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2009年3月

2009年3月29日 (日)

聴かずに死ねるか!マイナー・コンサート編 4月版

*3日(金)「ルーヴル美術館展17世紀ヨーロッパ絵画」記念コンサート(国立西洋美術館)
太田光子、金子浩 他

*7日(火)「PRELUDE & SUITE」(淀橋教会)
花岡和生、野入志津子、福沢宏

*11日(土)「ヘンデルのフルートとチェンバロの音楽」(松明堂音楽ホール)
有田正広&千代子

*28日(火)モンテヴェルディ:ミサ「イン・テッロ・テンポレ」(日本福音ルーテル東京教会)
ラ・フォンテヴェルデ

ル・ポエム・アルモニークはマイナーじゃないんで割愛しました(^^;

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2009年3月24日 (火)

劇団新感線「蜉蝣峠」:25年目の浮気

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作:宮藤官九郎
演出:いのうえひでのり
会場:赤坂ACTシアター
2009年3月13日~4月12日

新感線と宮藤官九郎の組合わせは以前《メタル・マクベス》があったが、今度は時代物ということで期待して職場を鼻息も荒く早めに出発……したのはいいのだが、な、なんと地下鉄で友人との待ち合わせに失敗(>_<) 私のケータイはAUのためか、地下鉄の車内では全くつながらないで、連絡も取れず。さらに焦ったせいか関係ない駅で途中下車したりして、会場に着いた時には既に開演。堤真一がシャモの着ぐるみ着てギャグ飛ばしてる場面であった(火暴)
いやー、もうケータイを過信してはいかんとつくづく思い知りました(v_v) やっぱり直前に相手の職場にFAXで連絡事項を送信するのが一番確実ですよねっ

それはともかく、感想を簡単に言えば「なんかビミョ~」とか「判然としない」ぐらいしか浮かんで来ない。
最初、一つの色街にヤクザの組が二つ--となると、てっきりクロサワ映画のもじりかと思ってたら、話はそういう方向に行かずなぜか伝説の通り魔殺人鬼の復活譚になり、かと思えば白土三平になってしまうのであった。
しかも年月の経過がおかしい。話を継ぎ合わせてみると、どう考えても古田新太と堤真一の役の年齢は四十代半ば?、高岡早紀扮するヒロインだって少なく見積もって三十代後半である。他の登場人物の大半も同様。オヂサンオバハンの物語なんですかっ(?_?;

しかも、肝心の二人の男がどういう性格でどういう考えを持っている人間なんだか、見ていてよく分からなかった。それも物語が進むにつれ余計に分からなくなっていくのである。作者には分かっているのだろうか。
そして、そこで語られていることのほとんどが実体のない希薄な言葉だけのものとしか思えなかった。だからカゲロウなのかしらん('o';

というわけで、ラストも釈然としないままに終わり「なんだかな~」感のみが残ったのであった。
ただ、古田新太と堤真一の殺陣は素晴らしかった。唯一劇中でそれだけがハッキリと判然としていた。堤真一は「ニヒルな剣士」風がピッタリ(剣士じゃなくてヤクザだけど)。
【関連リンク】
《日々溺れ、ぷかり浮草》
私は二階席だったのでフンドシの色までは見えなかったのが残念です。

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2009年3月22日 (日)

「ダウト ~あるカトリック学校で~」:疑わしきは我関せず

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監督:ジョン・パトリック・シャンリー
出演:メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン
米国2008年

質問:あなたはこの映画を見て考えに変化がありましたか
A-より疑い深くなった
B-他人をもっと信じようと思った
C-何も変らない
D-分からない

※「A」と答えた人へ
トニー賞&ピューリッツァー賞ダブル受賞の芝居を作者が自ら監督・脚本を担当。さらに主要人物4人がオスカー・ノミネートという話題の作品である。
その4人はそれぞれ対照的な性格・立場であり、錯綜する価値観や損得、信条、世代観が複雑に絡み合う。一体、誰の言っていることが正しいのか、疑い出せばキリがない。

※「B」と答えた人へ
物語を素直に受け取ればカトリック校の校長であるシスターが自分の気に入らない若手の神父に、イチャモンをつけて追い出しを計る陰謀話だ。彼女は神父の疑惑の行動を知るやそれを検証することもなく教義を振りかざし決めつけて罪を確信する。誠に狂信のなせる業と言えよう。

