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2007年10月

2007年10月31日 (水)

「パンズ・ラビリンス」:激辛指定!楽しくも優しくも甘くもないファンタジー

071031
監督:ギレルモ・デル・トロ
出演:イバナ・バケロ
メキシコ・スペイン・アメリカ2006年

正直に言おう。

号泣しました(ToT)ドドーッ

だって、だって……あんまりだ~っ(>O<)ウワーン

今でも思い出すと涙目になっちゃう(*_*)ショボショボ

舞台は1944年独裁政権下のスペイン。
物語大好きっ娘12歳のオフェリアたんは身重の母カルメン(←すごい名前の母娘だね)と共に、母親の再婚相手である大尉がいる地方の基地へと向かう。彼は山中に潜むレジスタンスを掃討中であった。

そこでオフェリアはカマキリだかナナフシ?みたいな妖精に導かれ、従者と名乗るパン(牧神、でも一番最初は「木の鬚」っぽい)に「あなたは本当は地底の国のお姫様だ」と告げられる。
子供の頃は、たいてい「もしかして、私はホントはどこかのお姫様(王子様)ではないか」などと夢想するものである。私も母親から「お前は××橋の下から拾ってきた子だよ」などと言われる度に、本当はもっとお金持ちの家のお子様なのかも知れない§^.^§と想像したものである(爆笑)。

果たして妖精たちが閉塞的な状況に追い込まれた少女の空想の産物なのか、実際に存在するのか--つまり箪笥の向うにナルニアは実在するのかしないのか、という件についてこの映画は明確にしていない。どちらにでも取れるように描かれている。
もう一つの世界は現実の世界と微妙に重なっている。「血液を二滴やる」というのは母親の薬が二滴というのとかぶっているし、義父が威圧的な態度をあらわにするにつれて、従者のはずのパンもなぜか父権的な態度で少女を脅かすようになる。また鍵の事件(オフェリアはこの件は知らないはずだが)も同期するように起こる。

現実の世界では大尉は残酷で村人やレジスタンスを拷問し殺しまくる。ここら辺は極めて暴力丸だしな表現でとてもお子ちゃまには見せられない。
また、少女が試練を受けるもう一つの世界もグロテスクでコワくてキモい。これまたお子ちゃまには見せられたもんじゃない。
どちらの世界も恐怖と暴力に満ち満ちている。これは彼女の幻想なのか真実なのか。
ネット上でも解釈が分かれているようだ。それは結末をどうとらえるかにも関係してくる。果たしてハッピーエンドか、バッドエンドか。

私としては「少女は自分なりの戦いをしたのだ」という意見にくみしたい。レジスタンスのように銃を持って山にこもるのではなく、それとは全く違う彼女が出来る戦い方をしたのだ。あの医師が最後に自分なりに将軍と対峙したように……。
だとしたら、それが現実であろうと幻想であろうと何の違いがあるだろうか。
彼女は恐怖に立ち向かい戦った--それこそが不変の事実である。

さて、少女は宮崎アニメのヒロインに影響を受けている、という説を見かけたが、確かにカエルに息を吹きかけられるトコなんか似ている。(あの髪型もか?)
個人的には、カエルが食ってたダンゴムシのでっかいヤツみたいなのがイヤ~(><) ああいうの苦手。あれが成長すると王蟲になったりして……(汗)
そういやラストの追跡劇は『シャイニング』ですかね。

しかし私が思い浮かべたのは
エンデの『サーカス物語』(エンデの作品の中で一番好き)
リンドグレーンの『ミオよ わたしのミオ』(再読だったにもかかわらず、結末を電車の中で読んでて泣いてしまった)
--であった。
『サーカス物語』は現実と虚構の関わりについて、『ミオ……』は主人公の境遇と結末が似ている。
一体、ファンタジーが優しくて楽しいなどと誰が言ったのであろうか? 上記の名作二つともラストは残酷な話である。
この映画は、これらに匹敵するぐらいの真性ファンタジーであると断言しちゃおう。もちろん、映像的にも文句なしである。怖くて不気味でキレイ。


それにしても、上映館数が少ないのにネット上の感想の数が多いのに驚いた。そして、みんながそれぞれ色んな事を言っている(賛否両論というのではなくて)のには笑ってしまった。どれ一つとして同じ意見というのがないというのは面白い。
それだけ人の心から多様な意見を引き出す多様な面を持った作品と言えるだろう。そういえば、シネコンで見たにもかかわらずエンドクレジットが終わるまで誰一人として席を立たなかったのも、珍しい現象だった。(多分、観客の半分は涙目だったと推測)


主観点:9点
客観点:9点

【関連リンク】
いずれもネタバレが多いので注意!

《JoJo気分で映画三昧!+α》
「しばらく誰とも口をききたくない」というのに激しく同感です。

《水曜日のシネマ日記》
試練の解釈が興味深い。

《映画のメモ帳+α》
それぞれの「物語」対比がキモですね。

《PiPiPiX.tXt》
「子供のように純粋な心をまだ持っている」かどうかについては異論がありそうです。

《元・副会長のCinema Days》
現実とファンタジーの関係について正反対の意見。

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2007年10月28日 (日)

「キングダム/見えざる敵 」:血まみれの手でキャンデーをやる兵士

監督:ピーター・バーグ
出演:ジェイミー・フォックス
米国2007年

サウジアラビアで実際に起こった爆破事件を元にした社会派アクションである。町山氏のブログを読んで、マイケル・マンが大々的に関っていると知って、絶対見に行かなくてはなるまい!と鼻息も荒く思った次第。

冒頭、のどかな家族参加の野球大会が行われている。どこの国の話かと思うがいきなり銃撃戦と爆弾テロが起こる。ここら辺の畳み掛けるような展開はお見事。つかみはオッケーという感じだ。

