ク・ナウカ「奥州安達原」:終了のゴングが打ち鳴らされる
作:近松半二ほか
台本・演出:宮城聡
会場:文化学園体育館
2007年2月19日-27日
主宰者の宮城聡が鈴木忠志の後を受けて静岡舞台芸術センターの芸術総監督になるため、事実上の最終公演と目される。
が、そこで美加理が演ずるのは美女ではなく鬼婆であったのだ!
舞台は本当にフツーの体育館に作っている。ロープを張り巡らせて壁の代わりにしているが、バスケのゴールポストなんかが向こうにそのまま通してみえる。
基となっているのは同名の平安期を舞台にした時代物の人形浄瑠璃。まず影絵と語りで前段までの粗筋を紹介。本段に入ると、明るくなった方形の舞台の床は斜めに白と黒に分けられている。黒の部分が鬼婆が住むあばら屋で、雪を表わす白の外部とは間に深い溝があってまるで異界のようだ。
辺境の地の異界に住む人々とは朝廷によって討伐されつつある蝦夷である。その姿は異形にして醜悪なものとして表現されており、その話す言葉は東北弁とアイヌ語を混ぜたような感じで、朝廷側の人物にはもちろん、観客にもほとんど理解する事ができない。まさしく彼らは異民族であるのが示されている。
鬼婆は一族の復興をもくろんで、一軒家で生贄を待つ。折しも訪れた男女、妻の方のお腹には子どもが宿っていたのだーーーーっ(>O<)
その後は血の惨劇がヒタヒタと迫ってくる。「雪」の上で格闘し転げ回る鬼婆と女。それまでじっと火鉢の横にほとんど座っているだけ美加理の「静」存在感もすごかったが、これ以降の「動」における彼女も恐ろしいほどである。
自分が殺戮した女の正体を知った鬼婆が狂乱して踊る場面で、彼女の視線が客席をソソーッとなめていき、それが自分の方をかすって通った時に私は戦慄を思わず感じた。それほどの迫力だったのである。
完全に圧倒された。ノックアウト~!(ゴングが鳴り響く)
ただ、不満がないわけではない。前段の語りはあんなにギャグ交じりで面白おかしくする必要があったのか? その時の影絵もお世辞にも出来がいいとはいえない。
女たちが死んで男たちだけの物語になった時、チャップリンの『独裁者』まがいの地球のバルーンが登場するが、ちょっと違和感あり過ぎな気もする。(コンセプト先行過ぎ?)
そこで鬼婆の息子の言葉に不明瞭な字幕が付くのがこれまた中途半端。元の物語ではバイリンガル(と言っていいんか?)なんだから、意味を観客に知らせたいんだったら、分かるような言葉を混ぜるなどした方がよかったのでは?
それにしても、中世・血・言語・身体--という点では先日見たヤン・ファーブルと共通しているはずなのだが、なんという違いだろうか!
舞台上に大量の血(とおぼしき赤い液体)があふれていたファーブルに対し、こちらではたった一度だけわずかな血が雪の上ににじむ。だが、それが描くものはあまりに大きい。これは西欧と日本の差とかではなく、身体観や歴史観の違いか。
舞台の下に陣取って十数人が生演奏する音楽もよかった(特に野蛮な感じの音の笛?がズンと響きました)。
最後の最後にこんなモンをやってくれちゃうなんてあんまりだ~(T_T)
余談だが、鬼婆の息子(安倍貞任)役の人がカーテンコールで出たり入ったりする時、舞台衣装(というより巨大なカニの脚みたいなもの)がロープに引っかからないようにカニ歩きをしているのに笑ってしまった。(失礼)
それから、通路の段差に変な所があって、入ってきた客のほとんどが引っかかってよろけるので「おおっ、魔の段差だー」なんて思わず名前を付けてしまったよ。
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