「転校生」:か、感動なんてするもんかっ
フェスティバル/トーキョー パフォーマンス
作:平田オリザ
演出:飴屋法水
出演:静岡県の女子高生
会場:東京芸術劇場
2009年3月26日~29日
『オセロー』を見た時に貰った立派なパンフレットを見て初めて上演を知って、あわててチケットを買ったもの。
オリジナルは平田オリザが1994年に実際の女子高生が演じるために書いた戯曲である。で、それが2007年に久々に演劇に復帰した飴屋法水の演出で静岡で上演されたらしい。今回はそれの再演で出演しているのも2年前と同じ女子高生とのこと。
教室は舞台上の大きな階段の上に机と椅子を置いて作られ、出演者の制服は自分の出身校のを着ているらしくバラバラである。
さて、実物の女子高生が「女子高生」を演ずるというのが、この芝居の最大のウリであるが、だからといって果たしてそれで女子高生の実像を見せているかといえば、はなはだ怪しい。
だいたい、あの年頃だったら「男」の話しないわけはないだろうし(特にヤンキー系)、恐ろしいあだ名を付けた教師の悪口をまくしたてもしないし、相手が興味を持っていようがいまいが気にもせずヲタク話を始めたら30分間止まらないフ女子もいないし、教室に居場所がなくて十分休みごとに校舎内をさまよい歩く孤立した子もいないようである。
要するにそこには大人が受け入れやすいよい子ちゃんしかいないのであった。
さて、そこに突然転校生が出現する。オリジナルではやはり同じ年代の高校生だったらしいが、今回は歳くったオバハンなのが面白い。恐らく彼女たちの祖母ぐらいの年齢だろう。転校生は自分でもよく分からないが「朝起きたら、この学校の生徒になっていた」と言うのであった。
そこから感想文の課題図書として生徒たちが選んだカフカの『変身』や『風の又三郎』も関連して言及される。
なぜ転校生が来たのかということについては、一切語られない。オバハンであっても彼女は既にクラスに溶け込んでいるようだ。しかし、平和なクラス内の屈託のない女子高生たちにも微かな不幸や色々な背景があることが、淡々とした描写の中にも仄めかされる……。
さて、この芝居のどの感想を読んでも絶賛状態であった。私は前の方の席だったので気づかなかったが、涙を流している客も多かったという。確かに私も感動した。何か言葉にならぬ静かな感慨のようなものが押し寄せてきた。
しかし、しかしである--一方で猛烈な反発も感じた。これは言わば気持ちのよい音楽である。気持ちがよくなるために、ことさら気持ちよくなるように作られた音楽を聴いて、気持ちよくなったとしてどうだというのか。そんなものを聴いて気持ちよく感じた自分を反省するのみである。
そして、実物の「女子高生」とは気持ちよくなるための手段(敢えて言えば「道具」である)に過ぎない。だとすれば、どんなに若くとも少なくとも彼女たちよりも年上の観客たちは、彼女たちの若さのエネルギーを自らの感動のために収奪しているだけではないか。そんなもので感動するわけには行かないのだ。
もちろん、こんなことを考えるのは私が「もう一度高校生になるくらいなら、カフカの醜悪で巨大な毒虫になった方がマシ」というひねくれ者だからだろう。
それにしても先日見たばかりの、同じ高校生の女の子を描いた『ダイアナの選択』の描き方との落差に、ボー然としてしまった。
次は是非、男子高生版を頼む。転校生役は「声のデカい団塊オヤヂ」を希望(^^) もちろん、こりゃ喜劇ですな。
よくよく思い出してみると、平田オリザの作品を見たのはこれが初めてのようである。彼が評判になった頃には、段々と劇場から遠ざかってしまっていたのだ。
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