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2008年4月

2008年4月30日 (水)

「老バッハとサン・スーシ宮殿の音楽」:萌える「老有田」先生

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演奏:有田正広&有田千代子
会場:松明堂音楽ホール
2008年4月26日

会場へ入ると何やら薄暗い。開演直前になると、暖房は切られ(4月なのに雨で寒い日だった)照明は小さな電気スタンドと楽屋入口?の電灯と併用の○ー○クぐらいとなった。もうプログラムの字も見えない。下手すると舞台上に誰が立っているのか分からないぐらい(←大袈裟に書いてみました(^^;)。
なんでも当時の貴重なフルートを使用するので保護のために照明を使わないのだという(温度が調整できないらしい)。

その瞬間、私の頭の中にはまた脳内妄想がムクムクと……。
長いこと保管箱のフカフカの布団の上に鎮座していたトラヴェルソ様--は長いのでこれからは「トラ様」とお呼びすることにしよう--がいきなりまぶしいスポットライトの下に引き出されて「キャーッ!私の繊細なお肌が(>O<)」見る見るうちにピキーッと表面にスジスジが入っていくのであった。
なんてことはないですけどね、ハイ∈^_^∋

プログラムはフリードリヒ大王と、彼の作りたてホカホカ(当時)のサン・スーシ宮殿を訪ねたバッハを中心にしたものである。使用のトラ様は大王の師匠クヴァンツ作成のものだという。
解説に「当演奏会では(クヴァンツの)ポートレイト画で描かれている楽器を使用」と書いてあるのだが、これは同じ型というのではなくて、まさにその時クヴァンツが使っていた楽器、ということだろうか?

前半一曲めはバッハの弟子キルンベルガー、次は息子エマーヌエル・バッハのフルート・ソナタ。ここで早くも有田氏のトークは熱が入り始め、サン・スーシ宮殿を訪ねた時の話をしてくれた。実はこじんまりした宮殿で音楽の広間も松明堂と同じくらいの面積だとのこと。(最初「五十畳」と聞こえたけど「十畳ぐらいの広さ」でいいんですよね?)
次の老バッハの『良く調整されたクラヴィア曲集』(千代子夫人独奏)についても、一般に「平均率」と訳されているが、原タイトルには「平均」という言葉は使われていない、などと音階についてまでちょこっと解説してくれた。

その後は大王の宮廷で優秀な奏者として知られたベンダ、そしてクヴァンツのフルート・ソナタも演奏。
なんでも、当時の宮廷ではクヴァンツとフリードリヒ大王が一番エラくて音楽については誰も逆らえなかったとか、でも宮廷楽団にはロクな奏者が少ないとこき下ろされてたとか、エマーヌエル・バッハはクヴァンツの十分の一の俸給しかもらってなかったとか、色々と「宮廷噂の真相」話が炸裂。
さらに、有田先生はクヴァンツもフリードリヒ大王も作曲したものに大した作品がなくて探すのが大変だったというとどめのお言葉--キビシイですなあ(^=^;

最後の二曲は大バッハ作品。大王がテーマを与えて即興演奏したという逸話が有名なリチェルカーレをチェンバロ独奏した(実際はフォルテ・ピアノだったらしいが)。
薄暗い中で光を放つ○ー○ク、望月通陽の絵が一面に描かれたチェンバロの、澄んで透徹した音。それが残響の少ないホールにダイレクトに響き、この曲のミステリアスな雰囲気を伝える。そして、鍵盤自体が発するゴソッゴソッという音--それさえも全てが美しく、魂がフラーッと吸い寄せられる心持ちであった。
まさに気分はフリードリヒ大王! ウット~リとなってしまったよ。

ラストはトラ様は降板、別の楽器を使用して大バッハが新しい様式で書いたというフルート・ソナタだった。
アンコールは、タンギングが下手だった大王が自戒をこめて?作曲したタンギングが頻出する曲、そして大バッハの署名があるが実はエマーヌエルの作品らしいソナタで締めとなった。

有田氏は色々と大王をくさしていたが、実は同じフルート狂として結構「フリードリヒ萌え~」のもよう。
フリードリヒ話は止まる所を知らず、クヴァンツが亡くなった時、大王は手を取ったまま号泣しそのまま一日離れなかったそうな。また、歯が悪くなって大好きだったフルートが吹けなくなってしまった時の逸話に至ってはチト泣けましたです。

