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2007年5月

2007年5月31日 (木)

知事が作って、教育委員会がバラまく

某都知事が作った映画『オレは、キミのためにナンチャラ』。これの割引券が大量に他県の公立学校にバラ撒かれているという。その数、一校につき数百枚……。
一体、総数は何枚になるのやら(?_?;

さらにそれは都教育委員会の外郭団体を通じて配布されているという。
こ、これって職権乱用ってヤツか? スゴイね。

私も映画を作って公の機関に券をバラ撒いてもらえるような身分になってみたいもんである。ま、永遠に無理だけどよ(~ ^~)

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2007年5月29日 (火)

「藪原検校」:弱きをくじき強きをだます

作:井上ひさし
演出:蜷川幸雄
会場:シアターコクーン
2007年5月8日~31日

これまでどうも蜷川幸雄の芝居は今イチ自分と合わないなー、と思っていたがこれを観て初めて面白い!と思った。
もっとも、面白いのが演出なんだか元々の脚本だか役者の演技の部分なんだかはよく分からないが--。

親の因果が子に報い~、と盲人に生まれつき、盗む殺す犯すと悪徳の限りを尽くして社会を縦断して行く杉の市--古田新太は正にはまり役としかいいようのない演技を見せている(もっとも、恰幅良過ぎてて27歳には見えんが(^^;)。新感線みたいに当て書きしたかと思っちゃうほどだ。

堅固に築かれた江戸時代の社会の中で、さらに盲人の中にも階層が作られているという搾取的な体制を、井上ひさしの脚本はあからさまに描き出している。
主人公は悪をなすことでその体制を手玉に取る紊乱者となり頂点を極めるが、最後は葬り去られる。誠にエネルギッシュにして皮肉な物語だ。全編のめり込んで見てしまった。

音楽がいささか古めかしい感じで訴求力がないのが難(わざとそいういう曲調にしているのかも知れないが)。壌晴彦の語りは非常によかった。

《えんげきのぺーじ》の一行批評を見ていると、公演期間の初めの方はかなりキビシイ評が書かれているが、後になるほど点数が上がっているようだ。やはり尻上がりに出来が良くなっていったのかも知れない。


事前に座席をよく確かめないで行ったらバルコニー席の後ろの方だった。オペラグラス持って行くべきだったと大後悔である。
あと、途中で耳鳴りがしてきて花粉病のせいかと思って薬を飲んだがおさまらず、家へ帰ったらすごい大きな耳鳴りになっていて片耳が塞がったようになってしまった。これはもしかして「突発性難聴」というヤツかと震え上がった(>_<;)
翌朝、風呂に入ったら治ったからよかったけど、医者へ行かねばならないのかと不安になった。健康には気をつけんとイカンのう……。


【関連リンク】
1974年の公演も見た方の感想です。
《ようこそ劇場へ!》
うーむ、高橋長英、太地喜和子、財津一郎ですか。今回と正反対のメンツですなあ。これも見てみたかった。

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2007年5月27日 (日)

「18歳の今を生きぬく」:若いモンもつらいのよ

高卒一年目の選択
著者:東京都立大学「高卒者の進路問題動向に関する調査」グループ
青木書店2006年

東京都内の二つのタイプの異なる高校で、三年生の生徒に進路について聞き取り調査を行い、さらに一年後に彼らの現状を追跡した調査をした結果をまとめた本である。

就職にしろ進学にしろフリーターにしろ、実に様々な若者の現状が紹介されている。高校生の頃からバイトで家に金を入れ、さらに卒業後は専門学校への進学を目指して費用を貯めるためにフリーターになるも、状況の厳しさに思うようにならずズルズルと……というパターンや、或いは就職できなかったために進学を選ぶなんて事例もある。
こういうのを見ていると、私の世代の進学・就職観というものは全く通用しないのを痛感する。

またいずれの事例にしろ親の資産(経済的なものに限らず)によって大きく左右されること、そして進路先の環境や対人関係も重要な意味を持つことが分かる。
個人的に意外だったのは、生まれてから高校卒業まで自転車で移動できる地元地域内のみで生活してきた若者にとっては、仕事のため長時間電車で移動を繰り返すというのは大きなストレスになるということ。考えてもみなかったが、うむむむ……なるほど、そういうこともあるのね。

上っ面の話だけ聞けば「今どきの若いモンは--」と言いたくなるような話でも、隠れている実情と背景を知れば、やむを得ずそうなってしまったのだということがよーく分かった。
聞き取り件数は決して多いとは言えないが、単なる統計の数値では決して知ることのできないことばかりである。

