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2008年9月

2008年9月30日 (火)

トン・コープマン パイプオルガン・リサイタル:超速小フーガ

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会場:東京オペラシティコンサートホール
2008年9月24日

二日連続のオペラシティである。コープマンは22日にはチェンバロだけの公演をやっていたが、そうするとBCJを挟んで三連チャンになってしまうのでさすがに諦め、結局オルガンの方を取ったのであった。

しかし、昨日のBCJに比べると全然客層が違うのにはビックリ。女性の割合がかなり多い。しかもオバハンだけでなく、若い人も結構いた。私のそばには学生風の女性集団も座っていた。オルガンファンというのはまた別にいるんでしょうか。
しかも、開演前に入ったカフェではオバハンの集団が「今日は何だっけ?オルガンのコンサート?」とか喋っていて大丈夫か

曲目は前半がブクステフーデとF・クープラン、後半がバッハであった。この対照的な組み合わせを前半で聴いて後半に行くと、二人の要素双方がバッハにあるように感じられた。
クープランの曲をパイプオルガンの生で聴いたことはほとんどなかったと思うが宗教曲でも壮麗でド派手なのに驚く。
曲間には全く拍手を入れる余地なく演奏はサクサクと進んだ。

後半のバッハでは「幻想曲ト長調」の第2部のポリフォニーに脳ミソが刺激されていい気持ちになってきた~(^o^)~ それから「小フーガ」は速かった! これほど速いのは聞いたことがないくらい。
ラストの「パッサカリアとフーガハ短調」に至ってドトーのような演奏に、我が脳ミソは音の奔流にプカプカと浮き、聴衆は喝采を送ったのであった。

コープマンはちょっと操り人形みたいなピョコピョコとした動きでおじぎをし、アンコールには短いバッハのコラール曲とスカルラッティのかあいらしい感じのソナタを演奏した。これもウケていた。

それにしても、隣りの若いヲナゴが一分おきぐらいに鼻をすするのでマイッタ(+_+)「鼻をかめ、鼻を!」と言いたくなってしまったぞ。
楽屋からサイン会に出てきたコープマンは思ったよりも小柄だった。ケータイ写真の撮影にも愛想よく応じていたもよう。

来年三月のアムステルダム・バロック・オーケストラのチケットを売っていたので早速購入する。
それから、10月に「水上」と「花火」をやるエルヴェ・ニケのインタヴューのチラシがオペラシティ内で配布されていたが、それによると総勢80人で来日するらしい。この日の公演ではパイプオルガンは上にあるんで当然下のステージは空だったんで演奏を聴きながら眺めていた。楽譜台とか弦楽奏者の椅子などを勘定に入れると80人は乗りそうにはない。どうするんじゃろか(^^? ギュウギュウ詰め込むのかしらん

【関連リンク】
《TEAROOM NODOKA》
カメラ目線のサービスあり。
《エンターテイメント日誌》
これを読むとチェンバロ公演は行かなくてよかった……のでしょうか(?_?;

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2008年9月28日 (日)

罅の入った緑色の……

既に映画系のブログで取り上げられているポール・ニューマンの訃報であります。

子供のころからTVの映画劇場でよく見ていたが(『熱いトタン屋根の猫』とか『引き裂かれたカーテン』とか『レディL』とか)実を言うとあまり好きな男優でもなく、普通の二枚目俳優かと思って全く気に留めていなかった。
それが俄然、気になり始めたのは中井英夫が「彼の瞳はモディリアニの絵の人物のように緑色で罅が入っている」と書いていたからである。で、ようく彼を眺めてみると確かにその通りであった。
映画館で最初に見たのは『評決』だと思う。

出演作品については有名なものは皆さん書いていると思うので、ここは一つハードボイルド・ファンとして彼がリュー・アーチャーに扮した(映画内では違う名前になっている)『動く標的』シリーズをオススメしておこう。
あまり評価は高くないけど、ウォルター・ヒルが脚本に参加している続編の方の『新・動く標的』が結構好きである。(←どうせ、ひねくれ者よ)

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バッハ・コレギウム・ジャパン第82回定期演奏会:予期せぬM川先生の爆弾に降参

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ライプツィヒ時代1726年のカンタータ2
会場:東京オペラシティコンサートホール
2008年9月23日

