

全曲バッハで、前半はチェンバロで3曲。後半はオルガン。
後半になると、もう曲が終わっても拍手も気にせず、どんどんと次の曲へと突入していく。パルティータ「キリストよ、汝真昼の光」というのがやや変わった印象の曲だった。
かなりの長身なんで足鍵盤の端っこのペダルもムギュッと足を伸ばしてなんなく弾いているのだが、見てて小柄な日本人だったらあんな風に足が届くだろうか、なんて下らない事まで考えてしまった。エイヤ!と足を伸ばすも虚しく空振り……なんてことはないですね、ハイ。

アンコールはそれまでの曲とかなり曲調が違っていて、まさかバッハじゃないだろうと思って帰る時に掲示を探したが、何もなかった。曲名ぐらい教えて下さいよう(;_;)
その後ご教示頂いたところによるとなんでもヘンデルの曲(しかもチェンバロ用)だそうで、数日後の神田キリスト教会のコンサート(こちらは色んな作曲家のプログラムで、気になったがさすがに行く元気なし)で全曲演奏されたとのこと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月17日 (土)

「善き人のためのソナタ」:久々の正統的社会派

監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演:ウルリッヒ・ミューエ
ドイツ2006年

壁が崩壊する前の東ドイツ。秘密警察による監視や市民による密告が横行する体制の中で、信奉するイデオロギーや信念に忠実過ぎるがゆえに破綻を来した男の物語である。しかしながら、だからこそ彼は「人間」であった--ということでもある。

久し振りにすごーく真っ当な映画を見た!という感じ。奇を衒いもせず、派手な映像もなく、こけおどしもなく淡々と物語が進んで行く。

ただ、看板に偽りありというわけではないが、題名になっている「ソナタ」(や音楽)はそれほど全面に出して使われているのではなかった。(邦題は原題とは全く異なっている)

結局、主人公は女優の事を最初から好きだったんだろうなと思う。そこから全ては始まっているようだ。だから本来関心を持つべきことではない監視相手に感情移入したり、遂には行動で干渉してしまうに至る。
一方、権力の中枢にいる大臣の彼女に対する不正な行為を目撃する事で、体制への忠誠も揺らいでいく。
それにしても、このような恐るべき過去の国家の疵を堂々と映画にできてしまうというのは、なかなかに凄いことだと感心した。
ラストが救われる感じなのもよい。

ただ、あまりにもよく出来た作品というのは隙がなくて、ひねくれ者としては却って評価が低くなってしまう。少しブチ壊れてた方が好き!なのよ。


主観点:7点
客観点:8点

【関連リンク】
この映画の雰囲気がよく伝わってくる感想です。
《空模様》

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年3月15日 (木)

ビッグローブより不幸の手紙来たる!

郵便受けの中にビッグローブからの「重要なお知らせ」という手紙が入っていたので驚いた。以前ビッグローブをプロバイダーにしてたのだが、数年前に今の住所に引っ越してからは別の会社に変更して、完全に退会したのだ。
それが今ごろお知らせが来るということは……。イヤ~な予感がした。
そしてその予感は当たった。

数日前に大日本印刷からの個人情報流出事件が報道されたが、流出元のリストを見て私は関係ないなと思って安心していたのである。
ところが、なんと私のデータもその流出した中に入っているというのだ!(>O<)ウギャー
しかし、何年も前に退会したはずなのになんで?と思ってよくよく見るとこう書いてあった。
「データの預託時期、および不正持ち出しされた時期 預託時期は2003年5月」
やられた、やられたぜ(>y<;)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月13日 (火)

「20世紀美術探検」:恐るべき物量作戦

国立新美術館開館記念展 アーティストたちの三つの冒険物語
会場:国立新美術館
2007年1月21日~3月19日

以前から森タワーの展望台から見えていて気になっていた国立新美術館である。
その成立過程についてはこちらの記事あるように貸しスペースとしての要請が大きいらしい。ということで、収蔵品を持たない展示ホール、おっと美術館なのだよねえ。
しかしながら、既にこのようなキビシイ感想も出ており、どんなもんかと行ってみた。

