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2010年5月

2010年5月30日 (日)

「アリス・イン・ワンダーランド」:自立の国のアリス

100530
監督:ティム・バートン
出演:ミア・ワシコウスカ
米国2010年

御歳19歳のアリスちゃんは美しい金髪に透き通るような白い肌の可愛い娘さん……でも、ちょーっと待った この時代の英国のお嬢様だったら、19歳は結婚適齢期のど真ん中。これ以上遅れたら大変なことですわ。
でも、周囲を見まわしても幸福そうな結婚はありません。不実な男を掴んじゃったら、姉の夫のように陰で浮気されちゃう。自分の母は父という理想の男を見付けたけど、先立たれたら夫の夢も引き継げず友人に売り渡すしかできないのです。そんなのイヤー(>O<)
かと思えば、理想の王子様を待ち続けた揚げ句に、行かず後家の叔母さんみたいになるのもイヤイヤ(;_;)(;_;)

ところが、折あしくと言うのでしょうか。家柄と金はあるけれど超キモ男が求婚して来たじゃありませんか(!o!) さーて、どうするよ、アリス
追い詰められ逃走した彼女は樹の根元の穴に転げ落ち……てな展開ですわね。

とはいえ、彼女はもう純真な幼女じゃないんですから、地下の奇想天外なキャラクターや事象を無邪気に受け入れるわけには行きません。ほら、悩むお年頃ですもの。

地下の国では大頭の独裁者・赤の女王と美しくて聡明な白の女王が争ってるんですけど、アリスはその独裁者を倒す救世主--なんて予言されちゃってるんです。でも、いきなりそんな予言されても「聞いてねえよ~」状態ですわよね。唯一頼れそうな帽子屋は過去の戦いのPTSD状態だし、いかにも訳分かってそうな青い芋虫はケムにまくだけだし。わたくしだったら、容赦なく靴で踏ん潰してやるところでしてよ。
大体にして善玉風の白の女王だってかなりの怪しさですこと。「あなたが自由に決めていいのよー(*^-^*)」なんて言いながら、なにげにアリスへ圧力かけているじゃありませんの。
わたくしも「白の女王・影の悪玉説」に一票ですわ。

それに比べて、赤の女王に何がしかの同情を感じてしまうのは、致し方ないことじゃありません? きっといつも美しい妹に比べられて「女王の資格がない」とか言われて、周囲にはおべっか使いばかり、誠実な男にも恵まれず……彼女の末路には、わたくし思わず涙してしまいましたわ(T-T)クーッ これも近ごろ中年オバサン度が増して来たせいかしら。

地上に戻ってからのアリスについては何と申し上げたらよいのやら。これって時代を考えると「自立する女は資本帝国主義の先兵たれ」ってことですわよね わたくしの穿ち過ぎかしらん。
でも、現代は不況の世の中。今だったら冒険など考えずに「多少のキモヲタであっても目をつぶり経済力のある男と結婚すること」--オバハンの心からの忠告でしてよ。

あっと、肝心なことを書くのを忘れてました。
ヴィジュアル面では正直なところ、ティム・バートンにしてはパンチo(--;)/Θが足りな~い。3Dで見たせいか画面は薄暗いし、画面の真ん中から色々と立体で飛んでくるのは先端恐怖症の人には耐えられないかも。次からは昔ながらの2D字幕版に戻ろうかなんて考えてますの。
良かったのは、お城の堀(?)を死人の顔みたいのを踏んで行くところ。ああいう不気味な場面がもっとあればよろしかったのに。ちょっと不満ですわ。まあディズニー映画じゃ仕方ないかも。
もっとも、自分のヨメにヒステリックで醜悪な女王をやらせる、なんてのはバートン監督ぐらいなものかしら。ヘレナ・ポナム=カーターも嬉々として演じてましたわね。結論は、この夫にしてこのヨメあり--というところでしょうか。


赤の女王度:8点
白の女王度:6点


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2010年5月24日 (月)

ラ・ガラッシア コンサート vol.3「私の贈り物」:まな板とたこ焼きに共通する楽器とは

100524
会場:近江楽堂
2009年5月16日

ラ・ガラッシアとはハックブレット(ダルシマー)演奏家の小川美香子が主宰するアンサンブルである--と書いたものの、実は演奏はもちろん名前を聞くのも初めて。メンバーと曲目が面白そうなので急きょ思い立って行ったのであ~る。
とはいえ、毎回古楽系の曲目をやっているわけでもないようだ。

プログラムはヨーロッパのルネサンス~バロックの様々な器楽曲を年代順に演奏して行った。ダウランド、アルカデルト、モンテヴェルディ、カステッロ、バッハ、ボワモルティエなど。終曲はクヴァンツだった。

メンバーはドイツからインガ・フォルマー(リコーダー)、勝俣敬二(トラヴェルソ)、佐藤亜紀子(リュート)、佐野さおり(チェンバロ)、小川美香子(ハックブレット)だが、みな出たり入ったり様々な組み合わせで、アンコールまで5人全員で演奏する曲はなかった。

