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2009年7月

2009年7月29日 (水)

宇野亜喜良×結城座「乱歩・白昼夢」特別展示会

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会場:東京芸術劇場展示室2
2009年7月24日~8月12日

8月の下旬に池袋の東京芸術劇場で行われる結城座の公演に先立ち、美術・デザイン担当の宇野亜喜良の原画などを展示--ということで、早速行ってきましたよん

今度の公演は江戸川乱歩が題材で、写し絵を使用とのことらしい。以前、やはり写し絵を使った時は宮沢賢治の幾つかの作品が独自のストーリーに組み込まれていた--ということからして、同じように乱歩先生の作品が複数登場するのであろうか?

会場では、芝居の設定用のスケッチが真ん中に展示。ヒゲをはやした明智小五郎がいるが、エドガー・アラン・ポーに似せているとのこと。
周囲の壁には乱歩作品のイラストがあり、黒蜥蜴、人間椅子、芋虫などおなじみのものが取り上げられている。コーコツとした表情の人間椅子もイヤラシイ(^レ^;)が、芋虫は……もっとイヤラシーイっ&ブキミ
また、裸の小林少年の前でアヘアヘとポーズを取る二十面相や3匹のカタツムリも相当にヤバイんであった。

別の面の壁には、作品の登場人物から乱歩先生へあてたお便りの絵はがきが並べてあった。その中には黒蜥蜴の「次に狙うのは阿修羅像」なんて不敵な犯行予告もあったぞ。

他には広告に使われている人形の実物も置いて--じゃなかった、吊るしてあった。結城座が使用する糸あやつり人形だが、一部がいわゆる球体関節人形になっている。

こりゃ、8月下旬の公演本番がますます楽しみであ~る(*^^*) 乱歩先生もあの世でさぞ期待していることであろう。

ということで、私もハガキを書いてみることにした。

前略
乱歩先生
こいつはエロ過ぎです!
こんなにいかがわしくっちゃあ、よい子にはみせられねえ~。
悪い大人のみ推奨ですね
(^^)

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←乱歩先生大人気です(o^-^o)

【追記】7月28日は乱歩の命日だったそうです。うっかりしていました。
乱歩先生、ひねくれ者ならぬウッカリ者の私をお許し下せえm(_ _)m

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2009年7月25日 (土)

「扉をたたく人」:ジャンベのリズムにのれぬ者は去るのみ

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監督:トム・マッカーシー
出演:リチャード・ジェンキンス
米国2007年

こりゃ、困った作品である。何が困ったかというと、文句が付けようがないからだ。
妻に先立たれた一人暮らしの大学教授がふとしたことから不法移民のカップルと知り合い、音楽を通じて交流を深める。が、その矢先、カップルの男の方が警察に捕まり、入管の拘置所送りになってしまう。

味気なく無味乾燥な日々を送っていた主人公に、さらに若者の母親も加わって擬似家族が生まれたかのようだ。その光景は誠にしみじみと心温まるものである。一方、9.11以降厳しくなった移民についての問題を訴えるという社会性も大きく描かれている。

オスカーにノミネートされたR・ジェンキンスは謹厳実直な初老の孤独な男を非のうちどころ無く演じていて、その心情には心動かされる。様々なジャンルの音楽の使い方もうまい。物語の展開にも感動する……見ている間は。
だが、どうも、登場する人物が善人過ぎる。しかも全員がだ 私のようなひねくれ者にはとても信じられないことである。こんな事はファンタジーとしか思えない。

まあ、ひねくれ者には出来過ぎた映画ってことですかな( -o-) sigh...
かの国の難民問題に関してはなんも言えん。日本人が何か言えば天に唾することになるだろう。
ただ、入管の受付や看守のほとんど、あるいは若者をとっ捕まえる警官の一人はアフリカ系だった。現在の移民たちを「抑圧」する側となる執行機関の末端を担う人々が、かつての移民ならぬ奴隷の末裔であるというのは何かの暗示だろうか? それとも、現実を素直に反映したものなのか。米国通の人に事情を聞きたいものだ。

ところで、あの太鼓(というかリズム)は叩くの結構難しそう。リズム音痴の人間には到底無理ぢゃないの。


感動的メロディ度:9点
リズムのり易さ度:5点

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2009年7月20日 (月)

バッハ・コレギウム・ジャパン「ヘンデル没後250年記念特別プログラム」:ヘンデル先生、夏祭りもよろしくっ

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会場:彩の国さいたま劇場音楽ホール
2009年7月18日