一方、第2章の統計分析を見るだけでも驚く部分がある。「東京の若年層雇用形態」というグラフを見ると1992年を境に正規雇用・非正規雇用の割合が逆転し、さらにそれまで無かった男女差が生じて年ごとに拡大している。
つまり、東京で若い女性が安定した雇用を得るのは今では非常に困難であるということだ。

正直言って、この手の問題を扱った本の中では読んで一番役に立った。「今どきの若いモンは」と言いたい人には一読をお勧めしたい。

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2007年5月24日 (木)

新装なった山野楽器へようやく行く

しばらく銀座に行ってなかったもんで、ようやくザ・ニュースペーパーの公演のついでに山野楽器へ行くことができた。
改装して、クラシック売り場はおお(!o!)2階ではないですか。前よりもスッキリ広々した感じ。でも、スッキリし過ぎたような気も……(わがまま)。

早速、棚を漁るとウェルガス・アンサンブルの「40 VOIX」と、元アムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテットのP・レーンフーツ指揮するロイヤル・ウィンド・ミュージックのCDを発見。
他の輸入盤屋では見つからなかったものだ。さすが! これからも行く度に棚を細かく漁ってみることにしよう。

ところで後者のCDは「日本語解説あり」の文字が裏返って印刷されてるんだが、大丈夫かいな(~_~;)

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2007年5月21日 (月)

ザ・ニュースペーパーpart71プレ公演:コイズミ&アベ漫才は既に無敵状態

会場:博品館劇場
2007年5月19日

毎年2回本公演をやっている政治コント集団のザ・ニュースペーパーだが、今回は7月のプレ公演だということで、見に行って参りました。

冒頭、昨夜のたてこもり発砲事件を早くもネタにしてるんで驚いた。続いて、コイズミ&アベの漫才コーナー。よっ、待ってました(^O^)
出てきただけで会場内に笑いが渦巻くほど。アベ首相は初登場の前回よりもずっと完成度が高くなっていて、本人と間違えるぐらいだ。(←冗談です)

プレ公演ということで、ゲストやトークコーナーはなかった。一番残念なのは「さる高貴なご一家」コーナーがなかったこと。これは7月までガマンガマンで楽しみにしておこう。

面白かったのは、ゴミ捨て場を荒らすカラスのコント。舞台から引っ張り上げてきたお客がノリのいいオヂサンだったんでヨカッタネ。
あと、団塊世代のヲヤジに今どきの若者言葉を教えるセミナーのコントは涙が出るほど笑ってしまった。笑い過ぎてハンカチが必要だったほど。
「渋谷のニート」を引っ張ってきて若者言葉を実演させる件りも笑ったが、それに対し必ず下らないおやじギャグで返し、自分たちだけで盛り上がる団塊ヲヤヂどもはどーしようもない。爆笑の極みだった。

それにしても福本ヒデ氏は女装がハマリ過ぎです。なんだか心配になっちゃう(何が?)。
7月の本公演も必ず行くぞー。

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2007年5月20日 (日)

靉光 展&「リアルのためのフィクション」:課題《靉光の三枚の自画像を見て感想を述べよ》

靉光は今年生誕百年だそうである。それを記念しての大々的な回顧展。
やはり前に同じ美術館で見たシュールにして幻想的な「眼のある風景」の印象が強いが、もっと様々なタイプの作品を並行して描いていたのに驚かされた。

若い頃にやっていたロウ画というのは表面の感触が独特で面白い。その後では、動物を描いた大作や、やはり大きめの静物画もあれば、簡潔な印象の肖像もある。とにかく色々色々あり、だ。
墨と鉛筆でスッと描いた花に部分的に着色した「あけび」とか「くちなし」が印象に残った。

また第4章として区分けされた、昭和18~19年の作品群も小品が多いが見応えあり。特に「静物」と題された作品には思わず目を引きつけられた。静物と言っても何が描いてあるのか全く分からない。ただ、赤黒いぼんやりとしたモヤモヤしたものが覆っているだけなのだ。しかし、何やら異様な迫力がある。思わず何度も見てしまった。
ただ、このコーナーはピンポイント照明で個々の作品を照らしているのだが、油絵なんで角度によって光を反射して見えなくなってしまうのにはマイッタ。なんとかしてくれい。

