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2008年2月

2008年2月28日 (木)

タブラトゥーラ「新しい自転車」:ハクジュホール燃ゆ

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会場:ハクジュホール
2008年2月22日

既に結成二十数年にもなる踊る古楽バンド・タブラトゥーラの新アルバム記念コンサートである。
ということで、私も張り切ってチケット申し込みしたら、なんと!かぶりつきの席になってしまったじゃにゃあですか……(;^_^A アセアセ
でもまあ、かぶりつきだとこれまでなかなか分からなかった部分も色々と分かって面白いですなあ--皆さんが履いている靴下の色(しかも派手)がそれぞれ違うとか、つのだたかし団長の使用する滑り止めの布(ひざの上に置く)はどんなもんかとか。どうでもいいことばかりですけど、ハイ。

新アルバム記念とはいえほとんどの曲は既にライブでやっているものばかりだが、前半でさらに最新のできたての曲のご披露があった。「ファイアマン」という江崎浩司が作曲したもの。蒸気機関車のかまどに石炭をくべる男の事だそうである。
曲が始まってつのだたかしが汽笛を表わす奇声をあげたかと思うと、田崎瑞博はフィドルで江崎氏はやはりリコーダーでSLの音を真似して騒がしい。
さらに続く「ごわごわ」では客にコーラスをつけるように暗に強制。団長は張り切り過ぎてラウタ(リュート系の楽器)のピックを弾いてる途中で落としてしまい、口三味線ならぬ「口ラウタ」でその場をしのぐという珍事態となった。おまけに田崎氏の弓の一部が切れちゃったりして--きっと熱演のたまものよ。これもかぶりつきだからこそ、よく観察できたのであ~る。

後半開始早々にはウードを倒してしまうというアクシデントもあった。その後にゲストの波多野さんが登場。4曲やったが、「梢の小鳥」や「オード」はCDよりもさらに情感豊かに迫力ある歌い方だった。
その後はドトーの終盤に突入。「チャンバラ」では江崎・田崎コンビがリコーダーとフィドルを振り回して斬り合いしたり(レッド・プリーストの影響か)、寝っ転がって演奏したり(ジミヘン風)ともう大暴れ状態である。

ラストの「ラセルカーダ」になると、例の如くつのだ団長はカスタネットを両手に踊り始めたが、ついに寄る年波には勝てずということか、途中で息が上がってしまったらしく踊りが止まってしまった。プログラムに「元気な長老を装っているが、実はかなり息があがっている」と書いてある通りだった。

アンコールではもはやお上品なハクジュホールの客席は熱狂のるつぼと化し、ステージ上にのぼって踊る者多数。恐るべき熱気で気温も急上昇となった。私はさすがに踊るわけには行かず……でも、波多野さんと一緒に踊ったり握手してもらったりしてたヤツがいたなあ。ウラヤマシィ~ッ(>O<)(指をくわえて眺める)

というように大いに燃えたライブであったが、問題が一つ。それはディミトリー・バディアロフのコンサートと 同 じ 日 に 重 な っ て い た ことだ。なんで、一年365日--じゃなくて今年は366日もあるというのに、よりによってこの二つを同じ日にやるかね。責任者出てこ~い(*`ε´*)ノ☆
おまけに鍵盤は大塚氏だったのにさ--でも、仕方なくバディ様の方をあきらめたのであった。泣いちゃったよ。
え、なに?タブラとバディ様双方を聴くヤツなんて他にいないって? そんなことねーぞ

【関連リンク】
《ongei :: blog》より「マーティン・ヘイズ&デニス・カヒル、野田暉行、タブラトゥーラの日々」
ビウエラ担当の静かな山崎まさしが玖保キリコの『いまどきのこども』のツグムくんに似ている、というのには爆笑してしまった。た、確かに……(^^;) でも彼はヘビメタじゃなくてパンク小僧だったはず。この二つを間違えると血を見ます。

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2008年2月24日 (日)

「見送りの後で」:号泣のあまり枠線も見えず

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著者:樹村みのり
朝日新聞社2008年(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)

昔から活躍していて長年読んでいたマンガ家で、その後とんと消息を聞かなくなってしまったマンガ家に山田ミネコと樹村みのりがいた。山田ミネコについては同人誌の方で活動を続けていると聞いたが、樹村みのりの方は何かの本でイラストを描いていたのを見たような記憶があるだけで、半ば忘れかけていた状態である。

ところが最近になって、《慢棚通信》で「樹村みのりカムバック」という記事を読んでビックリ。新刊が出たというではないか。朝日新聞の書評欄でも南信長が紹介している。
で、あわてて購入した。なんでも新刊の作品集としては18年ぶりだそうである。(《慢棚》で紹介されているベアテ・シロタ・ゴードンの伝記は除いてということだろう)その前の単行本となると『母親の娘たち』(1990年刊)だが、これだって、オリジナルの連載は1984年だからさらに時が経過していることになる。

樹村みのりの作品で一番心に残るのは短編『病気の日』(1970年)だ。これは小学生の女の子を主人公に、病気になった時(ちょっとした風邪とか軽い症状限定)は楽しいな、という話である。学校は休めるしお母さんが妙に優しいし、おいしいものは食べさして貰えるし--本当にそれだけのことを描いたものなのだが、読んでいて思わずウンウンと頷いてしまうひそやかな感動がある。もっとも以前、とある知人に貸したら「なんだよ、ただそれだけの話じゃないか」と文句をつけられてしまった。分からないヤツにはワカランということか。
後にも先にも今でも、あのように日常のなにげない時間を新鮮に切り取ってみせてくれたマンガ家を他に知らない。