ジメジメジメ……曇天で湿気が高い。こんな気候では古楽器の調整は大変そう。ということで開演時間ギリギリまで続いたチェンバロの調律が終わった後に登場したのは、マイクを持った鈴木(兄)氏である。
前説として、バッハとヘンデルの比較や、ヘンデルは多くの楽曲を書いているのに日本ではそのごく一部しか演奏されてないことなどを話した。またロンドンの「ヘンデルハウス」の一階には大きな窓があって、そこからヘンデル自ら公演チケットを売っていたなどというエピソードも紹介。
--と、その話を聞いた瞬間、私の脳内妄想のスイッチがカチリと入ってしまったのであった。

自宅の窓から身を乗り出して熱心にチケット販売するヘンデル先生の姿が(!o!)
「へ~イ、そこの奥様方、今夜のオペラにはイケメン・カストラートが大挙出演しますよ。行かなきゃ損損。どうですか、一枚」(チケットをヒラヒラと振る)

いかん、いかん(>_<)マチャアキ氏、妄想を引き起こすような話は止めてくれ~(^O^)

今回のプログラムはロンドン時代の協奏曲と、キャリア初期のイタリア時代の宗教合唱曲を交互に演奏という趣向だった。
「アレクサンダーの饗宴」に挿入された合奏協奏曲に続き、詩編に基づく「しもべらよ、主をたたえよ」は、これまで代役としても活躍してた松井亜希がソプラノ独唱者として濃いピンクのドレスで登場。合唱とかけ合いをしながら危なげなく華麗に歌いこなしてくれちゃったのであった。

休憩後は「オルガン協奏曲」。真ん中でオルガンを弾くは当然、鈴木(兄)である。実は同内容の兵庫公演のこちらの感想ではかなりオルガンがひどかったというので(他にも同じ感想があった)心配していたのだが、この日はそんなことなかったようで、一安心……といっても、「オルガン協奏曲」って大昔に録音で二、三回聴いただけなのでミスタッチとかあってもよく分かりません(^^ゞ
ただ、さすがにバッハ作品の時のような暴奏はなく、やはり作曲家によって暴奏しやすいヤツとかあるのかしらんと思ってしまった。

最後はやはり詩編による合唱曲「主は、わが主に言いたまいぬ(ディクシット・ドミヌス)」で、これこそ圧巻といってもよい演奏だった。
いつも定期演奏会を聞いているオペラシティではサイドで前の方の座席なのだが、その二分の一以下の大きさのさいたま劇場でほぼ真ん中の席で聴くと、合唱がダイレクトにグサグサと突き刺さってくるような印象を受ける。残響もほどよい感じ。やっぱり催事場(←まだまだしつこくこだわっている(^^;)なんかとは段違いだ。ダ埼玉にはもったいないくらいである(近所に焼肉屋とサイゼリヤしかないのが難であります)。
もちろん、器楽隊の方も充実した響きだ。目にしている人数以上の音数が聞こえるような気がするほど。

この6曲めは通奏低音だけが入って始まるが、ドンドンドンとまるで怒りのドラムというか、大軍勢が押し寄せてくるみたいなフレーズで、鈴木(弟)氏のチェロを筆頭に怒濤の迫力だった。やがて弦楽器群もそれを模して加わってくるのだが、その部分の歌詞が「主は国々の中にて裁きをなし(略)広き地を治める首領らを震撼させたまわん」というのを読んで、なんだか今の日本みたいだなあと思わず笑ってしまった。聖書の昔から社会というのはなんにも変わってないのかね

ラストの8曲めでは先鋭的で力強く縦横無尽なコーラスワークを聴く一方、心の中では「あー、今この時にこんな演奏を生で聴けてつくづく幸せだなあ~(´ー`)」とシミジミと感動していたのであった。

終了後、芸大での『アリオダンテ』や大塚&桐山のヘンデル・ソナタ公演のチラシをゲット。ラ・フォンテヴェルデのペトラルカってのもあったぞ。
会場外へ出ると、いつもは人通りの少ない町がちょっと賑やか。夏祭りをやっていたのであった。ヘンデルと夏--結構、似合うかも(^^?