で、最後のスペースには三枚の自画像がドドーンと並べられていた。しかし、私の目はその三枚に行くよりも手前に並べられた観賞用の長いすに座って、一心不乱に何やら描いている五人の中学生に引き寄せられてしまったのであった。(@_@)
恐らく学校の課題なんだろうが、何もそんなわざわざ暗い所で(ここもピンポイント照明なんで周囲は薄暗い)レポート書くこたないだろうと思ってしまった。
で、今どきのチュー坊が靉光を見てどう思ったのか甚だ興味があったが、いきなり「あーら、何書いてるの。見せてチョーダイ」などと厚かましいオバハンに変身も出来ず、じっとガマンしたのである。

三枚の自画像は構図はほとんど同じだが、何かが決定的に違っていて、もしバラバラに見せられたら同じ人物だとは分からないだろう--というぐらい。

いずれにしろ、彼の才能に対し国家は死をもって報いた。これは紛れもない事実である。そしてもはや60年以上経った今では、国立の美術館で回顧展を開くことしかできないのだ。

ところで、M・デュマスの時もいたんだが、一つの作品の前に至近距離でズーッとくっ付いて見ている人がいるのはどーしたもんよ。大作なら横から見たりできるが、たかだか30センチぐらいの小品でそれをやられたら他の人間は見られないじゃない。
自分一人だけが見てるんじゃねえぞー(*`ε´*)ノ☆


小企画展示の「リアルのためのノンフィクション」は、四人の女性が1990年代に製作した現代アート作品を展示している。これは、人によって誰が気に入るか異なるだろう。
ソフィ・カルは昔に森美術館で他の作品を見た記憶があるが、フランス語で書かれたテキストの内容が分からんと理解しにくい。
やなぎみわはおなじみの案内嬢シリーズ。とってもデカい作品なんでもうちょっと離れて見たかった。
塩田千春は泥の入ったバスタブの中で、泥を洗面器でかぶり続けるのを延々と続ける映像作品だ。まるで苦行のようで、極めて自傷的な作品に思えて見続けるのがシンドイ。無料配布の冊子に書いてあるような「大地との直接的な関係を回復しようとする儀式」にはとても見えなかった。

最後は、イケムラレイコの四つの陶作品と大きめの油彩だったが、これが「キモくてイヤ~ン」な感じで実に気に入ったーっ \(^o^)/
なんだか形も定かでない頭部をこねくったような陶作品は、もう見るだに変で不気味で思わずニヤニヤしながら見まくってしまった。
それからボンヤリとぼかしたような画風の「横たわる少女」もやっぱり不気味な感じで、寝てるんだか倒れてるんだか殺されてるんだか分からないのがまた心のツボにグイグイ来るのだ。
こういう作品にめぐり合った時は、もうタイトルも説明もどーでもよくてただただ嬉しくなってしまうのであった。ヤッタネ!


所蔵作品展では現代部門の高松次郎「STORY」が、まるで『シャイニング』の「ジャックは……」のタイプ用紙を見つける場面のようで面白かった。他にも変な作品がいっぱいあって見たかったが、いつも2階まで降りてくると時間切れになってしまう。残念。

版画コーナーは「畦地梅太郎」特集。この人は全然知らなかったが、素朴で簡素な形がカワユイ。特に山男がライチョウを抱いている作品と、その後ライチョウが名残惜しそうに男を見送っている作品には笑ってしまった。ライチョウってそんなに人懐こいんか?

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2007年5月19日 (土)

山岡重治 リコーダーリサイタル:謎のふいご係に注目せよ

ハートフェルトコンサート vol.72
会場:東京オペラシティ リサイタルホール
2007年5月13日

様々な国と時代のリコーダー曲(フルート用もあり)を様々なリコーダーを取っ換え引っ換えして聞かせてくれる企画。もちろんピッチも各々異なったりする。
初期バロック・イタリアのフォンタナ、フランスはオトテール、フィドリールなど。曲ごとに山岡氏が曲とリコーダーの解説をしてくれる、という親切なコンサートである。
同じ種類のリコーダーでも象牙を使ったものと木材だけのものは微妙に音の響きが違うなど、トーシロにはよく分からない範囲まで実演して見せてくれた。
この楽器の持つ豊かな音世界と歴史を実感できましたです、ハイ。
小・中学校の時に吹かされたあのリコーダーとは別物の楽器だと思うことにしよう。

脇を固めるのは、ガンバが奥さんである平尾雅子、チェンバロ&オルガン上尾直毅、リュート金子浩というメンツであった。
あ、あと一人オルガンがふいご式で、そのふいごを動かす謎のおぢさん(後でオルガンの制作者と判明)もいた。ふいごが付いていても、今は電気で動かしているというのは見たことがあるが、実際にふいごを使っているのは初めてだった。ちょっと驚き。

