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2010年3月

2010年3月31日 (水)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 4月版

先月は二つもコンサートをパスしてしまいました(+_+)トホトホホホホ

*6日(火)「イギリスのコンソート音楽」(ザ・ロイヤル・コンソート)

*9日(金)「カンタービレ様式の至芸」(佐藤豊彦)

*18日(日)「江崎浩司のおいしいサンドウィッチのつくり方~バロック音楽とサンドウィッチ伯爵」(江崎浩司ほか)

*28日(水)ラ・フォンテヴェルデ第11回定期演奏会
今回はモンテヴェルディですな。


他にはこんなのも
*13日「親密な語らい~フランス・バロックの夕べ」(花岡和生&アンサンブル・アルタイル)
*16日「天正少年使節団とルネサンス音楽3 イタリア編その1」(金澤正剛ほか)
レクチャーコンサートのシリーズ
*18日「フランソワ・クープラン クラブサン曲集レクチャーコンサート」(桑形亜樹子)
*19日「日本モーツァルト協会例会~ヨハン・ゼバスティアン・バッハ賛」(寺神戸亮&レ・ボレアード)
*23日「18世紀ドイツの室内楽」(ジョルジュ・バルテル×E.A.S.T)
これは是非聞きたかったんだけど、残念ながら職場の歓送迎会。しかも幹事なんでさぼるわけにも行かず……
*29日「13世紀音楽の諸相~単旋律の世界」(ラウデージ・トウキョウ)

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2010年3月30日 (火)

バッハ・コレギウム・ジャパン結成20周年日本大学カザルスホール特別公演:マチャアキの涙

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会場:日本大学カザルスホール
2010年3月23日

カザルスホールが3月末にて使用停止となるため、活動初期に定期公演をここで行なっていたバッハ・コレギウム・ジャパンが久々に古巣帰った。
二本立てで第1部は3人の奏者によるオルガン演奏会。第2部はBCJの第1回定期公演のプログラムを復活演奏という趣向で、全体で3時間に及ぶ長丁場だ。
古参のファンが集まったせいか、客席は最近のオペラシティ公演よりもさらに白髪度高しであった。

最初に鈴木(兄)雅明がマイクを持って登場。その話によると、オルガンが設置されてまもなく紀尾井ホールのほうへ定期の場を移してしまったので、オルガンとの「共演」が出来なくて残念とのことだった。とすると、当時まことしやかに囁かれた「BCJが紀尾井に移ったのはオルガンが出来てホールの響きが変わってしまったから」という説はガセであったことになる。全くもって噂は信用できんもんですのう。

オルガン連続演奏では、今井奈緒子のパートはスウェーリンクがよかった。二人のストップ担当係を従えた廣江理枝は、いかにもブクステフーデらしい少し変な曲を派手に演奏--という印象だった。最後はオルガン上部についている星を回してくれた(カサカサ音を立てて回るのでビックリよ)。
しんがりの鈴木(兄)は久々の暴奏(★_★)でバッハの曲を弾きまくった。あたかも背中に「誰にもオレを止められねーよ」感が貼り付いていたようであった。

第1回カンタータ復活演奏は編成や奏者まで完全復活という訳ではなかったようだ。合唱は各声部3人でソロは曲ごとに交替して取っていた。
ただし、鈴木(兄)は真ん中にチェンバロを置いてその前で指揮をとるというスタイルを久々に披露。二曲目のBWV177では、最近では少なくなった鈴木(弟)秀美との濃ゆいBC共演を聞かせてくれた。
後半は洗礼者ヨハネの誕生日を祝うという大曲BWV30。

こうしてみるとプログラム的には結構地味なような(^^? これで当時はどれぐらい客が入ったのかしらん、などと思ってしまった。
演奏自体は実際に第1回目の時はどうだったのか知らないが、今回は全体的にさらーっと流した印象だった。
野々下由香里がカンタータ公演にはやはりお久し振りな参加。もっとソロを聞かせてもらいたかったですわ(*^-^*)

カーテンコールの後、再び鈴木(兄)氏が登場し、BWV30の終曲をアンコールでやった。終わって指揮の手を下ろし客席の方を向いた時、彼の目には涙が…… そして、ハンカチでぬぐいつつカザルスホールのステージ自体とオルガンに拍手を送ってみせたのであった。

最後にカザルスホールのことについて書いておこう。
公演のチラシには「1987年、日本初の室内楽専用ホールとしてオープン」とある。この頃はまだ私はクラシック音楽というもの自体ほとんど聞いてなかったので詳しいことは知らないが、やはりキャパ数百人という中程度のホールとしては草分け的な存在だったろう。
個人的にはBCJ定期以外には、クレマン・ジャヌカン・アンサンブル、ロンドン・バロック、あとタリス・スコラーズあたりも聞いたような。ただ、その後同規模の新しいホールが幾つも出来てしまい、さらにここで行われる古楽のコンサート自体も少なくなってしまったので行かなくなってしまった。調べてみたら、前回足を運んだのは2005年のやはりBCJの特別公演だった。
--というわけで、聞く側としてはあまり思い入れはないのであった(・・ゞ

