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2008年3月

2008年3月31日 (月)

「アメリカを売った男」:ベテラン二人に挟まれちゃ若いモンもキビシイのう

080331
監督:ビリー・レイ
出演:クリス・クーパー、ライアン・フィリップ
米国2007年

主人公は下っ端の若きFBI捜査官。いきなり上司に呼ばれてナンジャラホイ?と行けば、ベテラン捜査官ハンセンの秘書役になってその男の監視をしろと言われる。
出世のチャンス、ヤッタネと意気込んだ主人公であったが、どうも実際のハンセンを観察しているとなんだか話が違うような……(?_?;

その男が長年に渡りソ連&ロシアのスパイだったことは実話であり、実際のニュース映像によって冒頭から明らかにされてしまっている。しかも、それは2001年というまだ記憶に新しい時期だ。
よって、ストーリーの中心はいかにその正体が暴かれたのか、ということと、ハンセンという不可解な男の人物像を描くことである。

不在時を見計らって部屋を家捜ししたり、自家用車を分解するところはドキドキしちゃう。事はスパイ問題なんで主人公はヨメさん(美人)にも明かせず、夫婦仲も危機状態。おまけにハンセンはカトリック同士ということで色々と宗教関係から家庭の問題まで口を突っ込んでくるし、上司からは「しっかりせい」と尻を叩かれるし、困ったもんだ。

そもそも、スパイ物というのは辛気くさいものだが、この作品もやはり非常に辛気くさい。
主人公のウツウツたる悩みはもちろんだが、ハンセンという男という存在自体がどうにも辛気くさいのだった。
結局、最後までこの男の二面性は解明されない。そのヌエ的な人物をクリス・クーパーを巧みに演じている。もう、彼の独壇場と言ってもいいくらいだ。もっとも、オスカー俳優としてはこんなのお茶の子サイサイなのかも知れん。

一方、彼に敵愾心を燃やす主人公の上司役にローラ・リニー。こちらもオスカー候補の常連である。額の辺りに長年の恨みと疲労が蓄積されている様子がまたうまい。
このようにベテラン役者二人に挟まれては主人公役のライアン・フィリップ、ちょっと歩が悪い。物語の役どころ同様、今ひとつパッとしない印象なのであった。

かくして辛気くさいまま作品は終了するのであった--

監督(兼脚本も)は『ニュースの天才』の人だと後から知った。どうもこういう年輩のベテランと若造が対立する話が好きなようだ。

字幕が一部意味不明の所があった。主人公が夜にL・リニーの上司の自宅へ行った時に、洗濯物を片付けながら「猫も飼えずに……」とか喋るのだが、そこのセリフの繋がりがよく分からなかった。それともボーッとしてたからかしらん。

本筋とは関係なく、同じキリスト教でもプロテスタントとカトリックではかなり違う様子が分かったのは興味深かった。

先日、ケーブルTVで『マイアミ・バイス』を見てたら、C・クーパーがあっという間に殺されてしまう役で出演していてビックリ。しかもギャングの情婦役にはジュリア・ロバーツまでも! いやはや、皆さんこういう下積み時代を経験して、今の地位があるんですなあ。(*_*;


主観点:7点
客観点:6点(地味でも辛気くさくてもいいという方にはオススメ)


【関連リンク】
《HODGE’S PARROT》
やはり宗教的背景の理解が必須のようです。

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2008年3月30日 (日)

「ライラの冒険 黄金の羅針盤」:華麗なる総集編

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監督:クリス・ワイツ
出演:ダコタ・ブルー・リチャーズ、ニコール・キッドマン
アメリカ2007年

原作の三部作は刊行当時、リアルタイムで読んでいた。それがある意味、祟ったわけだが……。

適材適所、というかキャスティングは全くピッタリ。ニコール・キッドマンのコールター夫人は超はまり役、出番は少ないけどダニエル・クレイグのアスリエル卿も良し、サム・エリオットのリー・スコーズビーは一番カッコエかった。魔女のセラフィナ役のエヴァ・グリーンもピッタシはまっていた。
それから驚異の子役、ヒロインのライラ役ダコタちゃん。末恐ろしい新人--と言いたいところだが、子役は成長してから後が大変だからねえ ま、余計なお世話ですが。

さて、こうしたキャスティングでいかにも期待は高まった訳だが、実際見てみるとやはりあの分厚い長編をまとめるのは無理だったのか。どう見ても「総集編」としか思えなかった。
色んなキャラクターが次々登場するストーリーはCG全盛時代に向いているかと思ったんだけど、これだけたくさん出てくるともう各キャラクターが現れたかと思うともう次の場面へ転換 みたいな感じで、すぐに消えてしまうのであった。

おまけに、結末はこんなだったかなーと首をひねっていたら、やっぱり原作よりも前の所で終わりにしたらしい。
見せ場の終盤の戦いが、画面暗くてよく分からないのは何故? 年齢制限に引っかかるからハッキリ見せたくなかったからとか(?_?;

という訳で、全体としては様々なキャラクターが現れては消えて忙しくカシャカシャと展開する、まるで総集編のようだった。しかも「次回に続く」みたいに終わったんじゃどうしようもない。(米国などでの興収はあまり良くなかったのとのことで、ホントに続編ができるか不明)


さて、原作についてだが、第1部は面白く読んだ。しかし続きの2部・3部の展開がどうも気に入らなくて結局好きにはなれなかった。おまけに、刊行の間隔が長くって、次の巻が出た頃には前の話を忘れてしまったりとか(^^ゞ
それと、キリスト教の教義の根幹に関わる問題が後で出てくるのだが、信者ではない私にはどうにも難しくて理解しにくいものであった。

映画のライラについて「好きになれない」という感想をいくつか見かけたが、原作のライラなんてもっとイヤな娘っ子だぜい

さて、果たして続編は作られるのか。ストーリーよりそっちの方がドキドキするぞ。


主観点:6点
客観点:6点

【関連リンク】
《有閑マダムは何を観ているのか?》
この映画の欠点について的確な指摘あり。教会の抗議運動についてもふれられています。
うーむ、第1部はあまり大したことないんですよねえ。むしろ、後で明らかになるヒロインの「正体」こそが大問題となるわけで。ただ、作者が現実の教会を虚構に仮託して批判しているのは確かでしょう。

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迂闊であった

《allcinema》より、ニュース欄に「諸星大二郎原作不条理コメディ「栞と紙魚子の怪奇事件簿」のDVD発売が決定。」とあるじゃにゃあですか(!o!)

え~~っ全然知らんかった。こんなのやってたんですか。

段一知の奥さんはどうしたんだろ。声だけで登場かしらん。
それにしても肝心のヒロイン二人がどう見てもフツーの女子高生に見えるが、私の視力が落ちたせいかな(^^?
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←こちらは原作。リンク先のパッケージ写真とお比べ下せえ。

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2008年3月29日 (土)

「死刑」:死刑に惑う

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著者:森達也
朝日出版社2008年

身近に死刑になった奴、あるいはなりそうな奴はいない。
逆に、重犯罪の被害者もいない。
もちろん実際に死刑を見たことはないし、自分が将来なるとも思っていない--。

かように何も知らない状態で論議が出来るのか?ということで、死刑に関る様々な人に会って話を聞いたルポルタージュである。
その期間は数年に渡り、著者は廃止論者側だが、その間に意見が変わってもいいやと思いつつインタビューしていく。その中にはテレビなどによく登場する人もいるが、全然そのイメージが違うのに驚く。やはりワイドショーなんかではなんにも分からないと思った。
全体の印象はヨタヨタとためらいつつインタビューしていく、という感じ。とても、死刑問題をスパッと斬るというものではない。
その迷いは多くの読者の迷いでもあろう。(「いや、オレは迷ってないよ」という人もいるかも知れんが)

論議は既に尽くされていると著者は言う。もはや情緒の問題であると。
確かに、死刑存置国の中に日本、中国、韓国、北朝鮮が入ってるのを見ると、これは東アジア的感性に関る問題なのかとも思う。
論理でダメだから、情緒によって著者は結論に至る。それは納得行くものだけど、だからといって、論理で意見を変えなかった者がこの本を読んで意見を変えるとは思えないなあ。
とはいえ、今まで知らなかった死刑のことを知るには適書だろう。