今まで、大王といやあ「バッハに『音楽の捧げもの』を献呈されておきながら、開きもしないで棚に突っ込んでおいたヤツ(怒)」という認識しかなかったのであるが、かなり興味深い人物だと考えを改めた。そういう意味ではルイ14世と張り合うぐらいかも知れない。大王さま、すいませんねっm(_ _)m
家へ帰ってネットで調べてみるとなんか複雑で波乱万丈な人なのだ~--ということで、図書館で伝記を借りることにした。
ということで、様々な意味で充実した大満足なコンサートであった。

ところで、有田氏は気づけば自分は当時の老バッハと同じくらいの年齢で「老有田」と呼ばれてもいいくらい、と冗談を言っていたが、その話で突然気づいたのは、私もあと十年も経てば父親が死んだ年齢になってしまうということだった(\_\;
あと十年で、横に積んだままになっている本を読み終え、たまりまくっているCDを全て聴くことができるだろうかと考え(←考えることはそれかい!)、なんだか焦ってしまった。こりゃー、もうマジメに働いてなんかいられねーぜっ


帰りがけに、松明堂の向かい側に新しく出来たらしいパン屋でパンを買ってみた。おいしかった \(^o^)/ 次に来た時も買おうっと。

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2008年4月29日 (火)

本日の衝撃:エスプレッソ編

映画の時間待ちで銀座をフラフラしていたら、少し喉が渇いてしまった。あまり時間が残っていなかったのと、大量には飲みたくなかったので、某有名コーヒーチェーン・○タバでエスプレッソを頼もうと入った。
だが、メニューをどう眺めてみてもエスプレッソはない。おかしいなー、前に同じチェーンで飲んだことあるのに(?_?) そもそもコーヒー専門店にエスプレッソないっておかしくないか?と疑問に思い、店員の女の子に聞いてみると……。

「エスプレッソ? コーヒーですか?」
という返事であった。

えっ(!o!)ガーン

ムムム(~_~;)マ、マサカ

なんてこったい!ヾ(^^#)ゝヾ(^^#)ゝアーコリャコリャ

さて、ここで問題です(^^)b 果たして○タバではエスプレッソを飲むことができるでしょうか?
正解者はもれなく ネ申 と認定いたします。どしどしご応募くだせえ。

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2008年4月27日 (日)

「ブラックサイト」:気になるのは人間よりも猫だ

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監督:グレゴリー・ホブリット
出演:ダイアン・レイン
米国2008年

ダイアン・レインがサイバー犯罪班のFBIの捜査官に扮したサスペンスものである。
ヒロインの設定は夫に先立たれ、母親と小学生の娘と同居、娘のために夜勤を志願している。
で、途中で渋い中年の刑事(しかも独身ぽい)が登場するあたりで、これはP・コーンウェルの『検屍官』シリーズあたりのファンを想定して作っているんかなあ、と想像してしまった。

ネットの動画サイトを立ち上げ、誘拐した人を残酷な方法で公開拷問。しかもサイトへのアクセス数によってゆっくりと殺して行くという連続犯罪が勃発
ここら辺の残酷描写は『ソウ』を意識しているもよう。
早速、ヒロインが解明に取り組むが、なんと犯人は早々に顔を出してしまうという展開だ。そうすると、犯人探しの謎解きはなくなって、動機と被害者たちの関連性しか物語を引っ張る要素がなくなっちゃうのであるよ。
また、犯人が家を盗撮する場面はハネケの『隠された記憶』っぽい。

彼女に対立する上司とか同僚とかは全くなし、強大な対立者が犯人しかいないというのも今イチ物足りん。
それにFBI内部の捜査の描写もかなりいい加減。だーって、会議室の巨大モニター見てワイワイやってるだけなんだもん。

あと、テンポがのろくてマタ~リしているのも欠点。『バンテージ・ポイント』並にチャカチャカ進んじゃう必要はないが、見ながら「このぐらいの話だと『クリミナル・マインド』(TVドラマ)なら一話45分で納めちゃうだろうなあ」なんて思ったのは事実である。
まあ、見ている間はそれなりに楽しめるというのと、ヒロインのD・レインが中年女の頑張りぶりを示す、というぐらいが取り柄だろうか。

動画サイトにつけられる一般ピープルのコメントが読めなかったのが残念であった。簡単な英語だけど早いからとても読めないのだ。まさに「便所の落書き」並みのことが羅列されていそう。
そうなると、劇場で見るよりDVDが出るまで待って、そこを一時停止にして解読しながら見た方がよかったかも知れない。(^^;)