今回久し振りで驚いたのは、音の響きが耳ざわりだったことだ。合唱も器楽も高音がなんだかガサガサした潤いのない音に聞こえた。
ありゃここってこんな音だったっけ(?_?;とボーゼンとしてしまった。
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←終演後、ステージ上での記念撮影のために出てきた面々。
この時、私は写メを撮るのに夢中になって、バッグの口を開けたまま放り出していたのであったよ。


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2010年3月28日 (日)

結城座「宦官提督の末裔」:鄭和の夢は夜開くのよ

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原作:クオ・パオクン
演出:フレデリック・フィスバック
会場:シアタートラム
2010年3月18日~22日

かつて『屏風』で組んだフランス人演出家F・フィスバックを迎えて、結城座が演じたのは中国出身でシンガポールで活動した劇作家クオ・パオクンの作品である。

開演ギリギリに着くと、プロローグが既に始まっていた。演出家と美術担当のL・ベルジェが内容の説明をしている。しかし、笑っちゃうのは本人たちが脇で喋っているのに舞台上にはご当人たちソックリの人形(通訳の人のも)がいてやはり解説しているのだった

物語は中国の明時代に実在した宦官・鄭和を題材にしているが、作品自体は極めて難解なものであるため、舞台を現代のオフィスに設定してあるという。
深夜まで残業しているサラリーマンの男が鄭和の夢を見る。客演の加納幸和がサラリーマンを、大久保鷹が語り手を演じている。

シンガポールは経済的自由はあるが、政治的・思想的自由はないという国で、その抑圧性が去勢された宦官の存在へと投影されている。彼には閉鎖的官僚的な宮廷の中では自由がないが、長年の大航海を繰り返すことによって自由を得る。

--というのは頭では理解が出来た。しかし、どうも今一つ実感はできなかった。
深夜のオフィスが大海や異国の地に変わるというのも、あまり見ていて開放性はなかったし、何回も繰り返される「去勢」談義もどうもピンと来なかった。
宦官というのが自由と生命力を奪い取られた存在であることを強調すればするほど、フロイト的には「去勢された男」たる女である私はなんと感じていいのか分からなくなるのであった。

かようにモヤモヤしたものが残った芝居であった。
意図的にやってるんだろうけど、語り手のつっかえたような喋り方も聞いててイライラしてしまった。
とにかく難解な内容なのには間違いない。
プロローグで演出家が「パンフレット買って解説だけでも読んでくれ」と言ってたが、パンフの解説がないと理解できないって、それだけで芝居として失敗では?

加納氏が普通の男性サラリーマンをやってるのを見たのは初めて(多分)。彼の人形の顔がコイズミ元首相にソックリに見えた(ご当人は似てないが)のは私だけか

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2010年3月27日 (土)

NEC古楽レクチャー「BCJとバッハの教会カンタータ」:濃厚バッハ話の夜

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結成20周年をむかえて
出演:鈴木雅明、江端伸昭&特別ゲスト
会場:東京オペラシティリサイタルホール
2010年3月15日

この古楽レクチャーに行くのも久方振り。前に行ったのは2005年ぐらいだろうか。これでシリーズ最終ということで、20年を振り返るような内容らしいので行ってみた。

だが、私は甘かった。懐古的に初期の公演から語る--なんて内容ではなく、そこで展開されたのはディープなバッハヲタ話であったよ(>O<)

まず、研究に伴って演奏も変化するということで近年のバッハ研究の動きをレクチャー。そして2008年、2009年の新発見について。特に歌詞本というのがあって、カンタータの歌詞を冊子にしたものを教会で配ったものがロシアで発見されたという話は熱が入っていた。実際に教会で演奏された曲が確認できる、なによりの証拠だとのこと。

レクチャーの相方は前回の定期公演プログラムに長文の論文を書いて、何も知らずプログラムを買った一般聴衆の目を白黒させた(@∀@)江端伸昭氏であった。
この人がまた鈴木雅明がウカツなことを言えば鋭くツッコミを入れ、かと思えば演奏の録音ディスクをかけるとウットリと目をつぶって聞き入るという、まさにバッハ ヲタク 愛好者の鑑のような人物である。

BCJの公演については初期の頃は年代順ではなかったとのこと。順序立ててやるようになったのは1995年からだそうだ。教会カンタータの終了は2012か13年になるらしい。

後半はファンサイト《VIVA! BCJ》を運営しているクネヒトさんが登場。さすが社会科の先生というところか、カンタータ演奏の変化の一覧表を作成(時間の余裕がなく一日で作ったとのことでオツ!であります)、合唱の人数などひと目で変化が分かるようになっていた。
全体の進行の仕切りもクネヒト氏がさりげなく助けていたようである。