彼女が実は年齢からいえば「24年組」なのだと後で知って驚いた。もっと前から描いていて一世代上の人だとばかり思っていたからだ。しかし実際には中学生でデビュー(早い!)したので、そういう印象を持ってしまったようだ。
それにしても、同年齢の作家たちに比べてフォロワーがいないように思えるのはどうした事だろうか? 大島弓子とか萩尾望都なら露骨に影響を感じられる後輩マンガ家がいるんだが、彼女についてはどうにも思い当たらない。こうの史代が影響を受けたと語っているそうだが--。

「菜の花畑」シリーズのように楽しい作品もあるのだが、その後読んでいて重苦しくて痛々しい作品が段々と多くなってきた気がして、それで少し敬遠ぎみになってしまったのかも知れない(一応、ほとんどの作品は持っているが)。
特に『海辺のカイン』なんてあまりにつらくて今でも読み返すこともできない。どれほど苦しいかというと、三原順の次ぐらいに位置するほどだ(^=^;
他にもユダヤ人収容所の女看守を主人公にした『マルタとリーザ』(『パサジェルカ〈女船客〉』が原作)とか『ジョーン・Bの夏』とか『悪い子』とか--読んでてつらいのよ。(泣)
良きにつけ悪しきにつけ、まさしく彼女は「13歳の時から強制収容所のことしか考えたことがない」という一本槍に真っ直ぐな人なのであった。

さて、本題の『見送りの後で』だが、表題作を読んで号泣してしまった。読み返してもまた同じ場所で号泣してしまうから未だにそのページはよく見てない(←バカ)。他のページもめくる度に鼻水すすったり--という始末。いかんいかん。
なんで泣いちゃうのかはヒミツだよ

『柿の木のある風景』は昨今の昭和三十年代ブームに対抗?したのか、その時代を中心とした二つの家の年代記である。相変わらず子どもたちの描き方が秀逸だなー。私も葬式のおまんじゅうに憧れました。
それから、遊びに行った友だちの家のおベンジョの蓋が、私の家でも似たようなものを使ってたんで懐かしく……アワワ、懐かしくはないけどアリアリと思い出した。

なんと三十数年ぶりにリメイクされた『星に住む人々』、これも読んでて泣いちゃった。グスッ(T_T)歳取ると涙もろくなっちまうもんだねえ。
絵はかなり描き加えてあるが、セリフの方もちょこちょこと直してあるようだ。オリジナル版を久しく読み返していなかったにも関らずいくつかの場面を覚えていた。ということは、やはり昔から印象的な作品だったに違いない。母親が姉をおぶって帰る場面や、教条的な中国映画に三人三様の反応を示す所とか。←この場面で、「西さん大好き」という主人公が私は大好きです!(と、なぜか突然立ち上がって宣言してみる)

この機会に彼女の以前の作品を幾つか読み返してみて、ぶち当たったのが『水子の祭り』(1982年)という短編である。これが『星に住む人々』とポジとネガの関係にあるような話だ。
主人公が美大生で、精神病院へ依頼されて壁に絵を描きに行くという状況、さらに回想に出てくる父親が時計職人だという設定は同じである。
しかし、ストレートで前向きな『星に~』とは反対に、ヒロインは親との関係に悩み失恋に苦しみ精神失調に至る。病院で壁画を描くのは自らの治療のためだ。そして、これまた読んでいて苦しい話である。
特に結果的に父親を困らせることになった事件の顛末が明らかになる件を重ねてみると、まさに二つの作品は陰と陽--家族というものの持つ二面性の象徴として陽炎のように立ち上がってくるのである。

それにしても、よくこのようなこのようなテーマで描き続けてきたと思う。
いやそれとも、テーマとしては他の同年代のマンガ家と共通するところはあるが(「家族」とか「姉妹」とか)、作品として表現されたものは全く違っている--ということだろうか。

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【関連リンク】
短編としての『見送りの後で』の扉絵(同じもののカラー画が裏表紙に使われている)には「inspired by Kathe Kollwitz」と書き込まれている。
元ネタはこの戦前ドイツのアーティスト、ケーテ・コルヴィッツの作品らしい。ただし、杖を持って座っているのは男性である。前を通る裸足の人物は死神のようだ。

《くどさ、いろいろ。(レビュウ)》
記事の中で「壁画を描くシーンで、紙やすりか何かで「サリサリ」と壁を削るシーンがあった」というのは、『水子の祭り』の中の場面ですね。

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→こちらはオリジナル・ヴァージョンの方。1982年9月購入。


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2008年2月23日 (土)

「団塊ボーイズ」:ハリウッドの底×を見た!

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監督:ウォルト・ベッカー
出演:ジョン・トラヴォルタ、ティム・アレン、マーティン・ローレンス、ウィリアム・H・メイシー
米国2007年

メタボリック症候群が最近とみに気になる四人の中年男--邦題は「団塊」になっているが、実際にはもっと下の40代(まだ小学生の子どもがいる)--が仕事や家庭でうまく行かない憂さ晴らしにバイクでアメリカ横断の珍道中へ出るという話。
予告や紹介番組でもバカバカしくて面白そうだったんで、急きょ見に行ってみた。

が、「中年男たちがバイク旅に出る」……本当にそれだけだった。それ以外のものは何もなかったのである!
そして、面白い場面は全て予告でやってしまっていた(!o!) なんてこったい。
最後に登場する「あの人」だけがウリですかい。オーマイガ~~ッ

ギャグはヌルい下ネタが多いし、今ひとつテンポは非快調。ドラマ部分も人物の葛藤もほとんど大したもんはなし。懐かしのロック曲が使われているが、単に使われているだけのこと。題材は中年オヤヂ向けだが内容水準的にはお子様からご覧になれます、というようだ。

正月にDVDで『ナイト・ミュージアム』を観た時にも思ったのだが、近年のハリウッド製娯楽映画の水準低下をヒシと感じさせるものだった。ハリウッドの底を見せつけられたぜいっ!