ところで、ミクシィの方で松井女史のページを発見。まだお若いのね~ 『ポッペア』の時は4日前にいきなり代役頼まれて必死の思いだったとのこと。ご苦労様です。
同じくミクシィでこの日の感想を検索してたら、「客の年齢層高くて、お高くとまったつまらなそうなヤツばっか」などと書いてあるのを見てしまった。
ぬぁに~(^_^メ) 古楽系でしかもダ埼玉で、お高くとまってる客なわけねえだろが。しかも定期公演の時よりも若い人多くいたし。オーチャードホールあたりにでも行ってみるのをオススメしますぜ

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2009年7月19日 (日)

エマ・カークビーのダウランドを聴くと、あのマンガを思い出すという話

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最近、アントニー・ルーリー&コンソート・オブ・ミュージック演奏するダウランド歌曲集のCDを引っ張り出してよく聞いている。直接のきっかけとなったのはこのコンサートだ。
かなり昔に買ってそのままあまりよく聞かないでしまい込んでいた盤である。引っ越ししてからのこの5年間一度も出さなかったし、その前も何年も聞いてなかった。

元の録音(もちろん当時はヴィニール盤)は1976~77年で、私の持っているCDは二枚のアルバムを一枚にまとめた編集盤のようだ。
内容はダウランドの5つの歌曲集から選んで、テノール独唱や4声部の合唱、ソプラノとバスのデュエットなど様々な形で歌っている。

当然ながら(;^_^A この頃の彼らをリアルタイムで聞いていたわけではないが、このダウランドの演奏が大きな衝撃をもたらしたという話は耳にしていた。この後のルネサンス歌曲の演奏スタイルを大きく変えたと言えるほどだろう。

「彼らはいわゆるクラシックの声楽とは異なる素直な発声と端正な演奏で、見事に恍惚とした桃源郷を実現してみせた。」(『古楽CD100ガイド』)

特筆すべきはエマ・カークビーの歌だろう。今でこそ「大御所」となっているが、ここでの彼女はうまいんだか下手なのかも分からない。それが、当時の「メランコリー」という精神を表していると言えばそれまでではあるが、当時にあっては掟破りともいえるボーカルスタイルだ。
なんのギミックもなくひたすら真っ直ぐで、蒼ざめていて透明で、脱力しそうで、上手下手どころか感情がこもっているのかどうかさえよく分からない。艶めかしいとか生気にあふれているなんてことは全くない。聞いていると、貧血状態で頭の中が青くなって倒れそうなぐらいだ
特にバス(デヴィッド・トーマス)との二重唱の「ぼくは見た、あの人が泣くのを」と高名な「流れよ、わが涙」を続いて聞くと、何やら時間さえ停滞して流れていくような気分になる。

で、そうなるといつも連想してしまうのが山岸凉子の『アラベスク 第二部』の後半の「ラ・シルフィード」の踊りなんである。
このマンガのヒロイン、ノンナは旧ソ連時代のレニングラードのバレエ学校の生徒である。諸般の事情あってコンクールで「ラ・シルフィード」を踊る羽目になってしまう。ただでさえ大柄な彼女は繊細な妖精など踊れるのか悩むが、さらにドイツ人の女性ピアニストから、あんたみたいなガサツで情緒を解しないガキなんかにシルフィードなんか踊れるわけないわよ--というような事を言われて余計にガ~ンΣ('д'lll)となってしまう。その発言の背後には、ヲボコ娘が成熟した女を踊れるはずがないということも言外に匂わせているのである。

しかし、最後にヒロインは「人間として未熟なままの冷たい、青いシルフィード」を踊る。バレエには完全門外漢の私は、その時の彼女の踊りはきっとエマ・カークビーの歌うダウランドのようだったのだろうと想像するのだ。
『アラベスク』のこの終盤の展開は、作者の「成熟してない女でどこが悪い」という強烈な主張が込められていると考えるが、カークビーの青白い情念の炎のような歌はその主張をそのまま体現しているようである。たとえ、表面的には感情も豊かさのかけらもないように聞こえていても、だ。
そして、ダウランドの「メランコリー」という概念を越えて、表現することの何ものかを突きつけてくるのである。それはウン十年たった今でも変らない。


主題からそれるが、『アラベスク』の中で紹介されている「愛する時と憎む時の表情が同じ」というギリシア神話の逸話は、なんだか身にしみる。若い頃に読んだ時には全く気に留めなかったんだけど……やはり歳を取ったかのう(x_x)

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2009年7月18日 (土)

「夏時間の庭」:そして庭だけが確かに残った

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監督:オリヴィエ・アサイヤス
出演:ジュリエット・ビノシュ
フランス2008年

ノーマーク状態の作品だったけど、他のブログの感想を読んで興味がわいて行ってみた。単館上映なんで公開から1か月ぐらい連日満員御礼だったようだが、私が見た頃にはさすがにもうすいていた。

冒頭、広大な庭で元気よく遊ぶ子供たちの姿が描かれる。縦横無尽に走り回る彼らをカメラは追いかけ回す。やがて屋敷の主人である、子供たちの祖母が亡くなってから物語は動き始めるのだが、そこに至るまでを結構長く時間を取っていたのは予想外だった。

