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2010年10月10日 (日)

「小さな村の小さなダンサー」:別名・純真無垢なバレエ青年を西側退廃女子の魔手より奪還せよ!

101010
監督:ブルース・ベレスフォード
出演:ツァオ・チー
オーストラリア2009年

中国出身で、現在はオーストラリア在住のバレエ・ダンサーの自伝を映画化したもの。題名や宣伝から多くの人が思い浮かべるのは当然ながら『リトル・ダンサー』だろう。もちろん、私もである!(キッパリ断言)
しかし、実際見てみると山奥の寒村から見いだされてバレエを学ぶ……という少年時代の話はあっという間に通過して青年時代に突入。こりゃ看板に偽りありだ~

抑圧的な文化大革命時代が終了して、米国への短期研修へ赴いた彼を待ち構えていたのは退廃した資本主義文化の毒、それともキレイな金髪のねーちゃんの罠か。とにかく亡命騒ぎへと発展しちゃうのである。

冒頭のホントに貧しいド田舎での生活を見ると、「おしん」の如き前近代における努力と苦難克服によるストレートな立身出世物語(最後は故郷に錦を飾る)だと思える。とーちゃん、かーちゃんとの再会場面は泣いちゃうよ(T^T)クーッ
だが、その割には亡命話のあたりから、どうもハッキリしないというか煮え切らない描き方になってしまうのはどういうことよ(?_?)
やはり、現在は名実ともに大国となってきた中国に政治的に気を使ったのか、それともほとんどの関係者がまだ存命しているせいなのか。
いや、よく考えてみればそもそも選抜されて無理やりバレエをやらされてた主人公がどうして情熱を傾けるようになったのか、そこら辺も今イチ納得できるような描写はないのだった。

そういう核心に迫らぬグダグダさ加減がまさに「三時間ドラマ」(←ネット上でそう評していた感想があった)と言われても仕方ない「薄さ」を感じさせる。
もっとも、主人公を演じているのが実際の優れた若手ダンサー達で、バレエの場面も多いし、その意味では充分見どころは多い。何よりもバレエ愛好者には嬉しい作品だろう。映画料金の元は充分取れる。

脇を固める役者たちもうまい味を出している。母親役はお久し振りなジョアン・チェン(泥まみれで老けメイクでも美人)、バレエ団の主任(ちょっとゲイっぽい感じ)のブルース・グリーンウッドなど。お懐かしやカイル・マクラクランも特出。

個人的にはそれらの役者とダンサーの身体表現の差異が見ていて興味深かった。ダンサーは常にダンサーとして身体を統制していなければならないが、役者は逆に役者であることを観客に感じさせたらそこでアウトである。
そんな異なる身体の有り様がスクリーン上で期せずして交錯するのは、見ていて亡命話よりスリリングな印象だった。

監督はこれまた懐かしい名前のブルース・ベレスフォード。彼も故国オーストラリアに出戻ったパターンのようだ。


別の話だが、映画館の下の方にある某カフェにウン年振りに入ったけど、ウェイターの接客、テーブルの状態、出された茶--全てが疑問状態 これでパリに本店がある有名店なのか(\_\; なんだかなー。


資本主義の腐敗度:7点
パツキンねーちゃん度:5点

【関連リンク】
〈千の天使がバスケットボールする〉より
『小さな村の小さなダンサー』
江青の前でやった「紅色娘子軍」(でいいんだよね?)が意外にも結構キマってたのは、オリジナル振り付けだったからなのね。

「毛沢東のバレエダンサー」リー・ツンシン著
原作について。


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