ハックブレットはダルシマーのドイツ語名とのこと。ダルシマー自体はタブラトゥーラのコンサートで毎回見て(聞いて)たが、そちらでは金属弦を張った楽器を平に置いてバチ(というより長いスプーン風)で叩いていた(つのだ団長は「たこ焼きをひっくり返してるみたい」と表現)。しかし、この時は斜めに台に立てかけて演奏していた。音は硬質なハープっぽい(?)。
なんでもミュンヘンの大学に唯一の専門学科があるそうである。なお、バッハ時代のトーマス教会で楽士が雇われていたという記録が残っているとか。

カステッロまでの前半は全体的に古雅な響きで心地好い。曲ごとに解説をしてくれて初心者にもバッチリ分かるようになっていた。
リュート・ソロでピッチニーニという作曲家は初めて耳にしたが、もっと聴きたくなった。クヴァンツもこれまであまり気にして来なかったが、今回のトリオソナタは滑らかなアンサンブルで、録音を探してみようかと思う。
フォルマー女史は大柄な金髪白人女性で、一見パワーがありそうだが、そういう演奏をするタイプでもなかった。

地味な内容なのでそんなに客は入っていないのではないかと思って時間的にギリギリに行ったら、ほとんど満席だったので驚いた。
だが、後で会場を見回してみると、ステージに向かって左側の椅子の列がなぜかグチャグチャに乱れていて、座ることができないのだった。だから、客がそれ以外の場所の席に片寄って満席状態になってしまったようだ。なぜ、そのまま放置されていたのかは謎


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2010年5月23日 (日)

イタリア映画祭2010「勝利を」:まぼろしの「英雄」

100523
監督:マルコ・ベロッキオ
出演:ジョヴァンナ・メッツォジョルノ
イタリア・フランス2009年

LFJのグッズ売り場をフラフラした後で、朝日ホールへと向かう。東京フォーラムは明るく屋台なぞ出て、陽光と人々であふれていたが、こちらの中心はオバサンと映画ヲタでホールもなんとなく薄暗いんである(=_=;)
ここは一つピザとかワインの屋台でも並べてみたらどうかねー

二日前の7人のカントク座談会で、D・フェラーリオが「イタリアの社会は暗くて冷たい」みたいな意味のことを発言したら、それに対して「いや、そんなことはない!どんな社会でもいい所と悪い所双方があるのだ」と反論していた最年長のベロッキオ監督。
その新作は--と見てみると、発言内容に反して暗い……ものであった。

1910年代、後の独裁者ムッソリーニがまだ若く熱意あふれる社会主義者で反政府運動の先頭に立っていた頃、洋裁店を開いていたイーダは彼と知り合い、心酔した揚げ句に店を売り払って資金援助をし、さらに男の子を産む。
だが、なんたることか(!o!) 彼には正式な結婚ではないものの既に妻がいて幼稚園ぐらいの子どもまでいたのだった
イーダは自分を正妻とし息子を認知するように迫るが、冷淡なムッソリーニにつきまとってストーカー状態となり、遂には精神病院に放り込まれ、さらに息子の親権まで奪われてしまう。恐るべし、これは実話であるという。

エネルギッシュな独裁者の常というか、方々に彼は似たような「妻」や「子ども」を作っていたとのことである。
「英雄色を好む」「男の下半身は別人格」などという言説に対するように、ベロッキオ監督は「夫」として「父親」として不誠実であった政治家の真実の姿を、最後まで「妻」であり「母」を主張した女の視線から容赦なく暴く。
そしてイーダ自身は、かつて彼に陶酔し支持しそして裏切られたイタリア国民全体にそのまま重なるようだ。

しかも、自らと息子への正当な処遇をあくまでも求める彼女の過激な言動は、まさに狂気に近く、周囲を顧みることなく肝心の息子をもスポイルしてしまう。
それと反比例するようにムッソリーニ自身の姿はスクリーンから消え、新聞やラジオから垣間見るだけの存在となっていく。

果たして何がいけなかったのか? 立派な理想を威勢よく語る演説のうまい若い政治家に心酔したことか?
監督はその答えを明示しないまま終わる。そこに描かれるのはただイーダの孤独な「闘い」なのである。

随所に当時のプロパガンダ風映像が挟まるのが面白い。「勝利を」というのもそのフレーズの一つである。
また、前衛美術の未来派とムッソリーニとの結びつき(彼が展覧会へ行くとアーティストたちがヘコヘコと寄ってくる)も描かれていたのも興味深かった。
ヒロイン役のジョヴァンナ・メッツォジョルノの演技はまさに(チラシの解説にもある通り)鬼気迫るとしか言いようがない。愛情と狂気が紙一重であることを目の当たりにして見せる。

それにしてもこのような戦前の政治家の、文字通り「恥部」をあからさまにする映画なぞ日本では作れまい。例え作られたとしても見ることはできないだろう。それを考えれば、イタリア映画界の方が日本よりもマシかと思えるのだが……。


