監督:ルキノ・ヴィスコンティ
出演:ダーク・ボガード
イタリア・西ドイツ・スイス1969年
雑誌「トーキングヘッズ」第37号「特集・デカダンス」で『地獄に堕ちた勇者ども』について書いたのだが、紹介を目的にした短いものなので、こちらのブログの方に感想など書き連ねてみたい。
この映画も見てから下手するともう二十年ぐらい経っているかも知れない。ビデオで見たのか、名画座で見たのかさえも覚えていない。実はかつてはこの作品は他のヴィスコンティの同時期の作品に比べるとあまり好きではなかった。当時はこの後の作品である『ベニスに死す』や『家族の肖像』『ルートヴィヒ』の方がずっと気に入っていたのだ。
だが、今回本当に久し振りに再見して
なんだよ!面白いじゃねえかっ ( ̄Д ̄;)
と思ったのは秘密だけど、紛れもない事実である。
もっとも、同時期のヴィスコンティ作品の中では一般的に評価が低いのは確かのようである。投稿式の映画サイトでの平均点を見ると5~7点ぐらい。極端に高い点数と低い点数が混じっている。また、公開当時の「キネ旬」のベストテン(評論家の)を見ても9位で、『ベニス』『家族』の1位はもとより『異邦人』(失敗作といわれているらしい、未見)の8位よりも低いのだ。
冒頭は1933年のドイツ、古くから鉄鋼会社を営む男爵家の邸宅。「国会議事堂放火事件」と同じ夜に設定されている。この事件を契機にヒトラーによってドイツの民主主義が崩壊したという。
最初にいきなり大勢の人物が登場してきて、何が何やらワカラン状態になってしまうが、この一族の人々で様々なものを代表させているようである。
老男爵はいにしえの家父長制と産業を。
彼のお気に入りの姪エリザベートは愛情と家族を。
エリザベートの夫ヘルベルトは自由主義、ひいては思想自体を。
突撃隊員である男爵の甥コンスタンティンは軍事と男性性を。
男爵の亡くなった息子の未亡人であるソフィーは打算と欲望、特に情欲を。
その長年の愛人にして会社重役のフリードリッヒは企業と野心を。
この物語は、それらの象徴全てを新興勢力であるナチズムの権化の親衛隊幹部アッシェンバッハが抹殺するかまたは取り込んで行く過程を描いたものである。
さらに、コンスタンティンの息子のギュンターが表わす誠実さや学問・芸術、さらには男爵の孫マルティンの退廃的な享楽主義や変態性さえも例外ではなく、見事に篭絡し搦め取ってしまうのだ! 恐るべし
当然、この一族が象徴しているのは一つの国家の運命でもある。
最後に悪は勝つ……のだが、その後の歴史の変転を思えば、見ていて何もかも虚無の淵に転げ落ちていくような気分にとらわれる。
ラストのソフィーとフリードリヒの結婚式は、ただ一人一族のメンバーでなかったフリードリッヒが長年待ち望んでいたことであった。同時に、それは男爵家の当主になることでもあるのだが、恐ろしい滅亡と死のイメージに満ちている。とても正視できないコワイ場面だ。
ヴィスコンティはその過程を淡々と即物的に突き放して描いている。大体にして観客が見ていて感情移入できる人物などほとんどいないのだ。いたとしても物語が進むうちに消えてしまう(=_=;)
潤いある叙情的な部分もない。殺伐としたもんである。『仁義なき戦い』といい勝負かも…… だから、私も最初に見た時には今イチ気に入らなかったのだろう。
しかし、それとは全く別にほとんど物語の大筋に関係ないエピソードが長く続く場面が幾つかある。完全にカットしてもいいか、さもなくばもっと短くできそうな場面なのだ。
*ギュンターの大学で焚書が行われるシーン。レマルクはともかく、ヘレン・ケラーとかジャック・ロンドンなんかも入っている。巨大な火がメラメラと燃え上がり、熱狂した若者たちが旗を振る。非常に狂躁的な場面だがこれまた淡々と撮っている。
*小児性愛者であるコンスタンティンが少女に手を出す部分。屋敷でエリザベートの娘に対しての場面と、続く愛人のアパートの隣室での話を合わせるとかな~り長くてしつこい。現在の映画ではとてもこんな場面を撮ることはもう不可能だろう。
*突撃隊が湖畔の保養地で繰り広げる乱痴気騒ぎ。この長さが20分だというのだから長い、長過ぎ! 完全に映画内の均衡をブチ壊している。
昼は全裸で水遊び。夜は酒場で飲み歌い騒ぎ、女給の服をはぎ、若手兵士のキレイドコロが女性下着をつけて化粧してラインダンスを踊る。宴が終わった後は男同士で寝室に消えて行く。もともと「男色・暴力・酒乱」で突撃隊は顰蹙を買っていたという。
もっとも『第十七捕虜収容所』(1953年)のような「健全」な戦争映画でも女装ラインダンスが登場してたので、軍隊では定番の娯楽なのかも知れない。自衛隊でもやってるんざんしょか(^^?