しかし、その前のプロローグ部分で、サウジアラビアと石油と米国の関りが年表風に綴られるのを見れば分かるように事情は極めて複雑だ。
中東において最大の親米国にも関らず、イスラムの戒律はかなり厳しい部類に入る。昔、旅行した友人によると、たとえ外国人観光客であっても女は外出するのに、顔以外は隠さなければならないほどだという。

そういう矛盾から生ずる不満が彼の地に鬱積しているようだ。映画の爆破事件の光景はモデルとなった現場をそのまま復元しているらしいが、こんな事件が1996年に起こっていたということは、既に米国は火種をその当時から抱えてこんでいたことになる。
TV番組の「ドキュメンタリー・ナウ!」で、米国民は自国が海外で何をしているか知らないから、911事件が起こるべくして起こった復讐であるという事が理解できない、とあるゲストが語っていたのを思い出した。

映画の方はFBIの捜査官たちが手練手管を使って、国の正式な許可も取らずに現場に乗り込んで捜査しようとする。なんでCIAじゃなくてFBIが出張る?と思うが、彼らの意図は最後の最後に明らかにされる。
その後は、刑事物のある種の定番--というか、米国とサウジアラビア、全く出自も立場の異なる二人の捜査官がケンカしつつもなんとか協力して、事件解決に挑むというパターンに突入する。

前半は文化摩擦をちりばめ、後半はカーチェイスにド派手な銃撃戦、だめ押しのようにヘヴィな格闘シーン(スタントの方、乙!です)が続く。ここら辺はもはや職人芸の域に達していて素晴らしい。
その間、FBI側に全く弾が当たらないとか、いくらなんでも往来を女性捜査官があのカッコで出られないだろうとか、あれだけ投げ飛ばされたら一、二本骨折してるだろうなど、ツッコミどころは色々あれど、押しの一手で怒濤のごとく結末に向かうのであった。

と、ここまで見ると職人芸的娯楽アクションもの以外の何ものでもないように思える。
だが、どうだろうか? 上記のリンク先にあるように「911テロ以降のアメリカと中東の関係を、FBI捜査官と地元警察官との関係に置き換え」ているのだとしたら、捜査官たちの言動は全て米国の対外姿勢の隠喩に他ならない。

その最たるものは、J・ガーナー扮する女性捜査官が激しい銃撃戦の後で、近くにいた少女にキャンデーをあげようとする場面である。全身、傷と血まみれになっていて、しかもその原因は犯罪者とはいえ少女の同胞を殺したためである。その手でアメをさし出すのだからビックリ。私は最初、なんて無神経な行動だろうと感じた。そして同時に、このような場面を設定した映画の制作者の感性も疑りたくなった。

しかし、これが紛争地域での米兵の態度、さらには米国の対外姿勢を暗に表わしているとしたら相当な皮肉である。(自分が撃った少年を必死で応急処置する状況も同様)
一転、米国バンザイな能天気なアクション物のはずが痛烈な批判に変化する。この二重性こそが最大のサスペンスと言える。
その証拠にJ・フォックスの主人公が最後に大佐に語りかける言葉が内容とは逆になんと虚ろに響くことよ。その虚無は映画全体を覆い尽くしかねないほどだ。

そう考えると、雑誌「アエラ」に藤原帰一が書いてた映画評はあまりに表面的過ぎやしないかね? 以前、他の作品についてもやはりそう感じたことがある。こんなんだと、本業の方まで疑わしくなっちゃうよ。

映像はドキュメンタリー・タッチで手ブレが激しい。なのに、私はシネコンで新米の係員に非常に前の方の席を押しつけられてしまい(平日の昼間だったのでガラすきだったにもかかわらず)、目は回るは(@_@)何が映ってるのかよくワカランは、頭がクラクラして最悪だった!
これだからシネコンてヤツは(`´メ)
(以下、シネコンの悪口が500行続く)

……なので、ビデオが出たら再見することにしよう。

その他、役者では在サウジ米国大使館の公使役の人がよかった。端役の悪役なんだけど、調子良くって事なかれ主義の尊大な人物をうまく演じていて、なんだか見てて笑っちゃう。
あと、王室に金を流している石油会社の名前を実際に出してたのは驚いた。日本の映画じゃ到底できないことだろう。

それにしても、二人の捜査官とも主義主張人種宗教国籍の差に関らず、家族思いだというのが共通点だった。やはり今時のヒーローは家族を大切にしなくてはイカンのかのう。
とすれば、私σ(^-^;)はやはり最初の五分間で殺される悪者の下っ端あたりしかできないようだ。

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2007年10月22日 (月)

トーキングヘッズ叢書 No.32出ました~そして大島弓子にスゴスゴと引き下がるの図

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トーキングヘッズ叢書(TH Series) No.32、今回の特集は「幻想少女~わ・た・しの国のアリス」であります。
詳しい内容はこちらをどうぞ。
興味のある方はお買い求めくださいませ。<(_ _)>

私はモンゴメリ、中勘助、大島弓子という珍妙な取り合わせで書いています。本来は大島弓子の短編『たそがれは逢魔の時間』について書くはずだったのが、これだけでは長くならない、と思って脱線したら本筋の方がおろそかになってしまったという最悪のパターン。大いに反省しとります。おまけに今になって、「売春」と「買春」を間違えている部分を発見。トホホ(+_+)


それにしても大島弓子について言語で語るのは難しい。彼女の作品についてちゃんとした文章を書いたのは初めてのことだと思うのだが、説明しようとすればするほど陳腐になっていくのはどうしようもない。
読んだことのない人のために説明すると、『たそがれは逢魔の時間』は1979年の作品。当時としては衝撃的な「少女売春」を題材にしたもの--しかも、少女の方ではなく中年男を主人公にしているのである。
ホントの大島弓子のファンだともう少し後の時期の作品を最高とするのだろうが、私はこの『たそがれ』前後の時期の作品の方が好きである。まあ私はニセのファンだからいいのだ。