画家である大叔父の作品を始め、ルドンやコローなどの有名なアーティストの作品が飾られ、使用されていた大きな屋敷を母親の死後、どうするか--ここに至って三人の息子・娘の意向の食い違いが明らかになる。そして、ずっと屋敷を守ってきた母の隠されていた真の姿も……。

世間にはよくある、成人したきょうだいが遺産相続でもめる話と言える。しかし、その遺産が文化財級がゴロゴロとなると、いささか趣きが違う。
オルセー美術館20周年企画として、実際の美術品を貸出して全面協力。スクリーンの隅のあの花ビン、あの戸棚--みんなホンモノだぁ~(!o!)
そしてさらに驚くのは、にもかかわらず「絵画や工芸品を美術館に飾るなんて詰まんないことよ」というのがこの映画のテーマの一つであることだ。

屋敷で使われていた椅子や机、食器、そして壁の絵画--全てが生き生きとして日常になじんでいるが、同じモノが美術館に飾られているのを見るとなんと生彩に欠けて詰まらないこと。まるで、抜け殻を眺めさせられているようだ。それを映像で実際に証明してしまっているのだから何とも言いようがない。
よくもこんな内容に美術館側が納得したものだ。日本じゃ考えられない。さすが、文化の国おフランスだと妙に感心してしまった。

家政婦のエロイーズばーちゃんが「あたしゃ、こっちの花ビンの方が好きですよ」と長年愛用していたガラス製の花ビンの正体が判明した時、一番の審美眼の持ち主は彼女だと多くの観客は納得するに違いないだろう。

チラシや宣伝に「大感動!」とか「驚きのラスト」とかあったので、どんな展開になるかとドキドキして見てたら、なーんだ ┐(´~`)┌ そういうことですか。
そんな話じゃないだろうって気がするが……。

美というものと時代の変転、そして人もまた移り変わっていく、ということを穏やかな筆致で淡々と描いた作品である。画面の隅々まで神経が行き届き、最後は静かな感動が訪れる。
もっとも、私が個人的にそういう作品を一番に好きかというとまた微妙なのであるが。

長男の娘がドラッグ所持を見つかって補導されるという件りでは、父親が注意というより「見つからないようにやれ」みたいなことを言ったのは少し驚いた。フランスの知識階級というのはそんな感じなんだろうか。
次男役をやってたのが近年のダルデンヌ兄弟作品に出演しているジェレミー・レニエだと後で知ってビックリ。やはり役者ってのは化けますなあ……(-ω-;)

あと、本筋に関係ないけどルドンがあんな絵を描いていたとは知らず。「装飾画」って壁紙のデザインみたいなもんなんざんしょか(^^?


主観点:8点
客観点:8点

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2009年7月15日 (水)

「西遊妖猿伝 西域篇 1」

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著者:諸星大二郎
出版社:講談社(モーニングKC)2009年

長い間待ちわびていた新刊が遂に登場
モロ☆先生、
キタキタキタ━━━('∀'≡('∀'≡'∀')≡'∀')━━━━!!!!!!

思えば双葉社のアクション・コミックスから第1巻が出たのが1984年である。当時から既に四半世紀が過ぎている。そして、1995年の第9巻で「大唐篇」が終了した。
しかし、その続きが同じ出版社から出ることはなく、1998年に潮出版社から判型が一回り大きい希望コミックスで再刊された。ここではかなり加筆されている。双方を見比べると明らかに古いコマを切り張りしてその間を細かく描き加えているのが分かる。当時の第2巻の帯には「著者の執念がついに結実!」という惹句が大きく付けられていた。

潮出版社版では10巻目(1999年刊)の途中から新たに第2部「河西回廊篇」に突入した(雑誌での連載はもっと前かららしい)。翌年に第16巻まで矢継ぎ早に発行、無事に「河西回廊篇」は終了したのであった。

その後、10年弱を経て昨年の末(?)から講談社で再び元の判型に戻り、第1巻目から発行された。私はこれはさすがに買っていないのだが、全10巻でなんとかつての「河西回廊篇」も含めて「大唐篇」になっている。従って今度の「西域篇」が第2部と変更になったのだった。

それにしても、長い歳月である。( -o-) sigh...
でも、諸星先生、あと何十年かかってもいいですから、わしらが死ぬ前に必ず完結させて最後まで読ませて下せえ~~(TOT)
完成の暁はマンガ史上に残る大作名作傑作奇作怪作となるでありましょう。

なお、念のため内容を紹介しておくと『西遊妖猿伝』とは『西遊記』が実際の中国唐代に起こった話として、史実に登場する実在の人物や事件を重ね合わせて語ったものである。本のオビに書かれている、おなじみ講釈師の解説にあるように「孫悟空や猪八戒も妖怪でなく人間」という設定となっている。繰り広げられるのは英雄・悪漢・妖女・仙人・怨霊が入り乱れる中華冒険アクションだが、しかしその背後には歴史の変転と個人の運命というようなテーマが潜んでいるに違いない。まさに神業に限りなく近い作品だろう。