ガラスが波打っている外観は面白い--けど、なんか変テコじゃない? 設計はあの黒川キショウである。ちなみに黒川氏、かつてとある学校を設計した時、やはりガラス張りの教室を作ったそうだが、日当たりが良過ぎて暑くて暑くてたまらんそうである。ここも夏になって国民の税金の空調費がどれくらいかかるか、はなはだ心配だ。
中に入ると印象は「無駄に広い」。ガラス面に沿って吹き抜けになっていて、椅子が並んでたりカフェがあったりする広いスペース(ここはチケット無くても入れる)なんだけど、なんかだだっ広くて散漫な感じだ。

企画は「異邦人たちのパリ」なんてのも同時にやっていたが、とりあえず「20世紀美術探検」を選んでみる。

いやー、驚いた! 何が驚いたって1階の五つの展示スペースをフルに使って(相当な広さ)そこにまた展示品が続々と……。場所によってはギュウ詰め状態な所もあったりして。これでもかこれでもか、なんである。
もうあんまりたくさんあるんで、どれが印象に残ったかなんてあっという間に押し流されて忘れてしまうぐらい。スゴイねー。
で、入ったが最後、途中には休憩室(ホントに椅子があるだけ)しかなくて、トイレもなんにもない。まあ、こんなに広く使うのは今回だけだから構わないんでしょうけどね。

展示はこまかく第1部第1章その1と細かく区分されていてそれぞれタイトルが付いている。しかし、不思議な事に場所によってタイトルとその説明書きがそれぞれ別の場所に貼ってあったりするのだ。何故(?_?)
そもそもこんなに細かく区分する必要があるのかという根本的疑問もあり。

セザンヌに始まりジェフ・クーンズに至るまでの近現代美術に加え、ついでに柳宗悦まであったりする。それら名作の実物をいっぺんに千百円で見られるんだから、これから勉強しようという学生あたりにはいいだろう。だが、デュシャン先生の画期的作品群が狭苦しい一画に押し込まれて、あのベンキもただの便器のように転がされている状況は、まあデュシャンの意図に合ってるかも知れないけどなんか悲しくなりましたよ、私は。(T^T)クーッ
収蔵品がないから企画力で勝負--じゃなくて物量で勝負なんかい?と問い質したくなってしまった。

あと作品の配置の仕方もねー。椅子の作品がズラーッと並べられているスペースがあって、そこは柵が置かれていて近寄れない……のはいいとしても、その向こうの壁にも全然別の絵画がかけてあるのだ。しかもたいして大きな作品ではないので近寄れないというのはかなり困っちゃう(タイトルなんかも読み取れない)。どういうつもりかと思ってしまったよ。

さて最後の部屋の第3部は6人の作家を選んで近作又は新作を展示--というのはいいんだけど、これまで散々展示場所を細かく分けてタイトルやら説明を掲示してきたのに、どうしてこの6人を選んだのかという理由とか、作家の経歴とかなんにも説明の掲示がない。なんなの、これ……。
ここまで来るとめっきり客の数も減り--って、みなさん途中離脱したんでしょうか? 時間もないので、駆け足で見まくった。
全作品をじっくり見て、さらに他のフロアやショップをぶらつくなら合計3時間は必要だろう。

印象に残った作品をなんとか挙げてみると--巨大な黒い切り株みたいなヤツの真ん中に水が溜まっているインスタレーション。
それから「音楽」というタイトルの、ピアノの鍵盤を機械が叩く作品。これは4分演奏して5分休むようになってるそうだから、待つがよろし。ピアノはヨレヨレに古くて機械仕掛けの部分も錆ついていて、危なっかしいヨロヨロした動きなのに、毎回ちゃんとピアニシモやフォルテを弾き分けてるのが不思議。三巡ぐらい見てしまった。
第3部では田中功起が細長いスペースをなんとか面白く生かそうと涙ぐましい努力をしているのが好感。点々と置かれたモニターに同じ映像が少しずつズレて流されるのが面白かった。