冬枯れの木の枝にひっかかって見える少女の陰靡な「くすっ」という笑い、暗い森を二人で駆けぬける場面、一転、少女がテコテコと犬のように走り回る雪の中、などの喚起するイメージを文章で説明するのは極めて難しい。
また、少女が出現してからの中年夫婦のビミョーな関係の変化の表現もまた見事としかいいようがない。
さらに、中年男の記憶に眠る少年の純粋性が、そのまま直に少女への欲望と妄想へと転換していく描写も素晴らしい。
全てが完璧に隙なく構成されているように思える作品だ。
しかし、もちろん視覚的にはあの大島弓子の「絵」(ある意味、隙だらけの)なのだよねえ……。

と、また余計なことを書いてしまった。
うーむうーむ(-_-;)、多分、大島弓子の作品について分析的な文章を書くことは二度とないだろう。もうダメだ~(パッタリ)←敗退して倒れる音


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2007年10月21日 (日)

「さらば、ベルリン」:千円でちょうどよかったかも

監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー、ケイト・ブランシェット
米国2006年

監督がソダーバーグで、役者も豪華なメンツなのに、六本木でほとんど単館ロードショー状態である。
で、巷の評判もあまり芳しくなく、ギリギリまで行くかどうか迷っていて「六本木くんだりまでわざわざ出かけてって1800円も払うのもなー」などとボヤいていたが、行ったらたまたまなぜかその日は千円で入れる日だった! たちまち「ラッキー」なんて思っちゃった。現金なヤツです、ハイ(*^_^*)

さて、この映画、似た題材の名作『カサブランカ』や『第三の男』やその他私の知らない旧作を模して、冒頭のロゴマークからして昔の白黒のものを使用。全編モノクロで押し通すのであった。音楽まで昔の映画風の大げさなオーケストレイションを使用。もしかして、字幕の字体も昔のを使用か? ますます擬古調なのであった。

だがどうも今イチさえない。主演にG・クルーニー、C・ブランシェットと美男美女を揃え、おまけに小悪党役にトビー・マグワイアだ。でも、なんだか全体的にミスキャスト感が漂う。ポツダム会談を背景にした国際的サスペンスもどうも話がすっきりしなくて盛り上がらない。困ったモンである。
それからラストのヒロインの秘密もなんとなく見当がついてしまい、驚かなかった。……というか、何の特別な職業にもついてなくて技能もないような普通の女で、あの立場だったら他にやることはないように思うんだが。

しまいには、擬古調に凝るより他の方面に力を入れたら~(\_\;なんて思ってしまったのだった。
でも、ラストクレジットは今風に長かった。不徹底であ~る。どうせなら「ジ・エンド」でスッパリ終わりにしてほしいぞ。

ともあれ、過去の作品風でもオリジナルだからまだ志はあると考えなければならないだろう。これから『第三の男』や『カサブランカ』をリメイクしようなどというバカなヤツが出て来ないことを祈るのみである。


関係ないけど、予告でやってた『ゾンビーノ』って変な映画ぽくて観たくなってしまったよ(^.^) 「野良ゾンビ」ってなんじゃ、そりゃ?


主観点:5点
客観点:6点

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2007年10月20日 (土)

「ガイサンシーとその姉妹たち」:不可視の女の実像

監督:班忠義
日本2007年

このドキュメンタリー映画のことを知ったのは
《P-navi info》
《Apes! Not Monkeys! はてな別館》
を読んでで、一度見てみたいのう、一般公開されないのかしらんと思っていたのだが、たまたま上映会があるのを知って行ってみることにした。
それを主宰した団体の性格もあるかも知れないが、来ている人たちの多くが団塊の世代よりも上の、もう完全リタイア生活をしているような年齢層(^^; 逆に二十代三十代は数えるほどしかいないのには正直アセッタ。しかし、みなさん元気いっぱい。将来の私にはとても真似できません。

この監督は中国人で、元々は中国残留日本婦人問題に関わりノンフィクション書も出している人とのことである。(朝日ジャーナル大賞ってなんか懐かしい)
これは彼がガイサンシーと呼ばれた女性について何年もかけて取材した映画だ。

彼女について色んな人が様々なことを語る。
*「ガイサンシー」とは「山西省一の美人」を意味する呼び名で、あまりに美人として評判だったので、日本軍が探しに来た。
*年下の少女たちと共に屋敷に閉じ込め、日本軍兵士たちの相手をさせた。彼女は優しくて、少女が呼ばれて泣いていると「かわいそうに」と慰めて身代わりに行ってくれた。
*彼女の幼かった娘はその間に餓死した。
*体を悪くし、担架に乗せられて彼女は村に戻ってきた。腹がふくれあがっていて、子宮から汚物が大量に出た。

このように村人たちは語るが、監督が取材に行った時は既に彼女は自殺していて本人には会うことはできなかった。
ガイサンシーはもはや不可視の女である。幾つもの証言もその実像を補うことはできない。そして語り手によって彼女の印象は大きく異なる。
また「妹」であった元・少女たちの話を聞くと、その後同胞の村人からもいい扱いを受けなかったことが想像される。
終盤で遠縁の女性が語る老いた彼女の晩年は極めてみじめなものである。手足も不自由になった中で、後遺症のために子宮から血を流し続ける。それを嘆いていたという。

映画は平行して当時同じ地区にいた日本人の元兵士たちにも取材している。その証言に対して、監督は一切コメントは付けていない。しかし、そこに浮かび上がってくるのは「支配者/被支配者」あるいは「女/男」の徹底的な立場の断絶だ。そこにはいかなる共通するものもないように思えるほどだ。

