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2007年8月

2007年8月30日 (木)

「トゥモロー・ワールド」:大いに後悔しました

監督:アルフォンソ・キュアロン
出演:クライヴ・オーウェン
米国・イギリス2006年
*DVDにて鑑賞

ロードショー公開時に見てみようか迷ったが、予告を見るかぎり今イチ面白くなさそうだったのでパスした作品。
だが、今回レンタルで借りて来て見た結果は……

なんだよ、面白いじゃねえか!(`´メ)
映画館で見ればよかったよ(T_T)

予告の印象と全然違っていた。ハラハラドキドキの娯楽ものではなくて、もっとクールな近未来ものだった。全体的にそっけない描写や編集も好み。
あと、驚異の戦闘場面長回しや車内カメラ360度ブン回し撮影(どうやって撮ったの?そのまま車外に出てるんだよね)にはビックリ。

ただ、子どもが生まれなくなったり、突然生まれた理由が説明されていないのでSFというより、これは寓話と考えるべきだろう。
簡単に言ってしまえば、少子化に悩みひたすら退廃していく先進国は閉鎖的・抑圧的になるが、そうではなく移民の生命力を導入することで生き延びよということだろうか。

それにしても、このような近未来を描いた物語というのは、結局のところ「現在」を描いているのに他ならないことを感じた。大昔のJ・G・バラードの短編に人口爆発のためにギュウ詰め状態で生活する話があったけど、今ではそんな未来を描く者はいまい。

文化相の邸宅の窓からピンク・フロイドのピンク豚が浮かんでいるのに笑った。監督の考えではあれはピカソの『ゲルニカ』に匹敵するものらしい。
でも、数十年後の若いモンがレノン&マッカートニーの名前を知っているとは思えんねえ。


主観点:8点
客観点:7点

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2007年8月28日 (火)

「宙飛ぶ教室」:宝塚ネタはよく分からん

Photo

著者:小倉千加子
朝日新聞社2007年

雑誌に連載してた連作エッセイを収録していたもの。タイトルは「そらとぶ~」と読む。
内容は
*宝塚ネタ(書名の「宙」は宝塚の宙組から来てるらしい)
*大阪というか関西の土地や人の気質の話

で三分の二を占めている。どちらも私は知らない分野なんで読んでてよく分からず隔靴掻痒という感じだ。
残りの三分の一は面白かったが……。
「河合隼雄の言いそうなことを言っている自分を、誰か止めてほしい」という所は思わず笑ってしまったし、大学の講義でいつも最前列に座って著者の話を聞いているデコボココンビの男子学生は微笑ましかった。

ちょうど今週の「アエラ」で、このエッセイの中で大きく取り上げられている元宝塚の人が表紙になっていた(検索して来る人がいると悪いので、名前は書かない)。その写真をつらつらと眺めてみたが、やはりステージを見てみなくては何も分からないようだ。
もちろん、宝塚の話はジェンダー関係につながるんだろうけどさ。

【追記】
元宝塚の人の写真集の新聞広告を見かけた。で、NHK-BSでやってるアニメ『精霊の守り人』のヒロインに似てるなーと思ったのは私だけじゃろか。
もちろん、「似てる」っても実際のところは逆で、キャラクターの設定の時にモデルにしたのかも知れないってことになるわけだが。
『攻殻』の時もモデルとして吉永小百合とか金城武の名前が出ていたからなあ--あり得ない話ではないと思うぞ。

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2007年8月26日 (日)

「TOKKO -特攻-」:ウツにならなくてよかった

監督:リサ・モリモト
米国・日本2007年

見る前の予想とかなり違っていた。
特攻隊員の運命に号泣、日米兵士の戦争観が激突して平行線を描く--みたいなもんかと思ってウツな内容かと想像していたのだが、全然そんなことなかった。

元米兵は少ししか出て来ない。四人の日本の特攻隊員へのインタヴューが中心である。彼らが日系アメリカ人の監督に、当時の心境を語る。それは切々と迫るものもあるが、同時に語り口は極めて明晰で、やっぱりその頃のエリートだったんだろうなあと感じた。

米国人の立場から監督は彼らの心情を理解して終わる。そして、いかなる状況においても人間性というものは存在することを示した。そういう意味では観賞後感はさっぱりとしたものであった。

ただ、名前忘れたけどいかにも社長さん風の人が途中で一番の真情を吐露する所で英語で喋り出したのはビックリした。映画系の掲示板を見てたら、米国の観客にアピールするためだろうと書いてあったが……。ムムム、なんで?
それから、アニメ部分はなんだか興醒め。せめてプロダクションI.G.に頼めばよかったのにね。


実は8月10日ぐらいから終戦の日までNHKのBSで戦争関係のドキュメンタリーをまとめて放送していて、つい見てしまい、かなり鬱々な気分になっていたのであった。そのため、この映画を見ても却ってウツに感じなかったのかも知れない。
なかでも関東軍兵士と満州開拓団がソ連参戦で逃げる話の番組は、人間性のニの字もない恐ろしいエピソードばかり出て来て相当にウツになった。