印象に残った話は、カンタータの最後のコラールは教会で会衆も一緒に歌ったはずなので、当初は合唱が素人っぽく荒っぽい感じで歌うのもありと考えたが、とはいえ当時だってシロートの人々が本当にいきなりコラールを歌えたか怪しいということで、会衆歌のように歌うべきではないと確信したとのこと。
また、当時のオリジナル演奏を目指すと言っても、合唱の人数は実際の歌手の顔ぶれを見て決めざるを得ないとのことだった。

20年もの試行錯誤が色々とあって今のBCJがあるというのがよ~く分かりました。生演奏はなかったが色々とためになりました。教会カンタータは終わっても、あと20年ぐらいまだ頑張って下さい \(^o^)/
なおこのNECによる古楽レクチャーは今回で最終回とのこと。やはり不景気だからでしょうか……。


ところでアンケート用紙が配られて、「あなたがもう一度聴きたい、またはベストBCJカンタータは?」とか「ベスト演奏会は?」などという項目が並び、「休憩時間までに出して下さい」なんてあったけど、そんなの家帰ってCDやらプログラムひっくり返さなければ回答できないですよ~。で……あまり集まらなかったもよう(^=^;


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2010年3月25日 (木)

「バッカイ」:の、脳ミソが~!

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出演:江戸糸あやつり人形座
会場:赤坂レッドシアター
2010年2月27日~3月4日

この公演は全く知らなかった。新聞の紹介記事で見てあわてて当日券で見に行ったものである。
人形座は結城座を脱退した長男と三男が中心となっている劇団とのこと。でも、昔は次男の方が外に出てたことも??--など色々あるようだが、部外者にはよく分かりませぬ。

エウリピデスのギリシャ悲劇を人形と能と現代演劇のコラボで演ずるという主旨らしい。それを、事前学習ナシで行ったら全くよく分からんという羽目になってしまった。トホホである(+_+) 久方振りに難解なモンを見せてもらいましたです。

冒頭は、薄暗い舞台の上を数人の男たちが這いずり回りうめいている。(薄暗いのでそれも定かではない)
やがて、人形演じる母親が息子を手にかけ殺したことを嘆く場面だというのがかろうじて判明。
ストーリーはあって無きが如しのよう。しかも、一人の登場人物のセリフを複数の役者が交替で喋るので余計に分からなくなる。全体の形式自体は夢幻能として作られているらしい(能については完全無知なのでこれまたよく分からず)。
音楽は尺八を使った現代音楽でこれまた陰々滅々と会場内に充満する。

元々この作品は「バッコスの信女」「バッコスの女たち」などというタイトルで訳されていた芝居らしい。それを分かっていればまだよかったかも知れない。なにせ中盤で美加理が恐るべき痙攣のような狂気のパフォーマンスを見せるのだが、それはどうも新興宗教に狂躁状態となった女たちの様子を表わしていたのだと、後になって分かった始末である。

いずれにしろ芝居というよりはパフォーマンス性の強い舞台であり、最近脳ミソの柔軟性にとみに欠ける私には理解力を越えるものであった。


ところで、真ん中あたりの座席にどうも見覚えのある後ろ頭の人物がいるなあ--と思ってよくよく見たら、なんと二日前にコンサートのステージ上でお見かけしたばかりのつのだたかし氏ではにゃあですかっ(!o!) こんな所にも出没とはビックリよ。


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2010年3月21日 (日)

「フローズン・リバー」:氷も解かす女優魂を見よ

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監督:コートニー・ハント
出演:メリッサ・レオ、ミスティ・アッパム
米国2008年

2009年の(今回のではなく昨年ですな)アカデミー主演女優賞にメリッサ・レオがノミネートされたというのを知ってからずっと見たいと思っていた映画が、ようやく公開された。しかも映画館(シネマライズ)が直接買い付けしたとかで、それも評判になった……というか、そうでなければ上映されなかったということで、ある意味寂しい話でもある。
メリッサ・レオといえば私にとってはなんと言ってもTVドラマ『ホミサイド』で初代の女性刑事をやってた印象が強い。その後は他のドラマや映画で脇役をやっていたのを何回か見かけた。

舞台はカナダ国境近くの米国の田舎町。
家の購入費用を持って亭主に逃げられた白人女と、なぜかその亭主の車を運転していた先住民の女--共に社会の中で底辺層に位置しながら、決して交わることのないはずの二人であるが、成り行きで移民の不法入国稼業に手を貸すことになる。
それは二人とも「子どものために金が必要」な必死な「母親」であるからだ。

犯罪といったって人を殺したり盗んだりする訳じゃなし、必要な額を稼ぐだけ稼ぐだけよ……と、女の前に出現する様々な人種の人々も単なる「積み荷」に過ぎない。他人のことを気にしている余裕なんかない。
しかし、ある事件を契機に二人の関係も状況も変わる。

救いなき日常、凍てついた人間関係(河が象徴するものか)--M・レオは銃をすぐぶっ放す癇癪持ちながら、思春期の息子への対応に悩むヒロインをうまく演じている。しかも、疲れがにじみ出ていて、醜いのだ すっぴんメイクどころではない。大した女優魂である。(オスカー授賞式ではちゃんと美人でしたよ)
脚本も書いた監督はラストで、悲惨な状況も女達のゆるやかなシスターフッドによって救われ、何がしか変化が生まれると主張しているようである。そして前向きに終わる。
しかし……逆にそれだからこそ、見ていて物足りない所を感じてしまうのもまた事実なんであった。