上映会の後で話した講師(直接、映画とは関係ない内容)は「慰安婦」という用語自体に問題があると語っていた。
確かに考えてみるに、「慰安」とはあくまで慰安される側にとってのことであり、慰安する(その行為を行う)側にとっては全く「慰安」ではない。しかし、その事に慰安させる側の自覚はない。そこに大きな断絶がある。
そして、自らの一時の「慰安」のために、他者に一生の苦痛を与えるというのは一体いかなることなのだろうか。大いなる疑問である。

ガイサンシーこと侯冬娥という女性の後半生の姿は苦痛によってのみ証言され、浮かび上がってくるように思えた。

ここ数ヶ月はドキュメンタリーを結構見たが、はっきり言ってこの作品は一番不器用な出来である。上映時間は短いが、途中でかなりタルい部分もあるし、編集もあんまり上手くはないようだ。上映会はDVDを直接映写したものだったんで、音声もよくなくて音楽がキンキンして聞こえた。
だが、それにも関らず一番テーマについて考えさせられた作品でもあったのは間違いない。観る者それぞれに想起し考えることは異なるかも知れないが……それもまたドキュメンタリーの一つのあり方だろう。

さて、なんと11月10月下旬から東中野ポレポレでめでたくも公開されるとのこと。興味のある方はどうぞ。

ところで、舞台となった地域はなんにもないようなえらい田舎である。で、日本軍のトーチカは切り立った山の崖っぷちみたいな所に作られていた。「こんな土地までどうやって資材を運んで建てたんだろう」と思って見てたら、なんと近隣の民家をブチ壊してそれで作ったとのこと。なるほどこれが「現地調達」ってヤツですかい(-o-;)


主観点:8点
客観点:8点

【追記】
一部訂正しました。

071021

←こちらは書籍の方です。

【追記】
書籍版の方の感想を書きました。

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2007年10月14日 (日)

「終決者たち」上・下:面白いけど地味、地味だけど面白い

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著者:マイクル・コナリー
講談社文庫2007年

ロス市警にヒエロニムス・ボッシュ復帰、
キタ━━━━━('∀')━━━━━!!!!
まあ、私立探偵時代は作者も描きにくかったんでしょうか。刑事に戻って、まずは大多数の読者もこりゃメデタイってことで祝杯をあげるのであった。

さて、原題は The Closers --となると、つい先日CS放送でシーズン2が始まった警察ドラマ『クローザー』を連想してしまう。
警察内部(同じくロス市警)の嫌味ったらしい権力関係が描かれるところは同じ。だが、主人公は女性捜査官なれど最後の自白を犯人から引き出す名手、という意味での「クローザー」で、読んでいくとどうもこちらは意味が違うようだ。

ボッシュとこれまた現場&相棒復帰のキズミン・ライダーが配属されたのは強盗殺人課の未解決事件班。長年、迷宮入りの事件を掘り起こして解決するのが仕事である。--となると、すぐに思い浮かべるのはWOWOWで放送中の『コールドケース』。フィラデルフィア市警殺人課、女刑事リリー・ラッシュ、未解決凶悪犯罪となるではないの。(実際、作中にもこのドラマのことが出てくる)

しかし、これまたドラマとはかなりイメージが違う。『コールドケース』だと事件の話が出ると、すぐに当時の回想シーンが始まり、流行った音楽がバンバンと流される。気分はすっかり六十年代、みたいな感じだ。ヒット曲やファッションの再現がウリの一つで色彩豊かだ。
しかし実際には、再捜査には膨大な調書や証拠を探し漁り読み尽くさなくてはならない。極めてジミ~な作業である。関係者にまた話を聞きに行くにしても、みんな歳を取っている。『コールドケース』みたいにちょっとつついただけで犯人が簡単にゲロしてくれるわけはない。昔の迷宮入りの事件といっても、結局のところ「現在」の話に他ならないのだ。そういうことが、ヒシと感じられる地味さである。

従ってこれまで、同じシリーズにあったハードボイルド味はほとんどない。かなり警察小説よりだと言えるだろう。
被害者の家族や友人に話を聞き、古い証拠やアリバイを検討してもそれがうまく行くわけではない。派手な部分は皆無で、話の本筋にあまりつながらない枝葉末節やら寄り道やら失敗も出てくる。読み手によってはそういう描写は余計で退屈だと思うかもしれない。
しかし、私は読んでいて全体を通じて存在する何か流れ、というかうねりのようなものを感じた。そしてそれに乗ってあっという間に読み通してしまった。いくつかの部分は後戻りして、何度も読み返して味わった。音楽で気に入った曲を何回も聞き直すようにである。
下巻の途中では「ああっ、もう読み終わってしまう」などと名残惜しくなってしまったくらいだ。

やはりどうせ小説を読むならばこういうのを読みたいのう。単なる状況説明文のような小説なんて時間の無駄ムダ無駄(`´メ)。噛めば噛むほどスルメのように味が出てくる文章を心から望むのであるよ。
そういう意味ではドラマでは『ホミサイド』に一番似ているだろう。まあ、あの『ホミサイド』を引き合いに出すのはあまりにほめ過ぎかも知れないが……。あんなクセのある同僚の刑事たちは出て来ないしね。
それでも真実と虚無の狭間を歩む捜査官たちの寂寥感はよく似ていると思った。

それから、さっき枝葉末節が多いと書いたが、それはあくまで捜査上の話で、逆に捜査以外の話がほとんど出て来ないというのがまたオドロキである。ボッシュのヨメと娘の件もチョコっとだけだ。それ以外全くなしの一本勝負。
あと、ストーリーの本筋には関係ないが、人間の責任の取り方というものについて考えさせられた。自分の考えが原因で取り返しのつかない犠牲を出してしまった時にどう対処するのか、シミジミシミジミ考えてしまったよ。