だがしかし、どうであろうか。ひねくれ者たる私は非人間的な行ないにもまた人間らしさを感じるのだ。

他にもBSでは、アウシュヴィッツから生還したにもかかわらず数十年後に自死したプリモ・レーヴィを取材した番組とか、去年のアカデミー賞にノミネートされたイラクを描いたドキュメンタリー映画をやっていて、いずれもウツになる内容だった。
洋の東西、時代に関係なくそういう話はゴロゴロしていて尽きることがないようだ。


主観点:6点
客観点:7点

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「私刑連鎖犯」上・下:よくできた話のつまらなさよ

Burke2

著者:ジャン・バーク
講談社文庫2007年

ミステリ・チャンネルの「ミステリ・ブックナビ」という番組でその月のオススメ本として紹介されていた小説。
FBIの指名手配凶悪犯リストに入っている悪人が残酷な方法で次々と殺されていく。その裏の犯人の真意は……。

と書くと面白そうだが、犯人とその意図は最初から明らかにされていて、謎解きの面白さはほとんどない。むしろ、追跡する刑事と犯人と関りのある別のグループがどう行動するかというサスペンスが中心。

視点は一人の人物に限定されてなくて、映画のように場面ごとにクルクル変わる。今時のエンタテインメント小説はみんなこんな感じなんだろうか。
明日にでもすぐ映画にできそうだが、小説としては全く面白みがない。

複線もよく張られているし(ただし人物の行動に納得行かない部分あり)、登場人物も多種多彩でまことに結構だが、いかんせん刑事である主人公のキャラクターに全く魅力がないのはどーしようもない。
よくできた小説のつまらなさ--とでもいおうか。
時間を無駄にしました、ハイ(+_+)

ちなみにこの手のヒーローは子どもと小動物に好かれるのが必須条件なんですかね。だとしたら、オイラは永遠にヒーローにゃなれねえなあ(^O^)ケケケ

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2007年8月25日 (土)

「インランド・エンパイア」:もはや伝統芸能の域

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監督:デヴィッド・リンチ
出演:ローラ・ダーン
米国・ポーランド・フランス2006年

正直に言おう。
客電がついて一番に席から立ち上がって叫ぼうかと思った。

「わけワカンネェ~~!」

しかし、できなかった。なぜなら、3時間座りっぱなしで尻が痛くって立ち上がれなかったからである。

例の如くストーリーはあって無きが如し。それでも前半はいわく付きの古いポーランド映画を再製作しようとして、撮影が進んでいく--というあたりまでは分かるのだが、後半に入って時制と虚実が入り乱れるうちに何がなんだか訳ワカラン状態になるのであった。それからは、謎のウサギ人間やらカーテンの下がった部屋やら娼館やらサーカス団やら、とにかく毎度おなじみリンチ・ワールドが炸裂するのである。

しかも、デジタルビデオカメラ(でいいんかな?)で撮ったボヤーとした画像で(多分ピントもあってない)、顔の大写し(それも並みでない接写)には見ているだけで疲労困憊してくる思い。ヒロイン役のローラ・ダーンの顔はもう一生分眺めたという感じだ。

こうなるともはやD・リンチの伝統芸を見ているような気分になってきた。ワン・アンド・オンリー、うかつに誰も真似できない、下手に真似したら火傷するのは必至の独特の芸である。それを人は「リンチ節」と呼ぶ。
その「芸風」に耐えられる者がこの映画を楽しめるのだ。

とはいえ、しばらく前にレンタル屋でリンチ作品を探したらほとんどなくてビックリ。『エレファント・マン』も『ブルー・ベルベット』も置いてないってんだから日本の未来は一体どうなるんだろうと心配しちまったぞ。
これでは一体誰がリンチの芸風を継承するというのだ!

ところで、終わった後の客の話題はもっぱら「ナスターシャ・キンスキーはどこに出てた?」だったもよう。噂によると、出てる場面は結局カットされちゃったとか? あと、懐かしやマイケル・パレも分からなかった。
でも、ジェレミー・アイアンズの監督は相変わらず退廃的でス・テ・キッ(#^-^#)


帰りに映画館のすぐ隣にある恵比寿の三越で、前にアフタヌーン・ティーのあった所に新しい喫茶店が出来ていたので入ってみた。
うーむ、紅茶はポットで出されるが今イチ。ケーキはおいしいけど、デカ過ぎ! 元気で食欲旺盛な若いモンにはいいかも知んないけど、夏バテのチューネンには半分の大きさで結構であった(なんとか完食したが)。


主観点:採点不能
客観点:採点不能

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2007年8月24日 (金)

「理想の家庭」ってマジですか

町山智浩氏のブログの「映画版「ザ・シンプソンズ」声優変更に反対する」で、楽しみにしていた近日公開予定の映画版『ザ・シンプソンズ』の吹替声優が、TV版と違うことを初めて知った。
詳細は、「映画「ザ・シンプソンズ」の吹替版キャストにファンが猛反発。」にあり。

所ジョージ、和田アキ子……

 あ り え ね ~ ~ っ ! (>O<)

なんであれほどオリジナルともはや変わらないぐらいにハマっている声優陣を変えるかねえ。信じられん。
それに、《eiga.com》のニュースによると「“理想とする楽しい家庭”をテーマに決められた」という。

シンプソン家が理想……(?_?;;;;
一体、担当者は本当にあのアニメを見たことがあるのだろうか?