あと気になったのはヒロインが飼ってた猫がどーなったか。あのまま車に置き去り……ならまだしも、もしかして(>y<;)イヤーン

それから、インターネットでアクセス数によって公開殺人するというのは、実は既に十年も前にTVドラマの『ミレニアム』がやっている。確か第2シーズンの『ミカド』がそれだったはず。
ネット上に下着姿で椅子に縛られた女性の画像が公開されていて、口コミで「なんだなんだ」と伝わってどんどんアクセス数が増えていく。そしてカウンターがある数に達した途端、衆人環視の中で殺人が!(>O<)ギャ~~ッ--という次第。
あのエピソードは傑作でした。思えば、当時は私なんかまだパソ通をやっていた頃。時代の先を行き過ぎてたか。
今度FOXクライムで『ミレニアム』が放送開始のようなので、再見してみることにしよう。


主観点:5点
客観点:5点

なお2chの関連スレに、サイトのコメントが2ch風だったら--というのが出ていたんでコピペしておこう。爆笑です。
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硫酸捜査官
1 名無シネマ@上映中: 2018/04/10(木) 12:43:31.21 ID:C0lonNeLo
うはwwwwwwwヒドスwwwwww

2 名無シネマ@上映中: 2018/04/10(木) 12:44:37.52 ID:YA/MaTaKe
硫酸←これなんて読むんですか?

3 名無シネマ@上映中: 2018/04/10(木) 12:44:53.49 ID:RYoHEyhey
黙れゆとり

ダイアンの家盗撮シーン
1 名無シネマ@上映中: 2018/04/10(木) 12:43:31.21 ID:C0lonNeLo
なんぞこれ??

2 名無シネマ@上映中: 2018/04/10(木) 12:44:37.52 ID:YA/MaTaKe
幼女キタ━━━━('∀')━━━━!!

3 名無シネマ@上映中: 2018/04/10(木) 12:44:53.49 ID:RYoHEyhey
幼女はマズいだろJK・・・

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「ホビット」遂にキターッ

《allcinema》のニュースより、「『ホビットの冒険』映画化、ギレルモ・デル・トロ監督が正式決定」とのこと。

いや~、メデタイ \(^o^)/。
できれば脚本担当もデル・トロ監督でお願いします。いやもうホントに頼んますよ。

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2008年4月26日 (土)

生演奏と録音の間には

《♯Credo》にて「レッドプリーストの「四季」」を興味深く読ませていただいた。

彼らの公演に計3回行った人間としては(^^;--感想はこちらこちら--やはり何か言わなくちゃね。

実は私は彼らのディスクを持っていないし、今後も買うつもりはない。もし、また来日した時に新しいプログラムを持ってきたらきっとコンサートに行くだろうけど。
そして、例えディスクを買ったとしても一、二回聴いたたけで後はもう手に取ることもしない可能性は高い。
正直、音だけだと彼らのアレンジは聴くに耐えないものになってしまうような気がする。大仰でわざとらしさ満載だし。

しかしその原因はというと、やはりレッド・プリーストの演奏は極めてパフォーマンス性の強いものだから、としか思えない。
見ると聞くとでは大違い--というほどではないが、かなりの差はあっただろう。演奏会場でバカ売れだったCDは単に公演鑑賞記念のおみやげ以上の役割はなかったのではないかと思えるほど。
しかし、それは仕方ないことだ。彼ら自身も自称しているように、その公演は非常に大道芸人的なパフォーマンスが中心で音だけ聴いたんじゃ片手落ち、魅力は半減である。

だが、これは彼らがイロモノだとか言ってるわけではない。「正統的な」演奏のグループにおいても、コンサートで素晴らしい演奏を聴かせてくれたんで感動して録音を買ってみても、全く同じ曲を同じようにやっているにもかかわらず、詰まらない演奏でガッカリすることが度々あった。(あんまりそのパターンが多いんで、最近はライヴでよくてもうかつにCD買わないように注意している)
一体何が悪いのか。演奏者自身か、レコード・プロデューサーか、録音技術か?