同じ監督の未公開作品「母の微笑」も上映されるというので見たくなったが、時既に遅し!前売りは売り切れであった。朝早く起きて当日券をゲットする根性もなかったんで断念したのよ(+_+)


【追記】
日本公開タイトルは「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」となりました。

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2010年5月16日 (日)

イタリア映画祭2010「やがて来たる者」&監督座談会:イタリア7人のサムライ

100516
監督:ジョルジョ・ディリッティ
出演: マヤ・サンサ
イタリア2009年

今年はLFJにも一公演しか行かないし、ゴールデンウィークどうすべかなーと考えていたが、イタリア映画祭というのを有楽町でやるではないか!--ということで、チケットを買うことにした。
正直、今まで映画祭というのは敬遠して来た。なぜかというとしばらく待っていればロードショー公開されるパターンが多かったし、上映場所が必ずしもいい映画館とは限らないからである。しかし、この不景気でマイナーな作品はしばしば一般公開されないままになってしまうし、有楽町朝日ホールはまさに映画を観るにふさわしいホールではないが、ガマンするしかない。
作品選択は内容紹介を見てテキトーに選んだのが本当のところである(^=^;

上映前に簡単な監督の挨拶があって「やがて来たる者」が開始。
これは一口に言ってしまえば、スパイク・リー監督の「セントアンナの奇跡」と似た状況をイタリア農民の立場から描いたものである。ただし、「セント~」とは地方と時期が少し違うとのこと。第2次大戦の末期、連合軍は登場しないが、占領者のドイツ軍とパルチザンが小規模な小競り合いをしている。
しかし、そのような状況に関係なく農民の生活は回っていく。春になれば種をまき、秋になれば収穫、家畜にはエサをやらなければならない。そのような農村の毎日が丁寧に描かれていく。

だが、段々と状況は悪化。主人公の少女の家族からもパルチザンに参加する者が出るし、戦闘や爆撃が近くでも起こり、さらに都会から戦禍を逃れてくる人々が流れてくる。
そして、やがて恐ろしい惨劇が起こるのだ。

結末は衝撃的なのだが、そこに至るまでがいささか長過ぎる。あらかじめ、ラストに事件が起こると知ってて見てないと(いや、知ってたとしても)退屈してしまう。細かい所までこだわった農作業の描写や役者や子役の演技は見事なもんだとは思うんだけど……

もう一つ印象に残ったのは占領者と被占領者の視線の非対称性である。ドイツ兵を見る農民の目は絶えずビクビクしながら警戒し注視しているが、それは単に兵士たちが食料を求めに来ているとか談笑しているだけと分かっても変わることはない。
逆の立場から見た同じような場面が「ハートロッカー」にも出てくる。
主人公が突然行方不明になった(と彼は思っている)少年を探して街中へ出る件りで、唯一英語が通じる知識階級の中年男性が示す態度が似ている。銃を振り回す主人公にへつらうような反応を見せる男性の印象は、主人公からみると不誠実に見えるが、よくよく考えれば当然の反応であろう。占領/被占領という枠組みの中に対等で誠実などということはあり得ないからである。

終了後は監督との一問一答があった。
*日本語字幕の他にイタリア語の字幕が出ていたのは、セリフがボローニャの方言だったため。
*写実主義を重視して作ったが、60年も前の話なので当時を復元するのは難しかった。
*過去の記憶を、前向きな未来へと構築していけるような作品を目指している。
*ある民族の優位性を信じることが、このような悲劇を生んだ。
*日本での公開が決まっている。
なお、質問者の一人が一緒に登場していたプロデューサーを少女の父親役の人だと勘違いしてしまったが、ちょっと細めになったくらいで確かによく似ていた。私もてっきり役者さんだと思ってしまった(^^ゞ

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また、事前には知らなかったのだが、その後に続けて無料の監督座談会が行われるというアナウンスがあった。もののついでということで、聞いて行くことにした。(でも、女子トイレ混み過ぎよ)

壇上には監督が7人並んでいて、司会の質問に順番に答えていくという形。その中で知っているのは「やがて来たる者」のディリッティを除けば、「夜よ、こんにちは」を以前に見たベロッキオぐらい。

司会の仕切りが悪いのか、監督たちの答えはぬるいし、質問自体へも「どうしてそんなこと聞くの?」みたいな感じの答えがあった。さらに質問が二巡めになるとそれぞれの監督個人に興味を持っている人しか聞いても仕方ないような話が続いて、私はちょっとウトウトしてしまった。

と、そんな空気を見て取ったか、そこで爆弾発言をしたのがD・フェラーリオ監督(彼の今回の作品「それもこれもユダのせい」も見たかったが、無理しちゃいかんとあきらめたのよ)であった。
「ここにいる監督たちは《7人のサムライ》と言っていい。なぜなら、一般的なイタリア人のテイストとは合わないものばかり作ってるからだよ!」
なんでもイタリアではこれまでになく映画の観客が増えているが、それはパターン化したコメディでしかも保守的な価値観に基づいたものばかりが人気だとのこと。社会問題は山積みなのに、男女関係の話ばかり。しかもテレビ界に従属した作品が多いという。
……なんか日本とかなり似てますな(^^;)
そして「ここにいる7人はイタリア映画界のマイノリティだ!」と断固宣言したのであった。