よく時代物・歴史物の作品で美術や衣装に感心することがあるが、この作品でも同様に感じた。トレーラーハウスから小物に至るまで、なんというか、全てが安上がりでセンスに欠け、貧相で微妙に悪趣味--というのがにじみ出ているんである。それを観客に嫌悪感を感じさせる手前でうまく表わしている。
普通は豪華なセットに目がひかれてしまうもんだが、それに匹敵する担当者の優れた仕事だろう。


主観点:7点
客観点:7点


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2010年3月20日 (土)

「コララインとボタンの魔女」(3D吹替版):家へ帰ってママの眼を確認するのは禁止

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監督:ヘンリー・セリック
出演:コラライン、ボタンの魔女ほか
米国2009年

日本ではあまり知られていないが、米国では大人気作家であるニール・ゲイマンのファンタジー児童文学を、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」の監督がアニメ化したというので見に行ってみた。
もはや2D上映はなく字幕版は六本木でしかやってないので、さすがに「ひねくれ者」の看板は下ろして、大人しく3D吹替え版で見ましたですよ。

コララインは小学生の女の子。仲のよい友だちや慣れた学校を遠く離れて引っ越して来たのはド田舎の変なアパート。母親も父親も忙しくて構ってくれないし詰まんな~いとふてくされる毎日……ってこりゃ「千と千尋」ぢゃないの(?_?; という野暮は言いっこなしよ。

ある日見つけた壁穴を通っていくと、そこにはもう一つの家が! そちらではママやパパはもっと素敵で優しく、家の中はキレイになってるし、理想の世界ではないか ただ、一つみんなの眼がボタンになってる事以外は……。

いやー、向こうの世界のご馳走がまたホントに美味そうで、とてもこれがストップモーション・アニメとは信じられないぐらい。ヨダレが出そうになりました(^Q^;) これなら、眼がボタンなんて些細な事は気にしないですな。

とはいえ、ボタンの眼とは何の比喩なのか? なぜ魔女は次から次へと子どもを欲しがるのか?
ここから何らかの教訓を読み取るとすれば、「うまい話にご用心」とか「ダメ親でも、やっぱり実の親が一番」とか「現状が不満でもガマンせよ」とかそんなところか。結局、最後までよく分からなかった。
ともあれ、不気味なテイスト満載なんで小さいお子ちゃまには向きません。ただ、問題は現実の世界は「地味で暗くて変」、壁の向こうは「派手で明るくて変」--と、両方の世界がいずれにしても「変」なんであんまり差がないってことだろう。

音楽や美術デザインは変な世界を補強するラインで統一されていてさすがという印象。3D初体験だったが、そもそもストップモーション・アニメって3Dに向いていないのではないかと感じた。なんか屋上屋を重ねるという感じだ。DVDが出たら字幕版2Dで再見することにしよう。


「変」度:8点
3D効果度:5点

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2010年3月17日 (水)

「抱擁のかけら」:結論・ペネロペは美人。以上!

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監督:ペドロ・アルモドバル
出演:ペネロペ・クルス
スペイン2009年

粗筋紹介などを読んでてっきり、以前に見た同じ監督の「バッド・エデュケーション」みたいな、人をおちょくったいかがわしい怪作だとばかり思い込んで、喜び勇んで見に行ったのであったよ。

しかし、いくら待っても話はひねくれもひっくり返りもせず、ただそのままストレートな純愛の話として進んで行くのであった。
しかし、私はきっと最後に何か起こるに違いないo(^^)oワクワクと思っていたのだが、結局最後までドンデン返しもなく終わってしまったのであった……。

えーと(=_=;)
ただ純愛一本やりの話に128分は長過ぎないか?
確かにペネロペ・クルスは美しかった それは認めよう。だが、そのような「公然の事実」を2時間強かけて描いただけだというのでは、あまりに芸がないのではないかね。
おまけにラストに登場する劇中映画がこれまた……なんだか昔の米国製TVコメディ「ルーシー・ショー」を思い出してしまった。食べたはずのマフィンの数がいつの間にか戻ってるし(わざとやってる?)、これでスタジオの笑い声なんか入っていたら完璧だ。でも「ルーシー・ショー」の方が正直面白いと思うが。

まあ、これは勘違いして見に行ってしまった私が悪い
背景に使われているアートやインテリアは素敵だった。
あの息子が何のために再び主人公の前に現われたのかは最後まで分からなかった。

ペネロペ美人度:10点
その他:3点


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2010年3月14日 (日)

「ダイドーの嘆き」:音楽が死んだ後に

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演奏:波多野睦美ほか
会場:ハクジュホール
2010年3月9日