私は所詮、録音は生気が抜けた残滓のようなもの、あるいは抜け殻のようなものだと考えるようにしている。味気のない干物のようにいくら噛んでも何も出て来ないこともあるだろう。それでもガマンするしかないのだ。
例えば、クレマン・ジャヌカン・アンサンブルなんか録音でも大したもんではあるが、実際にライヴで聴いてみるとその迫力の一割ぐらいしか伝えていないことが分かる。(もっとも彼らこそ元祖イロモノだと見なす人もいますが^^;)

恐らくは、録音の過程で何かが抜け落ちてしまうのだ。それは生身の発するエナジーのようなものかも知れない。
よく芝居を生で見始めると病みつきになってしまう事があるが(知人は週に三回観てたことがある。私は週一回ぐらい)、生のステージ全体、あるいは役者の身体から発する何ものかに引きつけられてしまうからだろう。
音楽の場合にもそれはある。それもまた演奏者や役者の一つの才能なのだ。そして録音や録画はそれを記録することができない。

ただしクラシック界のことはあまり詳しくないので分からないが、ロックやポップスのジャンルではもちろん録音を前提とした音楽はある。
ライヴを最初から想定していない、純粋な録音の中だけで構築された音楽はあるし、あるいはライヴとCDは別物と割り切っているミュージシャンもいる。さらにはライヴとは録音を一音とて例外なく再現するものだとみなすバンドもいれば、録音と実際の演奏の落差があまりに激し過ぎてビール瓶を投げられる奴らもいる。

まあ、これは私の勝手な思い込みかも知れないが(^^ゞ

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2008年4月20日 (日)

本日の収穫:スズキコージ編

新宿のジュンク堂にスズキコージ60歳記念コーナーが作られていて、つい買ってしまった。

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←「ブラックカードホワイトカード」(架空社)
定型外のポストカード集。変な絵がいっぱいだー。ただ、もうカードって滅多に送る機会なくなってしまったなあ。

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→「スズキコージズキンの大魔法画集」(平凡社)
これまでの絵本以外の作品を集めたもの、かな?

さらにタワレコにも寄ったが、こちらは収穫全くなし(T_T)


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「6台のガンバとオルガンによるコンソート三昧」:調弦時間も6倍か

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演奏:ザ・ロイヤル・コンソート
会場:日本福音ルーテル教会
2008年4月18日

一年ぶりのロイヤル・コンソート、今回はガンバ6台とオルガン1台(今井奈緒子)というメンツだ。

プログラムは英国特有の「コンソート・セット」という「ファンタジアといくつかの舞曲を組み合わせて作曲したもの」を紹介。
一番古いのはタヴァナーからギボンズ、ローズ、マシュー・ロック、パーセルまで、時代順というわけでなく、色々と取り混ぜて演奏した。ただし、前半・後半共にオルガン・ソロで開始という趣向であった。

個人的にはやはりパーセルが良かったかなー。
以前、バロック・チェロを弾いていたのを聴いたことのある武澤秀平は高音のトレブル・ガンバを担当だったが、ロウズの2台のバスガンバとオルガンによる曲の時は、福沢宏と並んでバスを弾いた。近くにいた若い娘さんたち(彼のファンか?)はウットリして聴いていたようである。
いやー、日本でもイケメンかつ才能ある若手演奏家がどんどん登場してきて、オバハンも嬉しいぞっと(^Q^)ヘヘヘ

ただ、雨で薄ら寒い日だったので、調弦は大変だったもよう。なかなか調弦が終わらないんで、その間ついウトウトしてしまって、ハッと気づいたらまだ続けてやっていたとゆう……(^^; 別に大袈裟に言っているわけではありませぬ。

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2008年4月19日 (土)

「コントロール」:凡人はただ聴くのみ

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監督:アントン・コービン
出演:サム・ライリー、サマンサ・モートン
イギリス・米国・オーストラリア・日本2007年

ジョイ・ディヴィジョンのアルバムは買ったが(とっくに解散した頃に)あまりよく聞かないまま終わってしまった。それより、後身のニュー・オーダーの方をよく聞いてたのだった。
私がニュー・ウェーヴの類いをよく聴くようになった時には、イアン・カーティスは既に「早世の天才、悲劇のヒーロー」的な扱いを受けていた。米国ツァーの直前、23歳で自殺!……ロック界ではカート・コバーンの事件が起こるまで、その手のイコンとして一番に取り上げられる存在だったろう。
で、当時はMTV勃興前で彼らの映像も見たことないし、ニュースもろくに伝わって来ず。当時どんなだったんだろうと一端でも分かればと、ロック者の好奇心で見に行ってみた。

原作はイアンの奥さんが書いた本。さらに彼女は共同プロデューサーにも名を連ねている。そのためか、物語は二人が知り合った高校生の時から始まり、家庭内の出来事が中心になっている。
監督は写真家で、ヴィデオ・クリップの監督としても有名なアントン・コービン。当時、クリップの監督してた者は大抵長編映画の監督業へ進出していったから、彼もてっきりそうだと思ってたら、なんとこれが初監督作だとのことでビックリした。