不満なのはただ一つ、新たな上司たちがいい人っぽいこと。特に終盤に出てくる本部長の言葉には、ボッシュ、あんた丸め込まれてるんじゃないのと言いたくなったが、逆に見れば意味は似てても、ものは言いよう。部下にヤル気を出させる上司のその一言、として中間管理職の方々は参考にするといいかも(^○^)

ドラマといえば、『CSI』や『ロー&オーダー』の名も中に出てきて、しかも鑑識係が詳しく事件の様相を説明する場面も登場する。も、もしかしてコナリーも愛読ならぬ愛視聴してるのかしらん(^-^;
ま、CSI:マイアミだけは見てないのは確かだろうけどさっ。

過去2作の感想はこちら。
『天使と罪の街』
『暗く聖なる夜』

【追記】
2007年の週刊文春ミステリーベスト10にてめでたく海外部門第8位になりました。
が、「このミステリーがすごい!」では残念ながら21位以下の番外に(T_T)

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2007年10月 9日 (火)

「J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調」:かくも優しきロ短調ミサよ

071009
演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
2007年10月6日

つい先日、発売になったばかりのCDが評判いいBCJのミサ曲ロ短調である。BCJで聴くのはこれが三回めのはず。CD録音時の3月の公演は聴いていない。
2005年末に聴いた時の感想はこれ。

会場のミューザ川崎は初めて行った。駅から直につながっているのもスゴイが、中に入って驚いた。キャパシティは二千人弱ぐらいのはずだが、非常にステージに間近い感じがする。オペラシティのようなシューズボックス型とは全然違う。一階席で同じ列番を取ってもオペラシティではこんなに近く見えないだろう。音も文句なし。
う、うらやましいぞ(T_T)川崎! ついキョロキョロ見回してしまったよ。

でも、センター席ははさすがに埋まっていたが、サイドが結構空いていたのはなぜ? 関東一円のBCJファンは例え矢が降っても万障繰り合わせて川崎に集合するはずではなかったのか!(←大げさ)
CDの評判がかなり良いので(私はまだ未聴です)結構ドキドキしながら開始を待っていた。あんまりドキドキしていたんで入口にペーター・コーイ急病にて降板、のお知らせがあったのに気づかなかったほど。

さて、出だしのキリエのコーラスではそんなに気づかなかったんだけど、コーラスがいったん休止して楽器だけの演奏の部分になると微妙に違和感を感じた。
な、なんだかテンポが遅いような……(汗)
最近の古楽器系の演奏によるロ短調はテンポが早めなのが多いし、過去のBCJの公演でもこんなにゆっくりではなかったと思うのだが。時代の流れに逆行して古い演奏スタイルに先祖返りしようとしてるのかしらん、などと焦ってしまった。
しかし再び合唱が始まった時、そうではないことに気づいた。

やはりロ短調ミサというと、どうしても重厚・荘厳・峻烈とか、壮麗・厳粛・高踏的なんて印象になっちゃうわけだ(それも大抵は大人数でドドーンと来る)。で、偉大過ぎてかえって聴いてて押しつぶされそうな息苦しさを感じるのも確かである。
しかし今回の演奏にはそういう人を圧倒するところはなかった。グローリアなどテンポが速い曲もあくまでも軽快であって、怒濤のように突き進む印象ではない。
なんというか、傍らに寄り添って心のヒダヒダにしみ入ってくるような--そう、あくまでも穏やかで優しいのであった。
これは意外だった。意表を突かれた。こんなロ短調は今まで聴いたことがねえ~という感じだ。
いやー、正直やられました。

楽器ではコルノ・ダ・カッチャはやはり大変そう。C・モーリー氏、顔を真っ赤にして吹いているので、もう少しで舞台上でパッタリ倒れちゃうかと心配したほどだ。
それからティンパニは別に文句はないけど、2005年の時が素晴らしかったんで同じ人でお願いしたかったなあ。CDでは外人部隊だけどまた別の人らしいが。

歌手では浦野氏が急遽バスのソロの代役をつとめて健闘していたが、やはりP・コーイの降板は残念無念である。ソプラノの野々下&R・ニコルズは全く不満なし。

おなじみG・テュルクはなんと言っても24曲目のソロが素晴らしかった。ああ、今日はこれが聴けて心から良かった!としみじみ思ったほどだ。もう、傷一つなく完璧にピカピカ光り輝く黄金の壷を眺めているようだった。透明シリコンで固めて永久保存して床の間に飾っておきたいぐらい。トラヴェルソの菅さんもよかったが、鈴木(弟)氏のチェロが光っていた。

アルト担当のロビン君は期待通り26曲目のアニュス・デイでキメてくれた。過去2回聴いた時は女声だったんで、是非カウンターテナーで聴いてみたかったのだが、この曲の持つなにか不思議めいた神秘的な部分がいかんなく発揮されていたと思う。これも聴けて良かったぞ。
ところで、ソプラノ二人はコーラス部隊に入っていたのに男声ソロ陣が入ってなかったのはなぜ?(浦野氏は代役だから別だろうけど)

27曲目の終曲ではソリストも含めて全員で歌っていた。その頃には名残惜しくて、なんだかもう一度最初から聴きたくなってしまったのだった。こんな気分になったのも初めてだ。

途中でこんな聴いてて心地いいのは演奏のせいではなく、なんと言ってもバッハ先生が偉大だからであろうか--などと考えてもみたが、でも同じロ短調でもスカな演奏はあるわけで(誰とは言わぬが)、やはりBCJヤッタネ!というのが今回の結論なのである。
あ、もう一つ残念だったのは最後の拍手開始がもう少し遅かったらなあ(せめて鈴木(兄)氏が手をおろすまで)ということだった。


……ところで、私は今回恐るべき失態をしてしまった。これまで芝居も含めると、公演会場を間違える、公演日を間違える、同じ曜日で違う週に行ってしまう、開演時間を間違える、違うチケットを持って行ってしまう--など数々の失敗をしてきたのだが、またもかつてない大バカなことをしてしまった。
それは、

