「死刑」:死刑に惑う
身近に死刑になった奴、あるいはなりそうな奴はいない。
逆に、重犯罪の被害者もいない。
もちろん実際に死刑を見たことはないし、自分が将来なるとも思っていない--。
かように何も知らない状態で論議が出来るのか?ということで、死刑に関る様々な人に会って話を聞いたルポルタージュである。
その期間は数年に渡り、著者は廃止論者側だが、その間に意見が変わってもいいやと思いつつインタビューしていく。その中にはテレビなどによく登場する人もいるが、全然そのイメージが違うのに驚く。やはりワイドショーなんかではなんにも分からないと思った。
全体の印象はヨタヨタとためらいつつインタビューしていく、という感じ。とても、死刑問題をスパッと斬るというものではない。
その迷いは多くの読者の迷いでもあろう。(「いや、オレは迷ってないよ」という人もいるかも知れんが)
論議は既に尽くされていると著者は言う。もはや情緒の問題であると。
確かに、死刑存置国の中に日本、中国、韓国、北朝鮮が入ってるのを見ると、これは東アジア的感性に関る問題なのかとも思う。
論理でダメだから、情緒によって著者は結論に至る。それは納得行くものだけど、だからといって、論理で意見を変えなかった者がこの本を読んで意見を変えるとは思えないなあ。
とはいえ、今まで知らなかった死刑のことを知るには適書だろう。
以下は個人的に思ったこと。
死刑問題に関して必ず浮上するのは被害者遺族の感情という問題である。遺族のためにも死刑を--というのは分かるが、そうすると別の問題が出てくる。
早い話、じゃあ「遺族」のいない人間--たとえば、身寄りのない高齢のホームレスなんかが殺されたらどうなるのか。誰も「死刑を望む」と叫ぶ人はいないんだから、罪は軽くなるのか。とすれば身寄りのない人間は殺し得か。さらには、一人の人間の生命の価値は家族がいるかいないかで変わるのか。
また、しばらく前に起こった兄が妹を殺害した事件のように、被害者・加害者双方ともに家族である親が減刑を願ったらどうなのだろうか。その場合も、被害者の生命の価値は変わるのだろうか。
しかし、これを別の点からとらえ直してみよう。生命の価値が異なる、と見なすのではなくて、遺族に対する「迷惑料」……というのはあまりにナンだから、「苦痛料」としよう。
家族が100人(あくまでも数字上の仮定ですよ)いる者と家族が10人いる者の場合、後者よりも前者が被害にあった時の方がそれだけ多くの人びとに犯人は苦痛を与えているのだから、罰が重くなっても当然と考えるのである。こうなれば遺族の心情が量刑に関ってくるのは仕方ない。
だが、そもそも「苦痛」とは量的に測ることのできないものである。そんな不確定なものを法律に適用できるのだろうか。
それとも、もはや死刑とは法律の埒外なのだろうか。
そしてさらに考えてみると、一般の無関係な人々にとっては、いつか加害者同様に被害者もまた「苦痛を与える者」に転化してしまう可能性がある。この場合、「苦痛」というよりは「ケガレ」と言った方がいいかも知れない……。
すなわち清潔で公正で健全な社会に対し、違和感を与える瑕疵的な存在である。加害者は死刑によって消滅するが被害者の方は当然そうではない。
近ごろの被害者叩きの風潮を見ていると、そんな風にも感じてしまう。
……などと、グチャグチャどうでもいいことを考えてしまう間に、死刑は今日もまた粛々と執行されている--かも知れない。
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