今回は、オルガン演奏なしで全3曲カンタータである。
最初のBWV43はトップの合唱が華やかで素晴らしかった~ トランペット3本にティンパニも入って、特にコーラス隊は鮮やかで見事であった。満足よ(^^)
7曲目のアリアは、バス独唱にトランペットのソロが絡み、あとは通奏低音のみという珍しい構成。コーイ氏の歌も島田氏のトランペットも難しそうで演奏するのは大変そうだったが、こういう変わった曲が聞けるのもカンタータならではというところだろうか。

次のBWV88ではオーボエ・ダモーレの三宮氏がテノールのアリアで活躍だった。
こちらの1曲目のバスのアリアは二本のホルンが入ってこれまたちょっと変わった響き。

後半はBWV146のみ。ここで、これまでチェンバロを弾いていた鈴木(息子)氏がオルガンを担当。楽器の位置も真ん中に移動してソロを担当した。チェンバロ協奏曲(BWV1052)と共通部分が多い--というか元ネタと言ってよいのか、この場合--この曲を沈着に弾いてくれたのではありますが、正直なところ指揮に専念していた鈴木(兄)御大の爆奏でも聴いてみたかった(^-^;
きっと「マチャアキ、そこまでやるか~(!o!)」みたいに聴衆が騒然とするような感じではないかと……妄想し過ぎですか(^^ゞ

ここでダントツだったのは、ソプラノのレイチェル・ニコルズ。4曲目のレチタティーヴォが非常によかった \(^o^)/ なんというか、久方振りに説得力ある力強いレチタティーヴォを聞いたぞーと感じました。まさに、レチの本髄と言ってよいだろうか。その前のロビン君のアリアも印象的だったけど--。

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BWV1052(とBWV146)の原曲はそもそもヴァイオリン協奏曲であったが、楽譜が消失してしまっているとのこと。
最近愛聴しているベルリン古楽アカデミーのバッハのディスク冒頭曲が、このヴァイオリン協奏曲を復元したものである。当然といえば当然だが、独奏楽器が変わるとこんなに違うかというぐらいに印象が異なる。特に第1楽章終盤のミドリ・ザイラーによる独奏部分がもの凄い迫力。手に汗かくとはこのことかというぐらいだ。
←このジャケットの絵では確かにスパラを弾いてますな。


さて、帰りにお茶を飲もうと思ったら、いつも行ってたオペラシティの店がなくなっていた! ショッ~ク 最近こんなんばっかりよ(T_T) さらにアートギャラリーに寄ったら、デミアン・ハーストの作品集がまだ残っていて、あやうく買いそうになってしまった。あぶねえあぶねえ(^^;

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会場では「神戸松陰とバッハ・コレギウム・ジャパン」というチャペルコンサート200回記念の小冊子を無料配布していた。読みごたえありの文章満載で、これをタダで貰えるとはありがたいこってす。ますます神戸まで行ってみたくなってしまったぞ。
しかし……(-o-;)
読み進めていくとちょうど真ん中あたりのページにあの皆川達夫先生の文章が出てきた。「へー、皆川先生も書いてるのね」なんて読んでいくと……な、なんとそこに炸裂するは先生恒例のオヤヂギャグが!

ヾ(^^#)ゝヾ(^^#)ゝ アコリャコリャ
ヽ(^^)/\(^^)、 アソレソレ
(@∀@) アヒャヒャ

他の格調高き文章の中に潜む破壊的威力のオヤヂギャグ爆弾に、墓の中のバッハ先生もビックリは確実ですう

【関連リンク】
《古楽ポリフォニックひとりごと》
コープマン師匠が来ていたとのこと。気がつかなかったのは二階席だったのかな?
今話題の「世襲」についても色々と考えさせられます。

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2008年9月26日 (金)

「わが教え子、ヒトラー」:独裁者5日間養成講座

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監督:ダニー・レヴィ
出演:ウルリッヒ・ミューエ
ドイツ2007年

ヒトラーの登場するドイツ製喜劇である。監督はユダヤ人とのこと。
1920年代にヒトラーに演説の指導をした教師がいたらしい。(←これは実話だそうな)
で、時を経て1944年の暮れ--5日後の正月に国民を奮起させる大演説をしなければならないのに、自信喪失状態で落ち込んでヒトラーは演説どころではない。そこでかつての指導役がユダヤ人収容所に放りこまれていたのを呼び戻される。(←これはフィクションだそうな)

喜劇にも幾つか種類があって、バカバカしくてギャハギャハ笑うようなドタバタ劇や、ニヤッと笑うシニカルな話もある。どちらかで一本筋を通してくれないと笑いづらい。これはそれがどっちつかずなんだよねえ。
惨めな総統の姿とか、「ハイル・ヒトラー」を繰り返すところなんかはバカらしくて笑えるんだけど……。その調子で大口開けて笑おうとすると後が続かなかったりして困ったもんだ(=_=;)