私が現代アートを好んで見るのは、自分の感覚が根源的に揺さぶられる体験をすることができるからである。そういう点では、オペラシティアートギャラリーの所蔵品展は個人のコレクションを元にしながら、ちゃんとテーマが一本通っていて、心揺さぶられる作品がほとんどであった。
だが、こちらは国立で所蔵品はなく企画を立てて量は多いが全ては希薄……この差はなんなんだろう? 暗澹たる気分になった。まあ、今後のラインナップを見る限りしばらく来る事はないからいいけどさ。

ついでに、ミュージアムショップが地下の薄暗い(エスカレーターの下)一画なのにも驚いた。一階に持ってくればいいのに。
なお、森ビルの「ヒルズまんじゅう」に対抗して、新美まんじゅう、新美最中(皮にあのロゴが入ってる)、新美せんべいを作って販売も是非頼む。


【関連リンク】
別のブログでカレーの匂いが全館に充満しているという話を読んだのですが、なるほどこういうことですか。厨房隠して客席隠さず、ってか?
《はなこのアンテナ》より「国立新美術館を通して見えて来るもの~増え続けて行く借金」

【追記】
カレー臭の発生源は地階のカフェだという事が判明しました。これから行く人は「地下でカレー注文禁止」でひとつヨロシク。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年3月11日 (日)

「ドリームガールズ」:久々の正統派エンタテインメント

監督:ビル・コンドン
出演:ジェイミー・フォックス、ビヨンセ・ノウルズ、エディ・マーフィ、ジェニファー・ハドソン
米国2006年

ダイアナ・ロス&シュープリームスをモデルにした1980年代のミュージカルを映画化したもの。元のミュージカルは確か日本人キャストでも上演されたはず(演出は宮本亜門?)。
私が音楽を聴き始めた頃は既にダイアナ・ロスは「演歌の女王」……じゃなかった、とにかく大スターになってたんで、過去にこんないざこざがあったとはよく知らなかった。ただ、ビリー・ホリディを映画で演じた時はジャズ界で総スカン食らった記憶がある。

結論から言えば、久々に娯楽大作を堪能したっ \(^o^)/ 芸達者な美男美女(設定上、美女じゃない人もいますが(^^;)が歌あり踊りあり、衣装も装置も見事、時間の経つのも忘れました。
特に歌の部分は大迫力で、大画面で音のいい映画館で見てこそ楽しめる。前半はジェニファー・ハドソンの歌が圧倒的(思わず泣けたぞ)、後半は衣装をとっかえひっかえのビヨンセのパフォーマンスが華やか。
見終った後にみんなで「私はハドソン派」「いや、やっぱりビヨンセでしょう」などとガヤガヤ言い合うのもお楽しみだ~。
いやー、やっぱり映画ってこうじゃなくちゃね。

内容はソウル・ミュージックの真正ファンには却って気になる所が多くてのめり込めないかも。むしろ、私のように全米トップ40を毎週愛聴していたような人間の方が、ああ、こういうグループそういう歌手もいたよなー、なんて懐かしく思って見てしまった。時代と共に変遷していく音楽スタイルの差異をきっちり描いているからだろう。また、同じ曲を売れセン仕立てにした時の違いにも苦笑。

そういう目で見ると、エディ・マーフィ演ずるベテラン歌手は黒人男性歌手のありとあらゆるタイプを時代の流れに合わせてやって見せてくれているようである。(シメはもちろんJBだっ) よくよく考えるとよほどの芸達者でないと出来ない技か。
悪役に徹したJ・フォックスや、マネージャーのダニー・グローヴァー(お懐かしや)、ちょっとしか出て来ない歌手達もよかった。(なぜかジョン・リスゴーもチョイ役で顔出している)