映像はモノトーンで、英国の田舎町の鬱々とした風景や物語の内省的なイメージをよく表わしている。
またライヴ場面も素晴らしい。特にイアン役のサム・ライリーは神がかり的で迫力あるパフォーマンスを見せてくれる。
開始直前にステージに立つことができなくなってしまった彼の代わりに、マネージャーが別のバンド(前座?)のヴォーカリストをはした金で釣って、歌わせようとする場面があるが、確かに代役なんかじゃ効かないレベル。私だってビール瓶投げたるぞー。
それにしてもマネージャーいい加減過ぎ、ようやるよ 思わず笑った。

とはいえ、かような内幕話はほんの少し。ほとんどは、妻と愛人との三角関係の板挟みや持病に悩むといった私生活の話が中心だ。しかも、人気が上がると共に若くして結婚した糟糠の妻に飽き足らず、ギョーカイ関係で知り合ったキレイなねーちゃんにうつつを抜かす--って、こりゃ古今東西どこにでも転がってる話じゃにゃあですか。

加えて、脚本面が今イチ冴えず。例えば、バンド結成の直前に他のメンバーがイアンを「変わった男だ」と評する場面があるのだが、どこが変わっているのか分からない。それまでの彼の描写は普通にロックに憧れる若いモンの標準的姿以外の何者でもないからだ。

結局、彼が自殺に致った経緯はよく分からなかった。天才の内奥は知る由もなく、また死に向かう男の心情も推測不能。のうのうと生きるしかない凡人はただ音楽を聴き続けるだけである。

とはいえ、これを才能のある男の話ではなく、普通人だとしたらどうだろうか。妻を愛しているが愛人とも別れられない。子どもと家庭も必要だ。大きなプレッシャーは耐え切れないが、成功は欲しい……これじゃ、ただのDQN男だよ。
ということで、才能のないヤツは真似しないように。

当時のファクトリー・レーベルの周辺は似たようなバンドがウヨウヨしていたはずだし、金やら利権やらビジネス上の問題から定番の酒・ドラッグがらみの乱痴気騒ぎまで、色んなトラブル要因があったはずだと思うが、そこら辺はほとんどスルーされて物足りなかった。
というわけで、映像とライヴ場面と妻役のS・モートンの役者根性だけが突出した作品と結論したい。


他のブログを見てみたが、映画関係での感想はあまりなくてロック系のブログの方がよく取り上げていた--という事もこの作品の性格を表しているかも。ジョイ・ディヴィジョンをのめり込んでリアルタイムで聴いていたのは、私より数歳年下の世代だと思うが、そういうリアルタイムのファンの感想は発見できなかった。
まあ、そのぐらいの世代はブログなんかあまりやってないか。そういや、映画館の客席もほとんど若いカップルばかりで、オジサンオバサンの姿はなかった。私ともう一人いたぐらい。
ニュー・ウェーヴも遠くなりにけり、ですかな。( -o-) sigh...


主観点:7点(ライヴ・パフォーマンスに)
客観点:6点

【関連リンク】
「映画「コントロール」から振り返る、ジョイ・ディヴィジョンの軌跡」
タワレコのフリーマガジンの記事から。

《こんな映画は見ちゃいけない!》
まさに「禿同」な感想。主人公の内心はセリフとして表出されているのみ。それを理解するのは難しい。

《端倉れんげ草》
作品の感想部分の「上手いからバレるかも。」に爆笑しました。そんなに下手だったんかい……

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←物置の棚から引っ張り出してきた。100年後も残したいデザインですな。やはりLPジャケットサイズでないと。


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2008年4月13日 (日)

日本テレマン協会第181回定期演奏会:次は強大なる敵の出現を望む

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中野振一郎チェンバロ協奏曲大全 第一集:J.S.バッハのチェンバロ協奏曲
演奏:中野振一郎+コレギウム・ムジクム・テレマン
会場:東京文化会館小ホール
2008年4月11日

日本テレマン協会の公演は、いつも行こうと思いつつなかなか行けない事が多い。なぜか、過去に二回ほどチケットを買っておいて行けなかったこともあった。

今回は仕事が終わらず、大あわてで上野にぎりぎり到着という羽目に。危ない所だったよ……(-o-;)

本日のプログラムは『チェンバロと弦楽のための協奏曲』から3曲演奏。その間にチェンバロ独奏の曲を挟むという趣向。しかも、独奏曲は前半はヴィヴァルディの曲を編曲したもの、後半は完全オリジナルの『イタリア協奏曲』からという選曲であった。