反対運動が始まっているようだが、もしこのままのメンツだったら字幕版を探して見ることにしよう。もし、字幕版がなかったらロードショーで見るのはやめて、DVDが出るのを待つよ。

なお、ちなみに私のご贔屓はバーンズ氏。姑息で守銭奴な大富豪ぶりがたまりません。

Simpsonsb

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2007年8月21日 (火)

プラネタリウムの場面は--

《たけくまメモ》のヤヲイ談義にてリンクされていた《1976腐女子》の記事を読む。

本文の記事よりもコメント欄の意見に驚いた。
なるほど『ガラスの仮面』がヤヲイ的構造を成しているというのは分かるが、それよりも皆さん真澄とマヤを暖かく見守って応援しているのにビックリ。

昔、知人が「真澄さんて80歳くらいになっても『おれは十歳も年下の少女に……』なんて悶々としてるのかしらー」と言って笑っていたが、私もまあ、そんな感じだ。
ちなみにプラネタリウムの場面はいつも飛ばして読んでます(火暴)

やはり目のつけ所、というか、ものの見方が違うというか、自分はヤヲイ的な萌え方とは無縁であるなあとつくづく感じたのであった。

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2007年8月19日 (日)

「奇術師」:ウサン臭いのが好きっ

著者:クリストファー・プリースト
早川書房(ハヤカワ文庫FT)2004年

映画『プレステージ』を観たら、猛烈に原作を読んでみたくなった。
で、読んでみた結果は--「これをよくぞ映画にしたなー」とか「なるほど、ああいう風にしか映画にできないなー」と思った。

形式的には現代と19世紀末の複数の人物の手記(語り)を交互に置き(一部、三人称の部分もある)、特に過去の記述では何が事実なんだか語り手の主観なんだかよく分からない。
それゆえ、明確なストーリーがあるわけではなし、誰が主人公なのかというのもハッキリしていない。

映画では過去の事件だけに限定し、二人の男の争いを中心にし、なんとか白黒善悪をつけて、一応ハッピーエンドに仕立てている。
ハリウッド製娯楽映画としてはそうせざるを得なかったのだろうが、どちらの人物にも共感できないという点は、元々の原作の設定をある程度生かしている--というより、つい出てしまったと言った方がいいか--と分かった。

「こんなのマジックと言えない」と映画ファンから非難されたネタについては、原作でも果たしてこれが奇術といえるのか、と自問自答している。
また「決してネタをばらさないでください」というのは奇術の解説書の冒頭にも記されている言葉で、映画でもそれをなぞっていると判明。
そういう所は原作をよく生かしているのであった。

とにかく、原作も映画と同じくウサン臭くて楽しめた。一つのネタで二度楽しめる、って感じですか。
気に入ったので、今度は最新作『双生児』を読んでみる予定。

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2007年8月18日 (土)

「消えた天使」:怪作か凡作か

070818
監督:アンドリュー・ラウ
出演:リチャード・ギア
米国2007年

『インファナル・アフェア』のA・ラウ監督が遂にハリウッド進出--ということで話題騒然!には全然なっていなくて、いつの間にやらひっそりと公開されていたのである。
しかし、監督だけでなくプロデューサーとしても筆頭に名前が出ているので別にお雇い仕事というわけではないもよう。

主人公は性犯罪登録者の監察官。日本だと保護司みたいな感じか。もちろん警察官とは全く違う職業なのだが、この男は常に疑い深く(元)犯罪者にまとわりつき銃まで持ち歩いている。
引退直前、担当区域内で少女の誘拐事件が勃発。一刻も早く少女を見つけねばと、後任の新人の引き継ぎのついでに、彼は暴走しまくるのであった。

なんかやたらとおぞましい話がいっぱい出てくるのであります(映像の描写自体はそれほどでもない)。こんなんだったら、ゾディアックなんてかわいらしいぐらい。
で、さらにおぞましい性犯罪者も多数出てくるが、問題なのはその誰よりもブチ切れていて狂暴なのが主人公だということである。

もっとも、演じているのがリチャード・ギアなんで、無表情かつ一本調子な感じの演技のために却って見ていてホッとするというか、救いがあるようだ。
しかし、逆に香港映画風の濃ゆい演技でこれでもかーっというので見たかった気もする。そしたらもっと面白かったかも知れない。

新人役のクレア・デーンズはやっぱりうまい役者だと思った。『ターミネーター』なんかに出なければ良かったのにねえ……。今さら言っても遅いか。
でも一番すごかったのは、犯人役の役者さんだろう。終盤のハイテンションぶっちぎりは恐ろしいの一言。見てて心臓がドキドキしました。(@_@)

ストーリーのドンデン返しには文句なし。ただ、D・フィンチャー風(?)の凝った画像処理は多用し過ぎで、なんかうっとうしく感じた。

興行側は、どうやってこの映画を宣伝したらいいのか困ったことだろう。ご同情申し上げます。で、人気歌手のアヴリル・ラヴィーン映画初出演というのが売りの一つにしてたみたいだが、ホントにチョイ役。ファンが期待して観に来たら、腹を立ててナタを振り回したくなるだろう。要注意である。