この「西域篇1」でようやく沙悟浄まで全員出揃ったわけだが、残念ながら雑誌の方の連載は秋まで休みだという。もう、先生、頼んますよ~

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←こちらは双葉社版。

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2009年7月13日 (月)

「ダウランドの真夜中」:ハクジュホールにてメタボ男を呪う

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演奏:波多野睦美、つのだたかし
会場:ハクジュホール
2009年7月5日

波多野&つのだコンビでのオール・ダウランド・プログラムである。チラシに「84曲のリュートソングの中から選ばれたメランコリーの結晶」とあるように、ダウランドの歌曲の中でもとりわけ暗く泣いちゃう(T_T)曲ばかり歌われた。

波多野睦美の声は力強く豊かに音響の美しいハクジュホールに響き渡って聞こえて、チョ~満足である。特に前半での「ゆれる影のもとで」の次に有名な「流れよ わが涙」の朗読を挟んで「僕の思い込みが」と歌われたあたりがよかった。「ゆれる~」は陰影に富んでいてミステリアス、しかもそれでいて一本芯の通った強さがあって、ウットリ状態であった。
歌う前に歌詞の内容を要約してくれる語りもユーモラスで面白い。パンフに対訳があるが見る必要がないほどだ。

後半の冒頭はリュート独奏を2曲。曲の合間にそれまでは大人しかったつのだ氏のトークが入り、ルーブル美術館展などで見られた当時の絵画で、リュート弾きの顔がみんな縦じわを寄せて描かれているのは、別にメランコリーのためではなくて、調弦に失敗して「しまった、合ってねえ~Σ( ̄□ ̄ll) ガーン」という理由からだ--なる自説も披露してくれた。

かように音楽面では文句なかったのであるが、ハクジュホールは音響的には素晴らしくてもその他の点が…… 椅子はなんだかガタガタユサユサしているしソファの感触はよくない。おまけに客席のスペースが非常に狭くて座ってるとエコノミークラス症候群になりそうだ。
しかも、私の前にはちょうどメタボ体型の中年男性が座っていて、私との波多野さんの間を完全に遮ってくれちゃってたのだった(> <) そいつが2、3センチ体を横に動かす度に、私はステージ上を見るために狭い椅子の上で端から端へと文字通り右往左往して体勢を変えなくてはならないのだった。何故だ~ω(T_T)ω

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2009年7月12日 (日)

「レスラー」:止めてくれるな、女たちよ! 背中のスプリングスティーンが泣いている

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監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ミッキー・ローク
米国2008年

最近の映画の中では群を抜いて高評価。しかも映画系のブログや掲示板で大規模公開作品並みの言及数である。上映館数は少ないというのにだ。
あの!ミッキー・ロークが落ちぶれたプロレスラーを演じるとあれば映画ファン(ある程度の年齢層以上の(^^;))は注目せざるを得ないだろう。しかも、オスカー・ノミネートやゴールデン・グローブ受賞は大きな話題にもなったし。私の知人にも熱狂的なファンがいた。

しかし、奇妙な映画である。
主人公のレスラーの背後を淡々と追いかけて日常を描写するパートはドキュメンタリー的で面白い。また、試合の前に出場者一同、頭を突き合わせて「ここはクギを使おう」とか「なに、そっちでクギ使うならこっちの試合は別のにしないと」とか段取りを決めているのもビックリ。ここまで、完全にヤラセというか八百長というかショーというか--とにかく知らなかった。
それらの描写のトーンは熱狂する観客席も含めてすべて抑制されている。

一方で、心臓をやられて引退を決意した彼が馴染みの中年ストリッパーに思いを寄せ、疎遠だった一人娘と復縁しようとする件りはあまりに陳腐である。二人の女優(マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド)が上手いせいもあるからあまり気に障らないのだろうが、こんなの他の映画で見たらあらん限りの罵倒力を振り絞ってケナシ倒してやるところだ。

かように食い違う要素が入れ子状態になってるのを見ているうちに、思い至ったのは「こりゃ、芝居の当て書きみたいだなあ」ということだった。
まさしく(多くの観客が感じるように)没落した花形レスラーとM・ロークの身の上は重ね合わせることができる、完全に!
と同時に、この話自体がプロレスの一つの試合のようであるなあとも思えた。キャラクターが決まっていて、役割が決まっていて、ここぞというところで繰り出す必殺技もストーリーも予想できる。そんな試合を見せられた気分。だったら、文句を付けたところで仕方あるまい。
そのせいか、ラストのスプリングスティーンの歌までナニワ節っぽく聞こえるのであった。