ところで、会場を近江楽堂と間違えて行ってしまい、片付けをしていた係の人に「5時からならリサイタルホールじゃないですか」と言われて初めて気付いたというドジを踏んでしまった(^^ゞ
道理で以前チラシを眺めていて、「3時から前田りり子のコンサートがあるのに5時からなんてハードスケジュールだなー、近江楽堂」などと思ってしまったわけだよ。


ところで、結局五月のコンサートはこれ一つとなるもよう。
なんで、みんな六月ばっかりに集中してやるのよ(泣) 梅雨でジトジトして楽器の調子も悪そうだっつーのに。BCJのレクチャーコンサートの案内が来たけどとても行けません。もし行ったら一週間のうち6日間コンサートというムチャクチャなスケジュールを、私にしろとでも?

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2007年5月17日 (木)

「オンナらしさ入門(笑)」:ウン十年前に読めてたらよかったかも

著者:小倉千加子
理論社(よりみちパン!セ)2007年

理論社から出ているヤングアダルト向けの新書(より一回り大きい判型だが)から出された女子向け人生指南書。ちなみにこのシリーズからは既に男子対象の本は3冊ほど出ている。

内容はこれまでの著者のジェンダー論などを分かりやすく噛み砕いて書いている。『ナイトメア』とも重なる部分は多い。
冒頭にマザーグースの歌を引用し(「おんなのこは おさとうと スパイスとすてきななにもかも」でできている)、歌の内容にもかかわらずイバラの道を歩かなければならないことを説く。
ただし、あくまでも青少年向けであるからには、終章は希望にあふれたものとなっている。彼女の他の本のように辛辣な終わり方は禁止!だ。
とはいえ、キビシイ指摘は文中の至る所に登場するので要注意である。

大学生の男子の「見にいく娯楽」の第一位は、観賞でも鑑賞でもなく、観戦です。男子は勝ち負けを見にいき、女子は作品を見にいく。

なんかここを読んで思わず笑ってしまったのは私だけか。

もちろん、これは甘い「おんなのこ」のイバラの道を歩くことに疑問を感じる女子向けであり、そうでない女子は読む必要はないだろう。あ、「おとこのこ」(「かえるに かたつむりに こいぬのしっぽ」で構成)がイヤな男子も読むのはOK。


余談だが、マザーグースの歌で思い出したのはウェールズの伝説の中の物語である。魔法使いが砂糖やスパイスや素敵なもの--ならぬ花で美しい女を作って自分の甥に与えるのだが、その結末は極めて不条理で陰惨なものだ。
伝説の中で示されているのは不変の真実なのだろうか、それとも太古の昔から存在した道を外れた女への規範なのだろうか。

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2007年5月14日 (月)

目は口ほどにものを言い

《G★RDIAS》より「少女漫画と男性漫画の目の大きさ」

森脇真末味の絵も目が細かったぞ、と言ってみるだけ言ってみる。
吉田秋生より何年も後に出てきたという人という記憶があったが、年齢もデビューもそんなに変わらなかったのねー。ずっと勘違いしてた。

高野文子なんか目が点(・o・) まあ彼女の作品が少女マンガの範疇に入るかどうかはまた問題だが。

目の大きさと少女マンガ王道度は比例するのかもしれぬ。

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ゲイツよ、2000はもう相手にしてもらえないのね

《セキュリティホール memo》より、「Microsoft Update または Windows Update が終了しない」件を知る。

現在の職場ではXpと2000を使っているのだが、どうも2000の方がやたらと動作が遅い。ソフトがたくさん入っているせいかと思ったんだが、いつもUpdateのアイコンが出てくるし、実際の Updateの動作も遅い。なんと30分から1時間かかるほどだ。そのうち、どうもこれは常にPCが Updateの有無を確認しているせいではないかと、疑わしく思いはじめた。
さらに最近は、何度更新してもアイコンが消えない。そしてまた前回やったはずの更新のお知らせをしてくるのだ。

と、思ってたら上記の記事が--。やはりバグだったのか。だが、記事のリンク先を読んでみるとどうもWindows2000はちゃんと対応してくれないらしい。書いてある通りにKB937383をやってみたが、やっぱりアイコンは消えてくれないのであった……。


《ビル・ゲイツの秘密の日記》より
○月×日
貧乏人どもがまた騒いでいる。2000だって? 一体いつ買ったパソコンの話をしているんだね、ハッ。そんな大昔の物を持ち出されても、対応なんかするはずないじゃないか。自由の女神と2000とどっちが先に出来たかっていうぐらいに考古学的遺物だよ。さっさと30ドル払ってリサイクルに回すんだ。(~ ^~)
そしてVistaインストール機を買うんだ。もうこれからはVistaしか相手にしないよ。分かったかね、貧乏人諸君!