ただ、ビヨンセもJ・ハドソンについては、二人ともあまりにも素のキャラクターにはまってる役なんで、これから役者としてどうなるか一抹の不安あり。

物語は最後に、売らんかなで時代に迎合していく音楽を作るというビジネスのあり方を批判して、独立した歌手達の熱唱で終わる。
しかし現実に目を向ければ、どうだろう。長い間自分の音を作り続けてきたミュージシャンは冷遇され、レコードもなかなか出せない状況らしい。(出たとしても、日本では発売されない)
ジョニ・ミッチェルなんか激越な業界絶縁宣言まで出したほどだしねえ。

という訳でまさにエンタテインメントの王道を行くようなよく出来た作品なのに、解せないのはアカデミー賞の作品賞にノミネートされなかった事である。監督・脚本をやってるビル・コンドンがやはり脚本を担当した『シカゴ』が作品賞を取ったけど、はっきり言ってこっちのが出来はずっと上。『シカゴ』にやるんだったら『ドリームガールズ』も取って当然じゃないの。
さらに歌曲賞もナシには驚いた。あのねえ、なんで『不都合な真実』なわけ? だったら『カーズ』にくれー。大体、ランディ・ニューマンとジェームズ・テイラーの実績と才能を合わせたらアラン・アーキンもピーター・オトゥールもかなわねえぞ、ゴルァ(*`ε´*)ノ☆ ええい腹が立つ、ムキーッ(←歯をむき出して怒っている様子)。
やはりアフリカ系主要キャストの映画だったからか、と言われても仕方ないよねえ。

ともあれ、少しでも興味がある人はDVD出るまで待ったりせず、映画館で見る事をオススメする。

なお、冒頭に字幕の担当者としてあの「冥王の回し者」(←懐かしい言い回し)の名前が出てきて、ガクッとなってしまった。どうも字幕のエフィのDQN女子度が高くなっているもよう。エフィのゴーマンなキャラクターが気に食わないという意見を幾つか見かけたが、字幕のせいもあるかもだ。
2ちゃんより一例を貼り付けておこう。

エフィが新メンバー加入に対して怒る歌で、
「私に何も知らせないで、ヤブから棒に!」
みたいな歌詞になってて泣けた。ヤブから棒に、って・・・。
ちなみにサントラCDの訳詞は、
「警告してくれれば良かった。そんな優しさすら無いのね!」
みたいな感じ。


主観点:8点
客観点:9点(大画面にて鑑賞を推奨)

【関連リンク】
同感するところ多数。
《♯Credo》

舞台版を見たことのある方の感想です。
《ようこそ劇場へ!》

| | コメント (0) | トラックバック (5)

2007年3月 7日 (水)

「土から生まれるもの」:思わずピーガブのCDを引っ張り出して聴く

コレクションがむすぶ生命と大地
会場:東京オペラシティアートギャラリー
2007年1月13日~3月25日

オペラシティのアートギャラリーではよく下階で企画展をやり上の階で同時に収蔵品展をやってるが、今回は全館で収蔵品展を開催とのこと。
タイトルが示しているように陶作品が多い。もちろん、現代アートでの陶なので普通の陶器とは全然異なる。

まず驚かされるのが直接床に広げられた小川待子の巨大なインスタレーション。水面を現わしていると思われる薄青緑色の正方形の陶板が並べられていて、その上に巨大な卵のカラのようなものが散乱して浮かんでいるというイメージ。カラの縁は鋭くギザギサに割れていて、それらがたくさん集まっている部分を見ていると、鋭い縁がゾワゾワと心の中を刺すような気がしてくる。

同じ作者の色々な形の作品が他にもあったが、大きな球形を潰して割って中身を見せているようなのが幾つかあって、それがまた見た感じの質感が菓子のマカロンのそっくり。で見る度に私はあのマカロンの味--というよりは口に入れた時の舌触りを思い出すのだった。視覚によってこれほど触覚(味覚?)の記憶が想起されるとは思いも寄らないことだった。