ともあれ、ここは『サテリコン』の冒頭と並ぶ映画史上に残る狂宴場面に間違いないだろう
そして、その夜こそはいわゆる「長いナイフの夜」であった。深夜、親衛隊が粛正のために突入してきて彼らをバリバリ撃ち殺してしまう。裸の若い兵士たちが撃たれてゴロゴロ転がる所まで丁寧に描かれている。
ここを面白いと思うか退屈と思うかは、完全に人によって異なるようだ。
*ここは本筋に関係ある部分だが、マルティンと母のソフィーの母子相姦場面。またこれが、あられもない描き方で見ていてウツになるのは必定だろう。これまで溺愛しながらも息子を利用することしか考えていなかった母親が、一変して陶酔と恐怖を感じる。皮肉なことにその時こそが「母」を自覚した瞬間なのである。
これらの場面があるからこそ、毒々しくも記憶に残る作品になったとも言える。
イタリア語の原題は『神々の黄昏』だそうだ。物語の根底には神話的構造がある。それは古今東西いずこのどの時代にも通用する話である。だから、いささか強引だったりブチ壊れている部分があっても気にするもんではないだろう。
エリザベート役のシャーロット・ランプリングはこの時23歳ぐらいだとか。役柄では子どもがいる設定だがさすがに若い。細くて肉がなくてまるで蜻蛉みたいな美しさである。
ヘルムート・バーガー演ずるマルティンは女装趣味でロリコンでマザコンでおまけにヤク中のボンボンというどーしようもない役だが、あまり憎めないのはなぜか。「情けない二枚目」の役得だろうか。
それにしても、巷では冒頭に登場するディートリッヒを真似た彼の女装が美しいという評価だが、個人的にはとても賛成できない。いかにも男が女装しましたという感じで、どちらかというとグロテスクな印象がある。
他の役者も名演ぞろい。公開時どういう評価をうけたか分からないが、アッシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)の悪魔の如き冷徹ぶりがまた憎い!憎いっすよ~
見終ってふと考えたのは、役者の身体についてである。何か見ていて彼らの身体というものが画面の中から迫ってくるように生々しく感じられたのだ。
映画を見ていて(特に時代物)「衣装が素晴らしい」などと思うことがあるが、果たしてその時見ているのは衣装なのだろうか。むしろ衣装を通して役者の身体を見ているのではないだろうか。同じ衣装であっても脆弱な身体(これは「痩せている」とか「ブヨブヨしている」という意味ではない)が着ていたら、素晴らしいなどとは思わないのではないか。とすれば、やはり観客は役者の身体を透かし見ているのだ。
だが、同じ役者であっても別の作品では貧相な身体に見えてしまうことがある。だとしたら、その身体の半分は監督やその他のスタッフが作り上げたものなのかも知れない。
二十年ぶりに見て評価が一変してしまったわけだが、やはり人間の好みというのは歳と共に変化するもんなんだろう。だったら、公開時に見て全く理解できなかったヴィスコンティの遺作『イノセント』も、あと二十年ぐらい経ったら理解できるようになるかも--って、そんな悠長な(@∀@)
退廃度:10点
悪の豪華度:10点
【関連リンク】
《*.。~ 悠々日録 ~.。.*.》
H・バーガーの問題写真、ランプリングの画像や相関図もあり。鑑賞の際にお役立ちな記事です。
《ミケランジェロ広場の午後》
ヴィスコンティ家--めくるめく貴族の世界をご堪能下さい。
「かつてスカラ座には定期予約席があり、これは彼らの私的財産であり、ヴィスコンティ家は、オーケストラボックスのすぐ上、第一列左から4番目の予約席であった。」
私的財産……