【追記】
貧乏人からの抗議があったせいか、2000用の修正プログラムが後から出ました。メデタシメデタシ。

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2007年5月13日 (日)

マルレーネ・デュマス、岡本太郎、そしてタイ・アート・オールスターズ:あんまんから水滴まで、共通点は何もなし

東京都現代美術館
*マルレーネ・デュマス「ブロークン・ホワイト」
2007年4月14日~7月1日

*特別公開 岡本太郎「明日への神話」
4月27日~2008年4月13日

*「タイ王国・現代美術展~みてみ☆タイ」
4月18日~5月20日

*「MOTコレクション 2007年度 第1期」
4月27日~7月1日

M・デュマスとは名前ぐらいしか聞いたことがなかったが、現在進行形でかなり人気のある画家らしい。
ポートレイトが多いとのことだが、実際顔だけを荒っぽく書いた小さめの作品がズラズラと並べられている。しかも、それが変な顔というか個性的に書かれたものが多くて、私はゴドレイ&クレームのビデオ・クリップ「クライ」を思い出した。今では珍しくないモーフィングの技術を最初に駆使した作品だが、その技術よりもよくもこんな変な顔を集めたなーというような人物が次から次へと登場するのが面白かった。それに似ている。

大きめの作品では「白雪姫と折れた腕」というのがやはり変テコで目を引いた。全裸で眠っている太めの白雪姫(なぜかポラロイドカメラを手に持っている)を灰色の不気味な7人の小人たちが見ている、という絵だ。
エゴン・シーレを連想させる作品もあった。

表題になっている「ブロークン・ホワイト」はアラーキーの写真作品を元にして描かれている。そのオリジナルのアラーキーのハメ撮りも展示されていたのだが、私はそれを見て「あんまん」を連想してしまった(^=^; い、いかん、もはやこの歳になると全ての連想は食欲へと還元されるのであろうか。
デュマスの絵は写真の構図をなぞっているが、「あんまん」部分は描かれていなくて受けるイメージは全く違う感じである。どういう意図で描いたんざんしょ?

他にはアントン・コービンと組んで描いたストリッパーの絵がよかった。
なお、多くの作品は真っ白い壁にゆったりと間隔を置いてやや高めの位置に展示されていて、とても気持ちよく見られた。雨の日だったせいか、人も少なかったし……どんな作品でもこんな感じで鑑賞できるといいんだがねえ。


次は、復元された岡本太郎の巨大壁画を見る。
巨大過ぎて何がなんだかわからない。端っこに描かれている目鼻がついた船のような物体がカワイイなっと(*^-^*)--そんなレベルの感想しか出てこない。撮影自由なので、みんなケータイで一生懸命に記念撮影していた。
脇で復元過程のビデオをやっていて、それを見てると本当に粉々の断片になっていたのを再生したのに驚く。そして実物に接近してみると、確かに切れ目が分かるのであった。

個人的に岡本太郎というと思い浮かべるのは『宇宙人、東京にあらわる』(←タイトルうろ覚え)という映画で彼がデザインした宇宙人である。
いやー、あんなブッ飛んだ宇宙人は絶対どんな映画でもお目にかかれまい!と太鼓判と共に断言できちゃうほどのモンであった。スゴイね。

あと同時代の画家の巨大絵画と、「太郎の「神話」のエネルギーは次世代に続く若い作家にひきつがれ」たという最近の若手の作品があったが、ちょっとこじつけっぽい。


入場無料というタイの現代美術展は時間がなくて駆け足で見た。日本と関りのある画家の作品などを時代順に展示。そして吹き抜けの広い空間では、客も参加して作るワークショップ風のやつもあった。デュマスを見てた時には若い人たちが大勢、一心不乱に何かを作っていたが(紙人形らしい)、私が行った時にはもう誰もいなくて、女の子が二人、風船式の黄色い人形を必死になってふくらまそうとしているだけだった。

ここら辺に来ると、タイっぽいというよりはいずこの国も変なアーティストがいるなあという印象。
個人的に面白かったのは、有名な報道写真をパロディにした「この無血戦争シリーズ」だった。


常設展は入口の巨大な布のインスタレーション、スゥ・ドーホーの「リフレクション」に驚かされる。薄い青緑色の布を透かし見て、まるで水面下から門のような建物と、水面に映ったその影を見上げているよう。なんだかホヤーッとした幻想的な気分になる。階段を上がると上部も見られるのが面白い。
新たに購入した作品を中心に展示しているということだが(予算が貰えてヨカッタネ)、水滴を精密にカンヴァスに写し取った金昌烈がとても目を引いた。
タイも含めてやはりアジア勢は勢いがあるってことですかねえ。