※「C」と答えた人へ
しかし、ネット上の感想を見れば素直な「校長悪者説」の意見は三分の一である。別の三分の一は「見ているうちに段々と神父が怪しく思えてきた」という感想だった。
確かに、頑固な教条主義者のように見える校長が実はそうでもない人物なのが徐々に明らかにされていく。むしろ融通が全くきかず柔軟性に欠けるのは若いシスターの方だろう(校長がジョークを言ったのに全く理解してない)。それに反比例するように神父の疑わしさは増してくるのだった。
ここら辺のM・ストリープとP・S・ホフマンの演技は見事--というか、この二人ならこの程度はお茶の子サイサイといった所だろう。もっともホフマンは肉が付き過ぎでとてもバスケのコーチが出来るようには見えんが……(いや、それとも「大食」の罪を暗示している?(^=^;)

※「D」と答えた人へ
見ていて驚いたのは、校長が神父を校長室へ入れた時に、彼が躊躇することなく校長の椅子へ座ってしまったことだ。確かに教会内の位階は上といっても、ビックリである。この行動には校長が年齢が上で校内の立場はトップであっても、位が下でしかも女なんだから自分が上座に座って当然という意識が露呈される。つまり、神父はラディカルな若い改革者のように見えながら、一方でいざとなれば権威主義・男権主義振りかざす(二人の「対決」場面でも、その手の差別的言辞を吐く)、善良にはほど遠い人物なのが暗示されている。
さらに、彼が少年たちを集めて話をしている場面も何やらホモ・ソーシャル的でイヤ~ンな気分である。

というわけで、この物語の中の誰に共感し信じるかは観る者それぞれによって違ってくるだろう。以前、『奇跡の人』を十代の若者が見ると感情移入するのは主人公のサリバン先生ではなくて、ヘレン・ケラーの方だという話を聞いたことがある。それと同様だ。年齢が若い人は神父に共感するだろうし、子どもを持つ人は少年の母親に感情移入するかも知れない。
しかし、もはやオバハンである私は鬼校長の方にいたく共感してしまった。やっばりトシのせいですかねえ もう好かれずともいいから、このように強権をビシバシ振るって周囲を従わせたいもんだぜっε-( ̄ー ̄)ムフッ(ストレス溜まっております(x_x))


ただ、そんな善悪がモザイク上に散りばめられた性格設定も全て作者の成せること。作者が設定した箱庭の中でウロウロと考え惑わされているという歯がゆさは否めない。
それにねー、視力の衰えた老シスターをかばうことと、同性愛の傾向を示す少年に手を出すことを、あたかも同等の行為と見なしているような作者のレトリックには到底納得行かないんである(それが彼の主張したい本筋ではないことは承知しているが)。

質問:あなたが信じたのは誰ですか?
A-校長
B-神父
C-若いシスター
D-母親
E-作者
F-誰も信じない


主観点:6点(考えているうちに段々腹が立ってきた)
客観点:8点(役者の演技はみなさん申し分なし)

【関連リンク】
《まどぎわ通信》
演出が凡庸というのも同感です。

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2009年3月20日 (金)

「教育格差が日本を没落させる」

著者:福地誠
洋泉社(新書y)2008年

なかなか読んだ本を紹介するヒマが取れない。これも実際に読んでから結構時間が経っているが、面白くて目ウロコ本だったので簡単に紹介しよう。

近隣にある古い伝統ある公立高校の進学校が相次いで、文化祭・体育祭といった行事の日数を減らしたり潰してしまったり、また部活の活動を削減していった(その手の学校は、部活熱心で行事に引かれて入学を希望する子どもも多かったのにである)。さらに授業時間を増やし、土曜登校や夏休みや冬休み中も実質的に授業を行っている。

どうして、学校の特色をなくすような方向に行くのだろうかと常々疑問に思っていたが、この本を読んでようやく納得行った。

おおざっぱに社会の階層を上流・中流・下流と分けた時に、上流に属する家庭の子どもは勉強は出来て当然な環境である。そしてさらにその上に文化や芸術を受容する余裕がある。こういう子どもたちが行くのは有名私立だ。

しかし、中流になるとそんな余裕はない。さらに近年は格差の拡大によってこの中流層が増えており、互いの競争は激化する。この層の家庭は公立校へ行きそこで望むのは学力一本やりだ。学力によって階層を少しでも上に昇るしかない(または下降を防ぐ)。従って、行事や部活などやっているヒマはないのだ。
ここで求められているのは公立学校の予備校化であり、そこにはかつての牧歌的な学校生活などは存在しないのである。地方にある公立有名校やその下の中堅校は親のニーズに応えて予備校を目指しているに過ぎない。

さて、下流家庭になると今度は学校へ行く・教育を受けるということ自体にもはや価値を置かない。親や家族、環境的にもそのようなモチベーションがないのだから、子どもがずるずると教育の場から滑り落ちかけても止めるものはない。
以前、ケータイを二つも持っていて見せびらかしていた高校生が、その直ぐ後に学校を授業料が払えないために退学したという話を聞いた時に非常に驚いた。公立校なんだから、ケータイ料金二台分を代えれば払えるはずだろう。なぜだ(?_?)
だが、この本で理解できた。その子や親にとっては恐らく、教育の価値はケータイ二台分以下だったのである。それはいいとか悪いとかではなくて、そういう個人の価値観だから仕方ないのだ。


公教育においてもエリート教育優先が方針とされ予備校化していくことを著者は批判している。確かに、出来の悪い子に手間とカネをかけてもドブに捨てるようなものとはいえ、このような現状で果たしていいのだろうか

私はエリートを優先する前に、公教育に最低限これだけは望みたい。
クラスのほぼ全員が
*九九を全部そらんじられる
*アルファベット26文字全部書ける
*縦書きの文章で、段落の最初は必ず一文字下げる、てにをはの使いかたなど基本的な作文規則

--ができること。実際には中学卒業時にこのレベルがクリアできない子どもが少なからずいるはずだ。
エリート教育はそれからだろう。まあ、国家にとっちゃ九九もできない国民の方が扱いやすくていいかも知れんけどさ(^O^)

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早過ぎの訃報

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女優のナターシャ・リチャードソンが亡くなったとのこと。こちらのデータベースには既に書き加えられている。
錚々たる映画一家の出だったんですねえ。リーアム・ニーソンがダンナさんだとは知らなかった。
出演作で私が見たのは多分『ゴシック』ぐらいで、そこではヒロインのメアリ・シェリーを演じていた。いかにもケンちゃん好みの端正な美女でした。あとはもしかしたら『ミッドナイト25時』も見ているかも。ルトさん主演作なんで(^^;)

近年では舞台の方が活躍していたもよう。
まだそんな歳ではないのに残念である。ご冥福をお祈りしたい(+人+)

【関連リンク】
《Programmes》

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2009年3月15日 (日)

「ヴァイヒェンベルガーとバッハの音楽」:職人奏者と万能作曲家の間に

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CD「ヴァイヒェンヴェルガー」第46回レコードアカデミー賞受賞記念
演奏:佐藤豊彦
会場:近江楽堂
2009年3月13日

サブタイトルにあるように世界初録音であるヴァイヒェンベルガーというリュート奏者の作品集(正式なCDのタイトルは『華麗なる様式』)の受賞記念コンサートである。過去にこのコンサートでも演奏されたことがある。

--といっても、あまりにマイナーな作曲家のせいか会場は満員御礼とはいかず、残念ながら4分の3くらいの入りであった。
ガット弦のため始まるまでは空調が生暖かい温度に設定され、開始直前に切られてしまった。空調の風と乾燥が弦に致命的だそうだ。そのせいもあってか、今宵のリュート様はCDで使用された齢400歳の「グライフ」ではなかった。

佐藤師匠の前説によるとこの作曲家(バッハより10歳ぐらい年上)は、本業を別に持っているリュート奏者(当時はそういう人がほとんどだった)であり、音楽専門の職業にいたわけではなく、ただリュート一筋にやっていた音楽家とのことである。
つまり、その楽器の世界だけに通じた職人だったそうだ。その良さはガット弦を使うようになってから気づいたという。
もっとも、ヨーロッパ各地で楽譜が見つかっていることから、当時の人気作曲家であったことは間違いない。

一方、バッハは彼に比べて遥かに作曲家として格上で、どんな楽器でもオールマイティでいかに崩して演奏しようとやはりバッハの作品であり続けるが、リュート曲を見るとこの楽器の特性があまり生かされている作品とは言えないという。(以前から「バッハは本当にリュートを弾いたのか疑問」説がある)

そこで前半のプログラムは、CD収録の曲とバッハのチェロ組曲第3番を編曲したものが両作曲家の違いを比較するように演奏された。
このように二人の作曲家を比較するように並べてみると、なるほど両者の違いがよく分かった。
後半はCD録音後に手稿譜から見つかった曲が中心。そしてアンコールはやはり同じ手稿から発見された、作者不詳だがヴァイヒェンベルガー作と推定される「シチリアーナ」だった。
どの曲にしても近江楽堂のような極小ホールでしか聴けないような('-')味わいであったよ。


さて同じ夜、オペラシティのコンサートホールでは「ウルトラセブン」の音楽会(?)をやっていて家族連れで大盛況だったし、リサイタルホールではスペインのギター音楽の公演あり、新国立劇場では『ラインの黄金』、中ホールの方ではプーランク……と極めて狭い区域の中で各種の西欧音楽が同時に演奏されていたのだった
す、素晴らしい文化国家(!o!)--というより、なんかよくよく考えると奇妙な感じを受けるのは私だけか。

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2009年3月14日 (土)

「シリアの花嫁」:出戻り禁止!情無用の国境線にヨメの涙は渇く間もなし

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監督:エラン・リクリス
出演:ヒアム・アッバス
イスラエル・フランス・ドイツ2004年

題名や宣伝からてっきり「花嫁」が主人公かと思っていたら、そうじゃなかった。主人公は花嫁の姉の方だったのだ(!o!)

元は一つの地域だったのがイスラエルの占領により二分され、親類縁者も分断されて会うこともできぬ村が舞台の物語である。このような歴史的背景については全く知りませんでした(・・ゞ 無知です、反省。

その村のとある家族の娘がシリア側に嫁に行くことになったが、一度国境を越えたら二度と戻っては来れない。しかも、この家族には色々と過去のトラブルがあって、一家が集まるこの機会にまた噴出しそうな雰囲気なのだった。
花嫁は会話から推測するとどうも出戻り(?)らしい。長女である姉はダンナとうまく行ってない(だから余計に妹には幸せになって欲しい)。その弟は異教徒と結婚して勘当状態、父親は政治犯で警察に目をつけられてる--などなど。

というのが前半で、後半はようやくイスラエルの国境を越えて緩衝地帯に出るが、手続き上のトラブルと両国の担当官とシステムのせいでシリアに入国できなくなってしまって右往左往という羽目になる。

膠着した状態で何の解決策も見出せない時に、打開するために花嫁はある行動を取る。それを見た姉もまた決意して新たな行動を取る。二人の歩む方向は全く正反対であるが、実質的には全く同じなのだ。

こう書くと二人の女性の生き方の話のようであるが、国境で右往左往する中の一人であるフランス人赤十字職員をまじえると、同時に中東問題で困惑する西欧諸国への皮肉も入っているという解釈も成り立つとのこと。
まことに、国際紛争なテーマを扱いながらユーモラスで、一人の登場人物も無駄なことなく生きているし、自国の政策への皮肉な部分もあるが、泣かせる場面もあり(終盤で鼻をすすっている人が結構いた)よくできていて文句は全くない作品である。

……とほめた所でナンなのだが、だからと言って個人的にこの作品が好きかというと、困ったことにそういうわけではない。ひねくれ者にはよく出来過ぎた映画なんだよねー。もっとブチ壊れたヤツが好きさ
やっぱり岩波ホールは鬼門かね(x_x)

で、結局は「まー、あの花嫁さん向こうのゲートは通れるのかしらねえ、心配だわー」という近所のおばさんモードの感想にまたも落ち着くのであった。


主観点:6点
客観点:8点

【関連リンク】
《遥か遠くへ》
背景が色々と分かります。どうして国境の向こうに別の弟がいるかなーと疑問だったが、納得しました。

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2009年3月10日 (火)

「ロルナの祈り」:金では愛は買えないと人は言うが、国籍は買える

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監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ
出演:アルタ・ドブロシ、ジェレミー・レニエ
ベルギー・フランス・イタリア2008年

*若干ネタバレぎみの感想です。

食事の場面をよく作品の中に登場させる監督というのは結構いる。いかなる形であっても、物を食わずには人間生きていけないのは当然。だから頻繁に映画内に出て来ても不思議ではない。しかし、同様に必要不可欠にも関わらず意外と見た覚えが少ないのが「金を数える」場面である。

このダルデンヌ兄弟の監督作品には金を数える場面がイヤというほど出てくる。思い返してみれば前作の『ある子供』でも延々と紙幣を数える場面……いや、正確には紙幣を数える音が聞こえてくる場面があった。主人公と観客は延々とその音を聞かされた揚げ句「一枚足りな~い」という皿屋敷みたいな恐ろしい状況に転がり込んでいくのである。

さて、こちらではもっと色んな状況で金を数えている。だが、それは当たり前のことだ。金、金、金--金がなくては生きてはいけぬ。ましてや、他国からの移民であるならば。紙幣一枚、コイン一個だっておろそかにはできん。その他にも至る所で金は登場する。

そのようなシビアな状況の中で、ヒロインのロルナは犯罪組織の斡旋でヤク中の若者と虚偽結婚をし、国籍を得ようとする。親兄弟からも見捨てられた状態の若者の価値は、ただベルギー国籍を持っているということだけなのだ。
他所にちゃんとした恋人がいて、最初は口をきくのもイヤな感じで冷たかった彼女が、どうして若者を受容するに至ったのかは今一つ分からなかった。想像するに、夏目漱石が訳した諺のように「可哀そうだた好きだってことよ」なのだろうか。

それにしても、その後の事件の起こった肝心な場面をすっ飛ばした(それも二回も)のには驚いた。カンヌ映画祭で脚本賞を取ったのはこの大胆なすっ飛ばし具合が評価されたのだろうか。いずれにしろ観ているものには欠落感を感じさせて衝撃である。

何事もなかったように恋人との新生活を築こうとする彼女は若者の子供を妊娠したと思いこむが、それは想像妊娠であった。とすれば、彼女が孕んだのは罪悪感だったのだろうか?

最近、見聞きしたことと合わせて感じるのは国家と犯罪組織の類似性である。それを指摘したのは確かエンツェンスベルガーだったと思うが(該当の本は読んでません(^^;))、その特徴は不寛容と暴力性であろう。
両者は互いに叩きつぶし、出し抜こうと試みるが、同時に互いに依存している。社会不適格者のヤク中の若者に国籍を与えているのは国家であるが、ロルナが職場とするクリーニング工場のような場所での作業を支えるのは移民頼りだ。
そして両者とも掟を破り境界を越えようとする者は許さない。そうしなければ秩序を保てないからである。そのような者には無慈悲な罰が与えられることであろう。

そして、全く逆の立場を描いた作品として同時期に作られたケン・ローチの『この自由な世界で』を思い浮かべた。
この映画ではヒロインは母親であるからこそ子供との生活費を稼ぐために違法な移民ビジネスに深入りしてしまう。そして、ついには息子を人質に取られて脅されるに至る。ここでは子供や家族は彼女を追い詰める弱点である。
しかし、それでも途中で止める訳にはいかない。

さて、ロルナは最後に両者のくびきを逃れ近代以前の世界である森へと逃走するが、彼女は常に赤い服を着ているからには「赤頭巾ちゃん」なのだろう。ならば例え森に行っても狼に食われるだけではないだろうか。

ダルデンヌ兄弟の作品はこれまで、解釈があれこれ出てくるような作りではなかったと思うが(感想は色々と出てくるにしても)、今回はいささか趣きが違うようである。
で、最後までいくら考えても結論はつかず解釈に疲れて結局は、ご近所のおばさんモードになって「まあ~(~o~)この娘さんこんなんで大丈夫かしら。心配だわー」という感慨に至るのであった。

若者役のジェレミー・レニエが前作に比べてやたらとフケていて「まだ若いはずなのに」とビックリしてしまったが、15キロも減量したらしい。思わずホッ(^o^;)である。


主観点:8点
客観点:8点

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2009年3月 8日 (日)

「オセロー」:池袋のネオン輝く荒野にも亡霊は出るのだろうか

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フェスティバル/トーキョー パフォーマンス
原作:ウィリアム・シェイクスピア
企画原案:宮城聰
演出:イ・ウンテク
会場:東京芸術劇場
2009年2月27日~3月1日

「フェスティバル/トーキョー」ってなんのこっちゃ?--と知らずに始まっていた一か月間にわたる演劇祭。私はク・ナウカ関連のダイレクト・メールでこの公演のことを知ってチケットを買ったので、全く意識してなかった。
無料配布のパンフを見ると日本の若手を中心とした演劇人の活動や、様々な国の問題作、さらには国を越えたコラボレーションを中心にしたフェスのようだ。なんでも「東京文化発信プロジェクト」というヤツの一環で、東京都の肝いりらしく主宰者の挨拶の筆頭は都知事である。
紹介文には「東京が2016年のオリンピック・パラリンピック開催の立候補都市に承認された今、あらためて「文化芸術創造都市」であることを、創造活動とその成果の発信を通じて、国内だけでなく世界に強くアピールしていきます」とのこと。なるほど、オリンピックがらみですか……(+_+)
オリンピックはやんなくて結構だけど、こういうステージやアート関係の催しは大歓迎なんであるよ

さて、この『オセロー』は数年前にク・ナウカが上演したものを、新たに日韓共同のプロジェクトとして再構成したらしい。既に韓国では上演済みとのこと。
私は、実はク・ナウカのオリジナルは見ていない。野外公演なのにその夜あまりに寒そうだったのでめげて行くのを中止してしまったのである(火暴)
「この軟弱者め~」と罵って下せえ(^Q^;)

時代は古代、舞台であるキプロス島は日本に置き換えられている。個人的に能のことは無知に近いのだが、その形式に則っているらしく、半島から来た巡礼者が荒野で女の幽霊に遭遇するという設定だ。その幽霊が南方人オセローの妻デズデモーナであり、巡礼者とは同郷の出身者でもあった。そして、女の幽霊が過去の事件を物語って聞かせるという次第。

役者、スタッフ、音楽も日韓混合である。粗く織られた布が垂れ下がるステージ上に東アジア的ドロドロしたエネルギーと怨念が渦巻き、さらに韓国のシャーマニズムの形式も取り入れているという。その中でデズデモーナ役の美加理はあくまでも華奢で可憐にして清楚な佇まいなのであった。
設定の中には夏目漱石が『オセロー』の終盤を俳句にした「白菊にしばし逡巡(ため)らふ鋏(はさみ)かな」を下敷きにしているとのことだが、正しく彼女はハサミで切るのをためらう白菊(の亡霊)そのままだと言えよう。

しかし、終盤デズデモーナ殺害の後に、一同総出の祝祭的な踊りと音楽のパフォーマンスの中に突入してしまう。これは唐突で不可解に感じた。死者の鎮魂であると言えばそうかと思うし、芝居の最後はやっぱり盛り上がらにゃと言われればやはりそうかとも思える。
でも、やっぱり判然としないのであった。

とはいえ、見てヨカッタ~と思ったのは確か。充実した時間を過ごせた。この手の共同企画をこれからも是非見たい。

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2009年3月 4日 (水)

バッハ・コレギウム・ジャパン第83回定期演奏会:何気にお久し振り感

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ライプツィヒ時代1726年のカンタータ3
会場:東京オペラシティコンサートホール
2009年2月26日

なんだかエラ~く久し振りな印象のBCJ定期。よくよく考えたら、間にヘンデルなんかが挟まってるけど、定期は去年の9月以来なのだった。

オルガン曲演奏の1曲めは、楽譜消失→再発見されたというコラール幻想曲(BWV1128)であった。壮大なイメージの曲である。

今回はカンタータ演奏の前にシンフォニアBWV1045が演奏された。ソロは若松さんでトランペットとティンパニが入った華やかなもの。
カンタータでは、これまたお久し振りの野々下由香里がソリストとして登場。2年ぶりぐらいかね なんかちょっとお痩せになったような気が……気のせいかしらん。
最初のBWV187の5曲目のアリアではオーボエの独奏とゴツゴツした通奏低音をバックに清楚な歌声を聞かせてもらった。キャロリンもレイチェルもいいけれど、やっぱり野々下さんも歌ってくれなきゃイヤ~ン
来年度も是非お願いします--って、次の登場はモテット公演なのね。
ここでは4曲目のバス・アリアもP・コーイの背後を弦が印象的なフレーズを奏でて彩っていた。

後半のBWV39の合唱冒頭は、リコーダー二本とオーボエ二本のかけ合いで始まるという珍しいものだった。驚いたのはリコーダーの向江氏が怪我したのか腕を吊っていたこと。でも指じゃないのでリコーダー吹いてたが……それでも演奏できるんか(!o!)
この時のコーラスも見事なもんだった。
全体に、他のソリスト(ロビン、コーイ)も文句なしの出来。
ただ、花粉病のせいか私の方の集中力が終盤で途切れてしまった--というのはここだけのナイショの話である。


ところでオペラシティに来る前にチケぴに寄ったら白髪頭の男性がカウンターでしきりにラ・フォル・ジュルネのチケット発売のことを質問していた。その人はどうやらネットの類いはやっていないらしいので、詳しいことがなんにも分からないらしい。
確かにネットをやってなければ、公演日程・内容も知ることができないんだからあんまりと言えばあんまりである。
若いモンやご家族連れを取り込みたいのは分かるけど、普段クラシックに金を費やしてる中高年の年齢層をないがしろにするのもどうかと思う……などと言いたくなってしまったよ( -o-) sigh...

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2009年3月 2日 (月)

ザ・ロイヤル・コンソート2009「ヴァイオルを鳴らせ」:そして、消え行く音を聞け

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演奏:ザ・ロイヤル・コンソート、波多野睦美、上尾直毅
会場:日本福音ルーテル東京教会
2009年2月25日

ヘンデルと並んでパーセルも今年はメモリアル・イヤー。生誕350周年ということで、記念公演を銘打ったコンサートがあった。
ヴィオール奏者集団によるザ・ロイヤル・コンソートのステージはこれで4回目。(過去の感想はここここここであります)前回に続いて今回も6人フルメンバー出場である。
しかし、これまでは正直なところ会場が満員になることはなかったが、この日はゲストが波多野睦美&上尾(チェンバロ)直毅だったためか、補助席まで出る満員御礼ぶりだった。

最初に波多野さんがシェイクスピアのソネット(音楽にまつわる内容)を朗読。続いてガンバの合奏曲の演奏へと入っていった。
その後はパーセルの音楽劇からの歌曲と器楽曲を交互に演奏するという形で進んだ。
前半で盛り上がったのは『妖精の女王』からの「恋が甘いものなら」。ガンバも波多野さんの歌も切なくて、ウット~リと聴いてしまった。
その次の公演タイトルにもなっている「ヴァイオルを鳴らせ」は一転して威勢のよい歌で、上尾氏がチェンバロを文字通り力強く打ち鳴らして終わるのが印象強かった。
他の言語だとダメだけど、英語なら少しは分かるから歌われる抑揚と言葉の意味が密接につながっているのがよ~く理解できた。

ガンバの合奏曲の「ファンタジー」や「イン・ノミネ」は、個人的にはロンドン・バロックの録音で散々聴き倒していたものである。もちろんヴァイオリンが入っていて編成が異なるのだが、こうしてガンバだけで聴いてみるともう少しくすんで落ち着いた音色になっているのが、目新しい--ぢゃなくて、耳新しかった。

後半の白眉はなんと言っても、ラストに演奏されたやはり『妖精の女王』からの「ほら 夜の精が」だろう。トレブル・ガンバを中心としたアンサンブルを背後に、歌われる内容は憂いごとを全て忘れて快い眠りの世界へ入っていく--というもの。曲が進むにつれて段々と照明が落とされて暗くなっていき最後は完全に闇となるという「演出」付きだった。
波多野さんの歌もさることながら、上村かおり+武澤秀平の2台のトレブル・ガンバが素晴らしかった。
なんという、かそけく微細なる美--あたかも空気に溶け込んでいくような響き、そしてゆるやかに堆積する時間の流れ。あまりの美しさに私はチョビッと涙目(;_;)になってしまった。そう、私は確かに音が消滅していくのを目撃したのだ。

アンコールで最後に再び「ヴァイオルを鳴らせ」をやってお終いとなった。
客席には先日のロベルタ・マメリの公演でも見かけた人が何人かいた。皆さん波多野ファンなんざんしょか(^^?
その内の一人の女性は目白バ・ロック祭りなど小さなコンサートばかりで何回も見かけた人である。もっとも、大きな会場だと人が多いから、実際はもっと同じコンサートに行ってるけど気づかないだけかも知れんですな。