中途半端になっているエピソードがあるのも目立つ。主人公の長男は父親のヒトラーへの態度に反発していたけど、その後納得したのか? 収容所の仲間の電話を受けて主人公は結局信じたのか? よく分からん。あと、妻が「アドルフ」(偶然にも同じ名前)と彼を呼んだのを聞いて群集が勘違いする場面は、もっと大騒動になるとばかり思ったのになんにもナシなのはどうよ。

こんな調子なんで、「真実をねつ造する」というあたりは面白そうだったんだけど、尻すぼみ状態になってしまった。やはり喜劇は難しいのう~。

主役のウルリッヒ・ミューエはこれが遺作とのこと。ご冥福をお祈りします(+人+)
ヒトラー役の人よりも、ゲッペルス役の人の方が面白かった。
エンドクレジットの最後に登場した女の子はホントに主人公のモデルの子孫なの


主観点:6点
客観点:6点

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2008年9月23日 (火)

苦しくなる母親本二冊

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*『母が重くてたまらない』
墓守娘の嘆き
著者:信田さよ子
春秋社2008年

*『母は娘の人生を支配する』
なぜ「母殺し」は難しいのか
著者:斎藤環
NHKブックス2008年

母と娘の「特殊な関係」について同時期に二冊の本が出た。要するに「揺りかごから墓場まで」完全密着した母娘の関係である。

信田さよ子は自分が担当したカウンセリングの事例の中から、これでもかーっというぐらいにイヤな話を紹介する。その幾つかは、私個人が過去に見聞した母娘関係によく似ていてゾッとしてくる。
自らの価値観を娘に押しつけ同一化させ教育し就職はもちろん結婚相手にまで口を出してくる。ウンザリだー(>_<) しかし、その原因は女が所詮「母であること」しか居場所がない、存在理由がない社会のせいもあるかも知れない。
タイプ別の母分析や、そも「母」とは何ものなのかの解明、さらには問題解決への道筋が最後に示される。実際に今「母」に苦しめられている人にはこちらがオススメか。

もう一冊は精神分析的な観点から斎藤環が見たものだ。実例だけでなく映画や小説、少女マンガなどフィクションも多く取り上げられている。
著者は父-息子などとは違って、母-娘関係に特殊で複雑なものであると捉えて客観的な分析を試みている。その大きな要素を「身体」としたのは確かに頷けた。
身体の「共有」あるいは「支配」というのの卑近な例としては、母娘で服やらバッグを共有して使いまわすというのがあるのではないだろうか。父親と息子がそういうことをしているというのは寡聞にして知らない。(もし「オレはやってるぞ」という方がいたらモニターの前でハイッと手をあげてみて下さい(^O^)/)
こちらの本の方が、どちらかというとあまり母親を断罪しない方向で書かれているようだ。
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いずれにしてもこのような母娘関係においては、父親の存在が空洞化しているのが特徴である。
また、母親から逃走するために結婚するという道を選ぶのは、私にはちょっと理解できない。だーって、同じ轍を踏みそうじゃないかね もっとも、自分が独自の家庭を作ってしまえば母親は迂闊に踏み込んで来れないというのもあるかも知れないが。

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2008年9月15日 (月)

ジュンク堂トークセッション「オレたち洋楽世代」:昔はよかった……かどうかはビミョー

講師:坪内祐三、和久井光司
会場:ジュンク堂書店池袋店
20089月13日

文芸評論家の坪内祐三とミュージシャンでもある総合音楽家(?)の和久井光司のトークがあるということで聞いてきた。二人は同い年で、和久井氏は『「at武道館」をつくった男』(アルテスパブリッシング)というCBSソニーの名物ディレクター(チープ・トリックのライヴ盤は莫大なセールスを叩き出した)のルポを出版したばかりとのことで、テーマは懐かしき洋楽ロックであった。
で、そのディレクターについてや扱ったミュージシャンの話が出てくるのかと思ったらそういうわけでもなく、とりとめもないヲヤヂのロック談義という感が強かった。

聞きに来ていた人は圧倒的に同世代の中年男性やもう少し上の団塊世代風、あとは大学のロック研にいそうな若者(男)、女はギョーカイ風の若い人がチラホラいただけで、チューネンのオバサンは……も、もしかして、私σ(^-^;)一人だけ?(キョロキョロとあたりを見回す)
ワールド・ミュージック系のコンサートに行くと、よくオバサンが多数いたりするのだが、昔ロックやポップスを聴いていた女性はみんなそっち方面に行っちゃってるのかも。