ちょうど一週間前のロベルタ・マメリのソロ公演と対になるかのように行われた、CD(「ソリチュード」)発売記念コンサートである。

最近、どうもコンサートとなると寒い日ばっかりに当たるのはどうしたことよ、とブツブツ言いながら職場から出れば、なんと(!o!)外は雪になっているじゃあーりませぬか これはマイッタ。
しかし、思い起こせば先日の「アーサー王」の時も津波が来たし、こ、これはもしかしてあの世のパーセル先生が「同じメモリアル・イヤーだというのに、ヘンデルなんぞばかりにかまけおってω(T_T)ω 許せん!祟ってやる~」と呪いの波動を送ってきているのであろうか。

おまけにハクジュホールのビル入口では傘立てが足りなくて、客が右往左往 開演まで後5分!どうすりゃエエえんじゃあ(>O<)と危機的状態になった時に、様子を伺っていた係員がおもむろに新たな傘立てをガラガラ引っ張り出して来たのであった。なんだよ、そんなら最初出しといてくれい。

が、内容はそんなことには関係なく素晴らしいものだった。
前半はCD収録曲を中心にパーセルの様々な歌曲を、芝崎久美子のチェンバロと福沢宏のガンバをバックに歌った。その後二人が引っ込んで、今度はつのだたかしが登場。開演前にも調弦をずっとやっていたのに、リュート様が御機嫌斜めなのか、またもやエラ~く長く調弦していたのだった。もちろん、観客はじっと黙ってリュート様の機嫌が直るのを待っていたのである。ようやく再開後に3曲が歌われた。

他の作曲家に比べてパーセルはやはり言葉の響きに対してのこだわりが並みではないと思う。コミカルな「エジンバラの街から遠く」には単語の執拗な繰り返しが何度も登場する。こうして生で聴いてみると、その部分が録音よりも遥かに歯切れよく聞こえてくる。
もちろん、それは歌い手がそう理解して表現しているからこそだろう。「恋が甘いものなら」の最後の言葉の語尾が、ハクジュホールの中で余韻を残しつつエコーとなって消えていった時もまた、ヒシヒシとそれを感じたのであった。

後半は「ダイドーとエネアス」(ダイドーって英語読み?)を、パーセルの他の作品も混ぜて再構成。女王と魔女の双方を一人で歌ったのであった。これは過去にも「ひとときの音楽」というCDを出した時のコンサートでも同様の試みをやっていた。その時は寺神戸亮のアンサンブルが共演だったが、今回はさらに小さな編成だ。
その時は魔女役の時もかなりの激しさで歌っていたと記憶しているが、今回はそうでもなく、女王の心理の方を中心にしていたようだ。
ラストのダイドーのラメントでは繰り返される「リメンバー・ミー」の部分が慟哭--というのとは違う、何か悲しみの巨大な風がホールを吹き抜けて行ったような印象だった。まさに胸を衝くとはこのことであろうか。聴いてて、思わず涙目になってしまった。何回かこの曲を生で聴いた事があるが、こんなのは初めてであるよ。客席からはホーッとため息がもれたほどだった。

アンコールは打って変わって、陽気な「恋していると彼女はもう告白する」(多分)でオシマイ。
先週のR・マメリに続き、またも大満足だった。

外に出るとグジャグジャした雪が積もっていた。まだパーセルの祟りは解けなかったようである。帰りの代々木八幡の駅は吹きっさらしで寒かった


ところで、このコンサートの冒頭では音楽を賛美したパーセルの曲が数曲続いたが、聴いているうちに加藤和彦の遺書の話を思い浮かべた。彼は宛て名のない遺書に「世の中は音楽なんて必要としていないし、私にも今は必要もない」と書いてあったというのである。なんと悲しく寂しい言葉であろうか。私にもいつかそういう時が来るだろうか?
音楽の死とは誰からも必要とされなくなった時なのだろう。


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2010年3月11日 (木)

「ディドーネの嘆き」:青のドレス疾走す

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演奏:ロベルタ・マメリ&つのだたかし
会場:日本福音ルーテル東京教会
2010年3月2日

コンサートの時はいつも自由席なこの会場であるが(というか教会によくある木製ベンチが並んでいるだけなのだ)、今回は指定席になっている--というのも驚きであったが、実際行ってみてさらにビックリ
私はB列だったもんで油断していたら、なんとBが最前列だったのだ。期せずして「ロベルタたん、ハアハア(^Q^;)」な座席になってしまった。チョビッと緊張しちゃう。いや、私は別にハアハアしませんけど。

過去にラ・ヴェネシアーナの一員としてや波多野睦美とのデュオは聴いてきたが、単独公演はこれが初めて。マメリ女史は上野での「ロ短調ミサ」と同じ、色鮮やかな青いドレスで現われた。
なお、ご当人はチラシなどによく使われている写真とは全く違う。もっと若くてスラリンとした美女である。いい加減、別のを使ってくれい。