それから、この手のサイコキラー話でニーチェを引用するのはもういい加減に止めてくれ~。さすがに飽きたぞ。

主観点:6点
客観点:6点

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ラ・ヴェネシアーナ+ガッティ放送迫る

猛暑とともに夏枯れのコンサート状況下、クラヲタな皆様いかがお過ごしでありましょうか。さて、過日の目白バロック音楽祭「ヴェネツィアの晩課~モンテヴェルディの《倫理的・宗教的な森》より」が、いよいよNHKで20日と27日に放送となります。
楽しみ楽しみ(#^.^#)

都合で行けなかった方、後から評判を聞いて歯噛みした方など必見・必聴なのは間違いなしっ!
私も当日現場の東京カテドラルよりも音がよく聞き取れるのを期待して、保存版で録画する予定であります。

ただ、問題は放送時間が55分で実際の約半分ってことと、局がBSハイビジョンなんで見られる人はだいぶ限られるだろうってことである。
NHKさん、ちゃんと料金取ってんだから地上波でもやってくれよう。そうして全国津々浦々に彼らの演奏を広めるのであ~る。 \(^o^)/

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2007年8月16日 (木)

「ルドンの黒」:--と、そこに豊穣なる闇が出現した。

会場:BUNKAMURA ザ・ミュージアム
2007年7月28日~8月26日

ルドンは非常に好きな画家。もしかして一番好きかもしんない。パンフ類を置いてある棚をゴソゴソ漁ってみると、1989年の国立近代美術館と2001年の小田急美術館でのルドン展の図録が出てきた。過去2回は記憶の中ではゴッチャになっている。
この二つとも作品に描かれた題材別の展示であったようだ。

今回は岐阜県美術館のコレクションを中心にした、ほとんどモノクロ作品(版画と木炭画)ばかりの展覧会である。
ルドンは画家人生の後半での色彩豊かなパステルの花の絵なども有名だが、不気味で異形を描いた版画作品も後世の影響大である。
人面蜘蛛やら眼玉気球やらタツノオトシゴみたいな化け物やら幽霊やら悪魔やらが、これでもかと描かれている。

ルドンの「黒」というタイトルだが、私にはそれは「黒」ではなく「闇」に思える。太陽が出現する前の、混沌として暖かく無形のものが生まれつつあり、ゆっくりとたゆとう原初の海のような闇である。それは単なる色ではない。既にそれ自体が一つの異世界なのだ。

そして、そこから生まれるのが白であろうと多彩な色であろうと何の違いがあるだろうか。まさしくこれは豊穣で密やかでぬめぬめとした無意識の闇だ。その闇の中にありとあらゆる生命が蠢いているのを感じる。それを見ると心安らぐ気分になるのだ。

展示の途中の何ヶ所かでルドンの絵を動かして見せるCGが上映されていたが、入り口の所の人面蜘蛛がタイトルの文字の上を這い回る奴がユーモラスで一番面白かった。
この蜘蛛のキャラクターグッズ売ってくれればいいのに~。(初日に先着順で配ったらしい) バネ付きで車の中などにビヨーンとぶら下げたら面白いかもしれない。

もっとも、実際の作品の人面蜘蛛はそんなにユーモラスには見えない……。彼の作品は化け物の形象よりも、やはり闇と光のあわいの描き方が肝心なのであるよ。
「沼の花、悲しげな人間の顔」では人面花よりもその下の水面に映る光の描写に心を動かされた。あるいは「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」の目玉気球の上部にボヤボヤと生えている毛のような部分。
そして、『幽霊屋敷』の「大きく蒼ざめた光を私は見た」はタイトルにもかかわらず光の部分は微かにしか描かれていなくて、大部分を占めている階段の奥の闇。
それらこそが何よりも傑出していると思う。

従って、今回のサブタイトルを「目をとじると見えてくる異形の友人たち」と付けたのは全く余計なお世話。まあ、それを「売り」にしたかったのだろうけど。

ポスター買おうと思って行ったが、岐阜美術館の今イチなデザインのしかなくて残念。で、また図録を買ってしまったのだった。
仕方ないので、家へ帰って唯一持っているベアトリーチェのポスターを飾ることにした。でも、モノクロ作品のポスターも欲しいよ……。
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2007年8月15日 (水)

「廃帝奇譚」:滅亡の残照

著者:宇月原晴明
中央公論新社2007年

奇想天外な歴史ファンタジーとでもいうべき物語を見事な筆致でまとめた『安徳天皇漂海記』。その後日譚である連作短編集だ。
三編は中国の元と明の皇帝3人について、最後の一編が鎌倉幕府に対し挙兵し隠岐に流された後の後鳥羽院を描く。いずれも『安徳~』に登場する金色の玉に取り憑かれており、その脳裏を支配する金色の光とは、自らの統治する帝国に差しそめる滅亡の残照に他ならない。
まさしくこれは滅びゆく者の物語である。

それにしても、こういう華麗な文章いいですねえ~。読んでいてウットリしちゃう。

北村薫は『メッタ斬り文学賞・2007年版』によると『安徳~』について嬉しそうに歌の講釈をしたというが、今回も後鳥羽院が既に亡くなっている実朝に幻の歌合をしかける件についても大いに語りそうだ。

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2007年8月13日 (月)

「レミーのおいしいレストラン」(字幕版):お子ちゃま無用の大人のファンタジー

監督:ブラッド・バード
出演:レミー他ネズミの皆さん
米国2007年

昨年はクルマに目鼻つけて喋らして驚異だったピクサー。今年は料理するネズミと来たーッ。といっても、アニメっぽくデフォルメされたものではなく、リアルっぽいネズミである。(人間と言葉が通じたりはしない)
毛のフサフサ感は『モンスターズ・インク』で既に証明済みだ。

なぜか料理人に憧れるドブネズミ一匹--レミーは家族とはぐれ、流れ流れて花の都パリに。尊敬するシェフの店を天井裏から覗けば、なんとドシロートの見習いの若者がこっそりと勝手にスープの味つけをしているではないかっ! ありえねーっ(!o!)