さて、講師二人と私は同年代(;^_^Aなんで懐かしい固有名詞なんかが出てきてそこら辺は笑ってしまった。「キャプテン&テニール」とか「レイドバック」とか、ディランのアルバムタイトル『血の轍』で「わだち」という字を覚えたとか(^○^)
その他、昔と今の音楽の受容の形の違いやジャンルの細分化、ベテラン音楽評論家のディラン評価についての「転向」追求、今評価が高くても当時はそんなことなかったミュージシャン(ビーチボーイズなど)、実は音楽分かってなかった村上龍、曲やアルバムの邦題と歌詞カード--などなど、脈絡なく話は続いた。
終わり近くになって、本に取り上げられたディレクターの野中則雄氏ご本人も参加した。
ついでに坪内祐三の喋り方はちょっと聞き取りずらかった。「ジョン・セイルズ」が「ジョン・セーズ」に聞こえたぞ。

さて、昔は「洋楽」というおおざっぱなジャンルがあってごった煮状態でなんでも聴いていたが、今はジャンルがタコツボ化して狭い範囲の自分の好きなものしか聴かない知らない--という指摘は誠にごもっともと思った。
私もインターネット・ラジオをたまに聴くがロックだけでも極めて細かくジャンルが分けられていて、その中の一つを選局するとずーっと同じような感じの曲ばかり続いて飽きてきちゃう。昔のFENみたいに色んなジャンルがごたまぜにかかったりはしないのだ。

しかし、社会やメディアが変われば音楽も変わる。音楽のパッケージとしてのアルバムという形も消滅するかも知れないし、ジャンルを細分化して売るのは商売としての仕方のない流れかも知れない。聞き手の責任という訳でもあるまい。

全体的には中年ロックマニアの自慢話と愚痴という印象が大きかったが、会場にいた若いモンはどう思ったかねえ。
団塊オヤヂのような自己陶酔と小言の轍だけは踏まないというのが、ワシらの世代(笑)の課題ではなかったのか! そこんとこを鋭く問いたいぞ(*`ε´*)ノ☆

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2008年9月14日 (日)

前田りり子リサイタル「フルートの肖像」:啓蒙音楽家テレマン先生

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第3回「テレマンの時代」
会場:近江楽堂
2008年9月6日

前回、近江楽堂に平日の昼間に来た時はオバサンばかりで驚いたが、今回は土曜の昼間だけあって男性も多数……というか、中年のオヤヂ系の客がやたら目立ったんだが、もしかして「りり子さん萌え~」な男性ファンが大半を占めていたのであろうか?
--って、どうでもいいことですね、はい。

この日のプログラムはオール・テレマン・プログラム。なんでも、いつもは周辺作曲家の作品も取り上げるのにテレマンは作品が多過ぎて、結局彼一人になってしまったとのこと。他のメンツは、平尾雅子、大塚直哉、さらに若手の弟子・長嶋有紀という人であった。

配られた解説やりり子さんの話によると、テレマンはバッハと正反対で社交好きで商売上手、素人市民向けの楽譜もドシドシ出版して「音楽において啓蒙主義」を実践していたと見ているとのことだった。いわく「ほどよく知的だけれど分かりやすくて面白い」のだそうである。

演奏の方はガンバと鍵盤と組んだソナタや独奏、さらにはフルート二重奏など色々な編成の曲をやってくれた。
アンコールはファゴット・ソナタとパリ四重奏曲。
なるほど、テレマンの多彩さがよーく分かるプログラムであった。まだ他にも声楽曲が色々あるわけだし。
それと大きなホールだと普段気づかないが、こうした小さな会場で間近に聴いてみるとトラヴェルソも実に繊細な音の楽器なのだとヒシと感じた。

平尾さんと大塚さんは控えめに縁の下の力持ち役通奏低音に徹してご苦労さん。りり子さんの赤いドレスに対し、平尾さんの灰色系の渋いお召し物もステキでしたわよ

それにしてもつんのめるような勢いで曲間にフルート話をするりり子女史は、まるで自称「笛オタク」の有田正広師匠を思い起こさせる雄弁さである。もしかして、フルート吹きは性格的にこういうタイプが多いのかしらん。同じ笛でもリコーダーだとこんなに喋る人には遭遇したことがないぞ。
「楽器による性格傾向」とかあったりして(^^?