こんなことを考えてしまったのは《OnFire》のこの感想「「レスラー」について追記」を読んだからだ。
これを読んでもう一つ別の映画を思い浮かべた。『ギャラクシー・クエスト』である。栄光の過去と現在の対比、一種の「ファミリー」として見なされるメンバー、ファンとの関わり、サイン会の場面も出てくるし(^^;) もっとも『ギャラクエ』の方が数段ひねくれまくっている話だが(しかも前向き)。
しがない現実と奇天烈なSFドラマがそのまま一体となってしまう終盤の展開には、元SF者であった私は思わず「ウギャ~ッ\(^◇^;)/」と歓喜の叫びを上げてしまうほどにコーフンしたものだ。

とすれば、『レスラー』では冷静なドキュメンタリー的流れと浪花節場面が遂に一体化するラストを、プロレスファン(及び往年のM・ロークのファン)はやはり熱狂して観るのだろうか? プロレスファンならぬ私には理解しかねることだが--。
この監督の以前の作品を観た時にも感じたことなんだけど、この人は破滅願望があって、そういう状況を陶酔的に描くのが好きなようだ。

途中に出てくる、ガンズ&ローゼズに代表される80年代の米国ハード・ロック談義は興味深かった。80年代は楽しく盛り上がっていたのに、90年代になってニルヴァーナが登場して全てブチ壊した--って、そんな事を言われちゃカート・コバーンもあの世で浮かばれめえ(^_^メ)


プロレス度:9点
熱狂度:5点

【関連リンク】
《映画と出会う・世界が変わる》
人は現実にもドラマを求めてしまうもんなんざんしょかねえ。

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2009年7月11日 (土)

例え偽りでもデカい声で1000回繰り返せば真実になる罠

《感じない男ブログ》より

「参議院厚生労働委員会・参考人として呼ばれました」

「長期脳死、本人の意思表示@参議院での発言」

「これが「政治」の醜さでしょう@参議院」

「小池晃議員によって嘘は正された」

「そこまでやるか石井みどり参議院議員!」

あまりにも専門的な議論のように思えて、これまで敬遠して思考停止状態でしたが、やはりこれらの記事を読んで放っとける問題ではないと感じました。
ということで、今から勉強し直して……って、もう遅~い(>O<)

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2009年7月 8日 (水)

「A.コレッリ、ヴァイオリン・ソナタ」:当時のトリオを再現

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演奏:アンサンブル・アッラ・モデルナ
会場:近江楽堂
2009年7月1日

三原朋絵(ヴァイオリン)、佐藤亜紀子(テオルボ)、そして「スパラの父」またの名を「スパラの貴公子バディ様」ことディミトリー・バディアロフ(スパラ)によるコレッリの演奏会である。
この楽器の組合わせで、当時コレッリ自身が演奏したという記録が残っているとのことだ。

プログラム前半はいわゆる教会ソナタ、後半が室内ソナタでラストは「ラ・フォリア」であった。
途中にバディアロフ氏から「バロック」についてや、言葉(というか言語)と音楽についてのトークが入った。国によって言葉のリズムが違うそうである(実演付き)。それから、弦楽器に使われている「コマ」は西洋では「橋」と呼ばれていて、それは左(神の領域)と右(人間の領域)を繋ぐ役割を果たしているのだという話も興味深かった。

演奏は三原女史のヴァイオリンが、わりとタメを効かせて弾くタイプなせいか、全体的に重たく聞こえたのが不思議。この編成だと軽く聞こえると思うんだが(?_?)
この三種の楽器の組合わせは音量的にヴァイオリンをかき消してしまう心配がないということだが、逆にテオルボの音が埋もれてしまってリズム系アクセントがどうも今一つパンチなく感じられた。一般にCDならばテオルボも強力に聞こえるように録音しているからいいのだが、実演ではなかなか難しい。LFJの時に見た(聴いた)エウローパ・ガランテのテオルボ並にジャカジャカ弾きまくらないと難しいかも。

でも、まあコレッリのソナタは録音は山ほど出ているが、生ではなかなかまとめて聴く機会がないのでそういう点ではよかった。
アンコールはやはりソナタを弾き始めたはずが、なぜかお馴染みの誕生日を祝う曲に変化……なんとこの日はバディ様の誕生日なのであった

客席は6割以上が中高年の男性で、女性は若い人も結構いた(あ、あとバディ様の親類筋?の方々も)。先日のアムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテットのコンサートとは正反対である。この違いはなぜよ?