廊下の一隅には、分厚い点字の聖書が焼けかけて朽ちているのをそのまま鉛作品にしたようなのがあって(荒木高子の「点字の聖書」)、小型のキーファーみたいだなと思ったのだが、後でリストを見たらこれも陶だったんで驚いた。

また上階の方には黒くてホントに巨大な秋山陽のオブジェがあった。床にデローンと長くて太いツクシンボみたいなのが横たわっていたり(全長5メートル半!)、底が漏斗状に長く伸びている土器みたいなのが天井から下がっていたり、これまた陶には思えないような異形な重々しさだ。
と思えばその隣には、山本浩二の木を焼いて焦がして作ったようなちっこいブローチ風の小品が箱に納められて壁に展示されていて、こちらはミニマリズム、というか対照的なカワユさなのであった。

平面ではニルス・ウドの写真作品が目を引く。海岸に飾られた土着の呪術の祭壇みたいなものが写っている。しかし、素材や状況はアミニズム風にもかかわらず、なぜか全体的にはモダンで洗練された印象を受けるという不思議なもの。
で、段々と見進んでいくとどうも前にも見たような気がしてきた。子どもが巨大な巣の中にいる光景の作品を見て、アッと思い出した。ピーター・ガブリエルの『OVO』というアルバムのジャケットやブックレットに使われていたのがこの人の作品だったのだ。それも含めてアートワークが素晴らしくて、当時「ピーガブやっぱりさすが。カッコエエなあ」としきりに感心したのを思い出した。

しかし、何と言っても一番感動したのは野又穫である。4点あるうちの一番大型の絵画「都市の肖像--バベル2005」が素晴らしい。あまりの感動に見た瞬間、涙がチョチョ切れるほどだった。
青空を背景に入り江のような場所にバベルの塔が建っている。ただ、ブリューゲルのと違って色は白っぽくて上に高くスマートである。螺旋のところどころには昔のデパートのような文字の看板が付けられている。足元の地面には青いテントがいっぱい並んでいて、さらに遠方には海が続いている。
で、不思議な事に近寄っても離れても、また正面・斜め・左・右どこから見てもそれぞれ微妙に異なって見えるのだ。あまりに不思議なんで、もう何度も何度も色んな角度や場所を変えて見まくってしまった。さぞ変なオバハンと思われたことだろう。

このバベルの塔には「混乱」や「停滞」のイメージはない。代わりに常に天に向かって真っ直ぐに造成中でありながら、同時に壊れつつあるような奇妙なあっけらかんとした感覚がある。

あー、もし私が大金持ちだったら野又穫の作品を全部買い占めるのに~。もし、ドロボーだったら直ちに壁から外して持って逃げちゃう。もっとも私の身長より遥かに大きな作品なんで無理な話だが(^o^;

という訳で非常に満足できた展覧会だった。最後にまたもう一度、野又穫を各地点から眺めて帰った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 4日 (日)

ク・ナウカ「奥州安達原」:終了のゴングが打ち鳴らされる

作:近松半二ほか
台本・演出:宮城聡
会場:文化学園体育館
2007年2月19日-27日

主宰者の宮城聡が鈴木忠志の後を受けて静岡舞台芸術センターの芸術総監督になるため、事実上の最終公演と目される。
が、そこで美加理が演ずるのは美女ではなく鬼婆であったのだ!

舞台は本当にフツーの体育館に作っている。ロープを張り巡らせて壁の代わりにしているが、バスケのゴールポストなんかが向こうにそのまま通してみえる。
基となっているのは同名の平安期を舞台にした時代物の人形浄瑠璃。まず影絵と語りで前段までの粗筋を紹介。本段に入ると、明るくなった方形の舞台の床は斜めに白と黒に分けられている。黒の部分が鬼婆が住むあばら屋で、雪を表わす白の外部とは間に深い溝があってまるで異界のようだ。

辺境の地の異界に住む人々とは朝廷によって討伐されつつある蝦夷である。その姿は異形にして醜悪なものとして表現されており、その話す言葉は東北弁とアイヌ語を混ぜたような感じで、朝廷側の人物にはもちろん、観客にもほとんど理解する事ができない。まさしく彼らは異民族であるのが示されている。