彼に対し最年長のベロッキオが返答したりと、議論は少しは盛り上がったようだ。
その後の会場からの質問者は、7人も監督が並んでいるというのに「やがて来たる者」限定の細かい手法について聞いたりして、他に質問することはないんかいと思ってしまった。

でも、イタリア映画界の状況について少しはうかがえたので全体的には聞けてヨカッタと感じた。


【追記】
ロードショー公開の邦題は「やがて来たる者へ」になりました。

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2010年5月15日 (土)

エマ・カークビー&ロンドン・バロックに行き損なったぞリンク集

本来は5月13日のエマ・カークビー&ロンドン・バロック公演(王子ホール)に行くはずだったのだが、冬以来頻発していた関節炎がたった当日数時間でみるみる悪化。1センチでも足を動かすと激痛がはしるという状態になってしまい、これでは階段のどころか水平移動もできないということで、致し方なくあきらめました。

わーん(TOT)何か月も前から楽しみにしていたのに~_| ̄|○
親の葬式以来、こんなに悲しかったことはないっ!(> <,)

ということで、憂さ晴らしに公演の感想のリンク集を作ることにしました。
読むとまた悔しさが百倍(^o^)b……って、全く憂さ晴らしになってないですが

この後も、見つけたら追加していきます。

《Chain reaction of curiosity》

《本と音楽と……心に響くものあれこれ》

《Thunder's音楽的日常》

《Diary for Classical Music》

《雑記帳》
遠い所からごくろうさまです。

《うれたん売れたん?》

《Tagebuch》
もう来日してくれないんでしょうか……(-o-;)

《Bonbon Au Miel》
250名ですか。いいですなあ

《Taubenpost~歌曲雑感》

《In fernem Land unnahbar euren Schritten....》

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2010年5月14日 (金)

「スキャンダルの世界史」

100514
著者:海野宏
文藝春秋2009年

以前、同じ著者の『ホモセクシャルの世界史』が面白くためになった(^^;ので、このスキャンダル編も読んでみることにした。

まずスキャンダルの定義--地位の高い人、偉い人が失敗、それも俗っぽい理由(「女」「金」など)で転落する様を、不特定多数の人々が覗き見て笑う、ということらしい。重要なのは観客がいなくては成り立たないということである。
同時にそれは、「他人の成功を見て感動したい」という欲求と背中合せのものなのである。
これを聞いて私はすぐタイカー・ウッズのスキャンダルを思い浮かべた。自らの力で栄冠を得たスポーツマンが一気に転落する。そしてそれをメディアが大々的に伝える。彼の浮沈こそがまさしく大衆の感動とスキャンダルへの欲求を示しているだろう。

この本では年代順に様々なスキャンダルを紹介していくが、最初はなんと古代ギリシアで神々のスキャンダルからだ。その後はローマ皇帝やリチャード三世……と、なんだか世界史の教科書のようなエピソードが紹介される。といっても、西欧の話ばかりなのが残念。中国・インドあたりも豊富ではないかとおもうが。
読んで行くと、後の小説や映画のネタにされたものも多い。「ふむふむ『冬のライオン』の背景はこれか」とか「『王妃マルゴ』ってこんな人物だったのか」などと思いつつ読み進めた。
まあヨーロッパの王室はスキャンダルの宝庫ということか。特に19世紀以降の英王室はすごいねー。別にダイアナ元皇太子妃が特別というわけではなかったのだ。

20世紀に入ると、ハリウッド・ゴシップも加わり、さらにメディアの発達もあって百花繚乱。数え切れないほどのスキャンダル乱発である。
音楽関係では『春の祭典』騒動が興味深かった。最近、映画でも描かれたらしいが、つかみ合いにまでなって大騒ぎだったらしい。裏を返せば、そこまで人を駆り立てる芸術とは大したものだということだろう。私もつかみ合いをしたくなるような作品にめぐり合ってみたいものだ

巻末にはちゃんと索引が付いているので、折りに触れてスキャンダルを確認することが可能。そのうち「日本編」「アジア編」などもお願いしたい。


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2010年5月12日 (水)

「第9地区」:心はいつも愛妻家

監督:ニール・ブロンカンプ
出演:シャールト・コプリー
米国・ニュージーランド2009年

滅法面白い!との大評判を聞いて急きょ見に行ってみた(最近このパターンが多い)。
結論から言ってしまえば、それほどのもんか~(?_?;--である。
確かに、予算は少なくてもアイデアとセンスで勝負みたいなB級SF王道作品が少なくなってきてるとはいえ、ね。描かれている状況がアパルトヘイトを思い起こさせるが、社会批判というよりはパロディっぽいイメージだ。

