「欲望問題」:命がけで釣られて--みるのはやっぱりイヤだー
人は差別をなくすためにだけ生きるのではない
著者:伏見憲明
ポット出版2007年
第1章--差別を「正義」ではなく「欲望」の問題として捉え直す、という発想はなるほどと頷けた。利害が衝突しても、互いの「欲望」の主張として見て調整するようにしていく。そうすれば例えばこのブログで描かれているような、互いに「正義」をかざした二者の衝突は避けられるだろうし、しばらく前にあった「どっちが社会的弱者なのか比べ」のような不毛な論議は起こらないだろう。
だが、私がこの章を読んで気になったのは斬新的進歩主義史観と楽観主義であった。いずれ差別はゆるやかに解消されていき後退する事はなく、世界は平等へと進んで行くと著者は考えているように思える。だが、経済的・政治的な変動によってあっという間に元に戻ってしまうこともあるだろう。
著者は後段でフェミニストの学者達の論議を現実的でないとしているが、それと同様にこのような楽観主義的な意見も現実性に欠けているように思えてしまった。
もう一つは、社会というものを互いの「欲望」を調整する場としていること、そしてその社会を破壊するような「欲望」でない限り一応認められるということである。
だがここには主語がない。一体、その場合の「社会」とは何か?構成員は?誰が調整を行うのか?
そこでの認められない欲望の事例として少年愛が挙げられているが、その理由は「社会を担う子供たちの生存を優先させる」ためだ。つまり子どもを傷つけることは社会を破壊する恐れがあるということだが、では相手が社会を担っていないような存在ならばいいのだろうか。そもそも最初から「社会」の埒外にいるような存在は?
「禁止の線引きをせざるをえない」というが、その線引きをどうやって誰が決めるというのだろう。
さらにもう一つ、欲望を主張し合い対立する相手が強大なるパワーを持っていたら(国家とか企業とか)どうなるのか。
また、主張する手段や場さえ持てない人はそもそもその土俵に乗る事すら出来ないはずだ。
現在、「正規雇用・非正規雇用」の問題が浮上している(いや、ようやく可視化されたというべきか)。私の職場で、非正規職員が勤務時間中に職務上の事故で大怪我をするという事件があった。一年経ってもまだ入院してリハビリ中である。しかし、契約の切れ目が縁の切れ目。契約期間が終了した後は補償を打ち切られた。このままでは職に就く事もままならず、食いぶちも稼ぐことができない。ここで補償や復職を求めることも「欲望」とされるのだろうか。生死や将来が関わってくる場合でもそうなのか。
あるいは『壊れる男たち』(金子雅臣、岩波新書)にはパートや派遣社員に対してのセクハラの事例が出てくる。「正社員でない奴には何しても勝手」というような欲望もまた尊重されるべきだろうか。
第3章--映画『X-MEN:ファイナル・ディシジョン』を例に出して共同体やアイデンティティを論じている。
しかし、この映画は以前に私がネタバレ感想で書いたように「女の物語」でもある。
ボーイフレンドのためにミュータントから普通の人間になる薬を飲んだローグは、正確に言えば「人間になった」のではなく「人間の女になった」のだ。いや、その選択自体がどうのこうのではなく、もしこれが男女逆だったらこういうストーリーはあり得たかねえ、なんてひねくれ者の私は考えてしまう。
この話の中で、ミュータントとしてのアイデンティティ崩壊の危機にさらされるほとんどが、女だというのは実に興味深い。もちろん「女」である事もアイデンティティの要因の一つなのだが……。私はこの映画についてはそちらの方が気になったけど、どうでもいいことですね、ハイ。
第2章--ジェンダーフリーについて超保守派と見紛うばかりの論理で批判している章。であるからして一番問題になりそうなのだが、そのほとんどはこちらあたりで既に散々に論議されてきたことに加え、さらにあとがきで「場合によっては保守的にさえ読めるかもしれません」とか「どんな反発や反応があるのか、どういうふうにバカにされるのかは熟知しています」なんて書いてある。つまり、これは「釣り」なんでしょうか?
となれば、下手なことを言ったら却って、予想された通りでミエミエだなどとバカにされる可能性が大。うっかり反論もできやしない。なるほどいいアイデアである。
しかも、この章には何度読み直しても私にはよく分からない文章が多くて、それもスルーしたい理由の一つ。今のとこ、わたしゃ更年期障害で脳ミソがスカスカ状態なんで難しい文章は頭に入らないのよ。
あとがきにはさらに「命がけで書いたから、命がけで読んで欲しい」なんてある。
すいません、通勤電車で読みました<(_ _)> 命がけじゃありません。
それに、命がけで釣られるのもなー。バカらしいし。
おまけに「パンクロック」なんて引き合いに出すのもねえ……だって、結局今でも生き残ってるのは「太った豚」の方のストーンズじゃないの、なんて言いたくなっちゃう。
こうなると命がけ問題については岩井志麻子の感想に激しく同意したりして(^=^;
本文に入る前のページに「差別のない、自由な社会を目指して--」という一文がある。
しかし全くの私見であるが言わせてもらえば、差別のない社会なぞ永遠に来はしない。もし来るとしたら、全人類が滅亡した時だろう。
それにしても現時点でAmazonのレビューが一件もないのは何故じゃ(?_?)
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コメント
今さらにも程がありますけれど、今日地元の図書館で借りてわくわくしながら手に取りました。 ただ、もう途中で疲れてしまって、適当に読み飛ばしてしまった…。 何を言いたいのかよく分かりませんでした。 私の読解力不足?? そして、議論が展開する上でフェミニズムとどうリンクするのかもちょいと分からなかったですね。 ぶっちゃけると、上野千鶴子批判の下りが特によく分からなかった。 言葉だけで世界を変えようとするなんて現実的じゃないよ、結局ウエノには理想的な社会像、ビジョンが無いしってな批判で良いのでしょーか。 アカデミックな文章にアレルギー的な反応を示している著者の文章の方が、余程読み手に不親切な感じを持ちました。 上野千鶴子は場合によって言葉を使い分けてくれます。 ずっと通じやすい言葉遣いだって、ケースバイケースで選択してくれている。 著者の文章は、読み手(私)に共感―「痛み」に対する理解でなく、憐れみ―を要求しているようで疲れてしまいました。結局、ありとあらゆる「痛み」は個人に還元されるべきもので、他者からはその痛みの程度は分からないと思うのです。反差別がつまりそれらの「痛み」に社会的なコンセンサスを与えていくことだとしたら、私は「痛い」んだと声をあげていく、またそうした声に私以外の皆が耳を傾けていけるようにすることだとしたら、声をあげることさえ許されない立場に置かれている者はどうなるんでしょう。 その筆頭が性的に搾取されざるを得なかった子どもたちではないかと思うんです。 全ての欲望は同じ土俵で語られるべき等価値なのでしょうか、すごくもやもやしてしまいました。 理解できたかどうかさっぱり心もとないです…。うーん。
投稿: かみや | 2010年2月10日 (水) 22時19分
感想ありがとうです(^^)
読んだ当時はフェミニズム系のブログでも結構取り上げられてたし、ミクシィでも迷惑なことに議論をふっかけたりしたもんですが、結局今イチ理解できなかったような……。
あえて、論理的でない文章にしているのかも、とも思えますがね(=_=;)
投稿: さわやか革命 | 2010年2月11日 (木) 22時44分