鬼婆は一族の復興をもくろんで、一軒家で生贄を待つ。折しも訪れた男女、妻の方のお腹には子どもが宿っていたのだーーーーっ(>O<)

その後は血の惨劇がヒタヒタと迫ってくる。「雪」の上で格闘し転げ回る鬼婆と女。それまでじっと火鉢の横にほとんど座っているだけ美加理の「静」存在感もすごかったが、これ以降の「動」における彼女も恐ろしいほどである。
自分が殺戮した女の正体を知った鬼婆が狂乱して踊る場面で、彼女の視線が客席をソソーッとなめていき、それが自分の方をかすって通った時に私は戦慄を思わず感じた。それほどの迫力だったのである。
完全に圧倒された。ノックアウト~!(ゴングが鳴り響く)

ただ、不満がないわけではない。前段の語りはあんなにギャグ交じりで面白おかしくする必要があったのか? その時の影絵もお世辞にも出来がいいとはいえない。
女たちが死んで男たちだけの物語になった時、チャップリンの『独裁者』まがいの地球のバルーンが登場するが、ちょっと違和感あり過ぎな気もする。(コンセプト先行過ぎ?)
そこで鬼婆の息子の言葉に不明瞭な字幕が付くのがこれまた中途半端。元の物語ではバイリンガル(と言っていいんか?)なんだから、意味を観客に知らせたいんだったら、分かるような言葉を混ぜるなどした方がよかったのでは?

それにしても、中世・血・言語・身体--という点では先日見たヤン・ファーブルと共通しているはずなのだが、なんという違いだろうか!
舞台上に大量の血(とおぼしき赤い液体)があふれていたファーブルに対し、こちらではたった一度だけわずかな血が雪の上ににじむ。だが、それが描くものはあまりに大きい。これは西欧と日本の差とかではなく、身体観や歴史観の違いか。

舞台の下に陣取って十数人が生演奏する音楽もよかった(特に野蛮な感じの音の笛?がズンと響きました)。
最後の最後にこんなモンをやってくれちゃうなんてあんまりだ~(T_T)


余談だが、鬼婆の息子(安倍貞任)役の人がカーテンコールで出たり入ったりする時、舞台衣装(というより巨大なカニの脚みたいなもの)がロープに引っかからないようにカニ歩きをしているのに笑ってしまった。(失礼)
それから、通路の段差に変な所があって、入ってきた客のほとんどが引っかかってよろけるので「おおっ、魔の段差だー」なんて思わず名前を付けてしまったよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 2日 (金)

「欲望問題」:命がけで釣られて--みるのはやっぱりイヤだー

人は差別をなくすためにだけ生きるのではない
著者:伏見憲明
ポット出版2007年

第1章--差別を「正義」ではなく「欲望」の問題として捉え直す、という発想はなるほどと頷けた。利害が衝突しても、互いの「欲望」の主張として見て調整するようにしていく。そうすれば例えばこのブログで描かれているような、互いに「正義」をかざした二者の衝突は避けられるだろうし、しばらく前にあった「どっちが社会的弱者なのか比べ」のような不毛な論議は起こらないだろう。

だが、私がこの章を読んで気になったのは斬新的進歩主義史観と楽観主義であった。いずれ差別はゆるやかに解消されていき後退する事はなく、世界は平等へと進んで行くと著者は考えているように思える。だが、経済的・政治的な変動によってあっという間に元に戻ってしまうこともあるだろう。
著者は後段でフェミニストの学者達の論議を現実的でないとしているが、それと同様にこのような楽観主義的な意見も現実性に欠けているように思えてしまった。