出発30分前にチケットがないことに気づいた

ということであった!(>O<)ギャア~~~
失くしてしまったのか、それともそもそも行く気になってただけで買い忘れていたのか、どうなんだか分からないが、とにかくいくら探しても出て来ないのであった。時間はどんどん過ぎ、冷汗がドトーのように流れてくる。
そこで私は当日券がまだ残っているという話を思い出して、ミューザ川崎に電話して当日券を予約したのであった。幸運にも一階のセンターを取れたが、その時、既に開演前2時間を切っていた……(=_=;) 焦りのあまり心臓がバコバコいってたよ。

でもまあ、終わりよければ全て善し、ですねえ \(^o^)/


【関連リンク】
色々な感想を集めてみた。

「ひろ」さん
激しく同意する部分、多々ありました。

「小一時間」さん
会場について同感です。それから「二の腕」についても……(^^; 私も「なんか野々下さんの二倍ぐらいありそうだなあ」と思って見てました。

「AH」さん
楽譜も読めぬトーシロには色々とためになります。

「Verdi」さん
前回のカンタータ公演に続き、超辛口の感想です。

「kimata」さん
同じ公演(と言っても、日が違うんだが)を聴きながら印象が正反対というのはなかなかに興味深いことであります。

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2007年10月 8日 (月)

「アルゴス坂の白い家 クリュタイメストラ」:悲劇、喜劇、悲喜劇?

071008
作:川村毅
演出:鵜山仁
会場:新国立劇場
2007年9月20日~10月7日

新国立劇場の10周年記念のフェスティパル公演として、ギリシャ悲劇を元にした三つの新作芝居をそれぞれ別の演出家が演出するという企画。
これはその最初のもので、川村毅と芸術監督に就任した鵜山仁が組んでいる。

クリュタイメストラはエレクトラの母親で、トロイ戦争での勝者である夫のアガメムノンを謀殺。娘と息子の恨みを買う。彼女を佐久間良子、エレクトラを小島聖を演じている。この芝居での設定はクリュタイメストラはスター女優、アガメムノンは巨匠映画監督となっている。

見る方としては当然、悲劇だと思ってみるわけだけど……これってもっと喜劇っぽく演出しないとダメなんじゃないの??
そもそも新宿のホームレスもどきのエウリピデスが出現、スランプに陥ったこの芝居の演出家と共に漫才みたいなかけ合いをするところから始まるんだから。
でもって、ヒロインが一生懸命悲劇にしようと頑張っているのに他の人間が不甲斐なくってなかなか悲劇にならない……って、つかこうへいとまでは行かなくてもやっぱり喜劇でしょう。

そう思って見ると、後半は面白くなった。
悲劇がもはや成立しない時代に抗って、あくまでも古代の悲劇を成立させようとするヒロインはまさに「最後の大女優」であろう。
ただ、「父と息子」と違って「母と娘」はそんなに簡単に和解できないもんだと思うが……。

川村毅は相変わらず「戦争」好きなようだ。しかし、戦争映画作るには戦争へ行かなければダメだなんて意見には到底賛成できません。そしたら、オリバー・ストーンの撮る戦争映画が最高だってことになっちゃうじゃないの。納得できねぇ~。

佐久間良子はさすが、余裕の貫禄でヒロインを演じていた。あと、ホントに××年ぶりぐらいに有薗芳記を見た! 全然変わってなかった(^o^;

それにしても、見たのは日曜日だったのに6割ぐらいしか客が入ってなかったのはどういうことよ? しかも二階席は最初から使ってなくて、だ。折角の10周年企画だってのにさ。立派な劇場の建物がシーンとしてた。
三番目にやる『異人の唄』はマンガ家の土田世紀が脚本書くという話題作だから、それにはさすがに客が入るだろうか。

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2007年10月 7日 (日)

「フランスとドイツ--バロック黄金期の音楽」:アンケートの行方が気になる

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演奏:若松夏美、平尾雅子、副嶋恭子
会場:日本福音ルーテル東京教会
2007年9月28日

三人の女性演奏家による花のソナタ競宴といった趣のコンサートである。
若松さんはBCJで毎度おなじみとはいえ、カンタータだとスポットはどうしても歌手の方に当たっちゃうんで、小さな会場で間近に聞けるのは嬉しい限りだ。

一曲めはルクレールのソナタ。ありゃ、つい最近聴いた覚えが--と思ったが、F・フェルナンデス&フォンス・ムジケ楽器部隊のコンサートで演奏されたのと同じ曲だった。後で若松さんが解説したところによると、そもそもルクレールの曲で全楽章トリオソナタの形式になっているのはこれだけしかないとのこと。
編成が違うので比べるのもなんだが、フォンス・ムジケの時と比べると実直でストレートな印象だった。

次はラモーで極めて技巧的で趣向を凝らした曲。三人のかけ合いが見事だった。三曲めはバッハのヴァイオリンとチェンバロのソナタで、若松節を十分に堪能しました、ハイ。

後半は、同じくバッハで今度は平尾さんのガンバとチェンバロのソナタで始まった。躍動感たっぷりの演奏にバッハ先生もさぞお喜びでしょう、と言いたくなるほど。
次のF・クープランのコンセール。まさにクープラン節全開で、甘美・粋・陶酔の極みに酔いしれるのであった。
最後は没後300年祭のブクステフーデ来たーっ。やはりヴァイオリンとガンバの生き生きとしたかけ合いを楽しんだ。

アンコールはルクレールとテレマン。タイトル通り仏独のバロックのエッセンスを抽出、た~っぷりと味わえたひとときだった。
フォンス・ムジケ楽器隊の時もこのぐらいの会場で聴きたかったなあ(´・ω・`)ショボン