さて、その第一声を発した時の会場の雰囲気をなんと表現したらいいだろう。あたかも一瞬にして真空状態になり、聖堂内には「声」以外には何ものも存在しないようだった。客席は気を呑まれたように静まり返り、圧倒的な歌声に気圧されるばかりだったのである。
しかし、かつてハクジュホールでもつのだたかしの伴奏で、ソロで歌ったのは聴いたはずなのになんだか迫力が数段違う。やはり、音楽とハコというのは密接な関係があるのだろうか。

プログラムの内容は初期イタリア・バロックの歌曲である。前半はカッチーニ、ディンディアなど。途中でつのだたかしのキタローネによる、カプスベルガーの演奏が入った。
公演タイトルはディンディアの曲で、パーセルが『ディドとエネアス』で題材にしているのと同じ物語である。これがまた緩急自在に歌声を繰り出し、ラストのヒロインが死に致る場面は、語るように消え入っていった。思わず聞き入ってしまう。

後半一曲目のメルラは聖母マリアが歌う子守歌という設定だが、子守歌らしからぬ激情にには驚かされる。続いてモンテヴェルディが3曲で、『ポッペア』の王妃が歌う「さようならローマ」はやはり圧巻であった。激し過ぎず、嘆き過ぎず、語りとも歌ともつかぬギリギリの所で微妙にバランスを取っていた。
その後、女性作曲家ストロッツィの作品で終了。

いやはや、とにかく圧倒されました。ただ、唯一の不満はいささかドロドロした失恋や恨みの曲が多かったかなー、ということ。もう少し軽めの曲も間に入れて欲しかった。
と思っていたのだが……。

アンコールは2曲やったが、一曲目が終わった時にマメリは退場したのになぜかつのだ氏は座ったまま。あれ、なんで(^^?と思うのもつかの間、まだ前の拍手が続いているのにやおら前奏を弾き出したのであ~る。
と、その途端に脇のドアから、マメリがドドドーッと走り出して来て必死の形相で壇上に駆け上がると、ギリギリセーフで歌い始めたのであった。
曲は、先程も歌ったモンテヴェルディのややコミカルな恋愛歌である。それをさらに今度は滑稽なジェスチャーをつけて歌ったもんで、もう会場内はオオウケだった。

当然のことながら、これは二人で最初から打ち合わせてやってるのだろうと思って見ていたのだが、歌い終わってからマメリが脇から出入りする時の様子を見ていると(最前列なんで他よりよく見える)、どうもこれは違うのではないかと感じた。
恐らくジェスチャーをつけて歌って笑いを取るというのは予め決まってたのだろうが、前奏を先に始めてしまったのは、つのだ氏が勝手にアドリブでやったように見えた。彼は、どうも雰囲気がちょっと真面目過ぎだだと考えて、それを変えようとしたのではないだろうか。
だから、必死に彼女が走って来たのは演技ではなかったのでは? それで、つのだ氏をポカポカ叩くジェスチャーは焦った怒り半分で本気がかなり入っていたと思える。

しかし、これで真面目だけでないマメリ女史のコミカルな面も引き出して見せたんだから大したモンである。思えばつのだ氏は過去に巫女系美女のロー・フュジェールを舞台上で爆笑させたということもあった。こんなことは朝飯前か。
いよっ(^_-)☆つのだ「女泣かせ」ならぬ「女笑わせ」とは憎い、ニクイぜ、このこのこの……(もはや意味不明)

【関連リンク】
《Pavane~リュートとギターに囲まれて》
京都での公演の様子。サイン会の写真が「ロベルタたん萌え~」な感じによく撮れています。

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2010年3月 7日 (日)

パーセル「アーサー王」:津波より先に押し寄せた「非難」

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音楽監督・指揮:エルヴェ・ニケ
演出・構成:伊藤隆浩
管弦楽&合唱:ル・コンセール・スピリテュエル
会場:神奈川県立音楽堂
2010年2月27・28日

結果的に古楽系では、早くも今年最大の話題騒然作となったパーセルのオペラ公演である。思えば昨年はパーセルのメモリアル・イヤーでもあったはずなのだが、ヘンデル先生の陰に隠れて忘れてたような……(^^;)

さて、私は28日の方に行ったのだが、折しも津波警報の真っ最中。会場は横浜とて高台だから関係あるまい--などと高をくくっていたら、なんと電車が動かないのであ~る。それも、湘南新宿ラインは普通に走っていて横浜に到着したのだが、その一駅隣りの桜木町まで行く電車がなかなか出発しない。
プレトーク聞くつもりで早めに家を出てヨカッタと開演時間ギリギリに着いたら、開演を30分遅れに延ばしていたので、プレトークから聞くことができた。
もっともこのプレトーク、聞かなかった方が却ってよかったかも。……と後になってみれば思うのであったよ。

この公演はチケットを売り出した時から「セミ・オペラ 5幕」となっていた。はてセミオペラってなんじゃい(?_?; ホールオペラというのとは違うのか?
などと疑問に思っていたら、桂冠詩人ドライデンの芝居が元に存在していて、それに付けられた音楽らしい。オペラと「劇付随音楽」ってヤツの中間あたりのようである。従って、肝心のタイトルロールのアーサー王や主要な人物が歌う場面は出て来ない。