以下は個人的に思ったこと。
死刑問題に関して必ず浮上するのは被害者遺族の感情という問題である。遺族のためにも死刑を--というのは分かるが、そうすると別の問題が出てくる。
早い話、じゃあ「遺族」のいない人間--たとえば、身寄りのない高齢のホームレスなんかが殺されたらどうなるのか。誰も「死刑を望む」と叫ぶ人はいないんだから、罪は軽くなるのか。とすれば身寄りのない人間は殺し得か。さらには、一人の人間の生命の価値は家族がいるかいないかで変わるのか。
また、しばらく前に起こった兄が妹を殺害した事件のように、被害者・加害者双方ともに家族である親が減刑を願ったらどうなのだろうか。その場合も、被害者の生命の価値は変わるのだろうか。

しかし、これを別の点からとらえ直してみよう。生命の価値が異なる、と見なすのではなくて、遺族に対する「迷惑料」……というのはあまりにナンだから、「苦痛料」としよう。
家族が100人(あくまでも数字上の仮定ですよ)いる者と家族が10人いる者の場合、後者よりも前者が被害にあった時の方がそれだけ多くの人びとに犯人は苦痛を与えているのだから、罰が重くなっても当然と考えるのである。こうなれば遺族の心情が量刑に関ってくるのは仕方ない。

だが、そもそも「苦痛」とは量的に測ることのできないものである。そんな不確定なものを法律に適用できるのだろうか。
それとも、もはや死刑とは法律の埒外なのだろうか。

そしてさらに考えてみると、一般の無関係な人々にとっては、いつか加害者同様に被害者もまた「苦痛を与える者」に転化してしまう可能性がある。この場合、「苦痛」というよりは「ケガレ」と言った方がいいかも知れない……。
すなわち清潔で公正で健全な社会に対し、違和感を与える瑕疵的な存在である。加害者は死刑によって消滅するが被害者の方は当然そうではない。
近ごろの被害者叩きの風潮を見ていると、そんな風にも感じてしまう。

……などと、グチャグチャどうでもいいことを考えてしまう間に、死刑は今日もまた粛々と執行されている--かも知れない。

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2008年3月27日 (木)

「未成年」と「被害者」を適当に利用する人びと

《セキュリティホール memo》より、沖縄・米兵による暴行事件関連の記事。

ひどい話である。未成年者(しかも事件の被害者)一人に対し、大人が寄ってたかってそこまでするか!という印象。
「児童ポルノ禁止法改正(改悪)問題」で、被害者が実在しないアニメ・漫画・ゲームも「準児童ポルノ」とみなす件について問題になっている(関連記事)が、一方で実在する未成年の被害者に対してこのような人権侵害が平然と行われ、しかもそれが「公器」(死語)たる新聞が片棒担いでいるというのはどういうことよ。

多分、現実の被害者のことなんかどうでもいいんでしょうかねえ……。

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2008年3月24日 (月)

演奏家もつらいよ

えー、あまり大々的に紹介すると先方のブログ主にご迷惑かと思うので、直リンはしません。
見たい人だけ、静かに静かに(~_~;)ご覧ください。

ttp://yaplog.jp/ooguma/archive/302
ttp://yaplog.jp/ooguma/archive/303

同じ時期に重なってしまうと大変なんですなー。
それにしても、指揮者って……「忘れる」もんなんですか? だって楽譜見てるじゃないの
トーシロにはよく分からぬ世界であります。

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2008年3月23日 (日)

「マタイ受難曲」:文化果つる地でも奇跡はあり

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演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン
会場:彩の国さいたま芸術劇場
2008年3月20日

少し前に海外のグループの『ヨハネ』公演を二つ続けて聞いた(感想はここここね)わけだが、今度はBCJ『マタイ』である。
彼らの『マタイ』というと私にとって前回は2年前で、初期稿なんで今回と違う部分もあるけどえらく感動したのであった。

今回のエヴァンゲリストはヤン・コボウ--俳優のヒュー・グラントをオキシフルで消毒したような超二枚目ではある。が、なぜかまたも「劇的」であった。
マーク・パドモアの場合とはまた違った感じで、なんか前につんのめるような印象。実際、かなりエヴァンゲリストのパートはテンポが早かったのではないかな(特に後半)。確か彼は以前BCJとは『ヨハネ』をやったと記憶しているが、こんな感じだったかねえ?(よく覚えていない)
最近のトレンドは「エヴァンゲリストが劇的」なのか。

ソプラノ・ソリストのハナ・ブラシコヴァは外見はちょっとコワそうな美女。しかし、声は申し分なく美しい……のだが、あまりに美し過ぎてツルツルして引っかかる所なく耳を通り過ぎてしまいそうなのが難点。
カウンターテナーのダミアン・ギヨンは、声質はロビン君と同傾向だがあれほど「汁っぽさ」はなくてより硬質な感じだ。
で、二人の二重唱となる第27曲は結果、ストレートな混ぜもの無しの純度の高い美しさとなった。

第二グループのテノール・ソロのパク・スンヒは以前目白バ・ロック音楽祭の公演で聴いたことがあるが、やっぱりその時と同じく少し線が弱い印象だった。

イエス役のバス、マルクス・フライスはドヨーンとした重さでなくて、明晰なタイプの声がよかった。ソロのアリア第57曲の「甘き十字架」は福沢宏のガンバがいかにも「十字架」で峻烈ではあるけど同時に「甘い」イメージで、ウットリと聞いてしまった。

同じくバスでフライスより拍手喝采を受けていたのが、ドミニク・ヴェルナーだった。他の歌手より声量があって押し出しが強い。てっきり、オランダ・バッハ協会の来日公演でのヴォルフ・マティアス・フリードリヒみたいになるかと心配しちゃったが、終盤の第65曲のバス・アリアが非常に素晴らしかった。悲しみと喜びが微妙に混ざり合ったこの曲をうまく表現していた。楽器の方もノリのよいリズムを強調した演奏だったせいもあるだろう。
今まで、何回か聴いた『マタイ』で今回ほどこの曲に感動したことはない、と断言しちゃおう。

座ってた席はちょうどセンターだったんで、二組の合唱がちょうどステレオ効果満点で聞こえてきてヨカッタ。やはり大迫力があって均整の取れた美しさをヒシと感じたぞ。満足であ~る。

それからフライング拍手が全くなかったのは奇跡的(「速報」で「ブラボー」と書いちゃったのは間違い)であった。鈴木(兄)氏が手を下ろしてさらに小さく頷くまで拍手ナシ! さらに演奏中もちょうどいい所でデカい咳したり(オランダ・バッハ協会の放映ではM・ホワイトが歌って盛り上がった最中の咳が見事に収録されていた)、チラシの束落としたりという奴もいなかった。
文化果つる地のダ埼玉としては信じがたい奇跡としか言いようがない

ただ、どうも聞き手の方の私が、大抵休日の昼間のコンサートだとテンションが下がっちゃって、集中力が切れてしまうことが多いのだが、この日もそんな感じだった。アドレナリンとかの関係かしらん? かと言って、平日のオペラシティ公演で初台駅のホームや階段をダッシュするのも、キビシイしなあ……。
三時間半、座ってただけなのに終わった後はグッタリ疲れて、帰りは寄り道もせず良い子になって直ぐに帰宅した。

一つ疑問だったのは、ヤン・コボウが立って歌い出しを待っている時に、極端に左向いたり右向いたりしてたこと。なぜだ(?_?;
推測できる唯一の理由は--ちょうど目の前の鈴木(兄)氏の指揮中の顔をモロに直視したくなかったからか そんなにコワい顔なのか? もっと舞台が広いオペラシティではどうだったんざんしょ。


ところで、今回の座席はイープラスのプレオーダーで買って、申し分のない位置だったのだが、次の同じ会場での「ブランデンブルク」公演は全く同じにプレオーダーだったのにも関らず、後ろから3列めというあんまりな席なのが判明した!
余計に料金取られてこんなスカな位置じゃ、全然ワリに合わん。
あんまりだ~ω(T_T)ωワナワナ

【関連リンク】
なぜか今回はヤフーのブログ検索でほとんどヒットしなくて、色んなサーチエンジンを使って検索しなければならなかった。
《ぶらあび》
「劇的」という印象。

《あわてず急がず》
オペラシティの公演の感想。ソリストの画像付き詳しい紹介あり。

《オペラの夜》
大阪公演の感想。

《アマデウス☆小一時間BLOG::SYMPHONY No.42》
常連「小一時間」さんの感想。「山本氏のくしゃみ」とは? 花粉病でしょうか。演奏家はマスクしてステージ上がるわけにも行かず、ご苦労さんです。

《Abebe》
「あまりにもうさんくさい風貌をしているので」に爆笑した。確かに、外見だけ見れば怪しい教祖ファミリーに思えなくもない(^-^;(失礼!)