さて、近くの席に座っていた学生風の男女はどうも誰かの弟子の弟子の関係者(?)みたいだったのだが、チラシと一緒に配られた感想用のアンケート用紙を見て、「終わった後きっとこれを肴にしながら三人で飲むんだぜ」とふざけて喋ってるのが聞こえてきた。
その瞬間、私の脳内妄想として、絶対居酒屋なんかに行きそうにもないお三方が「○○の○」みたいな騒がしい居酒屋でビールジョッキあおりながら、アンケートをテーブルに広げて「こんな小汚い字読めないわ」とか「39歳独身のクラヲタです、なんて余計なこと書かないでよ、キモー」などと回し見しているイメージが猛然とわき上がってきたのであった。

そこで、私は急いでアンケート用紙を取り出して記入し始めたのである。え?なんて書いたかって?……それはヒ・ミ・ツ(*^^*)
でも、書いてもアンケート出す場所がなかったのはどーいうことよ。用紙配るんだったら、回収箱でも置いといてくれい。


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2007年10月 6日 (土)

「フランソワ・フェルナンデス バロックヴァイオリン・リサイタル」:演奏家の外見についてつらつらと考えてみた

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会場:武蔵野市民文化会館
2007年9月25日

こちらは四人とも入っている写真。カルダーラのCDより→

コンサートで配られる大量のチラシ眺めていると若い美男美女の演奏家を全面的にフィーチャーしたものが結構ある。しかし、そこはひねくれ者ゆえ
「なんじゃ、このニヤケ面は~。ヴァイオリンは顔で弾くんじゃねえぞ、ゴルァ」
「キレイな金髪のねーちゃんだけど、さーてピアノの腕前はどうかな」
などと、くさしたくなるのが常である。

そういう点でもいろいろ思うところがあったコンサートが武蔵野市民会館で行われた。
タイトルこそフランソワ・フェルナンデスが表看板になっているが、実際は福岡古楽音楽祭で来日してたフォンス・ムジケから、ソプラノのモニク・ザネッティだけ抜けた楽器隊が個人技&アンサンブルを披露という形のものである。
それにしても、福岡ではヴァイオリンに寺神戸氏も入ってやったのねー。一般4000円、ああっウラヤマシイ~ω(T_T)ω
なんでフォンス・ムジケでこっちに来てやってくんないのよ(号泣)。あんまりだー。チケットをゲットした時の記事はこれ。

さて、会場の性格もあってかなり白髪頭が目立っている客席。周囲からは「テオルボって何?」とか「ヴィオラ・ダ・ガンバってヴィオラの仲間かしら」などという会話ももれ聞こえてくる。

そんな中登場した一同、ブクステフーデのトリオ・ソナタで開始。やはり生誕没後300年だからか。ガンバとヴァイオリンのかけ合いがなんとなくお洒落な感じに響く。
他にアンサンブルで演奏したのはルクレールとバッハのそれぞれソナタであった。ルクレールには、もっとおフランスものが聴きたーいという気分になってしまった。

それにしてもテオルボの今村泰典、外見が以前よりもさらに「普通のオヤヂ」度に拍車がかかって来たような……(-o-;)
そして、それよりもさらにオヤヂ度高し、なのがチェンバロの北谷直樹であった。いやー、私σ(^_^;)も他人の外見についてとやかく言えるような代物ではありませぬが、どう見てもタラーッとしたシャツを着て左手に競■新聞、右手にワンカップ大関持っていたら完全に似合い過ぎな人ではあります。
しかしながら、《チェンバロ漫遊日記》の「ナオキには気をつけろ!」に書かれているように、只者ではなかったのであ~る。
ソロで出て来て、さりげなくまるで鼻歌交じりみたいな感じで弾き始めたかと思うと、それがなんとヴィヴァルディの「ラ・ストラヴァガンツァ」の編曲版。一人時間差協奏曲(意味不明)なのであった! 飄々と弾きまくる鍵盤上から繰り出される弾丸のような音の連鎖に客席はシンと聞き入り、最後は拍手喝采ブラボーが飛ぶほど。

一方フランソワ・フェルナンデスはというと、かつての童顔の好青年は顔にシワも増え、ロン毛をポニーテールにしてるのがめっきり白くなっている。しかも、楽譜を見る時は老眼鏡を使用してるではにゃあですかっ。思わず流れた歳月を振り返ってしまうのであった--。
しかし、その、なんですな……老眼鏡の鼻メガネも二枚目がやるとカッコエエもんですなあ(*^.^*)、なんちゃって(木亥火暴)
ソロではバッハの無伴奏をやったのだが、なんだか全編に渡りギコギコ音が耳につく。しかもなにげに曲の流れがガクガクとブチ壊れているような気もするではないか。まるで、端正&流麗といった演奏とは正反対である。聴いててドキドキしちゃった。こ、このブチ壊れ具合はシギスヴァルト・クイケンに次ぐと言っていいほど(\_\; なんと、クイケンの後を継ぐ直弟子は彼だったのか--と、この時初めて思い知ったのであった。
そのせいか、曲が終わった時の会場にはビミョ~な雰囲気が漂ったのである。(もちろんブラボーも飛ばず)
しかし、その、なんですな……ギコギコ音もクイケン師匠と違って二枚目がやるとカッコエエもんですなあ(#^-^#)、なんちゃって(走召火暴)

今村センセはヴァイスを独奏。しかし、武蔵野では楽器に対して小ホールでもデカ過ぎ。もうちょい、小さい所で聴きたかったのう。
ガンバのライナー・ツィパーリングはチェンバロと共にバッハのソナタを弾いたが、あまりにも楽器の音色自体が地味過ぎる感じなため、眠気虫に食いつかれていた人が多数いたようだ。

