「ナイトメア」:怪談、あるいは「女」という病
心の迷路の物語
著者:小倉千加子
岩波書店2007年
毎日新聞のサイトで連載したコラムを単行本化したもの。
私はその連載をずっと読んでいたのだが、実は冒頭から見逃していた一文があった。
「小説を書いている私には、読者からしばしば手紙が届く。」
--という文章である。私はここを読んでいたはずなのに、脳内から追い払ってしまっていた。小倉千加子は小説家ではないのだから、これは「以降の内容はフィクションである」という宣言なのだ。
だが、それを読み飛ばした私は「ナイトメア」とこの中で呼ばれている女性が実在して小倉千加子に本当に手紙を送ってきたのだと思い込んでしまったのである。
しかし「ナイトメア」は完全な虚構の存在ではないだろう。恐らくは著者が出会った複数の若い女性を重ね合わせた人物かと思われる。点々と語られる「ナイトメア」のエピソードは「ああ、そういうヤツいるいる」と思わせるものが多い。
一番、印象に残ったのは歴史ものの芝居を観に行って旗の紋章が違うといって、もはや芝居自体を拒否してしまう話だ。確かにいるよなー、と思ってしまった。
彼女はあまりに知性があり過ぎるため、知に拘泥するためにどこにも安住できない。女は知的であってはイカンのである。家庭では良い娘、良い妹、良い妻、良い母にはなれないし、学校や職場では鬱陶しがられるだろう。それを完全に隠蔽するだけの世俗的な一面は持ってない。もはやどこにも行く場所はないのだ。
数年に渡り作家の「私」に対し手紙が送られてくるうちに、段々と彼女の内面(あるいは「正体」)が明らかになってくる。しかしそれに反比例するように現実の彼女の存在感は薄れてくる。ここら辺の経緯は何やら怪談のように恐ろしくて、読んでてゾーッとした。
だが、より不可解だったのは「私」の反応である。「ナイトメア」の家庭での生育歴の中で決定的な出来事が明らかになった時、
「ナイトメアの苦しみの原因は内側のものではなく外側のものということになる。恐らく、私はそれを認めたくなかったのであろう。」
というのだ。
なぜ「私」は苦悩の原因を構造的でなくて偶発的なことであるのを拒否するのか。フェミニズムが女であることを構造的にとらえようとしていることへの寓意なのだろうか。
なににせよ、「新しい「苦の世界」を、ナイトメアは生きている」のであるならば、それは不治の病なのだ。治癒の方法があるとすれば、恐らくそれはただ一つ「死」であろう。
だが、結末での「私」の語りについては--私には理解しにくいものだった。なぜなら、もはや私自身にはそこで語られる「内面」などほとんど残っていないからだ。
内面のない人間はただ転がり続けるのみ。止まったらパッタリ倒れてしまうのである。内面について思い巡らしたりする余裕はないのだ。
だから、この物語はやはり怪談ということにしておこう。
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