ただ、レイ・リオッタの悪役バイカーの親玉は迫力充分でコワかった。問題はこんなおバカ映画で観客ビビらせてどうするんだってことだが。
唯一、メタボ症候群に関係ない体型のウィリアム・H・メイシーはヲタクの独身エンジニア役で笑わせてくれる。なぜか、彼のみが裸の尻を見せるのだが--他の奴はどーしたと問い詰めたいところだ。彼のファンなら見に行っても損はしないだろう。

エンド・クレジットの背後でやっていた「家をプレゼント」とかいうのは実際のTV番組のパロディなんだろうか?

映画館は最近できたバルト9で単館上映状態で、初めて行ってみた。新宿のマルイの上階にあるシネコンだが、こぎれいでアベック(死語)で満員。まあ、単館作品の時以外は縁がなさそうだ。


主観点:4点
客観点:5点

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2008年2月20日 (水)

「ヒトラーの贋札」:収容所の中の中

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監督:ステファン・ルツォヴィツキー
出演:カール・マルコヴィクス
ドイツ・オーストリア2007年

ナチス・ドイツがポンドやドルの贋札作って敵国経済の撹乱を図る……なんてことが、ホントにあったんかい(?_?)と、思っちゃうが実際にあったらしい。
ということで、実話に基づく映画なのである。
しかも、作らせるのはユダヤ人のデザイナーやら技術者やら銀行家やらで、人件費はタダというお得さ。彼らも地獄の収容所よりいい待遇で、ガス室送りから逃れられるとなれば一生懸命働かざるを得ないのであった。

主人公は退廃の都ベルリンで実際に贋札作ったり証明書偽造をやっていた享楽的な人物。逮捕されて収容所送りになっていたところを拾われてチーフに抜擢という次第。
しかし、それは敵方に協力することであると仲間の印刷工からキビシク非難されるのである。

いささか奇妙なのは、原作を実体験に基づいて書いたのは主人公の贋札犯ではなくて、対立するその印刷工の方なのである。なるほど道理で印刷工は唯一、二枚目の役者がやっているわけだ(^^;)--というのはどうでもいいことだが、視点が原作と映画では逆転していることになるわけだろうか?
正直言って印刷工の男は独善的過ぎるんである。観ていて、お前は自分ひとりで死ねーと言いたくなっちゃうのは私だけではあるまい。

それはともかく、戦況が決定的になりナチスが収容所から逃げ出して、主人公たちのいる棟の壁が破られた後の展開は非常に皮肉である。あまりに皮肉過ぎて笑い話に転化しかねないほど。(しかし、その笑いもすぐ凍りつくが)

困難な状況下において「最善」の道はなく「より良い」、というか「少しでもマシ」な方を選ぶしかない。それを誰が責められようか。
苦悩と安堵がない交ぜになった終盤の展開と、自傷的ともいえる主人公の行動--は痛ましい。しかし一方でそれが引き起こす感動があまりにも真っ当で、ひねくれ者の私にはちょっと向いていないのもまた事実なのであった。


主観点:7点
客観点:8点

【関連リンク】
《映画のメモ帳+α》
終盤についての疑問的意見(ネタバレあり)

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2008年2月19日 (火)

なぜ被害者が叩かれるのか

《かめ?》より「これじゃあ、わざわざ声高に言わなきゃいけないわけだ」を読む。

被害者を叩くのは何も変えなくて済むから。「お前が悪い」の一言で終わり。社会のシステムを変えなくていいし、根源的な問題を直視しなくてもいいし、なーんにもしなくていい。なんにもなかったことにできる。
個人の責任に帰してしまえばそれでオッケーなのよ。このまま全ては進んでいく。バンバンザイだ \(^o^)/
モラ・ハラとかセク・ハラとか過労死もみんなこのパターンだよねえ。

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2008年2月18日 (月)

「マーティン・ヘイズ&デニス・カヒル フィドル&ギター・デュオ」:チラシに釣られてジグ&リール

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会場:武蔵野市民文化会館
2008年2月10日

古楽のコンサートで会場に行った時にたまたまこの公演のチラシを見つけて、どんなアーティストだか全然知らないままチケットを買ってしまった。
「愛蘭土の伝説の求道者たち」とか「究極のアイルランド伝統音楽」「静謐と沈黙にみちた音楽」とか、例の如く武蔵野市民文化会館のチラシの煽り文句はすごい(^^; つい釣られちゃうのよ。

当日の会場は満員御礼でかなりの熱気で暑いぐらい。クラシック系と違って、聴衆は小学生から高齢者までの男女とりどりである。中には打楽器のバウロンを持ったヤツまでいたぞ。

ヘイズは生粋のアイルランド人のフィドラー。カヒルの方はアイルランド系米国人のギタリストとのことで、様々なジャンルの音楽をやってきたらしい。
ステージは簡素なもので、二人とも椅子に座ったまま演奏する。

曲が始まってちょっと後悔した。というのも、アイリッシュ・トラッドでも私の苦手なダンス・チューンだったからである。何で苦手かというと、最初のフレーズはいいんだけど演奏が進んでいくとどの曲もみんな同じに聞こえてしまうから。(^-^;
もちろんコード進行とかリズムが違うんだろうけどそこまではワカランのよ。

曲目は事前に発表されてなくて、後で見るとどうも短い曲を様々につなげて15分ぐらいずつにまとめて演奏していたもよう。CDに入っている曲は数分の短いもののようだから、CDで予め聴いていた人も驚いたかも知れない。