コレギウム・ムジクム・テレマンは若手ばかりの総勢5人。ヴァイオリンの姜隆光はかなりの長身のイケメン系、大谷文子は心配になるほどチョー痩せていた--って、どーでもいいことばっかりですね。

中野氏はチェンバロをバリバリ弾きまくり~その勢いとパワーは他の弦の五人を、たった一人で完全に圧するほどであった。
また『イタリア協奏曲』ヘ長調の第三楽章はえらーく速くてビックリ。いくら「Presto」と言ったって、恐ろしいほどのもの凄い勢いのために音がダンゴ状になってるかと思ってしまった。(←ちと大げさに書いております(^^ゞ)

かような中野氏ゆえ、できれば次は同程度の力量と技巧を持った奏者とのガチンコ対決を見たいじゃなかった、聴きたいと思った。あまりの激闘にステージ周囲の客が鼻血を出してバタバタと倒れ、それ以外の客も腰が抜けて立ち上がれなくなるようなヤツを一つ頼む。

アンコールはなくて一時間半強で終了。途中で中野氏が喋った時に「バッハを弾くと体力もいる」(←なんで?)と言ってたから、そのせいかしらん。

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2008年4月12日 (土)

「楽器の進化・ヴァイオリン編」:たい焼き状レクチャー・コンサート

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東京のオペラの森2008ミュージアム・コンサート
演奏:寺神戸亮、上尾直樹
会場:国立科学博物館 日本館講堂
2008年4月6日

4月最初の土曜日の上野公園--となれば花見客で上野の山も騒然となるところだが、今年は暖かくて早々に桜が散ってしまったこともあって、通常の賑やかさであった。その中を科学博物館へ。「ダーウィン展」の行列を横目に隣の入口から入る。

例年、「東京のオペラの森」なる催しでは上野の美術館や博物館でコンサートをやるのだが、今回はその一つのレクチャー・コンサートへ行ってみた。
寺神戸亮がヴァイオリンの歴史についてやるというのだから、これを聞かずしてなんとしよう。相方の鍵盤は上尾直樹である(チェンバロに加えてミートーンのオルガンも)。

さて、満員御礼の古めかしい講堂の壇上に二人が登場して第1曲め……ん?なんか変だぞと思ったのは、寺神戸氏が楽器を通常は首の辺り--というか鎖骨あたりに置くのを、もっと下の胸板に置いてヴァイオリンを弾いていたからである。
その最初のノターリ(この作曲家、全然知りませんでした(^^;1620年代に活躍したとのこと)の曲が終って、早速彼が解説してくれたところによると初期バロック期の絵画に描かれている人物はほとんど胸に置いて弾いているので、最近になって同じようにしてやってみたそうである。当然、指使いなども違ってくるわけだ。

うむむ、日々鍛錬しスパラを弾きこなす一方で、初期バロックにもこの探求心、すご過ぎです。思わず感心。(☆_☆)

本日はヴァイオリン3挺、弓を4本持ってきたとのこと。で、続いてマリーニ、カステッロ、ウッチェリーニを初期バロックモードで弾いてくれた。
その間に時代によるヴァイオリンや弓・弦の構造の変化や当時のヴィブラートの付け方などもしっかり解説。
思えば、昔の北とぴあ音楽祭で開演前にステージに登場してしどろもどろに喋っていた(相当にあがっていた?)頃とは、レクチャー技術も格段の上達であるなあ……なんて余計な感慨にふけってしまったのであるよ。

前半の最後はコレッリ来た~~っという感じで、ここより後期バロックモードに突入。本体も弓も変えて『フォリア』を弾いてくれた。「ヴァイオリンの歴史に変革をもたらした」というコレッリにふさわしい鮮やかな演奏であった。

休憩中は常設展示もやってる日本館の吹き抜けやステンドグラスを眺めてケータイ写真を撮ったりブラブラしたりして時間をつぶす。

後半では、まずビーバーの『ロザリオのソナタ』。当然、スコルダトゥーラの手法の解説がここで入った。
ルクレール、ヘンデルのソナタに続き、ここで遂にバッハ先生登場。これまでの曲の通奏低音とオブリガード・チェンバロの違いを説明して『ヴァイオリンとオブリガード・チェンバロのためのソナタ』を演奏した。
ラストは、モーツァルト。ここで弓を変えてクラシック時代のものを使用した。これによって「語る音楽」から「歌う音楽」へと時代が変わったことが示されるのである。