で、こうしてりり子女史の演奏を間近に眺めていながら、そのほんの数日後にご本人に会って気づかなかったのはどうしたことよ--というようなツッコミはしないように

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2008年9月13日 (土)

オリセン古楽セミナー:猫に小判

会場:国立オリンピック記念青少年総合センター
2008年9月9日

「福岡古楽音楽祭が東京で聴ける!」という催しがあると《SEEDS ON HATENA》で知って、そんなウマイ話があるもんかなー(^^?と思いつつ申し込んでみた。

そもそも「オリセン」って何? 「オリコン」ぢゃないし……と首をひねっていたら「オリンピック--センター」の略らしい。
しかし、な、なぜオリンピックΣ(~д~;)(思わずだだっ広い体育館で楽器の練習をしている様子を想像する)

行ってみると、さすが国立だけあって立派なセンターであった。宿泊施設なども完備しているらしい。幾つもの棟に分かれてカルチャー棟というのがちゃんとあって、そこにホールが入っていた。もっとも、恐らく多目的ホールなんで音は良いとは言いがたかった。

セミナーの趣旨からして私のように無関係者はごく少数で、ほとんどが関係者らしかった。受付には女性が立っていたのだが、後でそれが前田りり子だと分かってビックリであった(!o!)「えーと、どこから入るのかな」なんて気もそぞろだったんで全く気づかず……トホホである。

メンバーはBCJ+クイケン一族といった感じ。ブランデン3番なんで弦のみだった。福岡古楽音楽祭の以前の広告にはF・フェルナンデスの名前が出ていたのに、なぜかいつの間にか消えちゃって残念無念である。
時間になると最初に通しで演奏開始。その後細かくフレーズごとにシギスヴァルトが旋律を歌いながらフランス訛りの英語でダメ出ししていく。そのほとんどはヴァイオリン(若松、戸田、P・エレラ)とヴィオラ(サラ+マルレーン母娘、森田)に対してだった。
一方、スパラ組(寺神戸、バディアロフ、ご本人)は指示もなく勝手にやってちょうだい状態であった。
二度ほどヴィーラントが立ち上がって長めに喋ったが、内容は不明。
結局、8時半前に終了した。

自分で楽器を演奏する人ならばさぞかしタメになっただろうが、私のように楽器にさわったこともないドシロートにとっては猫に小判状態のセミナーであったニャ~。
ただ、あれだけ細かく繰り返して一つのフレーズを練習していくのなら、演奏する側と単に聴いているだけの私のような人間では曲の受け取り方が全く違うだろうなあと思った。
それから、今回の音楽祭の聴きどころは海外から来る金管楽器勢だと思ってたんで、それが聞けなかったのはこれまた残念であった。まあ無料だから贅沢は言えんですねえ……。
《チェンバロ漫遊日記》によると、金管は昼間リハーサルをやってたらしい。

それにしても公開リハーサルって初めて見たが、本番で見ている様子と皆さんあまりに違い過ぎ(^o^; シギスなんて楽器がなければただのオヂサンだし、スクエアなインテリ風のデメイエール(鍵盤)も不精髭生やしてタラーッとしている。サラ・クイケンはしきりにゴホゴホ咳していて大丈夫かしらん状態。バディ様は銭湯帰りみたいな感じだった。
そんな中、公演と変わらずキリッとしてさわやか~(^^)~な印象だったのは若松夏美であった。さすが 若松さんっ、萌えてもエエですかっ(*^-^*)ポッ
ただ、後で彼女は私と同年代だと知って多大なるショックを受けてしまった。なんというか……わが身を顧みるとねえ(+_+)ショボショボ


最寄り駅の参宮橋の周辺は変なお店がいっぱいあって面白そう。私の住んでる新興住宅地なんてなんにもないから詰まらんのよ。うらやましい。

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2008年9月11日 (木)

「アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち」:3K(コワい・キモい・カワユイ)

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会場:森美術館
2008年8月9日~11月3日

実は全然期待してなかった。平日の休みが取れたんで、今のうちに行っておこうかなと思い、急きょ六本木へ向かう。土日は混みそうだからいつも森美術館は平日に行くようにしているのだ。しかし、夏休み中だったので学生風の若い男女がかなり来ていた。(アクアリウムとセット券になってるし)

