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2008年11月 2日 (日)

「サド侯爵夫人」:一体いつか完璧に満足できる日が来るだろうか

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作:三島由紀夫
演出:鈴木勝秀
会場:東京グローブ座
2008年10月17日~26日

三島由紀夫が澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』に触発されて書いた戯曲をオール男性(登場人物は全て女性)で演じた芝居を見てきた。
肝心のサド侯爵は終始不在であり、その存在は6人の女たちの言葉によって語られるのみである。それを構成するのは膨大な量の台詞であり、さらに三島自身が「舞台の末梢的技巧は一切これを排し」などと書いているもんだから、役者の技量がモロに試されることになるわけで、大変キビシイ芝居(役者はもちろん、観客にとっても)である。

私が観たのはこれで4回目だが、全員の芝居に満足したということはなく、必ずどれかの人物がサエなかったりして不満を残すのであった。
押しの強い役柄のモントルイユ夫人(侯爵夫人の母)と悪徳代表のサン・フォンはともかく、他の役は下手するとパッとしないまま終わってしまう。

さて、今回の公演で話題なのは篠井英介と加納幸和というかつての「花組芝居」メンバーによる共演ということだろう。しかも二人が母娘となって対決となれば期待しちゃうじゃないのさっ(^o^;
驚いたのは台詞回しが異常に速いこと。速すぎて一部聞き取れない台詞もあったりして。確かに、悠長にやってたらエラク長くなってしまう芝居なのでそうしたのだろうか。それとも、加納幸和は初日は台詞を噛んだりしまいには忘れてしまったそうなんで、却って勢いを付けた方がよかったのかも知れない。(その日は大きな失敗は無かったもよう)
それから、ロココ風のカツラを付けてしまうとなんだか二人の顔が似てしまって、幕の最初ごとに一瞬どちらなのか分からなくなってしまったのも意外だった。そういう意味でも親子っぽかったと言える--か(^^?

二人とも「女方」らしい台詞回しゆえに戯画的な所があって、そこは面白かった。見ているうちにこれはまさに母娘の葛藤の物語だということが分かった。この長年にわたる確執の前では、サド侯爵だろうと誰であろうと男の立ち入る隙はない。侯爵とその姑の記述からそのような関係を読み取った三島はさすがと言うべきだろうか。
加納モントルイユ夫人は常に不満そうに口をとがらせているのに笑ってしまった。彼女はきっと娘が何をしても不満なのだろう。例え婿がサド侯爵とは逆に「善良」な人物であっても、今度はその善良さゆえに不満をもらすはずである。

他は残念ながらあまりサエなかったのがサン・フォン伯爵夫人。逆に良かったのはシミアーヌで、この人物の善良で敬虔なるがゆえの退屈さ--みたいなのがよく出ていたように思う。
それ以外にも色々不満な部分はあったが、この芝居で完全に満足できる公演に巡り合えるかどうかは怪しい。--ので、そう思えば水準の出来だったと言えよう。

グローブ座に行ったのは恐らく十ウン年ぶり?ぐらい。昔ですなー 出入り口が以前と反対側になっていたので驚いた。他のブログに、昔の入口の方に行ったら追い返されてしまったと書いてあった。やはり、ジャニーズ系?の公演が多くて終演後に騒がしくなってしまったので苦情が来たので変更したんざんしょか。


確か安部公房と三島の対談で読んだと思うが、二人とも当時の新劇に不満を抱いていて、翻訳劇でカツラをかぶってガイジンの役を演ずるのをバカらしいと論じていた(安部公房は、『桜の園』は大正時代の北海道を舞台にしてやればいいと言ってた)。もちろん当時は小劇場なんてものは存在してなかった頃である。
そのような新劇へのアンチテーゼとしてこの芝居が書かれたのだろうが、いくら「セリフだけが芝居を支配し」と本人が書いていても、朗読劇ではないんだからただセリフを語ればいいという訳でもない。ここは難しい所である。

私が過去に観たのは、1990年に二回(あともう一回は思い出せない(^^;)。一つは水戸芸術館でフランスの女性演出家による、やはり男性だけの配役のもの。この時はモントルイユ夫人が若松武でルネは同じく篠井さんであった。十八年も前だから今よりも篠井さんのルネはかわいらしく--だったかどうかも含めてほとんど覚えていな~い(>O<)
ただ一つ覚えているのはサン・フォン役の野村耕介がなぜか胸をはだけて見せたことだけである

もう一つはベニサン・ピットでD・ルヴォー演出のもの。壁面を鏡にして本物のローソクを点けたりして装置も印象的だった。この時は玉三郎がサン・フォンを演じていた。さらにその昔はルネをやったという。見てみたかった(残りの五人は全て女優)
モントルイユは南美江で、昔のパンフを引っ張り出してみると「日本における全ての『サド侯爵夫人』でこの役を演じ」(当時)と書かれているぐらいの当たり役であった。まさに彼女は狡猾で、俗物で、支配的で、恫喝と泣き落としを自在に使い分ける怪物的な「母」そのものを体現していた。彼女を越えてこの役を演じるのはこれからも難しいだろう。

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【関連リンク】
《ハンニバルと象に乗る》
批判的な感想

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