アンコールは全員でルクレールを二曲やった。それにしても四人でやる度、必ず端にいる今村センセがツィパーリングに対して「もっとこっちに寄れ」「やだよ、あんたがこっち来い」なんてやり取りを繰り返していたのはなぜ(?_?; 結局、最後に今村センセの方が寄ったのだが。
でもって、最後に四人並んで立つと今村センセと北谷氏のあまりにもあまりなお腹の出具合が気になった。昔と変わらず腰回りもスッキリなフェルナンデスや、体格はいいけどダブついてはいないツィパーリングと並ぶと、余計に目立つのである。いや、どーでもいいことではありますが、メタボリック症候群にご注意な今日この頃ですねえ。(と、無理やり結論づける)

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←この日の戦利品。今村センセのバッハCD。

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2007年10月 5日 (金)

今や懐かしの「サイパン」なのか

《万来堂日記2nd》より「ライトノベルもサイバーパンクも似たようなもんです。きっと。/あれ? 運動が巨大化してジャンルになるのか?」の感想。

「ライトノベル」はとっくにジャンル化していると思うが、違うだろうか?
まあ、何をもって「ジャンル」と見なすかによるが。少なくともマーケット的には巨大だろう。そして、それしか読まない読者が多数いるはずだ。

身近にいる高校生はライトノベル文庫のファンだが、一冊二十~三十分で読んでしまうという。だから一日に5冊ぐらいは軽く読んじゃう。で、自分が読んでるシリーズの作者がハードカバーで新作出しても読んだりはしない。別に作者の名前で読んでいるわけではないからだ。
例えば桜庭一樹の『Gosick』を熱心に読んでる中高生が『赤朽葉家の伝説』を読むかというとそういう訳ではない、ということだ。
そのように強固に固まっている「壁」が存在していることが、逆に強固なジャンルであることを証明しているよう思える。

さて、ひるがえってサイバーパンクだが、日本のSF界では結局のところどう位置づけられたのか?
途中でSFファンダムから足を洗ってしまった私は現在の状況を知らないが、欧米(というか、米国だけか?)でのようなムーブメントであったかどうかは怪しい。
確かに海外の作品に同調する、あるいは影響を受けて作られた作品はあるけど、それを日本におけるムーブメントと言えるのかヒジョーに疑問である。
そもそものサイバーパンクは過去のオールドウェーブ(&ニューウェーブな)SFへのアンチ的な位置づけで出て来たと記憶しているが、日本では全くそんなことはなかった。
最初から「ジャンル」として入って来たと思う。

そうなると、ムーブメントが固定化してしまうとジャンルになるという見方もできるわけである。そういや、コバルト文庫の初期なんてメチャクチャでとても「ジャンル」なんて言えなかったですよねえ。

えー、結局何が言いたいかというとライトノベルもサイバーパンクも初めっからジャンルであったということで。だから、なんだって言われると困るんだが。
まあ、他の人の意見も聞きたいところだ。

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2007年10月 3日 (水)

「支倉常長 伊達政宗がヨーロッパに遣わした一人の侍の旅」:ショームのド迫力に驚く

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オルガンレクチャーコンサートシリーズ2007
出演:皆川達夫、大森博史、鈴木雅明&BCJ
会場:サントリーホール
2007年9月24日

昨年は天正少年使節団を扱ったレクチャーコンサートシリーズ、今回は支倉常長である。
こちらは太平洋からメキシコへ。さらに大西洋を渡ってスペイン、ローマへと渡って行ったのである。非常に長~い船旅&陸路、大変だー。
その背後には日本国内やヨーロッパでの政治・経済・宗教が絡み合ったパワーゲームが渦巻いていたのであった。
その後のキリシタン弾圧など国内政治事情の変転で旅の詳細な記録は消失してしまったそうな。

そんな旅の中で奏でられ、彼が遭遇した(と推定される)音楽の数々を紹介。解説はもちろん皆川先生。先生の暴走を引き止める係はもちろん鈴木(兄)氏である。

冒頭は、少年使節が秀吉の前で演奏したに違いないと先生が断固主張するジョスカンの「千々の悲しみ」に始まり、宗教曲だけでなく野々下さんのシャンソン独唱やフィリピン民謡やお琴の「六段」まで飛び出すバラエティに富んだものであった。

一番良かったのはマドリッドでの常長の洗礼式で演奏されたと推定されるビクトリアの「ラウダテ・ドミヌム」。こんなのをステンドグラス輝き響きの良い立派な教会で聴いたら、不信心な私でも思わずナンマンダブナンマンダブ(-人-)と手を合わせたくなるぐらいの素晴らしさ。特に途中から合唱に通奏低音がそーっと入ってくる所がいい。
あとフレスコバルディのオルガン演奏には3万人が押し寄せ、さらに掌を上に向けて弾けた(?)という話にはビックリ。

楽器は今回は弦は通奏低音のみ。代わりに三宮氏の率いるショームバンドが活躍。あんなにたくさんのショームを見たのは初めてだった。それだけに音もデカイぞ。それから島田氏のトランペット部隊も登場したが、配られた冊子には管楽器の曲が一切記載されてないのはなぜ? 急遽入れたのかしらん。

さて、当然のことながら今回も皆川先生の恐るべき破壊力を持つオヤヂギャグがいつ出るかいつ出るかと待ち構えていたのだが、結局最後までなくて拍子抜け(-o-;) 「先生、ガット弦がブチ切れるのでやめてください」とか言われたのかな。
その代わりかどうか?講談調の語りで一人芝居をやった場面があった。も、もしかして先生「次は落語調で行くかな、ふふふっ」と策を練ってたりして(>y<;)

ところで新装なったサントリーホール、トイレはキレイ&豪華になってましたよ、ハイ。

【関連リンク】
「少年使節」の時に引き続き、詳細な内容紹介と感想が読めます。
《ミューズの森、美術館そぞろ歩きノート》

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