エマ・カークビーのダウランドを聴くと、あのマンガを思い出すという話
最近、アントニー・ルーリー&コンソート・オブ・ミュージック演奏するダウランド歌曲集のCDを引っ張り出してよく聞いている。直接のきっかけとなったのはこのコンサートだ。
かなり昔に買ってそのままあまりよく聞かないでしまい込んでいた盤である。引っ越ししてからのこの5年間一度も出さなかったし、その前も何年も聞いてなかった。
元の録音(もちろん当時はヴィニール盤)は1976~77年で、私の持っているCDは二枚のアルバムを一枚にまとめた編集盤のようだ。
内容はダウランドの5つの歌曲集から選んで、テノール独唱や4声部の合唱、ソプラノとバスのデュエットなど様々な形で歌っている。
当然ながら(;^_^A この頃の彼らをリアルタイムで聞いていたわけではないが、このダウランドの演奏が大きな衝撃をもたらしたという話は耳にしていた。この後のルネサンス歌曲の演奏スタイルを大きく変えたと言えるほどだろう。
「彼らはいわゆるクラシックの声楽とは異なる素直な発声と端正な演奏で、見事に恍惚とした桃源郷を実現してみせた。」(『古楽CD100ガイド』)
特筆すべきはエマ・カークビーの歌だろう。今でこそ「大御所」となっているが、ここでの彼女はうまいんだか下手なのかも分からない。それが、当時の「メランコリー」という精神を表していると言えばそれまでではあるが、当時にあっては掟破りともいえるボーカルスタイルだ。
なんのギミックもなくひたすら真っ直ぐで、蒼ざめていて透明で、脱力しそうで、上手下手どころか感情がこもっているのかどうかさえよく分からない。艶めかしいとか生気にあふれているなんてことは全くない。聞いていると、貧血状態で頭の中が青くなって倒れそうなぐらいだ
特にバス(デヴィッド・トーマス)との二重唱の「ぼくは見た、あの人が泣くのを」と高名な「流れよ、わが涙」を続いて聞くと、何やら時間さえ停滞して流れていくような気分になる。
で、そうなるといつも連想してしまうのが山岸凉子の『アラベスク 第二部』の後半の「ラ・シルフィード」の踊りなんである。
このマンガのヒロイン、ノンナは旧ソ連時代のレニングラードのバレエ学校の生徒である。諸般の事情あってコンクールで「ラ・シルフィード」を踊る羽目になってしまう。ただでさえ大柄な彼女は繊細な妖精など踊れるのか悩むが、さらにドイツ人の女性ピアニストから、あんたみたいなガサツで情緒を解しないガキなんかにシルフィードなんか踊れるわけないわよ--というような事を言われて余計にガ~ンΣ('д'lll)となってしまう。その発言の背後には、ヲボコ娘が成熟した女を踊れるはずがないということも言外に匂わせているのである。
しかし、最後にヒロインは「人間として未熟なままの冷たい、青いシルフィード」を踊る。バレエには完全門外漢の私は、その時の彼女の踊りはきっとエマ・カークビーの歌うダウランドのようだったのだろうと想像するのだ。
『アラベスク』のこの終盤の展開は、作者の「成熟してない女でどこが悪い」という強烈な主張が込められていると考えるが、カークビーの青白い情念の炎のような歌はその主張をそのまま体現しているようである。たとえ、表面的には感情も豊かさのかけらもないように聞こえていても、だ。
そして、ダウランドの「メランコリー」という概念を越えて、表現することの何ものかを突きつけてくるのである。それはウン十年たった今でも変らない。
主題からそれるが、『アラベスク』の中で紹介されている「愛する時と憎む時の表情が同じ」というギリシア神話の逸話は、なんだか身にしみる。若い頃に読んだ時には全く気に留めなかったんだけど……やはり歳を取ったかのう(x_x)
| 固定リンク | 0
コメント
コンソート・オブ・ミュージックのダウランドは昔よく聴きました〜しかしカセットテープでしか持っていないので、いまや家のどこかで腐っているのかも・・・
それと
>古楽CD100ガイド
これも持ってます(笑)
投稿: manimani | 2009年7月20日 (月) 01時24分
最近は「劇的」なダウランドの歌唱法が主流になってきたのかな~と感じたのが、この記事を書くきっかけでした。
「古楽CD100ガイド」だけでなく「200CD・古楽への招待」とか「200CD・バッハ」も持ってますが、問題は執筆者の大半がかぶっちゃってることですねえ……
投稿: さわやか革命 | 2009年7月20日 (月) 09時40分