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2008年3月22日 (土)

「裏切りの闇で眠れ」:電動ドリルと前歯がコワイ

080322
監督:フレデリック・シェンデルフェール
出演:ブノワ・マジメル、フィリップ・コーベール
フランス2006年

正直に言おう。
いや~、詰まんない映画だった! \(^o^)/

あ、顔文字間違えちゃったよ。正しいのはこっち→ (*`ε´*)ノ☆

ノワールものだっつんで見に行ったんだけど、なんだかストーリー展開がモタモタしていて、描写もダラダラしているし、何を描きたいんだかさっぱり分からず。
久々に観ている間から退屈を感じてしまった。107分だから、今の長尺流行りの中では長くないはずなのに、途中で「まだ続くんかなー」なんて思ってしまったのであった。

中心人物は二人。一人は裏社会でどこの組織にも属さず親友と共に稼業を続ける男フランク。もう一人はマフィアのボスのクロード。
このボスは、身内の不始末やら提携関係にある(?)グループの仲間と関係やら、上納金を払わない店の対処やら、愛人の愚痴やら様々な雑事が大変--てところはTVの「ソプラノズ」みたい(あんな笑えるわけではないが)。マフィアのボスもつらいよ、である。
で、こいつが「おれは人を見る目がある」なんて有能なフランクを気に入っちゃって、仲間にしようと誘うわけだが、最後にこのボスは人を見る目がなかったことがハッキリする--ってのが、話のメインというわけでもない。なんなんだ(^^?

で、ボスの不在時に手下共が仲間割れして不条理な殺し合いに突入するのだが、その間にフランクは日和見主義で状況を窺う。--というか、彼はいてもいなくてもストーリー上はほとんど関係ないような役柄なのだった。(他のネット上の感想でも同意見をいくつか見かけた)

なんだか全体的にスケールが小さい印象で、仲間うちの抗争もまるで6畳ぐらいの部屋の中でやってる感じだ。殺し合い自体はまさしく「仁義なき戦い」なんだけどさ。
監督はマイケル・マンのファンでもあるらしいが、確かに駐車場での撃ち合いは『ヒート』を思い出させるが、結局のところ先達の監督たちの偉大さを再認識するだけの結果となった。
やはり、今後のノワールものは香港に期待するしかないか。

ボスのクロードは少しジャック・ニコルソンに似ている。ハリウッドでリメイクするならピッタリでしょうな。となると、フランクはマット・デイモンかディカプリオあたりですか(^^;
ベアトリス・ダルはスクリーン上で初めて見たが(多分)、あの前歯でずっと女優業やってきたのか? スゴイなあ……

残酷な場面多し(R-18はそのためか)なので、『スウィーニー・トッド』の血しぶきぐらいでキャーとか言ってる女子には向かないだろう。ブノワ・マジメルのファン以外にはお薦めしない。そのせいか、観客は男ばっか。あとはカップルが少しぐらい。
電動ドリルが出てきた時に、てっきり私は男の一番大切な所を直撃するのかとドキドキしたが、さすがにそうでなくてホッとした。しかしその直後に○玉えぐり出し場面(←この書き方だと誤解されるか?)が来て、オヨヨであった。

唯一の成果は、欧州統合によって国境の壁も消え、ヤク、武器と並んで「女」がまさに換金可能な「ブツ」として裏社会を流通しているというのが分かったことだった。旧東欧諸国や紛争地帯からいくらでも流れ込んでくるんだねえ。
世も末であるよ( -o-) sigh...


主観点:4点
客観点:4点

【関連リンク】
《ドラゴン藤井の馬耳映風》
似顔絵が笑える。

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2008年3月21日 (金)

「バンテージ・ポイント」:ここで問題です。シークレット・サービスとテロリスト、凶暴なのはどっちでしょう。

080321
監督:ピート・トラヴィス
出演:デニス・クエイド
米国2008年

スペインでの国際会議に出席中に米国大統領暗殺! こりゃ大変だ~
で、予告やチラシの「目撃者は8人。8つの異なる視点から見たものはくい違う」なんて宣伝文句からすると、8人の証言を突き合わせると意外なる真犯人が出現--なんて社会派サスペンスかと思ったんだけどね……。

全然違った(+_+)

登場人物みんな立場や目撃場所が違うんだから、見ているものも違って当然。それをいちいち同時刻から巻き戻してそれぞれの話を繰り返していく。で、それがまたTVの『24』の手法を真似たみたいなのだ。
最初はシークレット・サービスや観光客の立場から見ているからこそワケ分かんないけど、犯人側の立場から描写すれば真相が明らかになるのは当然。以前、日本映画の『運命じゃない人』という作品では、人物の視点が変わったらあっと驚く新事実が出てきてビックリ(!o!)状態になったんだけど、こちらでは全くそんなことなし。
しかも、TVディレクター役のシガニー・ウィーバーなんて出演時間が予告と大して変わらないで消えちゃう。これを詐欺と言わずしてなんと言おう。

で、一通り「巻き戻し」が終わったら後半はヤケクソとしか言えないようなカーチェイスに突入するのであった。

結局、スペインの私服刑事は単に利用されただけだったのか?よくわからん。
「意外な犯人」がどうしてそんなことしたのか全く背景説明なし。これまたよくわからん。

それにしても、W・ハートの大統領は他国との融和協調路線を口にしていながら、米国のシークレット・サービスはスペインの市街で発砲、傷害・殺人、車の強奪&暴走運転……とやりたい放題。これだから嫌われるんだって(~_~;)

というわけで、『エリザベス』に続くスペイン国辱映画となった。立て!スペイン国民よ、応援するぜ


主観点:5点
客観点:6点(『24』のファンにはオススメする)

【関連リンク】
《映画と出会う・世界が変わる》
「長い予告編」というのは正にその通り。心の中でモヤモヤと感じていたことをよくぞ言葉にしてくれました。最近のアクション物はみんなそんな感じだよねえ(x_x)

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2008年3月20日 (木)

バッハ・コレギウム・ジャパン「マタイ受難曲」(埼玉)速報

*直前まで「ヨハネ」だと思い込んでいたのはヒミツである。
*今期は、エヴァンゲリストが「劇的」というのが流行か。
*バス・アリア最終65曲目がよかった!
*フライング・ ブラボー が全くなかったのは奇跡的。明日のオペラシティはどうなるかな~。(←すいません(^^;これ「フライング拍手」って書こうとして間違えちゃった。やはり興奮してたのかしらん。「ブラボー」は最後のカーテンコールの時に控えめにありました)
*後日、ちゃんとした感想を書きます。

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「新世界より」(上)(下):恐怖と郷愁

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著者:貴志祐介
講談社2008年

舞台は一千年後の日本、関東の一地方にあるコロニーである。上巻では中心となる人物たちが小学生から中学生になるぐらいの間の出来事が描かれる。
住人は全員、呪力なるもの(超能力)を持っている。コロニーの周囲には注連縄がめぐらされて結界が張られ、子どもは外に出られない。外には恐ろしい怪物や未知の生物がいるらしい。

基本的にコロニーは、現在の感覚でいうと少し古めかしい田舎の旧弊な共同体みたいな印象だ。読者の多くはやや郷愁を覚えるだろう(昭和三十年代風?)。
ただ、そこには奇妙な言い伝えやタブーが幾つもあって、学校の中庭にはなにか恐ろしいモノがありそうだし、子どもが急にいなくなってしまったりするのは都市伝説や「学校の階段」ぽい。学校で呪力の勉強をするのは「ハリポタ」なんかの魔法学校を思い起こさせる。外界の異様な生態系は「ナウシカ」のようでもある。
過去での超能力者の国家の盛衰が語られる部分は、まるで中国王朝史だ。

下巻に入ると、ヒロインをはじめ主要人物は大人になっていって、より世界は明確になりSF風になる。特に変わり果てた東京の光景は迫力に思わず口アングリ状態である。

千年後の世界の実相は、仲間うちでは友愛を唱えながら、少しでも異分子的な兆候を見せた者は容赦なく消してしまう。そして、人間以外の生物は滅亡させるも生き長らえさせるも思いのまま。これまた容赦ない。徹底した管理社会である。
そしてケガレを外部の世界に押し流し、自らの世界は清浄に保つ。真実をねじ曲げ歴史を作り上げる……。