入場してすぐの場所にある鳥を扱った2点は不気味なだけで今一つピンとこなかったが、俄然面白くなったのが「つながったり分かれたり」という広いスペースを使ったインスタレーションだ。変な形の様々な人形が幾つも天井からぶらさがって不規則に回転したり上下したりしている。上下の時間は人形によってバラバラである。床にも動物と人間を思わせる人形が横たわって時折ヒクヒクとけいれんしたりする。
で、人形の形がグロテスクでユーモラスで不気味でヘンテコなのだ。この人形の動きは見てて笑っちゃうけど、全体的にはなんだかコワイ。しばらく眺めてても飽きない感じだ。一面からしか見られない展示だったけど、どうせなら四方から見られるようにして欲しかった。

その他のも、一見カワユイもの(ぬいぐるみとか)を反復的に使って、全く異なるイメージを感じさせる作品が多かった。
「槍」というのは、壁に小さくて変な形のぬいぐるみをぶら下げた槍が何十本も立てかけられている。ただ、一緒に小さな額に入ったスケッチらしきものもそれぞれくくり付けられていて、その絵がすべてテロや暴力らしきものを描いているのだ。なんだか邪悪で魔術的である(でも子供っぽい)。思わず一本一本子細に眺めてしまった。

それから「ふくらんだりしぼんだり」は純粋にバカバカしくて笑えた。人体の内臓や器官(足とか心臓とか)を思わせる巨大なクッションが床に散乱して置かれていて、一定の時間ごとに空気でふくらむようになっている。客が「あ、ありゃ胃だ」とか「眼だよねー」なんてワイワイ言って見ちゃうのだが、特に笑ったのが男性の某器官。完全にクタッとしているのが空気が入ってピンと立ち上がるのではあるが、なぜか途中で力尽きてクキッと折れてしまう。いやはや意地が悪い……(^o^;

しかしなんと言っても、一番キターッという感じだったのは「カジノ」という巨大インスタレーションであった。ヴェネチア・ビエンナーレにフランス代表で出品された作品の一部分を展示したものだとのこと。「ピノキオ」をモチーフにしていてピノキオが魚に飲みこまれて人間として生まれ変わる場面を表わしているらしい。部屋いっぱいに広がった一枚の布によって海面を表しているのだが、同時にそれは誕生の際の産道から大量に流れ出る血液をも暗示していて、色は真紅なのである。
そして、赤い布の下には奇妙な生物や、あるいは何かの破片(?)みたいなものが光ったり消えたりしながら潜んでいる。
最初静かだった布の海面に下から大量の空気が流れ込み、あたかもまるで本当に海水が押し寄せるように布がブワーッと動いて持ち上がっていく--見ていてその瞬間、決して言葉では表わすことのできない、大きく心を揺り動かす何ものかを感じた。久しく味わったことのない感動であった。

私は上からしか見なかったのだが、布と同じ床の椅子に座って見られるようにもなっていた。混んでなかったんでそっちからも見ればよかったと後から後悔した。
しかし、こんなに素晴らしい作品なのに全く見ないで通り過ぎていく人が多いのはなぜだっ(?_?)
なんでも、グロっぽい作品が多いのでアクアリウムのついでに入った客は拒否反応を示す人が結構いたとの噂らしい。

私は大いに気に入って、作者が来日して展示を作っていく過程のビデオもしっかり見てしまった。作品の印象とは違って、ご本人は気さくでユーモアのある細見のオバサン風の女性。
でも、カタログの見本とか一緒においてあったタッシェンから出ている作品集なんか見ると、もっとグロくてコワい作品が多いみたい。あと風刺的なトゲのあるヤツも。
今回の展覧会はとりわけカワユイ目なのを選んだのかなと思った。コワいのももっと見たかったぜい。
あと、サブタイトルの「聖と俗の使者たち」というのは全く見当外れのような気がした。作品の横の解説にも同意できないものがあったしなあ(-_-;)


若手を紹介するMAMプロジェクトは荒木珠奈という人であった。雰囲気がさわやかな大きなインスタレーションだったが、印象は違っても同系統のインスタということでちょっとメサジェの作品と、かぶっちゃった感があり、あの強烈さの後ではちょっと歩が悪かったのが残念。

【関連リンク】
《弐代目・青い日記帳》
「会場から逆走し退出される方を何人か見かけました」--確かに走って逃げてる人がいましたねー。何も逃げなくとも……

《choco rabbit blog》
「これぞ本家のグロカワ」--年季が入った筋金入りのグロカワでした。

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←雨っぽい中を展望台から国立新美を眺める。

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2008年9月 7日 (日)

「この自由な世界で」:踏み付けられたくなければ踏み付ける側に回れ

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監督:ケン・ローチ
出演:カーストン・ウェアリング
イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン2007年