ヘイズが両足でステップ踏んでリズム取りながら(床が打楽器の代わり)自由に弾きまくるフィドルに、カヒルが音数の少ないギターの伴奏を付けていくという形だが、常にヘイズの手元をカヒルはじーっと注視して演奏していた。ということは、かなりの割合をアドリブでやっているのだろう。
前半は結構静かだったが、後半になってヘイズの演奏もかなり盛り上がり、さらに伴奏に徹していたカヒルがジャズっぽいフレーズをやったりして、尻上がりに盛り上がった。前半からこうだったらなーと思ったがそいつは無理な注文か。

トラッド音楽については完全ドシロートな私σ(^_^;)なので、こういう演奏もあるとはつゆ知らず。まだまだ勉強が足りんのう。
最初、フィドルの音がデカく聞こえててっきりPAシステム使ってるのかと思ったら、そうじゃなかったらしい。バロック・ヴァイオリンの音を日ごろ聴いていると現代のフィドル一台でも大きな音に聞こえてしまうのであった。

【関連リンク】
《モハーの音楽日記・競馬日記》
こちらを見ると、トラッド系ファンの繋がりはクラヲタ以上に熱く緊密なようです。
「この会場を爆破したらアイルランド、ケルト系音楽好きの3割くらいは減るんじゃない?」という件りで思い出したのは、北とぴあでの『オルフェーオ』の公演。あの時も「北とぴあが今崩壊したら、日本の古楽界は全滅だぜい」という声がありましたな。
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←終演後に掲示された曲目。人だかりをかき分けて必死に撮ったが、読めなくてもご容赦よん。

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2008年2月17日 (日)

「アメリカン・ギャングスター」:この映画の教訓は

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監督:リドリー・スコット
出演:デンゼル・ワシントン、ラッセル・クロウ
米国2007年

実在のアフリカ系麻薬王と、正義感が強過ぎてはみ出し者となった刑事の闘いを描いた話題作。人気もある演技派の役者二人に監督の名前だけでも、十分評判になる素地はある。
主人公のフランクはいつもスーツにネクタイ姿、きちんとした物腰、ビジネスの才あり、儲けた金はマジメに地元に還元--しかし、問題なのは彼が扱っているのはドラッグだということだ。
一方、刑事のリッチーはよれたジーパンを愛用、女関係にだらしなく離婚調停中、ただしワイロは絶対受け取らねーよ--と対照的なのであった。

この二人の私生活の描写をまじえつつ、密かな対決まで持っていく。その長丁場を飽きさせず見せる手腕は見事なもんである。また、当時の町並みやファッションなどの再現も目を引く。
脇役(特に悪徳警官のジョシュ・ブローリンとマフィアの親分アーマンド・アサンテ)もいい。ただ、妻となるミス・プエルトリコがそんなに美しく見えない(というか、魅力がない)のが問題だー。

しかし、観ている間の重量感にも関らず、なぜか見終ってしまえばアッサリ何も残らず、というのはハテどういう事じゃろか(?_?)
面白かったけど、感心はせず。リドリー・スコットまたやってくれちゃいましたな……という所か。
でも、向こうののアフリカ系の若いモン(と一部の日本の若いモン)はフランクの事を「クール」だと憧れちゃうんでしょうなあ( -o-) sigh...

不満に思うのは、やっぱり二人とも結局は「いい人」に描かれていること。最近のハリウッド映画の弱点がまたもや出た~ッ。
『フレンチ・コネクション』(ロイ・シャイダーのご冥福をお祈りします(-人-))とか『ヒート』が引き合いに出されるが、善と悪の捉え方が全く違う。あと、近作では『エレクション』の礼儀正しい組長が似ているが、あちらみたいに「君子豹変してコワイよーん」というような面もない。

ラスト・クレジットの後に一瞬出てくる場面は??「復讐した」ってことか。意味不明である。
で、結論は「ファッション・センスのよい奥さんを貰いましょう」という教訓でよろしいかな、皆の衆。


主観点:6点
客観点:7点

【関連リンク】
《ツボヤキ日記★TSUBOYAKI DIARY》
映画の裏話が色々出てきます。問題の場面も……。

《元・副会長のCinema Days》
辛口評ですが、その分析には納得です。

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2008年2月16日 (土)

バッハ・コレギウム・ジャパン第79回定期演奏会:殿のオーボエめでたく

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ライプツィヒ時代1726年のカンタータ1
会場:東京オペラシティ コンサートホール
2008年2月11日

キャロリン・サンプソン降板!--で、代役は「ロ短調ミサ」において聴衆をその二の腕の太さで圧倒したレイチェル・ニコルズであった。

さて、冒頭のオルガン演奏はブクステフーデ。どうもブクステフーデのオルガン曲って聴く度に「晦渋」という感じ。今回もそうだった。バッハのオルガン曲を聴いてそう感じた事はないんだけど。

さて今回の感想を一言で言えば、三宮氏大活躍!というところだろうか。いや、もちろんいつも活躍してますが(^^;、この日は特にそう感じたわけであります。

最初のBWV16では5曲目のテノールのアリア。トーシロの耳には歌の部分が非常に難しそうに聞こえるが、さらに加えてグワンと湾曲したオーボエ・ダ・カッチャの音が変……というより風変わりと言った方がいいか。パンフの解説には「暖かい音色を添える」と書いてあったが、とてもそういう風には聞こえなかったぞ。
G・テュルクがやや熱をこめて朗々と歌い回せば、それを受けて淡々と吹く三宮氏--てな感じで、思わずバッハの墓石叩いて「バッハ先生~、お休みのところ申し訳ありませんが、この曲のサウンドの意図はなんなんでしょうか?」(マイクを隙間から突っ込む)なんて質問したくなってしまった。