形式としてはホラー、ファンタジー、SF(あるいはゲーム小説的な部分も)などの体裁を取っているが、顧みればこれらは遠い世界の話ではなく、全て過去にあった、そして現在も存在する事象ではないか。
そういう意味では単にエンタテインメントではなく極めて毒を持った風刺的作品だといえるだろう。

つまり、自らの国家や共同体を維持し守るために、都合良いように歴史を書き換え事実として強制する。同胞でも異を唱えるものは弾圧し、他の民族や人種を人間以下の家畜やあるいは単なるモノとして扱い差別する。虐殺も平然と行う。
その背後に、報復としての外部の反抗(テロ)と内部からの崩壊への恐怖が絶えず潜んでいる。
--まさしくこれらは実際に今も世界のいずこかで起こっていることだ。そう思うと、何やら冷汗が流れてくるのであった。

一応、前向きなエンディングだけど読後感は非常に悪い。人がやたらと死ぬのと、この世界の実相をあからさまに描いているせいだろうか。
特にドボルザークの「家路」はもう正気では聞けない気がする。

コロニーや外界の描写は詳細で実に力が入っている。これほどに描くのは相当な苦労があっただろうと思えるほど。スカな部分はどこもない。
ただ、個人的には今イチこの作者は文体に引きつけられるところがないんで、大絶賛というわけにはいかないのが残念である。

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2008年3月19日 (水)

「ワニの涙」:唯一の成果は

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〈神なき国の夜〉3
作・演出:川村毅
出演:手塚とおる、根岸季衣
会場:シアタートラム
2008年3月6日~16日

三部作の最終作--なんだが、実は私は最初の『クリオネ』を見たきりで二作目の『フクロウの賭け』は見に行かなかった。

で、今回は辛辣なコメントが売りの盲目の深夜ラジオのDJが手塚とおる……って、なんかいつか見たベケットの芝居を思い出すじゃありませんか。
で、そこへ自殺願望の娘やら死刑囚やら犯罪予備軍の若者やらがリクエスト電話をかけてくる。(声だけで姿は見せない)

後半では、死刑についてスタジオで語る弁護士が登場するが、その発言を聞くとつい最近出版された森達也の『死刑』そっくりである。

テロやら犯罪やらタレント政治家を風刺している部分もあるが、すべて中途半端。こんな半端に前向きなエンディングでは、今時の悪意に満ちた若い劇作家たちには勝てないぞ~と思うのは私だけか。
それと、クライマックス風の場面の後にさらにダラダラと話が続いてしまうのは最近の川村毅の特徴かね。なんか、盛り下がっちゃうのである。

根岸季衣は歌の場面以外は、あまりしどころのない役柄だった。自殺娘二人が床をゴロゴロした時は、彼女は横で絶対笑ってたと見たが、如何(^^?
嫌味モードのDJを演じた時の手塚とおるのみ良し。

あ、あと浅川マキの曲が劇中でかかって、久しぶりに聞いた彼女の歌は素晴らしかった。アルバムはヴィニール盤でしか持っていないので、絶対CDで買い直すぞっと固く決意した。それが成果であった。

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2008年3月18日 (火)

目白バ・ロック音楽祭2008情報来たる

お知らせが届いていた。
今年行きそうなのはダン・ラウリンとリクレアツィオン・ダルカディア(ただし二人組)など三つぐらいかなあ。去年より半減。
アルケミスタではペーター・ダイクストラをイチ押し扱いしているようだけど、会場が東京カテドラルでバッハというのは……ちょっと遠慮させてくれという感じだ。

なお、今年より「バ・ロック」の中黒マークがハート印に変更とのこと(^^;
こういう感じかなっと → 「バロック」

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2008年3月17日 (月)

「『リュートの飾り棚』(1695)ルサージュ・デ・リシェーの音楽」:めざせ500歳

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グライフ(1610年)作のオリジナルリュートとガット弦による演奏
演奏:佐藤豊彦
会場:近江楽堂
2008年3月7日

日本でVIP待遇のリュートったら佐藤豊彦師匠が所有する--じゃなかった、佐藤豊彦が甲斐甲斐しくお仕えしているグライフ作のリュート様なんである。
ガンバなんかだと、昔の楽器をまだ使用できるパターンが多いらしいのだが、繊細なるリュート様たちはそんな訳にはいかず、当時から存命なさっていてしかも演奏可能なのはほとんどないとか。
このリュート様もほぼ400歳。そして4年間もの修復作業の後、ようやく復帰できたらしい。

前回のコンサートでも、これまで聴いてきたリュートとは全く違ったその音色に驚かされたものであったが、今回もやはり生で耳にすると感ずるところ多々あり。

さて、演奏されたのはルサージュ・デ・リシェーという全く聞いたこともない作曲家。CDは世界初録音となるほどにマイナーな人物である。ムートンの弟子になり17世紀末ごろに活躍し、バッハ時代のリュート奏者に大きな影響を与えたとか。

曲を実際に聴いてみるとやや晦渋な印象。今ひとつ「もっと聴きた~い」という魅力には欠けるのであった。存命中も作曲家としてよりは演奏家として人気があったのではないかと推測しちゃう。アンコールの「シャコンヌ」はよかったけど。

それにしてもリュート様は今回もご機嫌麗しくない様子。組曲の舞曲一曲演奏するごとにチョコチョコと調弦しないとダメなのであった。
佐藤師匠によると休憩中に弦を一本交換したそうである。なんでもエアコンの、特に暖房の方が乾燥した風に当たってよくないとか。しかし、夏は夏で湿気のためガット弦は二、三時間しかもたないのである……

しかし、客は一同ガマンガマン態勢で、こうなると「リュート公演の聴衆は曲よりも調弦を聞かされている時間の方が長い」のであった。

それでもリュート様!どうかあと一世紀ぐらい 長生き 長持ちして下せえ(^人^)

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2008年3月16日 (日)

「ラスト、コーション」:R-18の真の意味は

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監督:アン・リー
出演:トニー・レオン、タン・ウェイ
中国・米国2007年

最初は全く見る気がなかった。というのも、『ブロークバック・マウンテン』みたいに完全恋愛モードだとチト苦手(^^;)なんでパスしようと思っていたが、こちらのブログを読むとえらく面白そうではにゃあですか。
確かにアン・リーの監督作品を顧みれば、『楽園をください』なんて南北戦争を背景にして暴力と内ゲバの嵐を描いた作品もあったなあと思い出して、思い直して急きょ見に行くことにした。

平日の午後に仕事が早く終わったんで行くと、なぜか普段は映画館で見かけん定年退職寸前みたいな年齢のサラリーマン風の男性が目立つ。もしかして年齢制限R-18場面を期待してか??
さらに、タイトルの「ラスト」とはLastではなくてLustだと本編が始まってから気がつく。なるほど……

舞台は1939年(?)の香港と1942年の上海。
香港で学生だったヒロインは血気にはやった学生運動の延長みたいな感覚で、仲間と日本の傀儡政府下で重要な任務を果たしている男の殺害計画をねり、有閑マダム風に装って接近。しかし、寸前のところで男は急に香港から姿を消してしまったのであった。
で、数年後の上海でヒロインは本物の抗日組織から声をかけられて再び男に接近する任務を追う。

冒頭、男の妻(ジョアン・チェン、久しぶりに見たがフケましたなー)とその友人のマダムたちとの麻雀からして、ただならぬ緊張感。私は麻雀をやらないのでよく分からないが、卓上の牌、マダムたちの会話、さらに視線の絡み合い--いずれも本心を表わさず、全くそれぞれに裏腹な動きをしていて何かを語られざるものを語っている。
その緊張感は最後まで続く。何がどうなるのか最後までハラハラしっぱなしだ。

しかも、衣装、小道具、背後に流れる音楽、そして上海の街並(セット?)も素晴らしい。外国人が行き交い、東西の文化が混ざり、モダンにして活気があるが日本軍占領下にあって退廃の淵に沈んでいる都市の姿が描かれている。

でもって評判となったベッドシーンは、久々にボカシかかりまくりの映画を見た~という感じ。若いモンならともかく、よい子ならぬよい年寄りは絶対真似してはいけません(ぎっくり腰の危険性大)シーンの連続でエロさ爆発だいっ。
が、ここにも男とヒロインの裏腹な心情と思惑が複雑に交錯している。この点においては麻雀卓上もベッド上も全く同義のようである。

それにしても、香港でも上海でも正義を声高に語り、彼女に色仕掛けを押しつけていながら、いざその話題を実際に持ち出すとオロオロしたり怒り出したりする同志の男たちのみっともなさよ(x_x) どうにかしてくれい。