ここで示される対比は極めて意味深である。
レミーはドブネズミにもかかわらず、料理の才能と情熱があり、家族にも恵まれている。
若者リングイニは優秀な料理人の血を引く人間にもかかわらず、料理の才能はなく、やる気もなく、家族もいない。
うーむ、今回も含蓄あり過ぎの話です。
かくしてリングイニはレミーのあやつり人形--ならぬあやつり人間と化して料理に励むわけだ。しかし、そんな不自然な状態がいつまでも周囲に隠せるわけもなく……。

時折、モッタリと展開する部分があって、それが今イチ感を与えたが、それでも見終って「ええっ、これで120分もあったの?」と驚くほど短く感じた。

登場人物についてはチュー房の他の料理人たちはユニークな設定の割にあまり活躍しなかったが、代わりにレミーの父親と兄(「人物」じゃないですな)、紅一点コレット、いかにもな悪役の料理長、それに痩せこけた料理評論家イーゴがよかった。
特にイーゴの声はP・オトゥールでなるほどと納得の名演。最後に読み上げられる批評がなかなかに泣かせて、しかも耳に痛いのである。ここまで来ると、もう「子ども向き」アニメの範疇ではない。
他にもブライアン・デネヒーやイアン・ホルムという渋い配役。

映像に関しては、始めの方のネズミの大軍団がドドーッと初登場する場面は迫力あり。パリの風景は夜も昼も極めて美しいし、レミーが逃げ回る川の水面の光の描写も素晴らしい。
しかし、なんといってもすごかったのは料理や食品の数々。グラスに注がれたワインが出てくる度に「ああー、飲みてえ(^O^)/□」と指がピクピクしてしまうし、チーズ食いたい!なんて発作的に思ってしまうし、ホカホカ湯気が上がっている最後のあの料理には思わず目が離せなくなってしまう。お見事の一言である。

あ、レミーたんはヒクヒクするヒゲと愛敬のある目がカワイかったです(^^)
肝心のフランスではどう評価されたんだろう。知りたいところである。日本では……夏休み大作群の猛攻に完全に押されてしまいましたな。残念無念であ~る。

付録の短編アニメはスライムみたいな宇宙人のブヨンとした触感と金属のスイッチの光沢が目を引いた。ただ、全体的なセンスでは前回の音楽合戦の話の方に軍配が上がるかな。


主観点:7点
客観点:8点

【関連リンク】
《ようこそ劇場へ!》
「鶴の恩返し」や「小人の靴屋さん」のような民話の例えにナットクです。
「決して料理中は覗いてはなりませぬ」と言われたが、あまりのいい匂いについ覗いてみるとウギャ~ッ(>O<)という感じですか。

《水曜日のシネマ日記》
いつもながら見事な分析に脱帽しました。

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2007年8月12日 (日)

「働きすぎる若者たち」:期待外れの一言

「自分探し」の果てに
著者:阿部真大
NHK出版(生活人新書)2007年

本のソデの所に書かれた紹介文で「「あり地獄」とも称されるケアワーカーの実態調査を通して」と書かれていたので、てっきり介護・福祉の分野の若者の厳しい労働の実情が取材されている本かと思ったら全然違った。
もちろん、「集団ケア」から「ユニットケア」へという流れについては、門外漢には興味深いことだったが、それ以外の若いモンの実態話はあんまり出て来ない。

それよりもむしろ「若き社会学者がロストジェネレーション(25~35歳)の労働問題の構造と本質をえぐり出」しているかどうかはワカランが、少なくともそういう推察や分析が主な感じである。

ケアワーカーの仕事は過酷で低賃金だが、今さら給料が上がるわけはないので、その仕事にのめり込まずに趣味や愉しみなどの方面でなんとか自己実現してやり過ごそう。そのためには中高年の皆さんはボランティアに行ってくれ。
--こういうことですか?

でも、低賃金じゃ結婚もできんじゃないの。どーすんの?
例にあげられているヤンキーの皆さんはまだ集団的開放的だからいいけど、ヲタク系趣味の人とか芸術系指向の人にもそれであてはめちゃっていいのか。

ラスト一行「この本がその一歩になればと願っている。」
--なんだ、言いっぱなしということか。ガックリである。

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2007年8月11日 (土)

「メルティング・ポイント」:脳ミソ容量を越える巨大さ

会場:東京オペラシティアートギャラリー
2007年7月21日~10月14日

今回の企画は会場全体を使ったような大規模なインスタレーション3点が中心。
ジム・ランビーは会場に一歩入ると本当にハッと驚かされる。丸々巨大な一室の床を覆いつくすストライプ模様、そしてやはりカラフルなストライプで彩色した巨大な鳥の模型にさらにスプレー塗料を使ったもの。キレイだが異様としかいいようがない。
それからガラスの破片で被われた椅子とバッグが壁にひっかけられているやつも変だ。とにかく部屋全体が完全に一つの作品になっている。

