モンテヴェルディ「オルフェーオ」:ゴーマンかまして冥府まで行った男
1607年初演 抜粋上演
演出:ティモシー・ハリス
出演:中鉢聡ほか
会場:ムジカーザ
2007年4月2・4・5日
イタリア初期バロックオペラの名作『オルフェーオ』は今年、初演400年記念だそうである。東京周辺でも北とぴあなど、少なくともあと二種類の公演が予定されている。
本来ならばかなり大がかりな規模の体制になるものだが、ここではあえて小規模編成で小さな会場でやろうというらしい。
しかし、歌手五人、楽器が4人。会場のムジカーザは普段120人収容のところを90席にして残りのスペースで演じようというのだから、こりゃ大変なこった。
衣装美術の担当はパルドンレーベルのCDの装丁もやってる望月通陽が担当。周囲の壁も彼のデザインした幕が飾っていて雰囲気満点。
結論からいうと、必ずしも満足出来たわけではなかった。狭い空間でやることで良い部分に間近に接することができるが、逆に悪い所も強調されてしまったようだ。
最初から主人公のオルフェーオがよく言えば自信満々、悪く言えばゴーマンかましているのに驚かされた。これは演出のせいもあるだろうが、登場から「僕ら二人のために世界はあるの~、ウフッ」的な態度だし、エウリディーチェが急死しても「この竪琴弾いて彼女を取り戻しちゃえばオッケーさ」みたいな調子で、なんか全然同情できなかったのは私だけか。
ラストも削ってオルフェが他の女へ罵倒したまま終わる。これは演出家が意図してやったことで、確かに「真の悲劇は女性に対するオルフェーオの拒絶の中にある」のはよーく分かったが、物語としては「えっ、これで終わり?(思わずあたりをキョロキョロと見回す)」てな感じになってしまい、消化不良感が残ってしまうのは致し方ないだろう。
しかも狭い場所なんで階段など使っても、あまり動きが多くない。下手すると衣装付けて演奏会形式でやってもあまり変わらないんじゃないかという気がしてくる。
しかも狭いが故に歌手の身体表現の差が如実に現われてしまったのであった。以前、ク・ナウカの芝居で鬼婆に扮した美加理が、ただ座っているだけなのに圧倒的な存在感を出していたのを思い出した。同じ劇団でも他のメンバーだとその域まではとても表現できないほどのものである。
本来は「歌で勝負」の歌手にその域まで求めるのは無理な話だが、大きな振付など出来ないために却って表現の差が目立ってしまったようである。
そこへいくとさすがベテランの波多野睦美と藤原眞理は亀の甲より年の功、伊達に年季は踏んでいないぞーってなもんで、身体の動きにも(もちろん声にも)全く隙がなく揺らぎもない。特に波多野さんは、何役もかねて脇を固めていたのがやはりさすがであった。
という訳で、年季の違いが露骨に出た感じだ。特にエウリディーチェ役のソプラノの人、線が細過ぎですう~。まあ、本来妖精なんだから太過ぎても困るわけだけど……。
楽器組は四人だけで着実な伴奏をしていた。鍵盤はオルガンとチェンバロを一人二役で効果的に使っていたし、ガンバの福沢宏はそのチェンバロの調律係までやっていた。彼は一週間の間にこの公演を中に挟んでBCJの『ヨハネ』であっちこっち飛び回っていたんだから、大変な忙しさだったはず。
--と、まあ色々欠点を書いてしまったが、意欲的な試みなのでまた小さな規模でのバロック・オペラやってほしい。その時は、チビな私は段差のある座席にして貰うことにしよう。
なお、貰ったチラシに早くも「北とぴあ国際音楽祭」での『オルフェーオ』のお知らせが入っていた。
懸田奈緒子がエウリディーチェですか。どんな風にやってくれるか楽しみ。こちらでも波多野さんが出るし、おまけに衣装も望月通陽で同じだー。
私が『オルフェーオ』を生で見たのはパーセル・カルテットが主体となったプロジェクトでの来日公演である。イタリアの田舎の村祭りの話に設定し、楽器組まで衣装を付けて登場するというダンサーも歌手も入り交じった舞台にいたく感動した覚えがある。
その時の印象があまりに強いので、他のを見ても物足りなくなってしまうのかも--。
なお「レオ翁着メロ鳴らし事件」ほど話題になったわけではないが、日本古楽鑑賞史を飾る「半裸オルフェオ野次飛ばし事件」というのがその時起ったと記憶している。
なぜか終盤、マーク・パドモア扮するオルフェオが服を脱ぎ始め(もちろん演出です)観客がギョギョッとしたところに、すかさず抗議のデカい野次が飛び(飛ばしたのは野次の常連オヤヂとのこと)演じている方も含めて会場中ビックリしたらしい。幸い、私が行ったのとは別の日だったので被害はこうむらなかったが--。
フライング拍手と興醒めな野次は止めて欲しいもんであるよ。
【追記】
BCJの名古屋公演は、さすがにガンバは櫻井茂が担当してたようです。
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