終盤の展開については、一番感じたのは宝石って絶大な効力があるんだなあ~ということ。女心をとろかすってわけですか。その方面にはあまりキョーミのない私には一種オドロキである。……いや、私は現金でも商品券でも貰えるもんならいつでもなんでも歓迎ですよ、ハイ。 \(^o^)/

また、毒薬についての顛末は色々と解釈できるだろうが、彼女は最後の「一戦」を挑んだのだと解釈した。男が反日分子を尋問する担当だと知っていたのだから、当然取り調べに来ると思ってたはずである。
で、結果は……女の「不戦勝」だったわけだ。

ヒロイン役のタン・ウェイは新人だそうだが、眼力に並々ならぬものあり。圧倒されちゃう。学生時のスッピン顔、マダム時の濃い化粧顔ともにキレイ。今年の新人賞は早くもキマリであろうか。

さてもう一つこの映画において特筆すべきは、日本人の姿である。物語はすべて中国人同士で展開し、個人の日本人は関与しないのだが、占領者として垣間見えるその姿の描写は極めて突き放した客観的なものである。
そこにあるのは憎悪でも怒りでも軽蔑でもましてや恐怖でもない。透徹した近代的知性によって描かれるのは、ただただ決定的に「他者」として存在している日本人である。何ら感情的なものが一切介在しない絶対的な他者--それを見据える冷徹な視線があるだけだ。一体、いかなる日本人がこのような視線に耐えられるだろうか?

で、日本軍将校が日本風料亭で宴会やってる場面には笑ってしまった。だーって、半世紀以上も前に他国の地で、今と変わらぬ宴会のバカ騒ぎをやってんだもん。もしかして、アン・リーは来日した時に駅前によくある居酒屋チェーン店に行って観察したんじゃないかと思っちゃうぐらい。いと恥ずかし(>_<)
もしかしてR-18に指定したのは、エロい場面よりもこの醜悪な日本人の過去場面を今どきの若いモンに見せたくなかったからじゃないのかね。そう邪推したくなっちゃうよ。

しかし、この作品が完成度が高いことはみとめるが、だからと言って好きかというと……ウ~ン、テーマ的には難しいところである。ということで、以下のような点数となった。


主観点:7点
客観点:9点

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2008年3月14日 (金)

ヴィーラント・クイケン、千成千徳 ヴィオラ・ダ・ガンバ デュオ・リサイタル:音はすれども姿は見えず

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美よりもさらに美しい優雅さ
会場:日本福音ルーテル東京教会
2008年3月5日

バルトルドに続いてヴィーラントである。この師弟のデュオコンサートは数年前にも行ったはずだが、もう忘れかけちゃってるのであった(^^;

今回はホールじゃなくて新大久保の教会が会場ということで、限定200席。いつもの木のベンチの横にパイプ椅子の補助席まで並べて満員御礼だ。
ん?待てよ(?_?; バルトルドの時のハクジュホールは250席。でも、結構空席があったから、下手すると同じくらいかもっと客が入っている? トラヴェルソとガンバでこんなに違うのか。
しかもまた客が身内モードでそこら中で挨拶やら手を振ったり大変だー。

私がゲットしたのは中央の通路寄り。てっきりよくステージが見える位置かと思ったのだが……。

いや、よく見えましたよ、楽譜台が(火暴)

人がすき間なくビッチリ座っていて、しかも当然段差がないからステージがほとんど人の頭で隠れてしまうのであった。私の位置からは見えるのはちょうど二人の楽譜台とその間の空間だけ。座ったまま背を伸ばすと、かろうじてヴィーラントのハゲ頭と弓を動かす手が見えた。前傾姿勢を取ると千成氏のガンバの表面が見える。
しかし、前席の人がやはり見えないらしく身体を動かすと、全く何一つ見えなくなってしまうのであった。トホホ
これじゃ、最初から補助席に座ればよかったなー。

音が聞こえればいいじゃないかっていってもねえ……。そもそも高音と低音、二人のどっちが弾いているのかもよく分からない。反響音とかあるから、右から聞こえてくるからヴィーラントとも断言できないのだ。

そんな訳で、鑑賞には最適の環境とは言えなかったが、個人的に良かったのはサント・コロンブ。ちょうど『めぐり逢う朝』を見直したばかりだったので、感銘もひとしおである。彼の曲はやはり録音よりもナマの方がずっとよい。

プログラムは全体としては17世紀前半から、ガンバの最盛期、そして衰退期へと歴史をたどるような構成になっている。
最後のシャフラートという作曲家は名前も聞いたことがなく、曲調も普通のガンバ音楽とは違っていて、興味深いものだった。

さて、ネット上で他の人の感想を探したんだけど、ブログでもミクシィでもほとんど見つからなかった。これまたバルトルドの時と大違いである。なぜじゃ

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2008年3月12日 (水)

「エリザベス:ゴールデン・エイジ」:女王様と北島マヤの共通点は

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監督:シェカール・カプール
出演:ケイト・ブランシェット
イギリス・フランス2007年

先日、わたくし美容院に行きましたら美容師さんが「週刊王朝女性」を持ってきてくれましたの。表紙にデカデカと「イングランドのエリザベス対スコットランドのメアリー・スチュアート、対照的な女王の生き方、あなたはどっちを支持?」なんてあるじゃありませんか。で、巻頭カラーページはエリザベス女王様の華麗なお衣装の数々--わたくしウットリながめてしまいましたのよ。
教会、舟遊び、謁見、そしてジャンヌ・ダルクもかくやと思える凛々しい鎧姿……でも、女王様ったら上背があって大変プロポーションよろしいからお似合いになるのよね。うらやましい限りですわ。

かと思えば「英国婦人の友」誌には「スペインの卑劣な挑発に対する私たち婦人の心構えとは」という特集があったり、「各国王族イケメン度判定~女王様にふさわしいお相手を探す」なんて肖像画付き一覧表もあって、これまた面白うございました。

それで、わたくし美容院帰りに駅の売店でつい普段は手にも取らない「日刊倫敦スポーツ」を購入してしまったんです。だーって「ワイルドな海賊男があの堅物女王を篭絡!夜な夜な寝室に出入りを目撃される」なんて見出しがデカデカと出ていたんですもの。でも買ってからよくよく見たら「篭絡!」の後に小さい文字で「か?」と付いておりましたわ。少しガッカリ。

ですから、わたくし一旦入った寝床からゴソゴソ這い出して、深夜までやってる書店に向かいました。そこでゲットしたのが「宮廷ウワサの真相」。で、やっぱり期待通りありましてよ「宮廷記者匿名座談会」に。

A「女王と言えば、最近海賊のW・Rにご執心だそうだな」
B「ああ、あのワイルドさがウリの--。女王の前の水たまりに自分のマントを広げたってヤツだな」
C「うひょー、そりゃちょっとカッコつけ過ぎやしないか」
A「それで、もう女王の寝台まで一直線に通行許可が降りたとか(笑)」
D「いやいや、宮廷スズメたちの間では実はW・Rには別のお目当てがあるという事になってるらしい」
B「えっ、そりゃ大変だ。相手は誰なんだい」
D「まだ、秘密だけどね。やっぱり男としては自分より地位が高い行かず後家よりも、若いムスメっ子の方がいいに決まってるさ」

わたくし、ここまで読んで女王様が可哀想で泣いてしまいましたわ。だって、いくら絶大な権力を得ていても愛する男の心をゲットできなければ、女としては何の意味もありませんものねえ。ズズーッ(鼻をかむ)

それにしても前作『エリザベス』よりはや十年。演じるケイト・ブランシェットも貫禄充分となりました。監督の方は……鳴かず飛ばずみたいだったようですけど(;^_^A
今回の続編も、派手な海戦場面を期待していた殿方には残念でしたが、わたくしは豪華なドレスや重厚な背景(本物のお城も使ってましたわよね)に心奪われましたわ。この点では十分満足いたしました。

でも、やっぱり物足りないのは2点。
まず、エリザベス女王様ったら芸術のパトロンとして、その治世の下で文化の花が開きまくったんじゃありません? それなのにこの方面に関してはついては何一つ描写がなかったこと。身内の権力闘争と対外的な戦争ばかりじゃ詰まりませんこと。

それからそもそも物語として、地位を得て安定期に入ってしまった人間の話というのは今一つスリルが足りないということでしょうかしら。『ガラスの仮面』だって北島マヤがどん底から這い上がる過程の部分が一番面白いですもんねえ。やはり守りの姿勢というのはつまらないものだと、わたくし思っちゃうんです。