もう一つは、社会というものを互いの「欲望」を調整する場としていること、そしてその社会を破壊するような「欲望」でない限り一応認められるということである。
だがここには主語がない。一体、その場合の「社会」とは何か?構成員は?誰が調整を行うのか?
そこでの認められない欲望の事例として少年愛が挙げられているが、その理由は「社会を担う子供たちの生存を優先させる」ためだ。つまり子どもを傷つけることは社会を破壊する恐れがあるということだが、では相手が社会を担っていないような存在ならばいいのだろうか。そもそも最初から「社会」の埒外にいるような存在は?
「禁止の線引きをせざるをえない」というが、その線引きをどうやって誰が決めるというのだろう。

さらにもう一つ、欲望を主張し合い対立する相手が強大なるパワーを持っていたら(国家とか企業とか)どうなるのか。
また、主張する手段や場さえ持てない人はそもそもその土俵に乗る事すら出来ないはずだ。

現在、「正規雇用・非正規雇用」の問題が浮上している(いや、ようやく可視化されたというべきか)。私の職場で、非正規職員が勤務時間中に職務上の事故で大怪我をするという事件があった。一年経ってもまだ入院してリハビリ中である。しかし、契約の切れ目が縁の切れ目。契約期間が終了した後は補償を打ち切られた。このままでは職に就く事もままならず、食いぶちも稼ぐことができない。ここで補償や復職を求めることも「欲望」とされるのだろうか。生死や将来が関わってくる場合でもそうなのか。
あるいは『壊れる男たち』(金子雅臣、岩波新書)にはパートや派遣社員に対してのセクハラの事例が出てくる。「正社員でない奴には何しても勝手」というような欲望もまた尊重されるべきだろうか。

第3章--映画『X-MEN:ファイナル・ディシジョン』を例に出して共同体やアイデンティティを論じている。
しかし、この映画は以前に私がネタバレ感想で書いたように「女の物語」でもある。
ボーイフレンドのためにミュータントから普通の人間になる薬を飲んだローグは、正確に言えば「人間になった」のではなく「人間の女になった」のだ。いや、その選択自体がどうのこうのではなく、もしこれが男女逆だったらこういうストーリーはあり得たかねえ、なんてひねくれ者の私は考えてしまう。
この話の中で、ミュータントとしてのアイデンティティ崩壊の危機にさらされるほとんどが、女だというのは実に興味深い。もちろん「女」である事もアイデンティティの要因の一つなのだが……。私はこの映画についてはそちらの方が気になったけど、どうでもいいことですね、ハイ。

第2章--ジェンダーフリーについて超保守派と見紛うばかりの論理で批判している章。であるからして一番問題になりそうなのだが、そのほとんどはこちらあたりで既に散々に論議されてきたことに加え、さらにあとがきで「場合によっては保守的にさえ読めるかもしれません」とか「どんな反発や反応があるのか、どういうふうにバカにされるのかは熟知しています」なんて書いてある。つまり、これは「釣り」なんでしょうか?
となれば、下手なことを言ったら却って、予想された通りでミエミエだなどとバカにされる可能性が大。うっかり反論もできやしない。なるほどいいアイデアである。
しかも、この章には何度読み直しても私にはよく分からない文章が多くて、それもスルーしたい理由の一つ。今のとこ、わたしゃ更年期障害で脳ミソがスカスカ状態なんで難しい文章は頭に入らないのよ。

あとがきにはさらに「命がけで書いたから、命がけで読んで欲しい」なんてある。
すいません、通勤電車で読みました<(_ _)> 命がけじゃありません。
それに、命がけで釣られるのもなー。バカらしいし。
おまけに「パンクロック」なんて引き合いに出すのもねえ……だって、結局今でも生き残ってるのは「太った豚」の方のストーンズじゃないの、なんて言いたくなっちゃう。

こうなると命がけ問題については岩井志麻子の感想に激しく同意したりして(^=^;

本文に入る前のページに「差別のない、自由な社会を目指して--」という一文がある。
しかし全くの私見であるが言わせてもらえば、差別のない社会なぞ永遠に来はしない。もし来るとしたら、全人類が滅亡した時だろう。


それにしても現時点でAmazonのレビューが一件もないのは何故じゃ(?_?)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »