「ロルナの祈り」:金では愛は買えないと人は言うが、国籍は買える
監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ
出演:アルタ・ドブロシ、ジェレミー・レニエ
ベルギー・フランス・イタリア2008年
*若干ネタバレぎみの感想です。
食事の場面をよく作品の中に登場させる監督というのは結構いる。いかなる形であっても、物を食わずには人間生きていけないのは当然。だから頻繁に映画内に出て来ても不思議ではない。しかし、同様に必要不可欠にも関わらず意外と見た覚えが少ないのが「金を数える」場面である。
このダルデンヌ兄弟の監督作品には金を数える場面がイヤというほど出てくる。思い返してみれば前作の『ある子供』でも延々と紙幣を数える場面……いや、正確には紙幣を数える音が聞こえてくる場面があった。主人公と観客は延々とその音を聞かされた揚げ句「一枚足りな~い」という皿屋敷みたいな恐ろしい状況に転がり込んでいくのである。
さて、こちらではもっと色んな状況で金を数えている。だが、それは当たり前のことだ。金、金、金--金がなくては生きてはいけぬ。ましてや、他国からの移民であるならば。紙幣一枚、コイン一個だっておろそかにはできん。その他にも至る所で金は登場する。
そのようなシビアな状況の中で、ヒロインのロルナは犯罪組織の斡旋でヤク中の若者と虚偽結婚をし、国籍を得ようとする。親兄弟からも見捨てられた状態の若者の価値は、ただベルギー国籍を持っているということだけなのだ。
他所にちゃんとした恋人がいて、最初は口をきくのもイヤな感じで冷たかった彼女が、どうして若者を受容するに至ったのかは今一つ分からなかった。想像するに、夏目漱石が訳した諺のように「可哀そうだた好きだってことよ」なのだろうか。
それにしても、その後の事件の起こった肝心な場面をすっ飛ばした(それも二回も)のには驚いた。カンヌ映画祭で脚本賞を取ったのはこの大胆なすっ飛ばし具合が評価されたのだろうか。いずれにしろ観ているものには欠落感を感じさせて衝撃である。
何事もなかったように恋人との新生活を築こうとする彼女は若者の子供を妊娠したと思いこむが、それは想像妊娠であった。とすれば、彼女が孕んだのは罪悪感だったのだろうか?
最近、見聞きしたことと合わせて感じるのは国家と犯罪組織の類似性である。それを指摘したのは確かエンツェンスベルガーだったと思うが(該当の本は読んでません(^^;))、その特徴は不寛容と暴力性であろう。
両者は互いに叩きつぶし、出し抜こうと試みるが、同時に互いに依存している。社会不適格者のヤク中の若者に国籍を与えているのは国家であるが、ロルナが職場とするクリーニング工場のような場所での作業を支えるのは移民頼りだ。
そして両者とも掟を破り境界を越えようとする者は許さない。そうしなければ秩序を保てないからである。そのような者には無慈悲な罰が与えられることであろう。
そして、全く逆の立場を描いた作品として同時期に作られたケン・ローチの『この自由な世界で』を思い浮かべた。
この映画ではヒロインは母親であるからこそ子供との生活費を稼ぐために違法な移民ビジネスに深入りしてしまう。そして、ついには息子を人質に取られて脅されるに至る。ここでは子供や家族は彼女を追い詰める弱点である。
しかし、それでも途中で止める訳にはいかない。
さて、ロルナは最後に両者のくびきを逃れ近代以前の世界である森へと逃走するが、彼女は常に赤い服を着ているからには「赤頭巾ちゃん」なのだろう。ならば例え森に行っても狼に食われるだけではないだろうか。
ダルデンヌ兄弟の作品はこれまで、解釈があれこれ出てくるような作りではなかったと思うが(感想は色々と出てくるにしても)、今回はいささか趣きが違うようである。
で、最後までいくら考えても結論はつかず解釈に疲れて結局は、ご近所のおばさんモードになって「まあ~(~o~)この娘さんこんなんで大丈夫かしら。心配だわー」という感慨に至るのであった。
若者役のジェレミー・レニエが前作に比べてやたらとフケていて「まだ若いはずなのに」とビックリしてしまったが、15キロも減量したらしい。思わずホッ(^o^;)である。
主観点:8点
客観点:8点
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