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2007年5月12日 (土)

「13/ザメッティ」:回せ回せ!運が尽きるまで

監督・製作・脚本:ゲラ・バブルアニ
出演:ギオルギ・バブルアニ
フランス・グルジア2005年

実は前売券買ってから「買っちゃったけど、見ようかなあどうしようかなあ」と迷ってしまった映画。
が、しかし見終った後は「見てよかった~ \(^o^)/」となった。やっぱり、見てみないと分からないもんだのう。

この映画の予告を見た誰もがギョッとするのが集団ロシアン・ルーレットの場面。大勢の男が円形に並んで自分の前に立っている者の後頭部に銃を突き付けているのである。そして響く銃声--。
これを見て興味を持った観客も多いだろう。

だが、その場面へ行くまでには結構かかる。若者が儲け話がありそうだと嗅ぎつける過程で--特に本来その「仕事」に行くはずだった男の妻の話なんかはあまり時間を割かずに、もっと若者の周辺を描いた方がよかったと思う。

肝心のロシアン・ルーレットの場面になると俄然、緊張が高まってくるが、それはゲーム自体よりも、銃をガシャガシャいじる音、追い詰められたようなプレーヤーの顔、いわくあり気に札束を持って右往左往する賭ける側の男たちの様子や、進行役の男の怒鳴り声の描写に迫力あるからである。そういうザラザラした不快さが抜きんでている。
「回せ回せ。もっと回せーっ」

さて、このゲームの変なのは全くの運任せということだ。プレーヤーが生き残るかどうかは本人には全く関係ない。関わるのは後ろの男の持つ銃のシリンダーの位置であり、それは自分がどう努力しようと何しようと左右できないのだ。
つまり賭ける側が競馬のように血統や勝率を研究しても意味ないし、プレーヤーはスポーツのように練習を重ねてどうのという事もない。
そういう意味では「能力」や「資質」や「努力」は一切無関係だ。

従って、参加者が賭けるのは単にプレーヤーの「運」という極めて曖昧なものに過ぎないのだ。当たるか当たらないか。二つに一つ。その点では宝くじと変わらないのだが、宝くじならこんなに死体が転がったりはしないし、緊張もしないだろう。
いや、生死が関わってくるからこそ「運」も特別な意味を持ってくるのだろうか。
まさにそんな「運」に取り憑かれた男たちの醜悪さと崖っぷちぶりを嫌というほど味わうことができる映画である。

さて、ゲーム終了後が蛇足だという意見も見かけたが、そんなことはないだろう。若者のゲームの勝敗を乗り切った幸運は、その後に訪れた災厄には通じなかったという、誠に辛辣で皮肉な結末なのだ。

それにしても、怪しげな顔つきのオヤヂたちがゴロゴロ登場してくる。日本でこんなメンツを集めるのは不可能かも。役者としては進行係の男役の人がかなりよかった。彼がいなかったら緊張感五割減は確実といえる。

グルジア移民の監督がフランスでほとんど手弁当で撮ったというこの作品、アイデア勝負の面もかなりあるが、ハリウッドでご本人によるリメイクが決まっているという。
さて、かの虚栄と悪徳の都で監督の「運」はどれぐらい続くだろうか。


主観点:7点
客観点:6点

【関連リンク】
なかなかに鋭い所を突いた評だと思いました。
《★銀河ブログ》より「「13/ザメッティ」格差社会の隠喩」

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2007年5月 7日 (月)

「いじめと現代社会」

著者:内藤朝雄
双風舎2007年

正直言って、かなり期待外れだった。本当は同じ著者の『いじめと社会理論』の方を読むべきだったと思う。でも、電車の中で読むには難しいかなーと考えて、こちらにしてしまった。

色々な媒体での対談や論文やエッセイを集めたもので、そういう意味では統一性はない。
特に「図書新聞」に連載していた短めの論文(エッセイ?)群は、なんだかアジテーション文読まされているようで、全く納得できなかった。
「タカ派の議員たちを次の選挙で落としまくらなければ、日本の将来はない」ったって、やっぱりそういう議員は当選するし、『国家の品格』はベストセラーとして売れ続けるわけだ。どーすんのよ。
現在の天皇に対する過度なほどの熱い思い入れもよく理解できなかった。そんなに思い入れられたって、あちらさんだって困るだろう。ひねくれ者たる私にはどうしてそこまで完全な他者に期待してしまえるのかよく分からない。

それから対談で本田由紀が、あたかも専門高校では閉鎖的ではなくいじめもない人間関係が作れるようなことを述べているが、現状の専門高校では普通高校と変わらぬ閉塞的な状況にあり、いじめもしっかり存在する事例がある。それから普通高校に変な職業コースを作って失敗した話も聞いたことがあるぞ。実態を把握して言っているのだろうか?