続いてBWV13にはリコーダーが参加。冒頭のアリアは「わたしのため息、わたしの涙は数え切れないほど」と始まるが、まさにリコーダーとオーボエ・ダ・カッチャが「ため息」と「涙」であり、その間をテュルク氏が息もたえだえに苦難と共に歌う(あ、別に彼の歌自体が息もたえだえな訳ではないですよ)といった風で、思わず聴いててチョビッと涙目になってしまった。
5曲目のバスのアリアは、オーボエはお休みだったが、リコーダー二本とヴァイオリン・ソロがユニゾンでずーっと演奏するという変わった形である。これまたやはり奇妙な音だ。これとP・コーイの劇的な歌が絡み、さらにオルガンとチェロの通奏低音が合間にゴッゴッと突っ込んでくる。
この不思議なな響きに思わずのめりこんでて聴いてしまったよ(^O^)

休憩はさんで、BWV32は一曲目のアリアでソプラノが甘美な音のオーボエの取り合わせで歌えば、三曲目のバスのアリアは鮮烈なヴァイオリンのソロが彩る、という対比。後半はソプラノとバスの二重唱で締めるという形だ。ニコルズは最初やや「濃厚」という印象だったが、段々気にならなくなった。
ついでに、問題の二の腕は今回は黒いジャケットを羽織って封印してましたな。(←どうでもいいことだが(;^_^A)

ラストのBWV72では冒頭のコーラスで、これまで控えぎみだった?合唱力がここに来てバクハツだ~ \(^o^)/ というぐらいに華やかにドドーンと来た。
続いてレチタティーヴォとアリアはロビン君の見せ場。この曲では若松+高田ペアのヴァイオリンと通奏低音が歌の背後で協奏曲みたいな演奏を繰り広げるという、これまた変則技だった。

というわけで、今回はどの曲も色々と感心&感動する場面があってよかった。久々に大満足感あり。
ある程度の水準をクリアしたグループ(他にも、クレマン・ジャヌカン・アンサンブルとかタブラトゥーラとか)というのは、その水準を維持するのは陰で大変であろうとは知ってても、もう何をやっても当然として驚かれなくなってしまうようなところがある。その先がまた茨の道か……。BCJもそういう面は大変だろうとお察しします。

聴衆の一人として、その点は注意しつつまた新たな年度も期待して聴いていきたい。来年度の定期の座席はこれまでとは左右反対にしてもらったんで、また違って聞こえるかも。楽しみよん。

【関連リンク】
「2/11 バッハ・コレギウム・ジャパン 第79回定期演奏会」
ブログ名も一新の(今度はアマデウスですか)常連「小一時間」さんの感想です。

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2008年2月12日 (火)

「テラビシアにかける橋」:母の寝入りしのち……

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監督:ガボア・クスポ
出演:ジョシュ・ハッチャーソン、アンナソフィア・ロブ
米国2007年

「眠られぬ母のため吾が誦(よ)む童話
        母の寝入りしのち王子死す」

とある小中学生向けの短歌の解説本を眺めていたら、上の岡井隆の歌が載っていた。これ自体は初めて目にしたわけではないが、「親孝行な感動的な歌である」という意味の解説文がくっついていてビックリしてしまった。ええええ~っ
んな訳ねえだろう(`´メ)
一体、こんな事で日本の国語教育はどうなるのであろうか。あたしゃ、心配だよっ。

まあ、それはともかくこの不吉で空虚感と死の気配が何となく漂う短歌こそが、実はファンタジーの本質を言い表しているのではないかと思っている。
つまり「王子死す」の部分がファンタジーなのではない。「母の寝入りし」という現実と「王子死す」という物語のはざまにある深く暗い断裂、そこに存在する目に見えぬものこそがまさにファンタジーなのだ。
この『テラビシアにかける橋』はそれを見事に表現している。

話の骨格や妖精の一部の造形が『パンズ・ラビリンス』に似ているが、あちらの映画製作のタイム・スケールを考えると真似したとは考えにくいだろう。元ネタが幾つか同じなのか、それとも偶然か。

それと、観てて途中でやっぱり泣いちまったですよ。(^^ゞハズカシイ
でも『パンズ~』みたいに号泣というわけではない。
そんな泣かすな!バカ~ッ (TOT)
というぐらいなもん。

原作はキャサリン・パターソンの児童文学(というかYA文学か)である。私は今を去ること**年前に彼女の小説を一つ読んだ覚えがあるのだが、何を読んだのか全く覚えていない(^=^; この作品も知らなかった。(原著は1977年、日本では1981年出版)

主人公は周囲から孤立している少年である。母親は四人の姉妹の世話や生計で手一杯だし、父親は何かと無神経な言動を繰り返す。学校ではいじめっ子に取り囲まれ、口うるさい教師はいるし、通学バスにはコワイ上級生のスケ番が睨みをきかしている。
誰も彼の事を気にかけず、本質的に構う人間はいないのだ。
唯一の楽しみは絵を描くことと走ることだけだ。

このような閉塞的な日常(しかも舞台は保守的な中西部の田舎町という設定)が、古臭くなく現代的な感覚で描かれているのがいい。

と、そこへ転向してきたのは都会から来た美少女。別にトーストを口にくわえて通りの角でぶつかったわけではないが、外見に反して風変わりでドジな面をあっという間にさらけ出してクラスの中で浮いてしまう。
半端者同士のこの二人が仲良くなって森の中に幻想の王国を作り上げる。徐々に現実とリンクしていくように、他者からみれば突拍子もない空想に入り込んでいく過程の描写も丁寧に積み重ねられている。

毎日毎日、学校が終わった後は架空の城に住み架空の怪物と戦う。これは永遠に続くはず--しかし突如、王国は崩壊する。

これは現実の側に足場を常に置きながら、ファンタジーの王国の創世、栄華、滅亡そして再生を描いた物語である。もちろん、最後は「王の帰還」だ。そう、常に王は帰還すると決まっている。当然のことだ。
『パンズ~』ではやはり現実か空想かということが最後まで気になったが、こちらでは「ええい、現実だろうが空想だろうが関係ねえ~」という感じであった。さらに現実の世界も新たな面を見せたというのも嬉しかった。ラストでは主人公が明らかに成長した姿を見て「まあ、すっかりお兄ちゃんらしくなって……親御さんもお喜びでしょう(そっと涙をぬぐう)」みたいな気分になってしまったよ )^o^(

加えて、二つの作品の主人公の悲劇度を比べるとこちらは大した事ないという意見を見かけたがこれは同意しかねる。
いじめ、孤独、貧困、家族との不和、自責、死……いつでもどこでも子どもの世界は大変なんだよ( -o-) sigh...