次の渋谷清道は一転して白一色。不織布が壁や床を覆っていて、客は靴を脱いでスリッパに履き替える。そういう小さい部屋がいくつも続いていて、さらに部屋ごとに円形を連ねた切り紙細工みたいなモチーフを使用した作品がそれぞれ展示されている。(床全体も一つの作品である)
こちらは大きさはあるが非常に繊細なイメージ。うっかりすると何か大切なものを見落としているのではないかという不安に駆られるぐらい。もう一度、靴履き替えて見直そうかと思ったほどだ。

三番目のエルネスト・ネトは巨大な布二枚を空中に貼ったものが基本型。これは言葉では説明しにくい、ムムム。
こういう作品を作る人だけど、今回のはまた違うんだよねえ。布に穴があいてて上下二枚の間に首を出したり、上下をつなぐパイプみたいな部分に頭を突っ込んだりできるのだ。ただ、私はそれを完全に楽しむにはちと身長が足りなかったようで……(号泣)

この三点、とにかく大きくて、大きすぎるんでボーッとなったまま見ていたような気がする。脳ミソが一度に処理できる量を超えてたようだ。
コリドー部分には三人の小品が展示。実際のレコードジャケットを使用したランビーの作品はジェフ・ベックとプリンスしか分かりませんでした、ハイ。

二階の収蔵品展は日本画で自然の風景を描写したものが最初に集められて展示されていた。屏風に雲がかかった山脈を描いた「白馬暁雲」は水墨画で当然モノクロなのだが、スケールとリアル度からしてまるでアンセル・アダムスの写真のように見えた。

後半の方では奥山民枝の油彩と版画が多数展示してあって、これがまた変な絵。なんだか全ての形が丸っこくて色彩の使い方も変だし、幻想的というかブキミというか……。こういうの好きだー。

若手を紹介する「プロジェクトN」はこのシリーズでは珍しい?パロディのコンセプトもの。架空--といっても実際に活動しているらしいが(^^;--音楽プロダクションのアーティストたちを紹介、グッズやCDやプロモ・ビデオなどもある。
圧巻は延々と続く彼らの曲の詩集。ヘタウマなイラストを付けて1ページずつ巨大な作品として展示してある。そこに書かれた歌詞が陳腐でいかにもな歌謡調で笑ってしまった。個人的には「盆栽の歌」が良かった♪歌いたくなった。
しかも突然、途中に青臭い文学論風書簡や打ち合わせメールのやりとりのページも出現。とってもヘ~ンで馬鹿らしくて気に入った!
もう少しで架空プロダクションのTシャツを買ってしまう所だったが、さすがに歳を考えて中止した。


オペラシティの外のガーデンではなんと野外コンサートでヴィヴァルディの『四季』をやっていた。台風の余波で恐ろしく湿気がある日で、古楽器だったらヨレヨレになってしまいそう。さすがにモダン楽器だった。
チラシを見ると、アトリウムで桐山さんの『無伴奏』とかブレス・ビー・クインテットが無料コンサートをやっていたではないか! でも平日の昼間だから最初から無理だけどさっ。

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2007年8月 9日 (木)

「湖の南」:琵琶湖とテキサスタワー

著者:富岡多恵子
新潮社2007年

以前、中勘助の評伝を読んでいたく感心したことがある富岡多恵子の新作。扱っているのは「大津事件」の犯人とのことではないか。で、早速買ってみた。

だが大津事件といっても、なんだか日本史の教科書の明治時代あたりで名前を見かけたような気がするなあ--ぐらいのもんである。それも一行説明があったかなかったかってなもんだ。記憶の曖昧なままとにかく読んでみる。

だが、しかし果たしてこれは評伝なのか小説なのか手記なのか?全く判然としない。
事件の舞台の近く、琵琶湖を臨む地域に引っ越してきた「わたし」が著者自身であることは間違いないのだが、後半に登場する「わたし」に奇妙な手紙をよこしてくる謎の男といい、それを語る飄々としたユーモアを含んだ他人事のような文章といい、なんだかどこまでが事実なんだか、虚構が交じってるんだかよく分からない。

極めつけは、冒頭で紹介されているロシア育ちのドイツ人マックス・ダウテンダイなる作家が書いたという『ビワ湖八景』なる短編集である。日本を舞台にした八篇の「愛の物語」集だという。その中の一編が大津事件をモデルにしているという。

ダウテンダイ?日本の愛の物語?……うっさんくさーっヾ(^^#)ゝヾ(^^#)ゝ
どう考えても『鼻行類』みたいなナンチャッテ本の類いとしか思えない。しかも国立国会図書館のサイトで検索しても出て来ないし、全国書誌データを調べても、書店系のサイトを見ても同様だ。存在しない本じゃねーの??