アンコールでは「折角、3種類持ってきたので使わないと」ということで、モダン・ヴァイオリンを使用してフォーレを演奏した。ただし、伴奏はチェンバロという変則技であった。§^.^§

会場となった講堂は当然残響が少なくデッドな音でその点物足りなかったが、却って音色の違いなど細かい所が判って良かった。
それにしても、終了して科学博物館の外へ出た時には三時間近く経過。まさに頭からシッポまでムギュ~ッとヴァイオリンのアンコが一杯に詰まったたい焼きを食べた気分になった。もう 満腹 満足じゃ~ \(^o^)/
これで料金2000円ナリとは安過ぎだいっ。

次の週の有田先生のフルート編も聴きたくなってしまったが、連チャンになっちゃうので涙をのんで自粛した。

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←終了後の講堂内。ちとブレてしまったです。
両脇の上部にある黒い楕円形の物体が「なんだろう」とずーっと気になって仕方なかった。科学博物館だから亀をかたどってるのかしらん?(まさか!)

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→こういうステンドグラスが四方にあって、さらに天井は円蓋状になっている。

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2008年4月 9日 (水)

その後の「ノーカントリー」

自分の感想を書き終えて他のブログを読んでいたら、「どうしてこんな作品がアカデミー賞を取ったのか理解できない」とか「暴力的な作品が取ったのは初めてだ」なんてという意見を結構見かけてビックリ。
えええーっ!アカデミー賞って清く正しい映画にやる賞なんですか(^^? そんなことはねーだろう。

度々引き合いに出して恐縮だが、暴力度・凶悪度において全く引けを取らない『フレンチ・コネクション』が、当時のオスカーの王道部門をほとんど奪取している。だから、別に初めてでも珍しくもない。

アカデミー賞を『ノーカントリー』が取った理由の一つの推測として
*カンヌで賞を取れなかったから(コーエン兄弟はこれまでカンヌ映画祭で色々と貰っている)
--というのがあって、なんとなく説得力がある。「どれ、さすがに今度は取らせてやるべえよ」という感じだ。

あと、これは個人的な推測だがハリウッド雀どもはこういう
*ブラックで悪趣味なやつが結構好き
--なんではないかと思う。
監督兄弟だって、本当は現代社会批判なんたらよりも、まず殺し屋のキャラクターを面白がって作る気になったんじゃないの。

まあ、観た後も色々楽しめる作品なのは確かである。

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2008年4月 7日 (月)

「ノーカントリー」:死神(の影)を見た男の話

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監督:ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン
出演:トミー・リー・ジョーンズ、ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン
米国2007年

先日のアカデミー賞では最多4部門を獲得、今期話題度第一位の作品が他の受賞作の先陣を切って登場。私が見て回っている映画系のブログでも鑑賞率が抜群に高い。
さて、私はコーエン兄弟の作品については第一作の『ブラッド・シンプル』が今イチだったんで、その後映画館では見ていなかった。『ファーゴ』をレンタル屋で借りたぐらいである。

で、結論から先に言うと、かなり気に入った~(^-^)/

冒頭のテキサスの原野の荒涼たる広がり--美しくはないけど、寂寥感がドーンと迫ってくる。シネコンでは大画面の部屋でやってくれてたんで(客は十数人ぐらいしかいなかったが)その映像を堪能できた。こればっかりはTVモニターなんかでは感じられないだろう。
その後の、金を盗んだ男が現場で見つかって逃走する件りも、深夜から徐々に早朝へと空が変化していく様相をとらえてお見事。

三分の二ぐらいまでは200万ドル持って逃走する男と殺し屋の追跡と死闘が詳細にこれでもかっ状態で描かれる。また、この殺し屋が几帳面かつ偏執的で不気味なヤツ。
さらにツーテンポぐらい遅れて二人を老保安官が追いかける。
ところが残り三分の一では、肝心なところの顛末がハッキリとは描写されない。誰が誰を殺したのか?とか、そもそも金は一体どうなったのか?--よく分からない。とんだ肩すかしだ。最後まで見て怒る奴がいても仕方ないくらいだろう。
そして、唐突なエンディングに至る。
もっとも、その「省略」が逆に緊張感とスピード感と、そして荒廃した暴力を感じさせる要素でもある。