まあ、いつか余裕が出来たら『いじめと社会理論』を読むことにしたい。

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2007年5月 5日 (土)

98を使い続けるしかない理由

「「Windows 98/Meを使い続けることは危険」、IPAが注意喚起」

《スラッシュドット ジャパン》より「IPA、Windows 98/Meの使用継続の危険性について注意喚起」

今はもう異動してしまったわけだが、一年前までいた職場でWindows98機を使っていた。で、動作が相当のろいし、フロッピードライブがそろそろいかれてきたようなので(ドライブ自体はあんまり使っていないが、壊れはじめは大抵こういう所から来る)職場の情報担当者に、買い替え出来ないか恐る恐る聞いてみた。
そしたら、返事は「ウチではもう2年間新しいパソコンは購入していません! 予算が出るあてもないからどうしようもない」とのことだった。

ということは、つまり今使ってるパソコンが壊れたら全て手作業に戻して仕事をし、文書も手書きで作成しろってことだ。素晴らしい~ \(^o^)/
まあ、先立つ物がなくてはしょうがない。私はその半年後に異動してしまったんで、その後どうなったかは知らないのだが。

しかし、スラドの論議を見てるとまるで98やMeを使い続けることは無知によるものであり、セキュリティの面から周囲に迷惑をかける--みたいな論調なんだが、どこもそんなに簡単に新しいパソコン買って貰える予算があるのかね。ウラヤマシイ。
まあ、スラドに書き込んでるような人はその方面の職業だろうから話は別なんだろうけどさ。
実際問題として、この不景気の中でそんな予算がすぐに捻出できそうにもない。今の職場も全体として前年から予算13%カットで毎年毎年減額していくばかり。もちろんVistaなんかまだどこにも入ってないぞー。
金はある所にはあるんだねえ……。

ちなみに同業者の職場の話を聞くと、そこではWindows95機が数十台、買い替えるあてもないまま未だ設置されているという(-o-;)

【追記】
タイトル変更しました。

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「身体をめぐるレッスン 2 資源としての身体」:役立つ身体をあなたは持っているか

編者:荻野美穂
岩波書店2006年

様々な面からの身体論のアンソロジー・シリーズの2巻目。他の巻は未読だが、テーマが面白そうなので読んでみた。

内容は色々である。難しくてよく分からんやつもあれば、他の本でも似たことを書いててもうイイヤな人もいる。

面白かったのは、日本のハンセン病施策を「隔離」という点から見た「隔離される身体」。家族を解体して隔離された身体が「国家」へ回収される過程は極めて興味深いものである。

「卵子・胚・胎児の資源化」は自分の身体の一部(であったもの)が知らないままに、あるいははっきりと認識しないままに研究者に回され利益を産み出している構造を描いている。それがいかに多額であっても、提供者に還元されることはない--というか、そういう事実があったのかどうかさえ分からないのだ。

「生かさないことの現象学」は安楽死・尊厳死に潜む、表には見えることのない「生かさないこと」への選別の存在を明らかにしたもの。事故現場でのトリアージについても書かれている。
そのような場面での「生かさないこと」の選択は、本人の自己決定ではなく、その時代の社会的規範と結びついている。例えば、高齢者、重病人、障害者、さらには中毒者、ホームレス、売春婦など。
医療現場で日々、そのような選別が行われているというのは恐ろしいことだが、一方で人々がそれを無意識に一つの価値観として受け入れてしまっているのもまた事実であろう。

さて、一番面白かったのは「バンキングと身体」である。私の子供の頃は献血をした人には優先的に輸血を受けられるという優先権があったはずなのだが、それがいつの間にか献血してもしなくても同じということになっていた。
実はその背後には昭和初期からの日本の血液事業の変遷が絡んでいたのだ。輸血による事故、血液の安定供給と品質低下防止、売血から献血へと、様々な動きがあった。
時折街中で耳にする献血を呼びかける声の背後にこんな歴史があったとは--いやはや、わからんもんですねえ。

ということで、全ての論文がヨカッタとは言えないが、2700円の元は充分取れた本だといえよう。

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2007年5月 4日 (金)

