パーセル 歌劇「妖精の女王」:ついにパーセル歌劇の全貌が
演出:ジョナサン・ケント
指揮:ウィリアム・クリスティー
演奏:エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団、グラインドボーン合唱団
会場:グラインドボーン音楽祭歌劇場
2009年7月17・19日
*BS放送
先日、横浜でパーセルの『アーサー王』を聞いて(見て)、一体オリジナルの形ではどのようにして上演されたのか--ということが今一つ分からなかった。あの公演では音楽の部分だけ抜粋したようだったが、じゃあそれ以外の場面は(?_?)どうなってたの
そこで、BS放送でやった『妖精の女王』を録画しといたのをようやく今になってみる暇が出来た。この作品は『アーサー王』同様、パーセルの作品の中では「歌劇」に分類されるらしい。で、どんなものかようやく実感できたのであった。
脚本自体はシェイクスピアの『夏の夜の夢』を使用している。この歌劇は『夏の~』の上演より30年後のものらしいが、一部を変更している以外は(ヒポリタは登場しない)大体オリジナルとほぼ同じである。
簡単に言ってしまえば、劇の中で「歌う」とか「踊る」とかト書きがあったり、祝宴の場面になると、様々な妖精たちが登場して歌ったり踊ったりするのである。従って、セリフを語る役者は基本的に歌わない。芝居の部分と音楽部分は分離している。
しかし、元々それなりの長さのある芝居にパーセルの作った音楽が付け加えられるのだから、かなりの長丁場である。そのためか、放送でも村の職人たちのドタバタ場面は割愛されていた。
まあ、音楽と芝居の双方がたっぷり楽しめると言えば、そうなのだが……。
歌詞は物語自体がナンであるから、男女関係を皮肉ったものやあてこすり、さらにはヒワイっぽいもの(「あなたのたいまつに火をつける」とか)が多い。もちろん「嘆きの歌」や「恋が甘いものなら」といった名曲もある。
様々な妖精や神が次々登場して歌うのだが、その場面になると趣向を凝らしたセット(幻想的なものやらパロディっぽいものまで)が表われて場面転換していく。見ていると、そのイメージに感心するというよりは、一瞬たりとも観客が退屈しないように色んなものを詰め込んでやろうという演出面の強迫観念じみたものさえ感じてしまう。
演出家はつらいよってとこか。
そのため、余計に見ていて疲れてしまうのであった(-o-;)
妖精の一人としてキャロリン・サンプソンが出演して歌ってたらしいのだが、全然気付かなかった
クリスティーは鍵盤をたまに弾きながら指揮していた。我がTVモニターの音声はひどい代物なので、あまり音楽面についてどうこう言えないが、全く過不足なく舞台を支えていたと言えるだろう。
この作品から芝居の部分を切り落として音楽だけ演奏するのなら、全く別の形にして(ストーリーのないレビューとか)上演するしかあるまい。そういう意味では横浜の『アーサー王』公演形式もアリだが、演出家に余計なものをくっつけられてもねえ……。
難しいところである。
ところで、これを見ていて私はどうも『夏の夜の夢』を一度も見たことがないのではないかと思い至った。生の舞台にしろ、TVの芸術劇場の類いにしてもである。なのに、よく知っているような気がしていたのは、どうも『ガラスの仮面』のせいらしい。あの、マヤがパックをやった野外劇場の件りである。繰り返し読み過ぎて、既に芝居を見たことがあるように錯覚していたようだ。恐るべし『ガラかめ』であるよ。
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コメント
グラインドボーンの「妖精の女王」ですか。観たいなあ。ここでは、舞台上、役者、歌手、ダンサーと3つのパートが別陣というわけですか。
わたしが去年鑑賞したものは、歌手も朗々と台詞をしゃべっていたような気がします。ダンサーも兼ねて。しかし、台詞はレチタティーボではなく、全くシェイクスピア劇調の発声・発音なので、音楽部分とは切り離されてしまっている印象で、一つの舞台作品という統一感があまり感じられませんでした。とにかく、いわゆるオペラというものとは異なるジャンルの音楽劇ですね。
「真夏の夜の夢」は大学で最初に精読したシェークスピア喜劇なので、いまだにかなり頭に残ってます。「ガラスの仮面」経由で既視感を抱いてしまうというのも、ありそうですねえ。三つ子の魂百まで、ってのは違うか。
投稿: レイネ | 2010年6月 6日 (日) 16時18分
こちらの公演でも芝居の部分だけ見れば、正調シェイクスピア劇という印象でした。でも全てのパートを歌手だけでやったら大変だと思います。いざ、歌う段になって息切れしたりして(^O^;)
それにシェイクスピアの芝居は英語が分からないと面白さ70パーセント減でしょうから、そういう意味では楽しむのは難しいかも。
投稿: さわやか革命 | 2010年6月 7日 (月) 11時27分