ちょっと疑問だったのは、この映画はスペインの扱いがひどくて描写も最低、彼の国では抗議が起こらなかったのかってこと。もしスペイン版2ちゃんねるがあったら、きっと嫌英厨が一日100スレは軽く消費して「エリザベス逝ってよし」とか「英国に神罰下りますた(w」なんて書込みだらけになるはずでしてよ。

それと、なんで女同士のシスターフッドというものは男が一人出現するとあっけなく崩壊してしまうのかしらん。ホモソーシャルな男同士の絆の方は、女というのはより絆を強固にする仲介物なのに、ですわ。
まあ、こればかりはゴシップ週刊誌ではなくてフェミニズム本でも読んで研究した方がよろしいかも知れませんわね。


主観点:6点
客観点:7点

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2008年3月11日 (火)

「わたしいまめまいしたわ」:キュレーターはそんなに偉いんか

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現代美術にみる自己と他者
会場:東京国立近代美術館
2008年1月18日~3月9日

タイトルは見れば分かるように回文になっている。いかにも面白そうではないか。
で、実際行った結果は……(~_~;)

五人のキュレーターが近美の所蔵作品やお仲間・ご近所の美術館から借りてきた作品で、自己と他者に関する7つのコーナーを作成、展示するという趣向である。
コーナーの入り口にそれぞれ説明文(結構長い)が掲示されているんだけど、これがまた読んでてもよく意味がワカラン代物。読んでも読まなくても作品理解に関係なし、みたいなもんだ。

「スフィンクスの問いかけ」というコーナーにはF・ベーコンの醜悪なスフィンクス画と舟越桂の両性具有の立体作品の2点だけ並べられている。いや、確かにスフィンクスに間違いないしそれぞれキョーレツな作品ですけど、それが何か?と言いたくなっちゃう。
それにしても、舟越桂のスフィンクス像は相当にエロいね。ずっと最後までこの路線で行くつもりかしらん。

以下、ランダムに目を引いたのを挙げていこう。18枚の油彩の連作「monos」(村上友晴)は黒と赤による混沌の海を描いたような作品が徐々に黒に覆われ、やがてまた別の何かの色彩が胎動し始めるような過程をたどっていく。絵具の塗り重ね具合が神秘的。

草間彌生は巨大作品が2点あったがいずれも偏執的というか執念を感じさせる反復具合である。もっとも、反復と言えば澤田友子の様々なキャラクターに扮した肖像写真(というより証明書用写真か?)も偏執的反復度においてはかなりなもんだった。

河原温の日付絵画はもう色んなところでさんざん見てきたものだが、今回ビックリしたのはそれとセットになって保存されている同じ日付の新聞記事。1988年の7月27日で「自衛艦捜索続行するも見つからず」みたいな見出しがデカデカとある。な、なんと「なだしお衝突事件」の記事なのであった!
見に行った日は例の漁船衝突事故からまだ数日後ぐらいだったんで、しげしげと眺めてしまった。この展覧会の会期は1月からだから、既にその時から展示してあったはず。とすれば、あまりにあまりにもな偶然……(>y<;) も、もしかして予知現象(?_?;

真っ赤な色彩でひときわ目を引くのは斎藤真一「上河原の陽」である。観音開きになっている形からして宗教画のようだが、大勢の女たち(瞽女または遊女?)が河原で泣いたり叫んだりトランス状態になったり、さらには昇天していく者もいる。それがすべて真紅で塗られているのだから目を刺すようである。これは何か実際の出来事を描いたものなのか?知りたくなってしまった。

そして、最大の収穫はマックス・ペヒシュタインというドイツ表現主義の画家の版画連作「われらの父」であった。ここでキュレーターは死の表現と文化が国によって違うことを示すために、アメリカの写真家が1930年代に撮影したメキシコ人の肖像やキリスト像の写真を同じ大きさと枚数で対置して並べてあるのだが、どう見ても

 ペ ヒ シ ュ タ イ ン の 方 が 、 変 !

なのであった。
よく知られている「天にまします我らの神よ……」の祈りの文句をそれぞれ版画の中に一行ずつ書きこんで描いた宗教画のはずなんだが、冒頭に出てくる神様が同じ「神」でもどっちかというと「大魔神」のよう。「罪人どもは頭から食ってやるぞ、ゴルァ」みたいな恐ろしさ&パワーなんである。その他も、強烈なまでに野蛮にして土着性・異教性が感じられるものばかりだ。メキシコ人たちの肖像がどちらかというとザンダー風の淡々とした視線の写真だからまた対比が大きい。

私はあまりの「変」さに嬉しくなってしまって何度も行ったり来たりして見てしまった。アヤシイ奴に思われたかも。

結論としては、なまじな「企画」なんかよりも個々の作品の力が完全に大きいということを実感した展覧会だった。キュレーターが百万言費やしても作品のパワーには勝てないのさっ。

さて、所蔵作品展の方では新しい日本画の作品である三瀬夏之介の「奇景」というのがド迫力であった。
大仏らしきものをシワシワした和紙に描いた巨大な作品なのだが、その仏さんが土に埋もれているんだか、それとも地上の都市をブチ壊して地下から出現しつつあるんだかよく分からないが、これまた「変」なのは確か。

で、私にしては珍しく図録を買って帰った。置き場所がないので滅多に買わないことにしているのだ。しかし、斎藤真一の絵のいわれが知りたいのと、ペヒシュタインの版画をじっくり眺めたいと思って買ったのである。

が(!o!)またもここで裏切られた。図録には会場に掲示されていたコーナーごとの解説文が転載されているだけで、なんの解説もつけられてなかった(監視係のおねーさんに質問すればよかったよ)。さらに、ペヒシュタインの作品は全点掲載されていなかったのである!なんてこったい(>O<) どうでもいい幾何学模様入れるぐらいなら作品全点載せてくれよう、ムカムカ。

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【関連リンク】
《弐代目・青い日記帳》
先にこちらを読んでいれば、行かなかったかも……。

「版画だってここまでサイケになる?」
別の展覧会で、やはりペヒシュタインの作品を見て「感動」した記事。下の方に画像があります。こ、この神様確かに「爆発」です

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2008年3月10日 (月)

「被害者」のことば

このたび私の落ち度のため被害者になってしまいました。
被害者になったのは決して意図したことではありません。ただ、ひたすら私の不注意と日頃の心がけが足りなかったためです。
それによって皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫びいたします。
この事件で皆様には貴重なな時間と多大な費用を、結果として費やしていただくことになってしまいました。
さらに事件の詳細を知ることで不快な思いをなさった方もいるかと存じます。
被害者としての責任を問われても仕方ないことです。
誠に弁解の余地もありません。
今後は慎重に注意をし、二度と被害者にならないよう誠心誠意努力していくと誓います。
重ね重ね申し訳ありませんでした。

だからもうそっとしておいて下さい。


注-以上は皮肉である。念為。

【関連リンク】
《Arisanのノート》より「醜悪な発言」
《かめ?》より「クズの独り言」

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2008年3月 9日 (日)

キーファーとデミアン・ハーストの新刊

過日、東京オペラシティにてこの記事に書いた通り一時間以上時間が余ってしまったんで、ヒマつぶしに同じビル内をフラフラしていた。
で、アートギャラリー横のアートショップに入ったら、なんとアンゼルム・キーファーの画集がドーンと置いてあるじゃないですか。

それが、なんと金一万六千円ナリ! 判型はさほど大きく大きくはないのだが、すごく分厚くて重い。漬け物石にちょうどいいくらいだ(^o^; また、振り上げて人間の頭にぶつけたら凶器にも使えそう。
当然洋書なのだが、冒頭に解説と後ろの方に一問一答があるぐらいで、他のページは全て作品の図版ばっかり。初期から最新の2007年の展覧会作品までバッチリ収録されている。
冒頭のページにある、「メランコリア」に出てきてた変なガラスの立体や枯れた草木がぼんやりと煙ったような空間に展示してあるのが、なんだか面白そう。実際に見てみたいもんだ。

で、欲しくなってしまったが、ううう……値段高過ぎだー(T^T)クーッ それにたとえ金を捻出したとしても、こんな分厚い本を全部眺めるヒマはないだろう。

それから、デミアン・ハーストの作品集もいくつか飾ってあった。
最近、美術雑誌で紹介されていた記憶があるのが”New Religion”というヤツ(展覧会の図録かも)。
旧約・新訳聖書の様々なエピソードをサプリメントや食品の広告のような形式で表現したものである。冒頭にイエスの遺体の図版があって、槍で刺された傷口やら心臓のアップ写真を配置したレイアウトはまるで最新のカラー図解医学書のようだ。
また様々な聖者は錠剤で示され成分表示で○○パーセントなどと示されている。三位一体は立体的な円グラフを使い、矢印で「精霊33.3パーセント」なんて企業の売り上げグラフみたい。
「イエスの十字架上の死」に至っては「天然果汁100パーセント!」風のジュースの広告になっているのである。