場所や設定は異なるけど、確かに『アバター』に似ている(あれもオールドSFの王道だし)。
こちらの異星人は故障した巨大UFOに乗って南アのヨハネスブルグ上空に漂着。地上の難民キャンプへと隔離されウン十年経過する。そこはもはやスラム化しているのであった……。

主人公の難民立ち退き計画の責任者が、なんだかイヤな奴である。愛妻家という以外にはいいトコなし!(異星人の卵平然と焼いちゃったりするし)
その彼が異星人と敵対する立場(その背後に利権をむさぼる大企業あり)から、否応なしに彼らの世界へと巻き込まれていく以降はますます『アバター』と似てくるかな? ただ向こうは友愛とエコロジーの世界だが、こちらは暴力とグロの世界である。おまけに異星人の外見は超が付くほどに醜い(のわりには仕草は地球人と変らないが)。
でも、ラストの主人公の健気な姿には、ちょっと同情しつつカワユイなんて思ってしまったよ。

戦う度に血はドバドバと流れ手足はふっ飛ぶ--のでその手の映像が苦手な人には到底お薦めできない。ここにも悪役の民間軍事企業のキャプテンが登場。主人公をとことん追いかけまくる。

ふくみを持たせた終盤の展開は続編が作られそうだ。異星人の正体もよく分かってないし(もしかして、人間以上の階級社会か?)。監督は長編映画第1作目だそうだが、やはりここは『アバター』同様三部作目指して頑張っていただきたい。
ただ擬似ドキュメンタリー仕立てということもあって、顔のドアップ&手ブレカメラ&2時間以上という最近流行のスタイル。これだけはもう勘弁して欲してくれ~(x_x)

A級志向の方は『アバター』、B級志向のSF野郎はこちらを。両者の最大共通点は「それほどのもんか?」である--って言っちゃダメか?


B級度:9点
主人公好感度:5点

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2010年5月 9日 (日)

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2010 公演NO.145:ショパンに関係なくてすいません

100509
演奏:フィリップ・ピエルロ&リチェルカール・コンソート、マリア・ケオハナ
会場:東京国際フォーラム ホールC
2010年5月2日

今年のLFJはテーマが「ショパンの宇宙」。全くの守備範囲外なので今年は縁がないなーと思ってたのが、古楽関係も若干ながらあり(^o^)b で、チェックしたらリチェルカール・コンソートがヘンデルをやるじゃあ~りませんか。結局この公演だけチケットを入手した。
他にもP・アンタイのバッハ(朝一番で早過ぎ)、リチェルカール・コンソートのメンバーによるポロネーズの変遷(こっちは遅過ぎ)などもあったが、時間の関係でパスしてしまった。

さて、このステージはヘンデルのオペラやオラトリオからアリアの名曲を演奏するというもの。歌うは、しばらく前のコンチェルト・コペンハーゲンのバッハ世俗カンタータ公演でコミカルに歌いまくってたM・ケオハナ女史である。

P・ピエルロと共に彼女が登場した時に、前回の衣装は別に曲の内容に合わせたのではなくて、彼女の好みであった!のだと分かった。今回も似たような印象……。BCJのニコルズと同様、彼女も小顔だけど結構身体の方はガッチリお肉系なので、できればヒラヒラした白っぽい服は止めた方がよろしいのでは--って余計なお世話ですな。

一曲めはオペラ「ファラモンド」、嵐を表現する巧みな弦の音に乗って快調な滑り出しである。「ジュリオ・チェーザレ」のクレオパトラのアリアではブラボーが飛び、続く「アグリッピーナ」はオーボエ・ソロとケオハナの歌がぴったりと寄り添うように不安をかき立てる。
ホールCは1500人ぐらい入るそうだが、前回の王子ホールとは違って大きな会場でも客の意識をグイと集中させてしまうのはお見事なもんである。雑音もなく、皆さん聴きいっておりましたな。
正直、ここまで芸達者な歌手とは予想しなかった。おみそれしました ちょっとケオハナたん萌え~の気分になったかも。

もちろん、それはリチェルカール・コンソートの緩急自在にして、曲の感情の細かいヒダヒダまで表現するような演奏も大いに関係しているのは言うまでもない。

この手のヘンデル先生名曲集では欠かせない定番「リナルド」の「私を泣くがままにさせて」で終了。時間目一杯だったのでアンコールなしだったのが残念よ。
もう一つ贅沢を言えば、楽器だけの曲をもう一曲ぐらい聞きたかったなー。オラトリオ「復活」の序曲だけでは物足りないぞ。
とはいえ、久し振りに「聴けてヨカッタ」としみじみ感じたコンサートであった。来年は後期ロマン派だって どうなるかねえ。

その後はグッズ売り場などをブラブラしてみたが、昨年よりもやや人出は少ない印象だった。三日間とも天気が良くて絶好の音楽日和(?) 個人的には去年のように「あれを聴いたらこれも行かねば」などとアセアセ(>y<;)することもなく、のんびりしててちょうど良かったです。

ブログ検索で音楽祭の感想を探してみるが、去年ほど出て来ないような気が……。みんなツイッターに行っちゃったのかね(^^?


