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2009年5月16日 (土)

「仮想儀礼」(上・下)

090516
著者:篠田節子
新潮社2008年

しばらく前に最近読んだ小説がどれも詰まらなくて退屈だという記事を書いたのではあるが、その舌の根の乾かぬうちに次の本に手を出してしまった。そして、結果は……

いや~、こりゃ面白い! そして、コワい!! もうコワ過ぎhairsalon でも、ホラー小説じゃないんだが。

都の職員としてエリート・コースを歩んでいた主人公--だが、とあるきっかけで脱落してしまう。そして、職と家族を失い悶々と毎日を過ごすが、同じような境遇の男と二人でビジネスとしての新興宗教を始める。うまく行けば「教祖様」と呼ばれてベンツに乗れるようになるはずだ。
よるべない若者や孤立する主婦を相手に始まって、やがて社会人や企業相手にセミナーもどきをひらくようになりトントン拍子に成長していく--のが、上巻。
しかし、それが一気に転落を始めるのが下巻である。
その転がり具合はすごい。もう下巻の中間あたりまで来ると、あまりの恐ろしい崩壊ぶりに読み進むのがウツになってくる。しかし、いったん本を開くとページをめくる手が止まらなくなってしまうのだ。(>O<)ウヒョー

ここに描かれているのは人間の内部の暗い深淵である。そこには善も悪も分かちがたく存在している。あたかも、汚泥の中に砂金が混ざっているように、善意も悪意も分離できない。聖と俗、美と醜もまた……ただ闇の中におぼろげに光って見えるだけだ。この物語はそれを余す所なく描き出している。だから怖いのだ。

結末については、ハッピーエンドとみなす人もいるようだが、私には到底そうは思えなかった。特にラスト一行……えっ、まだ続くの(!o!)という印象である。これこそ恐怖の極みimpactだろう。
でも、それもこれも主人公が半分善人だから。彼が完全な悪人(作中にその見本が登場する)だったら、こんなことにはならなかっただろうに。

さて、「教祖」の割には主人公は徹底的に現実主義者であり、奇跡や呪詛の類いは一切信じていない。物語の途中で「魔を払う」場面が出てくるのだが、当然そのような行為も完全否定である。
しかし、にも関わらず「魔を払われた」人物は、まさにそれをきっかけにそのような行動を取るようになるのだが……こ、これはsweat02やはり奇跡の類いは実在するということなのだろうか。わ、分からん(\_\; これまた余計に恐ろしい。
神は存在するのか? それとも人間の神を求める心こそが「神」を顕現させるのであろうか?
一体、そもそも宗教とは何なのか--というような根源的な問いを考えさせる小説である。例えば、これまでバッハの受難曲を何度も聴いてきたが、これからはまた違った聴き方をするようになるかも知れない。

それにしても、作者が女性だからだろうか、作中の女の描き方がかなりキビシイねえ。嫌らしい所、ずるがしこい所、道理が通じない所などビシバシと徹底的に繰り返し描かれている。
あと、人々を新興宗教に向かわせる悩みの多くは、行政が的確に対処すれば本来は簡単に解決できるものだという指摘は興味深かった。そういや、貧困層が多い東京某区は某信者の数も多いんだよねban

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