それら全てが、洗練された色彩・レイアウト・デザインになっている。各作品を並べたページが途中にあるのだが、まるで企業の紹介パンフか製品カタログのようなのだ。
それをズラーッと眺めると天地創造からイエスの復活あたりまでひと目でわかる巨大広告のようでもある。
もし、これがもうちょっとごちゃごちゃしたデザインでケバい色彩だったら、まるで週末に新聞と一緒に入ってくるドラックストアの大判チラシのようになるだろう。「本日超格安!ペテロの否認がなんと2割引、ヨハネ大量入荷」なんて感じだ。

成分表やグラフで示された「聖者」や「奇跡」は極めて表層的でありながら同時に本質的である。表現形式は全くノイズのない洗練された統一性によるものだが、受け手に与えるイメージは多彩で内部で様々に輻輳することだろう。
かようにツルツルピカピカしてキレイで極めて冒涜的な作品集なのだ。
値段はいくらなのかなーと思って表紙を見てみると、7300円……(黙って棚に戻す)。

その後、バッハの『ヨハネ受難曲』公演を聴きながら、色々考えてしまった。
過去にラテン語の聖書を自国語に訳し、さらに印刷して本にするという最新メディアを使用したり、あるいは教会という最も身近なメディア(多数の人々が集まる)を通して音楽に乗せて常時これらの物語が伝えられてきたのなら、それが今パワーポイントによるプレゼンテーションやドラッグストアの広告チラシになったとしても何の不思議があるだろうか。
バッハの音楽は現在でも有効である。果たして数世紀後にはどのようなメディアが聖書を語っているのだろう。

ところで、今年日本に彼のあの有名な輪切り牛--じゃなくって、縦断牛?が来るというウワサを聞いたのだがホントかな。あの牛も、物議を醸した発表当時ならともかく今さらという感もあるが、でも来たらやっぱり見に行っちゃうよ(^^ゞ

--どうやら六本木の森美術館のもよう。(関連記事

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2008年3月 8日 (土)

あの人は今--内田善美の巻

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以前の記事で、山田ミネコと樹村みのりが「あの人は今?」状態であったことに触れたが、もう一人懐かしい名前を見かけた。

実は全く関係ない政治ネタのリンクによってこちらの《AmlethMachina's Headoverheels》にたどりつき、ついでに「ゴシック」のカテゴリを眺めていたら遭遇したのが「内田善美とセピアカラーのノスタルジア」である。

しばらく耳にしなかった(目にしなかった)名前だなーと思いつつ懐かしさと共に記事を読ませてもらった。しかし、よく思い返してみると彼女の作品は今ひとつ理解しづらいところがあって、一応単行本は全部持っているが、残念ながら「ファンである」とまでは言えないのであった。当時、ただひたすら硬質で美しい線と画力に驚嘆してていたような気がする。
もっとも、歳月が過ぎてはや××年、今また読み直してみれば理解できるだろうか。
今でも印象的なのは、どの作品だか忘れてしまったが(^_^;)少年が年上の中年男に向かって「お皿の裏を洗わないなんて」と非難する場面だ。毎日皿を洗う度に思い出して、「おっと裏側も洗わなくちゃな」とゴシゴシ洗っている。

それにしても作品が再刊されないのは残念である。若い人が触れる機会がなくなってしまうからだ。ほとんどの若いマンガファンは名前も知るまい。とはいえ、文庫の大きさで出されてあの絵を見たとしてもなんだかなあという感はある。

リンク先の記事だと「作者のその後の消息は不明」となっているが、2ちゃんの過去のスレ(ここですな)を見ると、マンガ界とは縁を断って再刊の要請も断っているという説が出ている。
この時点でも「男性説」が取りざたされているのは驚くが、以前は「三原順男性説」やら萩尾望都を男だと思い込んでいたヤツ、などもあったのだから仕方ないのか。
ちなみに私が完全にだまされたのは 「かわ みなみ」 「かわみ なみ」だ。だーって、いかにも「男が無理して少女マンガ風に描いてみたマンガ」だったじゃないですか。違う(^^?

「消息不明」にしても「マンガ界とは断絶」にしてもこの人にいかにもありそうな「伝説」めいた話だから、どちらでも納得してしまう。


話は変わるが、上記のブログの「ゴシック」カテゴリに出てくるミュージシャン名も懐かしいのが多い。私は平凡なロック者だったので、多くは名前ぐらいを耳にしていた程度だが、4ADレーベルは音とアートワーク共にその一貫した美意識に圧倒されつつアルバムを手にしていた。

また、コクトー・ツインズも当時よく聞いたもんだが、マイ・ブラッディ・バレンタインの「ラブレス」に至っては、回数的にはレコードの溝が削れるぐらい聴きまくった--と言いたいところ。実際にはCDなんですり減りはしなかったけどね。
当時、あのアルバムを出したためにレーベルが潰れてしまったというウワサが流れたが、どうだったんだろうか?
彼らの新作も「出る出る」と言われたまま現在に至るが、スティーリー・ダンのように二十数年経ってアルバムを出した例もあるぐらいだからして、まだどうなるか分からないのである……と一応言っておこう。

……と、思ったら日本に来るんですねえ。《Cottonwoodhill 別別館》より「(発表)FUJI ROCK FESTIVAL '08の出演者 第1弾」
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→こちらはコクトー・ツインズです。

【追記】
「かわみなみ」の表記訂正しました。国立国会図書館のHPから検索したら、しっかり「かわみ,なみ」でしたな。

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2008年3月 5日 (水)

バッハ「ヨハネ受難曲」:NBSの後でOAEは

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演奏:マーク・パドモア+エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団
会場:東京オペラシティ コンサートホール
2008年3月2日

オランダ・バッハ協会の「ヨハネ」に行った勢いで、ついでにチケットを購入してしまった公演である。ネット購入できる最終日だったもんで、確保できたのはもはやS席とは思えぬ辺鄙な田舎状態席であった。これだったら、当日券にすればよかったぜい。

おまけに何を勘違いしたか、開演時間はちゃんと分かっていたのに出発時間を計算違いしてしまい、一時間も早く会場に行ってしまった。眠気覚まし用のエスプレッソをグイと一杯ひっかけてエレベーターで上ってっていったら、なんと人気がなくて薄暗いじゃあーりませんかっ。トホホですよ_| ̄|○
今さら新宿戻っても余裕がないし、仕方なくブラブラして時間をつぶしたのであった。

今回の公演のウリは指揮者がいなくて、テノールのマーク・パドモアがリーダー兼エヴァンゲリストをやるということ。とはいえ、楽器隊の細かい合図なんかはコンミスの人がやってたんだろうか。辺鄙な座席からではよく見えなくて残念。
残念といえば、BCJでも病休(?)したソプラノのC・サンプソンがやはり降板だった。
歌手は全部で11人。先日のオランダ・バッハ協会よりは多いが、モダン楽器も含めた基準から考えると小人数ということになるだろう。

パドモア氏は声量があって十分に聞こえてきたが、一方かなりの表現豊か過ぎ……悪くいえばオーバーな歌唱だった。思わずハイッと手をあげて「バッハ先生、エヴァンゲリストが他のソリストよりこんな激情型でいいんでしょうか」と質問したくなってしまう。
しかも、コラールなんかも一緒に歌ってたようだから大変。他のソリストがソロを取っている場面以外は歌いっぱなしということになる(それどころか、20番のアリアも歌ってた)。それでも声の調子が一貫して変わらなかったのはすごいとは思うが。

どうしても一週間前のオランダ・バッハ協会と比べてしまうのは避けられない。とりわけカウンターテナーについては今回のマイケル・チャンスは今イチで、先週のマシュー・ホワイトの方がずっと良かったように感じた。
ただ、合唱についてはさすがに美しく迫力があった。最後に無伴奏で歌われたヤーコプ・ハンドルという人(バッハより一世紀以上も前の人)のモテットは楽器隊の人も加わってとてもしみじみと心にしみ入るものだった。