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2010年5月 8日 (土)

「息もできない」:予告を作った奴を連れて来~い!

100508
監督:ヤン・イクチュン
出演:ヤン・イクチュン、キム・コッピ
韓国2008年

予告に騙された!詐欺!!金返せ……とは言わんが、予備知識ナシだったのを予告見て行く気になった。だが、いざ実際見てみたら全然イメージが違っていたのは事実なのであ~る。
なんか予告はドトーのように進行する物語、みたいな感じだった。おまけに使われてた音楽はヴィヴァルディの『四季』だ!

だけどそんなんじゃなくて、最初の方は主人公のチンピラが仕事(借金取り立て)でふるう暴力がモッサリとしたテンポで描かれる。そこら辺は北野武作品を連想させた。おまけに、私は韓国語はほとんど知らないが、それでもかなりの(他の韓国作品では聞けないような)罵倒語が使われているようなのは分かった。映像もセリフもよい子には厳禁のものばかりだ。
音楽はノイズ・ギターを使ったミニマル系である。これはこれでいいけどさ(^=^;

主人公は父親の暴力で家庭を破壊され、そのために父親を憎悪している。ひょんなことから女子高生と知り合うが、彼女も実は家庭で大きな問題を抱えているのだ。
二人の関係は失われた家庭への「共感」であろうか、多分。
ありえない二人の結びつき--そういう意味では一種のファンタジーに近いとも言える。

主人公の父親への憎悪はあまりに強くて、もはや彼の一部--背骨に組み込まれているかのようだ。彼の根幹をなしているので、それなしには生きていけないのである。
しかし、そのような過去のいきさつを除けば、現在の彼は結構いい境遇にあると思うのだが、どうだろう。仕事こそ暴力的だが、社長兼彼の旧友は「もっとカネ集めてこいゴルァ」などと言ったりせずに、生暖かく見守ってくれているし、姉は「あんたのようなチンピラはウチの息子に悪影響与えるから近付かないでちょーだい」なんてことも言わない。職場の後輩は表向きはちゃんと礼儀正しく従ってくれる。おまけに、カワイイ女子高生とも知り合いだ。なんの文句があろうかっつーの(\_\;
だが、それでも彼は満足できないのだろう。そして彼の一部である憎悪が崩れた時、彼自身も倒れてしまうのである。

それにしても、新人でこれだけのものを作ってしまうとはかなりの才能だ さらに監督が脚本だけでなく、主役も演じているのにはビックリよ。来日時の写真なんか見ると、ヲタクっぽい映画青年みたいなんだけど……作中では目つきといい、ちょっと背中の曲げ方といい、チンピラ以外の何ものでもない。役者としても大したモンである。恐るべし韓国映画界だ。
今回は自分自身がかなり投影されているらしいが、次作がどうなるか期待したい。

難を言わせてもらえば、警官二人をぶち倒した主人公や、終盤の女子高生の弟がなんにもおとがめナシというのはちょっと納得できんな
それと、最近手ブレと顔のドアップ連続で2時間以上の映画ばかり見ているような気がする。もう勘弁して欲しい。

ところで、あの予告を作ったのは誰なのだろうか? うまく騙したそいつにも点数をあげたいぞ。


暴力度:9点
救いのなさ度:8点


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2010年5月 5日 (水)

「テルマエ・ロマエ 1」

100505
著者:ヤマザキマリ
エンターブレイン(BEAM COMIX)2009年

いやー、これは面白い。
ネット上の感想に「表紙は手に取るのをためらうが、勇気を出して買ったら面白かった」というのが多かったが、なるほどとうなずいちゃう風呂マンガ(←こういうジャンルがあるか?)である。
もっとも私は自分で買う勇気はなかったので、友人から借りたのであるが……(^^;
いや--正直に言おう。買う勇気のなかった私はその友人と共に書店に行った折に「へへへこのマンガ表紙変だけど面白いらしいよ。ヘヘヘ(@∀@)」と猛プッシュして買わせてしまったのであ~る。で、その後で借りたとゆう……。
どうぞ、卑怯者と呼んで下せえ \(^o^)/
しかも、その間マンガ大賞だけでなく手塚治虫文化賞も取ってしまったのだから大したモンである。

古代ローマ帝国で浴場を作る設計技師が現代日本の銭湯や温泉へ、タイムスリップして行ったり来たり--と聞くとどんな話かと思うが、ちゃんとそれがいささか強引ながら展開してしまうのがスゴイ。
「平たい顔族」こと現代日本人は古代ローマをしのぐ快楽の追求にかけた高度な文化を有する民族なのであろうか。私は別に風呂好きではないが、なんとなく感動です

それにしても、主人公のこれからが気になる。どうなるルシウス!このまま皇帝のコレになってしまうのか イヤ~ン(^o^;)


