「教育格差が日本を没落させる」
著者:福地誠
洋泉社(新書y)2008年
なかなか読んだ本を紹介するヒマが取れない。これも実際に読んでから結構時間が経っているが、面白くて目ウロコ本だったので簡単に紹介しよう。
近隣にある古い伝統ある公立高校の進学校が相次いで、文化祭・体育祭といった行事の日数を減らしたり潰してしまったり、また部活の活動を削減していった(その手の学校は、部活熱心で行事に引かれて入学を希望する子どもも多かったのにである)。さらに授業時間を増やし、土曜登校や夏休みや冬休み中も実質的に授業を行っている。
どうして、学校の特色をなくすような方向に行くのだろうかと常々疑問に思っていたが、この本を読んでようやく納得行った。
おおざっぱに社会の階層を上流・中流・下流と分けた時に、上流に属する家庭の子どもは勉強は出来て当然な環境である。そしてさらにその上に文化や芸術を受容する余裕がある。こういう子どもたちが行くのは有名私立だ。
しかし、中流になるとそんな余裕はない。さらに近年は格差の拡大によってこの中流層が増えており、互いの競争は激化する。この層の家庭は公立校へ行きそこで望むのは学力一本やりだ。学力によって階層を少しでも上に昇るしかない(または下降を防ぐ)。従って、行事や部活などやっているヒマはないのだ。
ここで求められているのは公立学校の予備校化であり、そこにはかつての牧歌的な学校生活などは存在しないのである。地方にある公立有名校やその下の中堅校は親のニーズに応えて予備校を目指しているに過ぎない。
さて、下流家庭になると今度は学校へ行く・教育を受けるということ自体にもはや価値を置かない。親や家族、環境的にもそのようなモチベーションがないのだから、子どもがずるずると教育の場から滑り落ちかけても止めるものはない。
以前、ケータイを二つも持っていて見せびらかしていた高校生が、その直ぐ後に学校を授業料が払えないために退学したという話を聞いた時に非常に驚いた。公立校なんだから、ケータイ料金二台分を代えれば払えるはずだろう。なぜだ(?_?)
だが、この本で理解できた。その子や親にとっては恐らく、教育の価値はケータイ二台分以下だったのである。それはいいとか悪いとかではなくて、そういう個人の価値観だから仕方ないのだ。
公教育においてもエリート教育優先が方針とされ予備校化していくことを著者は批判している。確かに、出来の悪い子に手間とカネをかけてもドブに捨てるようなものとはいえ、このような現状で果たしていいのだろうか
私はエリートを優先する前に、公教育に最低限これだけは望みたい。
クラスのほぼ全員が
*九九を全部そらんじられる
*アルファベット26文字全部書ける
*縦書きの文章で、段落の最初は必ず一文字下げる、てにをはの使いかたなど基本的な作文規則
--ができること。実際には中学卒業時にこのレベルがクリアできない子どもが少なからずいるはずだ。
エリート教育はそれからだろう。まあ、国家にとっちゃ九九もできない国民の方が扱いやすくていいかも知れんけどさ(^O^)
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