荒っぽく総括するならば、個々のソリスト(若干一名を除く)についてはオランダ・バッハ協会、合唱アンサンブルはこちらの方に軍配を挙げたい。楽器については--えーと、えーと(=_=;)パスします。
ネット上での、双方を聴いた人の感想ではオランダ・バッハ協会が余裕で勝利したもようである。
あとはBCJがどんな演奏になるか、楽しみ楽しみ

疑問・不平不満など
*無料とはいえ配られたパンフにソロ歌手以外の名前が記載されてないのはどーしたことよ。あんまりだ~
*なんで休憩入れなかったのか?さすがに集中力が切れた。方々から寝息が(一部イビキも含む)聞こえたぞ。
*京都では朗読(日本人がやったらしい)が入ってたのに、東京でやらなかったのはなぜ?
*近くにポマード(コロン?)の匂いをプンプンさせているオヤヂが座っていて参ったよ。付け過ぎはご近所迷惑です。

【関連リンク】
《Programmes》
当日のメンバー表あり

《rx1206の音楽探訪》
肯定的な感想

《平井洋の音楽旅》
《ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008 & 普段のコンサート通いのblog》
批判的な感想

《極楽蜻蛉日乗》
厳しい批判

《オペラの夜》
京都での公演の様子

《やーぼーの聴楽雑誌》
京都ではガラガラだったのか……。
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←春近しとはいえ、まだ寒そうな「歌う男」。
時間潰しに撮ってみた。


【追加リンク】
《アマデウス☆小一時間BLOG::SYMPHONY No.42》
あくまでもOAE>NBSな「小一時間」さんの感想です

《ゴロウ日記》より「韓国の中心でヨハネ受難曲を叫ぶ」
なんとOAEの韓国公演のレポート。熱狂ぶりが伝わってきます。日本も負けてなるものか!(←にわかに「愛国モード」になる)

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2008年3月 3日 (月)

ガッティの新譜来たる

エンリコ・ガッティ+アンサンブル・アウローラの新譜キタ━━━━(・∀・)━━━━ !!!!!
しかもヴィヴァルディのトリオソナタ集で、「ラ・フォリア」も入ってるじゃないですか。
ヤッタネ \(^o^)/
今を去ること××年前(多分)、NHK-FMでのライヴ放送を聴いて以来、待ってたのさっ。
もちろん即購入です。
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2008年3月 2日 (日)

「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」:ハサミをカミソリに持ち替えて誓う永遠の愛を~

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監督:ティム・バートン
出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター
米国2007

言わずと知れた有名ミュージカルの映画化。しかし、私はこれまでスウィーニー・トッドが元々都市伝説だったとは知らなかった。さしずめ人肉パイは猫○ハンバーガーと似たようなもんだろうか。
それにしても、食品の安全が問題になっている昨今、観ていて恐怖が倍増することは間違いなし!コワイよーん(-o-;) 是非、この時期の鑑賞をオススメしたい。

ジョニー・デップが白塗りメイクで黒服着て、陰鬱な表情でウロウロして、さらにカミソリを両手にかざせば、あら思い出すのは『シザーハンズ』じゃあーりませんか
まさしく、今回もテーマは同様。復讐のために戻ってきた男がその怒りを無辜の民に転化して殺しまくる揚げ句、遂には愛する者を手にかけてしまうのである。
元舞台は3時間あるそうだから、やはりそこに焦点を絞って映画化したんだろうと推測しちゃう。若いカップルの描写についてはあまり熱が入ってなかったような……(^^;

モノクロ画面に血がドバーッと噴出場面が頻発、血に弱い方にはオススメしないが、その画面を覆う美意識はさすがバートン監督としか言いようがない。とりわけ銀色に鈍く輝くカミソリはウットリするほどキレイ。
あと、階下の床に死体が頭を下に落下してグキッと衝突するのは悪趣味でよろしい。

J・デップの歌が結構なレベルだったのは驚いたが、総合点ではH・ボナム=カーターの方が頭一つ上だった印象。アラン・リックマンも上手ではないけど頑張っていたようで。でも歌については一番上手かったのはボーイ・ソプラノの少年だろう。
オーケストレーションは元のミュージカル通り?それとも映画用なのだろうか?これも人物の心情や場面を巧みに表現していてよかった。

レディース・デーに行ったんだけど、女一人客よりカップル客がほとんどだったのはチト驚き。ティム・バートン映画がデート・ムービーになるとは--世も末だってことですかねえ。


主観点:8点
客観点:8点

【関連リンク】
《映画のメモ帳+α》
この作品の背景が分かります。

《ようこそ劇場へ! Welcome to the Theatre!》
舞台との違いについて。

《エンターテイメント日誌》
バートン版が完成するまでのエピソードなど。
アラン・リックマンの「悪役・ターピン判事がキリストに懺悔しながら自分の体に鞭打つ場面」を是非見たかったなあ~。さぞリックマン、嬉々としてやってくれただろうと想像しちゃう(ウットリ)。

《おたくにチャイハナ》
長年バートン・ファンであるしのさんの感想。

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2008年3月 1日 (土)

バッハ「ヨハネ受難曲」:額に汗して聴く

080301b
演奏:オランダ・バッハ協会合唱団&管弦楽団
会場:紀尾井ホール
2008年2月25日

結論から先にいうと「うーむ、ビミョ~」。
さらに前向きな意見を述べれば「演奏家はいろいろ、バッハもいろいろ、こういうのもあり」というところか。

事前に来日ツァー(ハード・スケジュール!)の他所の公演の記事を読んでいたので、ある程度予想はしていたが、実にビックリな演奏だった。
歌手が三カ所に分かれているし(エヴァンゲリストがあんな脇にいるのを見たのは初めて)、通奏低音のチェロ、オルガン、コントラバスが一段高い壇にいるし、そもそも一パート一人方式で全体的な人数自体が少ないし……。

さらに不思議なのはヴァイオリンやチェンバロの音が埋もれちゃってあまり聞こえて来ないのに、テオルボがよく聞こえてきたこと。ありえねぇ~という感じだ。下のリンクの記事ではないが、PAシステムかなんか使ってたんじゃないかと疑っちゃうほどである。これで兵庫では2000人のホールでやったってホントか?
紀尾井ホールは久しぶりに行ったが、今までそんな事を感じたことはなかった。ただ、かなり発売から日が経ってからチケット買ったんで、端っこの座席だったせいがあるかも知れない。

歌手のスタイルはやや「濃ゆい」印象。例えば、テュルク氏はBCJの時だとペテロの否認の場面はストレートな力強さで勝負するのが定番だが、今回はゴムのごとくビヨビヨ~ンと長く引き伸ばし、さらにそこを通奏低音が不安をかき立てるように伴奏するのであった。
それから対話の部分は歌手が向かい合って歌うなど「劇」的な表現を心がけていたようである。

しかしですね(v_v)……どうなんでしょう。極めて個人的な印象であるが、一パート一人方式と劇的な表現はあまり合わないような気がするんだけど。
おまけに、後半はホール内が熱くて熱くて汗かきながら聴く羽目になった。おかげで肝心の終盤にモーローとなってしまう情けない事態だったのよ。

本来はこの公演行く予定はなかったんだけど、前評判が極めてよかったのと、バッハの受難曲というと最近は毎年BCJの公演ですませてしまっているのが恒例となっているので、これではイカンと思ったからである。
しかし、近年はめっきり気力・体力が衰えたため(バッハ・イヤーの時は確か一週間のあいだに受難曲三回、ロ短調ミサ一回行ったような記憶が……とても今は無理だー)、この一週間後のM・パドモアが中心となったエイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団はパスするつもりだったが、今回のコンサートのおかげでモーレツに行きたくなってしまい、結局土壇場でチケットを買うことに--トホホ(T_T) ドツボにはまるとはこのことか。

ちなみにTV収録が入っていて、3月21日に教育TVで放送されるそうである。行けなかった方はご覧下せえ。でも、音のバランスなんかは修正するんだろうなあ。

【関連リンク】
《古楽ポリフォニックひとりごと》より「【感動した人は読まないで!】オランダ・バッハ協会のヨハネ」
タイトル通りやや辛口めの感想。しかし、ミクシィに超罵倒モードで書いてた人に比べればそれほどでもないんでは(^^;)

【追加リンク】
《Programmes》
TV放映の感想。「大概こういうことすると演奏者はぼろぼろになっていざこざが起きて仲たがいとか」……クイケン兄弟なんてもう結構な歳のオヤヂもツアーで酷使されてるわけですなあ。
それにしても、テノールの人がどうも今一つ冴えなかったのは、そういう訳だったのか。

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