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2010年5月 4日 (火)

「コンチェルト」:モンテヴェルディの世界を堪能

100504
ラ・フォンテヴェルデ第11回定期演奏会
会場:ハクジュホール
2010年4月28日

鈴木(弟ヨメ)美登里主宰の声楽グループのラ・フォンテヴェルデ、前回の定期は行けなかったのだが、以前に「このメンツだったらハクジュホールあたりでやっても充分客が入る」などと書いたら、本当に今回から場所を移したとのこと。でも、自由席なのは変らないんで、正直仕事がある平日に行くのは厳しいのだ。

以前からモンテヴェルディの曲を取り上げて来たが、この日はマドリガーレ集の第7・8・9巻を中心に演奏。器楽伴奏をともなう様式の作品が登場するということで、楽器隊にはヴァイオリンの若松夏美&荒木優子ペア、チェロは鈴木(弟)秀美、鍵盤は元祖ナオキこと上尾直毅というメンツも豪華であった。

独唱に二重唱、ソプラノ&カウンターテナー組とテノール&バス組がかけ合いで歌う作品など様々な曲が演奏された。
今回、目立ってたのはテノールの谷口洋介か。「私の美しい音楽に」で、詩人として朗々とした歌唱を聞かせてくれたかと思えば「かわいい羊飼いさん」ではコミカルな演技も見せてくれた。
CTの上杉氏が「苦しみは甘く」(M・ビズリーなどが歌っている)をソロでやったが、この曲は美しいんだけど歌うのは大変だと今さらながら気付いた次第である。

ラストの「ティルシとクローリ」は長めのコーラスが華やかな曲で聞き応えあり……のはずであったが、実は体調が最低 もう少しでこの公演自体行くのをやめようかと思ったほどだったけど、4月は一つコンサートに行くのを中止してたんで、今回はなんとしても行かねば(>_<)と無理をしたのだった。そのため、もう後半は頭がボヤ~ッ この曲の時は最悪状態だった。
やはり、無理して行ってもダメだのうと猛反省したのであったよ


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2010年5月 3日 (月)

「カラヴァッジオ」:暗き影の巨匠

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監督:デレク・ジャーマン
出演:ナイジェル・テリー
イギリス1986年

先日観た『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』の評価がキビシクなってしまったのは、恐らくこの作品のせいだろう。
デレク・ジャーマンの映画で初めて観たものであり、さらにそれまで私はカラヴァッジョのカの字も知らなかったのだ。もっとも、この画家が再評価されてからそれほど歳月が経っていたわけではないので仕方ないかも--と弁解しておこう。

それにしても既に公開時より二十数年 そんなに時間が経ってしまったとはとても信じられない。俄かに自分の歳を感じたりして( -o-) sigh...
本家イタリアの伝記映画を観たのを機会に、古いビデオを引っ張り出して再見した。

通常の伝記としてはかなり規格外れである。人物の服装は20世紀初めぐらい(?)のイタリアの田舎町風だ。さらに自動車(と言ってもクラシックカー)が登場し、町の雑踏にはバイクの音が聞こえ、豪奢な衣装をまとった枢機卿たちは金色のカード式電卓を優雅に叩いて美術作品の値ぶみをする。
ただし、仮装舞踏会の場面に限っては時代どおりのようだ。
もっとも、カラヴァッジョ(に限らないが)の宗教画でも、人物がそれぞれ異なった時代の衣装を着ていたりするのだから、別にこれは奇異なことではないとも言える。

映画は流浪の旅のさなかに熱病に倒れた寒村で、画家が過去を回想する形で始まる--ん?なんかイタリア版と同じじゃないのさ というより、向こうの方が真似したんかい(?_?;
道端で絵を描いては売っていた若い時代から、時間が行きつ戻りつ進むが、登場する作品は必ずしも実際の製作年と合致するわけではない。

注目すべきは、画家がカンバスに描いている絵は実物よりもややモダンで荒っぽいタッチなの対し、モデルたちの姿の方こそ完璧に彼の絵画が再現されていることである。さらにアトリエ以外の場面でも作品と同じ光景が何度も出現する。
実際に画集と見比べてみると(^^;細部が違っていたりするのだが、光線の射し具合といい色彩といい、作品と同じ世界を見ているような気分になるのだ。

当然D・ジャーマンの作品だからゲイ・テイストが全編に満ちあふれている。酒場で気を引かれた男を聖マタイの処刑人のモデルにするが、これを演じているのが今よりもずっと細いショーン・ビーンだ。若く美しく、そしてチンピラ~という感じで、当時もカラヴァッジョはこんな若者を町で拾って来てはモデルにしてたんかしらん、などと思ってしまう。また、男と闘う場面はイタリア版ではテニスだったが、こちらでは拳闘だ(ボクシングではなく、まさに「拳闘」というのがふさわしい野蛮さ)。
男の恋人がティルダ・スウィントン。これがやはり若い! 以前、最近の彼女が昔とほとんど変わっていないように見えると書いたが、この頃は若さがお肌全面からピカピカと照り輝いているかのようだ。やはり若さというのはいつか失われてしまうのね~(何故かヨヨと泣き伏す)