当時の国際関係においてはロシアとの関係は最重要。そこの皇太子が警護する側の巡査に襲われたってんだから大事件である。
今日びだったらワイドショー、ニュース、新聞、週刊誌……ありとあらゆるメディアが一カ月ぶっちぎりで騒ぎたて、ネット上には「犯人逝ってよし」「よくやった(w」などの書込みがあふれまくったことであろう。
何せ、明治天皇がわざわざ見舞いに赴き、大臣たちは犯人の処遇をめぐって夜中の駅で酔っぱらって喧嘩をし、全国から見舞品が届き、歌舞音曲は自粛、遊郭は休業したというほどだ。

著者は史料や書簡類を丹念に読んで犯人の巡査の人物像を調べている。
士族の次男坊が兵役に取られて西南戦争を戦い、家が心配で早く帰りたいのにさらに兵役を延長。ようやく帰ってきて、巡査の職につくが……。
その西南戦争が「雨アラレのように撃ち合うタマとタマが空中でぶつかってしまう偶然が一度や二度でなく」という熾烈なものとは知らなかった。2個の銃弾がくっついた「行きあい弾」が実際に残っているという。
私見だが、おそらく彼はその激しい戦争のPTSDではなかったかと思われる。さらに、その後の生活にも満足できたわけでなく、そういう鬱憤がたまっていたのではないか。
なんとなく「テキサスタワー乱射事件」あたりを思い浮かべてしまう。
そういう点ではまさしくこれは「現代的な」事件だった。

どうやら、これはとっくに終わった「教科書一行分の事件」--というわけではなかったようである。
平穏でしかし何か不気味な現在の琵琶湖畔の風景とどこかでつながっているのだろう。

さて、文中では『ビワ湖八景』、巻末の参考文献リストでは『近江八景の幻影』なる本だが、アマゾンで検索したらなんと出てきたではないか! さらに地元の大津市立図書館のサイトで検索したら6冊も所蔵している。
どうも、版元が国立国会図書館に納本しなかったようだ。地方出版物は納本しないと、全国書誌データにも載らずもちろん書店系にも出てこず、そもそも存在自体アヤシクなってしまうとは、こりゃオドロキ。
ということで、版元さん納本ちゃんとしてくださいよう。

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2007年8月 6日 (月)

真の名前と「通りすがり」

たまたま図書館で『阿部謹也著作集』の第1巻(筑摩書房)を見かけて借りた。代表作『ハーメルンの笛吹き男』と『中世の星の下で』が収録されている。
巻末にはさらに小論が幾つかあって、「ヨーロッパの名前--グリム童話を中心に」というのが目を引いた。

わずか3ページの短いものだが、

人間に限らず、動物やモノの場合でも、名称がそのもの自体と不可分の関係にあることは、ヨーロッパでも同様であった。(中略)名前を呼ぶことが相手を支配するのと同じことであると考えられていた。

これを読んですぐに思い浮かべたのは『ゲド戦記』であった。かつて一作目『影との戦い』を読んだ時に、「このような〈真の名前〉という考え方は西欧によくあるものなんだろうか? それともル・グウィンのオリジナルだろうか」という疑問を感じた。
その後『クリスタル・ドラゴン』にも重要な設定として出てくるが、これは『影と~』より数年後の作品だから設定を借りたのかもしれず、当時はよく分からなかった。

しかしこの小論を読むかぎり、名前には魔力のようなパワーが存在したと考えられていたようである。

名前がこのように大きな意味をもっているとすれば、何らかの不都合が生じたときに、その状態を変えたり、新しい事態にいたったときに、名前をつけかえるということも起こってくる。(中略)教皇も国王もその地位につくと新しい名をつけるのである。俳優や芸術家も舞台では別の名を用いる。

とすれば、現代でも多くの作家が実名ではなくペンネームを使うのもそのためではないか!……であれば、ネット上で我々がハンドルネームを使うのももしかして同じなのか?
中世から続く教皇の名とハンドルネームがよもや同じものとは--思いもよらなかったことである。

また特定の団体に入ると、そのなかでは別の名を呼びあう例も見られる。(中略)これらはみな名前が現実を生むと同時に新しい現実が新しい名前を必要としているためと考えるからである。

かつて(既に大昔か)ニフティのパソコン通信ではほとんどの人がハンドルネームを使用していた。実名の人もたまにはいたが……。(そういや、谷山浩子ご本人事件なんてのもありましたな) そして、その名前の元に新たな人格をまとって書きこみをしていたわけだ。まさにこれは上記の「特定の団体」に該当する。
しかしやがて、インターネットが一般化し2ちゃんねるが登場して盛んになってくると、ニフのフォーラムにまで「通りすがり」が出没してきた。掲示板に特定の名前を持たないことを前提に書き込むということ自体、当時は不可解であったし、さらに2ちゃんの中に留まっておればいいものを、フォーラムにまで出張ってきて「通りすがり」を使用するとは何事じゃっ!と腹立たしく思ったものだった。

ブログの時代になって、ハンドルネームはだいぶ目立たなくなってきたが(どちらかというとブログ名の方が目立つ)、それでも炎上したブログのコメント欄に多くの「通りすがり」(あるいは「名無しさん」も)が跋扈したりすると、妙にいらだたしく感じる。「匿名」とか「匿名希望」とか名前の欄を空欄のままにするのよりも、なぜかそのいらだたしさは大きいのだ。