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2009年3月 1日 (日)

「天使の眼、野獣の街」:犯罪中はケータイ所持禁止

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監督:ヤウ・ナイホイ
出演:レオン・カーフェイ、サイモン・ヤム、ケイト・ツイ
香港2007年

ジョニー・トー監督の『エグザイル/絆』が昨年の各種ベストテンに入ってるのには、ちょっと驚いた。そもそも脚本もなしにかなり力を抜いてシュミで作ったという作品である。笑って楽しむのはいいとしても、ベストに入れるようなモンかい(?_?;--というのが、正直な感想だ。

さて、私同様『エグザイル/絆』にご不満の諸氏に是非オススメしたいのが、この作品。トー組で脚本を書いていたというスタッフの初監督作であるとのこと。これがなかなかの出来だった。

冒頭、学生風の若い女が中年男を尾行するのと並行して、別の男たちが宝石店の周囲をウロウロし始め、何事か起こりそうな気配である。しかし犯罪が行われるまで、誰がどういう立場なのか見ていて分からない--と、つかみはオッケーだぜ

途中に派手な銃撃戦やカーチェイスもあるが、描写のほとんどは地味な尾行や張り込みに費やされている。しかし地味とは言え、ディテールの細かい積み重ねによって緊張感が途切れることはない。伏線の張り方もうまい。

物語は新米の女性捜査官の成長譚でもあるが、そのヒロインを演ずるのはミス香港だったというケイト・ツイ。ブスっつらの女子大生風の外見でとてもそんな風には見えないが、ラストでOL風のいで立ちで登場すると……な、なるほど(^o^;と納得する美人ぶりでありました。
映画初出演とのことで、早くも今年の新人賞候補出現かも。

彼女の周りを取り巻く捜査官&犯罪者はトー組の常連役者ばかりで、特に『エレクション』でのサイモン・ヤム×レオン・カーフェイの対決復活が嬉しいぞっと \(^o^)/
ヒロインの上司役サイモン・ヤムは最初に登場した時、すごいメタボ腹になってたんでビックリしてしまった。しかし、役の設定として詰め物をしていたらしい(;^_^A 焦ったぜい。とはいえ、役柄は打って変わって「理想の上司」役であります。

感傷的な場面になると俄にテンポが遅くなったり、物語の細部がおかしい所(隠しマイクがあるんだから、さっさとそれで救急車呼んでもらったら?)も若干あるが、警察もの犯罪ものとしては満足できる水準なのは間違いない。
とにかく突出したヒーローものではなくて、捜査側も犯罪者側もプロとして共同作業に徹している話なのがいい。
それなのに映画館に客がまばらだったのは何故だ~
チラシにも書いてあったが、日本でリメイクされるとのこと……(>_<)今からイヤ~な予感。

ところで、捜査官が隠しマイクを通して例え話を警察側全員にする件りが登場するが、これは元々よく出てくる設定なのだろうか? もしそうでなかったら、恐らく元ネタはTVドラマの『クローザー』だろう。第2シーズンの最終回でヒロインが張り込み中の部下たちに隠しマイクを通して「国王に仕えるか教会に仕えるか」という例え話をする場面が登場するのだ。

さてもう一つこの映画の中で詳細に描かれているのが、監視カメラやカード使用チェツクなどによる監視体勢である。中でも携帯電話の位置をリアルタイムで追跡する一連の場面には驚いた。フィクションでここまではっきり描いたのは、少なくとも私は見たことがない。
以前読んだ斎藤貴男のルポによると、特定の携帯電話をある時点から追跡を開始することはもちろん、過去に遡って場所を調べることも可能だそうである。
しかも、携帯は電源を切っても微弱な電波を発信しているので、オフにしていてもバッテリー切れにならない限り分かるそうだ。
--ということで、皆さん悪いことをする時には必ずケータイは置いていきましょう。あ、もちろんスイカの類いも使っちゃダメですよ(^o^)b 履歴がバッチリ出るそうですからね。


主観点:8点
客観点:8点

【関連リンク】
《OnFire》
邦題についても、批判が多いようです。

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