「レスラー」:止めてくれるな、女たちよ! 背中のスプリングスティーンが泣いている
監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ミッキー・ローク
米国2008年
最近の映画の中では群を抜いて高評価。しかも映画系のブログや掲示板で大規模公開作品並みの言及数である。上映館数は少ないというのにだ。
あの!ミッキー・ロークが落ちぶれたプロレスラーを演じるとあれば映画ファン(ある程度の年齢層以上の(^^;))は注目せざるを得ないだろう。しかも、オスカー・ノミネートやゴールデン・グローブ受賞は大きな話題にもなったし。私の知人にも熱狂的なファンがいた。
しかし、奇妙な映画である。
主人公のレスラーの背後を淡々と追いかけて日常を描写するパートはドキュメンタリー的で面白い。また、試合の前に出場者一同、頭を突き合わせて「ここはクギを使おう」とか「なに、そっちでクギ使うならこっちの試合は別のにしないと」とか段取りを決めているのもビックリ。ここまで、完全にヤラセというか八百長というかショーというか--とにかく知らなかった。
それらの描写のトーンは熱狂する観客席も含めてすべて抑制されている。
一方で、心臓をやられて引退を決意した彼が馴染みの中年ストリッパーに思いを寄せ、疎遠だった一人娘と復縁しようとする件りはあまりに陳腐である。二人の女優(マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド)が上手いせいもあるからあまり気に障らないのだろうが、こんなの他の映画で見たらあらん限りの罵倒力を振り絞ってケナシ倒してやるところだ。
かように食い違う要素が入れ子状態になってるのを見ているうちに、思い至ったのは「こりゃ、芝居の当て書きみたいだなあ」ということだった。
まさしく(多くの観客が感じるように)没落した花形レスラーとM・ロークの身の上は重ね合わせることができる、完全に!
と同時に、この話自体がプロレスの一つの試合のようであるなあとも思えた。キャラクターが決まっていて、役割が決まっていて、ここぞというところで繰り出す必殺技もストーリーも予想できる。そんな試合を見せられた気分。だったら、文句を付けたところで仕方あるまい。
そのせいか、ラストのスプリングスティーンの歌までナニワ節っぽく聞こえるのであった。
こんなことを考えてしまったのは《OnFire》のこの感想と「「レスラー」について追記」を読んだからだ。
これを読んでもう一つ別の映画を思い浮かべた。『ギャラクシー・クエスト』である。栄光の過去と現在の対比、一種の「ファミリー」として見なされるメンバー、ファンとの関わり、サイン会の場面も出てくるし(^^;) もっとも『ギャラクエ』の方が数段ひねくれまくっている話だが(しかも前向き)。
しがない現実と奇天烈なSFドラマがそのまま一体となってしまう終盤の展開には、元SF者であった私は思わず「ウギャ~ッ\(^◇^;)/」と歓喜の叫びを上げてしまうほどにコーフンしたものだ。
とすれば、『レスラー』では冷静なドキュメンタリー的流れと浪花節場面が遂に一体化するラストを、プロレスファン(及び往年のM・ロークのファン)はやはり熱狂して観るのだろうか? プロレスファンならぬ私には理解しかねることだが--。
この監督の以前の作品を観た時にも感じたことなんだけど、この人は破滅願望があって、そういう状況を陶酔的に描くのが好きなようだ。
途中に出てくる、ガンズ&ローゼズに代表される80年代の米国ハード・ロック談義は興味深かった。80年代は楽しく盛り上がっていたのに、90年代になってニルヴァーナが登場して全てブチ壊した--って、そんな事を言われちゃカート・コバーンもあの世で浮かばれめえ(^_^メ)
プロレス度:9点
熱狂度:5点
【関連リンク】
《映画と出会う・世界が変わる》
人は現実にもドラマを求めてしまうもんなんざんしょかねえ。
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