なお『パンズ~』は完全大人モード作品であるが、こっちはあくまでもYA文学モードなのでそこんとこ誤解なきよう。


美少女レスリー役の子は目玉が大きくてすごく印象的な顔だち。溌剌かつ飄々とした感じが役柄とよく合っている。『チャーリーとチョコレート工場』に出ていたというのだが、完全に忘れてた。彼女のファッションもステキ。もっともスレンダーじゃないと似合わなそうだが。
子役ももちろんだが、周りの大人たちの役者も好演だった。

バックにたまに今風のロックが流れるのもよかったが、一番印象的だったのは音楽の先生が授業で歌わせる懐かしの名曲の数々だ(1970年ヒットの「ウー・チャイルド」とか)。これが何かと心にしみ入る感じなんだよねー。過去の名曲使うんなら、これぐらいの使い方をして欲しい。
「ウー・チャイルド」は愛聴していたニーナ・シモン版をまた聴きたくなって、家へ帰ってからテープの山を引っ掻き回して探してしまったよ。

私がこの映画を初めて知ったのは、米国公開時にWOWOWの番組で紹介していたのを見た時である。その時はよりによってリスの怪物と闘う場面をやっていて、なんかまた柳の下の何匹目だかのつまらなそうなファンタジーやってんのか(しかもいささか安っぽい)、と思ってそれ以後頭の中から完全排除してしまった。トホホである。(もっとも、肝心な所をネタバレされるよりはいいかも知れんが)
みな同じように考えたのか--私が観た時は(シネコンで夜の回)客が五人しかいなかった。(-o-;)

余談だが、あの巨人はスケ番に似せてあるのだというのは、観ている間は気づかなかった。後から言われてようやく分かった(その示す意味も)。
それから、弔問に行く時に鍋を持って行ったのがとても気になった。中身は何なのか? そういうのがあちらの風習なんだろか。
そのうち原作を読んでみよう。

「テラビシア」というのは「ナルニア」から取った名前らしいのだが、予告で「ナルニア」の第二弾をやっていた。あの末の妹(そう、あの「幼女誘拐未遂」の子ですよ)がすっかり大きくなっていて、またビックリ。


主観点:8点
客観点:7点(「大人」モードの人にはすすめんよ)

【関連リンク】
《JoJo気分で映画三昧!+α》
「もし本作をファンタジーとしてとらえるならば、限りなく地味な作品として目に映るでしょう。」今回も激しく同感です。

《Andre's Review》
原作との違いが分かります。

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2008年2月11日 (月)

THE・ガジラ「新・雨月物語」:意味不明のまま終了

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脚本・構成・演出:鐘下辰男
会場:世田谷パブリックシアター
2008年1月25~2月3日

「雨月物語」と言っても上田秋成ではなく、溝口健二の映画版の方を元にした芝居だとのこと。

冒頭、完全な沈黙の中で侍が出現。山奥深い山の民の元を訪れた侍が、男の焼いた器を献上しろと迫るが逆に殺される。
そこから、男の過去へと戻っていくというストーリーだが、役者も演出も装置も文句はない。よく出来ている。

しかし、どうもそれとは別の「理屈」の部分がどうにもよくワカラン。
日本の表舞台から追い払われた一族が千年以上にも渡り、山の奥に潜んできた。そして、時の太閤秀吉から山狩りにあい、もうビンボーな山の暮らしはイヤだと逃れようとする主人公が出会う。
--のはいいんだけど、というのは幻だった、というのは幻だった、というのは幻だった、と続いて行って結局何がなんだったのか理解できなかったのは私だけか?
秀吉の山狩りと山神がイヤで逃げた主人公が結局、山神の掌の上から逃れられなかったというのなら、彼にとって真に抑圧的だったのは山神じゃなかったのか?
しかし、冒頭の場面を見ると彼はすっかり山の民の一員に戻っている。とすれば、彼は結局のところ山神の力に屈伏したのだろうか。
全くもって分からんよ。
「権力」とか「支配」とか持ち出すんだったら、そこんとこハッキリして欲しい。

若松武史はホントに××年ぶりぐらいに舞台で見た。北村有起哉はお腹にぜい肉な~し。(というどうでもいい所を見てしまう)
あと、ヒロインの(一人の)葛城が死ぬ場面が舞台の前方に立っている役者のために死角になって全く見えなかったよ(T_T) あれって、月雲との関係が明らかになる決定的瞬間なんだろうに。こちらとしては推測するしか他になかった。私と同じ角度の線上にいる客はみんな見えなかったと思う。何とかしてくれい。

久しぶりに芝居を見る度にガックリ来てしまうのはどーしたらいいんかね(?_?)