高級娼婦となった彼女は急死し、その遺体をモデルに『聖母の死』を描く。そして彼は男を殺害して逃走する。
愛した女を殺され、愛した男を自ら殺した揚句、全てを失った漂泊の果てに「また一人になってしまった」と彼がもらす独白は非常に心を打つ。言葉にならない悲しみがひたひたと押し寄せて来るようだ。
さらにカラヴァッジョの臨終の場面は圧倒的な迫力をもって描かれる。土地の実際の風習なのかは知らないが、巨大な蝋燭を持った村人たちが寝台の脇で彼を送るのだ。

エピソードの多くはジャーマンが作品や事件から想像したもので、正確な伝記映画にはほど遠いだろうが、亡くなった時の状態はイタリア版よりもこちらの方が実際に近いそうである(別に船から投げ捨てられたわけではないのよ(^^;)。
他にも音楽面ではデル・モンテ枢機卿がヴァージナルらしき楽器を弾いている場面もあるし、背景にはリュートやチェンバロの音が流れる(サイモン・フィッシャー・ターナーが音楽--というより「音」を担当)。それから『リュート弾き』に描かれている楽譜(アルカデルトの曲とのこと)についても言及されている。

今回再見してみて感じたのは、何気ない小物--コイン、机の上に広げられた布、絵筆、アクセサリーなどが実に細心をもって映し出されていることである。まるで、丹念に描かれた静物画のように。何一つ無駄なものはない。そして指や手を捉える繊細なタッチ。肖像画家が顔と同等に手の表情を念入りに描き出すのを連想させる。

公開時のパンフを物置から取り出すのは大変なので、代わりにサントラ盤を引っ張り出してみた。ジャケット裏にジャーマン自身による解説文が載っていて、そこではカラヴァッジョのことを「暗き影の巨匠」と紹介している。よく言われる「光と影」ではないのだ。
思えば、彼の絵画は美しいというよりはむしろいかがわしく俗っぽく醜悪なイメージも受ける。そして光ではなく影をこそ描いたという主張はジャーマンの映像の中に正しく表現されているのである。


なお、タイトルロールを演じているのはジャーマン作品の常連のナイジェル・テリーだが、これがまた(^Q^)ヘッヘッヘッ(恒例の下卑た笑い)カコエエです。他には『エクスカリバー』や『冬のライオン』が印象に残っているかな。
しばらく前にミステリ・チャンネルでやってた「法医学捜査班」という連続ドラマの第1回目に出演していたが、さすがに老けていたのよ(v_v)

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←このヴィジュアルに圧倒される。


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2010年5月 2日 (日)

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2010

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一公演だけ行ってきました。
去年よりも人出は少ない感じか?
コンサートの感想はまた後日。


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2010年5月 1日 (土)

「マイレージ、マイライフ」:宙に浮いた話

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監督:ジェイソン・ライトマン
出演:ジョージ・クルーニー
米国2009年

公開始まってからも、全く鑑賞予定ナシ!だったが、他の人の感想読むと面白そうなので行ってみた次第。

極めて現代的な題材の詰め込まれた物語である。
リストラ宣告人を職業とする主人公は毎日飛行機で米国内を飛び回り、各地で宣告して回る。途中で何回か宣告された人々の反応を見せられるが、その部分は役者ではなくて現実に失業した人が登場する。
家族を持たず、自宅のマンションでもほとんど生活していない主人公は極めてクールな現代人のようであるが、優秀な新人女性社員から「メールでリストラ宣告」案が提案されたことにより、それまでの快適な移動生活がおびやかされる羽目に……。

前半はシニカルな調子で進んで行って面白かったのだが、後半はハテナ印が飛ぶ展開になってしまった。よくある「一人は寂しい、家族バンザイ」風の話になるのかと思いきや、そういう訳ではない。じゃ、一体なんなのよ(^^?
終盤へ何のメッセージも読み取れないままに突入し、ラストシーンは意味不明。主人公が空港の掲示板を眺めている場面の次に入っていた短いショットは、彼がもう以前の生活を続けられないことを示しているのだろうか(?_?) でも、あまりに短か過ぎて一瞬気をそらした人は見そこなっちゃうぐらいだ。
この結末に、人によっては「だからどうだっていうの?」と思うかも知れない。知人がこれを観たが、全くどうでもいい物語としか感じなかったそうだ。

スタイルや語り口はキマっているが、なんだか消化不良の煮え切らない作品になってしまった。

とはいえ、主役のジョージ・クルーニーは「上司にしたい男」第一位に選ばれそうなハマリ具合。ハマリ過ぎて却って過小評価になってしまうかも。二人の女優陣も好演。この三人がオスカーにノミネートされたのは納得である。


前半:8点
後半:5点


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