ケン・ローチってもう70歳越えてるのか。それにしては現役バリバリで作品を送り出しております。

ヒロインは30代半ばのシングルマザー。息子を自分の親に預けて外国人職業斡旋会社に勤めているが、セクハラされた揚げ句にクビになってしまう。仕事のノウハウは知っているんだから、と友人と共にロンドンで移民相手の職業紹介所を立ち上げる--と言えば聞こえはいいが、やってることはどう見ても「手配師」というヤツである。
利益を追求するうちに違法行為も犯し、給料支払踏み倒しもお構いなし……と段々エスカレートしていくようになる。さらに金を稼いでブランドものを買い、夜遊びでストレス発散。

しかし、一方で彼女は典型的「悪い女」ではなくて心根の優しい人間としても描かれているから複雑だ。
観客は半分彼女に肩入れし、残りの半分は反感を持って見ることになる。肯定も否定もし切れない宙ぶらりん状態とはこのことよ(x_x)
しかも、全編ドキュメンタリー・タッチで余計な感傷を挟むことなしに描写が続くから、見ていてかなりキツイ。それもかなり索漠とした感触だ。
『ダークナイト』で悲惨な状況の波状攻撃が延々と続いて「カンベンして~(T_T)」状態になったが、こちらでも同じだ。上映時間はずっと短いが、ヒロインがあまりに危ない橋を渡り続けるのに「どうしてそこまでやるんか、もうやめてくれえ」とドキドキして息苦しくなり、疲れ果ててしまった( -o-) sigh...

思い返せば『イースタン・プロミス』もロンドンを舞台に旧ソや東欧から流入してくる移民問題を扱っていた。(ロンドンの光景は同じ街かと驚くほど違っているが)
英国で大きな問題となっているのだろうが、移民問題としてだけでなく非正規雇用の労働問題と考えれば、これはまるっきり日本にも当てはまる。ヒロインのような人間は「先進国」ならどこにでもいるのだろう。

新聞で以前読んだ記事だが、学費が払えなくて大学を中退した若者がどこでも雇ってもらえなくて、唯一拾ってくれたのがサラ金会社であった。給料はよかったが、ノルマをこなして悪辣非情な取り立て行為をしなければならないのに嫌気が差して退職、結局失業状態となってしまったという。良心や人間性を天秤にかけねばまともに稼いでいけぬとはどういうことだろうか。

とりあえず麗しき自由な世界バンザイ \(^o^)/と言っておこうかなっと


主観点:8点
客観点:8点

【関連リンク】
《日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々~》
《モ(以下略》
まさしく「弱者が弱者から搾取する」状況です。

《かえるぴょこぴょこ CINEMATIC ODYSSEY》
ヒロインの立場の分析に同感。監督についても納得の意見です。

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2008年9月 6日 (土)

「液晶絵画」:次のいずれかを選択せよ、あなたが見たのは(1)アート(2)液晶モニターの画面

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会場:東京都写真美術館
2008年8月23日~10月13日

舟越桂を見た後に山手線を一駅乗って、軽~く見てこようかと思っていたのが大間違い。軽くどころか出品作品をすべて完全に見るには朝から晩まで美術館の中にいても時間が足りないかも……

要するに高精度の液晶ディスプレイを使って様々な映像作品を見せようという趣旨のものである。だからといって作品自体は新しいものばかりではなく、ビル・ヴィオラなどは1970年代後半の作品だ。
所要時間も様々、ジュリアン・オピーはあっという間(2、3秒?)だが、楊福東という人のビデオ作品は6つの画面にそれぞれ別の映像が20分流れるから完璧に見るには2時間かかる。
時間に余裕がある日に来るのがベストでしょう。

完全に屏風絵を意識したようなのが千住博。巨大なモニターを何枚も連ねて水墨画のような幽玄な世界である。こうなると見るというより飾っておきたい作品だ。
やなぎみわは原美術館でも見た「老女」シリーズのひとつ。
ブライアン・イーノは自らの環境音楽も使った「環境美術」作品。ただ、裸のねーちゃんが水にプカプカ浮いてる映像を延々と見せられてもねえ。音楽はいいけれど。