しかし、それらのエピソードの冒頭と結末をくくっているのが老保安官の語りである以上、この物語の主人公は彼ということになるだろう(画面占有率は低いにしても)。
彼は捜査官としてプロファイラー的な面も持っていて、殺し屋と同じように牛乳を飲んで同じ椅子に座って、一度も会っていないにも関わらずその本質を見抜く。
恐ろしい暴力の連鎖に、昔はこうではなかったと彼は嘆くが、しかし1909年のやはり陰惨な事件の話が途中で語られるからには、その暴力性は連綿と過去から受け継がれてきたものに他ならない。

最後の彼の夢の話には色々な解釈があるだろうけど(観た観客の数だけ)、私は死への諦念だと解釈した。彼は死の尾の長い一端がかすめ去っていくのを目撃したのであろう。

それと同時に感じるは、金の恐ろしさよ。冒頭、200万ドルの札束を見て男の人生は完全に狂い、終盤では500ドル札一枚によって少年は急にがめつく変貌する。まるで伝染病のようである。


他に特筆すべきなのは、音の使い方がコワイ(>ω<)ということ。あのボンベのスコーンという音やら、殺し屋の靴下だけで歩く音、さらには深夜のホテルにこだまする電話のベル……。

かように映像も音響もセリフも練り上げられていて、しかも中心人物を演じる3人の役者の演技は見事だし(ウディ・ハレルソンだけは高速で通過してったが(^^;)、その上に今日びの映画にしては珍しく不親切な描写が多くて、どれかの要素に気を取られてると別の方がお留守になって大事なことに気づかずに過ぎてしまう可能性が大。一瞬も気を抜けない。
ということで、見逃した部分をチェックするためにDVDが出たらまた見てみることにしよう。

ネット上の感想は賛否両論だが、ほめている人でもその解釈は千差万別。『パンズ・ラビリンス』ほどではないが、いかようにでも解釈が可能な作品なのだろう。
私が観ていた時にはカップルが数組いたが、金曜の夜のデート・ムービーとしては最悪じゃないの。二人とも映画ファンでない限り避けるべしよ。


主観点:8点(私の方の集中力が切れてたんで)
客観点:8点


【関連リンク」
《★YUKAの気ままな有閑日記★》
私も最後の夢の話をボーッと聞いてたんで焦りました。後で必死に思い出そうとしたりして。似たような人が結構いたんだと分かってホッとしちゃったぜい(;^_^A

《古今東西座》
いくつか殺し屋の似顔絵を描いていたブログがありましたが、ここのが一番雰囲気が似ていて笑えました。なんかボ~ヨ~としている所かな。

《ノラネコの呑んで観るシネマ》
当時の社会的背景が分かります。

《ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記》
保安官の夢の意味の解釈あり。完全ネタバレなので観賞後に見ましょう。

【追加】
《キネマ徒然草》
読むと、この映画に関するモヤモヤした感じの一端がハッキリしたような気になりました。私も9点をつけるところまでは行かず……。

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2008年4月 5日 (土)

「佐藤亜紀子リュートリサイタル」:春の事故に泣く

080405
ヴァイス以降のリュート音楽を辿る
会場:松明堂音楽ホール
2008年3月30日

これまで通奏低音では聴いたことがある佐藤亜紀子がソロ・リサイタルを開くというので行ってみた。
メールで申し込んで送金したら、チケットと共にご本人の手書きのカードがついてて、嬉しかったです。(*^-^*)
でも、アーティスト本人が発送とかそこまでやるの……大変ですねー。

さて、使用するのはテオルボみたいにでかいバロック・リュート。配布のリーフレットによるとヴァイスが開発したそうである。
プログラムはそのヴァイスと、後輩世代のハーゲンとコウハウトという作曲家の作品であった。後者の二人は名前も聞いたことのない、珍しいものだ。コウハウトはモーツァルと同時代に演奏者としても活躍していたという。

佐藤亜紀子は若草色系のお洋服で登場。春らしくってよろしかったですわよ
前半は全曲ヴァイスで、近江楽堂のように(つのだたかしが言うには「風呂場」だそうな)残響が大きい所とは違って、松明堂はリュートの音がダイレクトに響いて、また格別の味わいがあった。

後半、最後のコウハウトの曲になると大西律子などヴァイオリン二人とガンバが入り、曲調は誠に春にふさわしい晴れやかなものだったが、完全に古典派だったんで私には守備範囲外で、ちと聴いてて苦しいものがあった(>y<;) ウウウ

これからも珍しい作曲家を取り上げるとのことで楽しみ。アンケートには、もうちょっと前の時代の作曲家をお願いしますと書いて出してきた。

ところで、帰ろうと駅に着いたら西武線が事故で止まっていた。なんてこったい!

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