かつて私は、書き手のアイデンティティの問題だろうかなどと考えていたが、実はそうではなかった。「通りすがり」という名前にあらざる名前が、明らかに名前の魔力を否定しているからである。ハンドルネームを喜んで使うような人間にはその否定は許しがたく感じる。その名前に支えられた暗黙の「現実=共同体」をも否定しているように思えるのだろう。

とすれば、しばらく前に(今でも?)ネットをにぎわしたブログの「実名・匿名論争」も、本当はネット上のモラルやヒエラルキーの問題ではなく、「真の名前=実名」がその者の本質を示し支配的な力を持つという認識から生じたものなのかもしれない。

阿部謹也は「名前が単なる記号と化しつつある現代では理解しがたくなっている」と書いているが、どっこい名前の魔法は現代でも生きているのだ。そしてこれからも形を変えて生き続けることだろう。

【関連リンク】
《技術系サラリーマンの交差点》より「実名ブロガーは「匿名による批判へのポリシー」を示しておいてはどうか」
《シナトラ千代子》より「匿名実名論争をムダにしないためにも小倉先生にお願いしたいこと」
  ↑こちらを見るとまだ論争は続いていたんですねえ……。

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2007年8月 5日 (日)

「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」(字幕版):後はヘレン・ミレンとジュディ・デンチをよろしく

監督:デヴィッド・イェーツ
出演:ダニエル・ラドクリフほか豪華競演陣
イギリス・米国2007年


前作までは原作を読んでいたんだけど、あまりにトホホ(+_+)だったんで、この『不死鳥の騎士団』からは読むのを止めてしまった。
だもんで、映画の方はほとんど「展開がどうなるか」ぐらいの期待で観たようなもんである。

子役がみんな大きくなっちゃって、まあどうしましょう(T.T )( T.T)オロオロ 特にハーマイオニーなんかすっかり大人になっちゃって、さぞご両親もお喜びでしょう(と、なぜか保護者モードで涙ぐむ)。
だけど、設定14歳なのか? どう見てもハイティーンだけど。
しかも、暗い。暗い場面ばっか。お子ちゃまも喜ぶ楽しい場面は双子が暴れる所ぐらいですかねー。こんなんでええんかい?
これまで必ずあったクィディッチの試合みたいな派手な場面も無し、である。

登場人物がさらに増えて画面と尺にギュウ詰め状態だ。マクゴナガル先生の出番がほんのチョビットしかなくて悲しい。でも、ロンなんか画面に出ているわりに台詞は少なかったような。
代わりにスクリーンを支配するのはイメルダ・スタウントン扮するアンブリッジ先生だった。恐ろしい迫力である。おまけに、ヘレナ・ボナム・カーターまでチョイ役で出ちゃって、こうなると後いないのはヘレン・ミレンとジュディ・デンチぐらいのもんだろう。ぜひこの二人も頼む。

なお、アンブリッジ先生が行う規律による締めつけと教師の査察は、某国の教育の未来を見てるよう。よくよく考えたら、某国はサッチャー時代の英国教育政策をお手本にしてるんだよねえ。

中高年男性俳優も充実の一言だが、レイフ・ファインズはシリーズ最後まで素顔を見せてくれない、なんてことはねえだろうな。そしたら怒るぜ、オレは。
個人的にはマルフォイ父ちゃんがやっぱりカッコ良くてス・テ・キッ(#^-^#) もう次回はナシかしらん。

ストーリー的にはスネイプ先生の過去の一端の判明に驚く。だが、見ていてスネイプ先生て眉の間の縦じわといい、『イブの息子たち』のニジンスキーやったらぴったりだなーなんて思ってしまったのも事実である(^^; あの調子で「ヒース、私を見て……」
シリウス・ブラックとハリーの描写はどう見ても、意図的に地球上のあらゆる地域に存在すると思われるフ女子の妄想の油に、火を注いで萌えあがらそうとしているとしか思えなかった。

いつもながら、原作にしても映画にしても大人の描き方には「?」を感じざるをえない。今回も校長がハリーを無視していた理由には「なんじゃ?そりゃー」である。
一方、ハリーのチョウ・チャンに対する態度には「お前それでも男かー(`´メ)」と言いたくなった。
まあ、結末に至った時は盛り上がりまくることを祈るだけである。

あっ、ところで双子は放校ってことでいいんですか? 何の説明も無しなのは無責任だよん。


主観点:5点
客観点:6点

【関連リンク】
《水曜日のシネマ日記》
映画自体の評価は一致しないが、「大人が子供を評価する子供同士の団体ゲーム」という指摘は本質を突いていて極めてスルドイと思った。

《描きたいアレコレ・やや甘口》
イラストが笑えます。ルーナはクリソツ。

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「ヒストリエ」4巻

著者:岩明均
講談社(アフタヌーンKC)2007年

ギリシア時代を舞台にした歴史物ついに出ました、第4巻。待ってたのよ~。
奴隷になって船で運ばれる途中で難破、海沿いの村に拾われる→で、青年期を過ごした村を結局出ていって、遂に第1巻の冒頭にようやく戻った次第。
この作者の作品のいつも通り、どんな残酷な話も淡々とのほほ~んと描かれていくのがスゴイ。
「生物研究所」なんだか知らんが超ブキミ。また後で出てくるのかしらん。

とにかく早く続きが読みたーい。でもまた一年半以上待てと? あんまりだー。(号泣)

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