オペラシティのアートギャラリーにもあった「鑑賞客参加作品」がここにも 一つはドミニク・レイマンの「異端審問裁判」。死刑を宣告され今にも斬首されようとする男を見物するように客の姿が写りこむ仕組みだ。テーマ的には相当辛辣なんだけど、わざと写りこむのにタイムラグを置いているので、気づかずに立ち去ってしまう人が結構いた。
それから鷹野隆大の「電動ぱらぱら」はモニターを3~4個縦に重ねて色んな人が服を脱ぐ場面を部分的に(足とか腹とか)バラバラにして繋いだもの。その内一つの「顔」の部分に鑑賞者の顔が写ってビックリ(!o!)となる次第--なのに、私の顔は写らないのは何故よっ(`´メ)
必死に写ろうと立つ位置を色々と変えてみる(おバカな奴……)と、今度は下の部分の映像と顔のサイズが合わない。どうも身長170センチぐらいの人じゃないとダメみたい。へっ、私のようなチビは相手にされてないわけですかい、どーせ(ひがむ)。

森村泰昌は自らがフェルメールの少女に扮した静止画作品をイーゼルの上に飾って手前に置き、奥の壁のモニターではその少女の前後の動作を再現して見せるというもの。両方を視界に入れながら見ると、そのなり切りぶりへの驚愕度3倍増となる。

個人的に壁に飾っておきたいのがジュリアン・オピー。風景画も人物画も見てて和みます。今、水戸芸術館で展覧会やってんだよねー。いいなあ(+_+)

ただ、最後に出口の所に華々しく協力企業の名がライトアップされているのを見たらなんだかはっと我に返りシラケてしまった。そう思えば、企業協賛による液晶大画面モニターの宣伝会とも見れなくもない。
思い返すと、ここの美術館は過去にも「パラレル・ニッポン」という建築業界宣伝会みたいのをやってたではないか。アートと産業の麗しい協力関係ですかねえ……。ここはひとつバンザイ \(^o^)/と言ってあげなきゃいけないのかなっと


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2008年9月 3日 (水)

「舟越桂 夏の邸宅」:融解する時間と記憶

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アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画
会場:東京都庭園美術館
2008年7月19日~9月23日

建物自体が都の文化財となっている庭園美術館で舟越桂を展示--とはあまりにハマリ過ぎな企画ではないか。美術系のブログの評判もよろしいようで、平日の昼間に夏休みをとって見に行ってきた。庭園美術館に前回行ったのは確かガラヴァッジオを見た時以来……ウン年ぶりである。

足を踏み入れてまず驚いたのは、 オバサンばっか (-o-;) いや、私σ(^-^;)もオバサンですけど、それにしても割合が多い。残りの女性は若い学生風で、男性は5%ぐらいしかいない。サラリーマンやOLなんかは平日に来られないから当然といや当然だが、それにしてもオドロキである。

私は見損なったが数年前にMOTで彼の展覧会があって、今回はそれ以降の作品を中心に展示しているとのことである。確かその前後に父親の舟越保武が亡くなって以降、作風がガラッと変わってしまったと記憶している。父親の権威の重圧とか無意識にあったんだろか?などと当時、推測したものだ。
その、エロさ爆発な両性具有のスフィンクス像が幾つも展示されている。旧作やドローイングもまじってカーテンの閉ざされたひんやりと空調の効いた薄暗い室内にたたずんでいた。外の木立で鳴く蝉の音が静かに聞こえてくる。中にはバスルームで展示されているのもあった。どれもこれも雰囲気がピッタリ過ぎである。

苦虫を噛みつぶしたような「戦争をみるスフィンクス2」の表情が独特だった。あと、旧作だがセーターを着た若い男性像が猫背なのがミョ~に気に入った。
とはいえ、どれもこれもしっかりと見て印象に残したはずなのに、なぜか見る端から記憶からすり抜けて行ってしまうような気がしたのは何故だろう? 今となっては本当に見たのかどうかさえも曖昧に思えるのだ。

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そんな中で「冬の会話」という作品が展示されていた部屋は中には進めず入口から見るようになっていたのだが、そのために空調をきかせていなかったのか、部屋の中から湿った古い木造家屋特有の匂いが漂ってきて、それがとても懐かしい感じだった。それで、何度もそこに行っては鼻をヒクヒクさせて嗅いでしまった(怪しい奴……)。もしかしたら、部屋の匂いではなくて彫像の木材の香りだったのかも知れないが、不思議なことにその匂いは今でも鮮明に思い出せるのである。

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美術館のミュージアム・ショップはかなり行きにくい場所にあった。外から回れるのかと思ったらダメとのこと。もうちょっと掲示を何とかした方がいいんでは(?_?;
カタログとは別の、展示風景を写した写真集(200円ナリ)を買って帰った。

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