オケはステージの上に乗っていて独唱者や合唱隊は奥のほうに並んでいる。しかも、芝居の部分は長い(5時間かかるとか)のであらすじ紹介だけでカット 休憩ナシでひたすら音楽だけを進行。こ、これでは演奏会形式にしちゃった方がよかったのではという感が大きいのであった。

加えて両脇に四角い壇がさらに設けられていて、そこでソリストが歌ったり、日本人ダンサー達が出て来てバレエ(残念ながらバロック・ダンスではない)を踊ったりしたのであったが、私は前の方の席だったせいか一度に歌手とダンサーと歌詞の訳の字幕も見て、さらにニケや演奏者達へもちらちら目をやったりするのは大変だった。一体人間が幾つ目を持ってると思ってんだ、ゴルァ(-o-;)などと言いたくなるのは仕方あるまい。
しかも、ダンサーの使い方もなんか今一つセンスなくてヌルイんだよねえ。

ニケは舞台の真ん中で譜面を置かず、踊るように指揮していた。恐らく彼がステージ上で一番広いスペースを与えられていたに違いない。(それだけ狭苦しかった)
弦楽器隊や木管楽器隊の演奏には迫力あり!と感じた。なんか根本的な底力というものが存在しているようだ。ただトランペットは出番が少ないせいか、あまり目立たず。
合唱隊もまた達者かつパワーがあってさすがと感心した。雪と氷の場面で、彼らが壇上でブルブル震えて見せるところは芝居っ気たっぷりで笑わせてくれた。ただ、スピードスケートの真似をしてることには気付かず……。私σ(^_^;)全く冬季オリンピック見てなかったもんでして。

比べて独唱者のレベルは「並」っぽかった。バスの人(俳優のクライヴ・オーウェンに似ている)は活躍していたけど……。あとは左端の方のソプラノがよかったかな。カウンターテナーの人は出身がチリとプログラムに書いてあって、日本で歌ってる場合ではないのではと焦ったが、ご家族に怪我はなかったようでメデタイ。

そして大問題だったのは演出である。これは他の人の感想にも大概書かれていることだが、舞台中央上方のスクリーンに出す字幕や画像やシルエットがいちいちウザイっのである。誰もあんたの意見なんか聞きたくない、いい加減にしてくれ~と叫びたくなるほどのセンスの無さなのだ。
プレトークで「音楽のジャマをしないように……」なんて言ってたが、立派にジャマをしているじゃないのさっ(思わず殺意(▼-▼))。
かくしてカーテンコールで演出家が姿を現した時は「ブー」がしきりに飛び、さらには演出支持派(?)の「ブラボー」との、両者入り乱れる状態になったのであった。

演奏会形式でも、衣装付けたりジェスチャー付けたりするというやり方もあるし、ここは余計な演出なぞやらずに、芸達者な合唱隊やニケご本人に出張ってやってもらえば良かったんじゃないの。
もちろん、アンケートにはちゃんと「演出ひどい」と書いて出しましたよ

最後にこの作品自体について。
ニケは今風のミュージカルのように楽しんで欲しいと語っていた。確かに、このように細切れ状態の形ではそうするしかないだろう。

ドライデンの歌詞で描かれているのは英雄譚の部分よりは、いかにも英国風の人間への辛辣な風刺や皮肉が目立つ。牧歌的な内容にしても、そこは素直でなくてひねくれている。単独で歌われることの多い「美しい島」(歌の真意は英国万歳)も、今回それに合わせたようにかなりおちょくったような皮肉タップリなモードで歌われていた。
だが、しかし果たしてここは額面通りに受け取ってよいものだろうか? ニケのパーセルのオペラは「フランス70%、イギリス30%がベスト」という発言も、これはあくまでフランス側の言い分である。英国人が果たしてそれに賛同するかどうかは疑問だ。(何せ両国はたかだかウン百年前は戦争をしていたのだ)

ここは是非、英国側の演奏による生舞台を鑑賞してみたい。ただし、演出はケン・ラッセルみたいなキッチュかつ辛辣な皮肉屋にお願いしたいもんである。
パーセルの歌劇系作品の公演はこれまで演奏会形式も含めて日本人によるものしか聞いたことがない(多分)。完全な形では北とぴあの音楽祭での『ディド~』ぐらいか。
まあ、ヘンデルと違ってパーセルでは知名度が低くて集客できないということもあるだろうけど。やはり本場モンを聴いてみたいのう~。


ついでながら、改装後の神奈川県立音楽堂に行ったのはこれが初めて。外見やホール内はどこが変わったんかね?という感じだが、トイレはキレイになって数は増えていた。(それでも収容人数には見合わないだろう)
でも、座席が狭いのは相変わらず。昔の日本人がみんないかに小柄だったということですねえ。

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【関連リンク】
《Once a trumpeter.....》
《オペラ備忘録》

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2010年3月 6日 (土)