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←アンケート出したら貰えました。

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2009年7月 5日 (日)

「ターミネーター4」:ただ今、柳の下に深く潜行中

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監督:マックG
出演:クリスチャン・ベイル、サム・ワーシントン
米国2009年

ダンダダンダダダンッお馴染みのテーマ曲に乗って始まった第4作目。遂に未来編へ突入である ヤッタネ \(^o^)/

思い起こせば××年前、最初は全く興味の埒外であった第1作目--どうせムキムキ大男シュワちゃんありきのB級映画だろうと思ったのだ--であったが、雑誌などで「これは拾いもん」とか「B級ではないれっきとしたSF映画」などという評を見て、見に行ったのであった。
結果は……なるほど、これは面白かった! アクションも凄いがタイム・パラドックスの扱いもうまい。
で、もちろんその後の続編も律義に見続けてきたわけであるよ。

こ、これは(-o-;)
見ているうちにニヤニヤ笑ってきてしまった( ̄ー ̄) 別にギャグが入っている訳ではなくて、あまりにもいい加減でおかしい所変な部分続出だからだ。
こりゃ、もう笑って見るしかないってなもん!

とにかく、脚本がメチャクチャ あの設定はなに?あの伏線はどうなった、などなど挙げていけばキリもない。

人間側は滅亡寸前みたいな感じで、インフラを破壊され耐乏生活を送りつつレジスタンスしているようなのに、なぜか戦闘機はピカピカの新品に見える謎。
広いLA(だっけ)の廃墟で、たまたまカイル少年と謎の男マーカスが出会う確率はどのくらいよ?
機械を停止するシステムを開発してその後どうなったの。
人間の基地で内輪もめであんなにドンパチやったら、あっという間に敵から発見、空爆されてオシマイになりそう。

そもそも、この話自体カイル少年の視点で描くべきだったのではないか? マーカスと共に行動するうちに、ジョン・コナーがチラリと登場、みたいにだ。
なんでも、ジョン役のC・ベールがごねて出番を増やさせたという噂も乱れ飛んでいる。真偽は分からんが、そんな噂が出ても仕方がないくらいの展開なのだ。
おまけにこのジョン・コナー氏、冒頭では単に部隊の一兵士として登場してきたはずなのに、なぜか基地に帰るとリーダーだし、何もしてないのに「救世主」とか言われてるのは謎である。『ハリ・ポタ』を思い出しちまったぜい。

それと、予告で地球破滅もの2本、巨大ロボットもの2本やっていて、それを見てから本編に突入したらまた同じような場面が出てきて飽きてしまった。ハリウッドでは柳の下にドジョウが十匹ぐらいいると思ってるのだろうか。

さらにダメ押しは終盤の展開。いくらなんでも、ありがたく「××」を貰っちゃうんですかい
一作目が公開された時点で、既に「未来の救世主は、自分の父親が死ぬと分かっているのに、一体どんな顔をして過去へ送り出したのか」という疑問が、ファンから取りざたされていたが、この無感情な冷徹さでは平然とやりそうである。(もしかして、その伏線なのかっ?)

役者ではマーカス役のサム・ワーシントンがよかったかな。……というか、他がほとんどパッとしない。折角のマイケル・アイアンサイド特出ももったいない使い方。どうせだったら、彼に最前線で機械をブチ壊す役をして欲しかった。

それにしても、機械と人間が争うという設定はSFなどによく登場するけど、実際はどうかね? 憎悪も怒りの感情もない機械なら、人間がいかに醜悪な存在だろうと完全に無視してくれるんじゃないかなあ。

これも三部作として製作が予定されているらしい。『スター・ウォーズ』エピ1~3のような醜態にならぬことを祈る--というより、もうなっちゃってるか(@∀@)アヒャ

ところで、TVドラマの『サラ・コナー・クロニクル』も見ているのだが、こちらのジョン君は思春期を強い女二人に囲まれて大変だ~(>_<) これで、ちゃんと救世主に出世できるのか? やはりちゃんとした父親が必要なのか。毎回それだけがハラハラドキドキです。


ハチャメチャ度:9点
シリーズ継続度:(採点ナシ)

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2009年7月 4日 (土)

「路上のソリスト」:高架下で聴く者がいなければ音楽は存在しないのだろうか

090704
監督:ジョー・ライト
出演:ジェイミー・フォックス、ロバート・ダウニー・Jr
イギリス・米国・フランス2009年

新聞のコラムに連載された実話を元にした作品。役者がJ・フォックス&R・ダウニー・ジュニアで、『つぐない』と同じ監督がやっているのに、東京では単館ロードショーなのは何故だッ(^^?