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2008年2月10日 (日)

2007年度日本インターネット映画大賞決定

私も投票させてもらった「日本インターネット映画大賞」の結果が発表された。
スタッフの方々ご苦労様です こちらのオフィシャル・サイトからご覧下せえ。

やはり『パンズ・ラビリンス』強し!でしたなあ。『善き人~』がもっと上に来るかと思ったが。『ガイサンシー』は仕方ないとしても『ユゴ』は私一人しか投票してないよ、トホホ(x_x)

なお、今回もまた2ちゃんねるのランキングを参考までに貼っておこう。
なおこちらは国内外作品一緒である。

1位 (598点 45票) パンズ・ラビリンス
2位 (492点 37票) ブラッド・ダイヤモンド
3位 (486点 34票) 善き人のためのソナタ
4位 (478点 34票) ボーン・アルティメイタム
5位 (448点 37票) それでもボクはやってない
6位 (404点 28票) リトル・ミス・サンシャイン
7位 (383点 36票) ダイハード4.0
8位 (380点 29票) トランスフォーマー
9位 (374点 28票) 300 <スリーハンドレッド>
10位 (360点 24票) 世界最速のインディアン

ワースト
1位 (-109点 29票) 大日本人
2位 (-42点 14票) トランスフォーマー
3位 (-38点 10票) パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド
4位 (-37点 *9票) どろろ
5位 (-35点 *9票) 恋空

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2008年2月 9日 (土)

天才青年(だった)バルトルド・クイケン

バルトルドネタの続き。
こちらのコメント欄に書いた、バルトルドと有田正広の師弟関係についてである。

雑誌「アントレ」2008年1・2月号の冒頭に有田氏のインタヴューが掲載されていて、問題の部分をまとめると以下の通りになる。

*ベルギーに留学して最初ブリュッセルの王立音楽院に入学したが、トラヴェルソ科はなかったので、室内楽科に入った。
*トラヴェルソはバルトルドの家に通ってレッスンを受けた。
*バルトルドがデン・ハーグの王立音楽院でトラヴェルソ科を始める事になったので、その一期生になった。

しかし、生年から計算すると有田氏がデン・ハーグに行った1977年には確かにバルトルドは28歳だったのである。まさかアイドルみたいに生年をごまかしていることはないだろうし(^^;)
28歳で他人(といっても既に有田氏は留学前に日本の毎日音楽コンクールで優勝)にレッスンし、トラヴェルソ科を創設してしまうとは、当時相当な天才青年だったということになる。まあ、音楽一家で一番年下だったんだから若い頃から環境的には十分すぎるほどに恵まれていたとはいえだ。やっぱりスゴイんであ~る。

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←こちらは持っている中で一番若いクイケン兄弟+レオンハルトとコーネンの写真。(1974年録音の『音楽の捧げもの』のCDより)
【追記】写真を間違えたので差し替えました

他ブログでの先日のバッハ・コンサートの感想を読んでいると、トラヴェルソを知らなかった人が結構いたのが意外だった。中には、リコーダーを横にして吹いていたんでビックリ、なんて書いている人も……。
しかし、そういう人はモダン・フルートを想定してチケットを買ったんだろうか。そりゃ、行ってみてビックリだろう。外見的には同じ楽器とは思えないほど違っているんだからねえ。

なお、《blog・古民家レストラン紅い櫨の庵》より「バッハからのメッセージ」に、バルトルト&デメイエルのオフにくつろぐ写真あり。上の写真と比べると歴然とお腹が(^o^;

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2008年2月 5日 (火)

BCJ「ブランデンブルク」埼玉公演をゲットす

バッハ・コレギウム・ジャパンの「ブランデンブルク協奏曲」の彩の国さいたま芸術劇場のチケットをプレオーダーにてゲットした。まあ、埼玉じゃ一般発売でもどうせ大丈夫だったろうけどさ。
それにミューザ川崎でまたやるというのには、かな~り気をひかれたが、やはり川崎だと行くのに時間がかかるので埼玉を選んでしまった。こっちは狭さで勝負よ。
でも、座席が結構後ろだったのはガックリ。これだったら、ぴあの一般発売で座席選んで買った方がよかったかしらん。(+_+)

それにしても今回メンバー表を見て目を引いたのはなんと言っても、
寺神戸亮(ヴィオリーノ・ピッコロ/vn/ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ)/フランソワ・フェルナンデス(vn/va/ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ)/ディミトリー・バディアロフ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ)
である。

も、もしかして、この3人が並んでスパラを? \(^o^)/
ヾ(^^#)ゝヾ(^^#)ゝ ←嬉しさのあまり踊る図
ヘッヘッヘッ(^Q^)、こりゃステージかぶり付きでケータイ写真撮りまくり
……なんてことは私は絶対しませんよっ! もし、厚かましいチューネン女がそういう行為に及んでホールからつまみ出されたとしても、絶対に私ではありませんので予めお断りしておきます。 (←試しに絵文字使ってみた)

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2008年2月 3日 (日)

「バルトルド・クイケン バッハ・リサイタル」:頭から尻尾までトラヴェルソ

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フルートとチェンバロによるバッハの調べ
会場:ハクジュホール
2008年2月1日

舞台に現れたる二人の男。一人は定年間近ぐらいのくたびれたサラリーマン風。もう一人はその部下で、ただ今修業中といった若い男である。
が!その正体は横笛吹かせたら世界に並ぶ者なし!! バルトルド・クイケンと若手鍵盤奏者エーヴァルト・デメイエルなのであった。
となれば、ハクジュホールは満員御礼、乾燥した日本の冬も何のその、詰めかけた聴衆で熱気ムンムン--かと思ったら、全然違った。
なんと、空席が結構あったのだ。私の席は片方の横と前に人がいなかった。ま、見やすくてよかったけどさ。

一体なんたる事であろうか!ガッタ~ン(←ハクジュホールの椅子を蹴立てて立ち上がる音) 東京近辺のトラヴェルソ・ファンは例え親の葬式があっても参集するのではなかったのかっ。翌日の神戸公演は売り切れだというに、この現状は嘆かわしい限りである!
と、私は演説をぶちかましたかった所であるが、控えめな性格であるので断念したのよ。