「ナイトメア」:怪談、あるいは「女」という病

心の迷路の物語
著者:小倉千加子
岩波書店2007年

毎日新聞のサイトで連載したコラムを単行本化したもの。
私はその連載をずっと読んでいたのだが、実は冒頭から見逃していた一文があった。
「小説を書いている私には、読者からしばしば手紙が届く。」
--という文章である。私はここを読んでいたはずなのに、脳内から追い払ってしまっていた。小倉千加子は小説家ではないのだから、これは「以降の内容はフィクションである」という宣言なのだ。
だが、それを読み飛ばした私は「ナイトメア」とこの中で呼ばれている女性が実在して小倉千加子に本当に手紙を送ってきたのだと思い込んでしまったのである。

しかし「ナイトメア」は完全な虚構の存在ではないだろう。恐らくは著者が出会った複数の若い女性を重ね合わせた人物かと思われる。点々と語られる「ナイトメア」のエピソードは「ああ、そういうヤツいるいる」と思わせるものが多い。
一番、印象に残ったのは歴史ものの芝居を観に行って旗の紋章が違うといって、もはや芝居自体を拒否してしまう話だ。確かにいるよなー、と思ってしまった。

彼女はあまりに知性があり過ぎるため、知に拘泥するためにどこにも安住できない。女は知的であってはイカンのである。家庭では良い娘、良い妹、良い妻、良い母にはなれないし、学校や職場では鬱陶しがられるだろう。それを完全に隠蔽するだけの世俗的な一面は持ってない。もはやどこにも行く場所はないのだ。

数年に渡り作家の「私」に対し手紙が送られてくるうちに、段々と彼女の内面(あるいは「正体」)が明らかになってくる。しかしそれに反比例するように現実の彼女の存在感は薄れてくる。ここら辺の経緯は何やら怪談のように恐ろしくて、読んでてゾーッとした。

だが、より不可解だったのは「私」の反応である。「ナイトメア」の家庭での生育歴の中で決定的な出来事が明らかになった時、
「ナイトメアの苦しみの原因は内側のものではなく外側のものということになる。恐らく、私はそれを認めたくなかったのであろう。」
というのだ。
なぜ「私」は苦悩の原因を構造的でなくて偶発的なことであるのを拒否するのか。フェミニズムが女であることを構造的にとらえようとしていることへの寓意なのだろうか。

なににせよ、「新しい「苦の世界」を、ナイトメアは生きている」のであるならば、それは不治の病なのだ。治癒の方法があるとすれば、恐らくそれはただ一つ「死」であろう。

だが、結末での「私」の語りについては--私には理解しにくいものだった。なぜなら、もはや私自身にはそこで語られる「内面」などほとんど残っていないからだ。

内面のない人間はただ転がり続けるのみ。止まったらパッタリ倒れてしまうのである。内面について思い巡らしたりする余裕はないのだ。
だから、この物語はやはり怪談ということにしておこう。


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2007年5月 3日 (木)

大貫妙子”Boucles d’oreilles”2007:もっと前の方で聴きたかったよ

会場:東京オペラシティ コンサートホール
2007年4月30日

毎年、年末恒例のアコースティック・ライヴ・ツァーだが、今回はレコーディングと重なったため今の時期に延びたとのこと。
しかし、BCJなどで何度となくお世話になっているオペラシティだがクラシック以外のコンサートは初めてだ。照明がピカピカ使われているのを見たのも初めて。さすがに音はよい。

座席はなんと26列め。後ろから数えた方が完全に早い。オペラグラスを持ってくればよかったと後悔した。イープラスの先行発売で買ったのになんなのよこれは。(怒)
これじゃあ、バルコニー席の方がいいか、というぐらい。
次からはチケぴの窓口で直接買おうかなあ--と思ったが、いつもそれで売切れで買えなかったことを思い出した。

今回は林立夫のドラムスがゲストで入ってなんとなく前半はジャズっぽい雰囲気。前回もそうだったけど、最初のうちは声の調子が今イチだったようだが、後半は復調してヨカッタ。
最近、コマーシャルなどで明らかに大貫妙子のヴォーカル・スタイルを意識したとおぼしき年若い女性歌手の歌を耳にするが、こうしてご本家のナマ声を聴くと「まだまだ30年くらい年季が足りない!」と断言しておきたい。

恒例プレゼント・タイムでウロウロして笑いを取っていた、体格のよろしい短髪の二人組男性は去年も出現したとおぼしいが、常連さんなのかしらん。

入口の坂本龍一や糸井重里からのお花をケータイで撮影している人が少なからずいたが、ブログ用か?(実際に載せているブログがあった)

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