『つぐない』を「判然としない」と書いたが、こちらはなんだか煮え切らない映画であった。
才能ある音楽家が精神の病のために路上に埋もれているのを「発掘」した話かと思いきや、LAのスラム街、ホームレス問題にも話が及んでいく。多分、元の新聞コラムがそういう主旨だったのだろう。主人公の記者がナレーションで語る「LAは路上生活者の街だと言われている」というのが、まさに映像で示される。いやはや、すごいもんだ
日本もここまで来る前になんとかせんと……(x_x)なんて思ってしまうほど。

従って、音楽にまつわる感動話を求めてきた人はちょっと肩すかしかも。
大体にして、フツーに見ていくとどうにも主人公の行動に賛成できない。他のネット上の感想でも見かけたが「本人が嫌がってるのにそこまでやらなくとも」とか「お節介も過ぎるんでは?」「ほっといてやれよ」などと思ってしまうのは仕方ないだろう。それを映画の作り手の側はどう考えて描写してるんだかもよく分からない。

主人公の日常の描写の中では『消されたヘッドライン』同様、新聞社の統合・買収話やリストラが見え隠れし、彼は病院で若い医学生に「父があなたの記事の愛読者です私は新聞読まないけどー(^o^;」などと言われてしまう。
しかし、これらがテーマにどう絡んでくるかとなるとなのだ。

というような訳で「煮え切らない」作品なのであった。おまけに路上音楽家ナサニエル氏が久し振りにオーケストラを聴いた時の幻想風画面は、やはり前作同様やらなかった方がよかったと思った。

ジェイミー・フォックスは適役のキャスティングと思ったが、今一つパッとしなかったのはこの演出のせいか。逆に見れば、「意志の疎通が難しい相手」をストレートに演じているとも言える。ダウニー・ジュニアはしょぼくれ具合がよかったが、観客に行動を説得力を持って見せる所までは行かなかった。

ところで、ナサニエル氏はベートーヴェン(なんであんな所に銅像が立ってんの?)やモーツァルトは崇拝しているみたいだが、どうもバッハは好まないようだ。弾いた後に暴れるしさ(火暴)
脚本もバッハを「神がかりの音楽」と解釈しているよう。けしからん(*`ε´*)ノ☆
私は完全に守備範囲外なので、ここは是非ベートーヴェンの愛好者の人に感想を聞きたい所だ。
彼がジュリアード音楽院にいる回想場面では、学生の中でアフリカ系--どころかマイノリティは彼一人しかいなかったようである。発病の要因の一つにそのような状況でのストレスがあったのではないかと思った。

家へ帰ってから聴いたのは、バッハでももちろんベートーヴェンでもなく、ヴィヴァルディのチェロ・ソナタのCDだった。だって、ひねくれ者だもん(^O^)


音楽度:6点
煮えきらなさ度:8点

【関連リンク】
《Andre's Review》
「全体的に音楽の力を信じ切れてないような印象」激しく同意です。

《Purple Pearl》
LAの現状の記事やご本人たちの写真あり。なにげにJ・フォックスのキンキラドレス姿が……w(☆o☆)w

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2009年7月 1日 (水)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 7月版

*1日(水)「Alla Moderna」三原朋恵、D・バディアロフ他
突然、仕事関係の用事が入ってしまったが、オイラは断固行っちゃうもんね

*5日(日)「ダウランドの真夜中」波多野睦美&つのだたかし
      「イタリアバロックの変遷 13 イタリアの旅路」太田光子&平井み帆
      「バロック音楽の楽しみ」山岡重治、平尾夫妻他
さ~て、あなたはどれに行く おーっとバレエ付き「ヨハネ」もあるぞ(!o!)

*10日(金)「御聖体のミサ」ヴォーカル・アンサンブル・カペラ
どうも職場関係の宴会が入りそう(=_=;)

*11日(土)「ディドとルクレツィア」山本富美、桐山健志他
行きたいけど、仕事関係の用事が……なぜだっω(T_T)ω

*19日(日)「みんなの古楽2009 トんでる!ヘンデル! 第2回 スリー・カウンターテナーズ 1オクターヴ高くてゴメンね」彌勒忠史、上杉清仁、石塚たすく
このシリーズ気になるが、横須賀は遠いのよ~(泣)

*25日(土)・26日(日)「東京リコーダー音楽祭2009」
とても全部は聴けません。

*30日(木)「イギリスとフランスのバロック音楽とダンス」市瀬陽子、竹内太郎他
あ、これは知らなかったなあ。でも連チャンになっちゃうし(x_x)

*31日(金)「天正遣欧使節団とルネサンス音楽 2」鈴木美登里他

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