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2007年6月10日 (日)

「ツォツィ」:国境なき「不良」の姿

監督:ギャヴィン・フッド
出演:プレスリー・チュエニヤハエ
イギリス・南アフリカ2005年

2006年のアカデミー外国映画賞を獲得した作品。アフリカの映画としては初めてだという。同じくノミネートには『パラダイス・ナウ』や『白バラの祈り』などが入っていたんで激戦だったわけだ。

見ようかどうか迷っていて、しかも都内では六本木しかやってないということでズルズル日にちが経ってしまい、上映が終わってしまった……と思ってたら、なんと銀座のシネパトスで引き続いて上映していたのを知ってビックリ。あわてて見に行った。

主人公は南アのヨハネスブルクのスラム街に住む少年、彼は「ツォツィ=不良」という一般名詞で呼ばれていて固有の名前は持たない(ように見える)。
だが、強奪した車の中に赤ん坊が残されていたことから彼の人生は一変する。

見ていてダルデンヌ兄弟の『ある子供』を思い出した。この二つは対称形を成している。
共通点は主人公にかかわる若い娘が母として自立して生きていること。彼と親の関係は断ち切られているということ。大人との関係は希薄だ。そして、犯罪を犯して日々の糧を得ていることである(というか、他の方法を知らない)。
『ある子供』では父親は不明、母親は生きているが彼を邪魔者扱いにする。『ツォツィ』では母は病気で死亡、暴力的な父親の元から逃走する。
しかし、前者の主人公は自分自身の子どもなのにモノのように売り払ってしまう。後者では他人の子どもなのに自分の子どものように育てようとする。
この二つの話はそこの点では正反対だが、また別の意味で非常によく似ている。社会からはじき出されている若者が、赤ん坊のために犯罪をおかすが、それを契機にして新たな道を歩むということだ。

ツォツィは恐らく父親になりたかったわけではない。赤ん坊を自分の分身のようにとらえたのだ。だから自分の本当の名を与え、彼が子どもの頃暮らした土管の「家」を「お前の家だ」と見せる(しかし、そこには既に新たな子どもたちが住んでいる)。

現在の南アでは黒人同士でも大きな経済格差が生じているのが、この映画でははっきり描かれている。
彼は赤ん坊の親の裕福な家に侵入するが、その子供部屋は極めて豪華である。それは彼からは赤ん坊に(そして彼自身に対しても)、永遠に与えることができないものなのだ--。

冒頭と終盤での主人公の変貌の差はすさまじい。それだけに、登場する大人の何人か良い人過ぎるのがチト不満である。もっとも、そうでなけりゃ感動もしなかっただろうが。
そうです……泣いちゃったのよ~ん(T_T)

心理描写が極めて言葉少な(映像少な?)であっさりしているのも今日び新鮮だった。セリフでほとんど語らずちょっとした仕草などで心理状態を示しているが、そうなると最近の説明過多なメジャー映画に慣れた者には何も描かれていないと受け取れてしまうかも知れない。


主観点:7点(泣かせるな、バカ~ ←八つ当たり)
客観点:8点(泣けます)

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