バッハ・コレギウム・ジャパン第87回定期演奏会:はや20年ですかね……

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ライプツィヒ時代1726年のカンタータ5
会場:東京オペラシティコンサートホール
2010年2月25日

なんだか妙にお久し振り感のある定期公演。よくよく顧みればヘンデルが挟まっていたからか。
ソリストの顔ぶれはテノールが水越啓になっただけで後は変らず。
ただし、冒頭のオルガン演奏は鈴木(息子)優人になっていた。これからずっと彼が弾くようになるんでしょうか。

カンタータ演奏では若松夏美と三宮正満が目立っていたと言えるだろう。
特にトラヴェルソが入ってない曲ばかりなので、三宮氏は木管楽器をしょって立って健闘という印象である。(あ、ファゴットもいたけど

前半2曲目の27番ではオーボエ・ダ・カッチャ、後半の36番ではオーボエ・ダモーレを吹き大活躍。27番のアルトのアリアでは若松女史のヴァイオリン・ソロと掛け合い演奏という珍しい構成。こんなサウンド聞いたことねえ~とビックリもんである。しかも声楽部分もなんかやたら難しそうな所が多かった曲だった。
1曲目の47番でも若松さんのソロ場面が二回あった。
後半の大曲36番は複雑な成立過程があるとのこと。おまけにレチが一つもないという曲なのだった。そのせいか合唱の印象がかなり強かった。

ソリストの全体の印象を書くと、ハナ・ブラシコヴァはやや控えめ過ぎ?、水越氏健闘、ロビン君出番が少なかった、コーイ安定--といったところか。

一方、私自身はどうもコンサートに行きまくって(ブログの更新が追いつかねえ~)疲れがどっと出たせいか、かなり集中力が欠けていた。大反省である( -o-) sigh...

ところで水越氏はボトルの水をこぼしちゃったんでしょうか(^^?


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2010年3月 4日 (木)

バッハ「ミサ曲ロ短調」:歌って難曲、聴いても難曲

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演奏:コンセール・デグラッセ
会場:東京文化会館小ホール
2010年2月20日

コンセール・デグラッセは有村祐輔が指導してるアマチュア合唱団だとのこと。で、今回はロ短調ミサに挑戦ということらしい。

古楽系では実に久々に多人数の合唱隊を見たという印象で(一声部7人ぐらい)、ステージが狭い文化会館小ホールでは窮屈そうだ。そのせいか器楽隊の方は最少人数である。もっとも、メンツは田崎瑞博、江崎浩司、中村忠などベテラン中堅どころのプロで固めているんで豪華なもんだ。

さらに独唱者にはロベルタ・マメリに波多野睦美、与那城敬、それに初めて聞く英国人テノールのベン・ブレイクウェルが参加。
ただし、もはやステージ上に控えているスペースはないので、なんと出番がない時には客席最前列に座っていた(!o!)のであった。

合唱部分は全体的にテンポが早くリズミカルだった。聞いている分にはいいけど、歌う方は大変では(^^;)なんて思っちゃった。そのせいか「サンクトゥス」を歌い終わった時はコーラス隊の中から期せずしてため息のようなものが漏れたのだった。

独唱陣ではR・マメリは青、波多野睦美の黒系のお衣装で登場。実は個々で歌っている時よりも、二人で二重唱している時がよかった。よくよく聴いているとそれぞれ声質や歌い方が異なるのに二人で歌うとぴったりと声が溶け合うのが不思議よ
与那国氏は文句なしだったと思うが、外見は典型的英国青年風ブレイクウェル氏は……正直言ってビミョーであった。なんかクセのある声質なんだよね。

久々に生ロ短調を聴いて思ったのは、やはりこれは合唱の曲であるなあということ。
それから、客席はメンバーの知人友人関係の人が多かったように見えたが、そういう人たちにはこの曲はどう聞こえただろうか。バッハってやっぱり辛気くさい音楽を作る人だなあと感じたかも知れない。
そういう点でもこの曲は「難曲」なのであった。

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2010年3月 2日 (火)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 3月版

先月の疲れがたまっております(x_x)ショボショボ 果たして今月は完璧に出動できるでありましょうか。

*2日(火)「ディドーネの嘆き」(ロベルタ・マメリ)

*7日(日)バッハ「ミサ曲ロ短調」(スコラ・カントールム)
うーむ、気力体力が続くか疑問。武蔵野は行きにくいんだよね~。

*9日(火)「ダイドーの嘆き」(波多野睦美)
新アルバムのパーセルを堪能できると期待。

*15日(月)NEC古楽レクチャー「BCJとバッハの教会カンタータ」

*17日(水)「ボルゲーゼ美術館展」記念コンサート2(中野振一郎)
この日は仕事を早退できそうなんでチケット入手したが、やはり昼間2時からというのはキビシイ。

*23日(火)BCJ結成20周年公演
ガザルス・ホール終了迫る。

他にも21日「一人芝居 ヴィヴァルディの恋」、27日「サクバットとその仲間たち」などもあるが……。
アンサンブル415はパスするので、誰かレポートお願いしますです。

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