プログラムはソナタ3曲に二人のソロをそれぞれ一曲ずつ挟み込むという形。B・クイケンのフルートは緩急強弱ありとあらゆる要素を自在に操り、最初から最後までフラウト・トラヴェルソの神髄がアンコになってぎっしり詰まっているタイ焼きを食したような気分であった。
個人的には「無伴奏」がよかった~ \(^o^)/

デメイエル氏はフランス組曲を端正に弾いていたが、ちょうど曲順的な事もあるせいか眠気虫に食いつかれていた人が結構いた(^^;) 今回は私は大丈夫だったが、以前休日の昼間のコンサートでこの曲で爆睡してしまったことが……(-o-;) ここだけの秘密であるので口外しないように。

クイケン兄弟の公演では毎度のことだが、パンフレットの類いはなくて今回はなんとペラ紙一枚。いかにもな感じだった。
それにしても、来月はヴィーラントの公演があるし、その次はラ・プティット・バンドも来るし、福岡じゃ三兄弟揃ってやるというし、とっかえひっかえ出没であるなあ。ま、「一年いつでもクイケン状態」はファンにとっては嬉しい限りである。

近くに前田りり子そっくりの女性が座っていたので「本人か、それともよく似た親戚かなんかかな?」と考えていたら、「先生」とか呼ばれていたんでやはりご本人であった。


開始前にド○ールでベーコンと卵のベーグルサンドというのを注文してみたら、卵が伊達巻級に甘くてマイッタ(@_@)
帰りに新宿で乗り換える時にタワレコに寄るも、お目当てのディスクは発見できず。
そういう意味ではついていない日だった。

【関連リンク】
《チェンバロ漫遊日記》より「ベルギーの俊英来たる!」「フルートの至宝!」

《東風笛通信》
笛を吹いている方の詳しい感想。

【追加】
《やーぼーの聴楽雑誌》
西宮のコンサートに行った方の感想。完売にも関らずいくつか空席があったとか。

《riebe日記♪》
文中に記載がないですが、3日の加古川でのコンサートのようです。「開場前から凄いお客さんで~」にはムムム(=_=;) やはり東京公演の入りは、あんまりだー。

しかし、1・2・3日と連チャンでやってさらに5日にも久米川で……。大丈夫じゃろか?

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2008年2月 1日 (金)

「ヴェルサイユの祝祭 5 華麗なる宮廷舞踏」:思わずウットリ

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リュリからモーツァルトへ
出演:浜中康子、T・ベアード、P・ウィットリー・ボーゲス他
会場:杉並公会堂大ホール
2008年1月27日

第4回の感想はこちら

バロックダンスを見せるプロジェクトのシリーズ、今回は前半がヴェルサイユ宮廷で貴族たちが踊った舞踏会用のダンス、後半は専門家が踊った劇場用ダンスである。
やはり今度も、アナウンサーの朝倉聡が当時の装いで登場して、宮廷内をご案内。リコーダーをちょこっと吹いたりもした。
演奏は若松&高田ペアなどBCJでもお馴染みのメンツに、チェンバロ(&ハーディ・ガーディ)は上尾直毅、ガンバは平尾雅子(髪型変えた?)、バロック・トランペットはバリー・ボーゲスという人(ダンサーのボーゲス女史のだんなさんか?)だった。

最初は定番、ルイ14世がリュリの曲で太陽神に扮して踊った「アポロンのアントレ」で開始。マレなど曲も入って、当時の貴族たちの舞踏を再現。その後は時代を下ってモーツァルトの曲へ。ここで、現代の社交ダンスの原型が登場する。それは貴族中心の身分社会の崩壊の予兆だったという。

途中で、池田理代子が登場して、マリー・アントワネットが作った曲を歌った。自作に登場するアントワネットの衣装をそのまま再現したという目立つピンクのドレスで、かなりのド迫力である。ただ、その歌唱自体はビブラートを多用していて、古楽ばっかり聴いている私にはあまり馴染みのないスタイルだった。

後半は、全曲リュリで様々なダンスを見せてくれた。「9人のダンサーのバレエ」はその名の通り9人で踊る大がかりなもの。ダンサーにバレエ畑の人も入っていて非常に見事である。
だが、一番よかったのはオペラ『アルミード』の一場面を再現したものだった。魔女が自分の魔法の通じない唯一の男である兵士を、妖精に命じて誘惑させるという筋書きである。普通「誘惑」するなんつーと、ケバいおねーさんでも出てきそうだが、そんな事は全然なくてまるでロココ調の絵画をそのまま現実にしたような典雅極まりない雰囲気だった。
この部分だけテノールの歌も入って、もう何というかホヤ~ッとした夢幻の境地に誘われた気分であった。( ̄ー ̄)
あー、このままでオペラ全曲見られたらなあと思ってしまった。モダンダンスなどを取り入れた現代風の演出もいいが、こういう古式豊かな(?)復元スタイルもエエもんですなあ。

若松さんのヴァイオリンも絶好調。ストレートで力強く、それでいて艶がある音だった。おフランス風である。これもまたウットリ。
しかも、指揮者がいなくてこれだけやってしまうのもスゴイ!と感心したのであった。

イタリア風の道化の喜劇や『町人貴族』の一場面も見せてもらって、色々と盛りだくさんで嬉しい企画だった。また次回も必ず行くぞと決意するのであった。

ところで会場は大半--8割ぐらいは女性で埋まっていた。ダンス関係の客かと思ったが、よくよく考えたら池田理代子のファンがかなり来ていたのかも知れない。
杉並公会堂は初めて来たが、まだ作られて二年経っていないらしい。ピカピカの新品で立派なホールだ。ロビーが狭くて、終演後に客が渋滞してしまうのが難であろう。

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